えんぴつで書く『奥の細道』から(6)

平泉を後にした芭蕉は、友人の鈴木清風の住む尾花沢にむかいます。途中尿前(しとまえ)の関できびしい取り調べを受けます。尿前の関は仙台藩と新庄藩の境で出羽街道の要衝でした。ここから中山峠越えをして堺田に入ります。

この中山峠越えは今は遊歩道になっているらしく、途中には義経にまつわる伝説が残る道でもあるようです。

おくのほそ道 散策マップ~出羽街道中山越 芭蕉の道を訪ねて~ (nakayamadaira.com)

堺田では封人の家(国境を守る役人の家)に泊めてもらいます。今もその家は解体修理して残っています。ここでの < 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと > の句に芭蕉は農家の小さな家に泊まったのだと想像していましたが、これは芭蕉の滑稽味を加味した句でした。泊まった家は代々庄屋もつとめており、馬の産地である堺田は母屋で馬を飼っていたのです。

ここからさらに難所である山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えますが主人に危険な道だからと屈強な若者を案内につけてくれます。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』でも、黛まどかさんと榎木孝明さんはボランティアの方に案内され山刀伐峠越えをされてます。

最上町からは頂上まで急な斜面で1時間。頂上から尾花沢市まではなだらかで2時間半。頂上までは二十七曲がりと呼ばれる曲がりくねった道です。頂上からは天気がよければ月山が見えるそうです。

難所の山刀伐峠を通らなくても他の道があったのですが芭蕉はこの道を選びました。尾花沢の鈴木清風の祖先が義経の家来で、高館から落ち延びるとき一族が山刀伐峠を通ったとしてその道を体験して清風に会いたかったのではとされています。

そんな想いで訪ねた芭蕉を清風は心からのもてなしをしたことでしょう。鈴木清風は紅花を商う豪商の俳人で江戸へ出たとき芭蕉と交流していたのです。芭蕉は彼のことを次のように記しています。

< かれは富める者なれども、志卑(こころざしいや)しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けを知りたれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。 >

清風宅は現存していないので古い商家を移築して「芭蕉・清風歴史資料館」としていま

芭蕉が到着したころは、紅花の咲いている季節でした。当時、芭蕉の故郷伊賀上野も紅花の産地だったそうで発見でした。芭蕉は花の咲く時期を知っていて行動しているようにも思えます。清風は紅花の摘む時期でもあり多忙のため芭蕉を「養泉寺」へ案内します。寺は高台にあり下は田園、遠方には鳥海山や月山が見える場所でした。尾花沢には十日間滞在します。

近隣からも俳諧好きの人々が訪れ、芭蕉を自宅に招待したりしています。清風は俳諧の会も主宰しています。俳諧は連句で、五・七・五の長句と七・七の短句を互いに詠みあってそれを三十六句連ねて一巻としていました。その最初の五・七・五が発句(ほっく)といわれ、それが独立して俳句となったのです。

連句の中では恋の句も詠む決まりがありそこで読んだ芭蕉の句が < まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花 > 口紅の原料でもある紅花から化粧道具を表しそこからお化粧する女性のおもかげをも連想させるという艶っぽい句となっています。

興味があるのは俳諧師としての芭蕉です。句がつながっていく中で、空気を換えたり増したり深めたりするセッションの芭蕉の腕前です。それを知りたいものだと思うのですがそこまでの能力がないのが残念です。

芭蕉は、尾花沢での心地よいもてなしとともに、この俳諧の席は俳諧師として嬉しかったことでしょう。生で人々の句作の臨場感を味わえ、さらに自分の句に対する反応も感じられたわけですから。

芭蕉の『奥の細道』の旅には、広くこの俳諧の楽しさを知ってもらい自分もそれを楽しみたいという意図もあったのではないかとおもわれます。

結果的に芭蕉の歩いた道は整備され一般の人も歩けるようになり、句碑もたくさんの建立しされ俳句に対する関心も衰えず続いています。

黛さんと榎木さんは銀山温泉にも寄られています。江戸時代幕府直轄の銀山として栄えましたが、芭蕉が旅をした1689年(元禄2年)に閉山となっています。その後温泉だけは残ったのです。今は大正ロマン漂う温泉地です。

赤倉温泉の旅館では、芭蕉が尾花沢でふるまわれた「奈良茶飯」を食べさせてくれるところもあるようです。江戸で流行っていたものだそうで江戸を離れた芭蕉のために作ってくれたのでしょう。その辺も心あたたまるもてなしでした。

大豆と栗の入った茶飯、黒豆、ぜんまいと糸こんにゃくの煮つけ、奈良漬けと梅干し、汁

黛まどかさんも食されていました。そのほか芭蕉が伊賀上野で催した月見の宴で出した献立の「月見の膳」を出すところもあるようです。ただこの放送は2007年ですので今も出されているかどうかは確かでありません。

下記の解説版は「芭蕉翁生家」にあったものです。(2015年)「芭蕉翁記念館」には芭蕉が自ら書いたという献立表があり、生家の方には、膳のレプリカがありました。品数が多かったです。それを地元の食材で再現した膳だそうです。そういうことも伊賀上野から山形まで飛んできていたのですね。

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