えんぴつで書く『奥の細道』から(7)

芭蕉は立石寺へは寄る予定ではありませんでしたが、鈴木清風にすすめられ訪れます。平泉の中尊寺が中尊寺の名前のお寺がないように、立石寺もその名のお寺はありません。比叡山延暦寺の別院として慈攪大師円仁により創建されました。山岳仏教の古刹で山寺とも称されています。

建立当時延暦寺から不滅の法灯を分けてもらいました。延暦寺が織田信長によって焼き討ちになり再建されたとき、この山寺から不滅の法灯を再び分けもどしてもらったそうです。油断することなく守っておられるわけですね。

電車なら仙山線の山寺駅でおります。初めて行った時もこの駅でおりました。駅からすぐなのだと嬉しかったのですが前に見える山寺を眺め、あそこまで登るのかとちょっとひきました。

芭蕉さんが立石寺に寄らなければこの句もできなかったわけです。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で榎木孝明さんが俳句に挑戦してまして、黛まどかさんの意見が興味深かったので先で紹介します。

詳しい立石寺の拝観図は下記で。

map (yamaderarisyakuji.info)

           

姥堂(うばどう)に座す奪衣婆で、あの世へ来た人の着ていた衣をはぎとります。ここで現世の汚れを払うということでもあるようです。ここから下が現世でここから登っていくにしたがって極楽に近づくのだそうです。

せみ塚(地図の赤丸。芭蕉の句をしたためた短冊を納めた記念碑。)で榎木孝明さんは俳句を二句披露されました

(1) 俳聖の登りし道にシャガの花

(2) 俳聖の登りし道に風薫る

私は(1)のシャガの花が視覚にうったえて良いなと思ったのですが、黛さんは、(1)では報告になってしまうので(2)の風薫るのほうがよいとされました。

風薫るのほうが空間が広がり芭蕉の時代ともつながっていけるというのです。なるほどです。さらに俳句は切れが大事で<俳聖の登りし道に>を<俳聖の登りし道や>に変えたほうが好いのではと言われます。

<閑かさや>のと同じです。切れ字を使うことによって一句を二つの世界に分けて、足し算の世界から、掛け算の世界に広げるのだそうです。切ることによってひろがる。

俳聖の登りし道や風薫る

確かに色々想像が広がります。芭蕉もこの道を登ったのだ。今自分も登っている。なんと心地よい風だろう。今まで気がつかなかった風の香りだなあ。今通り過ぎた人はどんな風を感じでいるのであろうか。ちょっと脱線しすぎでしょうか。ある方によりますと香りとは禅ではさとりととらえるのだそうです。そうするともっと深くなります。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

この句も芭蕉さんのすごい境地を現わしているのかもしれません。人によっては、蝉の声を死者の声と同化して解釈されるかたもおられます。

切れ字によって広がるという新しい事を気づかせてもらいました。芭蕉さん結構切れ字みうけられます。そのほかの切れ字にかなけりなどがあります。

五・七・五に季語も入れて報告ではなく広がりも持たせなければいけないのですか。型にはめて発するというのはなかなか難しい事ですね。

山寺は新しい発見があり、新しい境地を体験できる場所なのかもしれません。ただミーハー的に芭蕉のあの句の山寺に登ってきたというだけの旅人が約1名ここにいますが。

芭蕉さんに立石寺をすすめた鈴木清風さんはさすがです。

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