新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(1)

上の案内図から平賀源内さんを少し追ってみましたが、その下の「伊能忠敬住居跡」と「間宮林蔵の墓」から、お二人の様子も知りたくなりました。「滝沢馬琴誕生の地」もあります。馬琴さんは同時代、新しい町人文化の担い手でしたが、今回は静かにしていてもらいます。

伊能忠敬さんが実測して日本地図を作ったころは蘭学が盛んなころでした。今回は伊能忠敬さんと間宮林蔵さんとのつながりです。入口は児童図書です。

伊能忠敬さんと同時代には、日本では蘭学をはじめ新しいことを学びたいという動きがありました。

青木昆陽(1698年~1769年) サツマイモの栽培を広める。前野良沢にオランダ語を教える。

前野良沢(1723年~1803年)、杉田玄白(1733年~1817年) 「解体新書」を翻訳する。 小野田直武(1749年~1780年) 平賀源内に洋画の技法を習い、源内の紹介で「解体新書」の絵図を描く。

平賀源内(1728年~1780年) 2022年1月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

伊能忠敬(1745年~1818年) 実測で日本地図を作る。

大黒屋光太夫(1751年~1828年) 乗っていた船が嵐で流されロシアまで行き帰国する。

滝沢馬琴(1767年~1848年) 『南総里見八犬伝』等を書く。

間宮林蔵( 1780年~1844年) 伊能忠敬が実測できなかった蝦夷の残りを実測する。間宮海峡(タタール海峡)を発見する。 

シーボルト(1796年~1866年) 長崎で蘭学を教える。帰国に際し日本の地図を持ち出したことからシーボルト事件となる。

忠敬は千葉の九十九里で生まれました。忠敬の父は婿で、妻が亡くなり婿先の家を出て実家に帰りました。忠敬は小さかったため亡き母の家に残されてしまいます。やっと父がむかえきてくれましたが、実家は父の兄が継いでおり父は貧し暮らしをしていました。

当時長男でない者は、商人、学者、僧侶などほかの道をみつけなければなりません。忠敬は算法が得意で算法で身を立て出世したいと思いました。忠敬17歳のとき、佐原村の伊能家の娘と結婚し養子となります。伊能家は大地主で、小作を使ってのコメ作り、醸造、運送、金融などをしていました。

忠敬はさらに収入を上げ伊能家を盛り立て時間を作っては好きな読書をしました。さらに薪問屋を江戸の新川に出しその店に行ったとき読書にはげもうとしましたが、近所の火事で店は焼けてしまいます。24歳のときです。それからは早く隠居することを目標に家業に精を出します。

忠敬は名主となり自然災害の時は貯めていたお金を佐原村のために使いました。天明の大飢饉のときには佐原村民は飢え死にせずにすみました。

忠敬は天文暦学に興味を持ち始めます。自分で使えるお金もありますので、書物、望遠鏡、磁石などを買い込み天体観察もはじめました。そしていよいよ息子に家業をゆずり深川黒江町に住居をかまえ隠居します。50歳の時です。新たな人生が始まりました。

児童図書は子供が読むことを前提にしていますから、伝記なども子供時代を丁寧に描き興味がわく様に工夫されています。さらに小説となっている場合は、史実をもとにした創作でこの登場人物は架空のひとですと書かれており、絵や地図、解説なども載せてくれていたりし、大人が読んでもわかりやすくてお得です。

佐原には伊能忠敬旧宅も残っていて街並みもしっとりして風情があります。かつて行った時よりも見どころが増えていそうです。佐原の町並み:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト (katori.lg.jp)

深川黒門町に移り住んだ忠敬は、天文歴学者の高橋至時(よしとき)の弟子となります。幕府は新しい暦を作り変えようとしていて蔵前片町(台東区浅草橋三丁目)に「暦局」という役所を作り、そこで高橋至時は、「天文方(てんもんかた)」という責任ある役についていました。師・至時32歳、弟子・忠敬51歳でした。

至時がその後の忠敬の測量の道を開いてくれた人で、41歳で亡くなってしまいます。忠敬は師への恩を忘れず、死んだら師のお墓の隣にと言い残し、希望どおり至時のそばに眠っています。

忠敬は、全国地図を未完成で亡くなってしまいます。それを伏せて「大日本沿海與地全図」として完成させ伊能忠敬の業績としたのが、高橋至時の子の天文方・高橋景保でした。その後で忠敬の死を公表しました。

ところが後に、間宮林蔵と高橋景保は思いもよらない関係となってしまうのです。それがシーボルト事件です。

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