初春は平賀源内から

迎春

上の図の紫色で囲んである「平賀源内電気実験の地」とありますが、さて平賀源内さんはきちんとは知らないのです。多才の人で、歌舞伎『神霊矢口之渡(しんれいやぐちのわたし)』の作者でもあるのです。

というわけで図書館にあった児童書(小学校高学年~中学生)『大江戸アイデアマン 平賀源内の一生』(中井信彦著)を読んでみました。早く読めて面白かったです。一つの目指すことに失敗しても次の時に役立ったりします。誰も考えないような発想からはじまり、日本の知識ではだめで、西洋の知識も必要なことに挑戦するわけですから遠回りをしたりしますが目指していることはよくわかります。

香川県大川郡志渡町に百姓の子として生まれますが、父は殿様のお米蔵の番人だったので低いながらさむらいの身分でした。小さいころから色々なアイデアが浮かびます。

陶器づくりを見ればろくろに興味を持ち、後に外国と陶器に対抗するには土が重要と考えます。

高松藩主の作った薬園(栗林公園)で朝鮮人参を育てたり、薬草、薬品の良しあしを知るための展覧会を思いつきそこから植物、動物、鉱物を含めた物産会に発展させるのです。それを図鑑として残します。長崎にも行き、江戸に来ました。そして、藩に縛られていては自分の好きなことができないと浪人になります。

そうなると収入なしですので、アルバイトとして、物語や芝居の本を書きます。世界を旅する奇想天外な物語『風流志道軒伝』も誕生します。

田沼意次の耳にも入り秩父の金山の発掘もします。鉱山の調査などにより、石綿(アスベスト)をみつけます。

心霊矢口渡』が初演されたのが明和6年(1770年)源内43歳の時でした。

緬羊(めんよう)の毛から毛織物をつくりだすことも考えだし国倫織(くにともおり)と名づけます。国倫は本名でした。

色々なアイデアを実行に移しますが、それは日本のことを考えてのことでした。

外国との輸出と輸入のアンバランス。日本から流出した金、銀、銅はたいへんな量にのぼっていました。外国から入ってくるものといえば生糸、絹織物、毛織物、そして薬種。そのほかめずらしい鳥けだものや道具類などです。薬は必要ですが、あとはぜいたく品ばかりです。これでは日本が貧乏になってしまうのは当然です。

そういうこともあって源内さんは自国で生産し、海外に輸出しようという大きな考えでした。大量生産を考えるので失敗も多いのです。

そして手にした発電機からその復元製作に成功しエレキテルと名づけます。それを成し遂げたのは神田大和町でした。そのうわさで実際に見たいという大名や高官が多数なのでエレキテル公開のため、狭い住まいから広い深川住吉町の別荘を借りてくれる医者がいたのです。それが地図の場所です。老中・田沼意次も見に来たのです。

そして、源内さんは初めて自分の家を持つことにします。馬喰町でした。死刑になった検校の家で亡霊が出るというわさでしたがそれゆえに安かったのです。源内さんは幽霊など気にしませんでした。

源内さんは仕事が失敗するとそれにたずさわってくれた人々のことを考えます。金山で失敗したときも人々のために炭焼きで生計がなりたつようにしました。ただそれを売るとき問屋の手を借りなくてはならずそこで搾取する商売人の根性が好きではありませんでした。

そういう経験から、勘定奉行の用心と米問屋秋田屋の息子が自宅に訪ねてきたときは快く思わなかったようです。北海道のアイヌのために米を送る計画を聞きつけ、米買い集めを秋田屋に任せてほしいといってきたのです。

源内さんはアイヌの手による産業をおこし、アイヌが直接それらの品物でロシアとの貿易をして利益を得て生活することを考えていました。そのためにはまずアイヌの生活困窮のために米を大量に送ることを考えたのです。それを文章にしようと考えていました。

考えの違いからかは明らかではないのですが、源内さんは二人を切りつけてしまいます。源内さんは伝馬町の獄舎で破傷風のため亡くなってしまいます。

著者は歴史家で小説家のように想像では書かないが、この二人の来客の部分はなぞでいちおう著者が推理して書いたと「あとがき」で書かれています。

源内さんは自分のアイデアで多くの人々のために役立つことを考えていました。長崎では外国の知識もえて、物事を理として考えることに努めています。何事も実験に実験を重ねて新しいものを取り入れていきました。そして利益は私的なことではなく多くの人々のためと考えていました。何があったのか残念な最期でした。

平賀源内さんは多才でゆえに定まらなかったという印象でしたが、源内さんの考えはもっと大きかったようです。

上の切絵図 7⃣ 清住町 「江戸中期の奇才・平賀源内がエレキテルの実験を行った所。」。(現・江東区清澄1-2、3) 4⃣ 伊東 「北辰一刀流の剣客・伊東甲子太郎の道場。新選組参謀となるが、新選組と相容れず新選組に恨まれ暗殺される。」(現・江東区佐賀1-17) 3⃣ 真田信濃守 「松江藩真田家の下屋敷。藩士・佐久間象山がここに藩塾を開く。塾生に勝海舟、吉田松陰、橋本佐内など。」(現・江東区永代1-14)

源内さんが亡くなってから80年後には、源内さんと同じように藩ではなくもっと広い視野で物事を考えるような人々や様々な考えを持つ人々が出現し、その出入りの足跡が深川にもあったわけです。

児童書との出会いは、知りたいという先のスピード感をもたらしてくれました。もっともっと源内さんの人間関係は多数で詳しく書かれていますので誤解のありませんように。

追記: 2015年(平成27)に国立劇場で吉右衛門さんが通し狂言『神霊矢口渡』を上演されていました。筋書に初演(1770年)は江戸での人形浄瑠璃とありました。歌舞伎初演は1794年(寛政6)江戸桐座です。源内さんが亡くなった(1779年)15年あとでした。

追記2: 「この作品が書かれたのは矢口の新田神社から、祭神である新田義興(にったよしおき)の霊験を広めてほしいとの依頼があったからだと伝えられます。」とあります。

追記3: 国立劇場歌舞伎『神霊矢口渡』について記してありましたので興味があればどうぞ。

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記4: 井上ひさしさんの戯曲『表裏源内蛙合戦(おもてうらげんないかえるがっせん)』を読みました。人を殺めるのをどうするのか。表と裏の源内が登場していまして、表の源内が裏の源内に切りつけます。しかし弟子の久五郎を殺していたのです。源内は狂ってしまったとしています。表裏の源内を登場させた意味もつながります。

神霊矢口渡』は、「江戸言葉を始めて浄瑠璃に使った人気狂言者」というのも興味深いですし、渡守頓兵衛の台詞のすごさにも気づかせてくれました。「釈迦如来が元服して、あやまり証文書かうといふても、いつかないつかなひるがへさぬ」。江戸の物売りの売り声で一年間を表現するという場面にはなるほどと感じいりました。