日光街道千住宿

北千住駅は多数の路線の電車が止まる駅です。それでいながらこの駅で乗り換えはしても降りるということのなかった駅でした。東京メトロの千代田線日比谷線、JR東日本の常磐線東武伊勢崎線

商店街が元気なのには驚きました。千住宿日光街道から奥州街道へもつながる最初の宿場でもありさらにここから水戸街道佐倉街道(成田)、下妻街道にもわかれるのです。旧日光街道の通りとぶつかる駅前商店街もあって昨今の商店街の状況から考えると元気な商店街と思えました。

通りの多くの狭い路地には家がひしめき合って下町の生活も残っています。全て開発されて無味乾燥でないのがいいです。

宿場町通りにある千住街の駅は観光案内所を兼ねたお休み処ですが、まん延防止中とあって閉まっていました。ここで案内地図を手に入れるつもりでしたが残念。100年前に建てられた魚屋さんを利用しているそうです。

旧日光街道の宿場通り商店街

公園に陶板の案内がありました。

右が隅田川で左が荒川ですがこの荒川は昭和初期にできたもので江戸時代にはありません。真ん中の黒い線が旧日光街道です。赤丸は北千住駅で青丸が京成線の千住大橋駅です。隅田川に架かっているのが隅田川に一番最初に架けられた橋の千住大橋です。ここから芭蕉さんは「奥の細道」の旅に出発しました。そして徳川慶喜さんはこの宿から水戸にもどられたのです。今回は荒川のほうに向かいました。

再生紙を取り扱う地漉紙(じずきかみ)問屋である横山家住宅があります。江戸時代後期の建物で、戸口が街道から一段下がっていて、下で上からの客を迎えるということです。

屋号が松屋で、外蔵が2棟、内蔵、紙蔵、米蔵と5つの蔵がありました。今は外蔵1棟が残っています。外観のみの見学です。

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横山家の前にあるのが千住絵馬屋・吉田屋です。

吉田家は江戸中期から代々絵馬を描き、地口行灯(じくちあんどん)や凧なども描いてきた際物問屋(きわものとんや)です。千住絵馬の特徴は、縁取りした経木(きょうぎ)に胡粉(ごふん)を塗り、極彩色の泥絵の具で家伝の図柄を描く小絵馬で、その種類は三十数種類あります。こちらも外観のみ。

日光街道と水戸街道・佐倉街道の追分

日光街道と下妻海道の追分

江戸時代から接骨院をしている名倉医院。平屋木造建築で現在も診療をしています。

名倉医院から旧日光街道から一本線路側の道を引き返しました。

氷川神社めやみ地蔵尊長圓寺長円寺など寺社が並んでいます。

駅前までもどりそれからは適当に散策。駅前商店街には大橋眼科の素敵な洋館が。

赤門寺(あかもんでら)で親しまれる三宮神山大鷲院勝専寺(さんぐうじんざんだいしゅういんしょうせんじ)。京都の知恩院を本山とする浄土宗寺院。日光道中が整備されるとここに徳川家の御殿が造営され、秀忠、家光、家綱らの利用がありました。

鐘楼、法然上人御詠歌碑(月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ)

旧日光街道を南に千住大橋のほうに進むと、森鴎外旧居跡があります。鴎外の父が橘井堂(きっせいどう)医院を開業した場所で、鴎外がドイツに留学するまでの三年間を過ごした家です。江戸時代の旅の痕跡もあります。千住宿問屋場貫目改所跡高札場跡一里塚跡。勝専寺までは行きましたがここからは歩いていないのです。

千住大橋を渡りさらに南に進み、コツ通りに入り進むと小塚原回向院(こつかっぱらえこういん)があり常磐線を渡った先には小塚刑場跡があります。常磐線南千住駅からが近いです。

医学書『ターヘル・アナトミア』を手に杉田玄白さんと前野良沢さんが腑分け(解剖)の見学に来た場所です。

三谷幸喜さん脚本のテレビドラマ『風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜』(原作・みなもと太郎)は面白かったです。『ひらけ蘭学のとびら 「解体新書」をつくった杉田玄白と蘭方医たち』(鳴海風・著)を読んでいたので、杉田玄白さんが全然語学がダメで、前野良沢さんが訳語にきびしく、こんな翻訳では出版などできないと言ったのを知っていましたので誇張ではなくこんな風の中で頑張っていたのだろうなあと共感できました。

凄いですよね。訳にこだわったことで、神経などの言葉が今も使われているのですから。

旧日光街道の千住宿は半分しか歩いていませんが、千住大橋は両国から隅田川テラスを歩き千住大橋までたどりつき帰りましたので、そこにある千住宿半分を短時間で散策できたのは予定外の収穫でした。

まだまだ歩くところが膨大にあって、前野良沢さんの真面目さと、杉田玄白さんの今の医学のためにの信念を少しお借りして、楽観的なおおまかさで少しづつ進むことにします。

追記: 落語の『三十石』でお客が船に乗り込むとき、若い娘の売り子が「おちりにあんぽんたんににしのとういんがみいらんかね~」と声をはりあげます。人の顔見てあんぽんたんとは失礼なというと、もう一人の仲間がおちりはチリ紙におをつけて、あんぽんたんはあげたお菓子に砂糖をまぶしたもので、西の洞院紙は再生した紙だと説明します。西の洞院紙は関東でいうなら浅草紙のことと付け加えることもあります。千住の横山家は浅草紙の問屋だったのでしょう。再生紙は浅草で作られていたのが足立や千住に移ったと言われています。 

追記2: 上記写真の目やみ地蔵堂の両脇に奉納されている絵馬は絵馬屋吉田家の絵馬だそうです。残念なことにそこまで見ませんでした。

2022年4月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)


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