伊能忠敬の歩いた道(4)

一之橋は、『鬼平犯科帳』では一ツ目之橋として登場するそうですが、まだ映像も本でも認識する物に触れていません。気にしていなかったので、どこで出会えるのか楽しみが増えました。

二之橋もありまして、鬼平ゆかりの軍鶏なべ屋「五鉄」はこの側という設定です。

この堅川には歌舞伎や落語にある塩原多助の炭屋があったのでその名にちなんだ塩原橋もあります。三津五郎さんの『塩原多助一代記』も好かったなあと思い出します。

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赤穂事件に関しては、隅田観光協会でだしている下記の小冊子が大変参考になります。

中から少しお借りしますと下図では歌舞伎にもある『土屋主悦』の屋敷が吉良邸の隣に位置します。歌舞伎『松浦の太鼓』の松浦邸はどこだったのでしょうか。

引き上げルートも書かれています。かつて(2015年12月14日)夜に両国駅を出発し次の日早朝泉岳寺に着くという討ち入りルートを歩くイベントに参加しましたが、今はちょっと一気に歩けるかどうか自信ありません。休憩はファミレスでの軽食でした。

夜の江島杉山神社の前も歩いていました。思い出しました。境内に小さな岩屋があり入ったのです。周囲は暗くちょっとミステリアスで昼間来てみたいと思ったのですが忘れていました。昼と夜ではイメージが変わるものですね。

隅田川の近くに戻りますと三つ案内板がありました。

旧両国橋・広小路跡」。両国橋は明暦の大火の大災害から防災上の理由で幕府が架けた橋で、武蔵と下総の国を結ぶので両国橋と呼ばれ、この辺りに架かっていました。橋のたもとは火除け地として広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛け茶屋が並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねていました。

赤穂浪士休息の地」。赤穂浪士は討ち入り後、広小路で休息しました。一説には、応援に駆けつける上杉家の家臣を迎え撃つためとも言われています。休息後、大名の途上路である旧両国橋は渡らず、一之橋を渡り永代橋を経由して泉岳寺へと引き上げました。

石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)」。石尊とは神奈川県伊勢原市の大山のことで、大山詣り前に、水垢離場で体を清めました。旧両国橋の南際にあり、その賑わいは真夏の海水浴場のようだったとされています。

両国橋

夜の両国橋

下の写真は別の日の両国橋の写真です。奥に柳橋がみえます。

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下図も隅田観光協会で出されているものです。

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柳橋

ライトアップの夜の柳橋。河面が緑色になっています。

JR総武線の鉄道橋。

隅田川テラスの壁には様々な絵などが並んでいます。隅田川テラスギャラリーです。両国橋の初渡りの様子。国芳画。

百本杭。強い水勢を弱める護岸の役割として沢山の杭。特に両国橋より川上の左岸側に打たれた杭を「百本杭」と呼びました。芥川龍之介の作品『本所深川』、幸田露伴の随筆『水の東京』に百本杭の様子がでてくるようです。

道路下に何か案内があるので降りて観ましたら北斎さんの富岳三十六景の紹介でした。川浪の描き方がこれまた独特です。

蔵前橋を渡ります。

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浅草御蔵跡。江戸幕府直轄地の全国から集められた年貢米や買い上げ米を収納していて、この米は、旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下におかれていました。

楫取稲荷神社(かじとりいなりじんじゃ)。江戸幕府が米倉造営用の石を船で運搬中に遭難しないようにと浅草御蔵内に稲荷社を創建したといいます。

ついに目的地、天文台跡です。「忠敬は全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。」

伊能忠敬さんは、ひたすら歩幅で距離を測って歩いたわけです。色々な人物や事件や物語があった道なのですが、忠敬さんにはそちらはあまり興味がなかったことでしょう。

伊能忠敬深川旧居跡から浅草天文台跡までのプチ旅はおしまいです。

追記: 山本周五郎さんの『柳橋物語』を読みました。赤穂浪士事件の時代で、地震、火災、水害が次々と襲い、そんな中で、主人公のおせんの過酷な人生。心も病み、これでもかという展開ですが、ラストは清々しい。柳橋は庶民の要望で架かった橋でした。市井の人々の生活が風景も含めてつぶさに描かれています。千住の野菜市場もでてきました。遅まきながら山本周五郎ワールドにはまりそうです。

追記2: 幸田露伴『水の東京』より 「百本杭は渡船場の下にて本所側の岸の川中に張り出てたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして百本杭の辺はまた特に深し。ここに鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。」

追記3: 芥川龍之介『本所両国』より 「僕は昔の両国橋に ー 狭い木造の両国橋にいまだに愛情を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝっていた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたりした。」

追記4: 十八代目勘三郎さんの『勘九郎ぶらり旅』では、両国橋を渡っています。『三人吉三』で三人が出会うのが百本杭のある場所で、お嬢吉三は杭に片足かけてセリフをいうのを紹介しています。すべて舞台からのインスピレーションで場所を見つけ出していくのです。百本杭につかまって助かったのが『十六夜清心』の清心。柳橋では、『瞼の母』の番場の忠太郎の母・お熊の料理屋が柳橋。柳橋芸者といえば『お祭佐七』の主人公お糸という具合でセリフも出てくるのです。

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