ドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ』から映画『近松物語』(1)

ドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ』(2020年・ミッジ・コスティン監督)は、音響が映像に隠れていた位置を前面に押し出してくれて、映画の歴史をも教えてくれるドキュメンタリー映画でした。出てくる映画を観なおさなくてはと思わせてくれ、何といってもわかりやすいのです。無声映画からトーキーとなり音響の効果と工夫が、マニアックに収集していた人の起用により発展をとげるのです。

一時、ハリウッドは映画を量産し、効果音もスタジオが所有しているものを使いまわしで、拳銃の音も爆発音も同じ音という状態でした。会社は映像ありきで、音は何の力もないとしていたのです。

ところが、そのうち映画はテレビに変わり衰退します。そこから新たな世代の監督たちの音への重要性と工夫がはじまるのです。映像よりも音のほうが観客の感情を引き付けるとしたのです。

スターウォーズ』はシンセサイザーの電子音とおもっていました。ところが、一年間生の音を探し録音し新たな音を作り出していたのです。人間の声と動物の声を重ねたりと観ていて楽しくなってしまいます。

ヒッチコック映画の恐怖を呼び起こす効果音や音楽についてはほかの映像で観ていましたので理解はしていましたが、この世に存在しない登場者やロボットなどの言葉をどうするかなど、こう作られたのかとその手腕に感嘆します。

監督が音響デザイナーとして活躍された方なので、やはり説得力があります。

さてそこから近松映画へというのはどういうことかといいますと、興味深い文章からなのです。

溝口健二集成』(キネマ旬報等からの記事を集めたもの)中に 「「近松物語」の一音の論理」(秋山邦晴)の一文がありました。

日本に映画音楽に邦楽器が早くから使われていて、その前の無声映画時代にも、弁士とともに伴奏音楽として洋楽器とともに参加していたというのです。これは映画『カツベン!』(2019年・周防正行監督)を観れば洋画も時代劇も和洋楽器の合奏で弁士の語りを違和感なく耳にすることができます。

カツベン!』のラストにクレジットがでます。

「 かつて映画はサイレントの時代があった しかし日本には 真のサイレントの時代はなかった なぜなら「活動弁士」と呼ばれる人々がいたから 映画監督 稲垣浩 」

洋画のサイレントの字幕が外国語ですから、それを伝えるために活弁が始まったのかもしれません。そうなると上手、下手が生じ、映像の説明も朗々と伝える芸に代わっていったのでしょう。それが洋画」だけではなく邦画でも続いたのであろうとの個人的予想です。

ハリウッドでは、楽団が音楽を演奏し、台詞はスクリーンの裏でしゃべったようです。そのため効果音の演奏者も映画と共に旅をしたようです。

1877年にト―マス・エジソンが蓄音機を発明します。目的は映画で映像と音の同時再生だったようですが失敗してしまいます。エジソンの志は高かったのです。

1926年、ワーナー社が『ドン・ファン』で音声トラックとして機械で映写機に接続し、映像と音楽が合体するのです。

ハリウッドの話しではなく溝口健二監督の『近松物語』の一音の話しでした。

音の前に、佐藤忠男さんが『溝口健二の世界』で、『近松物語』を「西欧的なラブ・ロマンス」としていますのでその事を少し。

私は 市川雷蔵・小説『金閣寺』・映画『炎上』(2) で、<『近松物語』は長谷川一夫さんに色気と貫禄があり過ぎて長谷川一夫さんは溝口作品向きではないとおもいました。>と書きました。

佐藤忠男さんは、溝口監督がヒロインたちに彼女たちにふさわしい美しい男性と素晴らしいラブシーンを展開する映画はあまりつくっていないとし、日本的な恋愛映画として『滝の白糸』『残菊物語』『お遊さま』をあげています。これは納得です。

そして「西欧的なラブ・ロマンスを彼が創造したのは、あるいは最晩年の1954年作品である「近松物語」だけであるかもしれない。」としているのです。

私が違和感をもったのは、それまでの溝口作品とは違って愛のためにと駆り立てられひたすら引き離されても会うために行動する激しさだったのです。それともうひとつは、おさんと茂兵衛が琵琶湖で死のうとする場面が美しいのです。ここで終わってほしいという願望でもありました。なぜなら、不義のため刑場に送られる馬上の二人をおさんは実際にみていて、あさましい、主人に殺された方がいいのにとまで言っているのです。

ところが溝口監督は、近松の道徳的解釈から、西鶴の好色さも加えて西洋的ラブ・ロマンスにしたと佐藤忠男さんはいうのです。近松の『大経師昔暦』と西鶴の『好色五人女』巻三をひもといて解説しているのです。ここは二つの作品を丁寧に比較しなかったので参考になりました。

死を覚悟したのでもう言葉にしてもいいだろうと茂兵衛は前からおさんをお慕い申し上げていましたと心の内を伝えるのです。ここで何もかもが変わります。おさんは死にたくないというのです。愛にめざめてしまったのです。

そして、佐藤忠男さんはここから「伝統的な二枚目を型どおりに演じている長谷川一夫が、後半、積極的に恋に生きる決意をしてから、恋人のために決然として運命と闘う西欧的ロマンスのヒーローになるのである。」とし、さらに溝口監督が「その晩年の円熟の絶頂期ともいえるこの作品において、はじめて、二枚目にヒーローとしての力強さを加えることができたのだった。」と活動弁士並みの力の入れようです。

そう捉えるのですか。

今度は、秋山邦晴さんの「「近松物語」の一音の論理」を参考にして再度見直してみることにします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です