映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』

村上元三著「平清盛」に<遠藤盛遠(えんどうもりとう)という侍が、渡辺渡(わたなべわたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に恋をして、夫を殺そうと企てたが、かえって袈裟の首を討ってしまい、自分は出家をするという事件が起こった。>とあり、それを聞いた清盛は<「武士が刀を抜くときは、よくよくのことがあったときでのうてはならぬ」>と言わせている。ここでは恋のために刀をぬくとは何と天下泰平か、と言う意味にもとれる。

この事件を題材にしたのが、菊池寛の戯曲「袈裟の良人」であり、それを原作に映画化したのが「地獄門」である。

映画の時代背景は平治の乱時期で、清盛が熊野参詣に行っている間に起きた争乱中、遠藤武者盛遠は袈裟と会う。袈裟は上西門院の女房で、争乱の際、上西門院の身代わりとなりそれを警護したのが盛遠である。清盛は熊野から即立ち返り乱も平定し、戦の褒賞を盛遠に尋ねると袈裟を娶りたいと願うが、袈裟が渡辺渡の妻である事が解かりその願いは退けられる。それでも諦めきれない盛遠は思いを遂げようと袈裟に言い寄り、自分の思いを叶えるためには渡の命さえも奪うと告げる。良人の身を案じた袈裟は良人を殺してくれと盛遠に頼み、良人と自分の寝所を取替え良人の身代わりとなって自分が盛遠に討たれるのである。それを知った盛遠は彼女の貞節を称え自分を恥じて髪を下ろし旅に出るのである。

菊池寛の戯曲は「袈裟の良人」とあるだけに袈裟の死んだ後の渡辺渡の独白に力を入れている。盛遠は自分を討たない渡に業を煮やし、自分の髷をふっつりと切り<おのれが、罪を悔いる盛遠の心が、どんなに烈しいかを見ているがよい。>と袈裟の菩提のため諸国修行に出ることを伝え立ち去る。

<お前はなぜ悲鳴を挙げながら、俺に救いを求めて呉れなかったのか。俺が、駆け付けて来てお前を小脇にかき抱きながら、盛遠と戦う。それが、どんなに喜ばしい男らしい事だったろうか。>

<盛遠は、恋した女を、自分の手にかけて、それを機縁に出家すれば、発菩提心には、これほどよいよすがはない。お前はお前で、夫のために身を捨てたと思うて成仏するだろう。が、残された俺は、何うするのじゃ。>

<盛遠は、迷いがさめて出家するのじゃ。俺は、最愛の妻を失うて、いな最愛の妻に、不覚者と見離されて、墨のような心を以って出家するのじゃ。>

<お前の菩提を弔うてやりたい!が、俺の荒んだ心は、お前の菩提を弔うのには、適わぬぞや。まだ懺悔に充ちた盛遠こそ、念仏を唱ふのに、かなって居よう!あゝさびしい。>

<俺の心には長い闇が来たのじゃ。袈裟よ!袈裟よ!なぜ、お前はこの渡を、頼んで呉れなかったのか!>

菊池寛さんの台詞は凄い。かなり削除して書いたが、これほど無常観を独白する心情をいれつつ盛遠の意識していない部分まで客観的に見つめている台詞を書くとは。

映画は平安末期の混乱と色彩と恋と救いを描き、戯曲は大衆をも取り込んで不安に満ちていた末法世界への入り口を描いている。

 

地獄門は戦に敗れた者のさらし首の場所であり、二度目に袈裟と盛遠の出会う場所であり、盛遠が袈裟を求めてさ迷う通り道でもある。

 

 

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