『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(3)

満福寺>から海に向かって歩いていきますと小動の信号がありましてそこを渡って見渡しますと、七里ケ浜、稲村ケ崎、由比ケ浜、材木座海岸などがカーブして目にはいります。この信号から海に突き出ているのが小動岬で、その一番高い所に<小動神社>があり、展望台があります。

 

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小動神社>の説明板によりますと、<小動(こゆるぎ)>の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬にあったということに由来し、弘法大師がこの松の命名したともあります。文治年中(1185年)源頼朝に仕えた佐々木盛綱の創建と伝えられて八王子宮を勧進したが明治に入って<小動神社>と改名しています。新田義貞が鎌倉攻めの時には、ここで戦勝祈願したともあります。

7月第一日曜日から第二日曜日にかけておこなわれる天王祭は、江の島の八坂神社と共同で、この時は、御神輿やお囃子と江ノ電が路面で仲良くすれ違うようです。

展望台のところには、「幕末相模湾の忘備を固めた腰越八王子山遠見番所」とあり、おもに異国船渡来の通報拠点としての役割を担っていました。歴史的重要人物の名が飛び交う<腰越>でした。

 

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国道134号線を挟んで<小動神社>の向かいにある<浄泉寺>は、空海開山といわれ、寺子屋が開かれていて、明治に入ってから一時は腰越小学校としての役目も果たしていました。134号線を江の島方面に向かいますと<腰越漁港>がありました。整備されていて、静かな小さな漁港です。

手前の漁業組合の販売所に、「朝とれフライあり」というのが目につきまして入ってみました。そこで食べる人、お持ち帰りの人ありで、アジとサバのフライが一枚から受け付けていて、名前と枚数を書いて「食べていきます」とアジ一枚を注文しました。新鮮な出来立てのアジフライ、中の身は柔らかく外はカリカリで美味しかったです。映画の撮影場所で美味しいものまで食べれて満足でした。

そこから海岸沿いを歩いて鵠沼(くげぬま)海岸まで行きたかったのですが、暑いので江の島の弁天橋を渡り、小田急江ノ島線の片瀬江の島駅から電車に乗りました。小田急江ノ島線は初乗りです。JR、江ノ電に比べると小田急の走る音が一番静かなような気がしました。江ノ電は細かくカーブするので音がでるようで、それがまた魅力なのでしょう。

そんな江ノ電も映画『天国と地獄』公開のころは、江ノ電廃止の検討もされていました。マイカーブームに押されてしまったのです。東京オリンピックの時は江の島が競技会場となり、選手輸送の貸し切りバスでバス部門は追い風でした。しかし残すことを選び、交通渋滞やオイルショックから乗客がもどり今に至っているわけです。

まだ乗っていない<大船>からの湘南モノレールというのが江の島まで走っていますので、こちらも次の機会には乗ってみたいですね。

一応<鵠沼海岸駅>で降りて海岸方向に向かったのですが、行って戻ってくるのもしんどい気分でこれまた次に伸ばしました。<鵠沼海岸>は、小津安二郎監督の映画にでてくるのです。

映画『天国と地獄』の題名ですが、犯人の竹内銀次郎が横浜の自分の住んでいるところは地獄で、権藤金吾が住んでいる高台の冷暖房完備の大きな家を天国だと言ったのです。その天国から権藤は引きずり降ろされたわけです。

しかし、権藤は誘拐されたのが自分の子供ではなかったのに身代金を払い、子供の命を守った行為に対しては世間から称賛を得ました。そして彼には、見習工からたたき上げた靴職人の技があり、良い靴を作りたいという信念がありました。ほぼ戻って来た身代金で権藤は自分の小さな靴製造会社を始めていました。竹内は医者という立派な人命を助ける技を磨く機会がありながら彼はそれを間違った使いかたで天国を目指し、さらなる地獄へと落ちていくことになってしまいました。

結果的には、権藤は竹内によって天国でもない地獄でもない本来の進むべき道へと修正してもらったことになるのかもしれません。

その天国と地獄の実態を知っているのが、戸倉警部たちです。かれらは足を使って地図上の天国と地獄を立体化して見せてくれたのです。

<腰越>という旅の場所が風光明媚なだけではなく、海と山に挟まった地域の生活があり、そして歴史と共存しているところで、日帰りで滞在時間も短かったのですが厚みのある旅になりました。

何かまだあったようなと帰ってから気になり調べましたら、腰越駅の次の鎌倉高校前駅は、ホームから前面が海、海、海の湘南の海で、映画『男はつらいよ』の第47作<拝啓 車寅次郎様>で寅さんが甥の満男に失恋の哲学を語るシーンがこの駅のホームだったのです。江ノ電さん、親しみやすくて、なかなか深いです。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2)

映画『天国と地獄』では、無事もどった進一少年の思い出して描いた絵から、監禁されていた場所が藤沢から鎌倉の間と限定し、犯人の電話の中に電車の走る音を発見します。走る電車は国鉄、小田急線、江の島電鉄です。鉄道関係者により録音された電車の走行音が江ノ電であることがわかります。

誘拐した時に使った車が発見され、その車に魚を洗ったような水たまりを走ったようなものが付着しているというのです。漁港があるのは<腰越>だけということになり捜査の手は<腰越>まで進みます。

漁港から江の島が見えます。しかし、進一少年の絵には島ではなく陸続きになっています。漁港の人が、後ろの小動岬(こゆるぎみさき)と江の島が、もう少し後方の高い所から見ると重なって陸とつながってみえるというのです。

刑事たちが車で進んで行くと、権藤家の車が見つかります。運転手は息子を乗せて息子の記憶から監禁場所を探していたのです。危険なことはするなと刑事は注意しますが、進一少年は監禁された場所を探しあてます。しかし共犯者は殺されていました。そこから見ると、江の島と小動岬が重なり江の島は陸続きになっていました。

姿を出さなかった犯人である竹内銀次郎の山﨑努さんも登場し、逮捕し身代金を取り戻すべき捜査陣の包囲網が次第にせばまってきます。

さて江ノ電は藤沢、石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江の島、腰越となり、<江の島>と<腰越>間は道路中央を走る路面電車となるところでもあります。腰越駅はホームが短く一両目はドアが開かないとの放送があり、途中の駅でホームを降りて二両目に乗り替えました。混んでいて車内の移動は無理です。土曜日に行ったのが間違いでした。外の景色も乗客で見えません。

江ノ電には何回か乗っていますが、今回は特に外の景色に注目でしたが、またの機会にします。

無事、腰越駅に降りられました。<生シラスあります>の表示に、やはり生シラス丼でしょうと食事をしてから、<満福寺>へ。このお寺のすぐそばを江ノ電が走っていまして、お寺に上がる石段から江ノ電の通る姿を見ることができます。今までの旅の中でお寺と走る電車の近いのはここが一番と思います。

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東海道本線の興津にある清見寺は、敷地内を線路が通っていて階段の途中に踏切があるというお寺でしたが、線路から本堂までは距離がありました。

平家物語』で義経は壇の浦で捕えた平宗盛父子を連れて鎌倉にやってくるのですが、頼朝は会ってくれず<腰越>にとどめられる鎌倉には入れてもらえません。そこで、義経は自分の胸の内を書状にしたため大江広元へ送ります。これが「腰越状」といわれるものです。

しかし、兄頼朝の勘気は解けず逢う事叶わず、平宗盛父子を連れて再び京を目指すのです。

満福寺>の案内によりますと、このお寺は、天平16年(744年)に聖武天皇の勅命で行基が建立したと伝えられ、義経がここを宿とし、「腰越状」は義経の心を汲んで弁慶が下書きされたとしています。この「腰越状」は、『吾妻鑑』『義経記』『平家物語』など文字に表される前から語られていたようです。

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判官びいきは、この「腰越状」の文も大きな役割を担っているのかも知れません。

お寺には弁慶ゆかりのものもあり、鎌倉彫の襖絵もあります。江ノ電の紹介記事がおいてあり、それによりますと<腰越駅>は4両編成の電車だと鎌倉方面の一両がホームからはみ出してしまい、こういう駅を電車愛好家は「はみ電」の駅と呼ぶそうです。駅名板が鎌倉彫だそうですが見落としました。

そしてなんと、太宰治さんが1930年(昭和5年)に心中を図り、彼だけ命を取り留めた場所が小動岬と書いてあり驚いてしまいました。漠然と鎌倉の海岸でと思っていて詳しく探索もしませんでしたが、ここだったのです。思いがけないことをしりました。

満福寺>には「義経庵」という茶房があってしらす料理が食べられるようです。残念食べたあとでした。お寺脇のトンネルを抜け、そこからお墓のある高台へあがっていくと、テラスのようになったところがあり、そこから見ると、江の島とすぐ近くの小動岬が重なるのがわかります。しかし、江の島は島に見えますから、もっと鎌倉寄りの高台だと進一少年の観た風景になるのでしょう。

映画『天国と地獄』の脚本は黒澤明さん、菊島隆三さん、久板栄二郎さん、小国英雄さんの四人の名前があり、凄いことを組み合わされて書かれたものだとおもいます。

こちらは『平家物語』から太宰治さんまでも繋がってしまいました。さてつぎは、小動岬です。岬といっても樹木に覆われた小さな岬です。

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(1)

腰越>は、『平家物語』にも出てきまして、歌舞伎にも『義経腰越状』という作品があり気になっている場所ではあったのですが、<腰越>一箇所ではと思い組み合わせ場所を探さなければと考えていたのです。ただ歌舞伎の場合、現在上演されている部分は<腰越状>とはあまり関係ないのです。

ところが、黒澤明監督の映画『天国と地獄』を見直していましたら、<腰越>が出てきました。それではと、観光も兼ねて江ノ電腰越駅へと出かけることにしました。

映画『天国と地獄』は、誘拐犯と警察の攻防で、誘拐された子供が会社重役の子供ではなくそこの家のお抱え運転手の子供で、身代金を要求された重役は、苦悩のすえ身代金を払うのです。重役は、靴職人の見習工からのし上がった靴製造メーカーの常務である権藤金吾で、お金をかき集め自分が会社のトップになれるという時に身代金3000万円を要求されるのです。

犯人の要求通り、身代金の入っている鞄を特急の「第二こだま」から酒匂川(さかわがわ)の土手へ投げ落とし無事、子供は取り返すことができました。この場面までが、権藤の人生が大きく変わる起点でもあり、ここからが警察の捜査陣と犯人との闘いとなるのです。

身代金を投げ落とす場所が酒匂川に架かる鉄橋からで、この場面に関して新聞の映画記事になったこともあり興味深い場所でもありました。旧東海道を歩いた時に国道1号線の酒匂橋を渡り歩きました。鉄橋の位置からする東海道は駿河湾に近い位置にあり、権藤が警察の車で誘拐された進一のもとに訪れる時後方に映っているのが酒匂橋です。今は酒匂橋と東海道本線との間に小田原大橋ができています。そして、東海道本線の横には東海道新幹線が走っているのです。

映画『天国と地獄』は、1963年公開で、初の電車特急「こだま」が運行したのが1958年、東海道新幹線が開業したのが1964年ですから、特急こだまの前面部分と内部を見れる貴重な映画ともいえます。

黒澤監督の助手であった野上照代さんの話しによると、本物の「こだま」を編成ごと借り切っての撮影で、犯人からの電話が「こだま」の電話室にかかります。電車は国府津駅を通過したところで、次の鴨宮駅が左にカーブした土手に進一がいるから顔を確かめて鉄橋を渡ったらお金の入った鞄を洗面所の窓から投げろとの指示なのです。

同乗して車内を警戒していた警察もその時点で初めて知るわけで、それぞれが、映写のため車内を走り位置につきます。犯人があと2、3分で鉄橋にさしかかると言っていまして、その間に行動するわけです。映画ですから、台詞をいいつつきちんと演じなければなりません。車内場面だけでも、3カ月リハーサルをしたそうです。

進一の顔を確かめて鞄を投げる権藤の姿は、戸倉警部が権藤という人物を全面的に信頼する場面でもあるとおもいます。そして犯人に憎悪を燃やします。権藤はお金がなくなり、これで、会社から追い出される人間になったのです。権藤金吾が三船敏郎さんで戸倉警部が仲代達矢さんです。三船さんの鞄を投げたあとの緊張感のゆるみが、演じ切ったというところでしょうが、そのまま権藤が進一の姿を確認でき犯人の言う通りに出来たという安堵感と重なって観ているほうの臨場感もたかまります。

警察役が映写していると同時にその姿を映画スタッフも撮影しているわけですから、その時の動く外の風景そのままなのです。橋を渡る時間は1分位です。

先ず東海道線の在来線で酒匂川の確認です。鴨宮駅から小田原駅まで車中のドアから見ましたが、ガラス部分の丁度顔あたりに広告が貼ってあり、変な格好で酒匂川をみることとなり、小田原から鴨宮にもどるときは、対向電車とすれ違いよくわからず、再度、鴨宮から小田原へ向かいもどり二往復しましたが、風景が変わっていてよくわかりませんでした。ただ、在来線の電車でも短い時間ですから、「こだま」の速さにすると、本当に緊張するとおもいます。今の在来線で鴨宮から小田原まで3分です。前の1分が川を渡る時間と考えていいでしょう。

土手に進一と共犯者が立っている場面は、実際にはその前に二階建ての家があり二人の姿が「こだま」から見えないため二階部分を壊してもらい、その日の内に大工さんを連れて行き元にもどしたそうです。映画で、屋根の部分の木材が格子のように見える家がありますが、それのような気がします。

権藤と警察は横浜から「こだま2号」に乗ったでしょうが、横浜15時41分に出発して小田原を通過して熱海到着が16時37分です。熱海まで警察は動けません。「はと」ですと横浜を13時22分に出て、小田原に14時01分に着き、熱海に停まらず沼津までいきます。小田原で停まられては逃走する時間ががないので都合が悪いのです。なぜ「こだま」に乗るように指示したかがわかります。20分位は時間稼ぎができます。

いかに頭の働く犯人かということがわかります。ここから警察と犯人の攻防戦となるわけです。

さてこちらの旅は、藤沢駅にて江ノ電に乗り換え腰越駅へと向かったのです。

新橋演舞場十月 『俊寛』

『俊寛』の主人公・俊寛僧都は、鹿ケ谷の自分の山荘で平家打倒を計画したとして鬼界が島に流される。「平家物語」でも最後の死まで何回も出てくる。

「平家物語」では、法勝寺の執行(しゅぎょう)俊寛僧都(しゅんかんそうず)、丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、平判官康頼(へいはんがんやすより)の三人が、薩摩潟の鬼界が島にながされたとある。成経と康頼は赦免となるが、俊寛は許されず一人島に残される。絶望する俊寛。俊寛に幼い頃から可愛がられた童(わらべ)の有王(ありおう)が、主人が京にもどされないのではるばる鬼界が島まで渡り、変わり果てた俊寛と巡り合い、俊寛の最後を看取り、遺骨は高野山の奥ノ院に納め、法師となる。一人残された娘も十二歳で奈良で尼となる。

近松門左衛門さんは、全五段の『平家女護島(へいけにょうごがしま)』を書き、その二段目<鬼界が島の段>が『俊寛』として上演されつづけてきた。近松さん本のほうは、ご赦免船から瀬尾太郎が現れ、成経と康頼の名前だけの書いた赦免状を読む。俊寛の名前がない。嘆き悲しむ俊寛。そこへ、丹左衛門尉基康(たんざえもんのじょうもとやす)が、小松の内府・重盛公の憐憫によって、俊寛も備前まで赦免を許すと伝える。近松さんも伝えられる清盛の長男・重盛の人柄をここで使うのである。喜ぶ三人。ところが、成経は島の海女・千鳥と祝言を挙げたばかりで、千鳥も乗船させようとするが、三人と記してあるからと瀬尾が許さない。千鳥は悲しみ自害しようとする。俊寛は、妻が清盛はの言いなりにならず、首をはねられたことも知り、千鳥のこれから倖せを考え、自分に代わって乗船することを勧め、それを拒む瀬尾を殺してしまう。俊寛は再び罪人である。覚悟の上とは言え、三人の乗った船を追いかける俊寛。離れて行く船を高い崖から見送る俊寛。その先に見つめているのは何であろうか。

近松さんの時代の中で生きた俊寛という一人の人間を照らし出した芝居である。それだけに、どう作り上げていくか力量のいる役である。と同時の、芝居は全てそうであるが、役者さんの組み合わせも大事である。

俊寛(市川右近)、千鳥(笑也)、成経(笑三郎)、康頼(弘太郎)、瀬尾(猿弥)、基康(男女蔵)

このブログでは書いていないが、昨年の2013年6月の歌舞伎座『俊寛』の配役が次の通りである。

俊寛(吉右衛門)、千鳥(芝雀)、成経(梅玉)、康頼(歌六)、瀬尾(左團次)、基康(仁左衛門) この配役はもうないであろう。

比較しないで観ようと思っているのであるが、浮かんでしまう。俊寛の座り方から始まって、成経、康頼の歩き方、手の出し方など。千鳥の浄瑠璃に乘った動き方。瀬尾の清盛の権威をバックにした、ふてぶてしさ。基康の静かに見届ける凛とした姿。この方々は、『俊寛』に関しては、練りに練って演じられてきておられるので、比較されても頷いていただけると思う。

三人は都から、鬼の住むとも言われる鬼界が島に流されてきている。植物など育たない島である。成経と康頼はそんな島でも熊野三社の神としてお詣りする場所を見つける。そこに詣でるため、俊寛ともしばらく逢っていなかったのである。三人でいても寂しさが胸を塞ぐ俊寛。二人に逢い喜ぶ俊寛。成経が海女の千鳥と結ばれ、仲間が四人となる。自分を父と思うと言う千鳥の可愛らしさ。塞いだ心も次第に開いていく。そんな時の赦免船。この日の俊寛は、人が長い時間をかけても整理のつかぬ経験をする。大きな力によっ翻弄されているようである。

俊寛の周囲の人間もまた、俊寛の翻弄される姿に手をかせない自分のもどかしさというものをどこかに抱えていなくてはならない。そのことによって俊寛の姿は照らし出されるのである。そのあたりの息が、今回は合っていないように思えた。自分の役に一生懸命で、ぷつぷつと芝居が切れてしまうのである。いつの日か、新しい世代のこれぞ澤瀉屋の『俊寛』を観せもらいたいと願う。

 

 

『遊行寺』と『東慶寺』と『長楽寺』

藤沢の「遊行寺」は「清浄光寺」と紹介される時もあり、二つの名前を頭に入れておいたほうが良いかもしれない。出会いが「遊行寺」なのでその名前で通すが、この御本尊は阿弥陀如来で公開はされていない。「遊行寺」の宝物館は、土・日・月・祝日開館である。社務所に遊行寺の案内冊子が売られていたようであるが、そこまで頭がまわらなかった。ただ説明板にこの「阿弥陀如来像」が<定朝様>とあった。<定朝様>は「東慶寺」で出会う。

鎌倉の「東慶寺」松岡宝蔵に、<如来立像>がありその説明に<定朝様>とあった。定朝は平安時代の後期の仏師で「平等院」の<阿弥陀如来座像>を造った大仏師である。貴族の間でこの仏師の作風が人気となり全国的に<定朝様>の仏像が造られる、それが鎌倉にも伝わったのであろう。仏像にも時代によって<人気>というものがあったのである。スーパー歌舞伎Ⅱ『空ヲ刻ム者』の若き仏師は、その<人気>の意味にも悩むのである。信仰の対象でありながらそのお姿に時代の好みが加わる。そのあたりから『空ヲ刻ム者』の題名も出てくるのであろう。形があれば人の好みが加わるのは必然であろう。それを超えるものは何であろうか。<空(くう)>をもがくようなのでここまでとする。

京都の「長楽寺」はどう関係するのか。一遍上人尊像を、このお寺の収蔵庫で拝観する。「長楽寺」と言えば、平清盛の娘であり安徳天皇の母であり、壇ノ浦の合戦で入水されたが助けられ、この寺で出家された<建礼門院>のお寺として有名である。八坂神社の南門を左手にしてまっすぐ進むと長楽寺の参道があり、山門がみえる。この下からの眺めも好きである。桓武天皇の勅命によって最澄が開基し、天台宗の別院から室町時代時宗に改まる。<時宗宗祖一遍上人尊像>は重文であり、深淵を見つめておられるようなお顔である。両手をピッタリ合わせ少し前かがみで立っておられる。

山門を入ると拝観料を払い左の建物に建礼門院関係の寺宝がある。花の無い時期で玄関を上がると大振りの活け方で枝葉が飾られている。嬉しいお出迎えである。建礼門院が出家される時、『平家物語』 に次のように書かれている。

、<長楽寺の印誓上人(いんぜいしょうにん)に御布施として、先帝安徳天皇の御直衣を贈られた。御最後の時までお召しになっていたので、その移り香もいまだになくなっていない。><上人はそれをいただいて、なんと申し上げてよいやらわからず、墨染の袖を顔に押し当てて、涙にくれながら御前を退かれたが、のちにこの御衣を旗に縫って、長楽寺の仏前にかけられたということである。>

この<安徳天皇御衣幡>やこの幡を収めるための箱を織田信長の弟・有楽斎が寄付しており、その複製が見れる。本物は特別展覧の期間に展示のようである。ここから相阿弥作の庭を眺めることが出来、静かな時間をもらう。本堂、収蔵庫、建礼門院毛髪塔、頼山陽の墓などをみていると、誰が突いたか鐘の音がする。良い響きである。この音が祇園一帯まで響くのであろうか。鐘を突きたいと思い、入口のお寺の方に誰が突いてもいいのか尋ねたら、駄目であった。時々勝手に突いてしまう人があるそうで、年越しには除夜の鐘として突かせてくれるそうである。鐘も突き方があって、突き方が悪いと長い間にひび割れたりするそうで鐘にも扱い方というものがあるのである。

このお寺の特別のお花はなく自然に任せているとのこと。玄関に活けられた枝葉が素敵だったことを伝えると、定期的に活けられているそうで、目に留まって嬉しいですとのお返事。それから少しお話しさせてもらうと、<一遍上人>は一生涯お寺を持たずに旅に暮らされたことを教えていただいた。そうであったか。あの像のお姿からすると納得できる。そんなわけで、この「長楽寺」で<一遍上人>の生き方を知ったのである。

「遊行寺」から「東慶寺」「長楽寺」へ鎌倉から京へと思いは飛んだのである。長楽寺宿坊のお名前が<遊行庵>である。

 

しまなみ海道  四国旅(7)

四国には本州へ橋を渡って行くルートが三つある。鳴門から淡路島を通って明石へ。坂出から岡山へ。今治から尾道へ。今回は今治から来島海峡大橋、伯方・大島大橋、大三島橋を渡って大三島までで四国に引き返すコースである。須磨・明石に行った時、明石海峡大橋と淡路島が見えて感動したが瀬戸内海は本当に島が多い。景観から云うとどちらがよいか難しいところであるが、船の経路が道路の経路に変わってしまったのである。とにかくもしまなみ海道を楽しませてもらった。

大三島(おおみしま)で大山祇神社(おやまずみじんじゃ)の国宝館に鎧と刀が展示されているという。鎧と刀、興味が薄いが重盛や義経の奉納した刀があると聞けば見たい。重盛の螺鈿飾太刀(らでんかざりたち)は朝廷の重要な儀式につけた太刀で螺鈿飾りの鞘に収まっている。平家一門が栄えていた頃この太刀も輝いて人々の目に触れていたのだと思うと時間の流れにふっと戦慄を覚える。義経の奉納の刀は鞘から出されていてとても美しいカーブをしていた。今まで刀を見ても感じなかったが正式には刀のそり具合を何というのか、刀にも美しい形というものがあるのだと知った。

鎧にも一つ発見が。詳しく調べてはいないのだが、戦国時代大三島を守る戦いに勝利をもたらした鶴姫という女性がいて、この鶴姫が着用していた日本唯一の女性用鎧があった。女性用なので胸囲が広くウエストが細い鎧である。鶴姫の本があり心動かされたが買うのはやめておいた。

木曽義仲奉納、頼朝奉納、弁慶奉納などの品々もあり、神様も色々困られたこともあったであろう。皆、船でこの大三島に渡ってきたのである。私たちは鉄道や道路で考えるが、あの頃は海路と徒歩あるいは馬である。いや<汽笛一声新橋を>までそうなのである。それが陸路より近かったり、他所の土地の文化が伝わるルートが今と違っていたことを知らないと、どうして其処へ飛ぶのという事も出てくる。しまなみ海道で尾道まで行きたかった。

 

道後温泉  四国旅(6)

道後温泉は内子町内子座に文楽を観に来たとき、夏目漱石と正岡子規を中心に松山・道後温泉と回ったので懐かしい。今回は坊ちゃんの湯には浸らなかった。

宿の売店で小冊子<伊豫むかしむかし>を見つける。昔話である。題名は「鵺(ぬえ)」。平家物語にも出てくるが源頼政の鵺退治の話である。頼政は源氏をうらぎり平家にねがえったと人々にうとんじられる。それを悔しく思う頼政の母は、家臣の猪野早太を伴い伊豫の山奥に隠棲し頼政の武運を祈る。ある日、早太を供に矢竹の群生地でよい竹を見つけ弓矢の名人に頼み<水波(すいは)><兵波(ひょうは)>の二本の矢を作る。その矢に母の祈りを込めたので仕損じることはないから手柄を立てるようにと草太に託す。母はふたつの山の山頂にあるあぞが池の竜神に自分の命と引き換えに頼政の手柄を祈った。

京の都ではうしみつ刻(二時)になると黒い雲が御所を覆い不気味な鳴き声をあげ、それがもとで天子様はご病気になられた。平氏の面々は誰も退治できず、頼政に命が下った。頼政は母からの二本の矢で見事に化け物を退治した。頭は猿、体はたぬき、四本の足は虎、羽があり、しっぽは蛇という奇怪なものであった、鳴き声がぬえ(とらつぐみ)に似ていることから鵺と名がついた。天子様は頼政に名剣・獅子王を下された。その時、ほととぎすが高う鳴いて飛び立った。宇治の左大臣が「ほととぎす名をも雲居にあげるかな(ご所の上にほととぎすが鳴いて頼政の名をいっそうあげましたよ)」。頼政が下の句を「ゆみはり月のいるにまかせて(これも、ひとえに弓矢が良かったおかげです)」天子様は頼政が歌にもすぐれているので、土佐の国も合わせて下された。

伊豫のあぞが池は夜ごと池の中から黒い霧がわき、異形のものを包んで東に飛び、明け方近くもどって、池に消えていたが、ある日池がまっかになっていた。頼政の母は住まいの小屋で骨と皮になり、顔は微笑みをうかべ死んでいた。頼政は母が化け物退治に力添えしてくれたことがわかった。

それからどれくらいたったか、宇治の平等院で諸国行脚の僧が、夢枕に老武将が現れ、昔鵺を退治したが、それはわが母の化身であった。もったいなや母の恩。自分の罪に成仏できません。どうぞ菩提をとむろうて下され、と告げた。僧が目を覚まし土地の人に聞いてみると、鵺の話もここで頼政が腹を切ったのもまことの事だった。

母の子を思う心もあわれ、知らずに恩愛の母を討ち取り、いまだに暗闇をさまよう頼政の苦しみもさらにあわれ。僧は望みどおりねんごろに経を手向けた。

平家物語に関係する事が何かあるであろうと思ったら、民話のむかし話としてめぐり会った。

 

国立劇場 『西行が猫・頼豪が鼠  夢市男伊達競』 (2)

原作は河竹黙阿弥の『櫓太鼓鳴音吉原(やぐらだいこおともよしわら)』である。先月は黙阿弥没後百二十年の祥月でありそれに因んで黙阿弥の埋もれた作品を取り上げたようである。題名から想像するに、相撲と吉原を舞台とした芝居と思える。

原作をかなり変えているようであるが、一言で云えば入り組んだ筋でありながら解かりやすく、楽しく、役者さんたちの動きも為所も役に合い、物語りの中であれこれ遊べて堪能できた。

源頼朝の執権北條時政と執権大江広元の争いに、頼朝に討たれた木曽義仲が頼朝を恨み、その恨みに自分の恨みを重ねた頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)の亡霊が義仲と合体して鼠の妖術を使い頼朝を苦しめる。この二人の執権の争いと頼朝と義仲・頼豪の亡霊の争いを複線に侠客の夢の市郎兵衛が活躍する筋立てである。頼豪は平家物語にも出て来てこの人の恨みはあとで説明する。

頼朝が鎌倉市中に現れる大鼠の影に気を病み、その退治祈願のため頼朝上覧の相撲を開催する。この頃、相撲は神事の役も担う事があったわけである。北條方のお抱え力士が仁王仁太夫(松緑)で、大江方のお抱え力士が明石志賀之助(菊之助)である。明石の花道からの出が美しい。着物は地味に押さえ色白で大きく見える。明らかに松緑さんの方は敵役である。その前に團蔵さんが北條方として憎々しく演じてくれているし、大江方の梅枝さんがいつもの女形ではなく、なかなかしっかりすっきりした立役で楽しませてくれているので、どちらが善か悪かがはっきりしている。明石の弟子・朝霧の亀三郎さんが愛嬌があり明石に明るさを添えている。この場で仁王と明石の睨み合いとなるがそこへ仲裁に入るのが行司の田之助さん。今回前方の席だったので、田之助さんの為所が無いようで居て息を詰めたり遠くからは解からぬ為所のある事を見せてもらった。

明石と仁王の取り組みは明石の勝ちとなり、明石は<日下開山(ひのもとかいざん)>今で言う横綱の称号をもらう。負けた北條は、明石を待ち構え襲撃(亀蔵)しようとするがそこへ明石の義兄の市郎兵衛(菊五郎)が現れ痛めつける。明石の黒の羽織の背中には白で右に[日下開山]左に[明石志賀之助]と名前が入り、市郎兵衛の衣裳と並んで派手であるが初芝居に相応しい。

頼豪は「平家物語」では三の巻きに出てくる。白河天皇は、ご寵愛の中宮賢子(けんし)の皇子誕生を望み、三井寺の頼豪阿闍梨に祈祷を頼み願い叶えば望みの褒美をとらせると約束する。望み通り皇子が誕生し、頼豪は三井寺に戒壇建立を願い出るが比叡山がそれを認めないであろうから世の乱れとなるとして白河天皇は聞き入れなかった。頼豪は無念と自分が祈って誕生させた皇子だから連れてゆくと言い残し断食し死んでしまう。この皇子は四歳で亡くなられた敦文親王である。「平家物語」では木曽義仲も善くは書かれていない。義経との比較もあるのか木曽の山の中で育ったということもあるのか頼朝に人質として息子をあずけ前線で戦いつつ京の罠にはまってしまった感がある。

歌舞伎では頼豪は願いを妨げた延暦寺を恨み鼠に化けて延暦寺の経文を食い破るがなお恨みが消えず、義仲を助け義仲と合体するのである。義仲は鼠の妖術を使い頼朝への復讐と天下取りを狙う。芝居では頼豪は左團次さん、義仲は松緑さん。

<頼豪が鼠>に対し<西行が猫>とは。西行は頼朝から褒美として白金の猫の置物を賜るが、西行はそれを見知らぬ子供に与えてしまう。この白金の猫の置物こそ妖術の鼠を退治する力を所持していたのである。元大江の家臣であった市郎兵衛は、大江家のため白金の猫置物を密かに捜す手伝いをする。

 

本との縁ある出会い

パソコンで想わぬ映像や書き込みに出会うのも嬉しいが、本との出会いは格別である。

図書館で「冥途の飛脚」を捜していたら、その隣に「“古典を読む” 平家物語」(木下順二著・岩波)が並んでいる。『平家物語』に出てくる人物を<忠盛・俊寛・文覚・清盛・義経・知盛>物語の中から追いもとめ、それぞれの生き方を捉えている。文覚を『平家物語』から選び抜粋していたので、抜け落ちが無いかどうか確認でき助かった。

「“古典を読む” 平家物語」の、<巻尾に>に木下さんが『平家物語』と本当に付き合いだしたのは、 <1957年、故・石母田正君の「平家物語」(岩波新書)に接した時からだと言っていい>と書かれてある。石母田さんの本は、木下さんの本と出会う数日前に初めて入った古本屋さんで目にし購入していた。またまた奇縁である。

木下さんは、画家・瀬川康男さんと組まれ「絵巻平家物語」(全九巻)を作られた。瀬川さんが凝りに凝って刊行に八年かかったとある。一人一巻で岩波の本に<祇王・忠度>を加えている。この本は児童書であるが、年数をかけただけに絵・文章ともに味わい深く解かりやすい。

さらに木下さんは<山本安英の会>で “群読” という問題を考え始め、「『平家物語』による群読ー知盛」を発表、上演し、その延長に「子午線の祀り」があるという。

この「子午線の祀り」は、1999年に出演・野村萬斎・三田和代・鈴木瑞穂・市川右近・木場勝巳・観世栄夫・等で見ている。その物語の膨大さに感動したのであるが、細部は解からなかった。その頃『平家物語』は頭の中にはない。もう一度観たいものであるが、戯曲だけでも読む事とする。

 

映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』

村上元三著「平清盛」に<遠藤盛遠(えんどうもりとう)という侍が、渡辺渡(わたなべわたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に恋をして、夫を殺そうと企てたが、かえって袈裟の首を討ってしまい、自分は出家をするという事件が起こった。>とあり、それを聞いた清盛は<「武士が刀を抜くときは、よくよくのことがあったときでのうてはならぬ」>と言わせている。ここでは恋のために刀をぬくとは何と天下泰平か、と言う意味にもとれる。

この事件を題材にしたのが、菊池寛の戯曲「袈裟の良人」であり、それを原作に映画化したのが「地獄門」である。

映画の時代背景は平治の乱時期で、清盛が熊野参詣に行っている間に起きた争乱中、遠藤武者盛遠は袈裟と会う。袈裟は上西門院の女房で、争乱の際、上西門院の身代わりとなりそれを警護したのが盛遠である。清盛は熊野から即立ち返り乱も平定し、戦の褒賞を盛遠に尋ねると袈裟を娶りたいと願うが、袈裟が渡辺渡の妻である事が解かりその願いは退けられる。それでも諦めきれない盛遠は思いを遂げようと袈裟に言い寄り、自分の思いを叶えるためには渡の命さえも奪うと告げる。良人の身を案じた袈裟は良人を殺してくれと盛遠に頼み、良人と自分の寝所を取替え良人の身代わりとなって自分が盛遠に討たれるのである。それを知った盛遠は彼女の貞節を称え自分を恥じて髪を下ろし旅に出るのである。

菊池寛の戯曲は「袈裟の良人」とあるだけに袈裟の死んだ後の渡辺渡の独白に力を入れている。盛遠は自分を討たない渡に業を煮やし、自分の髷をふっつりと切り<おのれが、罪を悔いる盛遠の心が、どんなに烈しいかを見ているがよい。>と袈裟の菩提のため諸国修行に出ることを伝え立ち去る。

<お前はなぜ悲鳴を挙げながら、俺に救いを求めて呉れなかったのか。俺が、駆け付けて来てお前を小脇にかき抱きながら、盛遠と戦う。それが、どんなに喜ばしい男らしい事だったろうか。>

<盛遠は、恋した女を、自分の手にかけて、それを機縁に出家すれば、発菩提心には、これほどよいよすがはない。お前はお前で、夫のために身を捨てたと思うて成仏するだろう。が、残された俺は、何うするのじゃ。>

<盛遠は、迷いがさめて出家するのじゃ。俺は、最愛の妻を失うて、いな最愛の妻に、不覚者と見離されて、墨のような心を以って出家するのじゃ。>

<お前の菩提を弔うてやりたい!が、俺の荒んだ心は、お前の菩提を弔うのには、適わぬぞや。まだ懺悔に充ちた盛遠こそ、念仏を唱ふのに、かなって居よう!あゝさびしい。>

<俺の心には長い闇が来たのじゃ。袈裟よ!袈裟よ!なぜ、お前はこの渡を、頼んで呉れなかったのか!>

菊池寛さんの台詞は凄い。かなり削除して書いたが、これほど無常観を独白する心情をいれつつ盛遠の意識していない部分まで客観的に見つめている台詞を書くとは。

映画は平安末期の混乱と色彩と恋と救いを描き、戯曲は大衆をも取り込んで不安に満ちていた末法世界への入り口を描いている。

 

地獄門は戦に敗れた者のさらし首の場所であり、二度目に袈裟と盛遠の出会う場所であり、盛遠が袈裟を求めてさ迷う通り道でもある。