白狐の「こるは」

『保名』から『葛の葉』について書いたが、『白狐』が素晴らしい姿を現してくれた。

岡倉天心さんが、信太(しのだ)の森の葛の葉伝説をオペラの台本『白狐(びゃっこ)』として作られていた。そして、その作品の作曲の一部が見つかったのである。悲しいことに、そのかた村野弘二さんは、東京音楽学校から学徒出陣され、終戦を知らずに1945年8月21日に自決されていた。

1942年4月に東京音楽学校予科に入学され、1943年の11月に校内演奏会で『白狐』を披露、12月には陸軍通信隊に入営。その一年後にはフィリピンのマニラへ。ルソン島の山岳地帯では飢えと伝染病の為に多くの死者がでる。村野さんは見習士官であったが、マラリアにかかり歩くこともままならず部下を指揮することも出来ない状態で、覚悟の自決であったようだ。

村野さんの同期に作曲家の團伊玖磨さんがおられ、村野さんの作曲を「傑作」として楽譜を捜したが見つからなかった。その一部が発見されたのである。

『白狐』の狐は<こるは>という名前で、この、<こるは>がピアノ伴奏で独唱する第二幕の楽譜の一部と「こるは独唱」のレコードも見つかったのである。

<お月さま きよらかなお月さま あなたの きよらかさを お貸し下さい>

詳しい事を知りたい方は、図書館ででも、「毎日新聞」の6月19日、20日、21日の朝刊のお読みください。

戦争によって夢多き時代に夢破れた人々の想いはどこかで息づいていて、姿を現してくれたり、捜し出してくれるのを待っているのである。余りにも多くの人々がいるので、村野弘二さんはその方々の代表として<こるは>を送り届けてくれたのであろう。

友人が、「読売新聞の19日の夕刊に谷崎潤一郎の佐藤春夫あての書簡が見つかったと出ているわよ。」と知らせてくれた。図書館でよんだが成程である。横浜の神奈川近代文学館での『谷崎潤一郎展』でも、谷崎さんと佐藤さんのその後の関係は円滑であったと思えたので驚きはしなかったが、谷崎さんの佐藤さんに対する信頼度を示す書簡で、谷崎さんの無防備さがわかる。 『谷崎潤一郎展』

もう一つ、同じ新聞に思わぬ発見をさせてくれる記事にあう。東京国立近代美術館工芸館の建物が旧近衛師団司令部であったことである。その日にこの工芸館を訪れていたのである。何回か訪れていて、いつも、古い建物だがいつ頃の物なのだろうとは思って居たが調べもしなかった。新聞の記事が無ければ、あの『日本のいちばん長い日』の舞台となった場所とは思ってもいなかった。 岡本喜八監督映画雑感

こちらは、21日までという「近代工芸と茶の湯」を観て、その作品の一つ一つの美しさに人間技なのであろうかと感嘆したのである。時代劇小説だったと思うが、銀と銅と金の合わせ方に<四分一>というのがあるというのが出てきてその<四分一>だけ記憶にあって、その水指があった。「これがそうなのか。」と想像していた色合いで嬉しくなってしまった。調べたら<四分一>でも色々あるらしいが、最初に出会えた色合いに満足である。

その場所が、時間の経過によって、全然違う想いの人間の感情を受け止めているのである。平和という時間が如何に大切な時間であることか。

ここに並べられるような技を具えていた人で亡くなられた方もいたであろう。こんなものは戦争の役には立たないとされ仕事を止められた方もいたであろう。見るのさえ出来ない時代である。

<お月さま きよらかなお月さま あなたの きよらかさを お貸し下さい>

<こるは>のこの願いの言葉と同じ想いでお月さまを眺める人は沢山いるであろう。

 

 

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