『美しきものの伝説』のその後

1918年(大正7年)島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、翌年1919年(大正8年)松井須磨子が抱月の後を追う。

1923年(大正12年)大杉栄と伊藤野枝は憲兵に虐殺される。その年、それぞれの美しき人々は何を目指していたか。

荒畑寒村、堺利彦、神近市子は政治闘争を続け、平塚らいちょうは文筆活動へと進む。小山内薫は1924年「築地小劇場」を設立。久保栄はここで演劇を学び小山内の死後は自分の演劇論にのっとた戯曲を書く。沢田正二郎はすでに「新国劇」を設立していたが振るわず、松竹社長白井松次郎が座付け作者に行友李風を起用し『月形半平太』『国定忠治』の剣劇が当たりこの頃は人気を博していた。中山晋平は野口雨情との「船頭小唄」が当たりこの年は映画化されている。辻潤は自分の思うままに放浪生活をしている。

劇中の中でも台詞の中だけで辻潤と伊藤野枝の長男<まこと>が登場する。この<まこと>との不思議な出会いがかつてあった。本屋で文庫本「山からの言葉」を手にした。呑気に景色など眺めていられないような急斜面の少し窪んだところに登山家が、一人は腰をおろし、一人は立ってパイプを咥えている。頂上ではない。ここまで登れたら上出来だとでも思っているのか、映画のセットとは見えないやはりそこは山の斜面の途中なのである。見ていると肩の力の抜けるような絵である。中ををめくると山の雑誌「岳人」の表紙絵が出てくる。力強いもの。笑ってしまうもの。ほのぼのさせるものと見ていて楽しいのである。文章も適度の長さでなかなか良い。購入し楽しんで読み終わり、年譜を見て驚いた。<辻まこと>。それは彼であった。しかしそれを読み終えた<辻まこと>は私がかつて心配した彼ではない彼であった。嬉しかった。本の表紙に辻まこと「山からの言葉」とはっきり記されているが、あの辻まこととは全く思わなかった。「山からの言葉」(辻まこと著)。

劇中で<まこと>のことが二回ほど出てくる。野枝が二人のうち長男は辻に次男は自分が育てると。その後、野枝は外で待つ<まこと>に会うが、「おばさんと呼ばれた」と涙を流す。この場面を見て、宮本研さんもやはりどこかで<まこと>にこだわられたのかと感慨深かった。伝説の外で自分の歩みを見つけていた人は少なくはない。

 

 

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