歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (2)

『青砥稿花紅彩画~白浪五人男~』の<白浪>とは盗賊のことである。そのいわれは諸説あるので省略して、<白波五人男>の見せ所、「稲瀬川勢揃い」の場についてである。「雪ノ下浜松屋の場」で風体の良くない男(狼の悪次郎・菊十郎)が、小袖を頼んだらしくその期日の催促にくる。店の中を眺めまわし、何かこの男は企んでいるなと思わせる。この小袖が「稲瀬川勢揃い」で<白波五人男>の着る小袖だったのである。「雪ノ下浜松屋の蔵前の場」の最後、この悪次郎が出てきて日本駄右衛門に罪科がばれ危ない状況を伝える。それを聞いた浜松屋の主人が自分からの餞別として、着物を渡すのである。筋書を読んで、初めて分ったのであるが、日本駄右衛門が、悪次郎を通じて小袖を頼んでいて、その着物は結果的には、<白波五人男>の死に装束でもあったのである。

「稲瀬川勢揃い」の派手な衣装は<白波五人男>を恰好よく目立たせるために考えたものとだけ思って居て、芝居の中にその衣装のことが組み込まれていたとは、今回まで知らずにいた。実際には、衣装は衣装部さんなり役者さんなりが考えだしたのであろうが、芝居の中では、日本駄右衛門がデザインし注文していたことになる。そうなると、「稲瀬川勢揃い」も違う輝きが増してくる。台詞も、黙阿弥さんが考えたものなのだが、この衣装に負けない台詞をいう五人でなければならない。自分たちで設定しているのであるから。黙阿弥さんは格好いい。自分が消える事の恐れなどないのである。むしろ自分が消えて役者の登場人物の光る事を望んでいる。作者に負ける役者は駄目だともいっているように思える。

日本駄右衛門(市川染五郎)・弁天小僧菊之助(尾上菊之助)・忠信利平(坂東亀三郎)・赤星十三郎(中村七之助)・南郷力丸(尾上松緑)は負けてはいなかった。

テープで、日本駄右衛門(七代目松本幸四郎)・弁天小僧菊之助(十五代目市村羽左衛門)・忠信利平(六代目尾上梅幸)・赤星十三郎(市村家橘)・南郷力丸(十三代目守田勘弥)を聞いたが、先輩たちのほうが朗々としているが、花形のほうは声の質の違いが面白かった。それぞれに声に特徴がありそれを楽しんでいた。もう一つは、雪ノ下といえば、鎌倉に残る町名であり、稲瀬川は静岡である。所がこの芝居は江戸の話なのである。役者さんは江戸前で演じる。

<白波五人男>の名乗りの台詞(つらね)には、鎌倉から浜松、そした奈良の吉野、福島の白河まで出てくるのである。江戸の人々は歌舞伎の芝居小屋の中で日本全国あるいは唐天竺までを旅するのを楽しんでいたのである。

駄右衛門では、生まれは遠州浜松、人に情けを掛川、金谷をかけてと雑談から旅での地名が出てきて大喜びである。弁天小僧菊之助は、江の島の岩本院の稚児上がり、髷も島田の由比ヶ浜、悪い浮名も竜の口、八幡様の氏子、鎌倉無宿と解かりやすい。忠信利平は、義経に関係してくる。月の武蔵野江戸育ち、廻って首尾も吉野山、足を留めたる奈良の京、けぬけの塔の二重三重(義経、弁慶、忠信等が頼朝の追手から隠れた場所)。赤星十三郎は、鈍き刃の腰越、砥上ヶ原に身の錆を、月影ヶ谷神輿ヶ嶽、など鎌倉近辺である。最後の南郷力丸は、大磯である。磯馴れの松の曲がり形(大磯東海道の様子)、その身に重き虎が石、覚悟はかねて鴫立沢。

大磯を少し付け加えると、東海道の宿場町で、東海道の松並木がのこっている。澤田美喜記念館。藤村が晩年の過ごした旧島崎藤村邸、地福寺には藤村の墓がある。鴫立庵は西行の歌ゆかりの、日本三大俳諧道場の一つ。新島襄終焉の地であり、宿泊跡地に碑がある。海側には政治家の別荘がある。大磯城山公園には、国宝「如庵」を模した茶室「城山庵」がある。数奇な茶室「如庵」 そんなわけで、現代人も芝居を見つつ旅をしているのである。

江戸と設定するよりも、辻褄が合わなくても、観客がもっと遠くまで想像を巡らし遊び楽しむ世界観を後押ししてくれている。盗賊が主人公という事もそれに一役かっている。

 

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