でこぼこ東北の旅(4)『伊勢物語』

鹽竈神社(しおがまじんじゃ)。自筆では書けないような難しい漢字である。志波彦神社(しはひこじんじゃ)もならんでいる。裏のほうから入ったが、帰りは表参道の階段をおりる。段数が多いだけに下からながめる参道はすっとのびて美しい。鹽竈神社で、昔の塩を作っていたころの参考になるものはありませんかとたずね、御釜神社(おかまじんじゃ)を教えてもらう。

御釜神社は鹽竈神社の末寺で、塩の作り方を教えた塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が用いたといわれる四つの釜が残っているとのこと。この御釜神社では、「藻塩焼神事」が今もおこなわれている。このとき使う釜は鹽竈神社から運ばれる。

<藻刈神事>7月4日 ホンダワラといわれる海藻をかりとる。<水替神事>7月5日 神釜の海水をとりかえる。<藻塩焼神事>7月6日 製塩用釜の上に竹の棚をおき、その上にホンダワラをのせ、そこに海水を注ぎ、煮詰める。できあがった塩は見学者にもくばられるそうである。

社務所に申し出ると、100円で説明付き神釜をみせてもらえる。柵があるが野天である。四つの釜の水は干上がることもなければ、あふれることもなく、さらに地震の前には水がもっと澄んだ色になるそうである。塩釜の名の由来でもあり不可思議な世界にタイムスリップした感がある。

御釜神社に行く途中で、歩道に設置された碑を写真にとる外人さんにあう。日本語でかかれているのに読めるのであろうかと碑をみると、『伊勢物語』の一部である。不思議に思ってたずねると、オランダの方で、『伊勢物語』を研究されているとのことでさすが日本語もしっかりされている。このかたと会わなければ『伊勢物語』に遭遇せず素通りするところであった。

伊勢物語』の八十一段に、源融(みなもとのとおる)の屋敷の宴で身分の低い老人が  「塩竃にいつか来にけん朝なぎに釣りする舟はここによらなむ」 (いつのまに塩竃の浦にきたのであろうか、朝なぎの海に釣りする舟はみなここに寄ってきて趣を添えてほしいものだ。) と詠んだ。この老人は陸奥の国にいったことがあり、この邸の趣が素晴らしい塩釜とよく似ていることをたたえている。

源融さんは、『伊勢物語』の一段で<しのぶもじずり>の彼の詠んだ歌が登場する。ある男が奈良の春日の里で美しい姉妹に会い心みだれて歌を詠む。その男はしのぶずりの狩衣のすそを切ってそこに歌を書いた。 「かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知らず」 (春日野の若紫で染めたこのすり衣の模様の乱れには、限りがないのです。) 筆者はこの歌は源融の 「みちのくの忍ぶもぢずりだれゆえにみだれそめにし我ならなくに」 がもとにあると説明している。昨年の福島の旅とつながってしまった。 長野~松本~穂高~福島~山形(3) 

忘れないためにもうひとつ『伊勢物語』について加える。旧東海道歩の39番目の宿・知立(ちりゅう)からすこしはずれたところに、無量寿寺というかきつばたのお寺がある。朝雨なので歩きをやめ、そのお寺のかきつばたをめでることにしようと思っていたが、駅までの間に雨が止みやはり歩くことを優先した。少し残念でもあった。この時期に再び訪れられるかどうか。

三河八橋は、古くからのかきつばたの名勝地で、『伊勢物語』の九段にもでてきて、ある男(在原業平)が、<かきつばた>の五文字を入れて歌を詠んでいる。「ら衣もつつなれにしましあればるばる来ぬるびをしぞ思ふ」 (長年慣れ親しんできた妻が都にいるので、はるばるやって来たこの旅が身にしみて感じられることだ。)

根津美術館の国宝・尾形光琳<燕子花図(かきつばたず)>の原点である。

ある男は、都を出て東国に旅をするのであるが、どこへ行きつくかというとこの九段で、武蔵の国と下総の国の境の大きな川である隅田川にたどりつくのである。そして詠んだのが次の句である。 「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(都鳥よ、お前がその名にそむかないならば、さあ尋ねよう、都にいる私の想う人は無事でいるだろうか、どうだろうかと、、、)

今回の『伊勢物語』へのつながりは驚くべき展開になった。オランダのかたのお蔭である。(歌の訳・中村真一郎)

松島は、瑞巌寺の本堂が平成21年から修復に入り、今年の4月から再拝観できるようになったということもあってか観光客が多かった。瑞巌寺は、真っ黒の甲冑に兜の三日月のお洒落さに見合う伊逹政宗さんらしい艶やかさである。宝物館の説明映像で、瑞巌寺の耐震のために、壁の中にプラステックのようなものが入れられていたのが印象的であった。比較的小さな会社が開発したようである。

円通院の厨子にはバラやトランプの模様がある。支倉常長さんが持ち帰った西洋文化を図案化したもので、西洋バラの絵としては日本最古のものというのが新情報であった。

松島湾の風景は、人のいない雄島で静かに堪能させてもらった。暑くなるのを覚悟していたが幸いすごしやすく助かった。平安時代の人々の陸奥の国へのあこがれを実地体験できる旅ともなり、そうした展開は思いがけないところで出会うものである。

      鹽竈神社の階段

       御釜神社の由緒

      円通院の厨子

        雄島から

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