『四谷怪談』関連映画 (2)

『四谷怪談』関連映画 (1)  昨年の6月からかなり時間があいてしまいましたが、十七代目中村勘三郎さんの直助権兵衛とお会いできたのです。

1965年(昭和40年)豊田四郎監督の『四谷怪談』です。伊右衛門が仲代達矢さんで、勘三郎(十七代目)さんの直助との生き方の違いをテーマの中に入れていて嬉しい共演でした。

勘三郎さんの映画は『赤い陣羽織』『笛吹川』でも見ていますが、この『四谷怪談』は世話物の動きの真骨頂といえるとおもいます。死に方が歌舞伎役者を捨て映画俳優としての直助らしい手を抜かずの演技で、見れて良かったと少し興奮しました。『四谷怪談』映画関連の中でこの映画は相当ひいき目で見てしまっているかもしれません。

監督・豊田四郎/脚本・八住利雄/原作・鶴屋南北/撮影・村田博/音楽・武満徹/出演・民谷伊右衛門(仲代達矢)、お岩(岡田茉莉子)、宅悦(三島雅夫)、伊藤喜兵衛(小沢栄太郎)、四谷左門(永田靖)、佐藤与茂七(平幹二朗)、小仏小平(矢野宣)、おそで(池内淳子)、お梅(大空真弓)、おまき(淡路恵子)、直助権兵衛(十七代目中村勘三郎)

伊右衛門が刀を売る場面から始まり、刀が武士の魂ですが、伊右衛門の場合刀でこの世に仕返しをするとして刀を売るのをやめます。舅の四谷左門とて苦しい暮らし向きから娘のおそでは身を売る商売をしていて、姉のお岩も妹と同じく身を売ろうとします。ことのおこりは、仕える主君が気が触れたためお家断絶、家臣は放り出されたわけで、このあたりは忠臣蔵の裏からの見方というような視線が感じられます。

伊右衛門はお家断絶の際、お家の御用金を着服し、その事実を知っている四谷左門を切り捨てます。伊右衛門は浪人になったのは自分のせいではないのだ。主君のせいである。見ていろ何時かは世の中を見返してやるという野心のみが彼を支えていくのです。

直助は同じお家の中間でした。身分の違うおそでが、同じような身となり、おそでの体のみが直助ののぞみです。ところが、おそでの許嫁の与茂七に邪魔され思いがかなえられず与茂七を殺してしまいます。直助は自分のおもいをおそでに賭けていてそれを貫こうとしており、そこが伊右衛門の生き方との違いです。怪談ものですが、すべて伊右衛門の野心から事がおこり、そこに欲得のある人間が伊右衛門にからんでいきお岩の悲劇となりますが、お岩は死んでも伊右衛門の生き方に物申すという女性で、怨めしやというより、あくまで伊右衛門の生き方に対峙します。

直助は、自分のおもいを遂げるためには与茂七は邪魔です。与茂七を殺して顔の皮をはがした死体を四谷左門宅に運び、左門の死体とともにお岩とおそでには両者の仇をとることを告げ、おそでは直助と仮の夫婦となり、伊右衛門とお岩はもとのさやにおさまります。

伊右衛門の野心がくすぶりつづけるなか、10万石の御大家の重役である伊藤喜兵衛の娘のお梅が伊右衛門に惚れ、伊右衛門と一緒になるため自分から顔のくずれる薬をお岩に呑ませることをすすめるのです。このお梅は人任せにはしないのです。お梅に仕えるおまきもくせがありそうで、そうした欲を人物描写の中に映し出して撮っています。

直助はおそでに拒まれると悪態をつきつつもおそでのいうとおりにします。直助のおそでに対する純情さが不思議なところですが、惚れた女をものにする楽しみが直助の全てで、恋敵の与茂七もいないことです、自分になびくとの自信もあるのでしょう。

伊右衛門が仕官の道がひらいてきてお岩にたいする酷い仕打ちも意に解さず、直助の状況をたかが女ひとりのためにとばかにしますが、直助は俺には俺の生き方だよとばかりに、本当に女に惚れたことがあるのかとばかりに伊右衛門にふんといった感じであしらいます。ここらあたりになると、伊右衛門と直助の身分差はなく、ひとりの男と男の生きかたの違いとうつります。生き方といっても、悪にまみれた生き方ですが。

伊右衛門はお岩に自らの手で薬をお岩に渡し、自分の仕官の邪魔として自らの手で殺してしまいます。さらに小平も殺し、戸板にふたりを打ち付けて流します。お岩を殺したのが伊右衛門であると宅悦から聞き出したおそでは直助に、仇をとってくれと頼みます。承諾した直助に体を許した夜、与茂七があらわれ、死んだと思っていた与茂七にすがるおそでを見て、直助はおそでを殺します。直助は与茂七に殺されますが「喜んで死んでやる。この気持ちは伊右衛門にはわからねえだろう」とつぶやいて死にます。

伊右衛門はお岩と小平の亡霊に憑りつかれ、お梅と喜兵衛を殺してしまいます。お梅の乳母のおまきが、喜兵衛が残した伊右衛門の主君に対する推挙状を見つけ、伊右衛門に渡し夫婦同然となり、お寺で百万遍を唱えてもらい伊右衛門を幻覚から救おうとしますが、何匹ものねずみが出て来て、推挙状を喰いちぎる幻覚を見ておまきをも殺します。寺の外にはお岩の亡霊が立っていて「そんなことでは幸せにはなれません。」と告げて消えていきます。

伊右衛門は生きるために甲斐あるを見るまでは負けはしないと「負けやしない。首が飛んでも動いてみせるわ。」と言いつつ、自分の折れて飛んだ刀に我が身が倒れて死んでしまいます。最後は、売らなかった自分の刀で死ぬこととなり、人を斬った刀は自分の方をむいていたわけです。

仲代さんよく踏み留まりました。あぶないあぶない。勘三郎さんにもっていかれるところでした。上手いんです。長年鍛えて来た修練の極みです。台詞のリズム感。後を追う足取り。ウナギを捕るときのしぐさ。身に備わった動きに狂いがありません。豊田監督は勘三郎さんの直助としての身のこなしを見逃しませんでした。

それに対する仲代さんも武士の腰づかいで動き、刀を帯に差す時、シュルッという帯と刀の摺れる音をさせたり、刀さばきで刀と伊右衛門の関係をはっきりさせます。

役者さんそれぞれが、自分の欲のほどを表し、お岩とおそではひたすら仇討ということに身の潔白を頼みとします。

カラーで美しい場面もありますが、セット、美術の細部までを映像に写しだします。伊右衛門の家の屋根には引き窓がありました。庭に鶏がいて動かないので置物かなと思いましたら突然動いたりして、鶏も役者の台詞に合わせて演技させられていました。話しの流れはスムーズで飽きさせず、怪談映画でありながらそこに頼らず、かといってしっかり怪談映画であり、顔が崩れても、欲があっても女優陣は美しく、見どころ満載でした。

 

2017年2月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です