えんぴつで書く『奥の細道』から(8)

芭蕉は最上川を下るため大石田につきます。水運が盛んになったのは、関ヶ原の戦いの後、庄内地方を領有した最上義光が五百川峡(いもかわきょう)、碁点峡(ごてんきょう)、最上峡(もがみきょう)の難所を開削したことによるようです。

尾花沢の紅花もこの川から酒田へ運ばれ、酒田から北前船で京に行き、京で美しく布に染められたりお化粧となって戻ってきたのでしょう。

摘んだ紅花は紅餅と呼ばれるものに加工されます。その紅餅を並べるムシロを花筵(はなむしろ)といい、花笠音頭の踊り手がかぶる笠は花筵に並んでいる紅餅を表しているのだそうです。

体験したくなる映像です → 芸工大生が紅花摘んで紅餅作り – YouTube

大石田で細々と自分たちで俳諧をする人たちがいて、よき師がきてくれたと頼まれて連句一巻を巻きます。この時最初に詠んだのが<五月雨を あつめて涼し最上川>ですが、最上川を舟で下った時には<涼し>が<早し>に変っています。

⑦五月雨を 集めて早し最上川

奥の細道』では、大石田から舟に乗ったように書かれていますが、実際はここから移動して元合海(もとあいかい)からの舟下りのようです。これも<五月雨を 集めて早し最上川>の句をだけを載せて際立たせるためでしょうか。

「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などといふ恐ろしき難所あり。」そして酒田の海に入るのです。

最上川の源流 (mlit.go.jp) ←山形と福島の境

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のお二人も川下りをしています。黛まどかさんが、芭蕉が<凉し>から<早し>にしたのは、新しい土地を訪れたり、どこかに呼ばれたりしたときは、挨拶の句を詠み、句会に招かれた家に、最上川からの涼しい心地よい風が入ってきたのを詠われ、そのあと舟下りの実感が句を変えさせたのではとされています。

梅雨の時期だったので川の水量も多かったのでしょう。『奥の細道』は旅が終わってから時間をかけて書いていますから色々な脚色を探すのも一味違う旅の楽しさとなるでしょう。

黛さんと榎木さんは6回目に月山登山もされていまして最上川下りは、案内人の船頭さんと楽しく談笑されての短い舟下りでしたので少し付け加えます。

「白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって、舟危ふし。」

白糸の滝は『義経記』にも出てきていて、仙人堂は義経主従が奥州に逃れる時立ち寄ったともいわれ、家臣の常陸坊海尊は生き延びてここで修業し仙人になったとも伝えられています。

羽黒山についても少し。芭蕉は羽黒山で別当代会覚阿闍梨(べっとうだいえがくあじゃり)により厚いもてなしを受け俳諧の会もしています。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、月山と湯殿山は冬は雪のため閉ざされるのでいつでも拝観できるように羽黒山山頂に三神が合祀された「出羽三山神社」があります。

個人的旅についてはこちらで → 2014年7月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

さて次は月山です。

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