日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿 日光街道千住宿 からの続きです。歌舞伎座観劇の後、日比谷線でむかいました。今回は、日本橋に向かうという反対方向に進んでいます。

先ず、まん延防止が解除されましたので、観光案内所が開いていてパンフレットと「千住宿 歴史ウォ―ク」のガイドブックをゲット。ガイドブックの内容を少し紹介しますと「名倉医院」は江戸時代の明和期から「骨接ぎ名倉」として開院。大正時代には一日630人の患者が来院した記録があり、患者のための治療兼宿屋が五軒あった時もあります。宿屋の主人が医師や接骨師なわけです。戦後、法が変わりこのような形は廃止されました。

千住街の駅はお休み処とありますが、中は狭く、外の几帳で休むのが好いかとおもいます。

千住宿本陣跡碑。商店街にあるためか小さいいのでよく見て探さないと見逃します。一回目は見逃がしました。

黄色の矢印から本町商店街になります。前回より人出が多く自転車の人が多いです。

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では進みます。

金蔵寺。解説版によりますと、本尊は閻魔大王様です。ここには天保の大飢饉の餓死者の供養塔と、千住宿で亡くなった遊女の戒名を刻んだ供養塔があります。千住宿に本陣、脇本陣の他に55軒の旅籠があり、そのうち食売旅籠(遊女屋)が36軒ありました。

赤門寺勝専寺にも閻魔大王様が鎮座してまして、こちらは1月と7月に閻魔開きがありお姿が拝見できるようです。

橘井堂森医院跡(森鷗外旧居跡)。手の込んだモニュメントがあります。周囲には鷗外の小説に出てくる植物が植えられています。ここでの鷗外の様子は短編小説『カズイスチカ』(臨床記録の意)に書かれています。「鷗外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鷗の渡しに外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味していますとありまして初耳です。

千住中居町公園には大正時代に建てられた鷗外の大正記念碑があります。鷗外がこの碑のために依頼されて書かれた文が刻まれているようです。

問屋場(といやば)・貫目改所(かんめあらためしょ)

チェンソーで彫られた芭蕉像がありました。材質は鹿沼の杉で、足立区と鹿沼市は友好都市だそうです。木のまち鹿沼も芭蕉さんの紹介には熱心です。

鹿沼市の屋台のまち中央公園にある掬翠園(きくすいえん)の芭蕉像。

一里塚跡高札場跡

屋号が記されています。この辺りは青物市場(やっちゃ場)の問屋の並んでいた場所です。

昭和5年千住市場問屋配置図。黄色丸が屋号の問屋の位置と合致。

途中で「是より西へ大師道」の道しるべがありました。西新井大師への道です。

道しるべの上に河原稲荷神社の案内が書かれています。千貫神輿、神道厨子、区内最大の狛犬は浅草神社と同じ作者とあります。河原稲荷神社やっちゃ場の鎮守とされています。

河原稲荷神社の近くに千葉灸治院跡があるようです。後になって知りました。坂本龍馬の婚約者とも言われている千葉佐那さんが施術をして生計を立てていたのです。佐那さんについては甲府まで飛びますので、一時ここで休憩です。

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