日光街道千住宿から回向院へ(4)

今度は広重の「江戸名所百景 千住乃大はし」の案内版です。少し汚れていました。

階段を上り橋詰めテラスからの隅田川。桜が咲いています。(3月28日)

橋詰めテラスを反対側に降りますと壁を屏風に見立てて、与謝野蕪村筆の奥の細道図屏風としています。

千住大橋の下にかかっている千住小橋。

千住小橋は渡らずもどって千住大橋を渡ると千住河岸の案内板がありまして、秩父から運ばれた材木などを扱う材木問屋が並んでいたようです。やっちゃ場に材木問屋と商人の町ともいえます。ただこちらは現在は荒川区となっています。碑を撮るのを忘れました。

素盞雄神社。江戸名所図会では「飛鳥杜 小塚原天王宮」とあり、素盞雄神社となったのは明治の神仏分離によるものです。古いものを守りつつの盛りだくさんな境内でした。あちらこちらにおひな様が飾られていまして、桃の鉢植が並べられていました。『新・三国志』の桃の花びらが飛んで追いかけてきたみたいです。

桃の願い札。これは初めてみる光景です。

「奥の細道」にちなんだつくられた千住大橋。杖と傘が置いてありまして、もしよかったらかぶってみてくださいとあります。

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大きな銀杏の木には子育ての絵馬が奉納されています。この銀杏の木の皮を煎じて飲むとお乳がよくでるという言い伝えがあり今につながっているのです。

小塚原富士塚です。「瑞光石」についての説明がありました。素盞雄神社の祭神が翁の姿にかえて降臨した奇岩で、この塚を「古塚」と呼んだことから小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もあるとしています。

飛鳥の森 御神水」。

社務所に人がいませんでしたので、浅子神輿店の御神輿のことは聞くことができませんでした。いろいろ工夫されていて親しみやすい神社でした。

今回の散策の締めの小塚原回向院へ。1667年(寛文7年)に住職・弟誉義観(ていよぎかん)が行路病死者や刑死者の供養のために開いたお寺で、当時は常行堂と称していました。そして、蘭学者・杉田玄白、中川淳庵、前野良沢が腑分けをみたことによって「解体新書」が出来上がったことを讃える観臓記念碑があります。

観臓記念碑。1922年(大正11年)に建立されましたが戦災をうけたので、解体新書の絵のとびらをかたどった浮彫青銅板だけここへ移し、あらたに建て直しました。

小塚原の刑場は日光道中に面していましたが、周囲は草ぼうぼうで浅草山谷町と千住宿の街並みが途切れた場所に設置していました。明治初期に刑場の機能は廃止され回向院は顕彰記念地となりました。橋本左内や吉田松陰のお墓があります。

荒川区南千住まちあるきマップ。ありがとうさんです。

(5)→     2022年5月27日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記: そういえば歌舞伎『桜姫東文章』の桜姫がつとめにでたのが小塚原の女郎屋でした。「風鈴お姫」と人気となります。お姫様がばくれんのような独特の話し方になるのが見どころ聴きどころです。詳しくは上映中のシネマ歌舞伎でどうぞ。(5月4日現在)

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