映画『湖の琴』からよみがえる旅(1)

映画『湖の琴』(1966年)は水上勉さんの原作ですが、<湖>を<うみ>と読ませるのだそうです。近江の余呉湖が重要な舞台となります。

三味線や琴など邦楽の弦糸を生産している近江の大西に若狭から栂尾さく(佐久間良子)が働きに出ます。次の日、主人の百瀬喜太夫(千秋実)が違う部落に用事があるためさくを伴って賤ヶ岳(しずがだけ)へ登ります。賤ヶ岳は羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継者争いの戦いの場となったところです。映像にもさくの想像としてた兵士が走りまわります。

そして、賤ヶ岳の頂上に到達すると琵琶湖と余呉湖が両方見えるのです。さくが桑の葉をつみに来るためにも桑賤ヶ岳のふもとにある桑畑も教えておきたかったのです。農地を売るということで訪れた部落で、さくは、松宮宇吉(中村 嘉葎雄)と出会います。宇吉は今度喜太夫のところで働くことになったのです。宇吉も若狭の出身でした。宇吉には両親がなく、すでに繭の糸取りもできる仕事熱心な青年でした。

お蚕さんを飼い、繭から糸を取り、糸巻きにとりつけて巻き、独楽よりで糸をより弦糸にするその様子が見ることができるという興味深い映画でもあります。90パーセントの三味線の糸がこの地域で作られていたのです。それも機械でなく手づくりです。

原作によると、初心者のさくがおこなっているのが真綿づくりだということがわかります。出来の悪い死繭を特別に煮たものを桶にあつめておいて、繭をひき破り、マス型の木枠にはめてうすく延ばす仕事です。

三味線糸の生まれる場所を見たいと京で有名な三味線の師匠・桐屋紋左衛門(二代目中村鴈治郎)が西山を訪れます。その前に高月の渡源寺で十一面観音様を見て感動し、西山でさくに出会い観音様と重なってしまいます。紋左衛門はこの娘に三味線を仕込んでみたいと思い立ち、京に呼ぶのです。西山の人々は誉だと喜び、さくも皆の期待に応えようとおもいます。さくが想いを寄せる宇吉は兵役のため入隊していました。

宇吉はもどり、二人は結婚を誓います。師匠は宇吉の存在からさくを誰にも渡したくないと思うようになります。さくはそのしがらみから逃げ出し宇吉のもとにきます。そして結ばれて自殺してしまいます。宇吉は誰にもさくの遺骸をさらしたくないとして糸の箱に詰め余呉湖に沈めることにします。宇吉は一人生きてゆ気力を失い自分も箱に入り、二人は湖深くに沈んでいくのでした。

余呉湖には羽衣伝説もありそのことも映画では重ねられています。西山には古い話が多く残っていて、西山の人々は紋左衛門一行に得々と語ります。

水上勉さんは、この作品は全くのフィクションで、近江の大音と西山へ何度か行っていて自分の生まれた若狭の村とあきれるほど似ていたといいます。桑をとり、糸とりする作業も母や祖母がやっていた座ぐり法で、七輪で繭を煮て枠をとるのも同じであったそうです。

「一日だけ、余呉湖行楽の帰りに、私は高月の渡岸寺に詣でて、十一面観音の艶やかな姿を見た。観音の慈悲の顔と、座ぐり法で糸をとっていた娘さんの顔がかさなった。と、私の脳裡に、不思議の村を舞台にして、亡びゆく三味線糸の行方を、薄幸な男女に託してみたい構想がうかんだ。」

連載中に、映画『五番町夕霧楼』の田坂具隆監督と脚本家の鈴木尚之さんが是非映画にしたいとし、結末を心中とするというメモをおいていきました。水上さんは二人の仕事ぶりに敬意をもっていたので一切を任せたとのことです。

思いもかけず賤ヶ岳の上から余呉湖をながめる風景や、弦糸の手作りの様子が見れて貴重な鑑賞となりました。題字が朝倉摂さんで、衣装デザインが宇野千代さんです。

原作で桐屋紋左衛門は、石山寺、義仲寺、渡岸寺と訪れています。

渡岸寺の十一面観音。絵葉書から。

渡岸寺は奥琵琶の観音像を訪れるツアーに参加し、渡岸寺は電車でも行けるのを知り、いつか再訪したいと考えていました。そして、ほかの地も訪れつつ渡岸寺にたどり着いたのです。その時余呉湖も訪れたのです。かつての旅がよみがえりました。

追記: 国立劇場小劇場での文楽鑑賞。文楽の『義経千本桜』の「伏見稲荷の段、道行初音旅、川連法眼館の段」が観れました。映像では味わえない躍動感。場面場面で人形遣いの方の衣装も変わり、人形と勘十郎さんの早変わりと宙乗りもお見事。ついに生で観ることができ念願かなったりです。咲太夫さんが休演だったのは残念でしたが、太夫さんの声、三味線の音も心地よく堪能できました。

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