映画『リヴァプール、最後の恋』からグロリア・グレアム出演映画(2)

グロリア・グレアム出演映画で観たのは次の8作品である。

素晴らし哉、人生!』(1946年)役名・ヴァイオレット

十字砲火』(1947年)役名・ジニー

孤独な場所で』(1950年)役名・ローレル・グレイ

地上最大のショー』(1952年)役名・エンジェル

悪人と美女』(1952年)役名・ローズマリー

復讐は俺に任せろ』(1953年)役名・デビ―・マーシュ

仕組まれた罠』(1954年)役名・ヴィッキー・バックリー

オクラホマ!』(1955年)役名・アニー

ハリウッドの黄金時代』(川本三郎著)に次のような記述がある。「監督のキング・ヴィダーが語っているように、第二次大戦後ハリウッドも新しいタイプの女優が登場していた。従来のスタジオの意のままになる大人しい人形のような女優ではなく、社会意識もコモセンスもある自己主張する女優である。ローレン・バコールやグロリア・グレアム、リザベス・スコットという女優である。彼女たちは、自分で演技のコンセプトを持っていたし、衣裳に関しても自分で選べるセンスも持っていた。」

グロリア・グレアムが助演女優賞を受賞した映画『悪人と美女』にラナ・ターナーも女優役として出演している。同著書で「エヴァ・ガードナー、ラナ・ターナー、マリリン・モンローと1950年を代表するグラマー女優がいずれも貧困家庭の出身であることは興味深い事実だ。セーターも買ってもらえなかった子供時代から宝石と毛皮に囲まれたスター時代へ、彼女たちは極端から極端への振幅の大きい人生を生きた。その点でも、常識はずれだった。」としている。それぞれの立ち位置の違いが面白い。

素晴らし哉、人生!』の内容は次を参考にされたい。

 映画『ステキな金縛り』から『スミス都へ行く』『素晴らしき哉、人生!』(2)

続きとなるが、翼のない天使はもしジョージアがこの世に生まれていなかったら今の世界はどうなっていたかを見せるのである。その世界に驚きジョージアは自分でも役に立っているのだと自殺を思いとどまるのである。

ヴァイオレット(グロリア・グレアム)は、自分を男性に注目させるように行動するタイプの女性である。しかし、上手くいかなくなって心機一転ニューヨークへ出ることにする。その時ジョージアがお金を手渡してくれるのである。感謝するヴァイオレット。もしジョージアがいなかったらヴァイオレットは身を持ち崩して悲惨な状況にいた。

十字砲火』(エドワード・ドミトリック監督)は、犯罪事件をあつかった映画なのであるが、なかなか奥が深いのである。第二次世界大戦が終わり、兵士たちが復員して除隊を待っている。4年間の戦場から解放されてその状況に対応できない兵士もいる。自分の想いとは違う状況にいら立ちを感じている者もいる。あるいは、隊の上下関係から怖れを抱いている者もいる。夫を待つ妻。自立したくて酒場で働く女性など殺人事件によって映し出されてくる。ただ、3回ほど観てなるほどとわかってきたのである。

サミーが自室で殺された。バーで4人の兵士と会っている。サミーの部屋には、ミッチ、モンティ、フロイドの3人の兵士がいた。その一人の財布が落ちておりミッチに疑いがかかる。一緒にいたモンティ軍曹(ロバート・ライアン)は彼には人殺しは出来ないと主張。ミッチの友人のキーリー軍曹(ロバート・ミッチャム)はミッチではないと彼の無実のために動く。捜査の指揮をとるの警察署長(ロバート・ヤング)。

事件の夜、ミッチはサミーの部屋を一人先に出て街中をうろつく。ある酒場でジニー(グロリア・グレアム)と出会う。彼女は生活のためにここで働いていた。ミッチに妻に似ているから一緒に踊りたいと言われ食事に誘われる。ジニーは何となく魅かれて自分の部屋でスパゲティーをご馳走するからと部屋の鍵を渡す。夜中、ミッチの妻と署長からミッチのアリバイを聴かれるがそんな人知らないと答える。ジニーの複雑な心境の役どころである。ジニーとジニーが別れたい夫からの証言はミッチのアリバイにはつながらなかった。

署長は犯人の殺人の動機が見つからず、犯人の心の中を考える。ユダヤ人に対する偏見である。サミーはユダヤ人であった。犯人はわかった。しかし、証拠がない。そこで、バーに一緒の居たフロイドの友人のハロイに協力を求める。フロイドも殺されていた。

ハロイは同じ隊であったモンティ軍曹にテネシー生まれの田舎者としてあつかわれ彼を恐れて関わりたくないと主張する。ここから署長の話がはじまる。自分の祖父の話しである。祖父はアイルランドからの移民であった。祖父は土地も買い自分はアメリカ人と思っているカトリック教徒であった。しかし、ある日、バーからの帰り道襲われて亡くなってしまう。嫌いなだけだったのだ。それが憎しみとなり爆発する。モンティも同じである。

ここが凄いのだが、モンティはテネシーに行ったこともないのに田舎だといい、田舎者はのろまだと思っている。嫌いが憎しみになり爆発するとどうなるか。どこにでも偏見が発生し暴力と結びつくことを暗示するのである。ハロイの協力によりモンティの犯行は明らかになり逃亡する所を署長に撃ち殺されてしまう。

撃ち殺してのラストはちょっと考えてしまった。ここまで言う署長なら生かして逮捕すべきなのではと。映画であるから最後はケリをつけるということにしたのかもしれない。ミッチの心の内なども語られ心理劇も展開されるがそれだけではなく、どこにでも一方に暴力性が潜んでいることを強調したのかもしれない。

グロリア・グレアムさんからこんな映画にぶつかるとは。ハリウッド黄金時代には、一方にフイルムノワールの最盛期でもあり、アメリカ映画にとってなかなか面白い時代でもあったということを教えてもらいました。

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