映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』

シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』はドキュメンタリー映画である。流れがスムーズで映画をドキュメンタリー風に撮ったと思わせるくらいユーモアに溢れている。しかし言う事はしっかり主張するのである。

アメリカのシアトルに住むシャーリー(92歳)とヒンダ(86歳)は長い友人関係のようである。シャーリーは、家を失う人が多い現時点(2013年であろうか)から、経済の成長は間違っているのではないか、経済の成長が人間の本当の幸福なのだろうかと疑問をもつ。ヒンダはそれに対しシャーリーがわからないと答えると、あなたはそればっかりとつっかかる。このあたりも二人の付き合いの長さと深さがわかる。

ではということで二人は行動する。ワシントン大学へ聴講に行くのである。二人はこの大学の卒業生らしい。シャーリーは1939年に入学して、1971年に学位をとり、その間に5人の子供を産んだと言う。知りたい学びたいという好奇心は筋金入りなのである。

聴講に行くにも91歳と86歳である。スクーターに乗っていく。本人たちはそう呼んでいる。ゆっくり走る介護用のスクーターである。日本では見た事がないので検索したら、電動シニアカートとなっている。日本には向かないのであろうか。団地などでエレベーターがあり車の走行が少ないなら団地内のスーパーに買い物に行けたり、病院があれば通院できたりするのではなかろうか。そこまで考えて街作りしていないのが現状でしょうね。

教室にもその愛車で入室するのである。そして先生に質問して質問は受け入れられず、めげずに再質問して退室を命じられ、二人は愛車で退室するのである。それを見ている学生を見ていると、あなたたち、質問するくらいの勉強をしてちょうだいねと願う。

二人はめげないのである。インターネットでロバート・ケネディの演説を見つける。こちらもお二人のおかげで発見であった。ロバート・ケネディさんは、経済成長の中身は何なのかということを言っているんです。こんな演説をしていたのかと初めて知りました。話し方が具体的で惹きつける力がある。人気の意味がわかった。

ある教授宅を訪れ、世界の資源は限りがあり永久に成長はできないという話しを聞く。二人はもっと経済の中心の人の意見が聞きたいと、ニューヨークのウォール街に行くことにする。会えるあてはないのであるが、彼女たちは、先ず行動するのである。ニューヨークの宿舎でヒンダは風邪をひくが、ここがアメリカ的というか、お互いにもたれ合わないのである。シャーリーは一人スクーターで出かけ路上で色々な人から話聞く。若い人の生活設計が親世代としっかり違う生き方を選んでいるのも面白い。

そしてエコロジー経済学者を招き話をきく。二人の知りたいは突き進む。映画の内容が固そうであるが、二人は老人である。そのリアルさが可笑しいのである。ヒンダはベットに上がれなかったり。このあたりは二人を見ていたホバル・ブストネス監督がそれいいですね、もう一回取り直したいのでよろしくと言ったように感じてしまう。作られた映画を観ているような感じもある。二人は行動するだけに身体の工夫も考えるのである。

シャーリーは、財界の大物が集まるウォールストリートディナーに出席することを決める。インターネットで出席の券を購入する。もちろん二人分。ヒンダもいざとなればシャーリーを一人で行かせるわけにはいかない。

映画の題名についていたように「ウォ―ル街を出禁になった2人」である。その時、「心臓発作でくたばれ、このクソババアが。」と言われるのである。言った本人に名前を聴くが名乗らなかった。そんなことにたじろぐ二人ではない。

シアトルへ帰ったヒンダに試練が待ち受けていた。水泳をして努力していたのであるが、膝がついにギブアップで手術をすることになる。プールもヒンダは一人で自動移動機で水に入るのである。日本にこういうところあるのかなとまた考えてしまった。

シャーリーに送られて手術室に入るヒンダ。

雨の外の景色をボンヤリ眺めているシャーリー。電話が鳴る。ヒンダであった。

二人は今度は仲間とともに再びワシントン大学に。「このまま経済の成長を続けていいの。」と。

ある経済学者からは、気がつくのがおそすぎるが、気がつかないよりは良いと言われる。ウォール街のディナーでは、考えるより今を楽しもうよ、そんなに心配し過ぎないでね、などとも言われる。肉体的には年相応に衰えている現実を知っている。しかし、知りたいこと疑問に思う事にはじっとしていられない二人である。そのあたりがよく伝わってくる。可笑しくもあり、哀しくもあり、そしてめげない二人の姿に生きてきた実態と現時点での心の躍動がある。(2013年製作、日本公開2015年)

映画『人生タクシー』。タクシーの運転手さんが乗せた乗客とほのぼのとした関係を持つ映画かなと思って観始めた。国が違うとタクシーの乗り方も違うものである。乗合いタクシーのように、空いていれば次々とお客を乗せていく。行先の方向が違うと断ったりするのである。

知らない女性と男性の二人の乗客が死刑について意見の違いを論じ始める。凄いな。この国ではこんな議論が日常なのであろうかと思う。女性は教師で、男性は降りる時自分の仕事は路上強盗だという。ブラックユーモアなのであろうか。

そして、違う乗客の口から、タクシーの運転手さんが映画監督であることがわかる。映画監督が副業としてタクシーの運転手をしているのか、それとも、映画をとるためにタクシーの運転手になっているのか。ドキュメンタリーなのであろうか。

乗客が乗るにしたがって、この国の状況が少しづつわかってくる。映画監督は、姪を学校まで迎えにいくことになっていた。この姪が、おしゃまさんで口が達者である。学校では映画をつくる授業があるらしく、映画製作の規定をノートをみながら読み始める。この国の規定らしい。

女性のおかれた立場とか、他の国のDVDの購入も規制されているらしく、タクシーの運転手の監督は有名らしいということがわかってくる。そして、この国では路上強盗の被害に遭うことも多々ありそうである。

真っ赤なばらを抱えた女性が乗って、この国の状況がさらにわかってきて、映画監督の立つ位置も何となくわかってくる。この女性が置いて行った真っ赤な美しい一輪のバラが突然消えてしまう。撮影が突然終わって真っ黒な画面となる。そういうことであったか。

国はイラン。映画を作ったのは、20年間の映画監督禁止令を出されたジャファル・パナム監督である。

タクシー運転手さんがしごくおだやかなので、そんな苦境の中にいる人とは思えなかった。ただ、現実に何かの規制を受けているのだなという事はわかった。その中でこの映画を作ったのである。最後にきちんと国の現状が伝わってくる。

パッケージから多くの賞を受けたのはわかったが、賞を受けようと受けまいと、素晴らしい作品であることに変わりない。こんな方法があったのかと驚かされた。人にはまだまだ力がある。(2015年製作、日本公開2017年)