歌舞伎座八月『加賀見山再岩藤』

さて女中のお初となりますと歌舞伎では『加賀見山旧錦絵』(かがみやまきょうのにしきえ)です。多賀家に仕える女たちの争いでもあります。かつては御殿女中の宿下がりの三月に上演され、自分たちと同じ屋敷の奥の話しなので御殿女中たちに人気があったようです。

局岩藤は、御用商人の子である中老尾上をさげすんでみています。さらにその尾上が多賀家の宝である蘭奢待(らんじゃたい)の名木と朝日の弥陀の尊像をあずかることになったのですから岩藤にとっては許しがたきことです。当然難癖をつけます。

中老なら武芸くらいはたしなんでいるであろうと自分と立ち合えと岩藤は尾上にせまります。そこへ尾上の召使であるお初が登場し主人の代わりに立ち合い岩藤を負かしてしまうのです。尾上一筋のお初です。

尾上が上使に蘭奢待の箱を提出するとその箱には片方のぞうりが入っています。岩藤はその草履で尾上を打つのです。(草履打ち) 恥辱と失態から尾上は自害しますがその時岩藤が尊像を盗むのです。使いに出されていたお初がかけつけ事の次第を飲み込み、尾上のを仇をとり岩藤は亡くなります。多賀家の家宝二品も戻りめでたしめでたいです。

そのお初が二代目尾上となっていて、死んだ岩藤の怨念が亡霊となって姿を現すというのが『加賀見山再岩藤』(かがみやまごにちのいわふじ)です。八月歌舞伎座第一部ではと、<岩藤怪異篇>としてダイジェスト版としての上演でした。

さらに猿之助さんが休演ということで巳之助さんが代役となり異変続きの上演となり、さらに猿之助さん復帰ということで<岩藤怪異再篇><岩藤怪異旧篇>のようなややこしいことになりましたが無事に千穐楽を迎えられめでたしめでたしです。

私が観劇したのは巳之助さんのほうでした。六役早替りなんですが、六役を一回づつ早替りではないのです。一役を何回かということなので、全部で何回早替りをしたのでしょうか。巳之助さんの一番の手柄は代役を早変わりしたことでしょう。

舞台上の早替りも違和感なくスムーズで、こういう内容だったなあと三代目猿之助さんの舞台を思い出していました。体格の違いはありますが。

先代の雀右衛門さんの尾上は儚く、こちらもお初と一緒に守ってあげなければという気持ちにさせました。当代の雀右衛門さんが二代目尾上ということで時間の流れの不思議さを感じてしまいました。

多賀家のお家騒動から5年がたちますが、またまた怪しい雰囲気です。領主の多賀大領(巳之助)が側室のお柳の方を寵愛し、正室梅の方(巳之助)はないがしろにされてしまいます。それどころか、お柳の方の兄の望月弾正(巳之助)や蟹江兄弟がお家乗っ取りを考えています。

梅の方の味方は、大領をいさめて勘当された花房采女、鳥居又助、安田帯刀、安田隼人(巳之助)、奴伊達平(巳之助)、局浦風などです。又助の忠義をみて弾正は又助にお柳の方がいなくなれば万事うまくいくから彼女を殺害するように仕向けます。又助は図られて誤って梅の方を殺めてしまうのです。

二代目尾上は今は大領の妹の花園姫に仕えています。尾上は初代尾上の墓参の後、岩藤の死骸が捨てらた場所で菩提を弔いますが散らばっていた岩藤の骨が集まり(骨よせ岩藤)、岩藤の亡霊(巳之助)となって現れ、恨みをはらすと告げます。さらにかつての局の姿となってこれからの仕返しを楽しむようにふわふわと空中を飛び去っていくのでした。(岩藤の舞台だけでの宙乗り)

ここまでで大体の登場人物が揃いました。この後は実は何々でしたという展開や、再びぞうり打ちなども加わり、消えたはずの岩藤の亡霊が執念深く現れたりし展開がはやいです。最後はめでたしめでたしとなります。

多数の役をするとき動きの少ない役のほうが難しいと思いました。雰囲気をその存在感で表さなければならないからです。領主の多賀大領、正室梅の方などです。早変わりのため梅の方などは顔の作りが険しく、側室柳の方と比較するとこれは側室になびいてしまうと思えます。工夫が必要でした。あとは上手く演じ分けられていました。

しっかり役柄にあったおもだか屋の役者さんが固め、手慣れた裏方さんが動いてくれたからの進行だったのでしょう。

花園姫が誰なのかわかりませんでした。男虎さんだったのですね。『京人形』での井筒姫も若い女方さんを思い浮かべてもわからなかったのですが玉太郎さんでした。小栗党、変身しつつ修行中ですね。鷹之資さんも鳥居又助役に代役早変わりでした。小栗党の活躍も今後楽しみです。何事も修行あるのみです。そのことによって観るほうは楽しさを増やしてもらえるのですから。

お宝ですが、朝日の弥陀の尊像は二代目尾上におくられました。この朝日の弥陀の尊像もまた紛失するのですが、新しい家宝も登場します。金鶏の香炉です。これも盗まれます。朝日の弥陀の尊像の力で岩藤は消えますが、その威徳にも限界があり、さらなる鬼子母神の尊像の登場となるのです。

歌舞伎のお家騒動に欠かせないのがこのお宝たちです。これも注目していると登場人物の善悪、流れなどがみえてきます。キーワードの一つです。

お柳の方(笑也)、蟹江兄弟(亀鶴、猿四郎・鷹之資の代役)、花房采女(門之助)、安田帯刀(男女蔵)、局浦風(笑三郎)、局能村(寿猿・めずらしくお局役)

追記: <めでたし、めでたし>と書いたら、デルタ株が打ち返してきました。手ごわい感染症です。歌舞伎座はことを明らかにして公演の対処方法が早いので、世のなかの動きが歌舞伎座にも到達したかと参考にしています。無症状の陽性者がいること、ワクチンを接種しても感染はあるということです。感染された役者さんたち、歌舞伎オンデマンドを鑑賞し、早く回復されますよう応援します。

追記2: 『演劇界』10月号の『加賀見山再岩藤』の舞台写真は巳之助さんです。立派に務められた記録ですね。

追記3: 来年の九月は、吉右衛門さんが復帰され穏やかに秀山祭が開演されることを祈願いたします。

映画『ふろたき大将』『はだかっ子』

戦後自分たちの撮りたい映画をと始まった山本薩夫監督や今井正監督を中心とした独立プロの映画を観つづけていて目にとっまていた作品がいくつかありました。その中から今回、映画『ふろたき大将 花咲く少年の島より』と『はだかっ子』を観ました。

独立プロ映画に関しては書くのが観るペースに追いつかず、1950年から1954年までの映画でとん挫してしまいました。 ドキュメンタリー映画『薩チャン正ちゃん』まで (3)

映画『ふろたき大将』(1955年・関川秀雄監督)は東映の児童映画の第一号で、関川秀雄監督は1953年に映画『ひろしま』を撮られています。映画『ひろしま』に関しては ドキュメンタリー映画『薩チャン正ちゃん』まで (2) で少しふれています。

関川秀雄監督は児童映画でも広島での原爆孤児たちのことを描いています。原爆から5年がたち広島で浮浪児となって仲良くなった二人の少年がパンを盗み捕まえられ大人たちに責められます。

2019年に放送されたテレビのBS1スペシャルドキュメンタリー『さしのべられた救いの手~原爆孤児たちの戦後~』では孤児となり広島駅の近くで野宿していた方が語られていました。大人たちが捨てた新聞紙を奪い合いそれを柔らかい食べ物として口に入れ水を飲んだと。口に入れるものがないときは石をなめて水を飲んだと。一年以内に次々と子供たちは死んでいったそうです。

映画のほうは、瀬戸内海にある原爆孤児たちの似島(にのしま)学園の園長にシュンちゃんとトクさんは助けられ島へ渡ります。トクさんは学校や勉強が嫌いで行きたくありませんでした。トクさんは学園ではやはりみんなの行動についていけずノロトクと言われて仲間から離れて行動します。ひとり浮浪児の時に身に着けたたき火をします。遠く広島を眺めては、広島にもどればはぐれたお母さんに会えるかもしれないと思うのでした。

たき火の上手なトクさんを園長先生はふろたき大将に任命します。風呂を沸かすだけではなく、分担されている寮の入浴する順番を決めたり、使ったマキの代金も計算しなければなりません。徳さんはシュンちゃんから字を習い、計算も習います。邪魔されたり、嫌がらせを受けたりしますが、応援してくれる友達もいて次第に皆に認められ誰もが信頼するふろたき大将となります。新聞にも載ります。その新聞記事を読んである工場から中学を卒業したらかまたきの仕事を頼みたいとの就職依頼があり、お母さんも生きていて会うことができました。トクさんは学園から新しい社会へと出発するのでした。

見始めてトクさんが石橋蓮司さんに似ているなと思いました。この表情は石橋さんに間違いないと確信しました。芸歴が長いんだと意外でした。見なおすと出演者名に石橋蓮(若草)とありました。石橋蓮司さんのデビュー作だったのです。2016年にはこの続きとしてのNHKドラマ『ふろたき大将 故郷に帰る』が放送されたようです。

関川秀雄監督が人選されたのでしょうか。石橋蓮さん、役柄にピッタリでした。この作品は45分と短いです。

関川秀雄監督は児童映画では『トランペット少年』(1955年)があります。東北の田舎に赴任した教師が子供たちに音楽の素晴らしさを教えようとします。反発してその仲間に入らなかった少年をトランペット担当にします。トランペットを父親に捨てられたりと紆余曲折がありますが、少年は好きなトランペットを高らかに吹くのでした。

映画『はだかっ子』(1961年・田坂具隆監督)は長編で146分ありましたが、長さを感じさせない展開でした。原作・近藤健さん、脚本が成沢昌茂さんです。成沢さん、今年の2月に亡くなられていました。(合掌)。 6月に溝口健二監督の映画を観、関連本を読み、新藤兼人監督の『ある映画監督の生涯』も観直し、その中で成沢昌茂さんが溝口健二監督についても語っておられた映像が頭の中に残っています。監督もされ多くの脚本を書かれ、この『はだかっ子』も力作です。

小学校6年の元太(伊藤敏孝)は、父がインドネシアで戦死して、母(小暮実千代)と二人くらしです。母はチンドン屋の三味線弾きなのですが仕事がないときは道路工事の仕事に行きます。住まいは大工だった父の弟弟子の尾沢(三國連太郎)の長屋の屋根裏に住まわせてもらっています。尾沢は義理人情に厚く兄弟子の家族だからと元太をかわいがってくれます。

元太は正義感が強く元気で、学校も担任の高木先生(有馬稲子)が子供たちの気持ちを受け止めてくれるので楽しく通っています。

大人には大人の事情があるようですが、元太は自分の正しいと思うように進んでいきます。学校での親と子供の討論会では元太はきちんと意見を言います。生徒たちもそれぞれ臆することなく意見をいいますが、その中に子役時代の風間杜夫さんがいました。話し方に特徴があります。この討論会によりまたまた母の大人の事情を知ってしまうのです。

母は無理が重なって床に伏してしまい、元太の運動会の活躍を観れないままに亡くなってしまいます。元太がいなくなり尾沢は高木先生のところに行きます。先生はおもいあたるところがありました。先生は尾沢と一緒にそこへ行きます。そこはユネスコ村でした。

そこに写生に行ったとき元太はインドネシアの家を見つけ父を思い出しその家を描いていました。母にもそこへ連れてってやると言っていました。大工になりいつかこんな家を建てそこに父親の写真を置くのだとも言っていたのです。

やはり元太はそこで泣きつかれて眠っていました。

元太は尾沢が育ててくれることになり、大工を目指すことになりました。今日も元気に元太は学校に向かうのでした。

このユネスコ村というのは色々な国の建物を紹介しているテーマパークです。1951年に国際連合教育科学文化機構( UNESCO)に60番目に加盟したことを記念して埼玉県の所沢市に開園され1990年に閉園しています。

映画の中でUNESCOとは何ですかという授業場面があります。生徒が高木先生の質問に次々と答えてユネスコ憲章の理念を学んでいくのですが、こちらも学ばされました。

「戦争は人の心の中でうまれるものであるから人の心の中に平和の砦を築かなければならない」

本と演技と撮影がしっかりしています。元太を中心とした子供たちの行動が明快で、学校行事が元太の心の動きの伏線としてつながり元太の心の動きがわかります。自転車も有効に働いていました。新しい命の誕生と死という命題も描かれています。そして子供たちを導く大人たちも子供たちによって教えられ負けじと生きていく爽快感が映画の長さを感じさせない作品となっているのです。

元太が学校に通う道路は車の行き来が多く、遊園地なども昭和30年代の戦後の復興への動きをとらえています。

田坂具隆監督の映画『『五番町夕霧楼』を6月に観ていて女性の描き方の上手い監督だなと思いました。非常にジャンルが広い監督だと知りました。監督自身は広島で被爆されていました。

追記: 田坂具隆監督の『女中っ子』(1955年)は名作です。秋田から出てきた女中の初の左幸子さん、お見事。自分が生きてきた生き方を信じていて、都会の東京を物珍しいとはおもいますが惑わされないのです。さらに初を慕う次男・勝美が今大事な成長段階であることをしっかり受けとめるのです。聡明な初です。この初を引き出した田坂具隆監督もお見事。

 

2021年8月15日(2)

映画『この子を残して』(1983年・木下恵介監督)は、被爆して亡くなられた永井隆さんの著書などから山田太一さんと木下恵介監督が脚色されたものです。永井隆さんが長崎医大で放射線の研究者で多くの肺結核の患者のレントゲン写真を撮り、それにより白血病になっていたのは知りませんでした。永井隆さんは放射線の利用価値とその恐ろしさを体験していたわけです。

奥さんに二人の子供たちを託していたのに奥さんは8月9日に原爆のため先に亡くなってしまうのです。永井さんは自分が死んだ後のことを考えて息子さんには特に自立を心がけて育てられ、映画では義母との意見の相違も生じていたりしました。

著書『この子を残して』と映画では多少違ったところも見受けられ、木下恵介監督は自分なりの反戦映画とされています。永井隆さんの著書は戦争孤児、原爆孤児に対する考え方に自分の子であったならという見方を人々に思い起こさせたと思います。ただ著書『この子を残して』での永井隆さんの原子力に対する考え方には少し疑問を感じた部分もありました。もし永井隆さんが福島の原子力発電所事故を知ったならどう考えられたであろうかとも思いました。

最後までカトリック信者として現実に真摯に向きあわれ、我が子のゆくすえや孤児にとって大切な事は何かを自問自答しつづけられていました。

映画『爆心 長崎の空』(2013年・日向寺太郎監督)。 我が子が具合が悪くなりあっという間に亡くなってしまった母親と、母からの携帯の電話に出なかった娘が帰ったら母が亡くなっていたという喪失感から自分を責める二人が出会います。子を失くした母親は被爆三世でそのことと関係があるのではないかと新たに宿した命をこの世に誕生させることに迷うのです。

出会った二人には、他の人には見えない者が見えていて、自分と同じに感じている人がいることがわかり、救いの一つとなり、周囲の人の考えも受け入れることができるようになるのでした。

映画『夕凪の街 桜の国』(2007年・佐々部清監督)。原作が『この世界の片隅に』のこうの史代さんで、淡々としていながら言いたいことはしっかり台詞で語っています。原爆は「落ちたのではなく落とされたのよ。」被爆した家族と生き残った家族の物語がこれで終わったわけではないと続きます。

自分の祖母と母が被爆していたことを知らされていなかった娘が黙って家を出る父の後をつけます。父は夜行バスで広島に向かいました。娘は友人と偶然再会し一緒にバスに乗り込みます。父は娘の知らない人々と会い、お墓参りをします。その追跡の旅で自分の記憶と照り合わせ、娘は自分の家族や血縁の人々に何が起こっていたかを知るのでした。

ドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』(2007年・スティーヴン・オカザキ監督)。60年前に被爆した子供たち14人がその時の事とその後を語ってくれます。残された映像記録の中に火傷を治療されている映像があり、治療の時にはあまりの痛さに「殺して!」の声が響いたそうですが、そうであろうと本当に思います。

原爆投下に係った4人の元米軍関係者の告白もあり、原爆の威力は誰も知らなかったことなのです。

スティーヴン・オカザキ監督の自身へのインタビューによりますと、この映画を撮るまでに25年の歳月が必要でした。被爆との出会いは、1980年代初めのサンフランシスコでの平和運動の中で友人達が中沢啓治さんの『はだしのゲン』の英訳に取り組んでいて、その作品に感銘を受けたのが最初だったそうです。中沢啓治さんも被爆者の一人として映像の中で当時の惨状を語られています。

その後、スティーヴン・オカザキ監督は「米国原爆被爆者協会」の会合を見学できるか問い合わせたところ、見知らぬ人がいると会員は落ち着かないので、あなたの映画を上映してはと言われ、子供用の短編映画を上映します。その時一人の女性会員から、自分たちの体験を世界に伝えるためにあなたは被爆者の映画を作るべきですとの発言があり、全員が賛成し、そこからやらなければならないと思われたそうです。

スティーヴン・オカザキ監督の短編映画を観た方たちは、この監督なら自分たちの想いを伝えてくれる映像を作ってくれると信頼したのでしょう。

それから10年経ち、スティーヴン・オカザキ監督の作品がアカデミー賞の短編映画賞を受け注目をされ、次は何を摂りたいかと聞かれ「原爆に関するドキュメンタリー」と答えます。

原爆投下から50周年にあたる1995年公開に向けて準備されますが、アメリカのスミソ二ア航空宇宙博物館での広島・長崎の被爆遺品や資料の展示が企画の段階で反発され、それが影響してスティーヴン・オカザキ監督の映画の制作側が手をひいてしまいます。

スティーヴン・オカザキ監督は自主製作で短編『マッシュルーム・クラブ』を撮ります。たとえ見る人がいなくても被爆者たちへのお返しになると思っての事でした。

アメリカの大手ケーブルテレビHBOから広島と長崎を撮らないかという話がきて監督の想い通りに撮って良いということで原爆投下60周年に向けて始動します。映画は完成し本作品は全米ではテレビで放送され、日本では劇場公開となりました。

政治的思惑の無い、体験した人がその事を伝え記憶に残してほしいとの想いが伝わるドキュメンタリーです。映画の始めに日本の若者たちに1945年8月6日と9日は何の日か知っていますかと聞きますが知っている人はいませんでした。

そういう私も2017年にこの映画が劇場で公開された時には観ていないのですから、若い人にとやかくいうことはできません。よくスティーヴン・オカザキ監督はこのドキュメンタリーを撮って残してくれたと思います。

アメリカでは真珠湾攻撃をして戦争を始めたのは日本人なのだから当たり前と思っている人が多いと想像できるなかで、この映像を観て違う目線で考えてくれる人もあるでしょう。忘れ去られてはいけないという信念の力であろうかと思います。

人は楽しい事の方が良いに決まっています。しかしきちんとした記録があればいつかそれを眼にし、立ち止まって振り返る時間を持つことが出来ます。

永井隆さんは『この子を残して』の最期に書かれています。

「この兄妹が大きくなってから、私の考えをどう批判するだろうか? 五十年もたてば、今の私よりずっと年上になるのだから、二人寄ってこの書をひらき、お父さんの考えも若かったのう、などと義歯を鳴らして語り合うかもしれないな。」

自分を批判するほどまでしっかりと生きてほしいということでしょう。映画ではしっかり生きて自分の道を歩まれる二人の兄妹が映されます。

テレビの特集や映画などを観ているとそれが重なってやっとそういうことであったのかと思うことがあります。時代も変わりますし、制作意図の思惑があったりしますので、目にすること聞くことがあれば、それを受け入れ自分の中で新たに知ったり考えるのが必要かと思います。たとえそれが1年に1回でも3年に1回でも。忘れてはいけないことでしょう。どんなときも弱い人たちがさらに苦しい立場に向かわなければならないということは悲しいことに変わらないのでしょうか。

戦争、災害、事故、病気、そして今回のような感染症なども。

2021年8月15日(1)

第二次世界大戦により1945年8月6日は広島に原爆が落とされた日、8月9日は長崎に原爆が落とされた日、8月15日は終戦の日です。忘れてならないのは6月23日の沖縄慰霊の日です。

8月になると特別番組が放送されますが、映画『この子を残して』、『爆心 長崎の空』を観た後でしたので『NHKスペシャル 原爆初動調査 隠された真実』はやはり隠されていたのかとやるせなくなりました。

1945年9月にアメリカから広島、長崎に初動調査団が入り長崎で撮影された被爆直後の映像が公開されたのです。調査された1945年9月から12月までの海軍報告書はトップシークレットでした。

原爆開発計画「マンハッタン計画」の総責任者・アメリカ陸軍・グローブス少将は調査の総責任者でもあり、調査団が出発するとき、残留放射線量が高くないことを証明しろと伝えていたのです。最初から隠ぺいするつもりでした。

原爆は爆発する瞬間、初期放射線放出をします。そして残留放射線というのは2種類あって ①爆心地の土壌などが中性子を吸収し放射線物質となり放出するケース ②爆発で発生した放射線物質が雨やチリで降り注ぎ地上に残り続けるケースです。②が「黒い雨」です。

グローブスの報告書には、残留放射線は完全に否定されていました。

「爆発後、有害量の残留放射線が存在した事実はない。人々が苦しんでいるのは爆発直後の放射能のためであり、残留放射線によるものではない。」 グローブスは原爆を開発した物理学者・オッペンハイマーの理論を採用しました。

物理学者・オッペンハイマーは、「広島、長崎では残留放射線は発生しない。原爆は約600メートルという高い位置で爆発したため、放射性物質は成層圏まで到達、地上に落ちてくるのは極めて少ない。」とし、それに合わせて報告書がつくられアメリカの公式見解となったのです。

グローブスは1945年11月28日のアメリカの原子力委員会で証言しています。

「残留放射線は皆無です。皆無と断言できます。」「この問題はひと握りの日本国民が放射線被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると私は思います。これに関しては私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます。」

ソ連との冷戦もあって人道的よりも核開発でアメリカがリードするほうを選んだのです。

実際には、長崎の西山地区を調査した資料もありました。西山地区には爆心地よりも高い残留放射線が認められたのです。一般人の年間線量の限度を4日で越える値でした。

アメリカは西山地区の人々を観察し、聞き取り調査もし写真も撮っていました。西山地区は爆心地から山を隔てた地域なのですがその日雨が降っていました。赤みがかった黒色で異物が混じった大粒の雨で、排水管がつまるほどで貯水池の水は苦みがあり1週間ほど飲めなかったと語られています。谷間となっているため放射線物質が堆積したとかんがえられます。

血液検査もしていて2か月後には白血球が正常値を越えており、放射性物質が体内に入り起きた可能性が高いのです。

西山地区の土も持ち帰っていて放射線物質の種類も見つかっていました。しかしそれらの調査報告は日本に知らされることはありませんでした。

当時、東大の都筑(つづき)正男教授は残留放射線に目をむけていました。広島で原爆にあっていなくても手伝いで来た人が数日以内で亡くなっている人もいたのです。入市被爆です。

日本の陸軍の報告書にも人心がパニックになるのをおそれて人体に影響を与えるほどの放射線は測定できなかったとしています。

都筑正男教授のくやしさをあらわすインタビューが残っていました。

「問題は政治が先か人道が先かということであって、結局は人道が政治に押し切られてしまった。広島、長崎には何万という被爆者がいるんだと。毎日何人も死んでいるんだと。その人々を助ける方法があり、研究もでき発表もできるにもかかわらず、占領軍の命令によってそれを禁止して、この人々を見殺しにするのは何事か。」

アメリカは4年間で長崎で900か所、広島で100か所で調査していたです。

隠ぺいするための調査。初めから結論ありきで、人道など無視です。その調査でどれだけの苦しみが救われたことでしょうか。不安だけが膨れ上がり亡くなられた方。長い長いつらい闘病を強いられた方。疎まれて傷ついた方。原爆も戦争もこの世にせっかく生まれてきた命を勝手に奪うのです。どんなときも政治よりも人道を優先する道を選んでほしいものです。

前進座・DVD『残り者』・『前進座90年の夕べ「温故創新」』

残り者』は2020年10月に前進座により公演されたものです。原作が朝井まかてさんの『残り者』です。新型コロナの影響で行きはぐれてしまいました。それがDVDとなりました。

「配役・スタッフ」「あらすじ」「かいせつ・みどころ」などは下記から検索してみてください。

2020年前進座錦秋公演『残り者』 (zenshinza.com)

検索すると色々でてきますが、それでいながら余計なことを書きたくなるのは老化のためでしょう。『新TV見仏記』でみうら・いとうベストコンビが、柿木に柿が一つ残っていると何か言葉にしたくなるのは老化だねといっていました。納得です。

上野東照宮のお狸様は大奥で暴れていたことがあるそうで、それならやはり大奥最後の日に残った5人の女性と5人を遭遇させた猫・サト姫様のことを話したくなりました。

原作『残り者』も面白かったのですが、舞台はそれをさらに血の通った立体化をしてくれまして(実際は映像ですが)想像していたよりも好い舞台となっていました。サト姫様が文字の物語よりも大活躍で、猫ゆえに勝手気ままな所があり、それでいて動物の人に対する敏感さもありできちんと登場させたのは大成功でした。サト姫様役の毬谷友子さん(客演)の動きが軽く、お化粧も衣装も個性的で何とも言えない雰囲気をかもし出してくれました。

5人の役柄も一人一人はっきりと印象づけてくれ、大奥の中で手わざで身を立てているそれぞれの立場がしっかり伝わってきました。原作を読んでいなくてもこの女性たちが家とも思っていた大奥から放り出されることになってもしっかり生きて行けたのはこの最後の日に出会えたことが大きな力となっているのがわかります。

サト姫様は、天璋院の飼い猫で大事にされていてその猫が声はすれども見当たらないので探すということから出会いがはじまるわけです。サト姫様は、わがままな猫であるようでいて、新たな世界へ出発するために5人の<残り者>の背中を押していたのです。

大奥の中にいるといっても仕事が違えば、噂では聞いていても実際には出会えないわけです。短時間にそれぞれの立場が違えば見方も違うということが明らかになっていき、天璋院づきと和宮づきでは江戸と京のちがいもあるわけで、5人の中に一人和宮づきの女性が加わったことでこれまた面白さを複雑にしてくれました。

その役どころが上手く演じ分けされていて、場面転換もスムーズに流れ良質の舞台となっていました。

一人一人の役者さんがこの役のために今まで修行されてきたのではとおもってしまうほどストンとはまっていました。こちらもおそまきながら約10か月後にして満足できすっきりしました。

もう一枚のDVDは、2021年4月2日有楽町のよみうりホールで行われた前進座90年の記念イベント『前進座90年の夕べ「温故創新」 ~よみがえる名作名場面とクロストーク~』です。

劇団員の方が撮影したのでしょう。手作り感の一生懸命さが伝わる映像です。

総合司会が劇団員の小林祥子さんと早瀬栄之丞さんです。第一部は「よみがえる名作ゼリフ」で過去に上演された舞台の名作のセリフを現在の劇団員の方々が動きを加えたりして紹介してくれました。これは舞台の一部分が浮かび上がるようで素敵な構成でした。

『母』では、小林セキさんを演じられた主演のいまむらいづみさんがお元気にセリフを語られました。第二部の進行役の葛西聖司さんが「いまむらいづみさんのお元気な姿を拝見しただけでこの場に来た甲斐がありますよね。」と話されて皆さん拍手されていました。

第二部は「クロストーク」でゲスト進行役の葛西聖司さんが写真や映像を見つつ、藤川矢之輔さん、河原崎國太郎さん、浜名実貴さんを交えて、前進座の90年を振り返りました。舞台の観劇は少ないのですが、映画は観ていますのでそのあたりになると思い出話やエピソードなどは興味深く聞かせてもらいました。世代的に記憶にあるのは藤川矢之輔さんでした。事情通の葛西聖司さんのソフトな進行が、90年という前進座の長い道のりを楽しく紹介されていました。

こういう時期でなければDVDとして残されなかったかもしれませんので、そういう意味では、どんな時も記録は古いものから新しいものを生み出していく礎となるのだということを感じさせてもらいました。

10月からは山田洋次監督による90周年の錦秋公演が開催されます。

2021年『一万石の恋 ―裏長屋騒動記 愛の仮名手本篇』 (zenshinza.com)

上野・トーハクから上野東照宮へ(3)

歌舞伎座6月の『京人形』から左甚五郎さんが彫った龍があるということを知り、これは良い機会と拝見しに寄りました。上野東照宮ちょっと派手派手さに避けていたところもあり、今回はあらゆる異文化を受け入れつつの江戸徳川家の威信を示すための建築物とおもうと、その工夫も一つの時代のながれに残したものとして大工さん達の努力の結晶でもあるのだという感慨がわきました。

大石鳥居をくぐりますと表参道となりますが、石燈籠が並んでまして約200基あるのだそうで現在の社殿の造営の年(1651年)に諸大名が奉納したのです。

そして唐門と後方に社殿があるのが解ります。お天気が曇りでお日様に照らされず助かりましたが、建物はかなり渋めに写りました。白の丸印が左甚五郎さんの彫刻の昇り龍降り龍です。よく見えませんが青の丸印は銅灯篭です。これは48基あり、唐門の両側の6基は内側から、紀伊、水戸、尾張ということです。青丸は紀伊家が寄進した銅灯篭となります。こんな写真じゃいやだよと思われるかたは是非上野に行かれたら立ち寄ってください。

社殿を拝観するのは有料ですが、社殿側から見た唐門です。

こちらの龍のほうが近くから見ることができます。昇り龍降り龍は毎夜不忍池に水を飲みに行くという伝説があるそうで、<京人形>も動いたのですからもそれくらいのことはするでしょう。そして頭を下げている龍が昇り龍で、偉大な人ほど頭を垂れるということからだそうです。

印象的だったのが透塀(透かし彫りの塀)です。東洋館でイスラームのブルーの透かしタイルを見た後だったので、日本の木の彩色の透かし彫りが金色に負けない存在感でした。風土の違いや寺社仏閣の建物の違いなどは新しい発見があり楽しいです。

表側の唐門の左側とするなら、水戸、尾張の銅灯篭でしょうか。それぞれの透かし具合がおもしろいです。

社殿を拝観していると整備されているかたが、お狸様ご神木も観て行ってくださいとすすめてくれました。

お狸様というのは栄誉権現社です。大暴れのタヌキでしたが本宮に奉献されてからは<他を抜く>強運の神様となったのです。お狸様を拝見して笑ってしまいました。発想外でした。あまりにも笑ってしまい免疫力アップしたかもしれませんが、笑いすぎと怒ってられるかもと写真は撮れませんでした。お狸様ファンになりました。

ご神木は整備中でそばには寄れませんが拝観できました。見どころの多い上野東照宮です。

表参道からは五重塔もみえます。明治に入っての神仏分離令により壊されるところを寛永寺の所属であるとして願い出、東照宮五重塔から寛永寺五重塔と改められました。しかし離れているため維持が難しく都に寄付されたので今は動物園の中にあるのです。

ここからが五重塔への表参道だったので、こちらが五重塔の正面だそうです。残してもらってよかったです。

大石鳥居を出たところにはおばけ灯篭もありまして、日本の三大石灯篭は、名古屋熱田神宮、京都南禅寺、そしてこの石灯篭だそうです。

不忍口鳥居もありまして、こちらから出て不忍池の弁天堂に寄るのもいいですね。ぼたん園には来ましたが、東照宮は興味薄だったため改めて今回しっかり観させてもらいました。これで友人を誘えばガイドできそうです。

帰りは韻松亭で一人ランチでした。ショックなのはこれだけの行動で帰宅するとものすごく疲れたことです。自粛生活は心身に少なからず影響を与えているようです。