「夏目漱石の美術世界展」

2時間では時間が足りないであろうと予測したが、やはり足りなかった。先ずは行くだけ行かなければと行動に移したが時間は足りなくても行ってよかった。漱石は少しは読んでいるが、登場人物の心理描写を追ったとしても、そこに書かれている絵のことから漱石の書きたかったことにまでに到った経験は無い。この展覧会の副題に~みてからよむか~とあるがそれとは関係なく「こころ」「それから」「門」は読み直してみたいものである。

展示室は序章から第7章まである。それぞれが魅力的であるが、一つ一つを語る力はないので自分の興味魅かれたことのみを少し。

夏目漱石の最初の小説「吾輩ハ猫デアル」の出版装幀が橋口五葉である。初めて名前を意識した。小説の装幀はどこかで写真などで見ているので「ああ、これである」と思い浮かぶが、橋口五葉がその後の殆どの装幀をしていたとは気にも留めていなかった。文庫本で読んでいるから装幀を眺めまわすという事も無い。アール・ヌーヴォーを取り入れた画期的な装幀である。小説と同時に装幀も当時の人気を呼んだ事が想像される。

本の装幀と言えば腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)で泉鏡花の「日本橋」の装幀をした小村雪岱との出会いを書いたが、橋本五葉と小村雪岱は同じ時期に活躍していたようだ。橋本五葉(1881ー1921)。小村雪岱(1887-1940)。雪岱のほうが20年ばかり長命である。1926年に漱石の小説「草枕」の話に沿って「草枕絵巻一~三」が松岡映丘を中心に描かれている。その巻三の「出征青年を見送る川舟」が雪岱であった。舟上右手に雪岱の描く<那美>がいる。

洋画家の主人公が泊まった温泉宿に那美という若い女将が、従兄弟の久一の出征のためその出立する駅まで見送り、途中の舟上での場面である。 『川舟で久一さんを吉田の停車場迄見送る。舟のなかに座ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論御招伴に過ぎん。』 この舟の上で那美は主人公に 『先生、わたくしの画をかいてくださいな』 と頼むのである。

停車場で久一の乗った列車が動き出す。その同じ列車から那美の別れた夫が名残惜しげに首を出す。二人は顔を合わす。夫の顔はすぐに消えた。

『那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事の無い「憐れ」が一面に浮いている。「それだ!それだ!それが出れば画になるますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就したのである。』

この最期の那美さんの表情を捉えた絵があるのかどうかは分からない。

もし五葉が生きていればおそらくこの「草枕絵巻」に加わっていたであろう。これは奈良国立博物館にあるらしい。これなどは、小説を読み眺めてみたいと思う。

 

 

 

笑いの深呼吸

歌舞伎座の五月歌舞伎は一通り観たのであるが、歌舞伎と<リアル>とはどこまで融合できるのであろうかとふっと考えてしまい、そこから動けなくなり歌舞伎のことが全然かけなくなってしまった。

平成16年歌舞伎座の勘三郎(勘九郎時代)さんと三津五郎さんの「棒しばり」のDVDを見る。勘三郎さんを見ると涙するのではと思ったが、声を出して笑った。そこだけが現実とは違う世界であった。勘三郎さんと三津五郎さんのライバル意識は観る側のエッセンスの一部でもあったが、それは無く、太郎冠者と次郎冠者の縛られた形でいかにしてお酒を飲もうかというその事だけである。二人はその事しか頭にない。その為に身体を一心に動かすのである。

小林秀雄さんが正宗白鳥さんとの交遊の一場面を講演で紹介している。正宗宅を訪れ、奥さんがワインを用意してくれ今まさに注がれるという時に何か用事で奥さんがその場を離れてしまった。奥さんはなかなか戻ってこない。自分はお酒が好きだから今か今かと待っている。ところが奥さんは現れない。正宗さんが一言「君、飲みたまえ」とか何とか言ってくれればいいのであるが一言もいわない。酒を飲まない人は酒飲みの気持ちが分からないのである。だから黙っている。正宗さんにしてみれば、飲みたいんなら飲みたい人が「じゃ、いただきます」といえばよいのだ。正宗さんという人はそういう人です。

落語の落ちのようである。それも志ん生でやるのだから堪らない。自分の気持ちを優位に持ってきていながら自虐的でもあり、分からず屋のほうの論理が正統になるという可笑しさである。さらなる落ちは正宗白鳥が面白そうな人だから書く物も面白いのだろうと手をだすとそうではないのである。そう簡単な人ではないのである。

芸にもそういうところがある。

歌舞伎座の8月演目に三津五郎さんと勘九郎さんの「棒しばり」がある。

呼吸の乱れも一つの深呼吸で救われた。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (5)

あの明治三年に逮捕された「筆禍事件」後も暁斎は、文明開化の諸政策に対する風刺戯画は描いており、旧幕臣や江戸市民層には人気があった。政府にとって要注意人物であったであろうが、その画才を認めないわけにはいかず「枯木寒鴉図」は博覧会で日本画部門で最高賞を獲得している。

「一般には戯画、狂画の作者ないしは浮世絵師として知られていた暁斎だったが、コンドルは師を伝統的日本画の正統を継ぐ画家として評価した。」

これがコンドルの基本にあり、暁斎の晩年そばについて制作の画材・画法・手順方法など細部にいたるまで記録し、おそらく今日でも日本画の伝統的手法の参考文献となりえるであろう。

コンドルは建築に携わる前、画家を志しており、その上建築設計の知識が加わり、谷中の五重塔のような建造物のスケッチでは暁斎を驚かせている。<暁英>の画号を貰うのは入門して2年目、コンドルの代表的建築物、鹿鳴館の開会式のあった明治十六年である。また展覧会などにも出品し賞もとっている。

暁斎とコンドルの関係は、師と弟子というよりも友人としての意味合いが強かったようである。コンドルはそれとなく金銭的援助もしていたようで、それを素直に受け入れられる友人関係であったとするなら、暁斎の晩年は何よりも良き友人が傍に居たという事で幸福であったと言える。

コンドルは大正九年(1920)に日本で亡くなっている。かれの建築作品は焼失してしまっているものも多く残念であるが、多くの日本人建築家も育て、画家河鍋暁斎を日本人よりも深く理解していたことに敬意を感じる。

「河鍋暁斎記念美術館」が埼玉県の蕨市にある事が分かり、楽しみが増えた。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (4)

コンドルについては、訳者の解説をかりると、英国生まれで日本へ来たのが明治九年(1876)24歳の時。建築家でも本国では実作は無い。どのような経緯で日本政府に招かれたのかは不明である。明治政府工部省管轄の工部大学建築学科教師となる。学生たちにも「温順で親切な」人柄で評判は上々である。

コンドルは<日本衣裳史><日本の造園研究><生け花の研究><日本画の研究>など日本古来の成り立ちから現在にそれがどう生き続けているかを調べ紹介している。

「そのほかコンドルは歌舞伎を愛好して役者の演技や声色を披露し、寄席に通って三遊亭円朝の落語や神田伯円の講釈を聞き惚れ、自ら実演を試みる意図があったのか、その速記本をローマ字で書き写したりした。日本舞踏の稽古では出稽古に招いた坂東流の師匠金蝶(きんちょう)の内弟子と遂には正式に結婚するほどに熱中している。」

コンドルが暁斎に入門したのは明治十四年(1881)、第二回内国勧業博覧会のため自分の設計した上野美術館(旧国立博物館)で暁斎の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」を見てからであろうとされている。コンドル・29歳。暁斎・50歳の時である。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (3)

訳注によると、暁斎が狩野家を出たのは安政二年(1855)24歳の時で、河鍋洞郁を名乗るのは安政四年(1857)数え27歳、<狂斎>の名で狂画を描き始めるのが安政5年(1858)28歳の時としている。

狩野派にあっても暁斎は実物の写生はしている。日本の画家の写生についてコンドルは高く評価している。「日本の画家が自然を写すというのは、単に目前の形態を紙に写し取ることに終わるのではない。」「日本の画家は記憶力によって自然の形態を心に留めると同時に、目には見えても紙には写せぬ自然の心の動きを心に捉えているということである。」

洞白の画塾は自由なところがあり、夜になると60人の塾生の多くは外に遊びに行き、講釈を聞いたり寄席に通ったりした。暁斎は能が気に入り能の師匠のもとへ通ったりした。その費用を援助してくれたのが狩野洞白陳信の祖母貞光院である。

暁斎が狩野派を去った理由をコンドルは次の様に書いている。「狩野派の様式と伝統を十分に学んだのち彼は狩野派を去った。その主たる理由は狩野派に対抗する諸派の技術を知るに及んで、一流派の画論にのみ束縛されるべきではない、広くすべての流派を研究し、すぐれた部分は積極的にこれを利用すべきであると決意したからである。」狩野派を去ることにより、上流人士や官界有力者の引き立てからも疎遠になってゆく。

明治三年(1870)狂斎時代、席画の場所で逮捕され投獄される。その風刺絵によるものなのか当時の政府高官を戯画的に表しているとして国事犯扱いとなる。明治四年(1871)頃<狂斎>から<暁斎>に改名する。<狂>は北斎の<画狂人>から「画に熱狂する人」をもじって付けたとされるが、その<狂>が災いしたとの考慮もあったようである。

暁斎は、仏画、宗教画、戯画、滑稽画などその画の領域が広範囲である。

他界する四年前54歳の時剃髪し、「如空」の法名をもらう。

「この偉大なる画人は明治二十二年、病苦を得て他界した。享年五十八であった。その最期は、こよなく愛し続けた画業との永別に多分の憾みを残すものであった。暁斎の死はその力量の絶頂期にあったと言えるかもしれない。」

「彼は外国の著書で知った解剖学的形体、透視画法、陰翳法に関する科学的知識や、西洋に見られるような絵画の写実的発展に深い敬意を寄せていた。暁斎の想像力の前には常に限りなく豊かな美術の世界が存在していた。それは彼の生まれた世界を照らす光の外側にあるものであった。彼は自分の世界を照らす光の範囲の中で、機会を捉えて仕事をせざるをえなかったのである。」とコンドルは結んでいる。

年譜によると明治二十一年亡くなる前の年、狩野芳崖没後東京美術学校教授依頼のため岡倉天心とフェノロサが来宅するが病気のため謝絶とある。学術的にも暁斎の画業はみとめられつつあったわけである。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (2)

美術館で見つけた「河鍋暁斎」 (ジョサイア・コンドル著、山口静一訳)から少し河鍋暁斎の生い立ちを紹介する。なかなか面白い。

生まれは茨城県の古河市である。本名は河鍋周三郎。暁斎は自分の思い出を「暁斎画談・外篇」に書いているらしく、コンドルはその本から紹介もしている。暁斎は子供の頃、玩具や菓子よりも絵を見せたり手で持てる生き物を与えられると泣いていても泣き止み、三歳のとき初めて写生をしている。駕籠に乗っての長い旅で、蛙を与えられそれを観察し、目的地につくと紙にその外形を写したという。後年暁斎は作品を完成させるにあたり、モデルを用いたり、直接対象をスケッチすることがほとんどなかったそうで、それまで溜め込まれている観察力と記憶力から画いたらしい。

6歳の時父の仕事から江戸に出て、現在の御茶ノ水にある順天堂大学病院にあった幕府火消組の屋敷に移る。父は賛成ではなかったが、彼の志向から浮世絵師一勇斎国芳に入門させる。この師から、例えば戦闘中の人物を画くなら実際に喧嘩をしている人たちの表情から手足の位置、動き、優勢、劣勢の相違などを深く観察する事を教えら、江戸の裏町を歩きまわり観察力と記憶力を養う。二年で国芳のもとを去り、独自で観察、写生を試みる。

ある時大雨のあと、神田川で尻尾のふさふさした蓑亀と思ったものが人間の生首であった。驚き慄いたが気を取り直し家に持ち帰りこれを画き写そうとしたが親に見つかり、もとの場所にもどす前に急いで写生している。

十一歳の時、狩野派の狩野洞白(とうはく)の画塾へ入れてもらう。十八歳で狩野家から雅号洞郁(とういく)を授けられ、十六年間幕府お抱え狩野派の門弟としての道を歩む。二十七歳の時、主家といさかいを起こし狩野派を離れ独立、狂斎と称する。洞白のもとを去るが、暁斎は師に敬意を持ち続け、狩野派の巨匠たちにも深く尊敬の念を抱いている。健康を損なうほど狩野派の絵の研究をしている。

「門弟の修業は既製の絵を何度も模写することにあったが、その絵そのものがかつての狩野派巨匠の作を模写したものであり、現実の動物も想像上の動物もその表現は狩野派古画の規定した先例に従うように厳しく制限されていた。」

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)

三井記念美術館で『川鍋暁斎の能・狂言画』開催中である。

<河鍋暁斎>と眼にすると個性に強い怪気的イメージを受けるのであるが、今回のテーマは「能・狂言画」である。ユーモアがあったり、躍動的だったり、幽玄に充ちていたり暁斎の幅の広さと奥の深さを知らされた。そして、能・狂言に詳しい人も、よく知らない人も、実際に観てみたいと思わす企画展示であった。ここの美術館は作品の数的にも丁度よい数で、いつも音声ガイドを借りるのであるが、この解説も気に入っている。これも難しいもので、あまり専門的に詳しくても疲れるし、軽すぎると別に借りることもなかった、となってしまう。

暁斎という絵師は狩野派に所属していて18歳で独立している。幕末から明治にかけて活躍している。能は自分でも習い、その費用は貞光院という方が援助してくれその方の墓前で三番叟を舞う画も描いている。「猩々」などは自分でも好きなのか何枚か描いている。

「能・狂言画聚」は沢山の演目の印象的一場面と詞をいれ、後のち参考になる資料ともなっている。それも躍動的で狂言師の笑顔は観客の笑顔でもあると思わせる。自分の実際の体験から下絵ではあるが「道成寺」で白拍子が鐘に入ってから鐘の中で後シテがロウソクの明かりの中で鬼に支度する様子が描かれている。鐘の中などの画は初めて見た。

能の場合は鐘の下に行き堕ちてくる鐘の中に入るのであるが、鐘が降りて来たとき中で飛び上がり鐘が堕ちきらないうちに足を見せなくして鐘を地に着かせるのである。そのタイミングが難しく、飛びすぎて頭を鐘の天井にぶつけたりすることもあるそうである。能の「道成寺」を観た時そんな解説を聞いた。

時代的に14代将軍家茂が3代将軍家光以来240年ぶりに上洛し、それを記念して能が庶民にも披露されそれを見たあとの様子が「東海道名所之内 御能拝見朝番」に描かれている。これは背景が二代歌川広重、二階から覗く女中達を歌川芳虎、浮かれる町人達を暁斎が合作で一枚のえ画にしている。浮かれる町人たちの姿が生き生きとしていて、暁斎の才能の広さがわかる。

面白いことに、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸、旧古川庭園など設計して携わったジョサイア・コンドルが暁斎の弟子で<暁英>の画号をもらっている。さらにコンドルは暁斎の生い立ちや暁斎の晩年の仕事の細部までを記録し本にしており、暁斎の名を海外に知らしめている。(「河鍋暁斎」ジョサイア・コンドル著社/山口靜一訳)

映画の中の手袋

映画の中には小物が様々の役割を与えたり思いがけない効果をもたらしたりする。

2013年1月22日 新派「お嬢さんに乾杯」で  【映画「お嬢さん乾杯」は昭和24年(松竹)の作品で脚本が新藤兼人さん。新藤さんは昭和22年に映画「安城家の舞踏会」の脚本も書いていて、原節子さんがどちらも没落貴族の娘役であるが、「お嬢さん乾杯」はラブコメディである。「お嬢さん乾杯」で木下監督は原節子さんのあらゆる表情を映してくれた。その原さんに身分違いの朴訥で不器用な佐野周二さんが一目惚れをして楽しませてくれる喜劇である。】と書いたが、その映画で原さんと佐野さんがデートをして原さんの家まで送り届け原さんが佐野さんのところへスーっと戻って来て、佐野さんの皮の手袋の上から口づけをして門の中へ駆け込む場面がある。洋画などでは婦人の手袋の上からキスをする場面はあるが、その反対は見た事が無いしお嬢さんの原さんならではの演出効果でもあった。

日活青春映画に吉永小百合さんと浜田光夫さん共演の「泥だらけの純情」がある。「お嬢さんに乾杯」と多少似ていて、高校生のお嬢さんとチンピラの若者との成就しない悲恋物語である。この映画でも男性はお嬢さんをボクシングの試合に連れて行く。吉永さんのお嬢さんは、可憐さと弾けるような笑顔の素敵なお嬢さんである。吉永さんと浜田さんは、デートの後、駅のホームで別れるのだが、浜田さんがスナック菓子を袋から半分お嬢さんの手に分けようとすると、お嬢さんは布製の手袋の片方を手から外し、その中に入れてもらう。これも予想外の行動である。中平康監督は当然「お嬢さんに乾杯」を見ていると思う。

「北のカナリヤたち」は東映創立60周年記念映画で吉永さんの主演映画である。誤って人を殺してしまい自殺しようとしたした警察官の仲村トオルさんを島の小学校の教師である吉永さんが助け、お互いに心魅かれてゆく。ある事故から吉永さんは島を去ることになり、その別れの時、仲村さんが吉永さんが差し出した手の毛糸の手袋をはずし素手で握手する。仲村さんが吉永さんの手袋を外すところに意味がある。これを見たときも坂本順治監督は両方の映画を見ているなと思った。原さんのは見ていなくても吉永さんの主だった映画は見ていると思う。

すでにあらゆる映画があらゆるワンシーンを映しだしていているが、さらに良いワンシーンを印象づけるとため様々なことを考えだしていく。<手袋>一つにしてもあらゆる見せ方と効果があるのである。見る方も、一つの映画から幾つかの映画のワンシーンをパッパッーと思い出す光の点滅も楽しいものであり、少し得意な気分になるものである。