中山道 『奈良井宿』(1)

3月27日、福島県白河市での<安珍念仏踊り>を見るための旅の計画をしていたのですが、雨の予報なので来年に延ばすことにして、中山道で<奈良井宿>が気になっていましたのでそちらに変更しました。

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JR中央線の奈良井駅から一キロほどの宿で、見学に3時間あれば大丈夫であろうと思っていましたら、結果的に5時間近くも滞在することになりました。それも昼食もとらずにです。いやはや本人が一番驚いています。

駅で簡単に観光について教えていただきました。一応中山道の一番の難所である<鳥居峠>についても聞きましたが、2日前の雪でさらに難所のようです。

まだ9時前ですから見える宿場の家並みには静かです。線路をくぐる地下道を進み、ふれあい広場にむかいます。地下道の横を流れている細い水路の音が響き、流れの勢いをかんじます。ふれあい広場から国道19号に向かって奈良井川を渡る新しい<木曽の大橋>が架かっています。階段上になった太鼓橋で、木曽檜でできた橋脚のないもので雪が残っていて左側の雪のないところをあがり川をながめ引き返しました。

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さてほとんど一人占めの奈良井の宿の家並みをゆっくり鑑賞します。重要伝統的建造物群保存地区で奈良井ならではの保存にかける取り組みの感じられる町並みです。二階が一階よりも少し前にせり出ている「出梁(だしばり)造り」で、一階の格子から二階にかけてその風情がよくわかります。

湧き水の<水場>があって、歩いていると幾つかに遭遇しますが、奈良井の表通りには六ヶ所あるんだそうで、後で案内図で数えたらありました。<横水><鍵の手><宮の沢>など名前がついています。

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最初の見学場所は<中村邸>で、くぐり戸を入ると外国の方たちの団体さんがすでに見終わって帰るところでした。電車の本数の少なさからこちらは早いのですが、もっと早いかたが外国のかたとは、どんなコースでまわられているのでしょうか。

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中村邸は塗り櫛の問屋さんだった住居で、建物の説明もあり見どころありです。「出梁造り」で奈良井の場合の特徴は二階と一階の間にもう一つ小さな屋根があるのです。その上に「猿頭」といわれる波形のような木が並べられています。何のためなのかはわからないそうで、今の商店の小さなアーケードを兼ねていたのではといわれていましたが、雪の降るところですからそういう役目もあり、飾りも兼ねていたようです。中の梁が壁を突き抜けて外にまで出ています。

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道路側の蔀(しとみ)が三段階になっていて、真ん中の障子をまず外し、上のしとみを上にあげて金具で止め、下のしとみを上に移動し外すと店開きとなるわけです。さらにしとみを支えている真ん中の柱も外すことができ、全開となります。説明だけですがよくわかります。そして、しとみも障子の予備があって、締めて明かりが欲しい時は障子の数を増やすのです。さらに、雨戸にあたるものは、中で重ねるかたちとなっています。

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その天井に四角のでっぱりがありました。それは、二階に炉を切ってあるのです。京都からの商談で訪れる人も多く、その人たちのために二階でお茶のもてなしをするためです。

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天保8年(1837年)の大火のあとに建てられたもので、間口が狭く奥行が長い建物です。住居の真ん中が炊事場になっていて吹き抜けです。寒いので両方に少しでも暖がいくようにとのことのようです。そのため二階が表二階と裏二階に別れています。

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表二階には炉がありました。道路に面した障子戸が開いていて、小屋根と「猿頭」を見ることが出来ます。

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裏二階には、塗り櫛の展示もされています。櫛の原木は「みねばり」の木で非常に硬く「斧折れ(オノオレ)」とも呼ばれていた木で、そのほか「ずみ」「さくら」も使われていました。土産物として江戸、京都、大阪と全国的に人気があり大繁盛したようです。

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旅のお土産としては、軽くて小さいですし、女性が喜ぶでしょうから、愛妻へ、あの娘へと相好をくずして男性たちも買っていたことでしょう。漆ぬりですので美しい光沢の櫛が並んでいました。それから、土蔵に保管されていたという花櫛の写真もありまして、薄い絹でつくった造花が櫛に飾られていて、つまみ細工の技術がなかったので東京に送って製造したのだそうです。

説明には、島崎藤村さんの詩「初恋」の<前にさしたる花櫛の>の解説も書かれていましたが、この花櫛をさしていたなら、高価なものと思われますので相手がどういう人か詮索できますが、詩人は結構事実を自分の情感にあわせて言葉を選び脚色しますので、その件は想像にまかせますが、この中村家はなかなか商才のあったかたとお見受けします。

蔵の中にも木櫛が展示されていましたが、「月型」「鎌倉型」「利休型」「京型」「おはつ型」「お婆さん型」など様々な形があったのです。

ところで大繁盛だったこの中村邸ですが、空き家となり、神奈川県川崎市の「日本民家園」に移築の話しが持ち上がったことがあるのです。その時、住民の保存意識が高まり、復元修理して資料館として残ったそうで、ここに残ってよかったです。やはりこの奈良井宿で見れるからこそ、見る者もいろいろ当時の様子が膨らみ想像が高まります。

東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」へは行ったことがありますが、川崎の「日本民家園」はまだでしたので今度訪れることにします。思わぬところで新たな刺激を伝授してもらいました。

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旧東海道 藤川宿~岡崎宿(~宮の渡し)

二川宿から吉田宿までは途中JR飯田線の小坂井駅までとし、そこから宮宿を通り<七里の渡し>までは名鉄名古屋本線、桑名側の<七里の渡し>から四日市宿までは、近鉄名古屋線の駅とぶつかるところで宿泊場所を探します。無い時はもどったり進んだりして宿泊場所を決め、それからどこまで歩けるかを検討し、何泊にするかを決め、さらに友人の仕事のシフトと合わせ、予定日1週間前に天候を確認して最後の検討。

今思い出しますと、進め進めの前進あるのみで、予定通り進むと達成感で脳は高満足度で、身体の高疲労度は飛んでおりました。この疲労度が結構たまりあとに残りましたが。

さてその中で、歌舞伎『伊賀越道中双六』に登場しました<藤川>と<岡崎>について書いておくことにしました。『伊賀越道中双六』に出てくるのが<三州藤川 新関の場><三州藤川 新関裏手竹藪の場><三州岡崎 山田幸兵衛住家の場>として出てくるのです。重ね合わせるのは無理な風景となってしまっています。

名鉄名古屋線の本宿駅を赤坂宿側に少しもどったところに、<法蔵寺>があります。家康さんの先祖の松平一族の墓のあるお寺で、家康さんも手習いに通いその手習いした紙をかけたといわれる松があります。驚いたことに近藤勇さんの首塚がありました。江戸板橋で処刑され京都にさらされた首を、同志が盗み、めぐりめぐってここに葬られたが、その後また盗まれ今は墓碑と胸像がありました。

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御朱印をもらう時お寺のかたが、かつては新撰組ファンが催しをしていたが、今は年齢的にそれもなくなったと言われていました。

本宿は<赤坂宿>と<藤川宿>の中間にあり、茶店など休憩としてにぎわったところです。一里塚の標柱があり名鉄名古屋線の線路にそって旧東海道は続きます。左手に急な石段があり上には<山中八幡>があります。三河一揆のとき家康さんが洞窟に隠れ見つかりそうになった時、ハトが飛び立ち助かったと伝わっています。

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東棒鼻(ひがしぼうばな)>の標識があり、<棒鼻>は宿場の出入り口のことで、解説案内には、1601年(慶長6年)に整備された<藤川宿>は小さく幕府の要求にこたえるために困窮したようです。補強するため他の村を移住させ加宿させたのですが、それでも小さな宿の部類に入ります。小さいながらも本陣、脇本陣、問屋場、高札場、鼻棒などの施設をつくりに頑張りました。

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脇本陣跡にたつのが無人の<藤川宿資料館>です。その近くに<むらさき麦>栽培地とあって、本当に美しい紫色の麦でした。芭蕉さんがこれを詠んでいます。「ここも三河むらさき麦のかきつばた」1994年(平成6年)に県の農業試験場が栽培に成功させ、その年は芭蕉さんの300年忌の年だったのです。「むらさき麦のかきつばた」。優しい美しさでした。はからずも5月の旅ゆえにまぼろしの<むらさき麦>を見ることができました。

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この資料館には、かつては<からむし細工>も藤川のおみやげ品で、今は福島県の昭和村しか生産されていませんが、からむし製品も展示されていてここでお目にかかるとはおもいませんでした。

西鼻棒><一里塚><吉良道標>を右に進みますと、<藤川の松並木>が続きます。1キロメートルに90本のクロマツが並び、夜には足下を照らす灯りが設置され、夜になるとほのぼのとした明るさが出現するようです。松並木の灯りとは風情があります。<藤川宿>から、<岡崎宿>は6.6キロと近いです。

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進むと<岡崎源氏蛍発生地碑>がありました。ここは、大岡越前守の領地でもあり、<西大平藩陣屋>の解説板があり、大岡忠相は旗本でしたが、吉宗の口添えもあり1万石の譜代大名になり西大平に陣屋がおかれます。

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しかし藩主だったのは3年だけで亡くなってしまいます。大岡家は江戸に常駐する定府大名で参勤交代がありませんでした。そのため、ここの詰めている家臣は多い時で12、3人です。

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さらに<大岡稲荷神社>がありました。大岡越前さん、豊川稲荷の本尊「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を信仰していて、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内のも大岡稲荷を建立していたのだそうで、2002年(平成14年)に再築されたものです。検索しましたら赤坂稲荷は豊川稲荷東京別院でその由来を引き継いでおられるようです。

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大きなエノキの<大平一里塚>があります。岡崎は、家康さん生誕の地で、浜松城に移るまえに本拠地としていていました。ここには外敵からの防衛のために東海道を<二十七曲り>させたのですが、これは家康さんではなく、岡崎城主の田中吉政さんが造りあげたのです。

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冠木門と<二十七曲りの碑>がありまして、金のわらじの案内柱があります。しかし、地図がほしいです。複合公共施設が目にとまりそこで地図を手に入れました。「岡崎開運の旅シリーズ まち歩きマップ」これが(二十)までありまして<二十七曲り>マップは(四)でした。金のわらじは㋑㋺㋩で続き㋹で愛知環状鉄道の中岡崎駅と名鉄名古屋本線の岡崎公園駅のそばとなります。一応そこで岡崎宿の終わりとします。二十七曲りはまだ続くのですが、なくなっていたりもしますので、そのあとは数えませんでした。

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ここまでで十七の曲りを曲がったことになります。慌ただしかったです。曲りを確認しつつ、三つの本陣跡を確認、<お茶壺道中>の茶壺の石碑があり、宇治茶を将軍家に献上するために始まった道中で、将軍の権威を示すため、100人の人足をだす定めがあり、お茶壺奉行をはじめ100人以上の行列をもてなすときもありこれまた負担が大きかったとのこと。

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大正時代の建物の<岡崎信用金庫史料館>、<田中吉政像>、籠田公園を通って連尺通り、どんどん曲って岡崎城を遠く半周する感じで㋹に到着です。

旧東海道を歩いていると、時間的にお城には行けないのです。お城巡りをするためには、別の計画を立てねばなりません。

岡崎はその他、家康さんの正室、築山御前の首塚がある<八柱神社>、信長の命により自刃した家康さんの嫡男信康さんが祀られている<若宮八幡宮>などもあり、幾つもの厳しい曲り角を歩まれた家康さんの人生が詰まった地でもあったのです。

岡崎城から八丁離れていた八帖町。

江戸時代、東海道で一番長かった木橋。ここを渡って知立(ちりゅう)へ。

追記: 知立宿鳴海宮宿までの写真を載せておきます。「有松鳴海絞会館」見学に時間をかけました。

尾崎一里塚跡の石碑

永安寺の雲流の松

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来迎寺一里塚(左右一対)

池鯉鮒宿の石碑

伊勢物語のマンホール (からころも きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ)

知立古城址

弘法大師御自作知立不動尊

阿野一里塚 (国の史蹟指定)

市雪歌碑 (春風や 坂をのぼりに 馬の鈴)

有松一里塚石碑

笠寺一里塚

熊野三社

熱田神宮と旧東海道

裁断橋址

都都逸発祥の地記念碑

姥堂と裁断橋の解説案内

加藤図書助館跡 (家康が竹千代時代に預かる)

伝馬町(かつての熱田神宮の門前町)

宮の宿赤本陣跡

熱田魚市場跡

熱田荘解説案内

宮の渡し公園七里の渡し場跡

国立劇場『伊賀越道中双六』

2014年(平成26年)12月に上演された再演です。演劇全般に与えられる読売演劇大賞が歌舞伎の作品として初めて受賞したのだそうです。歌舞伎は古典のイメージがあり、こういう演劇賞とは縁がないようにおもわれますが、古典作品も現代に通じるという視点をもたせる作品だったということでしょう。

2014年の観劇については書いており、あらすじも紹介していますので、よろしければ下記を参考にされてください。

国立劇場 『伊賀越道中双六』(1) 国立劇場 『伊賀越道中双六』(2)

前回と今回では違うところがあります。前回の<大和郡山 誉田家城中の場>がなくなりました。唐木政右衛門(吉右衛門)が、誉田家に仕官が決まりながらわざと御前試合に負け、敵討ちのため誉田家を去る場面です。ここがなくなり、<相州鎌倉 円覚寺方丈の場><同 門外の場>が加わりました。

沢井股五郎(錦之助)は、和田行家(橘三郎)を殺し、<正宗>を奪おうとしましたが、<正宗>は行家の高弟の佐々木丹右衛門(又五郎)が預かっていてありませんでした。

<円覚寺の場>は、<正宗>と股五郎を交換する場で、<正宗>を渡し、股五郎を護送中、丹右衛門はだまし討ちにあってしまい、股五郎に逃げられます。心配になって駆けつけた志津馬(菊之助)と姉のお谷(雀右衛門)に丹右衛門は、お谷の夫・政右衛門に助太刀してもらい本懐をとげよと遺言するのです。

<円覚寺の場>のほうが、股五郎側の悪戸さが増し、政右衛門の助太刀がはっきりし、志津馬の仇討ちの意志決定の度合いも増しました。そもそも股五郎の図りごとにはまったのは志津馬で、<三州藤川 新関の場>では、お袖(米吉)をだまし、腹のみせずらい役となっていましたが、<円覚寺の場>があることで、それまでの話しに出てくるダメ男志津馬が、敵討ちをする志津馬として観客はのり移れました。志津馬役の菊之助さんにとっては、心おきなくお袖をだませます。

お谷の場合も父の死に続いて丹右衛門の言葉を聞いていますから、政右衛門と会って、もう少しで敵と会えると言われれば子供は寒さからのがれ家の中ですから素直に山田幸兵衛(歌六)の家からはなれられます。

敵討ちに入りやすい状況なのですが、結果的には前回よりも、縛られている人々がより鮮明にうちだされました。素直に敵討ちのためとわが子と離れたお谷のその後の嘆きが伝わります。何のためだったのであろうか。

もつれもつれて、敵討ちという世界に絡めとられていく人々。錦之助さんの股五郎は前回より悪が大きく強くなっていました。憎しみが増しますが、それなのに、敵討ちという道しか進む道のない不条理。あともどりの道がないのです。

莨(たばこ)の葉をきざむ政右衛門の吉右衛門さんの刃の音が、早くなったり、時にゆっくりと強い音になったりして、ここを乗り切ればといった迷いを消そうとするおもいが響きました。その想いが頂点に達した時、人はとんでもない行動に出るものなのだとおもいしらされました。

前回よりも、判りやすくなっているのに、深さが増していました。悲しいながらも、志津馬は周りに助けられながら本懐を遂げることができました。そういう意味では、志津馬という人は恵まれた若者です。

再演で一つの場がなくなって、一つの場が増えるというのを意識して観れたのは初めてでした。前上演も再演も効果を考えられ、思考を重ねられたのでしょう。役者さんも、役どころが深くなっているのも再演の見どころです。幸兵衛の女房・おつやの東蔵さんは幸兵衛とは違い、物事を理詰めでなく情で動くところに暖かさがあり、幸兵衛夫婦に味わいが加わりました。

又五郎さんは、丹右衛門と助平の二役の変化を上手く出されています。吉右衛門さんと歌六さんの師弟関係と敵の立場の複雑さが今回もダイナミックにしめられました。また雀右衛門さんの母としての哀しさが一層細やかで、それを受けとめる吉右衛門さんに口は出さない情がありました。歌六さんと雀右衛門さんは、歌舞伎座との掛け持ちだったのですね。役どころが違うので、それぞれを楽しませてもらいました。

米吉さんのお袖も可愛らしさだけではない、許婚の股五郎を振っての女の性(さが)が少しだけ匂いました。菊之助さんは今回の<円覚寺の場>で、筋の通った役に昇格したと思います。

新しい<円覚寺方丈の場>の床の間の達磨の絵の掛け軸が臨済宗の雰囲気を表していてよかったです。すぐ目につきました。そういうところにも、舞台装置の効果があらわれます。

映像は残りますが、舞台は消えてしまいます。しかし、その時舞台は息をしています。

 

 

歌舞伎座3月『引窓』『女五右衛門』『助六』

『双蝶々曲輪日記(ふたわちょうちょうくるわにっき)』は全九段あり八段目にあたるのが『引窓』です。場所は八幡の里とあり、現在の京阪本線の「八幡市駅」の近くに<引窓南邸跡>の石碑があるようです。引窓のある家が多かったということらしく、登場人物は架空ですから、芝居名のある建物のほうのモデルとしてとりあげているのです。それくらい、この<引窓>は人の心情と切り離せない重要な役目を担っています。

またここは石清水八幡宮に近い場所で、女房のお早がお供え物を持って出て来て二階の窓に飾ります。ススキがあり十五夜だなとわかりますが、明日は石清水八幡宮の放生会なのです。そういう季節の設定もなされているわけです。『日本橋』で橋からサザエをはなしてやりますが、あれは、3月3日の雛祭りです。年の瀬と思っていました『女殺油地獄』は、5月5日の端午の節句の節季(掛け金の決算期)なのだそうで、寒い時期と思って観ていたのが恥ずかしいです。

『引窓』のお早の出も季節感があり、魁春さんのいそいそとしてお供え物を飾る姿には幸せな様子がでています。今、この家の主人・南与兵衛は留守なのです。そこへ、姑・お幸(右之助)の実子・濡髪長五郎(彌十郎)が訪ねてきます。お幸は南家の後妻で、与兵衛は先妻の子で夫は亡くなっています。

与兵衛、お早、お幸は家族ではありながら義理の形で、そこへ実子の長五郎が人を殺して訪ねてくるのです。波風が立たないわけがありません。二階で長五郎を休ませます。

花道から、急ぎ足で与兵衛の幸四郎さんが帰ってきます。着衣を直したりどこか落ち着きません。帰った与兵衛を見て、お幸とお早は驚き喜びます。町人だった与兵衛が亡き父と同じ郷代官に取り立てられ、父の名前南方十次兵衛を継ぐこととなります。お幸は義理のなかゆえ亡き夫に対しても義理がたつと大喜びです。

客があるからと与兵衛に言われ女ふたりは奥へはいりますが、お里の魁春さんが侍姿の夫をほれぼれとして見つめつつ去るところに、廓勤めをしていた名残の色気があり、夫に対する情があります。

ところが出世した与兵衛は、長五郎を捕える側の人間となってしまいます。右之助さんは与兵衛と長五郎の間で揺れる母の心情を細やかに表現され、幸四郎さんはそんな母を実をもって受け止め、母と長五郎の絆を第一に考える腹を見せます。

長五郎の彌十郎さんは、昔のお里のことも知っていて、ここには自分とは違う幸せな世界があるとふっと寂しくなりますが、与兵衛が自分のために出世さえも投げ捨てようとしているのに感じ入り、与兵衛の手柄にと母に頼み、母もそうであったと自分を戒め長五郎を引窓の紐でしばります。

外で様子を見ていた与兵衛は、家に入り、長五郎の縄を切ります。ぱっと引窓があき、十五夜の月の明かりがこの家の人々を照らします。その明るさから、与兵衛は自分の役目は夜の間で、朝になったから自分の役目は終わったと告げるのです。

それは、既に出世を捨てて町人となった与兵衛の心根で、幸四郎さんは曇りのない月明かりのように言い切ります。寸法があった役者さんのほどよいかみ合わせの芝居となりました。

女五右衛門』は、石川五右衛門を傾城真砂路という女性に書き換えた『けいせい浜真砂』で、『女五右衛門』と呼ばれているわけです。その<南禅寺山門の場>で短いですが、あの大きな派手な山門の上に女方で傾城の藤十郎さんが負けることなく、飛んできた雁の口ばしから手紙をとって読み、下に巡礼姿の仁左衛門さんの久吉が現れ、久吉にぱっとかんざしを投げ、久吉はかんざしを柄杓で受け、傾城は手紙をなびかせお互いに見得を切ります。

役者さんの大きさで短時間にみせる、豪華で色鮮やかな心意気を見せ合う場面でした。

助六』は、曽我五郎が身をやつしている名前、花川戸の助六です。やつしているどころか超目立つ江戸の華そのものとなっているのですが。人気者の曽我五郎を江戸仕立てにかぶかせたらこうなるのではといった趣向たっぷりで、黒紋付で着流し風ながら顔には「むきみ」の荒事の隈取をしてしまっているという、まったくもってへんてこりんな助六さんです。そこがまたやんやと女にもてる。意休さんでなくても文句をつけたい御人は沢山いたことでしょう。

頭には紫の鉢巻。病気なのではありません。右側に結ぶと力強さをあらわすんだそうです。襟、袖、裾からのぞく赤。足袋が黄色。そして下駄です。背面には尺八。蛇の目傘を持っていまして、開いたり閉じたり回したり、格好良く傘も遊ばれます。開いてかざしたときの、中の支えの糸が彩りがまた綺麗なのです。四谷怪談の伊右衛門が作った傘でないことはたしかです。花道で、たっぷりやってくれるのが「出場」といわれる演技で踊りではないのです。

先ず口上がありまして、今回は右團次さんがされました。『助六』と團十郎家の関係、後ろで演奏してくれるのが河東節十寸見会御連中で、助六の「出場」だけをそれも成田屋のときだけ演奏してくれるのだそうです。その河東節が開曲して300年で、これを記念しての上演でもあるのです。右團次さん、ご自分の襲名興行での経験もあってか落ち着いた押さえどころのよい口上でした。

『助六』というとぱーっと華やかにぱーっと終わる感じですが、これが2時間という長さなんです。

吉原の仲ノ町の三浦屋前で、傾城が並び、傾城揚巻の雀右衛門さんが酔って登場し、意休相手に、助六が間夫だと言い切りたちさります。間夫は命ですから。

いよいよ助六の海老蔵さんの花道からの登場となり「出場」をたっぷり演じてから、下駄の音も高らかに本舞台にかかり、これでもかと傘をかざしいい形となります。江戸庶民は、自分が助六になって吉原に乗り込んだ気分で入り込んで観ていたのでしょう。そういう意味では、左團次さんは悪役としての威厳あり。敵役はよりにくらしくなくては、こちらの気分も盛りあがりません。

曽我十郎が甘酒屋にやつして菊五郎さんが登場。菊五郎さんの身についた動きと台詞の和事が、荒事と侠客の助六の海老蔵さんを空気のように自然に受けます。喧嘩の仕方を助六は教えるのですが、喧嘩を吹っかけて「こりゃまた何のこったい」と調子を変えてうそぶくところで、十二代目團十郎さんが浮かびます。真面目な方とお見受けしましたのでその落差にふんわりと笑いを誘われました。

当代の海老蔵さんは、年齢的にやんちゃな五郎だけでは物足りないし、かといって分別くさくなっても面白くないし、台詞、姿、形ともに急上昇途上ということにしておきます。

兄弟の母の秀太郎さんは、ふたりをかしこまらさせる威力があり、揚巻も嫁の気持ちでつとめられ、助六の手助けへと展開していきます。

とにかく、色々なタイプの役のかたが登場しますので書ききれなく、楽しみどころいっぱいの江戸の吉原風景です。男なら助六、女なら傾城に憧れるところでしょうが、いやいや、あの重い衣裳を着ての堂々の傾城には憧れる前にへたりまする。

 

 

歌舞伎座3月『明君行状記』『渡海屋・大物浦』『どんつく』

明君行状記(めいくんぎょうじょうき)』は、真山青果さんの作で、とらえどころがつかめなかったのです。名君といわれた岡山の城主池田光政の側に永く仕えている青地善左衛門が死罪にもあたる失態をしでかし、主君の本心が知りたいと裁きを待つのです。

光政の梅玉さんと善左衛門の亀三郎さんの弁舌さわやかなやりとりがお見事で、聞かせてくれるのです。結果的に、光政の機知が勝ちそれに対し善左衛門が感服して終わるというかたちなんですが、善左衛門が頑張っていたのは何なのか。

善左衛門は光政の本心が聞きたいのだと言うのです。光政は善左衛門の命を助けたいのが本心という建前を守ったのか。善左衛門は、法を破ってまで自分の命を守ってくれたことを本心としたのか。

光政からすれば、善左衛門の法に従う裁きをといって迫る善左衛門の考えに対して、そういう迫り方には応じられないという主君としてのプライドということなのであろうか。名君であろうとなかろうと、君主という者に本心というものなどないので、上手く治めるということだと言いたいのか。梅玉さんは、善左衛門の性格をよくしっていて、全くあいつはという大きさで情のある君主です。

善左衛門が主君の本心はなんてところに固執したところに、このはなしのややこしさの原因があり、光政の名お裁きとなるのですが、その終わり方がすっきりしなかったのはなんだったのでしょう。光政と善左衛門のやりとりに面白さがあったゆえにもう少し工夫が欲しかったとおもいます。

裁決の場の広い部屋の舞台は、光政の威光の大きさがうかがえる場面となり圧巻でした。そして台詞もそれに負けていなかったのですが。じれったいです。

渡海屋(とかいや)・大物浦(だいもつのうら)』は『義経千本桜』のなかでの話しで、知盛が碇(いかり)を身体に巻きつけて入水する<碇知盛(いかりとももり)>としてよく知られている演目です。

仁左衛門さんの碇知盛は初めて観ました。銀平の仁左衛門さんは海風を切るように颯爽と花道から現れ、知盛の亡霊としてはその知略さと威厳を保ち、戦さの立廻りでの知盛は悲壮感にみちていて、安徳帝が「恨むなよ」と幼くも自分の立場を理解するかのような言葉に、それこそ亡霊となってでもこの方をお守りしたいという最後の力を振り絞っての入水となりました。

船問屋渡海屋の主人である銀平が兄から詮議をかけられている義経を客として泊めているのですが、鎌倉側からの詮索の侍が来た時、義経に聴こえるように義経など知らぬ、ただ客をまもるのだといって自分を義経に信用させます。ここがはっきりしていました。

銀平の女房・お柳の時蔵さんも、自分の夫の天候の変化の読みの確かさを義経(梅玉)一行に伝え、信用させて送り出します。この世話から銀平は白装束の知盛となり、お柳は安徳帝の乳人・典侍の局(すけのつぼね)に、娘・お安(市川右近)は安徳帝という本来の姿となります。

安徳帝を支え海を見つめる時蔵さんの典侍の局の十二単の後ろ姿に涼やかな気品があり、その後平家側の破れていく状況を受けつつ安徳帝を諭すところも品位を崩しません。右近さんの安徳帝も最後までしっかりとそれぞれに目線をむけ幼いながらも優位を保ちます。

知盛が血だらけになり、突き刺さった矢を抜きその矢に付着した血を口に含んだのには驚きました。このしどころは初めてみました。それが一層悲惨さをかもしだし、これでもかという戦いぶりで、勇壮というよりも、戦さの虚しさと悲しさが伝わってきました。

知盛の最後を見届けた義経一行、どこかはかなさを残して真っ直ぐ花道をさります。弁慶(彌十郎)が一人ほら貝を吹き後を追います。

どんつく』の本題は『神楽諷雲井曲毬(かぐらうたくもいのきょくまり)』で、江戸の町の風俗を取り込んだ踊りです。十代目坂東三津五郎さんの三回忌追善狂言で子息の巳之助さんが、動きがにぶいドンな役どころのどんつくをつとめます。このどんつく太神楽の親方鶴太夫(松緑)、の荷持ちで田舎者です。太夫とどんつくが亀戸天神で踊っているのを見物しているのが、大工(菊五郎)、門札者(彦三郎)、芸者(時蔵)、田舎侍(團蔵)、太鼓持(彌十郎、秀調)、太鼓打(亀寿)、町娘(新悟)、子守(尾上右近)、若旦那(海老蔵)で、そこへ白酒売(魁春)が花道からあらわれます。

それぞれが、それぞれの持ち味で踊りを披露し、ときにはどんつくの指導で田舎踊りの総踊りとなり、その調子がどんどん早くなったりしてにぎやかな舞台となります。

どんつくドンドンと太鼓を叩いたり、太夫が籠毬をもっての踊り、どんつくがおかめの面をつけての踊りなど、亀戸天神の太鼓橋と満開の藤の花を背景に、皆さんに見守られての元気で愛嬌のある若いどんつくの追善狂言となりました。

 

シネマ歌舞伎『二人藤娘/日本振袖始』と公演記録映像『桜姫東文章』

東劇でシネマ歌舞伎『二人藤娘/日本振袖始』を観たのですが、はじめに玉三郎さんが、二つの演目の解説をしてくれまして、そのお話が興味深いものでした。

『日本振袖始(にほんふりそではじめ)』は日本神話をもとにしていて、イワナガヒメが大蛇となるのですが、このヒメは美貌ではなかったゆえに捨てられてしまい、そのことが原因で美しい女を消していくという行動にでるわけです。ただ変化(へんげ)するというのではなく、イワナガヒメにも、許しがたい悲しい怒りが渦巻いていたわけです。

郷土芸能にもよくあるように、お酒を飲ませて酔わせて退治してしまうという形式となりますが、歌舞伎の場合、ここに人の性(さが)が加えられているのではないでしょうか。そのあたりが、古典芸能のなかでも、歌舞伎は、心情がより具体的に垣間見られる芸能と言えると思えるのです。

なぜ振袖始なのかということも話されまして、イナタヒメが袖の下に太刀を隠しもつことと関連するらしく、あまり好きではない演目が、俄然興味がわきました。

『二人藤娘』では、お酒を酌み交わすところが、女でもあり男でもあり、女形が踊りの世界の中で女になったり、男になったりというちょっと不思議な関係も楽しめるのではというようなことを言われていました。女同士という感覚はありましたが、一人にとっては、相手の女性に対し想う男を想定して対峙するということで、それが女形というわけですから、二重、三重の芸の重なりがあるということなのでしょう。

たとえば幽霊などのばあい青白い人魂がでてきてその妖怪さを眼に映るようにしたりしますが、玉三郎さんの場合、独特の妖艶さを芸のかもしだす空気であらわそうとされているようにおもいます。それを若い役者さんにも容赦なく要求されます。

要求されなくなったら終わりとおもいます。それは、凄く有難いことだとおもいます。失敗しても玉三郎さんが受けてくれますから。

公演記録映像は、国立劇場の公演記録鑑賞会で、1962年(昭和42年)3月の公演『桜姫東文章』の上映でした。

上映されたのは、<江の島稚児ケ淵の場><桜谷草庵の場><岩淵庵室の場><山の宿町 権助住居の場>で古い映像のために途中で切れてしまうところもありましたが、これまた面白かったです。

守田勘弥さんが清玄で、玉三郎さんが白菊丸です。このお二人が恋仲で江の島で心中するわけです。玉三郎さん、こんなときがあったのだと観ながら、毎日、勘弥さんから駄目だしをだされて、帰ってからは正座してお話をきかれていたのであろうかと、そんなことまで頭の中の映像では写しだしていました。

桜姫が先代の雀右衛門さんで、私が観た雀右衛門さんとは違う面を観させていただき、雀右衛門さんがこんなに笑わせてくれるとは意外でした。私が雀右衛門さんを観たのは重い役どころばかりでしたので、お姫さまが、釣鐘権助というならず者に恋してしまい、苦界にまで身を沈めるという役どころを観て、驚きました。しかし、これが想像できなかったくらい面白いのです。あのしっとりした中にからっとしていて、あの苦しい心情を内に秘めての雀右衛門さんとは一味も二味も違うのです。新鮮でした。

私の観ていない雀右衛門さんが映像で埋めてくださいました。これらを突き抜けた雀右衛門さんを観ていたわけです。

釣鐘権助が坂東三津五郎(八代)さんで、実際には観たことのない八代目さんはこんな世話の感じも出されていたのかと、これまた楽しかったです。代々の三津五郎さんも芸を継承しつつ、それぞれの持ち味に到達するわけです。

昔はよかったとは言いたくありませんが、腰元の声の出し方の抑揚など、上手く言い表せませんが、これが歌舞伎独特の声の抑揚と言うものではないかと心地よく感じておりました。

ますます解らなくなっていきます。ただ、この奇想天外さは、さすが鶴屋南北さんです。それにしても、それを、こうも軽く客を乗せていくこの役者さんたちはなんなのであろうかと思ってしまいました。

今若手を引っ張る玉三郎さんも、かつては硬さのある演技で、シネマ歌舞伎を観たあとだったので時間の経過ということも感じ、こうした役者さんに囲まれて修業されていたのかという想いもありました。

近頃、退屈だった古い映像も面白いのです。ただ、鑑賞の軸がゆれて混乱させられてしまいますが。

 

旧東海道の鈴鹿峠越え 番外編の旅(2)

翌日は伊賀上野へ。伊賀鉄道の上野市駅前には、もちろん生誕地である芭蕉さんの銅像もありますが、『銀河鉄道999』のメーテルと鉄郎の像もあります。漫画家の松本零士さんが、「忍者列車」のデザインをしたからだそうで、電車には、メーテルの眼の部分が描かれています。今回友人にいわれて列車の全面の<メーテルの目>に気がつきました。乗り換えに気をとられていて、前回訪れた時は見ていませんでした。

友人は、メーテルのモデルは、松本零士さんの奥さんの漫画家の牧美也子さんであると言っていましたが、どうもシーボルトさんの孫娘の高子さんという説のほうが強いようです。どちらにせよ、切れ長の目の女性がお好きなのでしょう。

旧東海道を離れても、シーボルトさんの名前がでてきたり、そもそも芭蕉さんが関係していますからついてまわります。旧東海道では、芭蕉さんのお弟子のかたも旅の途中で亡くなりその土地のお寺に埋葬されたり、病気になったお弟子が先に進めないからと一人残り、養生してその土地に住み着いて俳句を広めたという方などの案内板もありました。旅の空の出来事です。

家康さんなどは、逃げたとか、かくまわれて助かったという箇所が何か所かあり、運がよいのか、助けたくなるような人物だったのか、その後の大御所である徳川家康さんからは、推し量れないようなところもあります。

今回は伊賀上野城の中を見学できる時間がありました。足が冷え切りましたが。藤堂高虎公の兜には驚きです。秀吉さんから賜った兜で、大きな扇風機の羽根のようなものが左右に伸びていて真っ黒で<唐冠形兜(とうかんなりかぶと)>とありました。安定感が悪そうで、戦いのための兜とは思えません。高虎さんの絵にもこの兜は脇に置かれて描かれていました。その後、この兜は高虎さんが自分の家臣にあたえてしまいます。ところが、この家臣が真面目な忠臣でかぶって戦さに出て、この兜のために命をおとすのです。罪つくりな兜です。それよりも秀吉さんが罪つくりなのか。いや高虎さんか。

<伊賀流忍者博物館>は説明を一度聞いていながら忘れていました。そして説明者が変わると、とらえどころも違ってくるものだとおもいました。忍者は情報を集めるのが仕事ですから、人を殺めるのではなく、見つかれば敵から身を隠し逃げて情報を守るわけです。家のカラクリもそのためにあります。普通カラクリは二箇所程度ですが、博物館の忍者屋敷は、それを一箇所に集めたものです。

回転する壁も、襲ってくるのが武士ですから、左手で回転するようになっています。武士は左手で刀を押さえていますから、右手で壁を押そうとする。その一瞬の時間差を使うわけです。人の習慣などの習性をよくとらえて、逃げる時間をつくり敏速に行動するわけです。上野天神宮で御朱印も頂けて無事伊賀上野の旅もおわりました。

鈴鹿峠越えの前の番外編の旅は、名古屋のひつまぶしです。その後をどうしようかと検討したのですが、欲を出さないように、御朱印も頂けるので<大須観音>にしました。旧東海道を歩きのうちは、御朱印のために時間調整はしませんので、そこからはずれたときは、組み込めれば調整しました。

大須観音の商店街が若返っていました。若い子向きのお店ができていて、若い人たちだらけです。二年前には閉館の話も出ていた「大須演芸場」も健在でした。コロッケさんも来られるようでポスターが貼ってありました。

そういえば、名古屋のさびれた地下街に若い人が飲食店を開き、活気が出始めたという様子をテレビでやっていました。

旧東海道で、シャッター街や、住んでいないため傷んだ家だけが残っていたりする風景も見てきましたので、若い感覚で人が集まってくるのを見れるのは明るい気分にされます。大須は寺町でもあるので、散策のあとのカフェも愉しめます。

浅草演芸ホールも随分ご無沙汰しています。友人が三遊亭白鳥さんの『任侠流山動物園』がもう一度ききたいといい内容を話してくれましたが、落語家さんの特定の噺をきく機会をつかまえるのはなかなか難しいのです。

 

旧東海道の鈴鹿峠越え 番外編の旅(1)

順調にいき関宿に早く到着したらと考えていた行きたい場所。もうこれで基本線にそれて勝手に行動できるとばかり、私のお気に入りの<油日神社>に行くことを友人に提案しました。

JR草津線の油日駅から歩いて30分弱のところにある神社で、ツアーで2度行き、いつか駅から歩いて行きたいと思っていたのです。神社に電話でお聴きすると、5時までなら御朱印も頂けるということで、油日駅に着いたら電話くださいとのことでした。関駅に着くと電車の出発時間まで30分あります。隣の道の駅に飛び込み遅い昼食をとり油日に向かいました。JR関西本線の柘植(つげ)から草津線に乗り換えです。

油日駅で駅のかたに神社までの道を教えてもらいました。踏切を渡ると立派な大きな赤い鳥居があります。長閑な田舎道をてくてくとあるきます。道なりにと言われたのですが途中で再度地元の方に尋ね、道に大きめの灯籠が並んでいるのがみえました。その先に油日神社があります。平地にあるシンプルな神社で、これぞという自己主張があるわけでなく、いつ行っても変わらぬ安心感で包んでくれる神社なのです。

楼門から回廊で囲まれていて、拝殿があって、その先に本殿があって、調和があり、重厚でありながら圧迫感がなく、それぞれの檜皮葺の屋根の反り具合にほど良いリズミカルさがあり、木造の建物の時間経過がじーんと伝わってきます。甲賀の総社で油の祖神だそうですが、土地になじんでいるその建物の作り出す空気に恋しているのです。

友人も気持ちよく御朱印を頂けて気に入ったようです。御朱印を頂くとき嫌な気分にさせられることもあるらしいのです。神社の前には神様用の水田がありました。

「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」 そんな気分の風景です。でも、今の子どもたちは何が起こるかわからないので、早く帰っていらっしゃいといわれ、子供たちだけでこんな風景は見れないのかもしれません。

駅について電車の時間を見たら30分以上あります。すると駅の方が<柘植>行きの時刻表はこっちですよと教えてくれて見ると5分後です。お礼を言って疑問に思ったことをお聞きしました。ここの駅のかたは私服なのです。油日駅は無人駅で「油日駅を守る会」の方々が駅の業務をされているのです。新しいレンタルの自転車が並んでいました。

ホームに出て掲示を見つけました。

レンタルサイクル(有料)「モデル観光スポットコース」(走行距離:11.1km 移動時間:約1時間」

①油日神社➡②櫟野寺➡③滝川城跡➡④大鳥神社➡⑤鹿深夢の森➡⑥くすり学習館➡①油日神社

出ました。<櫟野寺>。これで甲賀三大佛の道筋ができ、またまた油日神社も加わります。この企画は「油日駅を守る会」の方々で、地元ならではです。有難うございます。

柘植駅から油日駅までの間におせっかいもしてきました。車内放送の声小さく途切れて聴きずらいので、車中を通った車掌さんにつげました。マイクが違い調整していたようで、次の放送は聞きやすくなりました。油日駅で降りた時、大きなマルの合図をしました。

 

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

家康や家光も休息したという<金蔵院(こんぞういん)跡>は石垣だけが残り、<法安寺の庫裏(くり)玄関>は、坂下宿本陣の一つであった松屋の遺構を門の一部に再利用したものと書かれていましたが見ていません。

宿のおもかげはほとんどなく、<小竹屋脇本陣跡><梅屋本陣跡><大竹屋本陣跡><松屋本陣跡>と軒並み石碑のみで、本陣が三つもあり大きな宿場であったのがわかりますが、そのおもかげはほとんどなくてつーっと通過してしまいました。

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鈴鹿馬子唄会館>で坂下宿の概略を知ったのです。<坂下宿>は江戸から48番目の宿場で、鈴鹿峠の下にあることからこの名前がつき、旅籠の数は48あり、亀山が21、関が42ですから、それよりも多く、旅籠の割合は箱根に次ぐ高いものだったのです。大竹屋本陣の平面図面がありましたが一目で大きいとわかります。しかし今はかつての旅籠宿は夢の跡という静けさです。

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ここを歩いた人々の数は数えきれないほどだったでしょう。様々な人々の中にオランダ商館医師のシーボルトさんもいました。彼は江戸へ向かう途中でこの坂下で「オオサンショウウオ」を捕獲してオランダへ持ち帰り、今もオランダのライデン博物館に標本として残されているのだそうです。ここに「オオサンショウウオ」が生息していると知っていたのか、たまたま見つけたのでしょうかね。「オオサンショウウオ」も、見慣れない人だなあと姿を現したのか。

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井伏鱒二さんの『山椒魚』を思い出してしまいました。「君は何やってんだい。おいらなんかオランダまできてしまったよ!」「さらし魚になったのか~~」「・・・・」

東海道で芭蕉さんの次に歌を紹介されているのが西行さんですが、ここでの西行さんの歌です。「鈴鹿山 憂世をよそにふりすてて いかになり行く わが身なるらん」

では芭蕉さんも。「ほっしんの 初の越ゆる 鈴鹿山」。この時の自分の気持ちは芭蕉さんに近いです。反対方向からくると、西行さんの気持ちに近いかもしれません。憂世をすてるまではいきませんが、さあこれから上手く峠を越えられるであろうかと。

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町家が残っている沓掛の少ない家並みを通ります。<筆捨山>は絵師があまりの素晴らし山の景観に筆を捨てたといわれる山ですが、どれがその山なのか見える木々の山がそうであろうとしておきました。亀山市民文化部で出している案内図には、筆を捨てた絵師として狩野元信さんの名前がありました。鈴鹿峠を越え、坂下宿も過ぎ、思っていたよりも早く<関宿>の西追分の公園に到着です。

江戸側からこの公園に着いた時、ご夫婦が丁度鈴鹿方面から到着しまして、どうでしたかとご婦人に尋ねたんです。「そんなに大変じゃありません。」水口から土山までタクシーを使い、そこから歩かれたらしいのです。

ご主人のほうは、休憩所の東屋で座っていたのが、お疲れか横になってしまいました。ご主人のほうは、旧東海道歩きの途中から参加され、奥さんのほうは、中山道も歩いたということですから、歩きに関しては、奥さんのほうが上のようです。これから亀山宿まで行くとのことでした。

私たちの足は、ご主人と奥さんの間くらいの力と解釈しました。健脚の友人は、関宿から水口まで歩いています。私たちには無理。ここは途中の交通機関がないので自分たちの体力から、多少調子が悪くても一日かけてこれくらいとゆとりをもたせました。ただここはタクシーは呼べるでしょう。箱根は交通の便はいいですが、一部は車の入れない場所を歩きますから、鈴鹿峠との違いはその辺でしょうか。

私たちは、旧東海道の道を歩くというのが基本でしたが、ほかの友人は、開発されて面白くなさそうな道は電車にして、美味しい飲食店に出くわすと、次の出発には、そのお店を再度訪るという計画にしたりして変化させており、それぞれの楽しみ方をしています。

テレビでも「鉄道でたどる 東海道五十三次」という番組ををやっていまして、そこで、ひつまぶしを食べていて、それを見て友人は食べたくなったわけです。わたしは、<どまんなか袋井>の「たまごふわふわ」が食べたかったです。土鍋にだし汁を入れ、餅を入れて、メレンゲにした卵をふんわりとかけ火にかけるのです。作れますが、旅の途中で出くわすというのが楽しいです。特に寒いときには。江戸時代にこの「たまごふわふわ」があったというのですからおどろきです。

テレビ番組では、宿泊と食事が豪華で、次の日の私たちならゴマノハイにあった状態でしょう。番組とは反対に、三条大橋から八坂神社に向かったのですが、かき氷が食べたくて表示をみると高いのです。庶民の食べ物がなんでこんなに高いの。1000円以上のかき氷なんて食べないよ。八坂神社のそばにありました。抹茶かき氷。白玉とあずきも添えられて。みうらじゅんさんといとうせいこうさんの東京と京都のかき氷談義がふっと頭をかすめましたが、口と喉の触覚優先でした。夏になあ~ると思い出す~

悟りの薄い者は、憂世に即もどります。基本形から解放され番外編の旅のつづきとなりました。

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道歩きの<鈴鹿峠越え>ができて、一応旧東海道を歩いたことになります。

関宿から土山宿までの間に鈴鹿峠があります。すでに土山宿手前の田村神社前から土山宿、水口宿へと歩いているので、関宿から坂下宿、そこから鈴鹿峠を越え田村神社までとなるのですが、色々検討し、田村神社から関宿に向かう逆コースにしました。これが良かったのかどうかは反省点も残ります。旧東海道は日本橋(東京)から三条大橋(京都)に向かう方向性で表示してあり、その通りに歩くと何の問題もない道が反対方向からくると表示がなくて混乱するのです。戸塚の権太坂もそうでした。

鈴鹿まで行くなら友人を伊賀上野まで連れて行きたいのと、名古屋でひつまぶしが食べれなかったのが残念とのことでしたので、先に名古屋に寄りました。

鈴鹿峠越えは草津線の貴生川駅からバスで田村神社で下車そこから一日かけて三重の関宿に向かう計画としたのです。全てクリアできましたので、結果的には良しということになりました。

田村神社>前の国道一号線に近い鳥居を潜ると旧東海道があります。そこから出発です。歩き終わった友人からも判りやすい道で、ただ長いと言われていたのでそのつもりで歩きはじめます。

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広重さんの絵「土山 春の雨」の田村川に掛る橋を渡り大きな工場の間を通ります。このあたりは、<蟹坂古戦場跡>で伊勢の北畠具教が甲賀に侵入しようとしますが、山中城主・山中丹後守秀国がこれを阻止したとのことです。私のわかる歴史範ちゅうにはないことがらです。

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蟹が坂>があり、かつてここに罪を犯す大きな蟹が住んでいて祈り伏せられたという話しがあります。その蟹の甲羅を模した飴が田村神社前の<土山の道の駅>でも売っていました。

猪鼻村>の標識があり「土山宿」と「坂下宿」の間の立場(休憩所)があった場所で、赤穂浪士の大高源吾が旅の途中で詠んだ「いの花や早稲のもまるゝやまおろし」の句碑もありました。東海道はやはり赤穂浪士が時々痕跡を残し登場します。

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そしてここにと思ったのが<檪野観音道(大原道)>の表示板です。旧東海道から檪野寺への参詣道があったのです。さらに関宿に着いた後に、もう一度檪野寺への道を知ることになるのです。<鈴鹿馬子唄之碑><山中一里塚

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十楽寺>は今回の楽しむのひとつでした。このお寺の阿弥陀如来坐像が、甲賀三大佛の一つなのです。大池寺の釈迦如来坐像、檪野寺の薬師如来坐像、十楽寺の阿弥陀如来坐像。檪野寺の薬師如来坐像は、昨年の11月に東京国立博物館で拝観しています。三大佛の一つが現地で拝観でき、友人も簡単には行けないお寺で御朱印が頂けるとよろこんでいたのですが、その日は宗教上の集まりがあり留守との張り紙でした。残念。

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しかし、この時間差で助けてもらえたのです。大きな灯籠の<万人講大石灯籠>に着き屋根のある休憩場でほっとしたとたん雨となり、驚いたことにそれが雹(ひょう)になったのです。やはり<鈴鹿峠>、何が起こるかわからないと思いました。少し様子をみて時間がとられるようなら雨具で歩くしかないかなと覚悟しました。風で雹が吹き込み休憩の椅子もどんどん濡れていきます。

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準備していますと、次第に小ぶりになっていくようです。大事にならず大丈夫でした。十楽寺で時間をとっていたら途中で濡れることになったでしょう。十楽寺の阿弥陀如来様がお会いできなかったかわりに濡らせませんでしたよと言われたようでした。

さらにこの先で、雪がちらつき、前方の山のほうは吹雪いているように白くかすんでいましたが、それはこちらまではきませんでした。鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」の鈴鹿峠の急な天候の変化を身をもって体験しました。

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さてこれから鈴鹿峠越えとなるのですがこちらからは下りとなるので気分てきには楽です。ところが、降りたところで前の一号線を渡ったところに旧東海道があるはずなのですが覗いても道がないのです。おかしい。もしかして途中で違う道があったのかともどることにしました。<鏡岩>を天候不順なのでそこへの道は通り過ぎたのですが、ここまでもどったのならとそこへも寄ることにしました。<田村神社旧跡>とあり田村神社はかつてはこの峠にあったのです。

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<鏡岩>というのは、断層が生じる際に強力な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のようになるのだそうで、山賊がこの岩を磨いてそこに映った旅人をおそったという伝説の岩です。そういう伝説がのこるほど山賊がいたということでしょう。

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脇道もないのでまた<馬の水飲み場><芭蕉の句碑>を通り降りました。すると柵のようなものが眼につきました。下る階段があります。ここでもぐって国道1号線を渡るのです。

浅はかなおばちゃんもいるのですから、ちょっと表示しておいてくださいな。不思議なくらいそれが眼に入らず国道をふらふらしてしまいました。その下り階段を通り抜けた入口には東海道と表示があり、反対側から来れば難なく道なりに進めるようになっていました。

そしてもう一回やってしまったのが、無事<片山神社>に着き喜んで上まで上がりお詣りしてここでまた道を間違えまして国道へでてしまいもどることとなりました。そこも反対側からくればわかるように表示されていました。表示に頼って来ていた甘さでしょうか。

 

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そこからは、順調でした。<岩屋観音>と葛飾北斎さんの「諸国滝めぐり」にも描かれたという清滝は工事中なのかロープが張られていて行けそうもありません。そして坂下宿へと入ったのです。

 

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参考とした案内図