DVD『PARUCO歌舞伎 決闘!高田馬場』から(1)

PARUCO歌舞伎 決闘!高田馬場』は2006年、PARCO劇場で公演された、作・演出・三谷幸喜さんの新作歌舞伎である。忠臣蔵でも知られている堀部安兵衛が、中山安兵衛時代におじの助太刀のため、決闘の場・高田馬場へ走りに走った物語である。2時間ノンストップで演じられた熱い舞台である。

出演・市川染五郎(現幸四郎)、市川亀治郎(現猿之助)、中村勘太郎(現勘九郎)、市川高麗蔵、澤村宗之助、松本錦吾、坂東橘太郎、市村萬次郎、等

幸四郎さん、猿之助さん、勘九郎さんのお三方は襲名前であのころから現在に至るまで走り続けていますなと改めて感じさせられた。ここからは現お名前で記します。サービス精神満載のDVDセットで、本編140分、特典映像71分の二枚組である。観れなかった者にとってはお得感満載のDVDでありました。

長唄、常磐津、鳴り物の位置を舞台の後ろの上部に位置させている。これは三谷文楽『其礼成心中(それなりしんじゅう)』でもやっていてその録画映像を観たとき違和感があったが、歌舞伎のほうはそれが感じられなかった。三谷文楽のほうは2012年に公演されていて、映像で観たのが三谷文楽のほうがずーっと先になってしまったためかもしれない。

PARUCO歌舞伎 決闘!高田馬場』の舞台映像面白かったです。坂東妻三郎さんの映画『決闘高田の馬場』をイメージしてこの作品が作られたそうで、走る!走る!走る!ひたすら安兵衛は走る。まさかまさか、この映画を有料動画配信で観ることができたのです。これも嬉しかった。

映画での安兵衛は長屋の人々に好かれ、心にかけてくれる。歌舞伎のほうはさらに長屋の住人(大工の又八、にら蔵・おもん夫婦、洪庵先生、おウメ)と深くつながっている。そして、長屋の住人が知らなかった安兵衛の過去が小野寺右京によって知らされる。長屋の住人は命を懸けてさらに安兵衛を応援し、おじの決闘の場、高田の馬場へかけつけさせるのである。

幸四郎さん二役、猿之助さん三役、勘九郎さん二役で早変わりもあり、歌舞伎では考えられない、あるいは演劇ではありえない演技方法が炸裂していて観客を喜ばせる。

DVDでは三谷幸喜さんと幸四郎さんお二人で舞台映像でコメントもされている。それがまた役者さんの演技に対する考え方や人物像なども想像でき、稽古の様子が見えてきて笑わせてもらう。台本が途中までしかできていなくて稽古途中から役者さんに合わせてでき上っていったようである。猿之助さんははじめは一役だったのであるが、次の出番まで間がありすぎ、面白い人なのでさらに役を増やされる。

そのことにより、立ち役と女方という歌舞伎独特の形が歌舞伎をまだ観たことがない人にも体験できることとなる。さらに勘九郎さんも二役となる。舞台では勘九郎さんの見事なアドリブの動きがあり笑わせるが、猿之助さんにばっさり遮断され突っ込みがなくて残念そうに舞台からそでに去っていく。

衣装は役者さんがそれぞれ発注され、どうしてそんな衣装となるのか三谷さんでさえ驚かれていた。想像していた人物像とかなり違った人物になったようである。幸四郎さんの二役目の衣装もその例で、三谷さんが幸四郎さんにこの役については特典映像のほうで説明しておられる。そこから幸四郎さんが考えた役の人物の衣装がこれかということで、三谷さんと幸四郎さんの頭の中を見るようで楽しい。

三谷さんのコメント、質問、状況説明らの楽しいのは、歌舞伎のことはわからないので教えてもらうというスタンスである。初歩的なところから突っ込んでくれるのでかえって演劇と歌舞伎の違いや、歌舞伎役者さんの歌舞伎に向かう変人ぶりがみえて可笑しさが増すのである。

歌舞伎音楽についても舞台上の印象を話すとすぐ工夫してくれてその引き出しの多さに驚かれている。稽古の時、浄瑠璃から三味線、つけうちまで入れながら役者さんが一人で演じていて何をやってるのかわからなかったが音が入ってこうなるのかと納得されたようである。という感じで話されるのでその話をこちらも新鮮に受け取れて芝居が出来上がるまでの経過がわかるのである。

唄の詞に「歌舞伎座、国立なんのその、コクーン歌舞伎をはすにみて」とあって、勘三郎さんがコクーン歌舞伎をやっていたのである。勘九郎さんは勘三郎さんに台本を見せろとせまられたが絶対みせなかったそうで、舞台をこっそりみにきていたとか。勘三郎さんの様子が話だけで浮かびます。コクーン歌舞伎は『四谷怪談』でした。

幸四郎さんの渋谷の路上でのポスターの撮影から、テーマ音楽の亀染勘幸ヴァージョンのCD収録の様子もみられ、とにかくこれでもかというサービスぶりで、たっぷり堪能させていただきました。これだけ楽しませてもらえるDVDもそう多くはないとおもいます。

2006年で時間がたっているのにその熱さは今も同じですね。皆さんこの時期なので、もっと心のマグマはぐらぐらと燃えていることでしょう。

追記: 映画『決闘高田の馬場』(監督・マキノ正博、稲垣浩のクレジット)は1937年に公開された『血煙高田の馬場』を1952年に改題して51分に短くしたものです。

追記2: 人気者堀部安兵衛さんの八丁堀の碑関係はこちらでどうぞ。

『堀部安兵衛武庸之碑』 と細井広沢 – 中央区観光協会特派員ブログ (chuo-kanko.or.jp)

碑の地図はこちらで   PORTAL TOKYO 東京ガイド 中央区 堀部安兵衛武庸之碑

追記3: 高田馬場近い西早稲田にある碑の地図はこちらで。都電荒川線早稲田駅からが近いです。水稲荷神社内にあり詳しくは水稲荷神社で検索をどうぞ。

内田けんじ監督作品

映画『鍵泥棒のメソッド』(2012年)が気に入りました。人と人が入れ替わるのだが人格がいれかわるのではない。偶然に遭遇した出来事で一人の人間が記憶をなくした人に成りすますことで入れ替わるのである。

入れ替わってもその人の性格や生活に対する考え方は変わらないわけで、そこが俳優さんの腕のみせどころであり、観るほうのたのしみでもある。桜井武史(堺雅人)は銭湯に行く。そこで一人の客がせっけんで足をすべらせて思いっきり転倒して気を失ってしまう。そのどさくさに紛れて桜井はその客のロッカーのカギを自分のとすりかえてしまう。

病院に運ばれた客は、持ち物から桜井武史となる。彼は記憶喪失となってしまうのです。記憶喪失の男は山崎信一郎といい裏の生き方があり、コンドウと呼ばれるプロの殺し屋(香川照之)であった。

山崎は自分が桜井ということらしいので、桜井としての自分について記憶をよみがえらせられるように材料をさがしていく。山崎は非常に几帳面なところがあり一つ一つメモしていく。桜井はどうやら役者をめざしていたらしい。

山崎になりすました桜井は、いい加減な性格で、山崎が記憶がないのをいいことに山崎の様子を見にいったりして二人は一応顔見知りとなる。

もう一人自分の計画通りに生きる女性・長嶋香苗(広末涼子)が先に登場している。結婚相手もいないのに、この日が結婚式ときめる。そんな女性が絡むのであるから、可笑しいことにならないわけがない。

3人が上手く難局を乗りきる展開がテンポよく違和感なく運んでくれる。

映画『アフタースクール』(2008年)こちらはかなりややこしいのであらすじは省略する。ラストそうだったのかと種明かしとなる。ただこの作品はかなり先に観ていたのであるが内容が思い出せず観なおしたが、かなり進むまで思い出せなかった。堺雅人さん、大泉洋さん、佐々木蔵之介さん、常盤貴子さんなどがでるので俳優さんで決めた映画であった。裏をかかれる意外性が気に入ったがそこで止まっていた。

映画『鍵泥棒のメソッド』で、これは内田けんじ監督のほかの作品を観なくてはの流れとなった。

映画『運命じゃない人』(2005年)。レストランで一人の女性が座っていて、突然後ろ向きで前に座っていた男性が振り向いて一緒に食事しませんかと声をかける。そういうことありなのかなと思っていたら女性は了解する。えっー!ありえるの。そこから素人的な変な映画とおもったがこれがそれぞれの登場人物にとって必然的な結びつきとなっていた。

一つの流れがあり、その流れに幾人かの人々が乗っていた過程を順番にみせてくれる。この人はこういう状況からこの流れに乗ったのかということがわかるようになっている。そこが予想外の展開になっていく。全然関係なかった者同士が思惑に関係なくつながっていくプロセスが笑える。これはまずいことになっていくなと思わせられて打っちゃりをかけられる。笑いで見事に投げられます。

これと似た方法に、三谷幸喜さんの脚本であるテレビドラマ『オリエンタル急行殺人事件』(2015年)がある。この殺人事件は複数、それもかなり多くの人々が心を合わせ復讐を成功させる作品である。それを二部仕立てにして、二部目は、復讐殺人に参加する人々がどうやって心を合わせておう計画して成功させたのかを、ドラマ仕立てにしたのである。名探偵勝呂の謎解きだけではなく、そこまでの一人一人のプロセスを映像化したのである。これもなかなかのアイデアであった。ややこしさをすっきりさせてもらえた。蛇足とは思わせなかったのである。

一方映画『運命じゃない人』は友人関係はあるが心あわせていないのである。別々の生き方である。それも相手はこちらが考えているような人でなかったり、見抜いていたのにもっと上手であったりしていて、そのずれがまた見どころでさらに観る側の想像を裏切ってくれるのである。これが内田流の手なのである。その手が面白いのです。発想が新鮮。

内田けんじ監督の初の自主映画『WEEKEND BLUES ウィークエンド・ブルース 』(2001年)は荒削りであるが、これが内田ワールドの原点なのだと射止めた感じである。

男性が友人のアパートを友人の恋人と出て自動販売機で水を購入しているときから記憶を失ってしまう。気がつくと男性は路上で目を醒ます。どうしてここいるのかわからない。自分の住んでいる場所よりもかなり遠くに来てしまっている。

彼も自分の記憶を探し始める。この映画には内田けんじ監督も出演しています。

特典映像で内田けんじ監督がインタビューに答えておられる。この話を思いついたきっかけは、18歳の時バイト先の先輩がヤクザからもらった薬を飲んで気が付いたら2日たっていたという話から怖いとおもったのがきっかけだと。そのほか、友人たちとの撮影の様子も話されている。

これらの4作品は、脚本も内田けんじ監督です。楽しい時間でした。

追記: 『鍵泥棒のメソッド』をリメイクしたのが韓国映画『『LUCK-KEY/ラッキー』(2017年・イ・ゲビョク監督)。記憶喪失の男性が映画の撮影現場にいき、次第にアクションの演技がみとめられる。撮影になれないところは、映画『エキストロ』(2020年・村橋直樹監督)を思い出し笑えます。撮影現場とアクションを生かしたコメディとなっていて、それに対し『鍵泥棒のメソッド』のほうは寄せ木細工の感じでしょうか。

追記2: 『運命じゃない人』も韓国映画でリメイクされていました。『カップルズ  恋のから騒ぎ』(2011年・チョン・ヨンギ監督)。『運命じゃない人』を先に観ているとその手法が新鮮味に欠けてしまう。カップルを増やすことによってつながりがもっと多かったというサービス精神とテンポの良さにはリメイクへの挑戦は感じられます。

追記3: テレビアニメ『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件 ~史上最悪の2日間~』(2014年12月・監督・山本泰一郎)の脚本が内田けんじさんということでみました。映画『鍵泥棒のメソッド』の登場人物や同じ場面もでてきて、これは映画を観てからのほうが楽しめるとおもいます。名探偵コナンとの出会いには絶好の機会だったかもしれません。アイちゃんの活躍が見逃せません。そういえば海老蔵さんが参加するとかしたとかいう情報もかつてありました。その時はコナン君に興味ありませんでしたのでスルーでした。

追記4: 『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件』(2016年1月)の1年後にスペシャルとして放送されたのが『名探偵コナン コナンと海老蔵 歌舞伎十ハ番ミステリー』です。新橋演舞場での初春歌舞伎公演の演目・『七つ面』にちなんだミステリーになっています。公演で使われる高価な面が盗まれ殺人が起こります。コナン君は歌舞伎座に近い場所の地下に閉じ込められますが海老蔵さんも大活躍し無事事件は解決します。

七つ面』に関しては次のサイトが参考になると思います。

https://hikaku-lifestyle.com/geijutsu/nanatumen/

『更級日記』から「さらしなの里」へ(5)

京の都の自宅についた筆者はまだ落ち着かないのに母に早く物語をさがして下さいとたのみます。三条の宮に仕えていた親戚の人が宮からいただいたものを届けてくれたりします。

そしてついに田舎から来ていたおばを訪ねた時、『源氏物語』の50余巻とその他の物語もいただけたのです。うれしくてうれしくて『源氏物語』をながめる心地は「后の位を得たといっても、その喜びはこれほどではないでしょう。」と記しています。こもりっきりで読みふけります。物語の文章なども空で思い出せるほどです。

17、8歳で仏の道を学び仏へのおつとめをする娘さんたちもいるのに、筆者はそんな気はありません。年に一度でもよいから光源氏のような方に、通っていただき、浮舟の女君のように隠れて暮らし季節の変化に応じて文をいただけたらとひたすらおもっているのです。

そんなおり父が常陸介に任官となり、永久の別れかもとたいそう悲しくてつらい思いをします。父を想うさみしさの中お寺参りをするようになりますが、母が古風な人で怖がり、石山奈良の初瀬など遠くは連れて行ってはくれません。そうこうしているうちに待ちに待った父が無事帰京してくれました。どんなにうれしかったか。

父はそれを機会に退官して隠居し、母は尼となって別の部屋で暮らす生活となりました。筆者は人にすすめられ宮仕えをします。なんとか宮仕えに慣れようとしますが、親がどういうことからか退官させてしまいます。

そして今までの自分をかえりみて反省します。「光源氏ほどの人はこの世においでになったであろうか。薫大将が浮舟を宇治に隠し置かれたことなども、実際にはないのがこの世なのである。なんと気ちがいじみていたことか。」

そして宮からのお召しもあり再び時々客人のように別扱いで出仕するようになります。

そして結婚し、それからは幼い子の成長を願って石山へもでかけます。途中の逢坂の関では、かつての帰京の旅の時も同じ冬であったと思い出したりしています。

大嘗会の御禊(だいじょうえのごけい)があるというので見物のため人々が集まるなか、初瀬に筆者は向かいます。兄弟たちは一代に一度しかないことなのにその日に出かけるとはとあきれます。しかし夫(橘俊通)は「それぞれの考え方で、思うようにしたらいい」と言ってくれるのです。筆者も大変喜んでいますが、きちんと妻の意思を尊重してくれる人だったのにはちょっと意外で驚きです。

宇治では筆者は『源氏物語』のことを思い出し、風情のあるところで浮舟の女君はこういうところにいらしたのかと物語の世界を今は客観的に思い起こしています。それから東大寺石上神社のお詣りし、初瀬寺に籠ります。

その後も鞍馬石山初瀬太秦(うずまさ)に籠ったりしますが、年数もたち病がちになります。そんなとき願っていた夫の任官がきまります。予想していたのとは違い、父が何回も任ぜられた東国よりは近いところですが。(信濃守となるが場所は記していなくて暗示している)任国に長男を連れて一緒に出発しました。夫は8月27日に立ち、翌年の4月に無事帰京し、9月25日からわずらいだして、10月5日にははかなくも亡くなってしまうのです。

「夫を亡くした悲しい気もちというものは、この世にくらべるものがあろうとは思えません。」

そんな辛い日々の中で一つ頼みに思われることがありました。阿弥陀仏が夢にお立ちになられ「それでは、こんどは帰って、あとでお迎えにこよう」といわれたのです。この夢ばかりを後世の頼みとします。

たいそう暗い夜6番目にあたる甥が訪ねて来たのが珍しく思われて次の歌を口ずさみます。

月も出でで闇に暮れたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ (月も出ない闇の姨捨山にどうしてお前は今宵たづねてくれたのであろう)

この歌の姨捨から更級日記としたのではないかという説が有力のようです。信濃守であった夫ももういないということから「も出でで闇に暮れたる姨捨」のさらしなの里である場所と筆者の状況をも重ねているようにおもえます。姨捨さらしな筆者。この関係がくるくる循環してみえてきます。

筆者は物語に没頭し、信心にも熱心になりますが、なんであんなに物語にとらわれてもっと仏の道を学ばなかったのであろうかと後悔します。それが筆者の生き方だったのです。夫はそうした彼女を認めていたのでしょう。なげきつつも、「そうなんです、だから私は夫の死がこんなにも辛いんです」と言っているようにもとれるのです。

宮仕いの時のことで印象的な場面は、親しい友人達と話している時、知らない人がそっと話しかけてきます。月のない暗い夜で風情があるといいます。そして春秋の月の様子を語り合うのである。筆者が心にとめた一場面だったのでしょう。そして筆者はこうした話ををかわせる世界が心地よく感じていたことがわかります。今まで読んだ物語の蓄積した世界と現実が上手く重なった空間でもあります。

更級日記』は物語の読者の一つの形を現わしているともいえるでしょう。ひとりの読者という類型を日記という形式で論じてさえいるようにおもえる。読者という立場を無意識に表現してくれています。そこもこの作品の面白いところです。

更級日記』は藤原定家が書き写したため現在まで残されました。その本は今、天皇家の宝物として宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。

追記: 筆者は親戚の反対を押し切っても長谷寺にお詣りに出立します。石上神宮(いそのかみじんぐう)にも寄りますが、荒れ果てていたと記しています。その夜山辺(やまのべ)というところのお寺に宿泊。筆者は山の辺の道を使っていたのですね。山の辺の道を歩いた時を思い出し、筆者との距離がさらに近くなりました。

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追記2: さらしなの里からは健脚の松尾芭蕉さんに『更科紀行』で深川の芭蕉庵にもどってもらいます。

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8月11日に美濃の鵜沼を出立し木曽路を通り、さらしなの月をみるために8月15日には姨捨で宿泊。月を満喫して善光寺に詣り、江戸の深川芭蕉庵に着いたのが8月20日でした。

追記3 芭蕉庵ゆかりの地

芭蕉記念館芭蕉稲荷・芭蕉稲荷の上の青丸は芭蕉庵史跡展望庭園採荼庵跡(さいとあんあと)。翌年の元禄2年3月27日採荼庵から『奥の細道』への旅立ちとなるのです。

『更級日記』にて京の都へ(4)

平安時代に書かれた『更級日記』の筆者は、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)とされています。お父さんの菅原孝標は貴族の役人で、地方を治めるために任を受けて上総介(かずさのすけ)として赴任していました。娘も一緒についてきていてその任期が終わり京にもどることになります。任地は今の千葉県市原市付近とされ、娘は13才です。

任期が何年だったのかはわかりませんが、筆者は、あづま路のはてよりももっと奥で自分は世間しらずの田舎者と思っています。そんな娘心をなぐさめてくれたのが物語です。

特に都で流行っているという『源氏物語』に心ひかれています。周囲からその物語の一部を聞き知って、早く都に帰れて全部読めますように薬師仏にお祈りまでしています。光源氏にあこがれ、現代にも通じるような娘さんだったのです。

出立は9月3日で京都に入ったのが12月2日ですから約3ヶ月の旅です。長い旅です。

上総の国 *ふりかえると薬師様が見え人知れず泣く 

下総の国(いかた、ままの長者跡、くろとの浜、太井川のまつさとの渡し)*お産をした乳母と分れる

→ 武蔵の国(竹芝の坂、あすだ川の渡し)*筆者はあすだ川を業平が「いざこと問はむみやこどり」と詠んだすみだ川と勘違いしている 

→ 相模の国(にしとみ、唐土が原、足柄山)*やっとの思いで足柄山を越える 

→ 駿河の国(関山、横走の関、富士山、清見が関、田子の浦、大井川の渡し、富士川、ぬまじり)*ぬまじりをでてから筆者は患う 

→ 遠江の国(さやの中山、天竜川、浜名の橋、いのはな坂)*天竜川を渡る前数日滞在し筆者の病いおさまる 

→ 三河の国(高師の浜、八つ橋、二むらの山、宮地山、しかすがのわたり)*八つ橋は名ばかりで橋もなく見どころもないが宮地山は10月末で紅葉が残っていて美しかった

→ 尾張の国(鳴海の浦、墨俣の渡し)*鳴海の浦では潮が満ちないうちにと走る 

→ 美濃の国(野がみ、不破の関、あつみの山)*のがみでは雪がふる 

→ 近江の国(みつさかの山、犬上、神崎、野洲、くるもと、湖上になでしまと竹生島、勢多の橋、粟津)*勢多の橋は全部くずれていて渡るのに難渋 

→ 京の都に入る(逢坂の関)その夜、三条の宮(一条天皇の皇女修子内親王)のお邸の西にある家に到着。*家はあれていて深山の木のような樹木があり都の中とは思えない有様

平安時代と江戸時代の東海道の道筋はやはりちがっています。三カ月ですから病がおこることもありました。武蔵の国は今の東京をふくんでいますが「葦や萩のみが高く生えて、馬に乗って持った弓の上端部が見えぬまで、高く生い茂っていて、そんな中を分けていく」とあります。

富士山については次のように表現しています。

「普通の山とはすっかりちがった山の姿が、紺青(こんじょう)を塗ったようですのに、頂には消えるときもない雪が降り積もっておりますので、色の濃い衣に白い相(あこめ)を着たように見えており、山頂の少し平らになっている部分からは煙が立ちのぼっております。夕暮れには、火の燃え立っているのも見られます。」

たくさんの国々を通り過ぎてきたが、駿河の清見が関(きよみがせき)と逢坂の関(おうさかのせき)ほどいいところはないとも記しています。

美しい風景も通過しますが、江戸時代のように宿場があって宿屋に泊まるという状態ではなく仮小屋のときもあるようで、時には仮小屋が浮いてしまうくらい雨が降ったりもします。大変な旅であったのが想像出来ます。のちに父親が再び常陸介(ひたちのすけ)として任官しますが、その別れにもう逢えないのではないかと泣き崩れます。よくわかります。

追記: 清見が関は現在の清見寺(せいけんじ)あたりであったようです。江戸時代の興津宿(おきつじゅく)です。残念ながら更級日記の筆者が素晴らしいと言った風景ではありません。清見寺の総門先に東海道線が走りそれを渡って境内に入ります。見どころの多い寺院です。

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追記2: 逢坂の関の風景も史跡のみです。

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逢坂の関源氏物語関屋では空蝉(うつせみ)との再会の場でもある。常陸介となった夫と共に下った空蝉が戻る途中、光源氏石山寺に参詣に向かう途中、この逢坂の関で出会うのである。まだ筆者はその場面を知らないなら、源氏物語を手にして読んだとき、あの美しいところだと思ったことであろう。女性達が夢中になるだけのしかけは物語としてきちんと計算されている。

追記3: 誰が出会って逢坂と名前がついたのか気にかかります。写真を整理していて見つかりました。

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日本書紀』 親功皇后の将軍・武内宿禰(たけうちのすくね)がこの地で忍熊王(おしくまのみこ)とばったり出会ったことに由来とあります。筆者が京に戻った時はまだ関寺は建設途中でした。次に石山寺に向かうときには立派にでき上っていました。

映画『わが母の記』から『更級日記』(3)

映画『わが母の記』から井上靖さんの『姥捨』にたどり着いたがそこからどこへ行ったのか。

姥捨』の<私>は場所的に姥捨駅もその附近も知らなかった。母の言葉がきっかけで信州を旅する時は車窓から姥捨の風景をとらえるようになった。

「丘陵の中腹にある姥捨という小駅を通過する度に、そこから一望のもとに見降ろせる善光寺平(ぜんこうじだいら)や、その平原を蛇の腹のような冷たい光を見せながらその名の如く曲がりくねって流れている千曲川(ちくまがわ)を、他の場所の風景のように無心には眺めることができなかった。」

実際にはここに書かれている通りの風景であるが当時棚田が今のような姿であったかどうかはわからない。<私>が無心になれないのは、その場所には老いた母が座っていて、ある時には「自分が母を背負い、その附近をさまよい歩いている情景を眼に浮かべた。」ここは観月の場所でもあるが、<私>はそのことには殆ど関心をもたなかった。

<私>はその心持ちのまま、その後、志賀高原に行った帰りに戸倉温泉に泊まり、車で姥捨駅にむかいそこで降りて運転手に案内されて長楽寺にむかうのである。眼にする山々は紅葉していた。

道は自然に巨大な岩石の上に出た。捨てられた老婆が石になったとされる姥石の頂上である。そこで善光寺平の美しい秋の眺望を見下ろしている。そこから降りて長楽寺の庫裡(くり)の前にで声をかけるが返事がないので、観月堂で休む。運転手の「月より紅葉の方がよさそうですね」との言葉に、<私>は同意するのである。

道筋をいえばこんな感じなのである。私は暑い時期に姨捨駅(篠ノ井線)から長楽寺に歩いていったのであるが、そんな感じであったと思い出させてもらった。

姥捨駅の名前にひきつけられ、車窓から見たその風景の棚田を歩いてみたいと実行したのである。暑くて棚田を散策するのは風流とは言えなかった。その旅の時に手に入れた本があったのを思い出した。『地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』(大谷善邦著)である。長楽寺の後に行った「おばすて観光会館」で購入したのであろう。

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きちんと読んでいなかったのである。大変わかりやすくまとめられている本で奈良、平安のころから<さらしな>の地名が知られていてそのさらしの里(更級郡)の一部が<姨捨>なのだそうである。地元では冠着山(かむきりやま)と呼んでいる山が都人には姨捨山として知られていたらしいのです。

井上靖さんも棄老伝説は各地にあったがそれが一つに集約され、古代は小長谷山、中世は冠着山が姨捨山となったとしている。映画『わが母の記』の八重さんが月の名称なら捨てられてもいいといったように、美しい月の光に包まれた場所というのが棄老伝説の重要な要素であったのかもしれない。さらに雪に包まれて静かに眠る場所であることも。

地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』では<さらしな>についていろいろな角度から書かれていて『更級日記(さらしなにっき)』にも触れられていた。

「最初の約5分の1は、父親の任が解けて都に戻るまでの、今の東海道をたどる旅でのエピソードなどが紹介されています。」

東海道の旅。平安時代の東海道の旅を垣間見れるのである。即反応しました。手もとにある『更級日記』の現代語訳の本を開いたらその訳者が井上靖さんでした。ここまでひっぱてくれたのは井上靖さんのあやつりの糸だったのでしょうか。素敵なあやつり糸でした。

追記: 千曲市が昨年日本遺産になっていました。

「月の都 千曲」が令和2年度文化庁日本遺産に認定されました | 千曲市 (chikuma.lg.jp)

 追記2:

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映画『あすなろ物語』『わが母の記』(2)

映画『わが母の記』は、映画『あすなろ物語』の主人公が小説家になっているというつなぎで鑑賞しなおした。それぞれが独立した映画ではあるが。そこに井上靖さんの小説なども加えてみた。

映画『わが母の記』(2012年・原田眞人監督)も原作は井上靖さんである。小説家の伊上洪作(役所広司)が母・八重(樹木希林)に幼い頃捨てられたという想いの強さから逃れられないでいた。そのことを確かめたいがはっきりさせることができないでいた。そのうち母が認知症となり母にきちんと通じているかどうかわからないが、それとなく聞き出そうとする。おもいがけず母がそばにいない息子と心の中で交流していたことを知るのである。

映画『あすなろ物語』で鮎太が蔵で一緒に暮らすお婆さんが、映画『わが母の記』では、<土蔵のばあちゃん>とよばれていて、彼女が洪作の曾祖父のお妾さんであったことがあかされる。母・八重の戸籍を独立させ分家とし、八重の母とされたのである。戸籍上<土蔵のばあちゃん>は洪作の祖母となるわけである。<土蔵のばあちゃん>の立場は守られたのである。さらにその彼女のものとに八重の子供が預けられたのであるから彼女にとって洪作はかけがえのない存在であったと思われる。

母の八重は、洪作を迎えに行くがその時は洪作は<土蔵のばあちゃん>のおぬいばあさんとの生活に慣れ親しんでいたのであろう。八重は息子をおぬいに盗られたと思っている。洪作は迎えに来なかったとしている。八重と洪作のづれがそこにある。

洪作少年はおぬいさんのわけありの立場が子供心に何んとなくわかっていたであろう。本家には裏から入りその板の間で挨拶しそこから先へは絶対入らなかったそうである。洪作少年がおぬいさんと一緒に暮らすことで彼女の立場は実質的にも守られていたのである。

グウドル氏の手袋』(井上靖著)によると、作家が湯ヶ島の郷里で6歳から11歳まで一緒に暮らしていた女性はかいといい、60歳の声をきいていたとされる。彼女が曾祖父・潔と出会ったのは18、9歳の時東京で芸者に出ていた時である。潔が40歳で郷里に引っ込んで開業することになり曾祖父の第二夫人として姿をあらわした。その時彼女は26歳であった。それから30数年後、母屋は人に貸し小さな土蔵の二回で少年とおばあさんは住んだのである。

世間のかのさんに対する受けの悪さに反して少年はかのさんに毎晩抱かれて眠る生活に何も不満はなかった。ただ一つ自分の成績が悪いと小学校の教員室へ文句をつけに行くことをのぞけば。

映画『わが母の記』のなかで、八重が口ずさむ。「姥捨山(おばすてやま)は月の名称だってね。そんなところなら捨てられた老人も案外喜んでもいたかもしれない。」今そのおふれがあったら自分も喜んで行くという。洪作の妹たちは嫌味であると憤慨する。

洪作は姥捨山の絵本を伊豆に行く時母に貰ったのを思い出す。母を捨てるなんてと涙を流したのである。この姥捨山もこの映画の流れの中では大事な押さえどころでもある。この絵本は母と洪作の誰も探したことのない行くべき海峡をみつける道筋となる。

ここでは『姥捨』(井上靖著)に触れる。作者が母を捨てるという話を聴いて涙したのは五つか六つのときであった。その後、姥捨山説話の絵本「おばすて山」を叔母からもらったのが10か11歳の時である。

昔信濃の国に老人嫌いの国主がいて70歳になったら山に捨てるようにとおふれをだす。ある息子はどしても母を捨てることが出来ず床下に隠すのである。隣国から国主に使いが来る。次の三つの問題が解けなければ国を攻め亡ぼすと。この難問を解いたのが床下の老母であった。老母の知恵の大切さを知った国主は老人を尊ぶようになるのである。

後年大学生となり郷里の土蔵でその絵本をみつける。そこに描かれている月に照らされた母を背負う息子の姿は子供心にも強烈な印象を与えたことがわかるのである。母が70歳になったとき、映画の八重と同じようなこという。それから作者は信濃への旅の途中で姥捨駅を通過するときこの絵本の母子を母と自分に置き換えて想像の世界に入っていく。

その後作者は実際に戸倉温泉から車で姥捨駅にむかい姥捨の地に立つのである。

映画『あすなろ物語』は、会社からにらまれるほど撮影場所を吟味し時間をかけただけあって特に鮎太の小学生時代の自然がいい。映画『わが母の記』も伊豆の家の周辺が郷愁をさそう風景で八重が東京を嫌うので軽井沢の別荘に連れて行くという設定も丁寧である。

人間の心情と自然が上手く相乗効果を与えあって観る者をひきつけ良質の流れにのせてくれる作品である。