えんぴつで書く『奥の細道』から(12)

市振から出立した芭蕉は大垣まで様々な所に寄っています。それがオレンジ色の丸です。森敦さんの『われもまたおくの細道』から地図をお借りしました。

黒部四十八か瀬 → 那古の浦 → 卯の花山 → 倶利伽羅峠(くりからとおげ) → 金沢 → 小松 → 多田神社 → 那谷寺 → 山中温泉 → 全昌寺 → 吉崎の入江 → 汐越の松 → 天竜寺 → 永平寺 → 福井 → 敦賀 → 気比の明神 → 色の浜 → 本隆寺 → 大垣   

黒部四十八か瀬ではうんざりするほどの川を渡り那古の浦に着きます。古歌にある担籠(たご)の藤波にも行きたかったのですが土地の人に大変ですよと言われて卯の花山倶利伽羅を越えて金沢につきます。

芭蕉は死後義仲寺に自分を葬って欲しいと残したほど木曽義仲びいきです。倶利伽羅峠は『源平盛衰記』にも義仲の活躍が書かれています。牛の角に松明を結び付け数百頭の牛を先頭にして野営中の平家軍に奇襲をかけ勝利するのです。このことに芭蕉は一切触れていません。

金沢で悲しい知らせを受けます。再会を楽しみにしていた期待の若い弟子小杉一笑(いっしょう)が亡くなっていたのです。この悲しみの中、小松多田神社に参拝します。ここで、斎藤実盛が源義朝から拝領したという兜と直垂の錦の切れ端が納められていてそれを目にします。

実盛は最初源氏に仕えます。その時、幼少の木曽義仲を助けます。その後実盛は平家に仕え倶利伽羅峠で敗走する平家のために戦って篠原の戦いで討ち死にします。実盛の髪が黒く義仲はいぶかります。家臣が首を洗うと髪は真っ白で黒く染めていたのです。義仲は涙し、実盛の遺品を多田神社に奉納したのです。

太平洋側は義経、日本海側は義仲ということでしょうか。義経ゆかりの場所があってもぷっつり語らなくなり、義仲についてはここだけです。そしてここで愛弟子一笑の死と実盛の死を重ねて、それに涙する自分と義仲を重ねているように思われます。

実盛は歌舞伎では『実盛物語』、文楽では『源平布引滝』での<九郎助内の段>、能では『実盛』があります。興味惹かれるのが能で、実盛が亡くなって230年経ったころ加賀国篠原で遊行上人が実盛の幽霊を弔ったという話が巷をにぎわし、世阿弥がさっそくそれを曲にしたというのです。前シテが早くも幽霊となって表れるのだそうで異例なことです。世阿弥といえば超お堅い人と思っていましたが、作品のために様々な情報から制作していた一端がうかがえました。

山中温泉へ行く途中で那谷寺に寄り趣のある寺であったとし、山中温泉で湯につかり有馬温泉の効能に次ぐといわれているとしています。ここの宿主は久米之助と言いまだ小童(14歳)です。父が俳諧をたしなみ、その思い出を記しています。曾良がお腹の具合が悪く伊勢の縁者を頼って先に旅立ちます。

金沢から同行してくれた北枝と共に全昌寺に泊まり、吉崎から舟を出して汐越の松を見物、天竜寺の大夢和尚を訪ねます。ここで北枝と別れここから福井まで芭蕉一人旅となります。永平寺を詣で福井へ入り古い友の等栽をやっとのおもいで訪ねあてます。貧しい住まいで出てきた女性もわびしい感じで、主人はでかけているのでそちらへお尋ねくださいといわれ、等栽の細君らしいのです。古い物語で読んだような場面だと芭蕉は感じます。

等栽は再会を喜び旅の続きに同行してくれ敦賀に着きます。次の日は中秋の名月で、着いた夜は晴れていたのでその夜気比の明神へ参拝に出かけます。月の光で社前の白砂が霜のようにみえるのを見て<遊行の砂持ち>という故事について語ります。気比明神がお参りしやすいように草を刈り、土砂を運び整備したのが遊行上人だったのです。

次の日の中秋の名月は雨となります。さらに16日は晴れて、天屋なにがしという人がお酒や、お弁当ををそろえてくれて天屋の使用人たちと一緒に色の浜へ舟をだします。色の浜にはわずかに漁師の小屋と寂しげな法華寺の本隆寺があるばかりで夕暮れ時がさらに寂しさをかきたてます。

色の浜では西行の歌にある「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」の<ますほの小貝>を拾うのが目的でもあったのです。芭蕉が詠んだ句です。「波の間や小貝にまじる萩の塵」(波が引いたあとにますほの小貝が見え隠れしそこにまじって萩の花びらが散見している。面白い組み合わせである。)

私的には遊女との句の<萩の月>と<萩の塵>が呼応しているように感じます。そう思わせる芭蕉の構成力があちこちに散逸しています。そこで別れて新しいことに向かっていてもどこかで呼応していてさらにもっと古いものにも近づいていて考えさせられます。そしてさらに新しさに向かって進んでいきます。<不易流行>と通じるような気がします。

露通が敦賀へ迎えに来てくれて一緒に美濃の大垣に入ります。そこには伊勢から曾良も先についており、その他多くの弟子たちが顔をそろえてくれます。まるで蘇生した人に会うかのように喜んでくれます。芭蕉も満足だったでしょうが、旅の疲れもいやされぬうちに伊勢の遷宮を拝するためとまた舟にのるのでした。

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

・蛤が殻と身に分かれるように再会した人々とまた別れていくのです。秋も深くなったこの時期に。

ついに『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』も最終回となります。黛まどかさんと榎木孝明さんは、敦賀色浜(いろがはま)に行かれました。

敦賀では気比神社へ。芭蕉は月がキーワードの一つであり、中秋の名月をみるためにここに日にちを合わせています。敦賀は歌枕の地でもあるのです。十五夜前夜の月を<待宵(まつよい)の月>といい、雨の月でも、<雨月>とか<無月>という詞があるのでそうです。

気比神社

奥の細道』は柏木素龍によって清書を頼み、それが芭蕉の兄に渡り、さらに敦賀の西村家に代々嫁入り本として伝えられたそうで、森敦さんは西村家で見せてもらい、黛さんと榎木さんは敦賀市立博物館で見させてもらっています。それが『おくのほそ道』素龍清書本です。芭蕉が書いたと言われる表紙の短冊に書かれているのが<おくのほそ道>の仮名なのです。どうして森敦さんの本が『われもまたおくのほそ道』で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』なのかちょっと気にかかりましたがこれで納得しました。

さて黛さんと榎木さんは色浜に行きます。色浜は小さな漁港でここで<ますほの小貝>を拾われました。赤ちゃんの爪くらいのかすかにピンクいろの小貝です。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像で『奥の細道』を読み続けるための楽しい刺激をたくさんもらいました。

スケッチも俳句もしませんが、旅の途中で写真とは別にスケッチするならどこが良いかなとか、キーワードの単語を探したりすれば旅の新たな視点が見つかるかもしれません。

私的には日本海側の旅の写真が保存されないまま消滅。私的旅はおぼつかない記憶で頭の中で組み立てるしかありません。これで『奥の細道』は何とか終了です。『奥の細道』の関連本は数多くあります。それらを眼にしてもこれで少しはあそこの場所のあの事だなと気がつくことが出来ることでしょう。

追記: 旅行作家の山本鉱太郎さんの『奥の細道 なぞふしぎ旅 上下』は疑問を出しつつ答えを見つけていき、しっかり歩かれて写真も地図も豊富で『奥の細道』の貴重な参考書です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(11)

奥の細道』も、日本海に沿って歩き始めることになります。下の地図の市振の関の右横のの丸印は親知らずです。

私的な旅は芭蕉さんの旅とは違っていて、東京から佐渡へ、金沢へ、能登へと観光が目的で重なる部分が少なくなります。

ある方は酒田までを一部とし、酒田を立つときから二部に分けられるといわれていて、私の感覚もそれに近いです。森敦さんは酒田から越後路あとを起承転結の<>としています。

芭蕉は酒田が名残惜しく日を重ねますが、金沢までは130里ということで出立を決して再び歩き始めます。ところがしばらく記述がなく次に記されているのが、鼠の関(念珠の関)を越えて市振(いちふり)に着いたと書きます。ここまでの9日間は暑さと湿気に悩まされ病が起こって筆をとれなかったとしています。そして市振で二句載せています。

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

・今夜は七月六日七夕の前の夜であると思うといつもの夜と違うようにおもえる。

そして、「荒海や 佐渡に横たふ天の河」の雄大でいながら流人の島に対する繊細さも感じられる句がきます。おそらく出雲崎で眺めた佐渡と荒海に七夕の天の河を組み合わせたからでしょう。

市振りに着く前に難関の親知らずを通ってきています。そのことはこの後宿で寝るときに書いています。

「今日は親知らず、子知らず、犬戻(いぬもど)り、駒返(こまがえ)しなどいふ北国第一の難所をこえて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに」

<に>ときました。どうしたのでしょう。隣の部屋から若い女の話し声がしたのです。女は二人でどうやら新潟から来た遊女らしく、伊勢参りの途中らしいのです。年配の二人の男が同行してきたらしいのですが男たちは明日引き返すようです。自分たちの身の上を嘆き悲しむのを夢うつつに聞きつつ疲れている芭蕉は寝入ってしまいました。

次の朝、女性たちは女二人では先の旅が不安ですので芭蕉たちの後ろからついていかせてくださいと涙ながらに頼みます。芭蕉はあちらこちらと留まるので無理です。人の流れに任せていけば、神明の加護があり伊勢に導いてくれるでしょうといって先に出立してしまうのです。つめたい。途中までならとでも言ってあげればよいのにとおもいましたが芭蕉もしばらくは気がかりだったようです。

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

<萩と月>はもの悲しさを感じさせます。遊女とのことは曾良に話をしたら書き留めたとしていますが、曾良の日記には記されていないそうです。ゆとりのない自分の老いを改めて感じてあえて記したのかもしれません。それとも終盤の旅に色をそえたのでしょうか。 

黛まどかさんと榎木孝明さんが『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で出雲崎親不知市振を紹介してくれました。知らない地域でしたので大変参考になりました。

出雲崎は佐渡島から運ばれた金で栄えた街で、金の輸送にたずさわる廻船問屋が100軒近くあったそうです。街道筋には間口が狭く細長い妻入りと呼ばれる家並みが続いています。

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親知らずの海岸線

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今は海上を高速道路が通っています。

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親知らずを無事通過できると市振にて海道の松が迎えてくれます。

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芭蕉が市振で宿泊した桔梗屋の跡

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出雲崎といえば良寛さんです。良寛関連の施設が幾つかあるようです。良寛は芭蕉が亡くなって60数年後に誕生されていて、芭蕉を敬愛していた文章がのこっているようです。禅僧として芭蕉さんとは違う視点での句を残されました。

えんぴつで書く『奥の細道』から(10)

三山巡礼を終えた芭蕉は鶴岡城下に入ります。鶴岡と云えば藤沢周平さんの小説の世界とつながるのでしょうが、考えてみれば映画やテレビドラマは観ていましたが小説は読んでいないことに気がつきました。先に映像でみてしまって藤沢周平ワールドが固定化してしまっています。原作に触れるともっと細かな機微も見えてくるのかもしれません。

芭蕉はここで庄内藩士・長山重行の屋敷に迎えられ俳諧一巻を巻いています。次に舟で酒田に入ります。ここでは医者の家に逗留します。酒田は北前船の西廻り航路の要港として繁栄を極めていましたので文化や俳諧に通ずる人々も多かったようです。記されてはいませんが当然俳諧の会も催されました。

今も豪商の屋敷などが残されており、明治に建てられたお米の保管倉庫だった山居(さんきょ)倉庫など見どころが多いところですが、私的旅では『土門拳記念館』が目的で他を見学していません。酒田駅からバスで『土門拳記念館』へ行く途中で最上川を渡りました。大きな川でした。

西廻り航路ですが、これを開拓したのが河村瑞賢という人で1672年(寛文12年)のことでその17年後に芭蕉が酒田を訪れているのです。驚くべきにぎわいだったのではないでしょうか。石巻ではにぎわう港の様子を記していますがここでは何も書いていません。さらに石巻では宿を貸してくれる人も無かったとしています。こういう書き方は芭蕉の強調の文学性の特色でしょう。

芭蕉の旅は酒田から象潟へと進みます。芭蕉の気持ちは象潟に飛んでいます。しかし海岸沿いの道はとぎれとぎれで、さらに天候も悪く雨となりますが「雨も奇なり」と次の日に期待します。思っていた通り翌朝にはしっかり晴れて朝の光の中を舟で能因法師が三年閑居したという能因島に舟をつけるのです。そこから西行法師が詠んだ桜の古木が残っている蚶満寺(かんまんじ・かつては干満珠寺)に渡り、ここで松島同様に象潟をほめます。

さらに芭蕉は松島象潟を比較しています。松島では中国の洞庭湖や西湖とくらべても引けを取らない景色とし、美人に例えています。それを受けて記しているのでしょう。「松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」松島では句はできませんでしたが象潟では詠みます。

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

・美しい象潟である。雨の中の合歓(ねむ)の花は有名な中国の美女西施のようである。

・汐越しには鶴がいて、鶴の足が波のしぶきに濡れていて、涼しそうである。

西施は中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が呉王の夫差を惑わすため送り込んだ愁いをふくんだ美しい女性で、夫差は西施を溺愛し国がは傾むいてしまうのです。松島が笑顔の似合う人であれば、象潟は愁いさが惹きつけられる人ということなのでしょう。

さてその象潟も今は芭蕉さんが眺めた風景とは全く違うのです。1804年(文化元年)の大地震のため、湖底が隆起し一面陸地となってしまったのです。今は水田となり、水田のの中に多くの岩礁が点在し「九十九島」と呼ばれ、違った景観を楽しませてくれているのです。

ここからは『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんの旅のほうに移動します。

お二人は鶴岡では郷土料理を食します。その中に長山重行が歓待してくれて芭蕉が食したものがありました。民田(みんでん)なすびです。3センチになったら収穫し漬物にするなすびで芭蕉は句を残していました。

現在の象潟の図と画像

芭蕉のころの象潟の図。 能因島から蚶満寺(かんまんじ)へ。

現在の能因島

すべての島に名前がついていて、今はお散歩マップを手に散策できるようです。ここで黛さんは榎木さんの指導のもと苦手なスケッチを試みられました。的確なアドバイスで素敵な絵ができあがりました。旅の記録として俳句とかスケッチはよく観察するため、その時の風を五感で感じており深く残るそうです。

象潟は歌枕の地であり、芭蕉さんは存分に古の人々の世界に浸ったことでしょう。それらすべてを鳥海山は知っているわけです。そんな鳥海山をお二人は絵の中に描かれていました。

追記: 文楽の吉田蓑助さんが今月の国立文楽劇場公演での引退を発表されました。DVD『人形浄瑠璃文楽 名場面選集 ー国立文楽劇場の30年ー』を鑑賞しましたが、何体の人形に命を吹き込まれたのでしょうか。観客と同様に感謝している人形が静かにみつめていることでしょう。これからも文楽のためにアドバイスをお願いいたします。

えんぴつで書く『奥の細道』から映画『月山』と刀剣月山派

森敦さんの小説『月山』が映画になっていたのを知りました。ダメもとでと検索しましたらレンタルに入っていました。そして現代の刀剣月山派の紹介映像も借りれたのです。

小説『月山』では月山と出羽三山について次のように表現しています。

「じじつ、月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです。出羽三山と聞けば、そうした三つの山があると思っている向きもあるようだが、もっとも秘奥な奥の院とされる湯殿山のごときは、遠く望むと山があるかに見えながら、頂に近い大渓谷で山ではない。月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥陀三尊の座になぞらえたので、三山といっても月山ただ一つの山の謂いなのである。」

主人公がひと冬思索の場所として過ごす注連寺は湯殿山の裾にあるお寺である。かつて人々は鶴岡から十王峠を越え七五三掛(しめかけ)の村を通り大網を抜け湯殿山詣でをし、帰りには大網の大日坊か七五三掛の注連寺に泊まり、酒を飲み博打をして帰って行ったのである。

バスが通るようになって十王峠を越えるこの道を通る人々もいなくなり、雪が降り大網まで来ていたバスも通らなくなれば村の人々は十王峠を越えて鶴岡へ行く方が近いのでその道を使う。七五三掛の村は雪にすっぽりと閉ざされ雪に抱かれるようにして吹きを避けて暮らす。

主人公を迎えてくれた注連寺もいまでは傾いて、足の不自由なじさまが一人守っている。バスを降り寺に向かう時、何んとなく村人からうさん臭く思われるのはよそ者が入って来たからでもあるが、村では闇酒を造っていてかつて密告者がいてもめたことがあり税務署の人間とおもわれたようである。

主人公は二階の自分の寝屋があまりにも寒いので祈祷簿の和紙で蚊帳を作りそこで寝ることにする。村の女たちはその話を話題にし、カイコがやがて白い羽が生えるのは繭の中で天の夢を見るからだと言う。若い女はその中で寝て見たいという。主人公が二階に上がると女は和紙の蚊帳の中で眠っていた。

主人公は村の人々の過去と現在を知らされながら、ただ現実の事であるようなちがうような感覚で受け入れ、流されるにまかせ漂うように眺めている。そんな主人公を脅かすような力は加わらなかった。大網にバスが来て、春が訪れた。主人公の友人が自分を忘れずに訪ねてくれて、じさまは友人と一緒にこの村を去ることを勧めてくれる。

じさまが途中まで送ってくれ、もう来ることもないであろうからとよくみてくれという。ふり返るとそこには月山が臥した牛のような巨大な姿を見せていた。

月山が見えて、周囲から隔絶されて、ささやかな宗教的行事がある狭い村社会で実在の場所。その設定が現実であるようなないような雰囲気をかもしだしている。表現不可能な閉ざされた世界の情念やあきらめや欲望などが雪の舞う吹きの中でうごめいている。

映画ではこのあたりを人間関係を変えたりしてサラリとした感じで整理され、じさまがこの主人公を大きな人だとして一緒に一冬過ごせてよかったと涙する。よく心惑わされずに過ごせたということでもあるのだろうか。人間の煩悩をも淡々と表現している。主人公のこれまでの人生との重ね合わせもそれとなくあらわし、村人に対する主人公の感想や意見もなく、聞かされる村の話なども本当か噂かなども明らかにしない。主人公は自分がそれにかかわる資格がないようにもみえ、そのこと自体も置き去りにしている。

即身仏(ミイラ)についても主人公は何か考えさせられるところがあるようであるが何もない即身仏の厨子の中に、波で削り取られて丸くなった石を置く。ここで自分はとげとげしい感情を洗い落とされたということであろうか。この石は、注連寺に来る前に何を想ったのか主人公が手にしたものである。その時の想いを置いていけるようになった自分がいたということであろう。

村が雪に包まれていく映像は七五三掛の村や注連寺でロケをしているのでそのあたりを映像で観れたのでその地域に親近感が増した。よく撮られていた。とらえ方が様々にできる小説なので、映像では無駄をはぶいてじっとみつめて黙する主人公にしたようにおもえる。友人も出さずに、じさまの同級生の源助が十王峠まで送り、主人公が月山と村を眺めおろして終わるのである。

映画『月山』(1979年)監督・ 村野鐵太郎/脚本・高山由紀子/出演・河原崎次郎、滝田裕介、友里千賀子、稲葉義男、小林尚臣、井川比佐志、片桐夕子、菅井きん、河原崎長一郎、北林谷栄

刀剣の月山派は芭蕉の『奥の細道』の鍛冶小屋から知ったのですが、森敦さんは、月山派の二代目月山貞一さんと息子さんに会っていました。そのことは『われもまたおくのほそ道』で書かれています。

「月山家はもともと修験者で、月山麓北町八幡宮に、その顕彰碑があります。いまは大和三輪山の麓狭井を挟んで、山の辺の道あたりに、月山日本刀鍛錬道場を開いていられます。歴代天皇家の刀を打たれ、ご当主月山貞一さんは人間国宝です。」

DVD『現代月山伝 日本刀鍛錬の記録 百錬精鐵 刀匠 月山貞利 ~綾杉の系譜~ 普及版』の月山貞利さんは二代目月山貞一さんの息子さんです。

鎌倉時代に鬼王丸という刀鍛冶が月山の東のふもとで刀をきたえはじめ、月山派の祖といわれています。月山物の特徴は、刀全体にあらわれる鍛え肌で、大波がつらなったような模様、波の間に渦巻きのような模様があり、これを綾杉と呼ぶようになったのです。

月山一派は何度か一門の存続の危機にさらされます。出羽三山が武力を持たなくなると勢いを失います。再び注目を集めたのは幕末の時で、月山貞吉が大阪月山派の祖となりその系譜をつなぐのが現在の月山貞利さんと息子さんの貞伸さんです。

戦後のひところは鎌や包丁をつくっていた話を森敦さんは貞一さんから聞いたと記しています。

槌を打つことだけでできる模様の不思議さ。ひたすら打ち鍛えるのです。

刀工月山の歴史はこちらで → 月山日本刀鍛錬道場|刀工月山の歴史 (gassan.info)

出羽三山に関しては色々さがしましたがこのサイトが七五三掛や注連寺のある地図もあり位置関係がわかるとおもいます → 日本遺産 出羽三山 生まれかわりの旅 公式WEBサイト (nihonisan-dewasanzan.jp)

森敦さんは1983年(昭和58年)に放送されたNHK『おくのほそ道行』の撮影のため芭蕉の歩いた道を訪ねられています。71歳のときです。その後『われもまたおくのほそ道』を書かれたわけですが、月山へは八合目から二度とも登ることができませんでした。湯殿山の撮影のあと、注連寺に連れていかれました。寺の裏を上がるともう尾根になり月山になっていったのだそうです。森さんは何回も注連寺に来ていて知らなかったそうです。

「とにかく、ここをちょっと歩いてくれれば、月山に登ったように撮れると言われて、ちょっとだけならと歩きました。しかも、放映されたところを見ると、わたしがちゃんと月山らしいところを歩いているから不思議です。」と映像のマジックを明かしています。湯殿山では撮影秘話も記されています。

森敦さんは、『奥の細道』を<起・承・転・結>に分けられ、最初の部分を<序>としています。小説家ならではの発想ということでしょうか。ちょっとわたくしには手がおえませんので、森敦さんのご登場はここでお終いにさせていただき、こっそり考えることにします。

森敦さんが師とした小説家・横光利一さんの碑が芭蕉の生まれた伊賀の上野城にありました。突然の出現に驚きましたが。お母さんが伊賀市の出身で三重県立第三中学校(現三重県立上野高等学校)で学んでいたのです。しめは芭蕉の生誕地にもどりました。

えんぴつで書く『奥の細道』から(9)

出羽三山の羽黒山は現世で、月山は過去世、湯殿山は未来世と言われています。過去世は死の世界ということでそこから新たな未来世に生まれ変わるということのようです。浄化され再生されるということなのでしょう。

芭蕉は羽黒山から月山湯殿山へとたどり参詣し引き返しています。湯殿山神社の御神体については語ってはいけないという教えに従い「よりて、筆にとどめてしるさず。」としています。

月山に関しては厳しい道のりとなったようです。行者の白い装束を身にまとい強力の先導で雲か霧か分からないような状態の中を雪を踏みつつのぼります。「息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月あらわる。」

羽黒山に拝した私は、月山に行きたいとその後で吾妻小富士、鳥海山、月山のツアーに行きました。月山は八合目までバスで運んでもらい、月山の頂上まで登れない人には、月山中之宮に御田原神社が鎮座してまして、月山神社の遥拝所(ようはいじょ)でもあるのです。ここでお詣りをしまして、その後少し紅葉の弥陀ヶ原散策を楽しみました。

八合目がこんな感じですから頂上は濃い霧の中でしょうか。ここから登るのだとおもったのでしょうか登山口の道しるべを撮っていました。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんは案内をしてくれる方とともにここから登られたのだとおもいます。

黛さんは三度目だそうで、前の二回は天候不良で断念したようです。三回目で黛さんの願っていたことが叶いました。芭蕉は月山で笹を敷いて篠を枕にして眠り、次の日湯殿山に下ります。その途中で桜に出会うのです。今まで目にしていたであろう桜に触れなかったのはこの山中での桜を強調したかったと勝手に想像しています。その桜との出会いを願った黛さんは月山登山の途中で会えるのです。

「これ桜では!」とみつけられました。

黛さんは、月山登山の『奥の細道』は少し誇張があるのではと思っていたようですが体験してみて実際に大変であることを納得されてました。ただ芭蕉は雪月花をキーワードとしてもいたので、それがそろった月山でもあったそうです。

森敦さんの『月山』を読みました。『奥の細道』を読んでいなければこの本を開かなかったでしょう。

庄内平野をさまよっている主人公の男が、豪雪で行き倒れとなるところを助けられその時月の山と遭遇するのです。月山に導かれるように注連寺(ちゅうれんじ)にお世話になり、そこの村人たちと交流し、村の知られざる伝説のような話を聞き、その村を去るまでのひと冬が描かれています。

森敦さんやはり『奥の細道』に関する本を出しておられました。『われもまた おくのほそ道』。

芭蕉は月山から湯殿山に下る途中で鍛冶小屋について書いています。

「谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、ついに月山という銘を切って世に賞せらる。」

鍛冶小屋跡が地図に載っています → 志津(姥沢小屋裏)口コース【中級】 | 月山ビジターセンター (gassan.jp)

そこに鍛冶稲荷神社があるようです → 鍛冶稲荷神社 (yamagata-npo.jp)

小鍛冶が刀つくりなら大鍛冶は。製鉄業をあらわすのだそうです。<小鍛冶と狐>、やはり相性の合う最高の組み合わせです。

追記: 

<吾妻小富士・鳥海山・月山>の私的旅はこちらで → 2015年9月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

えんぴつで書く『奥の細道』から(8)

芭蕉は最上川を下るため大石田につきます。水運が盛んになったのは、関ヶ原の戦いの後、庄内地方を領有した最上義光が五百川峡(いもかわきょう)、碁点峡(ごてんきょう)、最上峡(もがみきょう)の難所を開削したことによるようです。

尾花沢の紅花もこの川から酒田へ運ばれ、酒田から北前船で京に行き、京で美しく布に染められたりお化粧となって戻ってきたのでしょう。

摘んだ紅花は紅餅と呼ばれるものに加工されます。その紅餅を並べるムシロを花筵(はなむしろ)といい、花笠音頭の踊り手がかぶる笠は花筵に並んでいる紅餅を表しているのだそうです。

体験したくなる映像です → 芸工大生が紅花摘んで紅餅作り – YouTube

大石田で細々と自分たちで俳諧をする人たちがいて、よき師がきてくれたと頼まれて連句一巻を巻きます。この時最初に詠んだのが<五月雨を あつめて涼し最上川>ですが、最上川を舟で下った時には<涼し>が<早し>に変っています。

⑦五月雨を 集めて早し最上川

奥の細道』では、大石田から舟に乗ったように書かれていますが、実際はここから移動して元合海(もとあいかい)からの舟下りのようです。これも<五月雨を 集めて早し最上川>の句をだけを載せて際立たせるためでしょうか。

「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などといふ恐ろしき難所あり。」そして酒田の海に入るのです。

最上川の源流 (mlit.go.jp) ←山形と福島の境

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のお二人も川下りをしています。黛まどかさんが、芭蕉が<凉し>から<早し>にしたのは、新しい土地を訪れたり、どこかに呼ばれたりしたときは、挨拶の句を詠み、句会に招かれた家に、最上川からの涼しい心地よい風が入ってきたのを詠われ、そのあと舟下りの実感が句を変えさせたのではとされています。

梅雨の時期だったので川の水量も多かったのでしょう。『奥の細道』は旅が終わってから時間をかけて書いていますから色々な脚色を探すのも一味違う旅の楽しさとなるでしょう。

黛さんと榎木さんは6回目に月山登山もされていまして最上川下りは、案内人の船頭さんと楽しく談笑されての短い舟下りでしたので少し付け加えます。

「白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって、舟危ふし。」

白糸の滝は『義経記』にも出てきていて、仙人堂は義経主従が奥州に逃れる時立ち寄ったともいわれ、家臣の常陸坊海尊は生き延びてここで修業し仙人になったとも伝えられています。

羽黒山についても少し。芭蕉は羽黒山で別当代会覚阿闍梨(べっとうだいえがくあじゃり)により厚いもてなしを受け俳諧の会もしています。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、月山と湯殿山は冬は雪のため閉ざされるのでいつでも拝観できるように羽黒山山頂に三神が合祀された「出羽三山神社」があります。

個人的旅についてはこちらで → 2014年7月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

さて次は月山です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(4)から歌舞伎座『小鍛冶』

えんぴつで書く『奥の細道』から(4)からなぜ歌舞伎座『小鍛冶』かといいますとえんぴつで書く『奥の細道』から(4)で能の『』の紹介をしました。『』が再度観たくなりました。その同じDVDに能の『小鍛冶』も録画されていまして観たわけです。

さらに歌舞伎の『小鍛冶』の録画もありました。そのことは2013年に記していました。

2013年11月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

そこで友人がダビングしてくれた狂言の『釣狐』と白頭の『小鍛冶」が観れなかったとあります。観たいという執念でしょうかそのDVDを処分せず残しておりました。ただのものぐさですが。ふっと思ったのです。友人の機器はブルーレイが観れるといっていました。もしかしてそれかな。今の機器はブルーレイが観れるので試してみたところ映ったのです。その嬉しさといったら。これはお狐様のお告げで歌舞伎座の澤瀉屋の『小鍛冶』を観るべきだと。

「芸能花舞台」で解説の利根川裕さんが澤瀉屋の『小鍛冶』は能に近いと言われていたのです。

というわけで四月歌舞伎座は一部の『小鍛冶』だけの観劇です。

舞台は紅葉の時期で、三條小鍛冶宗近(中車)が登場しますが衣装がはっきりした濃紺で舞台に映えます。中車さんは舞台人として板に身体がなじんでこられました。上手に赤い稲荷の鳥居。宗近が参拝に訪れたわけです。本来は文楽座の出演なのでそうですが、今回は竹本でした。

童子(猿之助)の登場です。登場場所はわらぼっちからです。狐は豊作の神様でもあります。稲を食べる野鼠を退治してくれるからです。だから稲荷神社でもあるわけです。紅葉は火とも重なります。

童子の出としても可愛らしくていいです。童子は手に稲穂を持っています。童子は過去の名剣についても語ります。語るといっても竹本の語りで身体表現をするのですが、動きの良い猿之助さんですので安心して鑑賞させてもらいました。

狂言の『釣狐』では人間に化けた狐が面白い動きをするので、この童子はどんな狐の動きをするのかなと注目していました。消える前に大胆に飛び跳ねました。

次は長唄で巫女(壱太)、宗近の弟子4人(笑三郎、笑也、猿弥、猿三郎)の5人による間狂言の踊りで本来は3人なのだそうですが今回は5人で楽しませてくれます。猿翁さんに厳しく訓練された役者さんだけに心配なしです。巫女は袖を朱の紐でまとめていて、その材質が柔らかくふわーっとしていて顔に映えて明るい巫女となりました。宗近の相槌がいないという話もしています。

童子は実は稲荷明神でした。稲荷明神(猿之助)は白頭でした。頭上には狐。歯を金にしてましたが、金泥の能面を意識されたのでしょうか。

次の場面がいよいよ刀つくりとなるのですが、そこに座っているだけでも風格をあらわしてくれるのが勅使橘道成の左團次さん。舞台の重みが増します。

再び竹本となり胡弓もはいっていました。宗近は稲荷明神の相槌を得て軽快につちを打ちます。リズミカルな音楽性も豊かな場面です。竹本の三味線のテゥルルルルルの音は初めて聞いたような気がしますが。

稲荷明神は途中で遊びに行くように場を離れますが、遊んでいる場合じゃないでしょといいたくなる余裕の体です。笑えました。時々狐の足もみせてくれて緊張感のなかにも可笑しみがあります。

無事、小狐丸の名刀もできあがって稲荷明神は揚揚と花道を飛ぶように去っていきます。それを見送る小鍛冶宗近と橘道成。これが澤瀉屋の『小鍛冶』なのだと鑑賞できて満足でした。

あとは赤頭と文楽の『小鍛冶』ですが、今月文楽は大阪で公演しているそうで何とか映像でも良いので観たいものです。それぞれに工夫が多い作品です。

画像が悪いですが能の童子と稲荷明神です。(能では稲荷明神の使者の狐としているようで、黒頭、白頭ではその狐の設定もちがっているようです。)

観世流の童子

観世流の黒頭の稲荷明神の使者

宝生流の童子

宝生流の白頭の稲荷明神の使者

十七歳の時の勘九郎さんの稲荷明神、隈取が狐を表しています。長唄の『小鍛冶』は宗近との相槌の場面だけでした。

(今月の『小鍛冶』の舞台の画像は制限がかかっておりますのでご自分で検索してみてください。)

能『』のDVD鑑賞は今回笑ってしまいました。老人が僧に近辺の名所を案内するのですが突然急いで去っていくのです。消えるのですが、それを観ていて、そうよね名所を案内してる場合じゃないですよ。六条の河原院に想いを馳せてもらわねばと思っていましたら、融の大臣が気品のある姿で現れたのです。内容は知っているのですが、こちらの雑念が通じたようで能がぐっと近くなりました。

狂言『釣狐』がこれまた今までにない面白さでした。狐が人間に化けて狐を罠にかける猟師にそれをやめさせようとするのですが、うまく化けたかどうか水に姿を映して確かめたりする動きが鋭角的であるのになんともユーモアにあふれています。歌舞伎舞踊『黒塚』で鬼婆が自分の影を振り返るのと雰囲気が似ていたり、ぴよんぴょんと軽く跳んだり急にすり足で動いたりと目が離せません。

さらに奥州の殺生石の話を持ち出して狐は死んでも妖力があるので恐ろしいのだと脅すのです。

この殺生石は芭蕉さんも寄っています。旅としては通り過ぎています。場所は日光と白河の間である那須温泉に殺生石はあります。

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芭蕉は日光のあと黒羽(くろばね)城下に入ります。那須野を越えて九尾の狐が埋められたと伝わる玉藻の前の古墳を訪れます。さらに那須神社の八幡宮へ。屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなどの功績をあげた那須与一ゆかりの八幡宮です。那須与一は義経について従軍しました。さらに雲巌寺に寄ったあと那須温泉に向かいそこで殺生石をみています。

玉藻の前という絶世の美人は鳥羽上皇と契りを結びますが、玉藻の前は妖力を持った狐の化身で鳥羽上皇は病に伏せてしまいます。陰陽師が対峙しますが玉藻の前は那須野に逃れさらに討伐の軍の矢に射られて死にます。ところが毒石となるのです。毒を発し近づく生き物を殺してしまうのです。

現在でも硫化水素や亜硫酸ガスなどの有毒ガスを発しているといわれる場所です。(危険な時は見学させないそうです)

釣狐』ではその話をして猟師を脅し罠を捨てさせるのです。さて狐と猟師はその後どうなるのでしょうか。

狂言の猿(靭猿・うつぼざる)から始まって狐(釣狐)に終わるという作品のひとつです。

そんなわけで芭蕉さんは様々な伝説の地も見学されているのです。それだけ情報もとりいれていたわけです。

追記: 今月の歌舞伎座の『小鍛冶』のお話を巫女で出演されている壱太郎さんがされています。解りやすくてお見事です。是非どうぞ。

「小鍛冶」の見どころを解説【四月大歌舞伎】 – YouTube

追記2: 三津五郎さんの『馬盗人』の録画を観ました。チャプリン顔負けです。シャボン玉売りの『玉屋』はご本人は柔らかくが難しいと言われていましたが、動きが綺麗で内容も解らないまま見惚れていました。そう簡単には処分できないです。

えんぴつで書く『奥の細道』から(7)

芭蕉は立石寺へは寄る予定ではありませんでしたが、鈴木清風にすすめられ訪れます。平泉の中尊寺が中尊寺の名前のお寺がないように、立石寺もその名のお寺はありません。比叡山延暦寺の別院として慈攪大師円仁により創建されました。山岳仏教の古刹で山寺とも称されています。

建立当時延暦寺から不滅の法灯を分けてもらいました。延暦寺が織田信長によって焼き討ちになり再建されたとき、この山寺から不滅の法灯を再び分けもどしてもらったそうです。油断することなく守っておられるわけですね。

電車なら仙山線の山寺駅でおります。初めて行った時もこの駅でおりました。駅からすぐなのだと嬉しかったのですが前に見える山寺を眺め、あそこまで登るのかとちょっとひきました。

芭蕉さんが立石寺に寄らなければこの句もできなかったわけです。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で榎木孝明さんが俳句に挑戦してまして、黛まどかさんの意見が興味深かったので先で紹介します。

詳しい立石寺の拝観図は下記で。

map (yamaderarisyakuji.info)

           

姥堂(うばどう)に座す奪衣婆で、あの世へ来た人の着ていた衣をはぎとります。ここで現世の汚れを払うということでもあるようです。ここから下が現世でここから登っていくにしたがって極楽に近づくのだそうです。

せみ塚(地図の赤丸。芭蕉の句をしたためた短冊を納めた記念碑。)で榎木孝明さんは俳句を二句披露されました

(1) 俳聖の登りし道にシャガの花

(2) 俳聖の登りし道に風薫る

私は(1)のシャガの花が視覚にうったえて良いなと思ったのですが、黛さんは、(1)では報告になってしまうので(2)の風薫るのほうがよいとされました。

風薫るのほうが空間が広がり芭蕉の時代ともつながっていけるというのです。なるほどです。さらに俳句は切れが大事で<俳聖の登りし道に>を<俳聖の登りし道や>に変えたほうが好いのではと言われます。

<閑かさや>のと同じです。切れ字を使うことによって一句を二つの世界に分けて、足し算の世界から、掛け算の世界に広げるのだそうです。切ることによってひろがる。

俳聖の登りし道や風薫る

確かに色々想像が広がります。芭蕉もこの道を登ったのだ。今自分も登っている。なんと心地よい風だろう。今まで気がつかなかった風の香りだなあ。今通り過ぎた人はどんな風を感じでいるのであろうか。ちょっと脱線しすぎでしょうか。ある方によりますと香りとは禅ではさとりととらえるのだそうです。そうするともっと深くなります。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

この句も芭蕉さんのすごい境地を現わしているのかもしれません。人によっては、蝉の声を死者の声と同化して解釈されるかたもおられます。

切れ字によって広がるという新しい事を気づかせてもらいました。芭蕉さん結構切れ字みうけられます。そのほかの切れ字にかなけりなどがあります。

五・七・五に季語も入れて報告ではなく広がりも持たせなければいけないのですか。型にはめて発するというのはなかなか難しい事ですね。

山寺は新しい発見があり、新しい境地を体験できる場所なのかもしれません。ただミーハー的に芭蕉のあの句の山寺に登ってきたというだけの旅人が約1名ここにいますが。

芭蕉さんに立石寺をすすめた鈴木清風さんはさすがです。

えんぴつで書く『奥の細道』から(6)

平泉を後にした芭蕉は、友人の鈴木清風の住む尾花沢にむかいます。途中尿前(しとまえ)の関できびしい取り調べを受けます。尿前の関は仙台藩と新庄藩の境で出羽街道の要衝でした。ここから中山峠越えをして堺田に入ります。

この中山峠越えは今は遊歩道になっているらしく、途中には義経にまつわる伝説が残る道でもあるようです。

おくのほそ道 散策マップ~出羽街道中山越 芭蕉の道を訪ねて~ (nakayamadaira.com)

堺田では封人の家(国境を守る役人の家)に泊めてもらいます。今もその家は解体修理して残っています。ここでの < 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと > の句に芭蕉は農家の小さな家に泊まったのだと想像していましたが、これは芭蕉の滑稽味を加味した句でした。泊まった家は代々庄屋もつとめており、馬の産地である堺田は母屋で馬を飼っていたのです。

ここからさらに難所である山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えますが主人に危険な道だからと屈強な若者を案内につけてくれます。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』でも、黛まどかさんと榎木孝明さんはボランティアの方に案内され山刀伐峠越えをされてます。

最上町からは頂上まで急な斜面で1時間。頂上から尾花沢市まではなだらかで2時間半。頂上までは二十七曲がりと呼ばれる曲がりくねった道です。頂上からは天気がよければ月山が見えるそうです。

難所の山刀伐峠を通らなくても他の道があったのですが芭蕉はこの道を選びました。尾花沢の鈴木清風の祖先が義経の家来で、高館から落ち延びるとき一族が山刀伐峠を通ったとしてその道を体験して清風に会いたかったのではとされています。

そんな想いで訪ねた芭蕉を清風は心からのもてなしをしたことでしょう。鈴木清風は紅花を商う豪商の俳人で江戸へ出たとき芭蕉と交流していたのです。芭蕉は彼のことを次のように記しています。

< かれは富める者なれども、志卑(こころざしいや)しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けを知りたれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。 >

清風宅は現存していないので古い商家を移築して「芭蕉・清風歴史資料館」としていま

芭蕉が到着したころは、紅花の咲いている季節でした。当時、芭蕉の故郷伊賀上野も紅花の産地だったそうで発見でした。芭蕉は花の咲く時期を知っていて行動しているようにも思えます。清風は紅花の摘む時期でもあり多忙のため芭蕉を「養泉寺」へ案内します。寺は高台にあり下は田園、遠方には鳥海山や月山が見える場所でした。尾花沢には十日間滞在します。

近隣からも俳諧好きの人々が訪れ、芭蕉を自宅に招待したりしています。清風は俳諧の会も主宰しています。俳諧は連句で、五・七・五の長句と七・七の短句を互いに詠みあってそれを三十六句連ねて一巻としていました。その最初の五・七・五が発句(ほっく)といわれ、それが独立して俳句となったのです。

連句の中では恋の句も詠む決まりがありそこで読んだ芭蕉の句が < まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花 > 口紅の原料でもある紅花から化粧道具を表しそこからお化粧する女性のおもかげをも連想させるという艶っぽい句となっています。

興味があるのは俳諧師としての芭蕉です。句がつながっていく中で、空気を換えたり増したり深めたりするセッションの芭蕉の腕前です。それを知りたいものだと思うのですがそこまでの能力がないのが残念です。

芭蕉は、尾花沢での心地よいもてなしとともに、この俳諧の席は俳諧師として嬉しかったことでしょう。生で人々の句作の臨場感を味わえ、さらに自分の句に対する反応も感じられたわけですから。

芭蕉の『奥の細道』の旅には、広くこの俳諧の楽しさを知ってもらい自分もそれを楽しみたいという意図もあったのではないかとおもわれます。

結果的に芭蕉の歩いた道は整備され一般の人も歩けるようになり、句碑もたくさんの建立しされ俳句に対する関心も衰えず続いています。

黛さんと榎木さんは銀山温泉にも寄られています。江戸時代幕府直轄の銀山として栄えましたが、芭蕉が旅をした1689年(元禄2年)に閉山となっています。その後温泉だけは残ったのです。今は大正ロマン漂う温泉地です。

赤倉温泉の旅館では、芭蕉が尾花沢でふるまわれた「奈良茶飯」を食べさせてくれるところもあるようです。江戸で流行っていたものだそうで江戸を離れた芭蕉のために作ってくれたのでしょう。その辺も心あたたまるもてなしでした。

大豆と栗の入った茶飯、黒豆、ぜんまいと糸こんにゃくの煮つけ、奈良漬けと梅干し、汁

黛まどかさんも食されていました。そのほか芭蕉が伊賀上野で催した月見の宴で出した献立の「月見の膳」を出すところもあるようです。ただこの放送は2007年ですので今も出されているかどうかは確かでありません。

下記の解説版は「芭蕉翁生家」にあったものです。(2015年)「芭蕉翁記念館」には芭蕉が自ら書いたという献立表があり、生家の方には、膳のレプリカがありました。品数が多かったです。それを地元の食材で再現した膳だそうです。そういうことも伊賀上野から山形まで飛んできていたのですね。