日本近代文学館 夏の文学教室 (3)

黒川創さん「漱石と『暗殺者たち』のあいだで」

日露戦争後1905年から10年位。夏目漱石の『坊ちゃん』が1906年。この頃東京は路面電車が走り、その後電燈がつく。日露戦争後、清国からの留学生が多い。科挙が廃止され日本での勉学を目指す。さらに辛亥革命の芽が出ていて逃亡してくる人々もいた。孫文や黄興など。黄興は映画でジャッキー・チェンが演じている。(映画『1911年』)日本では1911年「大逆事件」で、大逆事件の犠牲者として新宮の  大石誠之助などがいる。ただ一人死刑になった女性が管野スガである。伊藤博文の暗殺。伊藤博文は幕末と明治に入ってからの伊藤博文は違っている。

〔 『坊ちゃん』は、四国松山を勝手気ままに評するが、東京を認めているわけでもない。坊ちゃんの気に入る町が日本にあるかどうか。破天荒の坊ちゃんを主人公にした漱石さんのふつふつしている胸の内が分るような気がしてきた。「祝勝会で学校はお休みだ。」とあるが、これは日露戦争のことであろう。うらなりの送別会で、野だが「日清談判破裂して・・・と座敷中練りあるき出した。」とあり、「まるで気違いである。」としている。『坊ちゃん』の違う切り口がありそうである。

大石誠之助さんについては新宮の『佐藤春夫記念館』で知った。黄興の名前は初めて耳にした。孫文に関しての映画は『宗家の三姉妹』しか見ていないので『1911年』など観ておこう。大逆事件は政府の無謀な権力行使であった。〕

堀江敏幸さん「沈黙を迎えることについて」

仮面ライダーの変身ベルトは蓄電地で回って変身すると思っていたら、仮面ライダーの乗っているサイクロン号は原子力で動いていて、サイクロン号の走行する風力エネルギーで仮面ライダーは変身するのであると教えてくれる人がいて驚いた。自分の子供の頃から身近なところに原子力が組み込まれていたのである。1972年に帰国した横井正一さんへの戸惑い。

〔 仮面ライダーの件は、変身に科学的根拠など考えもしないし、特殊な能力ある者が変身すると思っていた。原子力って凄いんだよということしか考えていなかった頃の発想であろうか。<猿島>の展望広場に展望台があり、古いため中には入れないが、仮面ライダーの敵、ショッカーの初代基地として活躍している。建物の外観映像だけ使われ基地の中はセットでの映像であろう。横井さんは、どんな怒りや理不尽さを語られても良い立場の人であるが、大きな波風を立てることはなかった。〕

町田康さん「多甚古村とか」

井伏鱒二の『多甚古村』は日中戦争の頃の四国徳島を舞台にした、巡査が観察した人々の様子。巡査の観察と巡査の行動のづれが面白い。大阪弁なら忙しなくなるところが、徳島弁だと違って、その辺の井伏の方言の使い方によるリズム、さらに、あえて徳島弁でないイントネーションを使う井伏の手法。

〔 『多甚古村』はそんなに面白いのかと思わせてくれたので、これは読まねばと思った。本文から引用して読み上げてくれるのであるが、おそらく引用の文のあるページかメモされているのであろう。そのメモを見て、文庫本からのページを捜す。これがしばし時間がかかり、沈黙となり、次に探すときに「沈黙です。」と言われる。その町田さんの姿を眺めつつ、インデックスでも張って置けば良かったのではと思ったが、この時間の流れも井伏さんの『多甚古村』の時間と合うのかなと余計なことを考えた。そんなわけで、時間が立ってみると、井伏さんの思惑の原文の部分を忘れてしまった。読めば思い出すであろう。『多甚古村』の映画の代わりに『警察日記』の録画を観た。〕

山﨑佳代子さん「旅する言葉、異郷から母語で」

セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都ベオグラード在住。旧ユーゴスラビアに留学したが、留学するとは思わなかった時に印象に残っていた映画が1970年に観た『抵抗の詩』である。原題が『血まつりの童話』。ナチスによってセルビアで一日で何千人もの人が殺された事実をもとにした映画である。ドイツ人が一人死ねばその何倍もの人を殺すとして数が増えていった。大人だけではなく子供にまでおよぶ。日本語とセルビア語で詩を書いている。そして、難民の人々の聴き書きをしている。

〔 ユーゴスラビアという国が幾つかの国に分れてセルビアという国が出来たようであるが、セルビアという国がもっと昔から過酷な歴史を担ってきたらしいということである。山崎さんが説明してくれた、映画『抵抗の詩』に描かれたナチスによる子供達の時代は第二次大戦ではあるが、その他の時代や現代のセルビア周辺のことはどう理解すればよいのか正直私には判らない状態である。ただ、山崎さんは多民族の人々の中で、ご自分は日本語とセルビア語を交差させ、日常と詩を通して語り続けておられるということである。争いの中に置かれた人々の普遍的な共通となる問題ということであろう。〕

日本近代文学館 夏の文学教室 (2)

木内昇さん「日常から見た歴史的事象」

いろんな切り口から時代をみるべきだ。佐賀藩は新政府に加わらなかった。新政府の長州は国のお金は自分のお金と思っている。武家と町民の文化は違っていたが、明治になって一緒になり、勝海舟は、国が庶民文化を一緒くたにするのをいやがった。江戸時代の識字率の高さ。外国では絵なぞは貴族しか持っていなかったが、日本では庶民が浮世絵を楽しんでいた。『三四郎』で、広田先生は日本は「滅びるね」と言った。高杉晋作の日記。中原中也に一番絡まれたのが太宰治。

〔 切り口が早くて繋がっているのであるが、感覚的にしか捉えていない。『三四郎』に関しては、その部分を読み返した。三四郎は、広田先生を「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。」と思う。そして三四郎が日本もだんだん発展するでしょうというと、広田先生は「滅びるね」というのである。漱石の頭の中がそこにある。今までどういう事かわからなかったが、今という時代にやっと実感となる。事実のほどは知らぬが、<中原中也に絡まれる太宰治>が可笑しい。

横須賀の三笠桟橋から船で15分のところに<猿島>というのがあり、友人に誘われ暑い日に行った。そこで、今の政治家を2、3日食料無しで置き去りにしてはどうかという話がでた。ほんのわずかな時間、取り残され、閉ざされ、食糧もなく、さらに殺されるかもしれない状況の想像の中に自分をおく。倖せのことにそれはまだ、想像の世界でしかない。海辺では、家族や若い人がバーべキューを楽しんでいる。ペリーがこの島にペリーアイランドと命名したらしいが、「ダメ!もっと昔から<猿島>と名前があったのだから。」。記念艦「三笠」も見学。「勝ちすぎたんだよね。たまたま。」と友人がいう。日露戦争がたまたま勝ったのかどうか、私はきちんとその関係のものを読んでいないのである。勝ち過ぎたという気はする。しかし、戦争が始まって間違った始まりでも自分の国が勝つ事を願うであろう。勝って早く終わることを。そこが怖いのである。 〕

池内紀さん「森鴎外の「椋鳥通信」」

「スバル」に鴎外は「椋鳥通信」という海外の情報を伝えていた。無名の人が伝えているという形をとっていたが、皆、鴎外であるということを知っていた。横文字が多く読者は少なかったはずである。斎藤茂吉は読んでいた。キュリー夫人の不倫やトルストイの家出のことなども、伝えている。オーストリアの皇太子夫妻暗殺も伝え、その後戦乱となり情報も途絶えてしまう。この『椋鳥通信』の原語部分を訳し、ところどころに<コラム>をのせ、解かりやすいようにして構成し、上・中とまで出ました。

〔 鴎外さんという人は、公人として超多忙でありながら、本を訳したり、小説を書いたり、海外の情報まで選択して紹介までしていたとは、驚きである。それも、ゴシップ的ことまでもである。鴎外さんは、『舞姫』のごとく、若かりしころ大恋愛をして自分の立身出世も捨てようとした人であるから、ゴシップ的なことも、人間の一面として重要な部分としたのかもしれない。『舞姫』のエリスのモデルの方は、NHKの特集であったか、一応そうであろうとの確率の高さで探しあて、彼女は母方の遺産が入り生活を助けてくれ、新しい家族に恵まれ穏やかな最後を送ったと放送されたことがある。

<トルストイの家出>は、映画『終着駅 トルストイ最後の旅』が関係ありそうで、DVDが出番を待ってそばにある。文京区森鴎外記念館で『谷根千“寄り道”文学散歩』を展示していた時、鴎外の作品関係の文学散歩の地図があり、これも、涼しくなった時のために出番を待っている。

鴎外記念館に3本映像があり、その中で安野光雅さんが、無人島に一冊本を持っていくとしたら鴎外の『即興詩人』であり、山田風太郎さんも『即興詩人』と言っていたと語っている。これには驚いた。読んでいないから何とも言えないが、山田風太郎さんと鴎外さんとは意外な組み合わせである。〕

山田太一さん「きれぎれの追憶」

戦時下の様子を知る人が少なくなって、映像で描かれるものにも首をひねるものがある。たとえば、豆かすをご飯に混ぜて食べていて、「豆を選んで食べている」というセリフがある。大豆油を搾り出したあとの豆かすである。選んで食べるようなものではない。大岡昇平の『野火』の場面で、福田恒存と大岡昇平が論争をしている。、福田恒存は、大岡の表現に異議を唱えている。

〔 豆かすの話しも、福田さん大岡さん論争も、作家が書いていることが、そうは思わないであろうと、事実ではないとする考え方のそれぞれの立場を説明しているわけであるが、これは、浅田次郎さんのウソと関係する。そもそも小説は歴史的事実のみではなく、人間も書く。体験していない者としては、出来る限り事実と生活をも忠実に書きつつその中でどう人は考え感じたかを書かなくてはならないわけで、体験していなくても書かなくてはならない。ウソのないように。

体験した人が書いたものにも、違うという意見もあるわけで、戦争作品がどれだけ大変な作業であるかが分る。福田さんと大岡さんは仲が良かったそうであるから、あえて福田さんが自分の思ったことを伝えたのであろう。山田さんは、そいう福田さんの詠み方を、それは違うであろうとしていたが、『野火』を読んでる途中なので何とも言えない状況である。

戦争物を書くと言うのは本当に大変だと思ったのは、映画『一枚のハガキ』で、兵隊さんたちは、検閲の中にいる。家族への返信や近況報告を正直に書けないのである。もしかすると、残された手紙には本心は書かれていないかもしれない。そこにすでにウソがあるかもしれないのである。語れない死者の言葉を書くと言うことは重い仕事である。しかし、書かなければ論争の対象にもならず、無かったものとなる。考える必要もなくなる。

福田恒存さんと大岡昇平さんの論争文がないかと探していたら、高見順さんと大岡さんの対談があり個人的に興味を持った部分で締める。大岡さんの『野火』が最初に発表されたのは、宇野千代さんが『スタイル』という雑誌でもうけたお金で出した、季刊雑誌「文体」ということである。宇野さんのお気に入りの連中の雑誌ということで『野火』は注目されず、「展望」にのったら評判をとったので、大岡さんは「癪にさわったね。」と言われている。面白い。〕

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (1)

7月20日~25日までの6日間、文学に関係する19人(聞き手、対談者を含む)の方々の話しを聴いた。<話しを聴いた>としたが、きちんとそれぞれテーマがあって、そこに集約されていく講義・講演といえるがこれは内容をきちんと伝えないと誤解を要することにもなるので、受けた方は<話しを聴く>というかたちにして、そこからテーマと関係あり、無しの刺激や切り口の面白さから受けた受け手の自分勝手の次の行動や、個人的好みによって進んだ動きについて書く。

<行動>すると書くと格好よいが、DVDを見たり、多少本を読んだということに過ぎない。それと、<話し>のなかで、余談的ことに強く反応するテーマを逸脱する興味本位の楽しみ方もしているので聴いた話しから逸脱している可能性ありでもある。

52回の夏の文学教室自体に大きなテーマが設定されている。『「歴史」を描く、「歴史」を語る』である。<「文学」において、小説や日記など、さまざまなかたちで、「歴史」はつむがれてきました。文学者が見つめ、書いてきた「歴史」を、現在活躍中の作家の方々に大いに語っていただきます。>

水原紫苑さん「谷崎潤一郎の戯曲」

谷崎の戯曲『誕生』『象』『信西』『恐怖時代』『十五夜物語』『お国と五と平』『無明と愛染』『顔世』を紹介。読む戯曲としての面白さがあると。

〔 歌舞伎座での『恐怖時代』は、芝居の出来不出来は別として、こういう世界もあったのかと良い意味で驚いた。小説の『盲目物語』を芝居にしていて、玉三郎さんと勘三郎さんの舞台を思い出すが、もう一工夫して面白いものにして再演してほしい。 〕

藤田宜永さん「谷崎の探偵小説」

「柳湯の事件」「途上」「私」「白昼鬼語」から谷崎の語学力からしても、海外の探偵小説は相当読んでいてその手法を取り込んでいる。登場人物は暇とお金があり、散歩好きで、都会に位置している。

〔 この四作品はよんでいたので、皮膚感覚がもどってきた。同時に大正時代の都会の一角に立ち、周りの景色を眺めているようであった。ちょっとおどろおどろしく、江戸川乱歩の世界も思い起こす。山田風太郎さんの『戦中派復興日記』を読み終わったところで、生身の江戸川乱歩さんも登場する。乱歩さんは、勝手にその作品の世界と共に生身も大正から昭和の初めの作家としていたので、ここでまた、後ろにタイムスリップさせて時間のズレを修正する。 〕

島田雅彦さん「おとぼけの狡智」

谷崎は戦中も『細雪』という作品で戦争には何の関係もないことを事細かに細々と書いていた作家である。自分だけの世界に入っていた。作品として『春琴抄』に触れる。谷崎は語学もでき頭の良いひとなので、自分の性癖にあった文学としての昇華形式を海外の作品にすでに見つけていた。

〔 この機会だからと山口百恵さんと三浦友和さんコンビ映画『春琴抄』の録画を観ていた。よく判らぬ世界であるが、琴と三味線を弾く場面の曲に興味が湧き、佐助が眼を縫い針で突く場面の映像はドキドキした。22日にテレビNHKBSプレミアムで『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』が放送された。島田雅彦さんも参加されていた。国立劇場で12月19日に邦楽公演として『谷崎潤一郎ー文豪の聴いた音曲ー』がある。〕

中島京子さん「『小さいおうち』の資料たち」

『小さいおうち』は、昭和5年~昭和20年まで日中戦争から第二次世界大戦までの15年戦争時代をかいている。その時代の空気、様子を知るために読んだ小説などを紹介。『細雪』(谷崎純一郎)、『十二月八日』(太宰治)、『女中のはなし』(永井荷風)、『女中の手紙』(林芙美子)、『たまの話』(吉屋信子)、『黒薔薇(くろしょうび)』(吉屋信子)、『幻の朱い実』(石井桃子)、『欲しがりません勝つまでは』(田辺聖子)、『古川ロッパ昭和日記』ら、もっと沢山あるがそれをどういうときに参考にしていったか。

〔 こちらも録画『小さいおうち』を観ていたので、資料がどう使われたが想像できた。日清、日露戦争に勝ち、小さいおうちのオモチャ会社に勤めるご主人が、これで中国がオモチャの購買地域となりこれからじゃんじゃんオモチャが売れると張り切っている。簡単に中国との戦争に勝ち、オモチャが売れると思っている。疑うことのない庶民感覚である。ところが、戦争は長引き、ブリキから木のオモチャへと変わってくる。庶民感覚と少しづれた奥様を思うお手伝いのタキさんの不安と心配は一つの行動に出る。いつからが戦争かがわからない怖さ。 〕

和田竜さん「僕が読んできた歴史小説」

鵜飼哲夫さんが聞き役でトークの形である。名前の<竜(りょう)>は、母が坂本竜馬が好きでつけた。大河ドラマの北大路欣也さんの坂本竜馬のときである。好きな歴史小説は司馬遼太郎と海音寺潮五郎。『のぼうの城』は、『武将列伝』にも出てこないような人を書きたかった。今の漫画の人気は、何の努力もせずに備わっている何んとか一族の主人公とか、超能力を持って居る主人公ものが受ける。

〔 『村上海賊の娘』と『のぼうの城』が同じ作家であったとは。『のぼうの城』は観たいとは思わなかった。レンタルで『陰陽師』のそばにあっても無視であった。おふざけ過ぎよと思っていたのである。観たら八王子城と同じ時に秀吉に託され石田三成と聞いたこともない成田長親との対決である。おふざけと見えたのは、実際は戦を避けることを考えた人であった。建物一つにしても責任をだれもとらない国が、勇ましいことをいっても、だれが責任を持ってくれるのか。忍城は埼玉県行田市である。行かなくては。 〕

浅田次郎さん「戦争と文学」

戦争が終わってから6年たって生まれたのですから戦争のことは知らない。物心ついたときには、戦争の跡というのはほとんどなかった。傷痍軍人がところどころで見かけたが怖かった印象がある。戦前は日本は海洋王国ですから、戦中民間の船が多く沈んだ。そのことを書いたのが『終わらざる夏』。戦争を知らないからウソのないように調べて書く。疲れます。戦争文学は売れなくても書かなくてはならない。『戦争と文学』20巻の編纂をしたが、これらの作品が会話文が少なく地の文が圧倒的に多いのに驚いた。会話文が多いとストーリーがわからない。

〔 残すこと、伝えること、発掘すること等の重要性を思う。受ける方は読むことが重要であるが、今回は映像で短時間決戦である。浅田次郎さん原作の『日輪の遺産』、同じ佐々部清監督ということで横山秀夫さん原作の『出口のない海』を観る。『日輪の遺産』は思いがけない内容であった。こういう事があったとしたら若い人はどう行動するであろうか。純粋であればあるほど内なる純粋さに添い、死を選んでしまうのか。それにしても、大人たちはなぜもっと早く戦争を終わらせなかったのか。どれだけの若い命の青春が幕を下ろされてしまったことか。戦争映画として『死闘の伝説』『一枚のハガキ』も観る。歌舞伎役者さんたちが映像の中で予想を超えて伝えてくれた。浅田さんの、若い優秀な近代歴史の研究者が出てきているの言葉が希望を灯す。どう答えがでようと、きちんと検証されることが大事である。〕

 

志の輔らくご『牡丹灯籠』

恒例の下北沢・本多劇場での 志の輔らくご『牡丹灯籠』である。昨年は聴いていなくて、その前の2013年8月が、志の輔らくご『牡丹灯籠』との出会いである。

今回は、歌舞伎座での『牡丹灯籠』を観て次の日である。頭の中に歌舞伎の映像が鮮明に残っていての落語である。志の輔さんが、<歌舞伎座では玉三郎さん、香川照之さんの中車さん、海老蔵さんですからね。クオリティが高くて短いか、クオリティが低くて長いかですが。>といわれ、お客さんが笑われて<今のは笑い過ぎです>と。こちらは観て来たばかりなので、志の輔さん歌舞伎座へ行かれたのであろうかなどと良すぎる反応をしてしまった。

圓朝が15日かけて噺として30時間ぶんを口述筆記させたもので、それを、休憩を入れて2時間半でやってしまおうという大胆な試みである。その日は19時から始まって22時を10分ほどまわっていたが。

これを志の輔さんが始めたきっかけは、『牡丹灯籠』を読み始めたら知っている名前が中々出てこなくて、『牡丹灯籠』を何も知らなかったことに気が付いたからだそうである。私は、幽霊の話だくらいで、『牡丹灯籠』といえば文学座の杉村春子さんの知識はあっても観たことがなく、歌舞伎で初めて観たのである。そして、全貌は志の輔版『牡丹灯籠』で明らかになったのである。

新三郎をとり殺すお露の二度目の義理の母が、笹屋で伴蔵が入れ込んだお国で、お国はお露の父を情夫・源次郎とともに亡き者としようとするが、家来の考助に邪魔をされ二人で栗橋に逃げてきていたのである。考助はこの時、誤ってお露の父・平左衛門を殺してしまう。しかし、この平左衛門は、ひょんなことから考助の父を殺してしまっていた。孝助の母は離別されて再婚し、義理の娘がお国である。こうした人間関係をパネルを使い先ず説明してくれるわけである。

単なる解説といっても、そこは噺家・志の輔さん。興味がわくように、えっー、ほーう、まあ、わくわくさせるわけである。

お露と新三郎を合わせたのが医者の山本志丈で、ここから、噺は始まるのである。ここで、歌舞伎座の役者さんが頭の中に像を結ぶかというとそうではない。噺家は噺の中で人物像を作り上げていくわけで、しっかり、その人物像になっていく。お金を手にしたことによって伴蔵夫婦は、欲のほうが強くなってなっていき、しまいには邪魔者は消せとばかりに、伴蔵はお峰を殺してしまうのである。それも、金の海音如来を幸手の土手に埋めてあるからとお峰を誘いだすのである。どうやって手の入れた仏像であるかなど忘れている。金目のものとしてしか映っていないのである。

思うに、お露さんの乳母のお米さん幽霊も、百両持ってきたのが良くなかった。幽霊はお足がないはずなのに。お峰は、百両など持ってこれないと思って提案したのであるがそれが手に入ってしまう。伴蔵の悪への変化の流れが上手い。この伴蔵の関口屋の女中が変なことを口走り医者が呼ばれる。それが山本志丈である。このあたりの膨らませ方の語り口も面白い。

巡り巡っての展開を飽きさせず、それぞれの登場人物を語りわけ動かしていくのである。一方は破滅の道を、そして一方の考助は敵討ちの道をと進み目出度く成就されるのである。

と書きつつ、本当にこうだったかなと怪しくなっている。人相をみる有名な人も出て来て、新三郎の人相を観て死相を観た人はこの人で、とさらに細部を思い出しつつ次第に混乱してくる。

では、また来年お世話になることにする。パネルの名前を書いた磁石が持つ間は、続けられるそうであるから。それよりも強い味方は客の記憶力の低下かもしれない。

2013年のはこちらである。 志の輔さんの『牡丹燈籠』

日本近代文学館の夏の文学教室が始まり、聴きにいっているが、兎に角、作家というかたたちは、小説を書くために驚異的な時間を、資料を読むことに使われている。その刺激もあって、『牡丹灯籠』は、言文一致に先駆けるものとして、一度は目を通したほうがよさそうである。

 

 

歌舞伎座7月『一谷嫩軍記』『怪談 牡丹灯籠』

『一谷嫩軍記』<熊谷陣屋>。海老蔵さんの熊谷直実である。どこがどうと言えないのであるが、心が動かなかった。時々気持ちを込めようとするのか、中途半端なリアルさが加わったりする。腹と心とのアンバランスを要する役どころであるが、海老蔵さんの場合はまだまだ役者人生の時間があるので、鯛焼き君で良いと思う。

皮となる材料も中のあんこも決められた分量で、形よく、毎日毎日焼かれてみる。中が半焼きになっていなくて、外目の焼き具合も形よく、同じになって初めて欲をだし、材料の分量と焼き具合を工夫する。嫌になるまで焼かれてみる。これって結構必要なことなのではと思った次第である。近頃の海老蔵さんの器用さが気になるところである。

相模の芝雀さんと、藤の方の魁春さんの、母親としての息子に対する想いが、それぞれからの相乗効果も加わり、静かに底力を含んで伝わってくる。お二人のたたずまいが存在感を大きくし、その点でも、海老蔵さんの熊谷がお二人を抑える力の不足を感じてしまうのかもしれない。力強さと共に動きのゆとりみたいなものであろうか。ずしんとくるのに形は崩れることがなく、それに台詞が歌うのではなく乘っている状態そんな熊谷を期待していた。

義経が梅玉さんである。それに連なる若い四天王、巳之助さん、種之助さん、廣松さん、梅丸さんが、しっかりした視線で控えている。今回は梅丸さんに拍手である。弥陀六の左團次さんは安定しているので、この辺りからは気が抜けて、最後の熊谷の花道の引っ込みが、やはり物足りなかった。リアルさはいらない。無の悲しさでいい。

『怪談 牡丹灯籠』。玉三郎さんに嵌められた、中車さんと観客である。中車さんの台詞を生かすために仕組まれたのではないかと思わせる舞台であった。伴蔵の中車さんの台詞も動きも抑え気味である。そのことが反って中車さんの台詞術と演技力を際立たせ、玉三郎さんの女房お峰とのバランスと掛け合いの面白さを増した。

浪人であるが美男の萩原新三郎は旗本の娘・お露に一目惚れされ、お露は会えないため恋焦がれて亡くなってしまう。亡くなってもこの世に迷い出て乳母のお米と牡丹灯籠とともに新三郎宅を訪ね、新三郎と逢瀬を楽しむ。幽霊に取りつかれたわけである。新三郎は幽霊と気づき身を案じて、懐には金の海音如来を、家の周りにはお札を張り巡らす。幽霊は、百両を渡して、伴蔵に仏像とお札を一箇所だけはがさせる。そのことにより新三郎はあの世へ連れ去られてしまう。伴蔵夫婦が新三郎を殺したわけで、そうなると、江戸には居られず、栗橋に引っ越し、百両を元手に商売を始め上手くゆくのである。

伴蔵は幸手宿の笹屋に勤めるお国に入れ込み、江戸での長屋住まいのお六が訪ねてきて泊まる。お六は夜中に突然何かに憑りつかれたように、伴蔵がお札をはがして新三郎を殺したと言い始める。伴蔵はお六を殺し、お峰までが同じことを言い始め、お峰をも手をかけてしまう。

伴蔵は、お峰と二人で、幽霊の頼みをきいて二人で悪事を働いて共に生きて来たのに、お峰をないがしろにして一人になった事に恐怖と後悔の想いを抱きつつ花道を去る。中車さんはこのラストが違和感なく伴蔵を演じ運ばせた。

この花道の去り方と終わり方に驚いたが、そういう結末にするように、玉三郎さんと中車さんの伴蔵夫婦の掛け合いの台詞劇はながれていた。

原作では、幸手の土手で、伴蔵はお峰をだましうちにするのである。殺す気で殺すのであるが、今回は殺す気がなくて殺してしまう形となっている。初めて観る流れである。

幽霊にお札をはがすことを頼まれて恐怖の伴蔵に、百両要求すればあきらめるであろうと提案したのはお峰である。この辺りの庶民の幽霊に対する恐怖と貧乏に耐えている庶民の悲しくも可笑しい様子が浮き彫りにされる。栗橋でお国のことを問いただし、伴蔵に丸め込まれるお峰と伴蔵のやりとりなど上手い台詞劇である。

お峰が伴蔵とお国の仲をお酒で聞き出すのが馬子久蔵の海老蔵さんで、観客サービスたっぷりの楽しい一場面である。円朝役の猿之助さんも背中を丸め噺家円朝らしい雰囲気を出した。お国の春猿さんも、伴蔵をとりこにする色気があった。

萩原新三郎(九團次)、お六(歌女之丞)、お露(玉朗)、お米(吉弥)、お国(春猿)、山本志丈(市蔵)、定吉(弘太郎)

 

歌舞伎座7月『南総里見八犬伝』『与話情浮名横櫛』『蜘蛛絲梓弦』 

『南総里見八犬伝』の<芳流閣屋上の場>と<円山塚の場>である。<芳流閣屋上の場>は、犬塚信乃と犬飼現八がお互い八犬士として仲間であることを知らずに、芳流閣の屋根の上で相争うのである。歌舞伎では、舞台上の屋根が二人を乗せたまま後ろへどんでん返しとなり、激し立ち廻りとともに見せ場の一つである

犬飼現八の市川右近さんは、こういう動きは得意である。犬塚信乃の獅童さんは得意そうでいて意外と身体が硬いのであるが、動きつつの首から肩の線が良くなった。

<円山塚の場>は、八犬士が一同に会するのであるが、暗闇の想定で、暗闇の中を探りつつ動くだんまりの場である。修験者の犬山道節の梅玉さんが出と引っ込みに統率力を見せる。犬塚毛野の笑也さんの古風な妖艶さがいい。犬田小文吾の猿弥さんの相撲取りとしての動きが良い。犬川荘助に歌昇さん、犬江親兵衛に巳之助さん、犬村角太郎に種太郎さんで、市川右近さんと獅童さんが加わり一つ一つの動きを丁寧に扱い、退屈のすることないだんまりであった。

浜路の笑三郎さんと網干左母二郎の松江さんの殺しの場も形通りに納まった。弘太郎さんと梅丸さんとの場面も足並みそろって行儀よかった。梅丸さんの手の置き方からくる高貴さに驚いた。これ一つで違うのである。

『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』は、あまりにも有名なお富さんと与三郎の<見染め>と<源氏店>である。まさしく見染めである。玉三郎さんのお富が粋で、鼻緒が黒であった。与三郎の海老蔵さん、お富に見惚れて羽織を滑り落とすのであるが裏地には牡丹が描かれていた。ただ、羽織落としの段取りが見えてしまった。こちらの目が意地悪になったのであろうか。

<源氏店>での、お富の湯からの帰りの小さなぬか袋の赤と洗い髪の大きな横櫛が何んとも色香を立ち込めさせる。番頭藤八の猿弥さんはさりげなく居座るところがよい。蝙蝠安の獅童さんは、こういうクセのある役になると頭角を現す。それと対称的な落ちたにしてはまだ色男の美しが抜けない与三郎を引き立たせる。海老蔵さんは、切られ与三郎の赤い傷あとを見せつつ、拗ねた感じと怨みをたっぷりでありながら未練の残る様を上手く出した。和泉屋多左衛門の中車さんは玉三郎さんの、お富の兄としては貫禄不足であるが、おさまっていた。九團次さんの身体の上下のバランスがよくなった。

裏世界の闇に開いた華麗な風景となった。

『蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)』は分りやすく楽しい変化舞踏であった。猿之助さんの六変化の舞踊を楽しめ、終盤戦の海老蔵さんの平井保昌の押し戻しが入っての舞台は締まりきっちりと幕となった。

猿之助さんの女童からして、その特色が際立ち踊りも面白い。そして頼光を守る四天王の坂田金時(市川右近)と碓井貞光(獅童)をたぶらかし、薬売り、新造、座頭、傾城と踊り分けて行く。やはり猿之助さんの動きは楽しませてくれる。引っ込みや出も、澤瀉屋のケレンを上手く使い、そのことがかえって変化物の軽快さを増してくれる。四天王の渡辺綱の巳之助さんと卜部季武の喜猿さんがいい。このコンビの衣裳の色も素敵である。巳之助さんの下半身がしっかりしてきた。

なぜ海老蔵さんの平井保昌なる人物がでてくるのかよくわからないが、よくわからないのも歌舞伎の内である。衣裳ばかり褒めるようであるが、この衣装の色どりが綺麗である。モダンなさすが荒事の成田屋である。

猿之助さんの蜘蛛の糸も綺麗にまき散らされ、蜘蛛の精となっての子分の蜘蛛の数も少なく、品のある源頼光の門之助さんと四天王との立ち廻りを多くしたのが優雅さも加わり舞台を大きくした。

珍しく舞台写真を眺めたが、海老蔵さんが抜けていたので購入はやめた。七人写ったのでは一人があまりにも小さくなるのでまあ無理ではある。

 

 

無名塾『バリモア』(再演)

贅沢な時間と空間を貰ってしまった。『授業』も仲代劇堂での公演だったので、仲代達矢さんの演技を間近で観せてもらったが、今回は中央三列、脇二列の座席の設置で50席である。それも、好きな芝居の再演であるから、台詞と動きが、生き生きと蘇ると同時に、役者の演技が等身大で観れてしまう。

しかし、演じられているのだが、生身の役者と役のすき間がない。演じておられるのに、演じているということを意識させないのである。それだけ、仲代さんの一挙手一投足に見惚れていた。だからといって、ぼーっとしていたのではない。セリフ動き全てが観る側の力を抜いてくれて、苦笑、悲哀、懐旧、自愛、後悔、自信等のあらゆるバリモアの感情を網羅してくれて、それを素直に受け入れられるたのである。

バリモアは悲劇の役者と言えるかもしれないが、もっとバリモアに添って観ている位置にある。私たち観客は、バリモアからすれば、アルコール依存症のために見える幻覚のなかの実態のない亡霊なのかもしれない。バリモアはそれに向かって無防備に自分をさらけ出し語っているようである。

『リチャード三世』を演じるべく、プロンプターをつけて練習をしているが、プロンプターに聞かせているのか幻覚の相手に聞かせているのか判然としない。バリモアは、観客であり同時に幻覚の中の相手に語っているのであるから、こちらはバリモアの表情、仕草がよく判るが、プロンプターには判らない。半分以上が、幻覚の中のバリモアである。台詞を思い出すたびに、かつての自分がバリモアの中で出現し、それが、別れた四人の妻のこと、偉大なるバリモア一家のこと、共演した俳優のことなどと幻覚と妄想の中で現れ言葉にしてこちらに語り掛ける。

プロンプターはそれを辛抱強く聴き、時には、バリモアの言葉から芝居の台詞を探し、それは『ロミオとジュリエット』の台詞だと注意をし、『リチャード三世』の台詞を引き出そうとする。バリモアの頭の中は、幻覚への語りと芝居の台詞が混同しているのだが、それがまた、この芝居を面白く引っ張て行く要因にもなっている。そして、面白く引っ張ているのが、仲代さんの演じている力なのであるが、そこには無駄な力が無い。無い様に感じさせる。芝居の中の台本にない登場人物として、観客は座っている。

プロンプターは、邪魔にならないように、それでいて何んとかバリモアに今回の『リチャード三世』で復帰させたいかが分る。劇場と違い、バリモアに対するプロンプターの受け答えが密接感を伝えてくれる。実際に、プロンプターのフランク役の松崎謙二さんの声だけの仲代さんとのやり取りの間が、円滑に一段と面白くなっている。

映画にもなった、人も羨む芸能一家のバリモア一族にあっての、幼い頃からの圧迫感。登りつめていきながら、そのキャリアの土台を上手く使えないバリモア。四度の結婚。お酒に逃げるバリモア。老い。バリモアの一生の回顧でありながら、俳優あるいは役者の普遍的問題が詰まっているのである。仲代さんは、どこかで共感し、どこかで相違点を見つめられながら演じられているのであろうが、その辺の手の内もみせられない。

いつもの劇場とは違う少数の観客でありながら、使うエネルギーは同じである。いやもしかすると、観客が近いがゆえに、押さえるエネルギーも必要で、その均衡のバランスのエネルギーは相当なのかもしれない。

二回のカーテンコールの後、観客は誰も立つ人がいなく、自然に拍手が起こり、バックのジャズ音楽の終わるまで、芝居の余韻を楽しんだ。

松崎さんが出て来られて、何でもなくやっているように見えるかもしれませんが、ご本人は倒れてますので失礼しますと言われた。観客もそれは解っていた。共有出来た時間をゆっくりと味わっていたかったのである。

再演でもあるので、『リチャード三世』を読んでおこうかとも思ったが、中途半端に『リチャード三世』の台詞が引っかかっては、つまらないことになりそうで、止めておいた。正解だったと思う。

バリモアと仲代さんとが繋がっている『リチャード三世』いつかは読まなければ。

2014年11月公演の感想である。→ 無名塾 『バリモア』

作・ウィリアム・ルース/翻訳・演出・丹野郁弓

 

 

 

新橋演舞場 『阿弖流為(あてるい)』

染五郎さんが『アテルイ』を演じたときに観ている。坂上田村麻呂が堤真一さんである。アテルイと田村麻呂の立場を超えた男気も呼応といった感じで面白かった。

阿弖流為(染五郎)は蝦夷(えみし)で田村麻呂(勘九郎)は大和とそれぞれにと生きている土地が違う。大和朝廷は、蝦夷を大和に吸収し一国としようとしている。そのやり方に蝦夷の人々は納得できず抵抗する。その中心的人物が長の息子・阿弖流為なのであるが、そこが事情があるらしく紆余曲折である。この事情が、ずーっと阿弖流為の気持ちにしこりをのこすのである。

田村麻呂も、姉が帝を操る力をもっている巫女・御霊御前(萬次郎)で何かとそちらになびかせられ、叔父の藤原稀継(彌十郎)にも大和のために利用されるという足かせがある。

戦さとなっても、それぞれの生き方を貫くことで、お互いを認め合おうとする阿弖流為と田村麻呂二人の想いは一筋縄ではいかないのである。

阿弖流為の事情というのは、阿弖流為は恋人の鈴鹿(七之助)が人が入ってはいけない神の領域に入り、神の恐れから鈴鹿を救ってやるが、それが神を怒らせ、蝦夷の一族全体に神の災いがあるとして、二人は蝦夷を去る身となっていたのである。しかし、大和の横暴さに、阿弖流為は立烏帽子という盗賊になった鈴鹿と再び蝦夷のために戦うのである。しかし、神というものは、そう簡単には許さないのである。

そういうなかで、裏切者はいるもので、蝦夷であるのに懲りずに大和についたり、また戻ったりとする男が、蛮甲(亀蔵)である。このパートナーが熊子である。めす熊ちゃんである。熊がビラ配りなんぞしているので、この熊はいったい何と思って居たら、七之助さんが「ハーイ!」と手をあげて聞いてくれた。タイミング抜群である。熊子ちゃんは蛮甲のパートナーと判明。

何かの恩返しではなく、熊のままの姿で日蔭者ではない。愛する蛮甲のためなら火の中、水の中である。裏切りまくる蛮甲であるから、人間では心理が重くなる。そこが熊子ちゃんの存在たる由縁であろうか。人間の術策陰謀がまかりとおるので、このコンビなかなかである。終盤の熊子ちゃんの行動は驚きである。そのことによって、蛮甲はとんでもない役目を働き、蛮甲おとこでござるとなるのであるから。熊チョップも凄いが、それよりも蛮甲に対する愛の深さが凄い。

花道を二つ使い、阿弖流為と田村麻呂の別々の道をも現している。もう少し阿弖流為と田村麻呂との関係に捻じれがあってもよかったと思う。二人とも良い男の感じが物足りなさを残した。染五郎さんも勘九郎さんも動きはさすがで、何処かで殺陣の手順を勘違いしないであろうかと心配してしまうほどの動きの回数が多い。動くためか、染五郎さんの声が少々籠る時があるのが残念。

七之助さんの立烏帽子と鈴鹿の違いがいい。阿弖流為の内面の投射の役目をはたす。是非古典でもこの変化生かして見せて頂きたい。萬次郎さんの巫女は、独特の声できっちり大和をしきり、彌十郎さんの権力者としての野望とエゲツナサもよく出ていた。

パンク頭の亀蔵さんのノリで変わる生き方と熊子ちゃんに愛されたツキのよい蛮甲も合っていた。静かめの新吾さんがかえって印象を残す。

観て聴いて、頭の中で話しの積木を積んでいくので、細かく一人一人の役者さんを捉えていられなかったが、積木は崩れることなく満足いく完成度であった。

自分の運命を納得し、阿弖流為は田村麻呂に託すのである。

腕のペンライトが時間で光り出すのは、ねぶたの神の仕業であろうか。

作・中島かずき/演出・いのうえひでのり/出演・市川染五郎、中村勘九郎、中村七之助、坂東新吾、大谷廣太郎、市村橘太郎、澤村宗之助、片岡亀蔵、市村萬次郎、坂東彌十郎

 

 

国立劇場 『義経千本桜 <渡海屋の場><大物浦の場>』

国立劇場大劇場は6月に続いて7月も歌舞伎鑑賞教室である。

観た日は学生さんで満席状態であった。三階席の一番後ろで観ていて、この作品を歌舞伎初めての学生さんが三階席では辛いなと思った。

萬太郎さんが、「歌舞伎のみかた」の解説をされたが、この演目に関してはもっと詳しく説明してもよいと思った。実は何々であったという展開になるので、前と後の役の映像を使ってインプットさせて、その展開を納得ずくで楽しむという形をとっても意外性が損なわれることはないであろう。むしろその違いを楽しめたのではなかろうか。

菊之助さんが渡海屋銀平から知盛となる。それも、知盛は死んだと思われているのが、実は生きて源氏を討つ機会を狙っているという設定である。そのため知盛は亡霊知盛として源氏の前に出現するわけで、その辺はイヤホンガイドで説明しているのであろうが、三階席では顔が解からない。たとえば、菊之助さんという役者さんを知っている場合は扮装が変っても変わったことが分るのである。その辺が初めての観客にとって国立劇場の三階からではハンデとなってしまうと感じたのである。

平氏と源氏の説明もされたが、そこを、具体的に役として映像を使い、平氏と源氏に分けて説明してしまって、最後の戦いに挑む平氏の苦肉の策を三階席の観客にもっと感じてもらう工夫があって良いと思ったのである。

平家の船の灯りが消え、もうこれで終わりかと、安徳帝に仕える乳母の典侍(すけ)の局が帝に「お覚悟を」と海へ向かう。帝は、覚悟、覚悟と言うが、どこへ行くのかと尋ねる。このあたりは、学生さんも乗り出していた。海の下と言われて幼い帝は恐ろしいという。それはそうである。戦の犠牲となる幼子の悲哀は身分に関係なく人としての目の前の恐怖である。

ここからが、安徳帝が義経に助けられ知盛が入水する難解な部分である。ここは、客席を芝居の世界に取り込まなくてはいけない部分で、知盛の負ける武士の怨みもあり、諦めあり、戦の虚しさも渦巻くところである。渦巻くまでにいたらなかった。

口跡がよく、役者さんのほとんどのセリフがはっきりしていて聞きやすかった。それに加え身体のほうは、まだついて行けないところが見てとれた。

オペラグラスから見える役者さんの顔は皆さん凄くよくて、大役に押しつぶされないだけの真摯さで溢れていた。若い観客にも押しつぶされないだけの気概があったが、取り込むだけの力にはまだ時間が必要のようである。

学生さんたちも、何かよく判らなかったと思われたなら、もう一度資料を読み返して、あの解説していた人が義経で、義経は知盛のことを見破っていたのか。あのよくしゃべってた船を用意する女の人は、安徳帝の乳母で、夫が本当は夫ではなく知盛なんだ。二人の追い返されて魚のラップをやっていた侍も知盛側だったのか。とでも思い描いてくれることを期待したい。

『義経千本桜』とあるから、義経が主人公と思ったら違ってたなあ。などの疑問でもよい。疑問から少しだけ、ぐるっと周囲を見回して欲しい。よくわからないのも、経験の一歩である。

こちらはその連続である。その引っ掛かりに、時には、天女の羽衣がフワァ~と一瞬留まってくれることもあるのだから。

平家側 - 渡海屋銀平・実は知盛(菊之助)、銀平女房お柳・実は典侍の局(梅枝)、北条時政の家来と名乗るが実は知盛の家来・相模五郎(亀三郎)と入江丹蔵(尾上右近)、銀平の娘・実は安徳帝

源氏側 - 義経(萬太郎)、武蔵坊弁慶(菊市郎)

 

超個性派 ベティ・デイヴィス

ベティ・デイヴィスの映画は『八月の鯨』が先なのか、『イブの総て』が先なのかはっきりしないが、その二本は見ている。今回『痴人の愛』、『何がジェーンに起こったか』を見て、再度『イブの総て』を見た。強烈な個性である。

『痴人の愛』は、原作がサマセット・モームの『人間の絆』である。足の不自由な医学生・フィリップ(レスリー・ハワード)が、レストランのウエイトレス・ミルドレッド(ベティ・デイヴィス)に恋をするが、ミルドレッドは感情に任せた奔放な生き方をする。都合の良い時にフィリップに頼り、また自分の思うままの生活に戻り、身を崩し病死してしまう。フィリップのほうを見ると、翻弄されつつも、じっとミルドレッドを見つめ続ける『人間の絆』とも思える。

ベティ・デイヴィスはこの悪女役で認められる。大変特徴ある演技の仕方である。目線、身体のみような捻じれ加減、感情の爆発など演技派というよりも、その役に憑りつかれているようである。

もっと憑りつかれているのが『何がジェーンに起こったか』である。少女時代にスターであった妹のジェーン(ベティ・デイヴィス)と妹が売れなくなってから映画スターになった姉のブランチ(ジョーン・クロフォード)。立場が逆になった姉妹が、今は引退して二人で暮らしている。姉のブランチは、車の事故のため車いす生活で、妹のジェーンが面倒をみている。その二人の生活が、まさしく<ジェーンに何が起こったか>であって、異常な状態となっていくのである。二大女優のぶつかり合いである。お互いに過去の自分が忘れられず、妹のベティ・デイヴィスのドンドン過去に引きずり込まれて狂気じみていくところが凄まじい。

驚くべきことは、車の事故の真相をブランチが語るところである。ずうっと真相を語らずに、ブランチはジェーンを支配しようとしていたのである。恐るべき展開と演技の映画である。

『イブの総て』は、再度見て、アン・バクスター演じる大女優の付き人がのし上がっていく姿には腹立たしさと人間の卑しさを感じてしまった。大女優がベティ・デイヴィスで、これまた大女優の我儘さを威厳をもって上手く現している。その大女優に取り入り付き人となり、陰で献身的に仕える。周囲の信頼も得ていきながら自分の味方に組み込んでいき、その全てが実は自分の名を売るための策略だったのである。よくある話しであるが、ベティ・デイヴィスの鼻持ちならない態度とアン・バクスターの可憐さが大逆転するという怖さの映画で、それを知った時のベティ・デイヴィスと同じ気持ちでアン・バクスターを見てしまった。

この映画は、まだ知られていなかったマリリン・モンローが女優の卵として出演しているのでも知られている映画である。

晩年の『八月の鯨』では、リリアン・ギッシュと共演するなど、ベティ・デイヴィスは共演者と臆することなく渡り合う。渡り合うのを楽しんで、役に憑りつかれていくように感じる。その辺のプロ意識は、時にはスパイスとして、刺激的時間を提供してくれる。

『痴人の愛』のレスリー・ハワードが、どこかで見ているのだがと思っていたら、『風と共に去りぬ』のアシュレーであった。レスリー・ハワードの沈着さが、ベティ・デイヴィスの超個性的演技を受けてくれたから上手くいったとも言える。

また何処かで、違う映画でベティ・デイヴィスに逢いたいものである。

今回は、もう一つ収穫があった。「ベティ・デイヴィスの瞳」という歌があるのを知った。キム・カーンズという女性歌手が歌っていて、そのかすれた声が、この歌の名前にぴったりなのである。

京橋の東京国立近代美術館フイルムセンターの展示室(7F)で『シネマブックの秘かな愉しみ』をやっている。映画関係の本の紹介である。手に取ることはできないのであるが、読みたくなるような本が沢山展示されている。そして、引き出しを開けると資料が見れますとあるので、適当に開いたら、和田誠さんの『イブの総て』のベティ・デイヴィスのイラストと、簡単な映画の紹介のぺージが開かれて現れた。何の表記もない一番上ではない適当に開けた最初の引き出しである。あまりのご縁に笑ってしまった。