明治神宮の森から映画『三月のライオン』場面の散策

  • 三月のライオン』(2017年)が<四月のライオン>にならないように散策記録である。『三月のライオン』とは、「三月はライオンのようにやってきて、子羊のように去る」という英国のことわざからのようで、映画でも字幕として出ていた。主人公の少年が、家族を交通事故でなくし一人となり、将棋によって紆余曲折をへて成長していくという内容で、ライオンに立ち向かうだけの立ち位置ができたということであろうか。

 

  • 明治神宮は、明治天皇が崩御されお墓は京都伏見にあるが、昭憲皇太后が崩御され、お二方の鎮座される地として明治神宮が創建(1920年)された。その時この地は荒地で、ここを永遠の森とするため設計した人々がおられる。その計画通り今、壮大な森・明治神宮内苑となっている。150年の計画が100年でその姿が出来たといわれる。(DVD『明治神宮 不思議の森』)その後、明治外苑(1926年)が完成する。

 

  • 明治神宮は表参道から本殿まで歩いたことはあるが、ゆっくり散策して森の気をもらうことにした。それならと外苑からぐるっと回って、内苑に向かうことにしたが、JR千駄ヶ谷駅の前を通る。では、そこから『三月のライオン』に出てくる将棋堂将棋会館へ寄り、明治神宮のあとは、月島へさらに八丁堀から押上へと思ったが、八丁堀で終わりとした。

 

  • こういう散策の時は、お得な切符がお助けである。営団地下鉄の<24時間乗車券>(600円)である。数年前は<一日乗車券>であった。24時間にしたのが凄いです。乗るときに時間が切符に印字される。そこから24時間有効で、たとえば午前10時なら次の日の午前10時まで有効で、午前10時までに乗車すれば降車時間は午前10時過ぎても良いのである。利用者にとってはうれしい。

 

  • 地下鉄青山一丁目駅から銀杏並木へ。桜の時期である。人はまばらである。銀杏並木の説明板もある。新宿御苑の在来木から採集し、種子を明治神宮内苑の苗圃に蒔き育て植樹したとある。親子でゆっくりと自転車を楽しんだり、野球に夢中な人々の声がする。聖徳記念会館へ。今回は外のみであるが上まであがって遠くからながめた柱の空間をたしかめる。会館の裏にまわると<明治天皇葬場殿址>に大木があり、そこの近くから外苑外へ出る。新競技場の建て替え工事をしている。スケート場はここにあったのかと通ったことがない道できょろきょろする。

 

  • JR千駄ヶ谷駅到着。国立能楽堂へ行く時はここから代々木方面に歩くのであるが、鳩森神社を目指す。映画『三月のライオン』を観るまで、ここに「将棋堂」があるのを知らなかった。山形県の駒師・香月氏が制作の大駒が日本将棋連盟から奉納され、将棋界の技術向上を目指す人々の守護神として日本将棋連盟と神社が協力して、六角の御堂におさめられた。ここ、ここと言ってお参りしていく人がみうけられる。ここには甲賀稲荷神社もあり、富士塚があり頂上に浅間神社が。塚とあるようにガリバーになった気分の小ぶりの富士登山であるが、江戸時代の富士信仰の基本の造りとなっている。

 

  • 鳩森神社の向かいが「将棋会館」で、『三月のライオン』の主人公・桐山零(神木隆之介)が出入りした場所である。親に送られて小学生も入っていく。そこから国立能楽堂の裏をまわろうと歩いていると「東京新詩社」の案内支柱がある。ここで5年(明治37年~42年)ほど与謝野寛は短歌会を催し、機関紙『明星』を刊行していたのである。思いがけない出会いである。さていよいよ明治神宮の北参道入口から内苑に入り、北池を渡って宝物殿の前を通り本社殿に向かう。途中広い芝生で人々がおもいおもいに寛いでいる。

 

  • 明治神宮内苑の森は、永遠の森として壮大な計画のもとに造られた。設計を任された本田清六さんとそのお弟子さんは、常緑広葉樹の森を考えた。当時の総理大臣・大隈重信は伊勢や日光のような杉林を主張。しかし、本田清六さんは、東京には杉は似合わない。常緑広葉樹の森がふさわしいとゆずらなかった。先ず荒地であるから針葉樹を多く植え、すき間に広葉樹を植えた。そこから樹の競争がはじまり、広葉樹が勝ち、緑豊かな森となり、外から森の中を守り、動物、鳥、魚、昆虫、植物、土壌生物などが生息する太古の自然のような鎮守の森として存在しているのである。人工で造りあげたのである。いかに自然の生命の循環を熟知していたかである。

 

  • 歩きつつ、この木々の奥では人のおかされない自然が息をしていると思うと、神の森という感じがしてくる。手を加えないことと言い伝えられ、滅びていく木もあり、そこから光を得て育っていく木もあり、実生(みしょう)といわれる木の赤ちゃんは40万本ほどあるという。さて、湧き水の「清正井(きよまさのいど)」を探さねば。警備の方に聞くと、本殿から南参道に向かうと御苑があり、そこの中にあるという。御苑は有料でここは、かつては熊本藩主加藤家下屋敷の庭園で、その後、彦根藩井伊家にうつり、明治維新後は、皇室の御料地となる。ここには明治神宮の三つの池の南池があり、池をのぞくと鯉がゆったりと泳いでいる。なぜか、これが本物の鯉の顔に見えてくる。ひいきしすぎである。

 

  • 花菖蒲田を通って進むと「清正井」があり人が並んでいて警備の方が、ハイ次の方と整理されている。全て外国のかたである。よく調べて来られると感心する。名前どおり加藤清正が堀った井戸となっている。この湧き水、花菖蒲を潤し、南池から水門を通り、南参道の神橋の下を流れ、渋谷川の源流となっている。これからつつじやしょうぶなどの花々で楽しませてくれる場所でもある。

 

  • 御苑を出て、三つ目の東池を探すがわからないので、掃き屋さんに聞く。掃き屋さんというのは、明治神宮で親しみを込めて呼ばれている参道などを掃かれている方で、落ち葉を掃き集め、森にその落ち葉を返す人の事である。これも全て森の土の栄養として返すようにとの言い伝えのためである。東池は、一般の人は入れないとのことで、これで一通り内苑は満喫した。気楽にまた寄りたい東京の鎮守の森です。

 

  • さてここまで来たならと目黒のお寺高福院へ。JR目黒駅から東京都庭園美術館へ行く時、駅の近くにお寺さんがあるのだと思っていたお寺さんで、ここに長谷川伸さんのお墓があるのである。国立劇場で『沓掛時次郎』上演の際、梅玉さんと松緑さんがお参りされていて知ったのである。長谷川伸さんは、『瞼の母』『一本刀土俵入り』などの作品でも、ずいぶん様々な役者さんで楽しませてもらった原作者である。お寺には案内板などもないので、静かにしてもらいたいのであろう。そっと名前で探し、手だけ合わさせてもらった。

 

  • 目黒から地下鉄で月島へ。映画『三月のライオン』は、羽海野チカさんの漫画が原作でアニメ映画にもなっているようだがそちらは見ていない。映画で良いのは、高校生の零の一人暮らしのアパートが川のそばで、部屋のガラスを通す船の行き来の灯りが語るともなく色をそえてくれる。これは映画ならではの力と思う。意味があるような無いような。時には、おそらく乗っている人は楽しくやっているであろう屋形船の提灯の灯であったり。零がこの場所を選んだ気持ちがわかるような気がするのである。

 

  • 居場所の無くなった零に家族の温かい食事の場を与えてくれたのが、母を亡くした川本家の三姉妹。その姉妹の家に行く時に渡るのが赤い橋で、これが佃小橋。そこから住吉神社へ。前に来た時気が付かなかったが、住吉神社宮神輿・八角神輿の天保九年製作と平成二十三年製作のがガラス越しに見えるようになっていた。美しい造りである。そこから花見を楽しむ人々の集う佃公園を通り中央大橋を渡る。渡ったところがかつて霊岸島と呼ばれたところで、伊豆などへ船が出ていた。

 

  • 霊岸島から高橋を渡るとすぐにJRと地下鉄の八丁堀駅へつながる入口となり、零がよく使う。月島から八丁堀までの散策も古さと新しさの混在する場所で、川風が気持ちよかった。小さな稲荷が中央大橋工事のため移設されながらも残されていて地域でご神体を大切にされている。零は家族を失い、自分一人で生きていくため将棋の道を選ぶ。嘘のない勝負の世界で、年齢も関係ない。好きでもない将棋で必死に生きるためにはこの道しかないと思っているが、いつしか将棋が好きになっていた。ひ弱な感じでいながら皆から見守られている零の神木隆之介さんの雰囲気と川の雰囲気がさりげなく合っている。棋士たちやその他の配役も凄い。(豊川悦司、佐々木蔵之介、加瀬亮、伊藤英明、染谷将太、高橋一生、伊勢谷友介、前田吟)監督は『るろうに剣心』の大友啓史監督。

 

  • 追記 映画『聖の青春』(2016年)は、実在された村山聖棋士の病気と闘って将棋に生きた若きいぶきの映画である。『三月のライオン』に出てくる零の幼馴染でライバルの二階堂晴信は、村山聖(さとし)さんをモデルとされたようである。『聖の青春』での、村山聖さん(松山ケンイチ)と羽生善治さん(東出昌大)の対決や周囲もみどころである。

 

3月 歌舞伎座、国立劇場・歌舞伎

  • 3月ももうすぐ終わってしまう。急がねば。映画『ウィンストン・チャーチル』での特殊メイクアーティスト・辻一弘さんに触れたが、今月の歌舞伎座で驚くべき変身ぶりのかたがいる。松緑さんである。美しい白拍子桜子になって登場する『男女道成寺』。昨年の11月国立劇場での歌舞伎公演のトークショーで、もし女形でしたらどんな役をされたいですかと聴かれて、考えたことがありませんと答えられていたので、本当に松緑さんなのと思ってしまった。

 

  • 男女道成寺(めおとどうじょうじ)』は、<四世中村雀右衛門七回忌追善狂言>で、現雀右衛門さんがお父上と『二人道成寺』を踊られ、どちらを観ればと迷ったが次第に四世雀右衛門さんを観ることになってしまった。御高齢なのに可愛らしいのである。現雀右衛門さんは、四世さんよりも近代的な可愛らしさで可愛らしさだけでは終わらない自意識が感じられる。桜子は実は男で狂言師左近であることがわかってしまい、男と女ということになるので、それぞれの踊りを安心して楽しむことができた。

 

  • 今回は2月に続いて名コンビの出演なのであるが、このコンビもよかった。『芝浜革財布(しばはまのかわざいふ)』での芝翫さんと孝太郎さんである。よく知られている落語の『芝浜』であるが、魚屋政五郎(芝翫)と女房・おたつ(孝太郎)のやりとりが自然で、動きも無理がない。働かない政五郎のダメさ加減、それをささえる女房。店を構えてからの女房・おたつのおかみさんとしての落ち着き。こせこせしていない政五郎。この変化も安心して見せてくれ芝居の中に誘いこんでくれる。

 

  • 財布を拾って気持ちが大きくなり近所の仲間と飲み騒ぐが、橋之助さんと福之助さんの演技にこれまた演じているというとげのようなものが消えその場に合う芝居になっていて、襲名披露公演での舞台回数が血となり肉となった結果を見せてもらえた。

 

  • 国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』は明国が韃靼(だったんこく)に滅ぼされ、明国再興をかけて親子三人が他国へ渡るのである。和藤内の父・老一官は明国のひとで、明の皇帝にさからい日本に逃れ日本人の渚と結婚し、和藤内がうまれる。明が韃靼(だったん)に滅ぼされ何とかしたいと三人は韃靼国に到着する。老一官は自分の娘・錦祥女(きんしょうじょ)が獅子ヶ城主・甘輝(かんき)の妻になっているので助力を頼む。

 

  • まずこの親子関係を理解しなくてはならなく獅子ヶ城楼門まえでの解説的芝居となる。老一官の東蔵さんの台詞がとつとつと語りきかせ、錦祥女の扇雀さんが親子の対面を感動的にする。次に義理の母親・渚の秀太郎さんが情と毅然さをもって自分を縛らせ城の中へいれさせる。ここまでが、力のない人が演じるとだれてしまうがきっちりと芝居を運んでくれた。この後は、夫(芝翫)が和藤内を助けやすいように自害する錦祥女。それをみて一人死なせてなるものかと自害する母。義理の親子でも気持ちは一つである。

 

  • 和藤内の力をみせる虎退治がないのが、愛之助さんには気の毒であったが、花道での飛び六法が荒事の形をしめす。秀太郎さんの渚は長い芸歴の体当たりである。それを東蔵さんが支え、扇雀さん、芝翫さんが受けて近松門左衛門の義理人情を海を渡って持ちこたえさせてくれた。

 

  • 於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』は、かつてお仕えしていた人のためにお金を工面しようと考え、それが悪の可笑しさに変化するという鶴屋南北の作品である。お金の工夫を考えているのが土手のお六の玉三郎さんでその亭主が鬼門の喜兵衛が仁左衛門さんである。

 

  • 油屋の丁稚久太郎がフグにあたって死んでその棺桶を油屋に運び込み、喜兵衛とお六はゆすりをかけるのである。そこが今回の見せ場である。ここまでは夫婦二人の悪だくみがとんとんと進み、ベテランのゆすりの場面の貫禄の面白さである。ここからが、作者の遊びともおもえる展開で、お灸をすえると久太郎が息を吹き返すのである。悪の夫婦は、仕事の失敗にもこりず籠をかついでの引っ込みである。

 

  • これは、仁左衛門さんと玉三郎さんの『お祭り』への変化物といった感がある。大阪で起こったお染久松の心中物を鶴屋南北が江戸におきかえてお六と喜兵衛の悪が加わったようで、それが『於染久松色読販』の<油屋>と『お祭り』が続くことで、江戸の悪と粋ががらっと趣きを変えて楽しませてくれたということである。息の合ったお二人の出演はやはり舞台に華をそえてくれる。

 

  • 大阪では『新版歌祭文』で、野崎詣りを有名にさせた。野崎観音はJR野崎駅から15分と近い。想像に反し、駅前の小さな川に久作橋がかかっていて、その橋の名ぐらいが芝居のなごりであろうか。『於染久松色読販』で嫁菜売りの久作が油屋の手代に打擲されたのが柳島妙見堂で、久作の出来事を久太郎に入れ替えてゆするのである。この柳島妙見堂は残っていて、近くには四世鶴屋南北のお墓のある春慶寺もある。行く予定が映画『三月のライオン』の映像場面場所で終わってしまった。そのことは後日。

 

  • 滝の白糸』は、泉鏡花の作品『義血侠血』を舞台化したもので、<滝の白糸>は水芸の太夫の名前である。この舞台はその水芸も見せてくれるというお楽しみつきである。ただお楽しみだけではなく、芸にかけてきた芸人が、他人ではいたくないと思う相手と出逢ってしまう。その人は、法学を学びたいとおもっている貧乏な青年である。滝の白糸は、その青年・村越欣弥に東京行きをすすめ、学費を送ることを約束する。滝の白糸が壱太郎さんで、村越欣弥が松也さんである。

 

  • 学資の援助の話しがでるのは二人が二度目の出会いのときで、金沢の浅野川の卯辰橋(うたつはし)となっているが、実際には天神橋のことで、<滝の白糸碑>は天神橋よりも木でできた梅の橋の近くに設置されている。橋の雰囲気が梅の橋のほうが趣があるからであろうか。

 

  • 二人のつながりは皮肉な運命によって法廷で判事になった村越欣弥の前に滝の白糸は立つことになる。欣弥への仕送りのためのお金を奪い取られ、途方に暮れた白糸は判断力を失い人を殺めてしまう。白糸はお金は盗られていないと主張し、お金を奪った出刃の投げ芸の南京寅吉に殺しの疑いがかかっていた。欣弥は白糸の本名・水島友と呼び、あなたの芸のお客に対し正直に答えなさいと欣弥は告げる。自分が水島友の芸によって得たお金で勉強に励むことができた。それは、白糸のお客様が白糸の芸に支払ったお金で、その芸に誇りをもち水島友としては正直になりなさいとさとしているように聞こえた。

 

  • 欣弥が白糸から援助されたお金は綺麗なものであった。そのお金で犯罪を裁く立場となった者としては、きちんと裁かなければそのお金は汚いものになってしまう。そこを汚しては滝の白糸の芸も汚れてしまうと言いたいように思え胸にぐっときた。そして、彼は法廷を出て自殺してしまう。そのピストルの音は水島友にも聞こえた。

 

  • 法廷では水芸の舞台で正面きって華やかに演じる白糸の滝とは違い、後ろ姿である。観ている方は、欣弥と白糸がどんな目線を合わせたのかはわからない。壱太郎さんは、その後ろ姿と台詞で白糸と水島友の微妙さを伝えてくれた。今回の松也さんの台詞のトーンには満足であった。声の良さがあだとなり気持ちの機微が伝わらないところがあったが、そのあたりが今回は聞く者に伝わって来た。白糸を心配しつつ支える春平の歌六さんが役柄通りに押さえ、水芸の一座の様子と投げ出刃芸とのいさかいなどもすんなりとはまって終盤の二人の関係までもっていってくれた。(演出・坂東玉三郎)

 

  • 観たあとに竹田真砂子さんの小説『鏡花幻想』を読み、奥さんとなるすずさんとの出会いからの師・紅葉との関係など鏡花の小説家としての日常世界をみさせてもらい、小説でありながら納得できる鏡花の空間であった。

 

  • 国立劇場の演目は『増補忠臣蔵 ー本蔵下屋敷ー』と『梅雨小袖昔八丈 ー髪結新三ー』である。上方での代表的な成駒屋の中村鴈治郎さんと江戸での代表的な音羽屋の尾上菊之助さんの新たなる世代の東西の舞台が一つの劇場で上演された。

 

  • 本蔵下屋敷>は、家老の加古川本蔵が師直に賄賂を渡し、師直を嫌っていた主人の桃井若狭之助は師直への遺恨を吐き出す機会を失う。さらに、本蔵は塩谷判官の刃傷沙汰のとき判官を止めに入り、世間は若狭之助を厳しい眼でながめている。若狭之助は本蔵を屋敷に蟄居(ちっきょ)させ、さらに、自分の妹であり判官の弟の許嫁である三千歳姫も預けている。その本蔵下屋敷に若狭之助がくる。

 

  • 本蔵下屋敷では、三千歳に横恋慕する井浪伴左衛門が皆殺しを狙い茶釜に毒を入れる。主人に恥をかかせたとして若狭之助は本蔵を斬るといいながら、伴左衛門を成敗する。若狭之助は本蔵が、大星由良之助に切られる覚悟であることを分かっていて、本蔵の今生での忠義にも感謝し来世でも、主従の関係がかわらないことを告げ暇をとらせ、餞別として、虚無僧のための一式と師直の屋敷の図面を渡す。

 

  • 主従の最後の盃。三千歳も縁ある人との関係が絶たれ、本蔵もまた縁が結ばれたであろう人に切られるために向かう人であり、その人の別れに箏を弾き、唄う。若狭之助は本蔵との別れを惜しみ、去る本蔵を近くに呼び戻し、再度、主従の関係を確認する。『仮名手本忠臣蔵』の九段目「山科閑居」の前の話しであり、塩谷判官と大星由良之助の主従関係と相対し裏ともなる主従関係を描いている。

 

  • 若狭之助が鴈治郎さん、本蔵が片岡亀蔵さん、三千歳が梅枝さん、伴左衛門が橘太郎さんである。芝居としては、もうすこし練り込んでほしかった。鴈治郎さんは台詞術が豊富な方であるが、若狭之助の心の在り方の変化が、感情の起伏で台詞に力が入り過ぎ、わかっていながらその裏をかいているという深さが壊れてしまったように思える。最後の別れで素顔の若狭之助が心から別れを惜しんでいる気持ちが本蔵によく伝わり涙をさそわれた。締めがよかっただけにその経過が少し残念であった。梅枝さん、箏がここでも活かされ、ひとつひとつの積み上げということを実感させられた。

 

  • 髪結新三>は、優等生のイメージの強い菊之助さんがどう小悪党の新三を見せてくれるのかという点にある。材木問屋白子屋での門口で立ち聞きする新三の菊之助さん、眼の動きにこれは面白くなるという小悪党の計算が見えていた。手代の忠七の梅枝さんが、女形がやる忠七としてよく勉強されていたとおもう。このあと、花道からの出から素にもどっている新三と対峙する忠七の戸惑いが次第に、観る者の笑いをさそうほど世間知らずであり、新三の悪が光出してくる。

 

  • <梅雨>と題名にあるが上手いなあと改めて思わされる。傘の小道具。菊之助さんは初役にかかわらず髪結いの小道具の使い方など修練されていて軽快であった。傘も上手く使い粋に永代橋を渡っていく。弥太五郎源七の團蔵さんとのやり取り、一枚上手の大家の片岡亀蔵さんとのやり取りなどスムーズに芝居はすすむ。歌舞伎座では抱っこされていた菊之助さんの息子の和史さんが、元気に丁稚長松で出演。菊之助さんの台詞を聞いていると河竹黙阿弥の台詞を目でも追いたくなった。そう思わせてくれる舞台であった。というわけで今回は筋書ではなく上演台本を購入。

 

待たるる映画『ペンタゴン・ペーパーズ』

  • メリル・ストリープとトム・ハンクス共演の映画『ペンタゴン・ペーパーズ(最高機密文書)』。3月30日公開である。内容などどうでもよく二人の共演だけで一押しと思っていたら、スティーヴン・スピルバーグ監督の社会派映画である。新聞社ワシントン・ポストの女性発行人(メリル・ストリープ)と編集主幹(トム・ハンクス)が手に入れた機密文書をめぐっての実話をもとにしている。ニクソン大統領の時代。

 

  • 映画情報によると、映画『大統領の陰謀』(1976年)と映画『ザ・シークレットマン』(2017年)を観ておくとつながるとのことである。この二つの映画はウォーターゲート事件を題材にしている。『ペンタゴン・ペーパーズ』は時間的に二本の映画の前の話しになる。 ザ・シークレットマン』は上映中である。これは観ない訳にはいかないと観る。『大統領の陰謀』は、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの共演でわくわくして観た記憶がある。アメリカの若き新聞記者の二人が活躍したということはわかったが内容は地味な映画でわかったようなわからないような。再度観て納得できた。

 

  • ザ・シークレットマン』は、リーアム・二ーソン主演で、FBIの副長官・マーク・フェルトを演じる。FBIの組織が第一の副長官。フーバー長官の死によってニクソン大統領と親密な人物が長官代理となり、ウォーターゲート事件の捜査をやめるようにいわれる。ウォーターゲート事件というのは、ウォーターゲートビルのなかあにある民主党全国委員会本部のオフィスに五人組が侵入し逮捕された事件である。逮捕者の中にCIAにかつて所属していた人物もいたのである。

 

  • FBI(連邦捜査局)は司法省に属し、CIA(中央情報局)は独立機関でアメリカ合衆国大統領の直属である。フーバー長官は絶大な力をもっていた。政治家などの個人情報やスキャンダルの情報もファイルしてあり、FBIのなかでそうした仕事をしていた人とは、副長官・フェルトは一線を画していた。フェルトはFBI第一である。フーバー長官の収集した情報資料なども即処分してしまう。ホワイトハウスはFBIの一掃一新を目指している。ホワイトハウスのあからさまな介入が始まる。

 

  • 大統領の陰謀』はワシントン・ポスト側をえがいているのに対し『ザ・シークレットマン』は、FBI副長官・フェルトがなぜ情報提供者となったのかが描かれていて二つの映画を対にして観ると全体像がくっきりとうかびあがる。『ザ・シークレットマン』にはフェルトの家族も登場する。一人娘が家出をして行方不明である。娘と同じ名前の住所に手紙を出す父親フェルト。しかしその作業にも内心はみせない。父親の姿をみせるのは、、、。フェルトの仕事による家族の苦悩もあったが、そこのところは映画としての比重のかけかたも抑え気味にし、ニクソン大統領辞任への歴史的流れを邪魔させない。

 

  • 大統領の陰謀』は内容もであるが、ダスティン・ホフマンの独特の歩き方とかロバート・レッドフォードのチェックのシャツのカフス部分が忙しさのために少し折れているのにも目が行く。ワシントン・ポスト記者、ウッドワード(ロバート・レッドフォード)とバーンスタイン(ダスティン・ホフマン)は、ウォーターゲート事件に対し疑問を持ち始める。容疑者の弁護士のこと、電話で問い合わせて得たことが、次に確かめるとそんな電話はなかったとの信じられない返答。ふたりの上司は若い二人を後押ししてくれ編集主幹も掲載を許可してくれる。編集主幹・ベン・ブラドリー役のジェイソン・ロバーズがくせがありなかなかいい。と思ったら、『ペンタゴン・ペーパーズ』の編集主幹がベン・ブラドリーで演じるはトム・ハンクス。楽しみが増えた。

 

  • ウッドワードに情報を流す人物が謎で、ビルの地下駐車場で会うが、その場面が誰かに殺されるのではないかとドキドキするようにつくられている。謎の人物に仮の名前をつける。<ディ―プ・スロート>。行き詰まったウッドワードにディ―プ・スロートは金を追えとつげる。何の金か。ニクソン大統領の再選委員会の委員に取材しはじめると、取材は拒否されおびえている人もいる。ウッドワードとバーンスタインは辛抱強く一人一人取材し続け、おかしな金の流れをつかむ。

 

  • バーンスタインがウッドワードの記事を添削したり、バーンスタインの取材の粘り強さなど、二人の俳優の役の人物像の違いなども今回はじっくりである。最後はタイプライターの打つ文字が名前と有罪を知らせる。ニクソン大統領辞任。

 

  • ディ―プ・スロート>は誰なのか。2005年に元FBI副長官・フェルトが自分であったと公表。当時ホワイトハウスもフェルトであるとわかるがどんな情報を持っているかわからないので副長官からおろすがFBIから外へは出さなかった。しかしフェルトは、かつてFBIが盗聴していたことを認めて部下には自分が命令したと責任をとる行動にでるのである。1976年の映画が2017年の映画で結ばれ、映画ってやはり面白い。

 

  • 元CIAの職員でNAS(国家安全保障局)の局員が内部告発した映画がある。オリバー・ストーン監督の映画『スノーデン』(2017年)で、その前にドキュメンタリー映画『シチズンフォー スノーデンの暴露』(2014年)がローラ・ポイトラス監督・撮影・編集で公開されている。アメリカが国民の個人情報を収集し監視していたのである。その監視するシステムの凄さがエドワード・スノーデンによって告発された。

 

  • 超頭脳集団が考え出したシステムに乗ってどんどん集められる個人情報。誰とメールや電話のやりとりをしていたか。パソコンからインターネットにどんな検索をしていたか。キャッシュカードの使われ方まで、想像をこえる個人情報をキャッチできるシステムが開発されていた。ここまで進んでいるのかと驚くやらあきれるやら、頭ばかりでなく、口ぽかーんである。いやいやもっと大きな情報も収集されている。

 

  • こうしたことがやれる今の世の中であるから、どんな人間が権力を握るかで一般の人々の生活が一変するわけで、それを抑えるものは何か。人間の理性であろうか。力のない虚しい言葉に響くのが哀しい。権力はそれ以上に人間にとって魅力的な力も持っているのであろう。皆がひれ伏してくれればそれは嬉しいことでしょうし、もっとと思うでしょう。

 

  • ドキュメンタリーのほうは、英国の新聞社などのジャーナリズムの前でリアルタイムでビデオカメラの前で発言していて、CIAなどの捜査をかいくぐりながらなので緊張感が伝わる。それにしても、国民の情報を簡単に下請けに任せる我が国はどうなっているのであろうか。こちらも、ポカーンであるがあまりの扱いの軽さに違う恐ろしさも加わる。優秀な人間の脳の活躍も、将棋とかスポーツの頭脳プレーのほうがずーっと人を楽しくて幸せにしてくれる。

 

  • 3月30日に公開されるもう一本の映画『ウィンストン・チャーチル』は、特殊メイクをされた日本人の辻一弘さんが大きくクローズアップされました。ゲイリー・オールドマンが辻さんを選ばれたからこそのアカデミー主演男優賞受賞となったともいえるでしょう。チャーチル役のゲイリー・オールドマンのピースが、辻一弘さんへのようにも見える。

 

旧東海道・七里の渡し(宮から桑名)~関宿

  • 昨年の10月予定の東海道・熱田の宮の渡しから桑名への渡し場までの学習を兼ねた船旅が台風で中止となり、主催者の「堀川まちネット」さんが、漁船をチャーターして川底を探知機とロープで調べてくれ代替え日を3月にしてくださり無事参加し七里の渡しを船で渡ることができた。旧東海道歩きもこれで花を添えさせてもらい終了。愛知県と三重県の二県にまたがるので届け出も大変で制約もあり開催されてくれたことに感謝の念でいっぱいである。今回も前日であれば難しかったということで、海路は陸上とは違う判断の基準があるようだ。

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  • 2時間の船旅であるが、当時とは海岸線が違うわけで、かつては七里であるが、今の航路は十二里である。七里でも江戸時代は4時間から6時間かかったのだそうで、当然天候に左右されるので宮宿は多くの宿があり賑わっていた。船でない場合は佐屋路を使い、さらに美濃路への分岐点でもあるから日本一の旅籠数だった。

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  • 熱田の観光マップの説明に「熱田湊は古くから物流の要所で、織田信長がこの湊の権益をめぐって今川義元と戦い」とある。力関係に、信長の場合、経済力の利権争いも計算にいれていたのである。船中での解説で、名古屋は観光が少なく、織田信長と熱田の宮大工・岡部又右衛門関連が注目されればと言われる。渡された資料では岡部又右衛門が熱田生まれで、生まれた年は不詳だが「本能寺の変」で亡くなっている。「本能寺の変」の時、信長のそばにいたのであろうか。驚きである。2022年には名古屋城の天守閣が木造で再現されるとのことである。
  • 七里の海路は、今は埋め立てられて物流の名古屋港をから伊勢湾にでて桑名へと進むが、浅瀬があるためかなり遠回りしなければならない。さらに桑名に近づき橋の下を通るが、橋の何番目の橋脚の間を通りその真ん中ではなく右側を通る。これも底の深さがどうなっているかを「堀川まちネット」のかたが調査しているからである。桑名側は木曽三川(木曽、長良、揖斐)が流れ混んでいる。台風や大雨があると当然海底は変わってくるわけである。江戸時代の渡しはそのあたりは経験の勘と漁師からの情報などでで渡っていたのであろう。

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  • 大きなコンテナを運ぶ船やコンテナを船に積むクレーンなどが建っており、船に積まれる車が並んでいたりする。今は一つだけ残っている干潟が、満ち潮のため海面上には見えない。干潟が干満に関係して見えたり見えなかったりするのである。見たかった。なばなの里のあるナガシマスパーランドの観覧車や富士山が上下し回転する展望台が見えてくると桑名である。江戸時代から様変わりしている現代の七里の渡しを無事渡ることができ、ありがとうございましたである。ところが、その後、陸路の新幹線が止まっており大混乱であった。

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  • プラットこだまを購入しておこうかなと思ったが船のことであるから終わった時点で考えることにした。名古屋から豊橋は快速が多いから、豊橋から新幹線のこだまの自由席とする。豊橋についたら切符売り場に人が並んでいる。新幹線乗り場に行き、カードで切符を購入しようと操作していると友人が新幹線がとまっているらしいと。そばにいた駅員に尋ねると再開の見込みは未定。危機一髪購入しなかった。即、在来線で浜松にむかう。途中で動き始めたらしいとの情報。浜松駅で確かめると1時間50分遅れである。とにかく到着した新幹線の自由席に乗車することにする。30分後にこだま到着。無事帰ることができた。行けるだけ行って、駄目ならそこで宿を探すつもりであった。
  • 次の日友人は仕事があるので先ずは一安心。切符があったなら払い戻しや変更で並ぶことになり、時間的ロスがあったであろうが、後ろ髪ひかれることなく前に進み何んとかつながってくれて、座ることもできた。もう一つ感じたのは、友人が足が少し痛いということで乗り換えなどはエスカレーターやエレベーターを利用。表示を探してある程度スムーズに、利用できた。今まで探して利用するということはなかったので良い経験であった。ただこういう運休、遅延となると状況がわからず慌てさせられる。体の不自由なかたにとっては大変なことである。
  • よく添乗員のかたが「家に着かれるまでが旅ですので、、、」と言われるが本当にそうである。前日は、JR身延線富士宮駅から徒歩10分の「富士山本宮浅間神社」とJR飯田線豊川駅から徒歩8分の「豊川稲荷」に寄る。両方とも駅から近く階段がなかったのが幸いであった。
  • 富士山本宮浅間神社」には、富士山からの雪解け水が湧きでている「湧玉池(わくたまいけ)」があり、さすがに透明度が高い綺麗な水である。富士山に登る人はこの池で身を清め、六根清浄を唱えながら登っていた。「豊川稲荷」は本尊が「吒枳尼真天」(だきにしんてん)である。狐塚には沢山の狐が並んでいる。千本幟が白地に赤文字で「吒枳尼真天」とあり、その左右に名前と願い事が書かれ並んでいて、その数が見事である。御朱印の受付時間がわからなかったので一応3時半に着くようにした。勘が働いたのか受付は4時までであった。
  • 二日目は、清洲城だけは行っておきたかったので清洲へ。JR東海道本線清洲駅から徒歩15分。信長が那古野城から清洲城へ入城、この城から桶狭間へ出陣して勝利して天下統一を目指したので信長の出世城と言われ信長亡きあとも賑わっていたが、徳川家康による「清洲越」がおこなわれる。清洲城は廃城となり名古屋城が築城されるのである。清洲城を壊し、その資材を名古屋城で使うという家康らしい合理性である。安土城は焼け、清洲城は壊され、信長の存在が次第に薄れていくようである。
  • 清洲城から桶狭間へ向かう前に信長は、熱田神宮で戦勝祈願をしている。「堀川まちネット」では、この地域で行われていた天王祭りの継承を目指して「堀川まつり」を開催し、まきわら船や山車の大山の復活をしている。天王祭は熱田神宮の宮大工である岡部又右衛門もかかわり、大山から安土城の中心部の構造を考えだしたのではないかとも言われている。信長は桶狭間で勝利して熱田神宮に築地塀を奉納し信長塀として一部残っている。熱田神宮に行った時時間がなく探さなかった。その再築地塀が清洲城にあった。
  • 赤い大手橋を渡ると天守閣だけの現在の清洲城である。天守閣前には石庭がありこれがなごませてくれる。展示も楽しめ、紙芝居の時間があり、火縄銃の扱いから撃つまでの映像や、短時間の他の映像も参考になった。信長の長槍は6メートルである。安土ではその槍を持ち上げることができ、その重さに、冗談ではないこんな重い物を担いで走らされるなんてと思った。農民は戦が始まると徴用される半農だった。信長は、うつけの頃遊び仲間が次男、三男で一家の中で軽くみられた若い人たちであり、その者を訓練し、寄せ集めではなく、専属の兵にしたとの表示がありなるほどである。
  • 鉄砲を一番に戦に用いたのが武田信玄であるが時間がかかり過ぎると止めてしまう。発想の転換から三列隊にしたのが織田信長。鉄砲の無い朝鮮に行き、援軍の明が鉄砲をもっていて散々な目に遭ったのが豊臣秀吉徳川家康はその鉄砲の製造を禁止し、道を整備し関所を設け、武士道が出来、鎖国である。信長は個人的予想であるが海外と貿易を展開し経済力を手中に収めたのではないだろうか。国盗りが終れば経済力である。ただその前にきりきりするような合理主義は、恨みに思う敵も多かった。
  • 信長秀吉家康のお三方の前で、友人と好き勝手な人物談義をさせてもらった。友人が「こやつたちは言いたい放題言いおって。」と怒ってるねと。徳川家が整備した東海道の旅を存分に楽しませてもらった。これからは時間も地域も人物も広がる旅としたいがこの三人は、まだまだ顔をだす確率が高いであろう。
  • 新幹線の遅延(二時間以上)の場合について。降車駅で切符が出て来て切符に遅払証と赤い印字があれば、特急券分が払い戻しされます。後日、近くのJRの駅へいきました。みどりの窓口がある駅だったためかそちらでと言われ、現金での払い戻しがありました。いろいろの場合がありますので一例です。申し出ないと教えてはくれません。払い戻しより予定通り行動できることを願いますが、気候の変動が激しかったりするので陸路も確実性がおびやかされています。ちなみに今回は停電でした。

追記: 桑名宿~四日市

吉之丸コミュニティパークにある「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」の案内板

水門統合管理所がかつて桑名城の蟠龍櫓のあったところでそれを復元した。蟠龍櫓は龍が天に飛び立つ前のうずくまった状態をいい、その姿の瓦がのっている櫓で当時の人々のシンボルでした。(残念ながら復元蟠龍櫓の写真なし)

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船津屋(大塚本陣跡)

「歌行燈句碑」 ( かはをそに 火をぬすまれて あけやすき )

桑名の七里公園の西にコンドル設計の六華苑がある。その建物を見なかったのが心残り

後に新聞で知りさらにテレビドラマ「黒井戸殺し」の撮影に使われていたのを知る

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そこを南に進むと薩摩義士の墓所がある海蔵寺

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芭蕉が滞在して句を残した本統寺 (冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす)

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旧東海道にもどって春日神社

「歴史を語る公園」 桑名宿は熱田宮宿に次いで東海道中第二位の宿数を誇る伊勢路への玄関であった

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桑名城城壁址

十念寺 ・ 森陳明の墓

東京上野で新政府軍と戦い函館に渡る。その後桑名藩の戦争責任者として桑名藩邸で切腹(東京深川の桑名藩菩提寺霊源氏厳寺にもお墓がある)

矢田立場跡

立場というのは宿場と宿場のあいだにあって旅人が休憩する茶店などが集まっている所

町屋橋跡

伊勢両宮常夜灯

朝明川土手上の常夜灯

富田一里塚碑

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追記 2 : 船津屋(大塚本陣跡)と「歌行燈歌碑」について

歌行燈歌碑」は久保田万太郎さんの歌碑であるがなぜ<歌行燈>なのか。当然、泉鏡花さんの小説『歌行燈』と関係し、映画『歌行燈』とも関係してくるのです。

歌行燈歌碑」の説明が読みずらいので要約します。

<明治42年(1909)大泉原村の高等小学校で講演のため泉鏡花は桑名の舟津屋に宿泊。その時の印象を基にして小説『歌行燈』を書く。昭和14年東宝映画からの依頼をうけ『歌行燈』の戯曲を書くため久保田万太郎は船津屋に泊まり三か月ほどで戯曲を書き上げる。昭和15年、新生新派で上演される。昭和18年、成瀬巳喜男監督の映画化にあたり再び船津屋を訪れる。その時船津屋の主人に頼まれカワウソのいたずらの伝説を詠みあげた。

自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉がデザインしたものである。>

泉鏡花の『歌行燈』は、『東海道中膝栗毛』の第5編上巻の冒頭から始まります。そしてこの作品の主人公ともいえる能役者の名前が喜多八です。

喜多八は旅公演の途中、伊勢で名人といわれている謡の師匠の芸を辱め自死に追いやってしまいます。そのため喜多八は父でもある師匠から勘当され門付けとなります。芸者となった死んだ男の娘お三重と出会い舞を教えます。お三重は湊屋(船津屋)で喜多八の父と叔父に舞を披露します。二人はその舞を教えたのが喜多八であるということに気づきます。湊屋の近くにいた喜多八は鼓の音に誘われ謡い親子の謡でお三重は舞うのでした。

小説の中にはカワウソのいたずらの事も出てきます。娘の名前が三重で桑名城は扇城とも呼ばれていましたので何か計算されての構想かと思ってしまいます。

成瀬巳喜男監督の『歌行燈』はお三重はお袖と名前をかえ山田五十鈴さんが演じ、喜多八は花柳章太郎さんです。脇を新派の役者さんがかためています。能舞台の場面、舞を教える松林の場面、湊屋での舞の場面などは圧巻で芸道物となっています。戦時下にこうした映画が作られたというのもすごいことです。

東海道がこのように膨らむのもカワウソのいたずらということでしょうか。このいたずらカワウソは宿の灯りを消したり、鉢叩きをしたり、豆腐買いのお手伝いもしたようです。

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

四日市に入ってからと思いますが所々に東海道の行燈が置かれていました。それぞれの地域の旧東海道への取り組みです。

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追記3:四日市宿

三ツ谷一里塚跡   

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道標   正面「すぐ江戸道」 片面「すぐ京いせ道」

広重の四日市

作家・丹羽文雄生誕之地碑

つんつく踊りの紹介板   天白川の堤防を作る際に地を固めるために踊ったようである

追分道標   東海道最古の道しるべ。日永神社の中にある。正面「大神宮 いせおいわけ」 南側面「京」 左側面「山田」 裏側「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」

日永一里塚址

日永の追分   

右手が旧東海道。左手が伊勢参宮道。京に進む旅人はここから伊勢神宮を遥拝した。このあたりは四日市宿と石薬師宿の「間の宿」とされ、間の宿は本宿よりも宿泊料が割安であった。

杖衝坂(つえつきざか)にある芭蕉句碑   歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな

芭蕉の句ではめずらしく季語がない。

杖衝坂は、急な坂で日本武尊(やまとたけるのみこと)が剣を杖がわりにして越えたという故事がある。芭蕉は急な坂で落馬したと詠んでいる。

血塚社   日本武尊が杖衝坂でけがをして足から血を流しその血を封じた場所

采女一里塚跡

追記4  石薬師宿~庄野宿

小沢本陣跡

宿帳には赤穂の浅野内匠頭や伊勢山田の奉行でもあった大岡越前守の名前が残っています。

左左木信綱記念館

佐々木弘綱翁記念碑の前に曾祖父を歌った佐々木幸綱歌碑

しゃくなげを愛し短歌を すずか嶺を愛し薬師寺を 愛したる人

幸綱さんの祖父は信綱さんで父は治綱さん。歌人の系譜です。いたるところに信綱さんの歌がありましたが、信綱さんの歌は記念館で堪能。

石薬師寺

岩佐又兵衛歌碑

無病にと頼みすゑける石薬師 かたき祈願を忘れ給うな

境内には、松尾芭蕉、一休禅師、西行法師の歌碑もあります。

広重の石薬師に描かれた石薬師寺

石薬師一里塚跡

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石薬師宿と庄野宿の分岐点

東海道は国道と関西本線で寸断されているため東海道へ出るための案内図

これは助かりました。

中富田一里塚塚跡

庄野はこの写真しかありません。石薬師が結構見どころがありそちらに予想以上の時間をとられました。

さらに庄野宿では油問屋だった旧小林家が庄野宿資料館になっていてそちらにも寄らせてもらっていました。広重の庄野宿の白雨の絵ハガキがありました。

白雨はにわか雨のことだそうです。広重の東海道の絵には三つの雨の様子があります。「大磯の虎ケ雨」「庄野の白雨」「土山の春之雨」

追記 5: 亀山宿~関宿

亀山宿関宿は関西本線の亀山駅と関駅から一度訪ねています。今回は庄野宿から亀山宿関宿の西の追分までの歩きとなります。

日本武尊の石像 (関西本線井田川駅前) 三重は日本武尊の関連場所がおおくあります。

和田一里塚 

露心庵跡 (日本武尊が主祭神の能褒野神社第二鳥居そば)

西町問屋場跡  亀山は東町と西町にわかれていて宿役人の東町の樋口家と西町の若林家が10日から20日交替で問屋場業務をしていた。

東海道亀山宿碑

亀山宿は先の旅で手にした案内図が参考になりました。

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亀山は城下町でもあり案内図にオランダ商館員で医師のケッペルが亀山宿の様子を書いています。

「亀山は大きな豊かな町で、二つの平らな丘の上にあり、真ん中に小さな谷が通っていた。門が一つと土塁と石垣があったが、曲がった肘のようになった道には、郭外の町々の家を除き、約2000戸の家があり、右側には堀や土塁や石垣をめぐらした城がある。」

野村一里塚跡   後ろは樹齢400年のムクの巨木

関宿

関の小萬のもたれ松の案内板

父のかたき討ちをした小萬は江戸時代は有名だったようで鈴鹿馬子唄になっており長唄にもなっています。

東の追分  伊勢別街道との分岐点。伊勢神宮の一の鳥居。

一里塚跡

関宿の街並み

町屋を開放した「関まちなみ資料館

旅籠「玉屋」歴史資料館

関の小萬碑  福蔵寺の境内にあり織田信孝の菩提寺。

京側から鈴鹿越えをしてたどり着いた関宿の西の追分の公園まで到着しつながりました。

つながりは ↓ 下記で

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

一回目の亀山宿と関宿の様子は ↓ 下記で

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

番楽ー根子番楽

  • 番楽(ばんがく)とは、神楽(かぐら)の一種で古くは山伏が携わっていたといわれる。国立劇場で一月末に開催された第131回めの民俗芸能公演である。『本海獅子舞番楽』と『根子番楽』があったが『根子番楽』のほうだけ観させてもらう。

 

  • 秋田県北秋田市阿仁地区にある根子(ねっこ)集落で伝承されてきたのが『根子番楽』で、この集落はマタギ発祥の地として有名なのだそうである。マタギによって伝承されたといえる。演目が「露払い」「翁舞」「敦盛」「三番叟」「信夫太郎」「作祭り」「鞍馬」「曽我兄弟」「鐘巻」と歌舞伎を連想するようなのが並ぶ。現在伝承されている九演目すべてを観させてもらうという贅沢な時間であった。決まった足の踏み方があり、物語性があり、衣裳などからも演目名を知らなくても、これは敦盛と熊谷だな、牛若と弁慶だなとわかる。

 

  • 根子番楽には子供会があり、「露払い」「作祭り」「鞍馬」の牛若などは小中校生が演じ、年代で演じるものが決まっていて、大人になって演じるための修業演目ともなっていて年齢とともに伝承されている。大きくなったらあれを演じるぞとあこがれて練習に励んでいるのであろう。「敦盛」などは、「曽我兄弟」を演じられるまでの青年たちが舞う。これらの武士舞は刀さばきなどの鍛錬が必要である。

 

  • 演目の前に根子番楽の代表の方の口上があり、献上品のお礼とゆるりとお楽しみくださいということである。舞の方は詞を発しない。舞台奥に幕があり、舞手が幕の中心を押し出すとお囃子が止まり、幕出謡(まくでうたい)があり舞い手が幕をくぐって登場する。「曽我兄弟」などは、五郎が先に、その後十郎が登場するが、それぞれの幕出謡があり、長い間に洗練され、変化に富んだ舞曲になったのであろうか。

 

  • 「三番叟」は動きの速い舞で体力が必要である。山伏がおこなっていたということであり、このように体力のいる舞いになったということもわかるが、武士舞が多くあるということはどういうことなのであろうか。山伏は修験者である。武士舞は時代の流れの中で取り入れてきたのかもしれない。根子地区は佐藤嗣信(つぐのぶ・忠信のお兄さん)の末裔の住む地区だそうで、次第に住民の好みに添って伝承されたとも予想できる。

 

  • 今回観れなかった『本海獅子舞番楽』は鳥海山の北嶺の集落に伝わるもので、獅子舞を重要視している。『根子番楽』は獅子舞が無く、獅子舞の有る番楽と無い番楽とがあるようである。長い年月の伝承であるからその変化の根拠は難しいことなのでしょう。

 

織田信長関連テレビドラマ(3)

  • 織田信長となれば、明智光秀を外せない。ただ光秀がなぜ信長を討ったかというのは諸説ある。疑問の残る「本能寺の変」である。テレビドラマ『敵は本能寺にあり』(2007年)は、光秀の家来・三宅弥平次が主人公で、光秀の娘を妻とし後に明智左馬助を名乗る。原作は加藤廣さんの『明智左馬助の恋』である。明智左馬助は染五郎(十代目幸四郎)さん。

 

  • このドラマでは安土城がかなり重要な役をしている。そして、明智光秀が築城した琵琶湖に突き出た坂本城も出てくる。CGであろうが、湖面に建つ坂本城が美しい。琵琶湖に面したこの二つの城。その美意識が対抗しているようだ。当然安土城が坂本城を見下ろしている。あの時代、今の関東の富士山的象徴が琵琶湖だったようにおもえる。左馬助は馬の名手で、時には馬で琵琶湖を渡りますと信長に告げる。これもキーポイントである。

 

  • 左馬助の妻になった光秀の娘・綸(りん)は、左馬助と夫婦約束の仲であったが、信長により荒木村重の嫡男・村次に嫁ぐ。荒木村重の謀反により綸は離縁され光秀のもとに帰され、左馬助の妻となる。ドラマと離れるが、信長が送った使者・黒田官兵衛を監禁したのが荒木村重である。その後荒木村重は逃走し、そのため荒木一族は処刑され、この時乳母に助けられたのが村重の子・岩佐又兵衛である。後に絵師となり、歌舞伎・文楽『傾城反魂香』の浮世又平のモデルともなり、『山中常盤物語絵巻』を描いたその人である。光秀の娘が荒木家に嫁いでいたとは。この綸も戦国の中での数奇な人生である。

 

  • 左馬助は信長(玉木宏)に家来になるように言われるが、光秀(中村梅雀)にあての無い自分を救ってもらった恩義があると断る。信長は肉親や情など信じられない。信じられるのは力だと主張。左馬助のお館様の想いが詰まった城の中を見せて欲しいという言葉に信長は、見せない。見たくば奪ってみろと。左馬助は光秀の信長に対する複雑な気持ちを計りつつ光秀の心が晴れるよう御所の馬ぞろい、家康饗宴などを手伝い進言もする。しかし、左馬助の力ではどうすることもできない方向に事は進んでいき「本能寺の変」へとむかう。

 

  • 本能寺の焼け跡から信長の死骸はみつからなかった。抜け穴があり、その抜け穴は何者かに崩されていた。左馬助は極秘に阿弥陀寺の住職に呼ばれ、信長の遺体と対面し深く葬ることを頼む。静かに安土城の天主閣へ登って行く左馬助。光秀に加担した公家の近衛前久は天主閣を見て降りる時、見なければよかったと恐れた場所である。天主閣には狩野永徳が待っていた。陽の登る前にお呼びしたのはこれをお見せしたかったのですと東側の戸を少し開け陽の光を入れる。するとその一条の光が襖絵の皇帝を顔を照らしだした。帝をないがしろにしようという気持ちは無かったという意味であろう。

 

  • 左馬助は、信長にいつか琵琶湖を馬で渡るのをお見せすると告げていた。綸を残した坂本城へもどる道はふさがれている。お館様、ご覧くださいと左馬助は馬で琵琶湖を渡るのである。そして坂本城の炎の中で綸とともに最期をとげる。『時は本能寺にあり』とあるように、「本能寺の変」までが刻々と描かれている。左馬助はとらえきれない信長の魅力と、光秀の苦悩も推し測り、その間でみつめていた乱世。最後は清々しい気持ちで琵琶湖渡りをする左馬助である。

 

  • 個人的には、安土城の内部を知った時、仏の世界の上に人間世界の天主閣をもってきてそこに座すということは、信長は人として自分が支配者となると決めていた人であると思えた。そこを最後に違う光を与えた変化球にこのドラマの面白さがあり優しさが。信長さん金平糖食べていました。信長と家康が能の「敦盛」を見物し、その謡の中で、饗宴係りを降ろされた光秀が自分の進む道を準備しているなど、しっかりとそれぞれの思惑を見せてくれた。

 

  • 大河ドラマ『国盗り物語』(1973年/原作・司馬遼太郎)の総集編(前篇・後編)がレンタルできた。このドラマ、斎藤道三(平幹二朗)から始まり織田信長(高橋英樹)に続くという設定になっていて、斎藤道三という人物が知りたかったので好都合である。明智光秀(近藤正臣)が道三に仕えていて光秀のたどって来た道もわかる。ただ、総集編であるから展開が速い。

 

  • 坂口安吾さんの『信長』によると斎藤道三は <坊主の出身で、坊主の中でも抜群の知恵者で、若年からアッパレ未来の名僧と評判された腹の底の知れないような怪物だった。寺をすてて油売りの行商人となり、美濃の守護職土岐氏の家老長井の家来となり、長井を殺して代わって土岐氏の家老となり、さらに土岐氏を追い出し愛人をうばい美濃一国を手中に収めた> とあるが、そういう流れである。前篇で簡潔に見れた。

 

  • 信長』は、坂口安吾さんも数多く資料を集められたのであろう。登場人物が多数あって入り組んでいる。映画、テレビドラマを少し観ていたので、違いや、この映画のこの部分か。時間差をずらせて映画やドラマは面白く引っ張ているものだと場面や登場人物を思い浮かべる。複雑に裏切りや駆け引きがあるので、小説では、軽さを出そうとカタカナがでてきて、信長は頻繁にバカと称されている。テレビドラマ『織田信長  天下を取ったバカ』の題名も納得がいく。信長が濃姫と話すときも、オレ、オマエで現代の若者のような会話であったりして坂口安吾さんの工夫が感じられるし、信長周辺が大変参考になった。

 

  • 安吾さんは『信長』に対する作者の言葉として「信長とは骨の髄からの合理主義者で単に理攻めに功をなした人であるが、時代にとっては彼ぐらい不合理に見える存在はなかったのだ。」としているが『信長』を読むとそれがよくわかる。信長と道三を結びつけたのは平手政秀である。四面楚歌の信長を守ってくれたのが道三である。信長が織田家のトップにたつと、その弟は信長の家臣からも軽くみられる。だれも信長を認めないのであるから、弟たちの家臣たちは面白くない。家臣は弟をたきつけ、あわよくばその主人を操って自分が支配しようとする。信長の周囲はそんな城が幾つかある。それをおさめていくが、そのとき道三の後ろ盾が味方である。

 

  • ことが起れば、うつけのときに行動していたところが合理的に生きてくる。自分が身体をつかってしたけんかの手法。相手の戦隊を崩させ、自らそこに飛び込む。戦隊を崩させるのも長い槍隊。槍は一回確実につけばよい。そのあとは刀にかえろ。槍を抜いてまた使うなど時間の無駄。鉄砲隊は三列。時間差なく撃ち込む。これは相手の前列の兵にとっては脅威である。驚いているところへ大将が飛び込んでいくのであるからまたまた驚かされる。驚かせるのが好きである。

 

  • 道三との面談の衣裳で皆を驚かせた信長は、衣裳が驚かすことを発見したとおもう。その後の新しい物への興味とそれを披露したときの周囲の驚きを楽しんでいたところがある。驚いているうちに次を成す。ただそこまでの用意も面白い。茶もやるが、「茶の湯は貧富をとわず余人をまじえず膝つき合わせて交じりを結べる」。諸人と交わっても怪しまれず、間者たちとの情報も誰にも悟られず得られる。四面楚歌であるから誰も信用できない。子供の頃から見聞きするのは好きだから情報を得る方法がわかっていてさらに、誰にもさとられないように情報を得て、自分で考えるのである。突然動きだす。説明はないから皆驚く。

 

  • 信長』によると、尾張の守護・斯波義銀(しばよしかね)を国守とあがめ清洲城に招き信長は北矢蔵へ隠居。今川義元に使者をだし三河の吉良家を三河の国守とさせ、斯波家と吉良家を三河で参会させる。吉良家は力は劣っているが、足利将軍家に子がなければ三河の吉良家の子が継ぎ、吉良家に子がなければ今川家の子が将軍家を継ぐ定めがある。斯波家に権威を与えるためであり、信長が出陣の時、清洲城を斯波義銀の権威に守らせるためでもある。世間の権威を使う理も心得ている。

 

  • 道三は、土岐氏の愛人を奪うがそのお腹には土岐氏の子が宿っていて道三は息子として育てる。その息子・義龍は自分の出生を知り自分が正しい血筋とし、道三を討つのである。その時信長は道三を助けることができなかった。その後も信長の身内や家臣の謀反は続く。そして上洛する今川義元との桶狭間の戦い。大雨で信長軍の動向はさとられず、一気に義元の後方の陣地を襲い勝利するのである。運と信長の理とそれまでの経験が合体したのである。

 

  • 信長は、道三の築いた稲葉山城を奪い、新たに岐阜城とする。ここからは、最後の室町幕府将軍の足利義昭と信長の駆け引きが加わり、そこに明智光秀も関係し、さらなる信長の天下取りへの戦がはじまる。司馬遼太郎さんの原作『国盗り物語』を読むのがよいのであろうがもう少しあとにする。信長は、異国からの知識も理にかなっていると思えば受け入れ、地球が丸いのを地球儀で納得している。宗教なども、信じると他国にまで丸腰で布教にくる宣教師と武力を持つ我が国の寺社と比較したことであろうし、権威だけの貴族も信用していない。それにしても自分の死骸を残さなかったというのも信長の最後の理のようなきがする。驚いたか、どうだ謎を解いて見ろ。

 

  • 金平糖が気になり調べると、京都の老舗店が、銀座に昨年の12月に支店を出していた。制服で話題になった泰明小学校のそばである。歌舞伎座の下にある木挽町広場には大阪が本店の金平糖の出店があり試食させてくれた。粒の小さな塩金平糖は真ん中に赤穂の塩が入っているとのことで色も綺麗である。透明の小瓶に金平糖を入れ色と☆を愉しみながら、ときに口にほうりこむのがいいな。左向きの左馬は右に出る者がないとの意味があるらしい。福島の相馬焼の紹介で知った。名前に左馬助とか左馬之介などとあるのはそういう思いを込めてつけられたのであろう。相馬焼も不屈の精神で震災から立ち上がられて頑張っておられる。