美・畏怖・祈りの熊野古道 (発心門王子から補陀洛山寺)

<発心門王子><水呑王子><伏拝王子>(休憩所あり)<三軒茶屋跡>(休憩所閉鎖)<祓殿王子><熊野本宮大社><大斎原>コースは、半日コースとして時間配分を考えた。新宮にもどって那智の補陀洛山寺も行っておきたかったのである。

バスは、鳥居のある<発心門王子>(ほっしんもん)の場所で停まる。空から雪が舞ってきた。暗い空ではないので、途中で止むであろうが、少し急ぐこととする。<発心門王子>は、格式が高く本宮への入口で、仏道に入り修業によって悟りを得たいという志を起こすことを現しての発心らしいが、悟れるほどの者ではなし、熊野に癒されるほど大層な生き方もしていない。これからも迷いと疑問の先行きである。今年の初めには考えもしなかった熊野に12月に来れたことを感謝して手を合わす。

空を見上げると軽い雪がふわふわと遊んで降りてくる。この美しさも違う形となれば畏怖の対象となる。風がないので傘をさし、雪を避ける。雨と違い濡れ方は少ない。運転手さんのアドバイスを頭に、地図を確かめつつ、バス停、道の駅奥熊野で右の登り坂を登る。<水呑王子>(みずのみ)と刻まれた碑の隣には腰痛のお地蔵様がある。名もなき赤い前垂れをつけた小さなお地蔵さんは菰を被せてもらい可愛らしい。傘地蔵のように、菰を被せた人にお礼には行かなかったようである。じーっと気持ち良い温かさに浸っているようである。果無山脈の案内板があり、その先には現実の山脈が連なっている。

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<伏拝王子>(ふしおがみ)。現在の<熊野本宮大社>は移転していて、もとの本宮跡を、<大斎原>(おおゆのはら)と言い、その<大斎原>をここから伏し拝んだという場所である。残念ながら、木々が育ち<大斎原>は見えなかった。石の小祠の隣にあるのが和泉式部の供養塔である。立ち木に彼女の歌が掲げられている。「晴れやらぬ身の浮き雲のたなびきて 月の障りとなるぞかなしき」。高野山と違い女性も受け入れたため、「蟻の熊野詣で」といわれたほど参詣者が多かったのである。ここには、無料休憩所もある。お手伝いの地元のかたであろうか、温泉談義をしていた。ここで、早めの持参の昼食とする。一息ついて、再び歩き始める。急なアップダウンもないので気持ちよく歩ける。

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閉鎖している<三軒茶屋跡>を通り過ぎると<九鬼ケ口関所跡>がある。その関所門をくぐり進んでいくと展望台があったらしいがどんどん進んで、団地のような家なみを過ぎどうやら終点に近そうである。<祓度王子>(はらいど)の石の小祠がある。ここは本宮のすぐそばであるが、かつてはもう少し先に本宮があったので、今は移転のためお隣さんになってしまった。参詣人はここで禊ぎ(みそぎ)とお祓いをして身を清めたことに由来するらしい。

そしていよいよ<熊野本宮大社>となるのである。こちらは速玉、那智大社と違い、朱塗りではなく、白木である。白木に檜皮葺(ひわだぶき)がおごそかである。大社に関する神々はそれぞれで調べて頂きたい。浄土のこと、本持仏のことなども含め、観光程度以下の知識でこんがらがっている。

熊野本宮大社・絵葉書より

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<おがたまの木>があり、漢字で<招魂><招霊><小賀玉>等と書き、モクレン科で花は芳香があり、神木、霊木として神聖視され、神楽舞の鈴はこの木の実を象ったものなんだそうだ。

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<たらようの木>は、漢字で<多羅葉>と書き、葉の裏に古くから針で経文や手紙を書き、「葉書」の語源だとされている。<たらようの木>の下に、八咫烏(やたからす)の乗った黒いポストがあり<八咫ポスト>と名付けられている。このポストに投函すると八咫烏の消印で配達されるそうで、知っていれば投函したのだが。誰宛に。もちろん自分宛に。

「平家物語」に関連することもあるがとりあえず、先を急いで<大斎原>へ。本宮まで乗せてもらった運転手さんも、歩いて10分位ですから帰りには是非といわれたのである。大きな鳥居がもともとはここですと存在感を示している。山々と霞に包まれた鳥居の絵葉書を買う。あの大きな鳥居が玩具みたいである。もしかして、展望台から写したのであろうか。う~ん、心残りがまた一つ。大斎原は熊野川と音無川に挟まれた砂洲に建っていたのである。江戸時代の後期の絵図によると、社殿はこの時も朱塗りではない。鳥居をくぐる時、両脇が川なら、海、山、川と熊野三山に対する想像力ももっと膨らむ。この土地の人達は、自然が崩れてもかつての形を心のどこかに据えている。明治時代の洪水で大社の多くを失ったのである。

新宮にもどり、バスで那智へ。駅前の国道を渡ってすぐのところに<補陀洛山寺>はある。左手に補陀落渡海の船が置かれている。住職さんとお話しすることが出来た。自然崇拝の信仰から始まって、山伏としての修業を積んでいたわけで、今の信仰とは違う形であったと言われる。それは、今回ほんのわずか熊野を回って自然ということを強く感じたのでわかる。住職さんは、文献に渡海を試みた人の気持ちなどは残っていないので、はっきりとこうであるということを控えられておられる。こうであろうとしか言えないのである。中世で世の中が混沌としている時代、自分が浄土へたどりつき成仏する事のみが目的ではなく、人々の願いを浄土に伝えようとしたのではないかとの考えかたも示される。

この浄土への補陀落渡海から逃れようとして無理矢理入水させられた渡海僧金光坊の伝説もある。金光坊は近世の人で、近世に入ると世の中も変わり、信仰の形も変わり、人の思いも違って来たであろう。そして、修業の形態も変化していったであろう。この金光坊のことがあってから、生きながら渡海する慣習はなくなり、亡くなった当時の住職さんを補陀落渡海の形で水葬にしたようである。

そして、本尊三貌十一面千手観世音菩薩を拝見させていただく。ふくよかで、沢山迷い考え、ぶつかりなさいと受け止められたように思った。最後は、自分の都合の良いように受け取った形となったが、そう思わせて下さる観音菩薩であった。

補陀洛山寺と本尊三貌十一面千手観世音菩薩・ 絵葉書より

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那智駅の後ろが那智湾で、熊野灘に続いている。その場所より、新宮に向かう車窓から少しだけ姿を見せた熊野灘が美しかった。その先に何かがありそうな海である。

新宮に着き、駅前の寿し店で、さんまの姿寿しを食べることが出来た。めばり寿しは売れ切れであった。そのお店で新宮には、老舗のお菓子屋さんが多く、京都からも修業に来ると言う和菓子屋さんの話しを聞き、そのお店を教えてもらう。

熊野ともお別れである。あれっ、何か忘れている。駅で荷物をまとめたとき、和菓子を忘れたようだ。超特急でもどり、無事和菓子を手に発車である。この和菓子が美味しかった。車中で3コも食べてしまったが、甘さが柔らかい。

熊野について書き残していることは、まだまだあるが、今年の最後とする。

今年の最後は、2011年の東日本大震災で東京公演を断念され観れなかった仲代達矢さんの『炎の人』の能登公演をDVDにしてくれたので、それを観て年越しとする予定である。

二回目の熊野の旅は ↓ こちらから

2015年3月21日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮から発心門王子まで)

次の行程は、バスで新宮から本宮大社に向かい、乗り換えて<発心門王子>まで行き、そこから歩いて<熊野本宮大社>に戻るというコースである。<発心門王子>から<熊野本宮大社>間は中辺路の初心者コースである。友人の体験から私でも大丈夫と言われているので楽しみな熊野古道歩きである。

新宮から大和八木駅行きのバスに乘る。奈良に行ったとき友人が見つけた、日本で一番長い路線バスである。6時間30分ほどかかる、<新宮>から<本宮>へはこの路線バスの一部の約1時間半のバス旅である。これが予想外の収穫であった。自然について改めて考えさせられ、歌舞伎の舞台にも遭遇したのである。

乗客は一人であり、「右側座席のほうが景色がいいですよ。」と言われ、その言葉に、運転手さんのすぐ後ろの席に移動し、運転に差しさわりのならない程度を考え、お話をお聞きする。右手の山の上に赤い建物の一部が見えたので、尋ねると<神倉神社>とのこと。やはり高い所にある。昨日、80段で止めた話をすると、「それは残念でした。」と言われる。その後色々調べても今でも残念な思いは残るが、無事この旅を終れたことを良とする。

この路線バスに乘るためだけに、九州から来た人もいたという。大和から熊野というのにも魅力がある。右手下は熊野川である。左手は山肌である。川に沿って道はずーっと作られている。本当に山に抱かれて川と道があるという感じである。時々、少し山側が広くなり、左右に家屋が見られる。災害のため、ここは住んで居ないという。美しい山や川なのに、それが暴れ畏怖となる。川底も土砂のため上がってしまい、以前はもっと下に川が見えたそうである。

左に見えた滝は、災害で姿を現した滝だそうである。「何百年かしたら、この滝もまた見えなくなるでしょう。」と言われ、その言葉に一瞬時間が止る。そういうふうに思うのか。自然は再び自然に返すのである。この滝も再び木々に覆われ人間の目から消えるのである。そして、姿をみせていない滝がまだまだあって、美しい姿を見せた時には、私たちに何かを伝えようとしているのである。その言葉をどれだけ深く静かに聞こうとしているであろうか。

ビル風があるように、山々に囲まれた空気の流れや水の流れは様々な様相を呈する。そうした自然の中で修業した修験道の山伏の人々は、山を越える間に空気の流れの違いを感じていたであろう。自然のそうした動きに対し、祈りというのは、封じ込めの意味もあったであろう。古代から自然を信仰の対象としていたのは、その自然の持つ力の封じ込めの祈りであったような気がする。

バスは温泉郷へと入っていく。<川湯温泉><渡瀬温泉>。そして、どこかで見たような情景である。「これが、小栗判官が入ったといわれる温泉です。」旅行雑誌で見ていた「つぼ湯」である。しかし、別の経路で行かなければならないと思い調べもしなかったが、このバスがここを通るのかと、思いがけない歌舞伎舞台との出会いである。熊野の<湯の峰温泉>である。ここには、照手姫が小栗判官を乗せて引いた車を埋めた車塚や、元気になったのを試して持ち上げた力石もあるらしい。小栗判官と照手姫の墓所は藤沢の遊行寺にある。東海道 戸塚から藤沢 (2)

思いがけない嬉しい場所を通り過ぎ、バスは目的地<本宮大社前>である。そこから、発心王子まで行くことを話たので、「この同じバス停で待ち、本宮に戻って新宮へ行きのバスは向うに停留場がありますからね。」と教えてくれる。運行バス会社が幾つかに分かれているのであるが、旅人にとっては大助かりである。バスの便の少ない分を、補うようなその親切が嬉しい。

<発心門王子>行きの運転手さんも、このバスに乗る人は歩く人と知っているので簡略に、本宮までの、トイレ、休憩場所などを説明してくれた。<本宮>から<発心門王子>までは、バスで15分ほどである。新宮では、晴れていたのに、<発心門王子>に着くと雪がパラついていた。

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美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

那智から無事<新宮>行きのバスに乘れる。バスは、新宮ー那智ー紀伊勝浦は、9時から18時台は、30分おきにある。新宮市街に入り<権現前>とアナウンスがある。新宮駅まで行くつもりでいたが「すいません。<権現前>は速玉大社に近いですか。」「近いです。」ボタンを押す。降りる時「後ろですから。」と一言伝えてくれるのが有難い。「有難うございます。」時間的ロスが減った。ただこの手前に<神倉神社>に近い停留所もあったのである。予定では、荷物を預けてから新宮散策と思っていたので駅に行くことのみ考えていた。友人達には、バスを使う場合の参考コース<神倉神社><速玉大社>として教えることとする。

<新宮>の名は、神倉山に祀られたていた神々を新たな社殿である速玉大社にうつしたことから、地名が<新宮>と呼ばれるようになったともいわれている。<熊野速玉大社>も、朱色の美しい社殿である。

 

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御神木ナギ

 

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熊野御幸の回数

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ここの神宝館に多くの関連宝物があるようだが、時間がないので境内の中にある<佐藤春夫記念館>へ。佐藤春夫さんと高校の同級生である宮司さんが、東京の春夫宅をここに移したのである。二階に上がる階段が二つあって、細い吹き出しの階段は、窓に雨が直接あたるためそれを避けるためにサンルームをあとで付け足したのだそうでそれがかえってモダンな内部構成となっている。二階の角には、狭い六角形の空間があり、そこを書斎としても使っていたらしい。狭いが過ごしやすい空間で、横に成ったり、起きて書いたりしていた姿が想像できる。文机の前に座るが、前の3か所に窓があり、狭いのに圧迫感がない。

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没後50年の企画展は「佐藤春夫と憧憬の地 中国・台湾」である。これはお手上げであった。中国の文学作品の名前はもう記憶から薄れている。魯迅は数作品読んだくらいで、佐藤春夫さんの中国系の作品も読んでいないので、展示物を見ててもよく解らないのである。ただ、関係者のかたが、資料をきちんと検証されておられるのはわかる。そして、佐藤春夫さんが、行動の作家でもあたのだということは、認識できた。記念館だよりに、映画監督大林宣彦監督の講演会が行われたことが載っていて、佐藤春夫さんの『わんぱく時代』を大林信彦監督が映画『野ゆき山ゆき海べゆき』の映画にしたことを知る。これは興味がある。

中学時代には、与謝野寛さんらの文学講演会の前座で「偽らざる告白」と題して談話し、それが問題となり、無期停学となっている。

新宮には、大逆事件の犠牲となった人々もいて、その一人大石誠之助さんは、佐藤春夫さんの父と同じ医者で父の友人でもあり、それに関連する詩も書いている。駅の近くには、大逆事件犠牲者顕彰碑もある。その他、文学者では中上健次さんの生まれた土地でもある。<佐藤春夫記念館>で、中上健次さんの連続講座の冊子を購入してきたが、超難解でこちらもお手上げ。熊野出身ならではの作家とされている。駅前には、滝廉太郎とコンビを組んで童謡を作詞した東くめさんの「はとぽっぽ」の歌碑がある。

 

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与謝野寛・晶子夫妻らとともに、東京神田に「文京学院」を創立した、西村伊作さん設計の自宅が<西村記念館>となっている。この場所を、観光案内所で尋ねたら、近いのであるが、係りのかたが地図をもって、外まで出て説明して下さった。熊野のかたがたは、はっきりしていることは、きちんと説明されるように思う。観光案内で外まで出て説明されたのはまれなことである。<西村記念館>は、もう少しで修理のため閉館するそうである。年配の係りのかたがそのために、絵などがほとんで片づけられて無いことを申し訳ないと言われる。しかし、建物、家具のモダンなシンプルさは解かるのである。西村伊作さんの弟が、佐藤春夫宅の設計者である。

その他、<浮島の森><徐福公園><阿須賀神社><歴史民俗資料館>などもあるが、位置は判ったが行けなかった。上田秋成の『雨月物語』の<蛇性の淫>の舞台は新宮である。

最後に、<神倉神社>に向かう。ところが、時間が食い込み暮れ始めている。古い石段を80段位登ったところで、男性が降りてくる。「まだかなりありますか」と尋ねるとまだまだと言われる。「止めたほうがいいでしょうか」「止めた方がいい」とのこと。帰りが暗くなっては、この石段では足元が悪い。諦めることにする。あまり重要視していなかったが、調べたら538段あって、この神社を寄進したのが頼朝である。この神倉山は熊野速玉大社の神降臨の神域とされている。修験者の行場としても栄えたところである。頂上にある、ゴトビキ(方言で蛙)岩が御神体で古代から霊域とされいる。那智の火祭りが有名であるが、ここでも、2月に火祭りがある。

 

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東京の明治大学で来年1月11日に『第8回 熊野学フォーラム」というのがあって、テーマが<「がま蛙神」はなぜ熊野に出現したか!>である。熊野のどこかでチラシをゲットしたのであるが、神倉神社に注目しなければ気にもかけなかったかもしれない。それにしても、ゴトビキ岩を見れなかったのが残念である。

歌舞伎などでも蛙が出てくる。確か『児雷也』などは、ガマ蛙の上に立って巻物咥えて例の忍術のスタイルだったような。『天竺徳兵衛』にも出てくる。蛙には神がかった怪しい力があるのもこういうことと繋がるのかもしれない。

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国立劇場 『伊賀越道中双六』(2)

「岡崎」。こちらの東海道歩きはいつになったら岡崎に着くのか。吉田あたりから宮あたりまでは、JR東海道線ではなく名鉄名古屋本線となり、岡崎も名鉄なのである。『伊賀越道中双六』の<双六>としたのは、上りまで様々の難関があり、さらにサイコロの出方に任せるしかないということかと、芝居を観ていると思われなるほどと感心してしまう。

幸兵衛おは、百姓であるが今は関所の下役人でもある。お袖はその娘で、母・おつや(東蔵)に志津馬の宿を頼むが、夫の役目がら素性の判らぬ者は泊められないとさとす。幸兵衛は関所破りの詮議から救い、志津馬は奴から奪った密書を見せる。奴は股五郎に仕えていたもので、股五郎が幸兵衛に力添えの以来であった。志津馬は実は自分がその股五郎であると名乗る。そしてさらなる賽の目は、お袖の許婚が股五郎で、見た事のない許婚を嫌がっていたお袖は、ここで目出度く祝言となる。そんな中、林左衛門の手下眼八(吉之助)がこの家のつづらに忍び込む。

政右衛門は、関所破りとして捕り手に囲まれるが、刀は雪の中に隠し、素手で相手をしそんな者ではないと主張する。それを見ていた幸兵衛は政右衛門を助け家に招き入れる。お互いに見つめ合い、15年前に別れた師と弟子の再会となる。おつやは情愛をもって別れていた庄太郎(幼い頃の政右衛門)を迎えお袖の許嫁の股五郎の助太刀を頼む。幸兵衛も相手方には剣の達人の政右衛門が付いている事を知っており、庄太郎の腕に期待する。政右衛門は、驚きを隠しおつやの頼みを聞くが、幸兵衛はつづらに隠れた眼八を悟り、股五郎の居場所は教えない。

政右衛門は、ここで師を裏切ることと、敵を目の前にしていることの間に立ち、心落ち着けさせる。このあたりの、刀の取り上げ方などで吉右衛門さんは、政右衛門の心根をきりっと見せる。

幸兵衛は、庄屋から呼び出され出かけて行く。おつやは政右衛門の濡れた着物を幸兵衛の着物に着替えさせたり情をみせる。政右衛門も干してある莨(たばこ)の葉を見つけそれを刻んでやる。そこへ、政右衛門の妻・お谷が生まれた乳飲み子を抱き巡礼となって政右衛門の後を追い幸兵衛宅の前でしゃくを起こし苦るしんでいる。その巡礼がお谷であることを知った政右衛門は、敵を目の前にして素性が知れるのを恐れ、おつやが巡礼を助けることを止める。おつやの情と政右衛門の情のせめぎ合いがこの場を色濃くしている。

おつやは子供だけでもと、乳飲み子を炬燵のある部屋へと抱えて行く。政右衛門は急いで気を失っているお谷に薬を飲ませ、藁くずを燃やし暖を取り、気がついたお谷に事情を説明しこの場を去り吉報を待てと告げる。お谷は、我が子を見てくれたかと尋ね、見たという言葉に安堵し雪の中、夫の言葉に従うのである。非情な場面が一転して、夫婦の情愛の場面となる。

幸兵衛は戻り、門口の焚火の跡に気がつく。次第に幸兵衛にも何かが兆してくる。おつやが、赤子の身につけていた物から、その子が唐木政右衛門の子であると知らせる。政右衛門は、素性が知れる前に、一時も早く敵を討ちたいが為に、我子を殺し投げつける。その時、幸兵衛は、子を殺す政右衛門の目に一滴の涙をみて、全てを悟るのである。

幸兵衛は、股五郎に会わせる。股五郎は志津馬であった。我子に駆け寄るお谷。志津馬が股五郎でないと知り、尼となるお袖。二人の女の悲しみを超えて、幸兵衛は、眼八を殺し、庄屋で股五郎を中仙道へ逃がしたから自分の役目外であるからすぐ追いかけろと伝える。政右衛門は「先生」と言いつつ、幸兵衛の刀の血を懐紙でふき取り見つめ合う。その二人の緊迫した決まりが、これで成就したと思わせる良さである。凄い悲劇があるのに、やったーと思わせる歌舞伎の不思議さよ。

伊賀上野での仇討の場面は、隼人さん、種太郎さんを加えた若い役者さん達にお任せである。

「藤川の関」「岡崎」の前に「沼津」がある。「沼津」は、志津馬の相手の元傾城のお米の家族の話しとなっているわけである。志津馬の為に薬を盗もうとし、その相手が兄で、父は命を賭けて娘のために、志津馬の敵の股五郎の行き先を息子に尋ねるのである。「岡崎」を観ることによって、「沼津」の面白さも増してくる。

歌舞伎は、新しさと古典の復活との両輪であることが、必須条件のように思う。

お谷の雪の場面は、『奥州安達原』の場面とも重なるが、あの時のお君が、今の歌昇さんだったのである。良い体験をされている。今回米吉さんが、竹本に乘る場面もあったが、やはり、踊りをしっかり勉強され、動きを身体に覚え込ませることが大切と感じた。舞踊のようにということではありません。美しい形の一瞬が踊りの中にあると思うからです。

芝居の中で旅人が、「伊勢は七たび、熊野三たび」と会話していたのを捕らえて嬉しくなった。

 

国立劇場 『伊賀越道中双六』(1)

二回目の観劇である。台詞回しの上手さ、ツケの音、下座音楽、竹本のシンプルな音楽性との相性で堪能させてもらった。吉右衛門さんが、「あぜくらの集い」で、唐木政右衛門(吉右衛門)の剣術の師にあたる山田幸兵衛(歌六)が良い所を全部持って行ってしまうような人物なので、そうならないように頑張らなければなりませんと話されていた。

「岡崎」の<山田幸兵衛住家の場>は今回の芝居の凝縮度の高い場面で、敵を討つ側の義兄弟が本人たちの知らないところで、敵同士となってしまうという流れと、かつての剣術の師が敵側を味方するという立場であることから、政右衛門夫婦のさらなる悲劇となる。そして、それらを全て見抜くのが師の幸兵衛であり、この場の最期の師弟のやり取りは、これで本懐を遂げれるという明るさへと変わるのである。仇討という大義名分に隠れた人間悲劇の矛盾をはらみながらも、してやったりと気分をスカッとさせるのは、そこに至るまでの役者の台詞の上手さである。

上杉家の家老・和田行家(橘三郎)には、娘・お谷(芝雀)と息子・志津馬(菊之助)がいるが、お谷は門弟の浪人唐木政右衛門と不義密通のため勘当。息子も傾城のために家宝の刀「正宗」を質入れし勘当している。志津馬をそそのかして「正宗」を手に入れようとしているのが、沢井股五郎(錦之助)で「正宗」を手に入れるため行家を殺してしまう。

大和郡山城に仕官した政右衛門は、弟の志津馬の敵討ちの助太刀をするために御前試合で桜田林左衛門(桂三)にわざと負け、城主(又五郎)から暇を申し渡される。城主・誉田大内記(こんだだいないき)は政右衛門の心を読み取っていて、政右衛門に剣の相手をさせ神影流の奥義を披露させ、満足して志津馬ともども敵討ちに送り出す。林左衛門は股五郎の叔父で、出放したと知った二人はその後を追う。

行家の後妻(京妙)を含め、動きも台詞もしっかりしていて人物構成も良く成り行きがよく解る。政右衛門が大内記に神影流の奥義を見せる場も綺麗に決まる。

藤川の関で、志津馬は政右衛門と待ち合わせるが、その茶店の娘・お袖(米吉)が志津馬に一目惚れする。志津馬は、関を通る通行切手が無いためこのお袖の恋心を利用する。

「あぜくらの集い」でも吉右衛門さんは、志津馬の菊之助君は悪い色男ですと言われて皆さんを笑わせていたが、已むに已まれぬこの行為が悲劇の原点とも言えるのである。

ここに奴・助平(又五郎)が密書を持って現れ、その密書と助平の切手を手に、志津馬とお袖は、岡崎のお袖の実家へと向かう。股五郎と林左衛門も関所を通り、その後を追って来た政右衛門は切符が無いため抜け道を行くのである。さらに切符の無い助平も抜け道を行くが、茶店でのお袖とのやり取り、関所破りで捕縛されるくだりなど、道化役で又五郎さんが息抜きをしてくれる。米吉さんはひたすら志津馬の菊之助さんにポア~ンであるが、可愛さを出そうとする動きを出そうと一生懸命なのが解るのが、二重の可笑しさをさそう。お袖にも「岡崎」では、悲劇が訪れるので、そのあたりの変化を米吉さんなりに考えているのであろう。

「岡崎」では、敵討ち側に予想もしなかった展開が待ち受けているのである。うそにうそを重ねていかなければならない状況が。

 

美・畏怖・祈りの熊野古道 (那智山)

計画しながら、行くまでの日々に疲労が堆積し、こうなったら定期観光バスで熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を制覇としようと考える。定期観光バス会社に電話し、予約のことなど尋ねる。この対応の方が適切にアドバイスをしてくれ、とても気持ちが良く元気をもらえた。そういうことは信じないのであるが、熊野パワーがきたのであろうか。熊野に行っても感じたことであるが、熊野の方々は、不便なだけにその情報の伝え方が意を得ている。最初から計画を練り直す。練り直し始めると、友人のアドバイスなども加味され、はまって短時間でまとまる。

一日目午前を那智山にして、午後を新宮にする。二日目中辺路の<発心門王子から本宮>とし新宮にもどる。これで三宮に行けて初めての熊野三山としてはベストである。実際に歩くうちにこのベストが、ベストとは異なる、自然の美しさ、怖さ、神々しさ、その中で暮らす人々が旅人を自然に受け入れるてくれる大きさに包まれたのである。

新宮から電車で、那智へ。那智駅に日本サッカーの始祖<中村覚之助顕彰碑>がある。日本サッカー協会のシンボルマーク<八咫烏(やたがらす)>は、中村覚之助さんが、那智の出身で、熊野那智大社の八咫烏からの発想である。

 

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那智駅から那智山行のバスで、10分ほどの<大門坂>で下車。勝浦、那智からの那智山行きのバスは一時間に一本である。友人は、那智駅から歩いて那智山への熊野古道を行く予定であるが、歩くと<大門坂>までが、1時間半かかるようなので、そこをバスにして、熊野古道の大門坂から那智山に向かって登る。若者たちは車で<大門坂>手前の<大門坂駐車場前>の駐車場に車を置き、大門坂、那智山、那智の滝と歩き、帰りは<那智の滝前>から駐車場までバスで降りるコースをとるようである。観光バスであると、大門坂から苔むした古道を眺めるだけということになる。

バスの運転手さんが、大門坂口を少し通り過ぎたところに停留所あるので、「ここから登りますからね」と事前に知らせてくれる。すぐ歩き始める人にとっては心強い。すこしもどって<大門坂>の大きな石碑から始める。和歌山には、南方熊楠(みなかたくまぐす)さんという菌類の研究をされた方がいて、その熊方さんが研究のため三年間滞在したという大坂屋旅館跡がこの大門坂入口のそばにあった。劇団民芸で『熊楠の家』(作・小幡欣治/演出・観世栄夫)を上演したことがあり、南方熊楠役が今年8月に亡くなられた米倉斉加年さんであった。(合掌) 昭和天皇に熊楠の採集した粘菌の標本献上と説明をするとき、貧しさのため標本箱がキャラメルの大箱であった。周囲は当惑したが、なんの差しさわりも無く、むしろ熊楠の研究者としての生き方に、昭和天皇が心動かされたという話しが盛り込まれている。再上演されてもいい舞台である。大門坂で熊楠さんに出会えたのも嬉しい。

 

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熊野古道は、まず大門坂から始めることとなった。俗界と霊界の境目の橋・振ケ瀬橋を渡ると夫婦杉がそびえ、熊野参詣道中辺路にある最後の<多富気王子(たふきおうじ)跡>の石碑がある。江戸時代には社殿があったらしいが、明治になって、現熊野大社境内に移されたある。杉に囲まれて苔むした石段をゆっくりと登って行く。坂を登りきると那智山でそこから熊野那智大社、那智山青岸渡寺へと向かうのである。登り切ったところに、<清明橋の石>というのがあり、花山天皇にお供した安倍清明が庵を結びその近くにあった橋の石らしい。駐車場が出来、橋はなくなり、石だけ少し移動して残したらしい。途中に<実方院跡>として、上皇や法皇の御宿所跡があり、さらに進み右手奥に広場が見えたので進んでいくと、那智の滝が見えた。那智の滝を見るとやはり来たという想いがつのる。

 

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熊野那智大社は、そもそも那智の滝を神として崇めていたところに、仁徳天皇の時代、社殿を作られたとされている。大変美しく立派な熊野那智大社をお参りし、宝物殿へ。徳川吉宗と水野忠幹が奉納したそれぞれの、銘刀・助宗が展示してあった。中世には、大社の主神・夫須美大神と千手観音と同体であると考えられていたとあり、これは興味深いことである。西行、実朝、後白河院らの古歌もあり、それぞれの深い思いが残されている。那智山青岸渡寺、そして、三重塔那智の滝の見える位置へ。

 

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那智山青岸渡寺は、仁徳天皇時代、インドから漂着した裸形上人が那智の滝で修業しているときに、滝壺で観音像を見つけ、庵にこの像を安置したのが始まりとされている。本堂は織田信長の焼き討ちにあい、豊臣秀吉によって再建されている。そこから下って那智の滝へとむかう。バスを<那智の滝前>で降りて那智山を回り、大門坂に降りて来ようと思ったが、そうするとこの下りを登ることとなるので、大門坂出発のコースにした。

那智の滝<飛龍権現>と呼ばれ、那智の海岸に着いた神武天皇が、滝を発見して滝を神として祭り、霊長の<八咫烏>に導かれ大和に入ったと言われる。ここに<八咫烏>がでてくるのである。そして、この地では<八咫烏>と何回もお逢いするのである。出羽三山から熊野と今年は大活躍をしていただいた。 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡

 

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ずっとずっ昔の彼方から静かに美しい姿と飛瀑音を轟かせていた那智の滝は、その裾もに虹を作っていた。緑の木々の衣をまとい、しめ縄の冠をかぶられ、真っ青な空を後ろに従え威厳をもって佇まれている。この美しさは優しくもあり、畏怖もあり、祈りをも秘めている。そしてなんという残酷さを具えた自然の美しさであろうか。

 

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飛龍神社を通り、<那智の滝前>のバス停からバスに乘る。バス関係の人が、「駐車場行きの方はいますか。ここから3つめの停留所ですから。」と声をかける。若い人が「はい。ありがとうございます。」と答える。気持ちが良い受け答えである。この那智駅までは15分程度。さて新宮へもどろうと駅へ行くと、11時12時台の電車がない。1時間に一本はあると思っていたのが迂闊である。

前にあるのは国道であろう。バス停がある。折よくバスが来たので、運転手さんに尋ねる。「新宮行のバスありますか。」「このバス停の反対側の後ろに新宮行のバス停がありますよ。」「ありがとうございます。」あわてふためく旅人に落ち着いておしえてくれる。まずは時間を確かめる。30分後にある。安心して、近くの道の駅を覗き休憩タイム。ところが、後になって、ここからすぐの、補陀洛山寺に寄らなかったことに気づくのである。自分で自分に納得がいかなくて、2日目の最期に、新宮からバスで再び那智にきて補陀洛山寺を訪れるのである。思うに、全てをまわってからのこのお寺を訪れたことが巡り合わせだったのかもしれない。

つづき→      美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

熊野古道の話題増殖

<熊野古道>の話題が増殖している。歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(2) で、く熊野古道>に触れたが、他の仲間からある本を紹介される。『RDG レッドデータガール』(荻原規子著)である。RDB<レッドデータブック>というのがあるらしく、何かというと、絶滅のおそれのある野生生物の情報をとりまとめた本ということである。<レッドデータガール>は、それにかけて、特殊な能力のある少女を周囲が守っていくというファンタジー小説らしい。

その主人公の少女・泉水子(いずみこ)の育てられた場所が、玉倉神社で、熊野から吉野への大嶺奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれる修験者の道に沿っているのである。おそらくこの玉倉神社は、玉置山にある玉置神社がモデルと想像するのであるが。この小説は全6巻あるらしいが、主人公はこの後、東京の高校に進学するということで、熊野の様子の出てくる1巻のみを借りることにしたのである。途中であるが、泉水子を助けるであろう中学三年生男子の深行(みゆき)が登場し、中一の時、羽黒山で蜂入りをはたしたとある。羽黒修験の行を済ましたらしい。今年の夏 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡 を訪れていて、羽黒山で蜂子皇子の尊像を拝観しているので、次第にはまってきている。

本の内容を聞いていると、陰陽師も出てきて、戸隠も関係し、歌舞伎関係の人も登場するらしい。一応は、1巻だけとしているが、読後状況によっては次も借りることになるかもしれない。彼女も春には熊野に行く計画なので、ではということで、『熊野古道殺人事件』(内田康夫著)を貸すことにする。

私はファンタジーやSF物は読んでいないので、何からそちらに入ったのかを聞いたところ、子供用に書かれていた『古事記』で、あれはまさしくファンタジーであるという。となれば、スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』のDVDを貸してみようと思う。

『陰陽師』は、歌舞伎でも上演されている。歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2) 彼女が夢枕獏さんの『陰陽師』を読んで気にいっていたところは、安倍清明(あべのせいめい)と源博雅(みなもとのひろまさ)との絶妙な関係だという。それは、解かる。安倍清明の染五郎さんと源博雅の勘九郎さんの受け答え、やり取り、台詞のキャッチボールが何とも言えない二人の繋がりを描いてくれたのである。原作が読みたくなる。安倍清明が博雅を「おまえはいい男だ」というのであるが、この<男>が<漢>と記されていて<おとこ>と読むのだそうである。漫画などではよくでてくるらしいが、私はまだ目にしていない。

それから『ターザン』の話しが出て、原作者のエドガー・ライス・バローズに飛ぶ。自分とは違う世界観に浸っていて、話しも微に入り感心してしまう。面白さの壺は、それぞれの感じ方の壺である。入り込んでいるが、かなりのこだわりもあり客観的でもあるので、突っ込んでも面白い回答が帰って来る。さらに、固定化されている部分があるので、私はそうは思わないと言っても一向に構わないのが楽である。ただ原作にあたっていない分こちらは不利である。

熊野は道が沢山あり、電車とバスを使っての旅は頭を使う。行った友人の話を聞き地図をみて、歩く距離と時間を検討し、そこへバスの時間を組み込んでとやっていると、松本清張の推理小説的頭の体操となる。準備体操段階で疲れてしまう。

つづき→     美・畏怖・祈りの熊野古道 (那智山) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

新橋演舞場 『笑う門には福来たる~女興行師 吉本せい~』

吉本興業の土台を作った吉本せいさんをモデルにしている山崎豊子さん原作『花のれん』のほうは、映画、テレビで見ている。映画は、豊田四郎監督で、淡島千景さんと森繁久弥さんの名コンビである。テレビのほうは、宮本信子さんで夫が死んだ後、心の支えになってくれる伊藤友衛役が藤竜也さんで、渋い素敵な役者さんになったと思って見た記憶がある。

『花のれん』は、吉本せいさんの手腕を主軸にしているが、『笑う門には福来たる』は、矢野誠一さんの『桜月記』を原作にしていて、せいさんと多くの芸人さんとの関係が交差していて、膨らみを持った分だけ、散漫になったふしがある。

関西の演芸史を盛り込んでの芝居である。それも、明治、大正、昭和の戦争をはさんで吉本せいさん(藤山直美)が亡くなるまである。それを、休憩を入れて三時間半、実質二時間半で繰り広げるのである。数々の芸人さんを映像で写し、如何に多くの芸人さんを抱えていたかを思い知らせてくれるが、その一人、一人で物語が出来てしまうような方々である。話しの中にその方々のエピソードなどが出てきて、あの芸人さんのことだなと思いいたるのである。エンタツ・アチャコ、ワカナ・一郎、ミヤコ蝶々さんら、それこそ蝶々のごとくヒラヒラと飛ばしてくれる。

もう少し、吉本せいさんと芸人さんとの関係を整理して、その絆の強さを押し出して、ラストにもっていったほうが、一貫性が強くなったように思える。ラストがあっての芝居である。桂春団治さん(林与一)と桂文蔵さん(石倉三郎)があの世から迎えにくるのである。

桂文蔵さんは、どんな噺家さんであったのか、実際には分からない。ただ、芝居の中では、せいさんの手を焼かせた芸人さんの代表である。春団治さんは、せいさんが全ての寄席の売り上げをかき集めて勝負をかけ、自分達の寄席へ呼びよせた芸人さんである。文蔵さんは舟で、春団治さんは、真っ赤な人力車で迎えにくる。せいさんは、赤い人力車が良いといって、その赤い人力車に乗り、通天閣に見守られ、ゆうゆうとあの世への花道を渡っていくのである。このラストの納め方によって、この芝居は救われている。

夫(あおい輝彦)よりも興行師としての才能があったせいさん。弟(市川月乃助)との芸人に対する考え方の違いを感じるせいさん。息子と笠置シズ子さんとの結婚を許さなかったせいさん。そういうことをも盛り込んでの構成である。大盛りである。

役者さんも揃い、皆さんきちんと収まっているが、皆さんが平均的に良い人ばかりというのも、味を薄めているところである。その中で、藤山直美さんは、喜劇役者としての見せ場を探され、健闘されている。近年直美さんは、父上の藤山寛美さんの役から距離を置かれ、喜劇役者・藤山直美の道を模索されているように思える。おこがましい言い方ではあるが、孤独な闘いに挑んでおられるように思える。繋ぐのと同じように、違う道を歩くということは、厳しい道のりである。ここまでの土台をもとに、突き進まれるのであろう。

仁支川峰子、川崎麻世、大津嶺子、東千晃、鶴田さやか、いま寛大

国立劇場 未完の『伊賀越道中双六』と媚薬

仇討となれば国立劇場の『伊賀越道中』とこなければならないのであるが、未完である。なぜかといえば、前の方の席で観たため、役者さんの動きはよくわかるのであるが、物語性が飛んでしまっている。もう少し離れて全体を見なければダメである。というわけで、後日、再度観る事にしているので、その時はしっかりと捉えたいと思っている。

<岡崎>の場面は、40数年振りの上演ということである。かなり、暗い場面であるが、吉右衛門さん、歌六さん、芝雀さん、東蔵さんのぶつかり合いがやはり良い。錦之助さんの悪役、又五郎さんの道化役が板についている。

若い役者は良い席で観た方が良いと言われた人がいるが、確かに、演じる方の手の先から足の先までどう動かしているかを観るには近くのほうが勉強になると思った。こちらは、役者になるわけでもないので、その動きが物語性よりも先行してちょっと仕切り直しである。先に物語性を受けて、役者さんの動きを再確認するほうが良かったようである。

昨日は歌舞伎学会の研究発表やトーク、朗読、シンポジウムがあった。

都合で聞けなかったのであるが、研究発表に「<新派復興>を考える ー 瀬戸英一「二筋道」と新派の昭和初年代」(発表者・赤井紀美)というのがあった。『空よりの声ー私の川口松太郎』(若城希伊子著)に、「二筋道」が大成功で花柳章太郎さんは人気絶頂であったとある。そして、瀬戸英一さんが亡くなった時、花柳さんは、通夜の席で泣き、「しっかりしてくれよ。瀬戸が死んじゃたんだよ。俺ももう四十だ。ぐずぐずしてはいられない。お前だって同じだぞ。瀬戸の跡を継ぐようなものを書いてくれ」と川口松太郎さんの両手を掴んで云ったとあり、筆者はその祈りに似た願いを、『明治一代女』としている。

その本で瀬戸栄一さんも『二筋道』も、初めて知ったが、その関連の発表である。凄いタイミングである。資料だけは頂いたので、ゆっくり読ませて貰うことにする。

トークは前進座の嵐圭史さんで、木下順二作の「子午線の祀り」の群読の知盛の部分を25分ほどにまとめられ、その朗読もして下さった。ご自分の経歴を通しての前進座の歴史劇『怒る富士』『五重塔』『天平の甍』らに至るまでを話された。そして、朗読の<息>についても話され、巧妙な緩急で朗読された。

シンポジウムが、「戦後歌舞伎と前進座」のテーマで、小池章太郎さん、原道生さん、渡辺保さん、<司会>犬丸治さんで、前進座の歌舞伎が面白かった時代のことを話される。前進座の歌舞伎が、松竹歌舞伎とは違う面白さを放っていた時期があったことは知っているが、観ていないのであるから想像がつかなかったが、その未知の世界の話しが面白い。小池さんは、前進座に居られたことがあり、翫右衛門さんと長十郎さんの芸に対する具体的なかかわり方を話される。原さんも、渡辺さんも、前進座の舞台は数多く観られているので、やはり面白かったと話される。渡辺さんは、同一作品に対する前進座歌舞伎と松竹歌舞伎の面白さの勝敗も紹介され、具体的に話されるので、何となく想像がつき納得させられる。

皆さん冷静に客観的に観る眼を持たれていて、歌舞伎学会というと硬く感じるが、どうして、その時には、冷徹と思われる眼が怖くて面白いのである。ベタベタ褒めてばかりいる人をみると、何か利害関係を感じてしまいうんざりするが、理に適った指摘は、もっと観なければと観る意欲をもらうのである。

そして、芝居の水面下での芸のぶつかり合いは、観客にとって、媚薬である。そんな舞台に遭遇したいがために、足が劇場に向かうのである。

 

 

 

映画 『大忠臣蔵』

12月14日、赤穂浪士討ち入りの日が選挙日である。自分たちの意見を反映するこの一票に何百億円の税金がかかっているのである。政治家がお金を出して、ご意見をどうぞと言っているわけではない。自分たちが納めた税金である。棄権などして税金の使われ損にされてはたまらないからきちんと投票します。

1957年の映画『大忠臣蔵』を見た。『仮名手本忠臣蔵』をもとにしている映画で、文楽や歌舞伎 でやっているものを、映画ではどうなるのか見たいと思っていた。重要な場面を取り入れ、映画的娯楽性も加味されていて楽しませて貰った。

大石内蔵助が、市川猿之助さん(初代猿翁)、大石主税が市川団子さん(二代目猿翁)、矢頭右衛門七が、市川染五郎さん(現・幸四郎)さん、立花左近が松本幸四郎さん(初代白鴎)さん、加古川本蔵が、坂東蓑助さん(八代目三津五郎)等が歌舞伎界から出演している。新派からは大石の妻・お石に水谷八重子さん(初代)。本蔵の妻・戸無瀬に山田五十鈴さん。映画界からも豪華メンバーが出演している。

歌舞伎にはない場面でも出演者の見せ場として作られている場面もある。

仇討が決まり、矢頭右衛門七が年齢が若く参加を認められないが、主税が認められて自分が認められないのは足軽の子ゆえかと主張し認められる。

内蔵助と立花左近との対決は、内蔵助が東下りの際、禁裏御用金を運ぶ役目として関所を通ろうとするが、それを止める関所守を左近としており、勧進帳を重ねて緊迫感を出している。内蔵助はそっと、<道中記 内蔵助>と書かれた道中記の表紙をみせ、左近は納得するのである。

討ち入り前、内蔵助が瑤泉院(有馬稲子)を訪ねそっと連判状を浅野内匠頭(北上弥太郎)の位牌の前に置き、それを、吉良の間者が盗み出す場面などである。

お馴染みの、おかる、勘平は高千穂ひづるさんと高田浩吉さんで、この辺りはきちんとえがき、勘平の切腹までを映画ならではの上手い運びとなっている。おかるが勤めにでる一文字屋の女将の沢村貞子さんと源太の桂小金治さんの雰囲気がよくはまっている。

おかるを請け出す内蔵助との場面、おかると兄・寺岡平右衛門(近衛十四郎)の場面も違和感がない。幇間の伴淳三郎さんのちょっとの出がいい。

そして光るのが、お石と戸無瀬の対決である。女性がやれば、このお二人しかいないと思う。小浪が嵯峨三智子さんで可愛らしい。死ぬ覚悟の時は、刀ではなく短刀であった。戸を外す仕掛けはやらなかった。どうするのかと興味があったが、映画では無理と思う。猿之助さん、蓑助さん、団子さんはよく解っている場面なので、それぞれ印象深い場面に仕上がっていた。

清水一角(大木実)が赤穂浪士に武士の生き方として心情的に魅かれていて、吉良家で茶会があるのを教え、吉良の逃げた先も教えるという形をとっている。

『仮名手本忠臣蔵』をなぞりつつ流れが上手くいくように工夫されていて、歌舞伎特有の節回しもなく、映画の『仮名手本忠臣蔵』として楽しめた。渋みのある初代猿翁さんもたっぷり見ることができた、他の忠臣蔵映画とは一味違う味わいとなった。

監督・大曾根辰保/脚本・井手雅人/撮影・石本秀雄/美術・大角純一/音楽・鈴木静一