『満映とわたし』の嵯峨野時代

  • 満映とわたし』(岸富美子・石井妙子共著)は、劇団民藝『時を接ぐ』の原作である。岸富美子さんが15歳で映画の編集助手として働き始め、そこで出会った映画関係の人々との交流で今まで知り得なかったこともかかれてある。富美子さんは、原節子さんと李香蘭さんと同じ年で、二人の作品の仕事もしている。岸さんの姿勢はおそらく色々な噂も耳にしていたのであろうが、自分で眼にしたことのみ書いている。そして仕事柄、自分と大スターとは違うというところをきちんと踏まえられている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』を見た少年に後の伊丹万作監督が紹介されていた。(『怪盗ジゴマと活動写真の時代』永嶺重敏著) 伊丹万作少年は、『ジゴマ』の内容よりも弁士駒田好洋の説明ぶりやポーラン探偵のしぐさのほうが印象に残る映画だったといわれている。その伊丹万作監督が『満映とわたし』にも登場した。

 

  • 伊藤大輔監督伊丹万作監督と松山中学で同窓で親友だったらしい。三十代後半の伊藤大輔監督は兄たちが次々病気で倒れ、15歳の少女が一家を支えなければならない事情もわかっていたのであろう。富美子さんに優しく接してくれた。家が近いため夜遅く帰宅する時は歩いて送ってくれたりもした。その時の様子が映画の名シーンのようである。

 

  • 伊藤監督は蝙蝠傘をいつも持っていてその蝙蝠傘で蛍をつかまえ、チリ紙に包んで持たせてくれた。富美子さんはその蛍を仏壇の花のところにはなすと父や兄の位牌をほの白く照らしてくれた。富美子さんには5人のお兄さんがいて長男はアメリカで一歳半で亡くなり、三男は満州にいる時伯母の養子となっている。富美子さんは満州で生まれている。同じくして父を失う。母と四人の子は日本にもどってくる。次男は映画の仕事でアメリカに行き家族の星であったが肺結核で亡くなってしまう。五男も映画の音楽担当であったが結核で療養中で母が付き添い、四男は徴兵検査に合格して入隊してしまうのである。(『時を接ぐ』では次男、四男、五男の三人の兄が出てくる)

 

  • 伊藤大輔監督はある日近道があるからと細い路地を入って行った。田んぼの中のある家の前で立ち止まり、伊丹万作監督の家で、今彼は病気なんだと教えてくれる。伊藤大輔監督は声はかけずじっと見つめて帰るだけであった。富美子さんは、その後、その道を通って家の様子をそっとのぞきながら仕事に通った。大好きな伊藤監督が心配している伊丹監督の様子を知っておきたかったとある。元気なようすであればお元気そうでしたよと伊藤監督に伝えたかったのでしょう。

 

  • 富美子さんは、勤めていた第一映画社が倒産し、日独合作映画『新しき土』の編集助手となる。この映画の日本側の共同監督が伊丹万作監督であった。共同監督とは名ばかりでアーノルド・ファンク監督の助監督のような立場で伊丹監督は降りるというのを周囲が伊丹監督にも編集権を与え伊丹版も作るということになった。これは知りませんでした。私が観たのはどちらだったのでしょうか。感じとしてはファンク監督版のような気がするのですが。比べて観てみたいものです。

 

  • 最初、富美子さんはファンク監督の映画の編集助手であったが、伊丹監督の編集助手にまわされる。伊丹監督の編集現場は仕事が過酷で次々と編集助手が倒れてしまうのである。一緒に仕事をして親切に教えてくれたドイツ人のアリスさんも困ると反対してくれたがどうにもならなかった。伊丹監督は病気が治ったのであろうかと顔をみるとやはり病人にしかみえなかった。編集助手と口をきく様なかたではなかった。そしてついに富美子さんも倒れてしまうのである。伊丹版で倒れた編集助手の5人目だった。伊藤監督のところではウルウルしたのに、映画監督の絶対的権力に唖然としてしまった。

 

  • それが当たり前だったのであろう。この過酷さを乗り越えなければ良いものは作れないとの想いが映画人にはあって、あの監督の映画のためならと思う映画人も沢山いたであろう。しかし末端の仕事をする者には過酷であった。幸いお兄さんが除隊となり富美子さんはほっとする。しかし、富美子さんも映画人気質が身についていて、元気になると、兄にどこの会社が良いであろうかと相談している。富美子さんはお兄さんと同じ日活の京都撮影所に入社する。

 

  • 『満映とわたし』であるからこれからが本題でもあるのだが、富美子さんが一人の映画人となっていく過程も魅力的である。人との出会いによってどんどん仕事にのめりこんで行くのである。若さの輝きとでもいうのであろうか。ここでは嵯峨野時代を少し紹介するにとどめる。

 

  • 満映のあった南新京についた町の様子が書かれていて、新京神社があり、西本願寺があったと書かれてあり、そうか神職に仕えるひとやお坊さんも行っていたのだと愛知県一宮の妙興寺の歌碑を思い出した。歌碑には「親のなき 子等をともない荒海於 渡里帰らん この荒海を」 妙興寺の十八世老師は旧満州の新京の妙心寺別院に布教のためにいかれ終戦をむかえられた。多くの孤児がさ迷っているので禅堂を改造して孤児を収容するため慈眼堂を開園。この歌は孤児三百名と共に帰国乗船の折り詠まれたとあった。岸富美子さんの家族もよく生きて帰られたと思われるような状況がこのあとやってくるのである。映画人の貴重な資料ともなっている。
  • 劇団民藝『時を接ぐ』

 

  • 少しつけ加えると、満映から日本にもっどた映画人の受け皿が東映であったとくくられるのはこの本を読んで違うなと思った。最後まで中国に残った内田吐夢監督が復員後東映に入り活躍するが、それは特例で岸富美子さん等は門戸を閉ざされ独立プロなどに入る。そのあたりは、この本を読んでもらうほうがよい。内田吐夢監督の苦悩とその後の映画作品にどう反映したかなども考察できるかもしれない。民藝『時を接ぐ』でも最後は岸富美子(日色ともゑ)の長いエピローグで締めくくるという形でなんとかおさめた。

 

『ジゴマ』の大旋風

  • 浅草六区の映画関係をさぐると、活動写真『ジゴマ』のことがでてくる。もう少し知りたいと思っていたら良い本にめぐりあえた。『怪盗ジゴマと活動写真の時代』(永嶺重敏著)である。読みやすくよく調べられている。活動写真の『ジゴマ』が、活動写真だけではなく小説本としても出版され、映画、出版の力で『ジゴマ』人気は爆発的となる。

 

  • 活動写真のほうは弁士というものがつき、それがまたまた『ジゴマ』に魅力を加えたようである。さらに『ジゴマ』は子供たちにも人気でそのことから、教育上好ましくなく、犯罪を誘発するということで、上映禁止となる。さらに映画の検閲というものがそれまでいい加減であったものが『ジゴマ』によって確立されていくのである。それらの流れが順序だてられながら明らかにされている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』は明治44年11月に浅草公園「金龍館」で公開される。フランス映画で、凶悪な盗賊ジゴマと探偵ポーランの活劇探偵映画であるが、この悪い方のジゴマが主人公となって暴れまわるようである。それが弁士によってさらに色を加えて語られ観客は惹きつけられる。驚くのは、明治天皇が崩御され明治45年7月30日に明治から大正と改元される。地方映画館では、明治天皇の『御大葬実況』の映像と『ジゴマ』が併映されてもいたのである。

 

  • この本で面白いのは、弁士の活躍も書かれている。活弁の創始者・駒田好洋さんは、巡業隊を組んで『ジゴマ』を持って地方都市をまわっている。それを、江戸川乱歩さんは名古屋の「御園座」でみている。その体験が乱歩さんの作品に影響を与えるのである。後に映画監督となった伊丹万作さんも松山でみている。

 

  • 駒田好洋巡業隊はブラスバンドつきで駒田好洋が燕尾服にシルクハット、白手袋で指揮をとっての行進である。そのパフォーマンスにも人気があった。想像しただけでも人々のどよめきが聞こえる。幕間の休憩には、長唄の『勧進帳』『吾妻八景』を駒田好洋さん自ら他の弁士と演奏したとある。これが三味線演奏なのかどうかはわからない。京都では「歌舞伎座」(新京極にあった歌舞伎座であろう)、南座でも上映している。

 

  • 活動写真は配給だけだったのが次第に映画製作→配給→専属映画館での封切などと変わってくる。活動写真のほうは特に小学生に人気があった。出版界は活動写真の『ジゴマ』を忠実に文字にしていたが、小説版の新しい『ジゴマ』作品に乗り出しこれが中学生に人気を博す。さらに日本版の『ジゴマ』の活動写真も制作され、その内容が俗悪化していく。そこで、東京朝日新聞が『ジゴマ』映画が犯罪を招くと記事を連載。このことがきっかけで大正元年10月9日に」『ジゴマ』上映が禁止される。そしてこの処分の混乱から映画検閲方法が一本化されていくのである。

 

  • 『ジゴマ』のまえから、活動写真館の館内が子供の健康に悪いという事は問題視されていたようだ。窓を開けてのわずかな換気での空気の悪さ。ほこり、タバコの煙、人の吐く息、さらにフイルムの劣化による映像の悪さによる視覚に対する悪影響など。そこにきて『ジゴマ』の犯罪者が逃げのびてしまうのである。その旋風は子供たちをも巻き込みながら、ジゴマブームは一年間で終わってしまうという呆気ないようなみじかさであった。

 

  • 映像と活字メディアは、『ジゴマ』から集客ということでは、その方法論を学んだことであろう。活動写真は映画と言われるようになるのが大正中期だそうで、添え物の映像が自立する過程でもある。『ジゴマ』は流行りものは浅草から始まるという一つの象徴でもある。『ジゴマ』の三文字が、なかなか実体として思い描けなかったが、その実態を浮き彫りにしてくれたのが『怪盗ジゴマと活動写真の時代』である。状態のよいフィイルムで見せて貰った気分である。

 

  • 『ジゴマ』時代にも問題視された浅草の不良少年。大正時代の中期頃からエンコ(浅草)の不良として登場するのが、サトウ・ハチローさんである。とにかくすったもんだの問題児であった。『実録 ぼくは浅草の不良少年 サトウ・ハチロー伝』(玉川しんめい著)によると不良でも女性ぬきの硬派だったとしている。映画館で男女がイチャイチャしていると、警察の者だがちょっと外へと連れ出し、後で調べるからちょっと待って居なさいといって男女を置き去りにし、存分に映画をたのしんだとある。

 

  • 『怪盗ジゴマと活動写真の時代』によると大正6年(1917年)に「活動写真興行取締規則」ができ、男女客席が区別されるので、サトウ・ハチローさんが男女を映画館から追い出したのはその規則ができるまえであろう。さらに、『サトウ・ハチロー伝』では当時の変わり者警視総督で、文人である丸山鶴吉に宛てた訴えの中に、映画館の男女席の撤廃は風紀を乱されるとして反対したとある。これは、昭和6年(1931年)に規則が撤廃され、男女席が同じになった時のことであろう。

 

  • サトウ・ハチローさんは、浅草公園の興行師・根岸吉之助さんにビール代をもらい事務所でごろごろしている時期があった。「金龍館」の表事務所に用があり行くと以前よく顔を合わせて苦笑いをした刑事としばらくぶりで合った。話しを聞くと根岸の三館共通館に刑事をやめて勤めていたというような話も書かれている。『サトウ・ハチロ―伝』のほうは、ハチローさんをとりまく不可思議な知り合いがチラホラと多数でてきて噴き出してしまう。その後よく知られるようになった人の名もある。浅草にはあだ名だけの有名人も存在していた。不良だからこそ接することができた世界がそこにはある。

 

大衆演劇散見

  • 浅草木馬館から始まった大衆演劇散見は、10劇団は観劇したと思う。大阪は新世界にある朝日劇場がデビューである。『合邦辻閻魔堂』に参ったのでここから移動も面倒なので新世界の朝日劇場にした。劇団名は頭の中で混乱しており調べるのも手間なので記さないこととするのであしからず。座長さんが「数ある大阪の大衆演劇劇場の中でここを選んでくださりありがとうございます。」の挨拶。大阪は大衆演劇の激戦区らしい。災害の影響か、新世界も観光客の人数は減っているように思う。

 

  • 大衆演劇を観て思うには、股旅物は大衆演劇が継承してくれるであろうということである。もう大衆演劇しかないともいえる。まだその形を身体に残していてくれる役者さんが多く残っていてくれるからである。ただ大衆演劇の場合毎日、昼夜芝居の演目が代わることが多いので気に入った芝居にあたるかどうかはわからない。いつも飛び込みなので当って砕けろである。新たな劇団、できれば新たな劇場を目指しての散見である。大衆演劇の劇場を訪ねると名所仏閣とか美術館とはまた違った思わぬ風景と出会う。

 

  • 愛知一宮の妙興寺駅の近くの一宮芸能館SAZANもそうであった。駅から近いらしく駅の反対側には妙興寺がある。無人駅である。駅前には大きなスーパーだけ。まわりには何もない。本当に劇場があるのであろうか。あった。公演しているとのこと。では、妙興寺へ。これがなかなかのお寺さんで、正式には『妙興報恩禅寺』と称し禅寺の修業の道場のためのお寺さんなのだそうであるが山門も大きい。拝観の釈迦三尊像の大日如来像のお顔がすっきりとしている。脇の普賢菩薩と文殊菩薩もいい。考えたら久方ぶりの仏像拝観である。お寺のかたのお話では確か3月から11月までの公開で寒い時期は閉まっているらしい。

 

  • お隣の一宮市博物館にはもっと古い時代の仏像がありますと教えていただいたが、博物館は工事のため閉館していた。残念である。駅近くまでもどろうとして線路を越えたら、和風の大きな建物がありお蕎麦屋さんかと思いきや珈琲専門店であった。周りは何もない。車や自転車が並んでいる。中は広いので、お客さんが良い具合にくつろいでいる。名古屋ならではのモーニングでシナモントーストをつけてもらう。おいしい。棟方志功さんの版画が何か所かにかかっている。野の草花が生けてある。お店の人によると、専門の人が生けにきて、このお花の写真を撮りに来る人もいるらしい。納得。『らんぷ』。チェーン店らしい。経験したことのない土地の様子である。

 

  • 芝居のほうは、これまた挨拶で「今日は午前中風が強かったようですが、私たちは大災害などにならない限りお客様が一人でも開演しますので安心して足をお運びください。」と。誰かさんに嫌味に聴こえそうであるが、その前のことである。これが芸人さんだとおもう。あのかたは、ご自分が大アーティストと思っておられるのであろう。それはさておき、こんな具合に、その土地の面白い風景に出会ってしまうのが醍醐味でもある。

 

  • 昨夜、NHKテレビ『探検バケモン』(再放送・10月31日午前4時02分~)で東京北区の十条銀座商店街と篠原演芸場が紹介されていたが、この十条銀座商店街に行った時、アニメの中の商店街が突然出現したような驚きであった。横浜には小さいがこんなところに商店街がと思う場所が三吉橋通商店街。商店街に入ると上に「歌丸さんありがとう」の横断幕があった。歌丸さんが亡くなられたとき、テレビでこの風景が映されていた。まさかその商店街に立つとは思わなかった。この場でそっと合掌させてもらった。ここに歌丸さんも愛した三吉演芸場がある。

 

  • 劇場の中は様々で、どんな場所であっても役者さんたちは、そこでどうしたらお客さんに楽しんでもらえるか工夫されている。設備の問題、照明の問題、音響の問題などこちらから観ていてもハラハラする時もあるが、それも大衆演劇のご愛嬌となる。家内工業的に、役者さんのおばちゃんが照明をされていたりもする。舞台が近いので、上手い、下手もよくわかる。三度笠一つとっても若いのに綺麗な扱い方をしていたり、やはり、立ち姿に年季が入っているなど一目でわかる。近いだけにそういう怖さもある。

 

  • 何が飛び出すか分からないのも大衆演劇の楽しさでもある。ゲストの役者さんが来ている日は、劇団の人数では出来ないような芝居をされたりするようでもある。名作と言われる芝居も、その芯はとらえつつ笑いを入れ、お客さんが飽きないように工夫し、そこが上手くいくとお見事とおもってしまう。笑いから芯に引き戻す力量がいる。ラストショーがメチャクチャ盛り上がったりする。それらと出会えるかどうかはなんとも保証のかぎりではない。こうだからこう楽しいとは限定できないのである。

 

  • 一回の観劇では、演目も踊りも変わるのでその劇団の特色がわかったことにはならない。大衆演劇が観たいという友人を連れていって、あの踊りがもう一度観たいのだがといわれたが、それがいつ出るのか保証の限りではないと伝える。一緒に行った人はほとんどが値段の安さに驚く。それと、終演後の役者さんによるお見送り(送り出し)。こちらが10劇団ほど観させてもらったのも、お値段と一か月は公演しているからである。もう一度観たいと思っているのは、同性のよしみでお名前をあげさせてもらうと、橘鈴丸座長である。最初女座長とは知らず少し線が細いなとおもったが、踊りの発想がおもしろく、なるほどと思う。女子高校生が好みそうである。大衆演劇はなんでもありでいいと思う。

 

  • 温泉につかってお芝居や舞踏ショーを楽しむなどとは、日本の庶民ならではの文化であろう。ずーっと働き続けて、時々息子さんがここに送って来てくれ、ゆっくりここで一日過ごすことができるのが楽しみであるという方のお話を耳にすることもある。遊びかたが多様化して大衆演劇も大変のようであるが庶民の楽しみの場は元気であってほしい。

 

  • 〔追記〕 思い通り、女座長・橘鈴丸さんを観にいく。武蔵野線の吉川駅から5分。場所がわかれば帰りはもっと近い。駅のこんな近くに温泉がある。よしかわ天然温泉ゆあみ。大衆演劇つき。温泉好きが、大衆演劇の力に負けて温泉にも入らずに退散とはこれいかに。芝居は母もので泣かせてくれる。長い台詞なのにくどいとは思わせない。怒りが情に変わる。舞踏ショーでは、がらりとかわってやさぐれた男(中性的)を現代バージョンでおどる。そう!鈴丸座長のこういう雰囲気見たかったのです。今後の予定で、怖いのをやりますと言ってました。つつつーと引っ張られた。怖いのいいと思う。いつかまたの機会にである。楽しかった。ファイト!

 

『合邦辻閻魔堂』

  • 松竹座へ歌舞伎鑑賞で行った時、以前閉まっていた『合邦辻閻魔堂』に再度訪問を果した。無事お参りできた。これで一つ気にかかっていたことを終わらせることができた。そして、無償に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の浄瑠璃が聞きたくなった。タイミングよろしくお江戸日本橋亭で女流義太夫演奏会があり聞くことができた。『摂州合邦辻 合邦庵室の段』を浄瑠璃・竹本越若さん、三味線・鶴澤駒治さんである。

 

  • お辻(玉手御前)が嫁入り先の継子に恋をして、お辻の父・合邦が継子の俊徳丸と許嫁・浅香姫をかくまっているのを知り、合邦庵室に訪ねてくるのである。事情を知っている合邦は家にいれるのを拒みますが母のほうが懇願し入れてやるのである。何んとかお辻の考えを改めさせようとする親とあきらめない娘のやりとりとなる。恋に狂うというがあるがお辻はその典型で、恋に狂う女の妖しさもかもしだされるのである。そこが、女流ならではの妖しさとなって聞かせてくれた。これもまた実はがあるのだが、それは無しとして聴くのが常道である。

 

  • まじかで聞かせてもらって、三味線の手にも感心してしまった。どうしてこういう好い手がはいるのであろうか。浄瑠璃はそのふしの流れと、三味線の手のシステムがよく分からないのであるが、魅了される。ほんとに不思議である。それに合わせて動く人形。それをさらに人間の身体で表そうとして取り入れた歌舞伎の先人たちにも思いが馳せる。

 

  • そのほか『絵本太功記 尼ヶ崎の段』(浄瑠璃・竹本越里/三味線・鶴澤津賀榮)、『伽羅先代萩 政岡忠義の段』(浄瑠璃・竹本駒佳/三味線・鶴澤賀寿)、『妹背山婦女庭訓 金殿の段』(浄瑠璃・竹本綾之助/鶴澤津賀花)であった。

 

  • 義太夫の後は、『三井記念美術館』へ。「仏像の姿(かたち) ~微笑む・飾る・踊る~」仏師がアーティストになる瞬間。「顔」「装飾」「動きとポーズ」に切り口をいれての展示である。こんなお顔が。こんなに前かが身なの。力士さんみたい。風をおこして動いてる。不動明王さまの髪がそれぞれ違うがかつらみたい。さすが力の入った見得。全身飾ってますね。その変化が楽しかった。

 

  • 東京藝術大学文化保存学(彫刻)とのコラボとして仏像の復刻作品や修復作品なども展示され、寄木作りでは部分、部分がどのようにつながるかも分かりやすく少し離して分解してくれていて、なるほどパーツごとに彫られて一つになるのかと大変参考になった。

 

  • 正式には東京芸大大学院美術研究科文化財保存学保存修復彫刻研究室(籔内佐斗司教授)のスタッフが制作した薬師如来が、福島県の磐梯町にある史跡慧日寺跡の金堂に納められ、その映像があった。慧日寺(えにちじ)は徳一という人が開いた寺で司馬遼太郎さんが『白河・会津のみち』の「徳一」「大いなる会津人」で書かれている。旧仏教(奈良仏教)を代表して、新仏教(平安仏教)の最澄と論戦し、最澄を苦しめつづけたと。その新しい金堂に平成に作られた薬師如来像が納められたのである。慧日寺の名は忘れていたが、徳一という名前は憶えていて『磐梯とくいつ芸術祭』のチラシにもしかしてあの徳一さんかなと思ったのである。

 

  • 2018年の『磐梯とくいつ芸術祭』はチラシによると慧日寺資料館で「薬師如来像ができるまで」を紹介しているらしいが、検索してもでてこないので、もし興味があるなら慧日寺資料館に電話で問い合わせるほうがよい。金堂の薬師如来像の拝観も同様に問い合わせられたい。慧日寺跡はいってみたい場所である。何もないとおもっていたので。

 

10月歌舞伎座『宮島のだんまり』『吉野山』『助六曲輪初花桜』

  • 宮島のだんまり』は、宮島の厳島神社を背景に13人の登場人物が闇の中を動きまわって探り合うのである。赤旗が出てくるので、それをめぐる平家と源氏ということになる。途中でこの赤旗を全員が手に見得を切ったりするので小道具としてもいきる。最初は、大江広元、典侍の局、川津三郎の三人で次々増えてゆき、中心となる傾城浮舟太夫(実は盗賊)が背後中央から姿を見せて消え、さらに増えてゆく。役よりも役者さんは誰とそちらが気になる。

 

  • 観たときは何んとなくどんな人物かを姿でとらえていた。武士、奴、奥女中、姫とか。登場人物名をみて少し探りを入れた。観る前に知っていたらもっと楽しめたであろうと残念に思う。間違っているかもしれないが記しておく。傾城浮舟太夫・盗賊袈裟太郎(扇雀/ほかでのこの名は聴かない。衣裳と最後の引っ込みに注目)、大江広元(錦之助/『頼朝の死』に出てくる。政治に長けた立役)、典侍の局(高麗蔵/『大物浦』で安徳帝を抱える乳母)、相模五郎(歌昇/『大物浦』での注進。衣裳も分かりやすく目立つ)、本田景久(巳之助/くわしくは不明で立役ということでは他にもいるので難しいしどころ)、白拍子祇王(種之助/清盛に愛され捨てられた方で白拍子は分かりいい)、奴団平(隼人/色奴でこれも一目でわかる)

 

  • 今回の舞台は、来年の新春浅草歌舞伎のメンバーが色々な役を受け持ってい、修練の舞台のようでもある。役の衣裳を着させてもらうだけでも勉強になる。新しい春にはどんな役に挑戦することになるか楽しみである。ただ人形振りが二つあるというのは避けていただきたい。歌舞伎初めての観客が『操り三番叟』で、おう!といって興味を示したが、『京人形』では次第にテンションが下がりきみであった。気持ちわかります。興味度を表に出す分かりやすいお客さんでさすが浅草である。

 

  • 息女照姫(鶴松/お姫様)、浅野弾正(吉之丞/浅野長政のことなのであろうか。悪の立役であろうか不明)、御守殿おたき(歌女之丞/『小猿七之助』の奥女中滝川。そろそろ『小猿七之助』が観たい)、悪七兵衛景清(片岡亀蔵/名は分かりやすいが演る方にとっては重い)、河津三郎(萬次郎/曽我五郎、十郎の父。名前はでても、芝居には出てこない方である)、平相国清盛(彌十郎/これまた知られ過ぎていてかえって難易度)

 

  • 書いているともう一回観たくなる。13人を捉えるのは観る方にとってもゲームに挑戦する能力が必要になる。「だんまり」とは「暗闇」とも書くのだそうだ。暗闇でのだんまりとは言わないということか。まあいいでしょう。人間だもの。改ざんされた数字に比べれば。ただ時々やってしまうお名前の間違えは平身低頭である。ご容赦ください。

 

  • 吉野山』は言うことなしの満足である。静御前の玉三郎さんは花道からの出で、たっぷりと見せてくれる。失礼ながら、何が失礼なのかわからないが、勘九郎さんの忠信とぴったりなのである。勘九郎さんがそれだけ成長されたということであろうか。これ以上書くとはげ山になりそうなのでおしまい。

 

  • 玉三郎さんを観たいと友人がいうので先月夜の部の切符を用意してあげた。「『幽玄』、よくわからなかった。」気持ちはわかる。彼女は『鷺娘』で時間が止っているのである。『吉野山』を観せるべきであったかも。こちらも観てみないと決められないのである。海老蔵さんが観たいというので『源氏物語』を。「『源氏物語』は荒事のような張る台詞がないのね。あれが好きなんだけど。」それは『新・新・源氏物語』でもできればあるかもである。「歌舞伎って何か新しく変わってしまったのね。」観せたものがそうだったのであるが、選択の難しい時代ともいえる。

 

  • 今回の『助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)』はおおいに笑ってしまった。いつもは少々固まって観ていたようにおもう。揚巻の出とか、助六の花道のしどころとかしっかり観なくちゃの意識が働きすぎていた。七之助さんの揚巻は、匂いたつ花魁というより実のあるしっかり者という印象で、それがかえって助六を子供に見せているところが面白い。

 

  • 助六の仁左衛門さんは格好良さが決まっていた。助六は自分というモテモテ男をもっと格好良くみせようとしているのである。よく先人の役者さんはこうでもかというしどころを考案したものである。助六は、どうしたら相手に刀を抜かせられるか、その場その場でアドリブで考え行動しているのである。芝居として形になっているが、ちょっとそれを横に置いておくと現代のコミックも真っ青の行動である。

 

  • お兄ちゃんがまた助六に輪をかけて可笑しい。お兄ちゃんが勘九郎さんだからまたまた可笑しい。この兄弟メチャクチャである。これが成り立って名作となってしまうのであるから、歌舞伎おそろしやである。それに付き合う髭の意休が歌六さんで、ばかめと助六を甘くみていてはいけません。ほらね、やはりはまってしまった。

 

  • 助六に遊ばれるくわんぺら門兵衛の又五郎さんも喜劇性がなじんできました。朝顔仙平の巳之助さんはこういう役はやはり上手い。若衆とはいかにの片岡亀蔵さん。勘三郎さんの通人みましたよ。同じ役の重責を担って彌十郎さんが勘三郎さんに舞台から中村屋兄弟の活躍を報告をされていました。まだ少し繊細な千之助さんの福山かつぎ。男伊達もずらーっと男でござると微動だにしないで脇にひかえていました。さりげなく役目をはたす白菊の歌女之丞さん。大阪で見かけないと思いましたら竹三郎さんは遣り手お辰で江戸でしたか。さすが引き締め役の三浦屋女房の秀太郎さん。傾城はつぼみがはじけそうな白玉の児太郎さん。舞台の板にしっかり根を張り始めた宗之助さん。お名前わからないが堂々とした傾城が声もよくそろっていた。

 

  • 兄弟の母の玉三郎さん。このしっかりした母親だからこそ、こういう兄弟に育ったのか。こういう母親にいいところを見せようと思うからこそ、早く刀を見つけてと無理を通すのか。凄いですこのお母さん。こんな状態では、父に申し訳ないからお墓の前で自害するという。こういう母には勝てません。そして、紙子の着物を助六にお守りとして渡す。無理をすれば破れるのである。考えることが凄いです。こんなにハチャメチャ楽しい芝居だったのだ。そこを格好良くみせてしまうという表と裏の一体感。これだけだまされたら許せます。愉しみました。

 

  • 兄弟の母の玉三郎さん。このしっかりした母親だからこそ、こういう兄弟に育ったのか。こういう母親にいいところを見せようと思うからこそ、早く刀を見つけてと無理を通すのか。凄いですこのお母さん。こんな状態では、父に申し訳ないからお墓の前で自害するという。こういう母には勝てません。そして、紙子の着物を助六にお守りとして渡す。無理をすれば破れるのである。考えることが凄いです。こんなにハチャメチャ楽しい芝居だったのだ。そこを格好良くみせてしまうという表と裏の一体感。これだけだまされたら許せます。愉しみました。

 

歌舞伎座10月『三人吉三巴白浪』『大江山酒呑童子』『佐倉義民伝』

  • 10月の歌舞伎座は、十八世中村勘三郎七回忌追善公演である。一階ロビーに勘三郎さんの遺影が飾られている。『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は、お嬢吉三の七之助さんとお坊吉三の巳之助さん、味が薄かった。台詞やしどころは教えを受けていればその通りに、あるいは相当丁寧に練習されているとは思うが引きつけられなかった。和尚吉三の獅童さんは勘三郎さんの台詞を練習されたように響き、上手く自分の中に取り込まれたように思えた。和尚吉三がでてきて三角形になったように思う。おとせの鶴松さんは生活からくる哀れさが欲しい。可愛らし過ぎた。

 

  • 大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)』は面白かった。勘九郎さんの酒呑童子がいい。こんな童子のお人形があるなと思わせられる。国立劇場で『舞踏・邦楽でよみがえる 東京の明治』の中に『茨木』があった。録画で歌右衛門さんのと茨木童子、松緑さんの渡辺綱を先に観た。歌右衛門さんが最初の伯母真柴のところで、こちらが茨木童子に変わるのだと知っているのに、そのことを忘れさせるくらい綱を想う真柴であった。国立劇場での花柳寿楽さんの茨木童子と花柳基さんの綱も踊りの心の骨格がしっかりされていて良かった。ただ観る条件として、前の方が背の高い方で視野がさえぎられ残念であったが、こればかりは仕方のないことである。

 

  • 国立劇場で、鬼人などに変わるものは、観る方も先ず最初の役の踊りに没頭し、演者も没頭させてくれなくてはいけないのだと確認できた。勘九郎さんの酒呑童子はまさしくその条件にかなっていた。その稚気さ、気持ちをそらさない動きなど大変気にいった。ただ勘九郎さんは膝大丈夫なのであろうかと気になる。かなり以前ドキュメンタリーで膝を悪くされていたのを見て以来、好い踊りを見せられると気にかかるのである。使い続ける箇所なので大切にされてほしい。舞台にでると無理を承知で動かれてしまうことになるのであろうから。

 

  • 扇雀さんの頼光は、八月の『花魁草』のお蝶とはガラっと変わる声質である。頼光が出れば四天王で、平井保昌の錦之助さんを先頭に颯爽とした四天王であった。童子に捕らえられていた女たちの踊りが花を添える。初めて観るような新鮮な『大江山酒呑童子』であった。

 

  • 佐倉義民伝』は、何回観ても泣かされる。命をかけての直訴。命と引き換えても訴えなければならない窮状なのである。二階ロビーには、御本尊宗吾様像が祀られていた。直訴を決めて最後の家族との別れに向かう白鷗さんの宗五郎。お咎めを覚悟で渡しの舟を出す歌六さんの甚兵衛。家に帰ってみると、子供の着物も困っている同郷の人に持たせ、夫の離縁に抗議する女房おさんの七之助さん。七之助さんが芯のしっかりしたところを見せて白鷗さんの慈愛に満ちた宗五郎と上手くマッチして大きな仕事を支える様子がよい。

 

  • ぱっと舞台が紅葉に赤い渡り廊下となる東叡山の場面。苦しむ農民の生活と余りにも違うこの明るさと赤は、血潮さえ思い起こさせる。そこに現れる将軍家綱の勘九郎さんが凛々しく大きい。宗五郎の直訴文を読む松平伊豆守の高麗蔵さん。上書きは投げつけ、直訴文は袂にしまう。安堵する宗五郎。観ている方も涙する。将軍を囲む武家たちの長袴の裃姿の若手さんも美しくきまっていた。

 

  • 友人が『宗吾霊堂』に行った事がないというので夏、甚兵衛渡しまで行くことにした。半日コースと『宗吾霊堂』まえでお蕎麦を食べてからお参り。境内には『御一代記館』があり佐倉惣五郎の一代記が見れる。人形をつかった場面、場面に音声解説がついている。歌舞伎の場面と相似している。『宗吾霊宝殿』には惣五郎ゆかりのものと、様々な方の色紙などがある。確か、幸四郎時代の現白鷗さんと勘三郎さんの色紙もあったように思う。漫画家やイラストレーターの方の色紙の「義」の文字に対するアイデアがやはりユニークである。

 

  • 『宗吾霊堂』から甚兵衛渡しまで「義民ロード」というのがあり、その地図をダウンロードして検討を付けて行ったのだがどうも違うらしく戻って地元の方にきく。その地図では地元の人も説明できないと丁寧に教えてくれた。途中に『麻賀多神社』があり、そこまでももう一度地元の方に尋ねた。『麻賀多神社』は、なかなか趣のある木々に囲まれた古い神社で気に入ってしまった。ただ常時人がいるわけではなく、御朱印は日にちがきめられていた。空が真っ黒な雨雲発生で、途中で降られては大変とひきかえした。もし行くことがあったらバスで甚兵衛渡しまで行きもどるコースとしたい。道に迷った時、一日一便のバス停があった。一日一便は初めて見た。どんなひとがどんな使い方をするのかと友人と首をかしげてしまった。

 

  • 一階、二階のロビーのことを書いたのですから、三階も書かなくては。三階には、亡くなられた名優たちのお写真がありますが、初世齊入さんのお写真が以前よりかなり近くに感じられます。誰かが思い出せばその人は生きている人の中で生きかえります。でも憎らしかったあいつなんていうのは。う~ん、それもありでしょうかね。人間だもの。(相田みつをさん風締めになってしまった)

 

松竹座 十月歌舞伎(二代目齊入、三代目右團次襲名公演)

  • 大阪松竹座の十月歌舞伎は、市川右之助改め二代目市川齊入、市川右近改め三代目市川右團次・襲名披露と二代目市川右近初お目見えの舞台である。昨年(2017年)の1月に新橋演舞場で三代目右團次さんと二代目右近さんの襲名舞台があり、7月に歌舞伎座で二代目右之助さんが二代目齊入さんとなられた。そして今回、お二人の生まれ故郷大阪での襲名披露公演である。

 

  • またまた映画のことになるが、映画『殺陣師段平』の中で段平が自分は右團次のところにいたんだと自慢する。歌舞伎にいたんだではなく、右團次のところにいたと作者が書いたのであるから、右團次という役者さんは言ってわかるような方だったのだとは思ったがそのまま深く考えなかった。そして、右近さんが右團次を襲名されても、三代目猿之助(二代目猿翁)さんのところに部屋子として入られたかたが右團次さんを継がれるのは、お目出度いことであるでとまっていた。

 

  • 今回、松竹座のロビーに、初代右團次(初代齊入)さん、二代目右團次さん、二代目齊入さん、三代目右團次さんの4人のかたの紹介が掲げられていた。それを読んで、初代、二代目とケレン歌舞伎を得意とされていたことがわかった。そしてその芸を受け継いでいたのが三代目猿之助さんで、さらに猿之助さんのもとで修業されその芸を受け継いでいるのが現右團次さんである。

 

  • 右之助さんは、曾祖父の名・齊入の二代目代を受け継がれ、芸がつながっている市川右近さんによって右團次の名前が復活したのであるから、こういう繋がりかたもあるのかと素敵な風を感じる。二代目齊入さんは、三代目寿海さんの部屋子となられ、右之助を襲名し、寿海さん死後は十二代目團十郎さんに入門され現在に至っている。

 

  • 1962年の映画『殺陣師段平』を少し前にみていた。澤田正二郎は市川雷蔵さんで、雷蔵さんが寿海さんのところを離れ映画に移られたのが1954年で、1955年に右之助さんは寿海さんの部屋子となられている。映画での段平は鴈治郎さんである。右團次のところにいたという段平が橋の欄干でトンボをきるが、これは右團次さんのところにいたケレンの芸の一端として見せていたのであったかと気が付く。当時、鴈治郎さんや雷蔵さんの中では、右團次さんの名前は生きていたであろう。

 

  • 今回の襲名口上に藤十郎さんや鴈治郎さんが並ばれ、大阪生まれの齊入さんと右團次さんが大阪で襲名公演をされるというのが、なにか巡り巡って頑張ってこられたお二人にとってとても喜ばしく感じられるのである。そしてそれを支える海老蔵さんと猿之助さん。二代目齊入さん、三代目右團次さんも芸にさらに力が加わることであろう。とてもいい襲名公演である。

 

  • お芝居については、サクッとすかし編みで。『華果西遊記(かかさいゆうき)』は、孫悟空の活躍で蜘蛛の精の姉妹から三蔵法師を助け出すという痛快劇。耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。ひょうきんさは、猪八戒と沙悟浄が担当で、孫悟空は耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。孫悟空(右團次)と分身(右近)は、きんと雲に乗って(宙乗り)三蔵法師を助けに行き無事助けだす。歌舞伎の西遊記ならこれ!として気楽に楽しめる芝居となって定着。

 

  • 市川右近さんも無事挨拶ができ、大きな拍手のなか『口上』も目出度く終了。『神明恵和合取組(かみのめぎみわごうのとりくみ) め組の喧嘩』は、町方の鳶と力士の喧嘩という江戸の華同士の喧嘩を粋にいなせに見せてくれる。江戸の風景が舞台いっぱいのさく裂。鳶は町人で力士は武士のお抱えのためそれを鼻にかけている。鳶たちにはそれが気に食わない。こちらは庶民のために命を張っているのだの意識がある。品川島崎楼で一度は尾花屋女房おくら(齊入)の仲裁もあったが、芝居小屋でも小競り合いがあり、鳶の頭・め組辰五郎(海老蔵)はついに堪忍袋の緒が切れ、四ツ車大八(右團次)らとの喧嘩場面の大詰めとなる。

 

  • これでもかという喧嘩場面で、大勢の鳶が屋根の上に壁伝いに上から差し伸べる手を頼りに登っていくが、一人くらい失敗するのではと思ったが全員無事屋根に上った。つまらぬ期待をしてしまった。力士も力士らしく、鳶も格好良くと転んだりすべったりで、ひとりひとりの役者さんを確認するのは難しいが、ときにはぱっとわかることがある。おっ、頑張っていますね。これを仲裁するのが、喜三郎(鴈治郎)で、町方を取り締まる町奉行と相撲を取り締まる寺社奉行からたまわった法被を見せるのである。江戸の取り締まりの仕組みの一端がみえる。間に、鳶頭の女房・お仲(雀右衛門)と息子とのやりとりがあり、ことここにいたったら覚悟はできているの夫婦のみせどころと親子の情が展開される。

 

  • 玉屋清吉』は、新作歌舞伎舞踏で、海老蔵さんの新作のときはどうも捉えられないことがあり今回も。このように思っているのだろうなとは感じるのですが。江戸の花火師を主人公にしている。愛嬌のある花火師・玉屋清吉が登場。鳶頭・辰五郎の時、鋭利な中にもふっとやわらかさも欲しいとおもったのでこれはとおもったのである。下駄タップになって、そのあと舞台は映像の花火と三味線の音の掛け合い。この掛け合いは、面白かった。少し長い。出ました。花火の精ということなのでしょう。荒事の姿。うーん。個人的要望としましては気風の好い粋さの踊りで埋め尽くして欲しかった。

 

  •  雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』は、新橋演舞場 壽新春大歌舞伎 ~ 三代目市川右團次、二代目市川右近襲名披露~ 昼の部 を参照されたい。書かれている中で今回役がかわられているのは、勘解由兵衛景逸(九團次)、局・長尾(齊入)、大江匡房(鴈治郎)である。齊入さんは女形のほうが向いておられるように思う。市川右近さんが成長されて、梅若丸が猿島惣太に折檻される場面で逃げまわる動きがスムーズになられ、最後の松若丸が掛け軸を持つ場面もしっかりしていて、これなら次の当主になれると思わせる。

 

  • 大きく変わるのは、「鯉つかみ」の前に、齊入さんがお家芸であることが紹介され「鯉つかみ」もその芸の歴史が明らかとなる。小布施主税役の米吉さんも小粒できりりとの感じで脇に並び控え頼もしかった。右團次さん本水の立ち廻りの「鯉つかみ」をしっかりつとめられる。伴藤内は新橋でも滝にうたれたであろうか。記憶が定かでない。今回は『黒塚』がないので隅田川での斑如御前の猿之助さんの踊る場面が見どころとなる。

 

  • 絵から鯉が飛び出し、人買いが出てきて、お金が出てきて、隅田川物がありなどで芝居にどんどん取り入れていくのが近松門左衛門さんさんらしいかななどともおもえた。流れもスムーズで、時間をかけてここまできたのであろう。全体に世代交代も感じられじわじわと役者さんが足跡を残しつつ移行していくのが感じられる。あまり早くに空白ができることなくじわじわ進むことを願う。

 

  • 新橋演舞場では夜の部で『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 義賢最期』が上演された。「布引の滝」の名の滝が新神戸駅から五分のところにあるということで行った。ところがよく調べていなくて少し雨も降っていたので案内もよく見ず「雌滝」のみで引き返してしまった。その上に「鼓滝」「夫婦滝」「雄滝」とありこの四つの滝で「布引の滝」というのだそうである。見晴展望台までいくのがよさそうである。「雌滝」と反対方向に北野異人館に行ける案内石碑が1100メートルと記されそちらも興味ひかれた。駅から近いのでまたの機会である。

 

『昭和浅草映画地図』

  • 大阪の松竹座(二代目市川齊入・三代目右團次襲名披露)から帰ると申し込んでおいた『昭和浅草映画地図』(中村実男著)が届いていた。もう夢中で読んでしまった。きっちり調べておられるので信頼でき、たくさんのことを教えてもらった。浅草が映されている映画が170本以上ある。ため息がでそうであるが、俄然元気になってしまう。行くぞ!

 

  • 映画の中で浅草のどこが映されているかも一本、一本について記してくださり、もう嬉しくなります。自分でもメモしたりしたのだが、次第に雰囲気がわかればいいやと正確に調べることをやめてしまったのである。浅草の変遷も詳しく書かれていて、たとえば昭和34年(1959年)に完成した「新世界ビル」の中にあった「劇場キャバレー」のホステスさんの人数は500名とある。そんな時代もあったのである。

 

  • 何本かの映画は内容も詳しく紹介されているが、映画『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』は読んでいても北林谷栄さんとミヤコ蝶々さんの様子を思い出して吹き出してしまう。今井正監督は先を見込んで撮られたようであるが、それを越える程、おふたりはしたたかである。老人はしたたかに生きるべしである。

 

  • 脚本を書かれた水木洋子さんは、「死を目前にみた老人が一日をたのしく遊べるところ、といえば浅草意外にない」といわれたそうで、右同じと同意させてもらう。浅草でしか会えないような多種多様の人々に会い、二人のお婆ぁちゃんは新たな社会体験をするのである。老人施設の面倒な人間関係それを浅草に照らしてみるとまだまだと元気になるのである。テレビに映った北林谷栄さんを見て「浅草のあの人」から、ミヤコ蝶々さんは元気をもらう。シニカルでコミカルで、脚本の力、役者さんの力、監督の力、そして浅草の力が融合した傑作である。その浅草を懇切丁寧に解説されているのがこの著書である。今度は根気よく確認しなければ。

 

  • この著書には出てきてない映画がある。『ガキ☆ロック』である。コミックの実写化である。浅草に住む人情に長けた若者が時には暴走しつつも人助けに浅草を走り回る4人である。コミックならではの登場人物のキャラを楽しむ映画でもある。歌舞伎の『助六』だって江戸のキャラ満載の芝居である。

 

  • ガキ☆ロック』は東武鉄道浅草駅が重要な場所となっている。そこにおり立った蝶々さんに主人公の源(上遠野太洸)は一目惚れである。源はストリップ劇場の息子で仕事を手伝っている。劇場の名前が、イギリス座。フランス座にぶつけたとおもわせる。蝶々さんはストリップの踊子さんで、兄を探しに大阪からでてきてイギリス座に世話になることにしたのである。その兄探しを手伝うのが源の仲間の、人力車の車夫のマコト(前田公輝)、フリーターのジミー(川村陽介)、坊主向きではないまっつん(中村僚志)である。

 

  • お兄さんは見つかるのであるが、気の弱いヤクザになっていた。皆は、お兄さんを大会社のサラリーマンにし、恋人役も頼み、兄と妹の再会を演出する。しかし、それも蝶々さんにばれてしまい、最後はお兄さんもヤクザから堅気になって、兄と妹は東武浅草駅から大阪に帰るのである。(2014年/原作・柳内大樹/監督・中前勇児/脚本・山本浩貴)

 

  • 東武浅草駅はかつては今のとうきょうスカイツリー駅が浅草駅で、その後隅田川を渡って延長し、浅草雷門駅とした。それが、浅草駅は、業平橋駅となり、浅草雷門駅は浅草駅となり、スカイツリーができ、業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅となったわけである(詳しく知りたいかたは是非本で)。この東武浅草駅は電車が隅田川を渡って駅に入るのがなかなか面白いのである。

 

  • 東武伊勢崎線で浅草からとうきょうスカイツリー駅まで乗ったのだが、どうもピントこないので、また引き返した。やはり駅構内に入っていくほうが新鮮な気分になる。隅田川に架かる東武鉄橋は隅田川が見えるように設計されている。かつてはとうきょうスカイツリー駅(浅草駅)から皆歩いて浅草に遊びにきたのである。ただ、上野などからは都電はあったであろう。今度はとうきょうスカイツリー駅から歩く機会をつくろう。

 

  • 『ガキ☆ロック』の一人は人力車の車夫である。かつては、樋口一葉さんの『十三夜』のように、密かに想いあっていた男のほうが車夫に身を落としてといったような印象であるが、今の浅草では勢いのある格好いい姿を楽しませてくれていて浅草になくてはならない存在である。日本近代文学館(『浅草文芸、戻る場所』)では人力車・明治壱号が展示されていた。車輪は荷車の車輪職人、金属部分は鍛冶職人、座席は家具職人、塗装部は漆職人によって制作されていたとか。それぞれの専門の職人さんの合作だったわけである。

 

  • 車夫の印象といえば、美空ひばりさんの歌『車屋さん』で明るい光があたったような気がする。『小説 浅草案内』(半村良著)では、主人公が猿之助横丁を歩いている時、ご苦労さまという芸者に見送られて梶棒をあげる俥屋のシルエットをみて、「たった一台だけだが、この界隈には俥屋がまだ残っていて、それが走っても全然違和感のない町並みなのだ。」と書いている。そして「生き残った最後の何台かは、木曽の妻籠あたりへ移って、観光用の商売をしているとか」とくわえている。実に色々な顔をみせてくれる浅草である。

 

  • 昭和浅草映画地図』には参考資料文献も記載されているので、興味ひかれるものは目を通したいものである。図書館にリクエストした本も二冊ほど届いたそうなので秋の夜長映画と本で楽しめそうである。そして思い立った時には浅草へ。夏に友人が浅草神社の夏詣での特別御朱印を貰いに行ったのだそうである。最終日で凄い人で整理券の番号からすると夕方になっても無理そうで、整理番号券があれば違う日でもよいということで後日再び出かけたらしい。

 

  • 美空ひばりさんの映画『お嬢さん社長』で、お参りする神社があって、映画の流れからすると浅草神社のようなのだが、随分心もとないたたずまいなので違うのかなとおもったところ、『昭和浅草映画地図』にやはり浅草神社と書かれてあった。そんな具合に曖昧さを払拭してくれる有難い本でもあるわけである。

 

映画『ハチミツとクローバー』『ヘアースプレー』

  • 上野の『藤田嗣治展』の後、上野公園を歩いていると、スプレー缶で絵を描くアーティストに遭遇する。音楽を流しながらリズミカルにシュー、シューと吹きかけていく。材質は紙なのであろうか。どうやら海のようである。波かな。上から光が差し込む。できあがった絵も素敵ではあるが、やはりこれは絵の出来る過程が愉しいパフォーマンスアーティストである。

 

  • 次は奥に雪山が顔を出し、手前は木々の森であろうか。木々の葉っぱの感じも細かく描かれていく。あーなって、そーなって、こーなってと早いのである。シューにためらいがない。紙を波型に切ってそれを当ててシュー。直角に板を当てて45度の線にシュー。観ているほうは必死でそのシューを追いかける。描く方はいたって軽やかである。たのしかった。

 

  • 頭の中で思い描いた映画が、『ハチミツとクローバー』。登場人物はある美大の学生たちで、皆どこか変わっている。原作は、羽海野チカさんのコミック。でも美大にはこんな個性的な人がいそうである。天才的な力を持っているが、人と上手くコミュニケーションがとれない転入生の女子。ヘッドホンで音楽を聴きながら絵を描く。(はぐみ) その娘に恋心をいだく正当な青春派の建築学科生。(竹本佑太) その娘の才能を理解し、その娘をうろたえさせる、突然もどってきた才能ある先輩の自称芸術家。(森田忍)

 

  • 好きな人の建築デザイン事務所でアルバイトをし、ストーカー的行動に出てしまい首になる建築学科生。(真山巧) その学生を好きでふられてしまうが、彼を応援し、再びアルバイトに復帰させるべく手助けする陶芸科の彼女。(山田あゆみ) この五人の物語で、この五人とつながっているのが、多くの学生に慕われている美大の教師で、彼の自宅は、時々飲み会の会場となる。(花本修二)

 

  • 主なる登場俳優。蒼井優さん、櫻井翔さん、伊勢谷友介さん、加瀬亮さん、関めぐみさん、堺雅人さんとなれば、この順番をバラバラにしても、なんとなくキャラがわかってこの役はこの俳優さんと結び付けられると思う。青春物でドロドロした人間関係にはならない。美大の教師たちの年代のほうが何かあったような雰囲気であるが、そこは少し匂うぞで終わらせている。

 

  • 一人は少し年上であるが、気持ちは青春で、まだ学生ということもあってそれぞれの才能の浮き沈みははっきりしない出発点で、それが青春物の基本ともいえる。こういう個性的な面々と一時期過ごしたくもなる良きキャラの面々である。(2006年・監督・高田雅博/脚本・河原雅彦、高田雅博)

 

  • シューのスプレー缶とくれば映画『ヘアースプレー』。ぽっちゃりタイプの女子高生が毎日元気に青春を謳歌している。歌とダンスが好きで、歌とダンスのテレビ番組を観るのが一番の楽しみである。番組のホスト役の名前をとって「コ―ニー・コリンズ・ショー」。場所はアメリカ・メリーランド州ボルチモア。1960年代で人種差別の強いところらしい。主人公のトレーシーは、授業時間中に先生から注意を受け居残りの紙をもらってしまう。

 

  • 居残り組の教室に行ってみると黒人の生徒たちが、ダンスを踊っている。新しいステップを教えてもらいトレーシーは彼らと踊るのが大好きになる。そして、「コ―ニー・コリンズ・ショー」のダンスメンバーに欠員が出来、トレーシーはそこに加わることができる。人気者になったトレーシーは、お母さんが巨体で家に引っ込んでいるため、自分の楽しさをお母さんにも味わわせたいと外に引っ張り出す。

 

  • お母さん役がジョン・トラヴォルタで特殊メイクで、あのトラヴォルタだからこそ、あの巨体でダンスが出来てしまうのであろうと、その違いがたのしい。父親がクリストファー・ウォ―ケンである。あの渋さを崩さずにトラヴォルタとの組み合わせにはさすが役者さんとおかしくなる。ミュージカルで歌とダンスがたっぷりで、歌の歌詞を追っているとダンスがよく見れず、大忙しである。

 

  • 人種問題や偏見などがテーマとなっているが、明るく乗り越え、好い方向に進んで行く。1988年に公開され、それがブロードウェイでミュージカルとなり、そのブロードウェイ版が再び2007年に映画となったらしく、監督も違う。とにかくトレーシーはキュートに踊って前へ前へと進む。それを阻止しようとする側にミシェル・ファイファーと脇の堅めもしっかりである。主人公役は、オーディションで射止めたニッキー・ブロンスキー。恋人役のザック・エフロンは『グレイテスト・ショーマン』の劇作家役だったらしいが、ちょっとそちらの顔が思い出せない。

 

  • ヘアースプレーは当時の髪型を決めるための必需品でもあり、「コ―ニー・コリンズ・ショー」のスポンサーがヘアースプレーの会社なのである。テレビのなかでもむせ返るほど、シュー、シューとスプレーしている。というわけで、この二本の映画の登場となったのである。

 

『没後50年 藤田嗣治展』(東京都美術館)

  • 『没後50年 藤田嗣治展』(東京都美術館)終わり一週間前なので混んでいるのは覚悟でして行ったのだが、入場は並ばずに入れた。とにかく史上最大の大回顧展ということなので流れがわかればよいと力まずに観覧することにした。「Ⅰ原風景ー家族と風景」で、『父の肖像』があった。嗣治さんの父上は軍医でもあり、森鴎外さんとも知り合いであるということを文京区の鴎外記念館で知った。嗣治さんは鴎外さんに父とともに訪れ、学校をやめてパリに行きたいがどうでしょうと意見を求めている。鴎外さんは学業を終えてからにしなさいといわれ、嗣治さんは鴎外さんの意見に従う。

 

  • 鴎外記念館で、コレクション展『東京・文学・ひとめぐり~鴎外と山手線一周の旅』を開催していた時で、『藤田嗣治展』があるということもあってか、その関係が少し展示されていて、そこだけ印象に残ったのである。「鴎外と山手線一周の旅」は範囲が広すぎた。そして浅草がなかったのでなおさらサラリで終わってしまった。美術館で嗣治さんが描いた『父の肖像』がすぐにあったので、このかたがお父上かと注目してしまった。父・藤田嗣章(つぐあきら)さんは、森鴎外さんの後任として陸軍軍医総監になっている。

 

  • 東京美術学校(東京藝術大学)では、黒田清輝さんらに教えを受けている。黒田清輝さんはフランス留学帰りで印象派の光の当たった絵を描かれていて、東京都美術館の近くには『黒田清輝記念館』があり無料であるが、代表作の公開は期間限定であるので注意されたい。黒田清輝さんというと、熊谷守一さんの先生の一人で『へたも絵のうち』に書かれている青木繁さんのことが浮かぶ。

 

  • そのころに美術学校には変わった人がたくさんいて、青木繁さんが変わり者であった。絵をかいていて黒田さんが入って来るとすーっと教室を出て行くのだそうである。「あんなヤツに絵をみてもらう筋合いはない、という意思表示なのです。」それも戸をわざと音をたててしめてでいくのです。熊谷守一さんも黒田清輝さんは、どちらかといういと政治家だから、美術学校には役立ったでしょうが、絵はあまり感心しませんとしている。

 

  • 黒田さんも、絵を志す青年の気持ちはわかるのか自分の描き方はおしつけなかったとし、青木繁さんの態度にも、別に怒りもせず知らぬ顔をしていたようである。こちらが黒田清輝さんの絵を観るとさすがフランスで印象派を学ばれたかたの絵であるとおもって観てしまうが、才能のある人はそう単純ではないようである。黒田清輝さんが政治家になったとき、政治家は大変でしょうと聞かれて、美術界の集まりに比べればたいしたことはないと言われたと書かれたものを読んだことがある。納得してしまう。政治家のほうは損得で動きそうだが、画家はそう簡単には動かなさそうである。

 

  • 藤田嗣治さんも、新しさを求めてパリへ行き、パリっ子も羨望し感嘆するあの「乳白色」を見つけ出すのである。それまでの貧しい時代には、自分の回りにある物を絵にしていて、その細やかな線や色にも目がいく。モディリアーニの長い顔とかユトリロのような真っ直ぐな建物の街角、ゆがんだ街角など、吸収すべき技は貪欲に学んでいる。そのうえで独自のものを見つけるのである。北米、中南米、アジアを旅すればそこの土地の色を見つけ出し、土地の人をとらえる。日本に帰り戦争時代である。そして最後は宗教画となるのである。

 

  • 藤田嗣治さんのこの技に対する貪欲さと才が、あの戦争絵に反映しているように思える。『アッツ島玉砕』などは、こんな死に方をしなくてはならないなんて戦争は嫌だとおもう。『サイパン島同胞臣節を全うす』なども民間人が自決する絵である。なんと戦争とは悲惨なことを強いるものなのだとおもう。しかしその時代には、逆なのである。国を守るためには皆この心構えで戦わなくてはいけないのだ。前線では皆お国のために、このように身を捧げているのだとなるわけである。

 

  • そのことが戦後、問題となってくる。それだけではないようだが詳しくはわからない。画家として絵に対する技の追求の想いがあったことはたしかである。それと日本を離れていたので、ここで日本人にならなければという想いもあったのかもしれない。戦争責任問題で彼は失望し日本を離れる。その後何処へ行っても藤田嗣治の絵の人気は高かった。

 

  • 一つの場所に集められた一人に画家の多数の絵の変化には、やはり驚きもあり、興味深かった。一人の画家から、どうしてこんな変化にとんだ絵が出来上がるのであろうかと不思議におもう。マジックにかかっているみたいである。秋田県立美術館の『秋田の行事』も思い出してしまう。あそこにも藤田嗣治さんの色と雪国の人々がいた。才をあたえられ、さらに技を磨いて、華々しく開花したゆえに、生き方が難しいということもあるのだろう。