安土城

  • お芝居の中で旅巡りをすると、実際の旅について記しておきたくなる。琵琶湖に飛び出した安土城。残念ながら、安土城跡には行っていないのである。JR安土駅に降り立ち、観光案内へ。琵琶湖線を挟んで湖側に安土城跡があり内陸側に『安土城考古博物館』と安土城の天主を再現した『信長の館』がある。安土城跡と博物館側の二つをつなぐ農道があるという。

 

  • 映画『火天の城』を観ていたので、城の建物を優先。駅そばの『安土町城郭資料館』。安土城の天守閣の模型があって、左右に分離されるようになっていて内部の造りをみれるのです。映画『火天の城』は、熱田の宮大工・岡部又右衛門が建物の責任者で苦難のすえ築城するという内容です。信長に天守閣を吹き抜けと言われてそれに背いて設計します。吹き抜けにすると火事になったとき火の回りが早いので、天主に住むという信長を守れないと主張。信長は岡部又右衛門の設計を選びます。

 

  • 安土町城郭資料館』の模型は四層が吹き抜けになっていました。さらにその吹き抜けの中心には宝塔があったのです。実際に見てみないと解らない面白さ。安土城は築城して三年後には焼失してしまう。映画『火天の城』では信長自らが馬に乗り槍をなげ繩張りをしている場面があるが、実際の縄張は城の設計者をさす。赤穂城でもきちんと名前が記されてあった。お城は、土で成すと言われ、形あるお城の建物だけに注目するが縄張り全体がお城ということである。

 

  • 信長が築城に参考にした佐々木六角氏の観音寺城のジオラマもあり山城というのがどういうものであるかを知った。安土城は平山城で秀吉や家康の城造りに影響を与えたとある。城で人々をあっと言わせて権威を誇示したいという信長らしい発想である。平城、平山城、山城の違いがよくわかった。屏風絵には城下町へ通ずる橋は一つ百々橋。町には三階建ての日本はじめてのキリシタン神学校セミナリヨも描かれていた。

 

  • 安土城考古博物館』までの周囲は畑地で、かつては湿地帯だったそうである。徒歩20分ほどであるが次の機会にはレンタルサイクルにする。左手には安土城跡の小山がみえる。博物館で、安土城の土による城の土台がジオラマでみれてよくわかった。土塁虎口曲輪などで成っており、驚いたのは連続竪掘である。城の山の斜面にたて方向に堀が何本も掘られていて、水の張られた内堀を越えても急斜面に竪堀である。どうやっても登れるとは思えない。

 

  • 曲輪(郭)は、山をけずり、堀や土塁で区画した場所で後にこれを「丸」と呼ばれようになり、曲輪は遊郭のことを示すことばともなります。初春の歌舞伎座で『双蝶々曲輪日記』の<角力場>を浅草公会堂で<引窓>が上演されましたが、「廓」と「曲輪」の違いは、偶数は二つに割れやすいから縁起が悪いので奇数にとの考えがあり『双蝶々郭日記』ではなく『双蝶々曲輪日記』のようにする場合があるようです。<引窓>は若手にしてはよく頑張り良い芝居になりました。

 

  • 映画『火天の城』でも石垣の先鋭集団・穴太衆(あのうしゅう)がでてきました。信長の美意識はやはり新しい。石垣、礎石建物、瓦、さらに高層天守を供えた近世城郭の新しい形を作ったのである。大手門を入ると大手門道がずうっと続いているのである。実際にはその跡を見ていないのであるがそこを歩くことを想像するとわくわくする。登る途中の右手に前田利家邸、左手に羽柴秀吉邸があった。秀吉邸の復元模型があり、坂になっているので上下二段の造りとなっている。下に櫓門、上に高麗門があり立派である。

 

  • 信長の館』に移動。この施設のある場所は文芸の郷といわれ、『旧安土巡査駐在所』、『旧宮地家住宅』、『旧柳原学校校舎』も移設されておりレストランもある。観光案内の方が、見学の時間設定は観る方によって異なると思いますと言われたが正解である。1992年「スペイン・セビリア万国博覧会」で安土城天主の最上部5階と6階部分を原寸大で展示された。万国博終了後、旧安土町が譲り受け、さらに発掘されたものから再現を加えて『信長の館』で展示されている。

 

  • 五階は仏教世界の宇宙空間を表現しての八角形で天井には天女が舞っている。柱、床は朱塗りで中は金箔と釈迦説法絵図。六階は中も外も金箔で中の襖絵の回りの柱、天井には黒を使っている。下の四層の吹き抜けの柱も黒で印象的であったが、一気に宝塔の上に天界の間を造り、城郭に仏教界を閉じ込め、さらにその上に信長自身の権威を示したような感がある。狩野永徳に描かせた金箔の襖絵、金を入れた瓦、金箔のシャチホコ、柱に飾られた彫金、木工の彫り物などあらゆる工芸の名人を集めたと思われる。階段があり近くから内部をのぞくことができる。

 

  • 信長は天主から琵琶湖を見下ろし、京をはじめに全国制覇を目指して四方を眺めたのであろう。今は埋め立てられ、安土城跡からは琵琶湖は見えないとのこと。安土城跡を歩くときは、賑わっていた城下町、家臣たちが登城した道、その前にある信長と一体の豪華絢爛な安土城を想像しながら登り、見えない琵琶湖の光輝く水面を想像する力が必要のようである。その想像力が浮かぶ余力のない状況だったので安土城跡は次の機会とした。しかし、もう一つの展示物がその後の想像を加えてくれた。

 

  • 天正十年 安土御献立 復元レプリカ』。天正10年(1582年)5月15日、16日、信長が、家康の武田氏征伐の武勲を祝するために饗宴にだされた食事である。家康が到着してすぐの膳がおちつき膳でレプリカでも食べてみたいと思う一品、一品である。2日間で4食、総計120品である。饗宴役が明智光秀。将軍の御成りのような支度でいきすぎているとして信長は光秀を饗宴役からおろしてしまう。それが19日。22日には、光秀は、備中(岡山)の毛利と戦う秀吉の支援を命じられる。6月2日が本能寺の変である。そのためこの家康饗宴が光秀を本能寺へ向かわせた原因のひとつとされている。食は安土城にあり。

 

  • 安土城は光秀の手に渡るが、秀吉が光秀を滅ぼす。安土城の天主と本丸は焼失。その後、清須城での織田家の後継者選びの清須会議があります。信長の二男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝そして本能寺の変で亡くなった長男・信忠の子で信長の孫・三法師。結果的に三法師ときまる。その後安土城には、秀吉の庇護のもとで信雄と三法師が入城。天正13年小牧長久手の戦いで信雄は秀吉に屈して織田家は終わり、安土城も廃城となる。

 

  • 清須会議は、映画『清須会議』が駆け引きや人物像など面白可笑しく描かれている。信雄は巳之助さんで、周囲に持ち上げられる信雄の戸惑いをそれとなくお得意のおとぼけぶりで発揮。やはり清須城へも行かなくては。光秀となれば、歌舞伎の『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ) 馬盥(ばたらい)』が浮かぶ。敵役の心の内を腹におさめての外への色気と覇気を役者さんがきめてくれた時は、芝居の光秀が本物と思って魅了される。

 

  • 歌舞伎の信長では、大佛次郎作の『若き日の信長』がある。十一代目團十郎さんにあてて書かれた作品で、十二代目團十郎さん、海老蔵さんへとつながり演じている。新しい芝居なだけに時代の時間差が縮まり、信長のうつけ者の雰囲気と戦乱の孤独感の感情の起伏の出し方、伝え方が難しい作品である。映画『若き日の信長』は市川雷蔵さんで、時間が長く映像ゆえ、戦乱の背景などがわかり理解しやすかった。白鸚さんが染五郎時代で信長のお守役のじいの三男で出演。芝居は映画と違って限られた時間のなかでリアルタイムに観客に一瞬一瞬を見せる勝負物であると感じさせられた。ここまでくると、観ていない映画にも気がむく。

 

国立劇場『通し狂言 世界花小栗判官』

  • 播州赤穂から歌舞伎の関連の場所としてもう一箇所、信太森葛葉稲荷神社へ向かった。安倍晴明の母・葛の葉のふるさとである。阪和線北信太駅に着くと「小栗判官笠かけの松」「照手姫腰掛けの石」の絵看板があり、想像外のお知らせである。外は夕暮れで神社とは反対方向なので後日調べたところ小栗街道(熊野街道)が近くを通っているらしいことが判明。小栗判官と照手姫が熊野へ向かった道ということになる。国立劇場での『通し狂言 世界花小栗判官』はどうなるであろうか。

 

  • 小栗物の歌舞伎作品『姫競双葉絵草子(ひめくらべふたばえぞうし)』よりとある。大きな流れとしては、足利義満の時代に足利家に倒された新田義貞の子孫が盗賊・風間八郎となって足利家に恨みを晴らす企てをするということである。小栗判官は将軍から照手姫との結婚を許されているが、父を風間八郎に殺され、足利家の宝も盗まれその詮議のため、照手姫とも生き別れとなる。

 

  • 照手姫は小栗判官の元家来の漁師浪七にかくまわれが、風間八郎の手がのびる。浪七は命をかけて照手姫を逃がすが、その後照手姫は人買いによって万屋の下女となり、そこで小栗と再会。さらに万屋の女主人お槙は照手姫の元乳母であった。万屋の娘お駒は小栗と祝言できるはずが照手姫の出現でそれもかなわず、誤って母に殺される。死してお駒の嫉妬と怨みから小栗判官は病持ちとなり、照手姫は小栗判官の乗る車を引いて熊野詣で。那智山で待ち受けていた風間八郎に捕らわれるが、熊野権現の霊験で小栗判官の病も本復し、重宝も手に入れ、風間八郎との対決は後日ということで幕となる。

 

  • <大詰>は別とし、盗賊・風間八郎が菊五郎さん、小栗判官が菊之助さん、照手姫が尾上右近さん、浪七が松緑さんで人物設定はわかりやすい。お槙は時蔵さんで足利家の執権・細川政元も。お駒は梅枝さんで、浪七の女房・小藤も。細川政元は白拍子となって風間八郎の策略を見抜き、ここが少し謎解き。小藤は夫・浪七と共に照手姫を守り、兄・鬼瓦の胴八に殺されてしまう。浪七宅の場は、可笑し味も出現させ息抜きの場でもある。

 

  • 最初の見どころは、小栗判官が馬さばきの名手で、碁盤の上で馬に乗って馬を二本脚で立たせるところである。馬との息もあって馬のあしらいかたを面白く見せてくれる。暴れ馬でそれをけしかける横山大膳親子(市川團蔵・彦三郎)の悪役の台詞のとめのにくにくしさもほどよい。小栗判官と照手姫はあくまでも美しくである。場所は鎌倉で

 

  • 場所は鎌倉、江の島と進み、浪七宅は堅田浦で琵琶湖の大津近くとなり季節は。立ち廻りは浪七の松緑さんが引き受け、笑いは、鬼瓦の胴八(片岡亀蔵)、膳所の四郎蔵(坂東亀蔵)、瀬田の橋蔵(橘太郎)のトリオである。万屋は青墓宿にあり、青墓宿は岐阜の大垣市青墓町にあった宿場だそうである。お駒が小栗判官に出会うのはの紅葉の中。母娘の悲劇の場となってしまう。

 

  • 熊野権現の霊力にすがって那智山目指す小栗判官と照手姫の花道からの出。。二人を待つ風間太郎は、自分が新田義貞の子孫であることを告げ小栗判官を谷底に突き落とせと。風間太郎の言うとおりにならない照手姫は木に縛られ『金閣寺』の松永大膳と雪姫を思わせる。時代も足利義満の世である。熊野権現の霊験たる三羽のカラスが現れ照手姫を助け、那智の滝の場面となり小栗判官が病も癒え宝も手にしていた。一同が居並び一件落着。那智滝の水しぶきがキラキラ光っている。

 

  • 登場人物の台詞も無理がなく、馬術問答も楽しく聴ける。権十郎さんの万屋の下男も勿体ないぐらいの出の少なさであるが、照手姫への思いやりがその身の哀れさをさそう。最初の場で殺される小栗判官の父の楽善さんの風格やそれに仕える奴の萬太郎さんなど、皆さん役に合うだけの台詞と動きが安心して観ていられ物語に入って行ける。『一條大蔵譚』での菊之助さんは出が若すぎ雰囲気で損をしていたが、優雅な小栗判官で魅せる。『ワンピース』の尾上右近さんは全く違う赤姫でその違いも楽しませてくれ、梅枝さんは、『京鹿子娘道成寺』の怨みも増幅して嫉妬も絡み怨念さが上手くでた。松緑さんは歌舞伎座に続く立ち回りで安定感あり。時蔵さんの女方と立役の細川政元の気品がいい。菊五郎さんの新田義貞の子孫の盗賊が大きく時代を超えた因縁が納得でき基本線がしっかりした。

 

  • いつもの国立劇場の初芝居の通し狂言であるが、早変わりもなく、主なるかたの何役もの受け持ちもなくあっさりタイプであるが、小栗物がこのように簡潔にできあがるのかと面白かった。やはり台詞術の流れにそれだけの技が加わっての構成と思う。それぞれの役者さんへの感想が沢山あるがこれにて締めとする。

 

歌舞伎座 新春高麗屋三代襲名

  • 歌舞伎座新春は37年ぶりの高麗屋三代襲名披露公演。三代襲名ということも凄いが、37年前に続いての再度の三代襲名が実現したのであるからお目出度いことこの上ない。こればかりは予定していてできることではない。巡り合わせの幸運である。そういう襲名公演であるが、幸四郎さんが口上で、自分にとって襲名は関所であると言われた。口上の後に『勧進帳』の弁慶がある。実感のこもった口上である。

 

  • 幸四郎さんの弁慶は、弁慶という役と闘い、そして吉右衛門さんの富樫と闘い、義経の染五郎さんを守るために闘っていた。闘いの力の入った弁慶である。誰が何んと言おうと自分と闘う弁慶を見せればいいのだと思う。長唄の名曲『勧進帳』。富樫が命を懸けて義経と弁慶の主従関係に感嘆するという設定。判官びいきの日本人の心情を鷲掴みにする作品である。簡単には弁慶役者の心に添わせてくれるような作品ではない。

 

  • こちらも『勧進帳』を自分成りに解体して改めて考えてみた。富樫は義経一行であると知りながら関所を通す。そして再び登場して弁慶にお酒をすすめる。なぜ。弁慶も断って早くこの場を立ち去るべきである。富樫は自分の死をかけてまで関所を通す弁慶という人物との時間を持ちたかったのであろうか。讃えたかったのか。弁慶が断らなかったのはわかるような気がする。弁慶は富樫のために舞って礼を尽くしたかったのである。幸四郎さんが、扇をかなり遠くまで投げた時、そう思った。富樫に対する気持ちを舞いに託したのではなかろうか。今まで長唄の演奏に乗る弁慶の動きだけを観ていて考えもしなかった。『勧進帳』は演じる時常にさらなる強固な関所が待っている。染五郎さんは、『東海道中膝栗毛』『大石最後の一日』『勧進帳』と一つ一つ関所越え中。

 

  • 車引』は基本形に添っての若々しい三兄弟であった。桜丸(七之助)、梅王丸(勘九郎)、松王丸(幸四郎)。三つ子の兄弟であるが、幸四郎さんにはもう少し太々しい押しがほしい。俺が一番だ!『阿弖流為』が荒事になったらどうなるか。幸四郎さんとなっての新たな妄想を。

 

  • 寺子屋』はやはり名前が変わっても芸の重みは変わらない白鸚さんの松王丸である。何回も観ていて謎解きがわかっていながら、その裏の気持ちが伝わるしどころの決まりの上手さ。主君のことを思って他人の子を身代わりにする側(梅玉、雀右衛門)とその心をわかって自分の子を犠牲にする側(白鸚、魁春)。現代であればとんでもないお話。お互いが疑心暗鬼にぶつかる身体と心の流れと止めが気持ちよく収まり、それでいて深さがある。間の合い具合の妙味。猿之助さんの涎くりが大人たちの場面ではひたすら手習をし、花道での愛嬌がほっとさせる。これだけの配役の『寺子屋』。若い役者さん、目にしておいてほしい。

 

  • 箱根霊験誓仇討』(はこねれいげんちかいのあだうち)は初めて観る作品。箱根での仇討とはこれいかに。小栗判官と照手姫のような出の勝五郎と初花夫婦。初花は敵に連れ去られるが、夫と母の前に戻って来て滝の霊験に身をまかせ飛び込んでしまう。弔う勝五郎は立つことができ、目出度く仇討ができるという話。勘九郎さん、七之助さん夫婦に敵役と奴の二役の愛之助さんで、秀太郎さんが母としての貫禄をみせ話として簡潔におさまる。

 

  • 双蝶々曲輪日記ー角力場』(ふたわちょうちょうくるわにっきーすもうば) 芝翫さんの濡髪長五郎に愛之助さんの放駒長吉。愛之助さんは山崎屋与五郎のつっころばしとの二役。愛之助さん早変わりのためか、長吉のほうに稚気が薄い。長五郎に勝ち有頂天で、長五郎と並んでそれに対抗して幾つかのしどころがあるのだが、その間が早くさらさらとやってしまいアクセントがない。自意識過剰の若造のおかしさの間がほしい。芝翫さんの出は大きいのだが色気が少ない。ご自身の襲名が一段落した安堵感中であろうか。稚気と大人の色気のコンビネーションをお願いしたい。

 

  • 締めは舞踊三題。『七福神』はお目出度い楽しい踊り。七福神が揃って踊るのは60年ぶりということで、どなたかなと分からなかったのが布袋の高麗蔵さん。大黒天の鴈治郎さんが弁財天の扇雀さんを誘いだすという神様もやはり女性を見る眼は同じというユーモアもあり、又五郎さん(恵比寿)、彌十郎さん(寿老人)、門之助さん(福禄寿)、芝翫さん(毘沙門)と神様でもほのぼのとさせるゆとりである。『相生獅子』も初春に観ると扇獅子で艶やかさが増す。扇雀さんと孝太郎さんで、七福神の役者さんたちの後に控える要の年代の孝太郎さんは少し力が入っているかなと。『三人形』は傾城(雀右衛門)、若衆(鴈治郎)、奴(又五郎)の吉原での様子であるが、踊りが現代に合わせた具体的な振りではなくよくわからず仲の之町の雰囲気だけ味わう。踊りがあると舞台の味わい方にも変化がでます。

 

『坂東玉三郎新春舞踊公演』とシネマ歌舞伎『京鹿子娘五人道成寺・二人椀久』

  • 大阪松竹座の新春は、お年賀の口上から始まる。玉三郎は舞踏公演で台詞がなく声をお聞かせするという意味でも口上をもうけましたと。新春から大阪で壱太郎さんと江戸と上方の役者が並べることを嬉しく思いますと二代目鴈治郎さんのことにも触れられる。何を踊りたいか聞いてもなかなか言わなかった『鷺娘』を踊る壱太郎さんは、玉三郎さんの踊りはもちろんであるが、小道具、照明、舞台装置などあらゆる発想が印象に残ると。テレビの『にっぽんの芸能』(NHK・Eテレ)で玉三郎さんが『京鹿子娘道成寺』の鈴太鼓は子供用を用いていると言われて驚いた。身体の動きからそうなったと。そばで壱太郎さんは様々な驚きを受け取られているのだろう。

 

  • 今、玉三郎さんは、後輩たちと同じ舞台に立つことが伝えるということに一番有効な手段と考えておられるようだ。後輩たちは緊張と新鮮さの連続なのであろう。シネマ歌舞伎『京鹿子娘五人道成寺』(全国上映中)でもそうであったが、心に粘着性の突起を装置して触れる驚きや教えをすばやくとらえ、それを心の中に取り込んで再考し活かす方法を模索しているようである。七之助さんは、他のテレビ番組で勘三郎さんは穴を掘れというがどう掘るかを教えてくれないで、何やっているんだ掘れとだけ言うが、玉三郎さんはきちんと掘り方を教えてくれて優しいですと言われていた。その教えを聴く耳の鋭さも必要のようです。

 

  • 舞踊は賑やかな『元禄花見踊』から始まる。詞は花見の様々な様子がでてくる。着ている衣裳の様子、北嵯峨、御室の地名、お酒の大杯など、そして上野のはなざかりとなる。さらには囃子詞(はやしことば)も入りまるで花見の酔いに任せた詞の蛇行ジャンプである。ここは玉三郎さんの朱色の組みひもの優雅な動きに操られて楽しく花見客の見学である。ヨイヨイヨヤサ・・・

 

  • 秋の色種』は大好きな長唄である。CDを購入。詞に合わせた振りもいい。「衣かりがね声を帆に、上げておろして玉すだれ」声を帆に・・・で扇を少し開いたり閉じたり、玉すだれ・・・でゆらゆらと。この踊りの扇使いは見とれてしまうだけである。お箏は、玉三郎さんと壱太郎さんのお二人で。『秋の色種』の演目が入っていたからこそ、大阪へと思ったのである。はかないですね。観ている時はそうこことおもいますが、記憶が薄れていく。季節はずれの秋の溜息。後輩たちも、千穐楽、もう終わってしまうんだと溜息でしたね。

 

  • 鷺娘』は、玉三郎さんが<玉三郎の鷺娘>として一つの完成を極めた感のある演目である。それに壱太郎さんが一か月果敢に挑戦することを決め、それも玉三郎さんと同じ舞台でということで、なかなかいいだせなかったという気持ちもわかる。玉三郎さんの『鷺娘』が脳裏に残っている人が多い。玉三郎さん以外では、魁春さんの、黒の塗り下駄での出をされたものと、福助さんは透かしの印象的な傘にされた踊りが記憶に残る。恋の妄執に責めさいなまれ息耐えるというテーマのある作品なので観るほうもそこに気持ちが集約されていく。

 

  • 踊り手に鷺の精町娘との変化が要請され、一度観ていると綿帽子の白無垢に黒帯の出では、鷺の精の鷺娘としてそこにいる。そこから引き抜きがあり、明るい町娘となり ~縁を結ぶの神さんに 取りあげられし嬉しさも~ となる。ところが引っ込んで出てくると、神さんへの怨み言となる。引き抜きがあって傘づくし。壱太郎さんは小さな傘を二本使い若さが映える。もろ肌脱ぎの赤になり、鷺のぶっ帰りで終盤に入る。短いなかに引き抜きが入り、観客に鷺娘の心模様を伝えつつ最後は鷺の精にも抗い難い責め苦へと入っていく。

 

  • 人に恋してしまった鷺の許されない道。玉三郎さんの『鷺娘』は終盤、玉三郎さんが踊られてるのは重々承知していながらなにものかに身体が操られていて内面の妄執のすさまじさと悲しさを感じる。壱太郎さんの場合はまだ壱太郎さんの意志の力で踊られていて激しい踊りであると認識してしまう。この観客の気持ちをこの後どう鷺娘の心に吸引していくのかたのしみでもある。『鷺娘』は変化物の一つとして踊られていて、それが一つの舞踊作品として独立したものである。最後の責めの分部を加えたのが九世團十郎さんでロシアバレエのアンナ・パブロワが来日して『瀕死の白鳥』を観て着想を得たという。 

 

  • 真っ暗な舞台にぽつぽつと灯りがみえる。あれはなんであろうか。ぱっと明るくなって吉原仲之町。松の位の『傾城』。チラシの玉三郎さん。髷(まげ)は伊逹兵庫(だてひょうご)。左右あわせて12本の長い簪(かんざし)。中央には櫛が三枚。その後ろの左の松葉の簪が二本。右後ろには玉簪が二本。まじまじと髷と飾りをみる。花魁道中の風情を軽く見せて暗くなる。歌舞伎座と違ってこの場面は短い。再び明るくなり、廓での間夫とのやりとりが踊りとなっていく。喧嘩したり仲直りしたり、戸を叩く音を水鶏にだまされたりと動きはゆったりしているが饒舌な舞踊で、季節感豊かなありさまである。

 

  • 実際にそこにはいないのに映像でその場面や人物を映し出すことをバーチャルというなら、芝居や踊りなどはその心を自分で映像化するバーチャルである。『京鹿子娘五人道成寺』は、五人の花子の心をこちらは受け取ることになり超バーチャルな場所にいることになる。人工的バーチャルに対する五人の花子の肘鉄。歌舞伎役者さんの素と役の扮装と技はこれまた時空を超えさせる。その映像は、その場にいて観忘れた所作などが確認できる。烏帽子の脱ぎ方など。いつもと違っていた。

 

  • 映画『二人椀久』では、椀久の最後は倒れて終わるのであるが、勘九郎さんは、大木に体を支えるようにして終わる。傾城松山が夢の中に現れ楽しく踊るのであるが、いつのまにか椀久は松山がそこにいるのに触れることができない状態になっていく。花道でも捕らえようとしてとらえられない。そして完全に松山の姿は消え椀久は一人残され、たまらなくなって大木に体をゆだねるのであるが、命あるものに触れていたいという椀久の寂寥感伝わってすっと幕がおりた。実際に観てたよりも寂しさが心にささる。

 

  • 友人の住んでいる近くの映画館でもシネマ歌舞伎を上映しているので薦めたら行っそうで、映画館へ一人で行くのは生まれて初めてで朝4時に目が覚めて不安だったと。彼女に言わせると玉三郎さんは神技で、若手に苦言を呈し、意気盛んな感想である。来月、『籠釣瓶花街酔醒』も見に行くと。行く前と後の彼女の話しの様子に笑ってしまう。苦言の多いこちらが、しきりに若手の弁護にまわっていた。『籠釣瓶花街酔醒』の縁切りの場で『傾城』が流れる。

 

  • 鷺娘』に関しての九世團十郎さんとアンナ・パブロワとの件は、パブロワさんが来日した1922年には九世團十郎さんはすでに亡くなっていますので間違いです。『鷺娘』を最初に踊ったのは江戸時代(1762年)二代目瀬川菊之丞さんで、明治に九世團十郎さんが復活して人気を得ました。玉三郎さんが踊られている『鷺娘』の振り付けは六世藤間勘十郎(二世勘祖)さんである。『商業演劇の光芒』(神山彰編)の中で水落潔さんが「東宝歌舞伎と芸術座」で書かれている。長谷川一夫さんが座長で新演技座旗揚げ公演の演目に『鷺娘』(1941年)が入っていて「『鷺娘』は勘十郎さんが『瀕死の白鳥』をヒントに創作した舞踏・・・」とあるので実際に『鷺娘』と『瀕死の白鳥』を結びつけたのは、六世藤間勘十郎さんであったと思います。その後、踊る方によって変化していることでしょう。

 

  • 判らないことが多く、研究しているわけではないから出たとこ勝負。壱太郎さんの『鷺娘』の二本の傘も現藤十郎さんが扇雀時代に初演で二本傘なのを復活振り付けされたのを踊られたことを知る。『名作歌舞伎全集第19巻』の『鷺娘』に1961年にNHK「日本の芸能」でのテレビ放送のときで扇雀時代の写真が載っていて傘の大きさは普通の大きさである。壱太郎さんと藤十郎さんの『鷺娘』のこんなところにつながりがあったのかと、観た事がさらにしっくり落ち着いた。

 

  • シネマ歌舞伎の『籠釣瓶花街酔醒』を観れなくて、セット券が一枚残ってしまう。有効期限は2月。東劇で『京鹿子娘五人道成寺』『二人椀久』を延長して上映してくれていた。二回目の鑑賞である。上記の『二人椀久』の最後、間違って記していた。<勘九郎さんは、大木に体を支えるようにして終わる。>としたが、そのあと立ち膝になり羽織を抱きしめて幕であった。大木に寄りかかるところが強い印象でそこで記憶は終わったらしい。二回観て訂正できてよかった。落ち着いて鑑賞でき二回目なのに新鮮であった。

 

播州赤穂

  • 大阪松竹座『坂東玉三郎 初春特別舞踊公演』を観に行ったので播州赤穂まで足を伸ばす。赤穂城もであるが、塩関係も見ておきたかったのである。ところが、千種川のこちら側が忠臣蔵関係で川を渡ったあちら側が塩関係の海浜公園で、海浜公園側は火曜日は休館日ということである。塩の国が見たかったのであるが残念。赤穂大石神社は、大石邸宅跡に創建されている。松の廊下刃傷の知らせの早籠が叩いたであろう大石宅長屋門が残っていた。大石神社関係のかたは新年でもあり忙しそうであった。

 

  • 赤穂大石神社は義士資料館がなかなか興味深い。大石内蔵助亡き後大石の妻・りくは、長女と次男を亡くし、三男の大三郎が広島浅野家本家に召し抱えられ次女ルリと広島に移り、香林院として68歳でなくなっている。映画『最後の忠臣蔵』にも出て来た寺坂吉右衛門の孫は祖父の偉業で出世している。城で飼っていた犬まで一筆書いて渡している。犬公方綱吉ゆえか。浅野内匠頭長矩の彩色した木像は国立劇場にある六代目菊五郎の鏡獅子を彫った平櫛田中作で勅使御饗応役としての緊迫感あり。

 

  • 大石宅庭園には、備中松山城受取り際に祈ったという茨城の笠間稲荷から勧請された稲荷社があり「受取り稲荷」とも呼ばれている。備中松山城受取りについては、舟木一夫特別公演の『忠臣蔵』で初めて知る。赤穂城受け渡しの際はこの経験が潔さにつながったのでは。長矩はその経験がありながら何とも言い難し。神社の外には、義士たちの邸宅跡が印され、磯貝十郎左衛門宅址には、遺品のなかに紫のふくさに包まれた琴の爪が一つあったとあり、歌舞伎『大石最後の一日』を思い出す。美男子で能、琴、鼓などの遊芸に優れていたとある。これは映画にもなっていて昨年見逃してしまう。

 

  • 今の赤穂城を築いたのは、浅野長矩の祖父長直で、兵学者・儒学者の山鹿素行を召し抱え築城にも参加させている。その後山鹿素行は朱子学を批判したとして赤穂配流となり、大石宅の庭で茶やお酒を楽しんでいる。そのころ大石良雄10歳。山鹿流の陣太鼓。歌舞伎の『松浦の太鼓』を思い出す。芝居や映画の虚構性と歴史が重なって何とも楽しい。長直は塩づくりに力を入れ、東浜塩田を天守のない天守台からながめていたらしい。平城で、庭園など戦の無い時代の城である。戦は無いが改易との戦いがあった。

 

  • 赤穂は井戸を掘っても海水がまじるため上水道を完備した。それが、浅野家の前の池田家の時である。『赤穂市立歴史博物館』でそれを展示や映像で説明していた。千種川から町家にも各戸に給水していて、播州赤穂駅からお城に向かう道にも「赤穂藩上水道」とあり、水が勢いよく流れだしていて町民の喜びが想像できる。入浜塩田の模型もあり、浅野家の後は永井家その次の森家は西浜塩田を干拓し、12代藩主を続けた。この森家の祖先には、織田信長に仕えた、森蘭丸坊丸力丸三兄弟がいた。その後森家に後継ぎがなく廃絶となるが、幕府は復活させ森長直を赤穂藩主とし、そこから12代続くのである。この森三兄弟の出現で安土に寄ることを決める。

 

  • 三之丸に大石良雄宅ら重臣の屋敷があり大石神社から『赤穂市立民俗資料館』へ行く途中に塩屋門跡がある。藩主長矩の刃傷、切腹の第一、第二の早籠の知らせが入ったのがこの門で、城受取りの軍勢が入ったのもこの塩屋門とある。水色の洋館が『赤穂市立民俗資料館』で明治38年に塩専売法が施工され大蔵省塩務局の庁舎である。現存する日本最古の塩庁舎。赤穂で使われていた農具や日用品などが展示されているが、展示品の時代の流れがわかりやすく広い空間、狭い空間を上手に利用している。赤穂緞通(だんつう)を知る。堺、鍋島と並ぶ三大緞通。赤穂の伝統工芸にも出会えた。駅の裏山には赤の文字が。

 

メモ帳 5

  • 箱根神社。芦ノ湖から見える赤い鳥居(平和の鳥居)を数回目にしつつ、訪れていなかったので友人とお参りへ。二人とも今年の初詣。今年は素通りした場所や埋めたかった場所を旅の一つの目的地としたい。湖だけに龍神を祀る九頭龍神社新宮も同じ境内にある。九頭竜神社本宮はもっと奥で、箱根神社元宮は駒ヶ岳山頂にあり、ケーブルで行けるらしいが今回は箱根神社のみ。御朱印も下で預けて番号札をもらい、御参りして帰りにスムーズに受け取れた。参拝客もほどほどで富士山の雲の無い雄姿もみれて空白が埋まる。

 

  • 次に三島大社へ。元箱根港から三島駅までのバスが交通渋滞のため20分遅れ。途中富士山があまりにも美しいので大吊橋のスカイウォークに途中下車しようかと相談したが人が多いため通過。三島大社前で降り、屋台が並び参拝客の数もほど良い。食べるために並ばないのであるが、うなぎを焼く匂いに今回は例外。水の澄んだ源兵衛川。飛び石も配置され心和む散策路。楽寿園の庭園の池はかつてはたっぷりと富士山からの水で満たされていたがその後の開発のため干えあがっている。そのため富士山が爆発のとき流れた溶岩の地肌の池の底がみえる。楽寿館で説明を受け、水の満ちた庭を想像する。東海道歩きで素通りし、見せたかった三島の一部に友人も満足。

 

  • 等々力渓谷(とどろきけいこく)。東急大井町線の等々力駅の近くに渓谷がある。五島美術館から歩こうと思っていつも寄れなかった。昨年の秋、電車移動を決める。等々力渓谷には古墳時代後期から奈良時代の横穴群がある。一服の清涼感。途中で階段を登って行くと等々力不動尊がある。駅の北側にある満願寺の別院で、満願寺は吉良氏の祈願寺であったそうで驚き。それだけ吉良氏の系図は古いのである。等々力不動尊の「瀧轟山」の山門は大きな交通道路に面しており上と下の風景の違いが面白い。

 

  • 五島美術館。等々力駅からお隣の上野毛駅へ。『光彩の巧み ー瑠璃・玻璃・七宝ー』。装飾の系譜は西アジアから欧州を経て中国から日本へ。日本では仏典の七つの宝にちなんで七宝と呼ばれ座敷の釘隠しなどの飾りや、室内の調度品に。名古屋城本丸のふすまが展示されていて、名古屋城では全体像を見れたが、ここでは眼の前にある。ふすまの引手の細工の緻密さ。タイミング抜群。国分寺崖線を生かした庭園に、いろはモミジの赤さが似合う。

 

  • 宇都宮城。宇都宮は江戸時代は関東で最も栄えた宿場である。戊辰戦争では、新撰組副長・土方歳三が大鳥圭介軍の参謀として宇都宮城を奪うべく戦さをしかける。近藤勇が流山で官軍に捕まった後である。歳三は城の東南から攻めれば落ちると確信し奇襲をかけ、結果的に落城してしまう。函館の五稜郭への橋を渡った時からそれを確かめたかった。宇都宮城に、ジオラマでそのことがしっかり表示されていた。土方歳三の戦の才は情で語られるよりも冷静である。

 

  • 宇都宮釣天井」は映画『家光と彦左』で知ったが、そのこともきちんと宇都宮城の歴史の一部に記されていた。2代将軍秀忠が日光参拝の折り往復宇都宮城に宿泊する予定が、帰りは宇都宮城をさけて江戸に帰る。その後、幕府は宇都宮城主・本多正純が留守の時に宇都宮城を取り上げてしまう。真相がよくわからないため伝説の「宇都宮釣天井」がつくられる。「宇都宮城主本田正純が、日光社参の帰り道に宇都宮城に宿泊する予定であった3代将軍家光を、からくり仕掛けの天井をつくって暗殺しょうと企てた。しかし計画は失敗に終わり幕府の裁きをうけ殺された。」

 

  • 宇都宮城忠臣蔵とも関係あり。22代目城主・宇都宮国綱が秀吉に所領を没収追放され、城代となったのが浅野長政で、その三男長重が笠間藩主となり、その後赤穂へ移封となる。松の廊下刃傷事件の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は長重のひ孫にあたる。この事件のあと急きょ「勅使饗応役」をまかされたのが戸田忠真(とだただざね)でこの功績もあって宇都宮城主となり、その後老中にまで出世する。話題性の多い宇都宮城を知る。

 

メモ帳 4

  • 2018年がやってきた。向かうというより向うからきたという感じ。檀一雄さんの『花筐』を読む。大林宣彦監督の映画を観ていないと感覚がつかめない作品。この作品をひりひりと感じる感性が失せている。その時代の青春を受けとめようとするが、作品だけでは受けとめえない感性の鈍さ。悲しい。時代の空気を感じるとは何んと難しいことか。小説は今命が散る自分を誰に見届けてもらうか。その相関図と思う。異国から波の音が聞こえる町に降り立った榊山(さかきやま)少年が、他の少年、少女たちとひとりの若き未亡人の叔母とにきらきら光る波を映し出す。「感受性の隅々までが何の隠蔽(いんぺい)もなく放置され、五体はわなわなとふるえていた。次第に榊山の体内には光のように峻厳な充実感がみなぎっていた。」

 

  • 檀一雄さんは太宰治さんなどのところを転々としつつ、昭和12年初短篇集『花筐』の刊行直前に動員令で入隊。昭和15年に召集解除。再召集を恐れて満州に渡る。三島由紀夫さんの『私の遍歴時代』に檀一雄さんのことは出てこなかった。三島由紀夫さんにも昭和20年赤紙がくる。気管支炎で高熱を発し、胸膜炎と誤診され即帰郷。檀一雄さん明治45年・大正元年(1912年)生まれ。三島由紀夫さん大正14年(1925年)生まれ。

 

  • 昭和12年(1937年)三島由紀夫さんは初めて歌舞伎座で歌舞伎を観劇。羽左衛門、菊五郎、宗十郎、三津五郎、仁左衛門、友右衛門の『忠臣蔵』で、大序の幕があくと完全に歌舞伎のとりこになる。『花筐』には吉良という名前の少年がでてくる。道化者の阿蘇少年が「吉良上野の子孫かい?」とたずね「そうだ」と即答されへこむ。三島さんは、子供の教育に悪いと12歳まで歌舞伎は見せてもらえず、もっと教育に悪いはずの映画は自由に見せてもらったのだから妙だと言及している。

 

  • 三島由紀夫さんが観た『忠臣蔵』は大序とあるので『仮名手本忠臣蔵』の通しでしょう。森繁久彌さん主演の社長シリーズの映画『サラリーマン忠臣蔵』『続サラリーマン忠臣蔵』は『仮名手本忠臣蔵』を下地によく出来上がっていた。現代物のサラリーマンでどう仇討をするのか。株主総会で怨みをはらすとあり、映画『総会屋錦城』が面白かったのでそれではと観る。原案は、井原康夫とあり、実際は4人のかたの一字をとった名前で「康」の戸板康二さんの案が強いようだ。なるほどとうなずける。

 

  • 社長シリーズのメンバーに加え、桃井和雄を三船敏郎さんにし、その部下・角川本蔵を志村喬さんに。本蔵に押さえられる浅野卓也は池部良さん。浅野と深い仲の芸者加代治が新珠三千代さん。加代治に御執心の吉良剛之助が東野英治郎さん。赤穂産業の浅野卓也社長亡き後、新社長として乗り込んでくるのが丸菱銀行頭取・吉良剛之助。専務・大石良雄の森繁久彌さんは当然辞表を提出。同志と新会社設立。艱難辛苦のすえ、赤穂産業の株主総会で吉良剛之助を退陣させる。

 

  • 仮名手本忠臣蔵』を上手く使いつつ、社長シリーズのいつもの雰囲気を合体させる。大石社長の料亭、クラブ通いはお手のものであり、その場を祇園、一力、山科などの名前を使う。原案者の方々はそのアイデアに相当楽しんだであろう。観る方もその組み合わせの同一と相違の変化を愉しませてもらう。堀部安兵衛を堀部安子の中島そのみさんとし、かえって面白くなった。森繁さんが三船さんにもっと骨のあるやつだとおもったと言われるあたりも、ピリ辛でしまる。池部さんはダンディで、野暮な東野さんは悪役の位置そのもの。『サラリーマン忠臣蔵』娯楽映画でありながらなかなかである。

 

  • 京都の東福寺の東奥に皇室と関係の深い泉涌寺(せんにゅうじ)がある。楊貴妃観音と呼ばれる仏像もあり、友人に薦められかつて紅葉の頃、東福寺から歩いて訪れたことがある。泉涌寺の塔頭の一つ来迎院に茶室「含翠(がんすい)軒」があり、思いがけなくも大石内蔵助の作った茶室とあった。ここで赤穂浪士たちとの密談もされたそうで、大石内蔵助の親戚がこのお寺に縁があったとか。一山越せば山科の大石内蔵助宅にも近い。茶室はすこし寂しい感じで、世間の討ち入りの喧騒さとは程遠い静かな雰囲気であった。

 

  • 大石内蔵助旧居跡といわれる岩屋寺のそばに大石神社がある。大石神社は浪曲師・吉田大和之丈(奈良丸)らの篤志により建立。浪曲の義士伝は、桃中軒雲右衛門が完成させ、同時代に吉田大和之丈(奈良丸)も義士伝もので人気を博す。映画『桃中軒雲右衛門』では月形龍之介さんが演じあの独特の声が浪曲師に合っていた。映画『総会屋錦城』の中で志村喬さんが桃中軒雲右衛門の義士伝の一節をうなる場面があり、音源はレコードであろうか。『サラリーマン忠臣蔵』では森繁久彌さんが東野英治郎さんの前で大塩平八郎作「四十七士」で剣舞を披露し、辞表をたたきつける。それよりも「青葉茂れる~」の歌としぐさ、間のはずしかたがやはり森繁節で絶品。