『談志まつり 2014』(昼)

落語家・立川談志さんの11月21日の命日から3日間、『談志まつり 2014』が開催され、その23日の昼夜に行く。談志さんの落語に行くようになったきっかけが何だったのか覚えていない。小噺などが、ポンポンと続いて、半分くらいはついてゆけたのと、亡き落語家の名人たちの話しや、その他の色物のことなどが、とにかく凄い量が、談志さんの頭の中に入っていて、その芸のまま出すことが出来るということへの驚きであろうか。

その場になってみないと何が飛び出すか分からない。落語をされる時もあるが、されない時もある。ただ、様々の方の話にも触れるが基本的には、人の裏話には興味なくて、とにかく芸人さんのことであれば、その方の芸について話される。こちらもそのほうに興味があるので面白かった。

昼の部、最初の落語家さんが、私は医者だったのですが、落語家になりたくて落語家になり、今は両方を仕事にしていますと言われた。見たことがある。もしかして、ドキュメンタリーで談志さんの二つ目の昇進試験を受けていたあの方かな。次の落語家さんが出て、二つ目昇進試験の話をする。らく朝さんと志ら乃さん。あの時の前座さんが、こんな上手い噺家さんになったのだ。らく朝さんは、「真珠の誘惑」。志ら乃さんは「時そば」。

談志さんはお酒を飲みながらの二つ目昇進試験である。厳しい。次々要求していく。出来る噺をあげてみろ。じゃこの話のこの部分をやってみろ。踊ってみろ。知っている民謡を歌ってみろ。お弟子さんたちは、タジタジである。談志さんの想う事は、芸として必要なことであるが、それよりも、噺をやっているとそれに関連した違うことにも好奇心が働くはずだ。そしたら、それも手に入れろという事のようである。噺に使おうと使うまいと吸収して、落語だけでなく俺を楽しませてみろというのである。これが大変である。すべて、精通しているから、楽しませることなど出来るわけがない。噺にしたって言葉のイントネーションの違いを自らやって指摘する。だからこそ怒られても、注意されても、小さくなっても、着いてこられたのであろう。あの試験の結果がしっかり出ているのである。

志の輔さんは「バールのようなもの」。落語のようなものは落語ではないよ、とも言える。日本語の解釈は難解である。だから、イエス、ノーはっきりしない腹芸があるのか。

柳亭市馬さん、落語協会の会長さん。年末、掛け取りにくる人の好きな事をやってヨイショして帰してしまう。川柳とか芝居とか。ラストに松岡の旦那の談志さんが来る。談志さんの好きだった三橋美智也さんの替え歌を次々と唄う。談志さんも苦笑いして帰る。声がいい。

トーク  柳亭市馬さん、談四楼さん、志の輔さん、司会・談之助さん

「立川流誕生秘話~30年目の真実~」 真打の昇進試験のことから談志さんが、落語協会を出て立川流を作ったのであるが、その渦中の人が談四楼さんであった。その前に三遊亭園生さんの落語協会脱会があり、その辺のことが今回はっきりした。真打の話しのところで、やたらキウイさんの名前がでてきて、そういう噺家さんがいるのだと思って居たら夜の部に出てこられた。

談之助さんは、本も出していて演題は「立川流騒動記」であった。この話に関しては立川流落語家一番と自負されているようだ。

スタンダップコメディの松元ヒロさんは、政治にたいしても、庶民の言いたいことを笑いと力強さとアップテンポで聞かせてくれる。談志さんに、ネタを取られて談志さんのほうが自分の時よりもどかんと受けていたと話される。

騒動の張本人の談四楼さんは、「明烏」を手堅い語り口で。その当時は解らないが、この方を落とすなんて・・・。

志の輔さんは、立川流誕生によって、寄席経験のない落語家一号である。立川流誕生によって、寄席が無くても落語が劇場でもやれて、落語家も育つ見本を作ってしまったわけである。あれから30年、立川流は落語のすそ野を広げたわけである。

今では、寄席も少なくなり感覚的にしか解らないが、30年前は、席亭の力も強かったのである。寄席は毎日開いていますからね。

夜が「談志の遺言~俺を超えて行け~」。

 

 

明治座 11月 『四天王楓江戸粧』

『四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)』は、四世鶴屋南北作で、これを観てすぐは、すっきりとしていたのであるが、時間がたってみると、あのすっきり感はどこへ。そして、現猿翁さんの国立劇場で復活上演された録画を観直したら益々混乱状態。これから構築しなおすことにする。原因は、記憶力の低下ではなく、もともとの記憶力の弱さである。

観ていた時は、なるほどそういうことになるわけかと芝居に付いていったのである。猿弥さんと弘太郎さんは、今回は罰ゲーム体制かな。竹三郎さん昼夜大活躍。和泉式部が出てくるんだ。尾上右近さん、次に観るのが怖いほどの出来。猿之助さん、右近さんの力を引きだした。右近さんもよくそれに答えた。市川右近さんの荒事はいい。團子さんもきちんと立ち回りを演じている。名剣の名が子狐丸だからその狐の精がでてくるんだ。小鍛冶を連想する。作り物の蜘蛛の動きもいい。亀三郎さんにしては珍しいもて役。明治座は舞台の奥行が狭いと思うが、上手い舞台設定とし、相当、考慮されたであろう。筋を追いつつそんな事が頭の中を駆け巡っていた。

<四天王>というのは、源頼光の家来の、渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、ト部季武(うらべすえたけ)の4人である。その他、藤原保昌という優秀な家来もいる。碓井貞光→碓井定光、藤原保昌→平井保昌となっている。

善人が、源頼光側で、悪人は亡き平純友側である。純友の妻・辰夜叉はすでに亡くなっているが、その弟の左大臣高明(亀三郎)が辰夜叉(猿之助)を蘇生させてしまう。そこへ来合わせた渡辺綱(市川右近)に対し、辰夜叉は大蜘蛛となって追い払い、辰夜叉に戻り空を飛んで行く。

一條戻橋では、辰夜叉によって御所から追い出された貴族が男夜鷹(猿弥、弘太郎)となり、さぼてん婆(竹三郎)が取り仕切っている。評判の男夜鷹が、平井保昌の弟・保輔(猿之助)で、母(秀太郎)が現れ屋敷に連れ戻す。ここは笑いを取る場面で、猿之助さんと竹三郎さんが、台詞にはない冗談を交えたりする。

平井保昌の館では、辰夜叉の命で、頼光に紛失の宝剣を詮索をするように、それに従わないなら切腹して首を差し出すように言って来る。夫の赴任先に呼ばれていた保昌の妻・和泉式部(笑三郎)は、梅の枝を携えて帰って来る。保輔は、刀を見ると恐れのため体が硬直する奇病を持っている。その為、兄は梅の枝の切り口を持たせ、頼光に似ている弟に身替りとして、その枝で死んでくれるよう暗示したのである。保輔の奇病は母が気性の荒い保輔のためにそのままにしておいたので、それを解いてやり、保輔は刀で切腹する。

和泉式部は、辰夜叉に頼光の首を差し出す。頼光の許嫁・花園姫(笑野)に首実検を命じる。そこへ、保輔を想う式部の妹・橋立(笑也)が現れ、その様子から頼光の首は偽物と解ってしまう。辰夜叉は、式部達の首を討つよう命じる。そこへ「暫く」といって、碓井定光(市川右近)が花道から現れる。ここに『暫』の簡潔な形を入れる。そして、辰夜叉が土蜘の精と合体していることが判明。ト部の妹(春猿)、ト部の弟(團子)、主君頼光(門之助)、公時(弘太郎)、定光らが 土蜘(猿之助)を退治するのである。

これで終わりではない。ここから、もう一つの話が入る。そのあたりが再演は無理と言われた要因のように思える。かつての再演の時は、昼夜での通し狂言である。今回は夜の部だけでの再演である。いかに簡潔にしようとしたかがわかる。読むほうは全部読む気にならないと思う。しかし、観ている時は、こんな感じではない。休憩も挟んでトントントーンと進む。

次は、<地蔵堂の場>なのであるが、相模国と武蔵国の境にある地蔵堂とある。旧東海道の戸塚から保土ヶ谷へ下りの形で歩いた途中に、<武相国境之木>と書かれた木の標が立っていた。そして、権太坂の頂点には、地元の信仰があつい境木地蔵尊があることになっているのだが、この<権太坂>の道を、ずれて歩いてしまったらしいのである。ここだけを歩き直すことにしていたが、雨となり中止となる。おそらく、芝居の<地蔵堂>とは<境木地蔵>のことと思うのだが。

この場では、小鍛冶宗近が打ち上げたという名剣小狐丸が登場する。この刀の精・小女郎狐(猿之助)、ト部季武(猿弥)、逃れて来た高明、平将門の遺児・良門(猿之助)、良門の妹・七綾姫(尾上右近)などが登場し、ここからは、将門関係の者と純友関係の者、頼光関係の者が、からみ合う。七綾姫の持っていた将門の繋馬の赤旗は高明に渡り、小狐丸は良門の手に渡る。

品川宿近くの紅葉ヶ茶屋では、季武が町人に成りすましている。そこの居候の高明も彦左(亀三郎)と名乗っている。彦左は、お七(尾上右近)を名乗る七綾姫とおのぶ(猿之助)を名乗る小女郎狐の二人に想われている。季武の仲裁で彦左を挟んで二人は酒を酌み交わす。ここで、それぞれの素性がばれる。兄良門と再会した七綾姫は小女郎狐に小狐丸を渡し、小女郎狐は喜んで空を飛んで帰って行く。

ここから、良門と七綾姫の立ち回りがある。猿之助さんと尾上右近さんで、尾上右近さんの軽快な立ち回りをたっぷり見れるとは思っていなかった。花道に二本の梯子が立てられる。一本は舞台近くで猿之助さんが上り、もう一本は二階席に届かせていて尾上右近さんが上る。劇場の特質を生かした工夫であり、お客様へのサービスである。照明も色々考えたことであろう。猿之助さんの、今立つ劇場に何が出来るかを考える回線の一部を見たようであった。

全てが明らかとなり、季武は良門を逃がすと告げ、高明は七綾姫と妻に迎えると告げ後日の再会をと大団円となる。

平将門には、七人の影武者がいたとの伝説から、良門や七綾姫の影を七つにしたりと、奇想天外ではあるが、様々な言い伝えが織り込まれており、源頼朝の四天王を使い、登場人物を重複させることによって、芝居の厚みを出そうとしている。そこに、猿之助さんが四役勤めるのである。今回はその芝居の厚みと今まで見れなかった役の役者さんの厚みを楽しませて貰ったように思う。

 

 

 

明治座 11月 『夏姿女團七』

『夏姿女團七(なつすがたおんなだんしち)』は、大阪での『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』の書き換えで、場所も江戸、団七を女に替え、義平次も義母とし、殺しの場が<浜町河岸>である。

女団七を、<團七縞のお梶>と名称していて、あの茶系の弁慶縞の衣装であるが、<團七縞>としているのも、格好よく、粋と義侠心を感じさせる。團七縞の色、柿色というのだそうで、浜町と柿色、明治座と秋の設定も憎いことである。『夏祭浪花鑑』での團七の女房がお梶、一寸徳兵衛の女房がお辰で、『夏姿女團七』では、二人は、一人の女として登場し、両国橋の髪結床で出会う。止めに入るのが、釣船の三婦である。団七縞のお梶の猿之助さんと一寸のお辰の春猿さん、伊達なやりとりを見せてくれる。猿弥さんの釣船の三婦が止めに入るが、斬り合いとなり、お辰の梶右衛門(欣也)から手渡された刀がお梶の探していた宝刀と分る。お梶とお辰が仕組んだ刀探しであったことが判明する。二人は仲間であった。この場面は二幕目である。

一幕目で、場所は柳橋。磯之丞と琴浦が登場し、お局様に変装したお梶の継母とらが、琴浦を姫君として迎えに来るが、お梶の出現でそれが、おとらの狂言で梶右衛門に頼まれてのことであった。磯之丞の門之助さんはこういう役は仁で、芸者の琴浦の尾上右近さんがいい芸者姿となった。そして、女団七だけにお梶の出も考えられていて、猿之助さんもそれに答える。芸者・団七縞のお梶として登場。伝法さの雰囲気もある。狂言がばれる竹三郎さんのおとらの変化が妙味で、お梶とおとらの浜町河岸の場面が楽しみになる。書き換えとして、原作との比較だけでなく、芝居として、どう楽しませるかの工夫がある。

磯之丞の刀も見つかるが、その磯之丞をおとらはおびき出して連れ去ってしまう。そのおとらに磯之丞の行先をたずねるお梶。それが、浜町河岸である。女同士の殺しの場面である。ここが、歌舞伎の女形の強みである。きちんと形となっていく。これが生身の女だと、<女>が前に出てきて様式美にならないと思う。本水を使い、雨が降り、その雨の直線はまるで、浮世絵である。劇場によって、舞台装置も変わるので、その限られた中での工夫もあったであろうが、上手くクリアしていた。書き換えの面白さを満喫させ、予想以上に楽しませてもらった。

作・三世桜田治助/補綴・演出・石川耕氏士

歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (1)    歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (2)

<浜町河岸>は、川口松太郎原作の『明治一代女』にもでてくる。そして、歌謡曲『明治一代女』の歌詞にも 「 浮いた浮いたと 浜町河岸に 」 と出てくる。両国橋から明治座方面に隅田川に添っている道を浜町河岸通りという。柳橋は、隅田川から神田川に入る最初の橋である。

大阪から江戸へ、男から女へ書き換えるだけに、場面設定もいい。『夏姿女団七』気に入った。

『明治一代女』を唄われた喜代三さんが、私の好きな映画、山中貞雄監督の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』に矢場の女将として出られている。少年を挟んでの大河内傅次郎さんとのコンビが良い。

 

明治座 11月 『高時』

11月の明治座は、10月の新橋演舞場に続く、<市川猿之助奮闘連続公演>である。

『高時』は、河竹黙阿弥さんの<活歴>と云われるもので、これが厄介なのである。<活歴>というのは、明治時代に入り西洋の文化も入ってきて、当然歌舞伎界にも波紋が起こり、九代目團十郎が河竹黙阿弥等と新しい歌舞伎として始めた史実にもとずいた歌舞伎作品をいうことらしい。ただこれが、当時の團十郎さんや黙阿弥さんの意図する作品として継承されたかどうかは疑問の残すところで、解釈的にはその流れを研究されている専門家のかたの研究を探索するしかない。ただ黙阿弥さんが幕末から明治にかけて、時代の流れに生身を通して書かれた<活歴>ものの作品の中で、置き去りにされたものも沢山あるようだ。

芝居のほうの『高時』は、明治17年「北條九代名家功(ほうじょうくだいめいかのいさおし)」(黙阿弥69歳)として九代目團十郎によって上演され好評を博し、その後『高時』の場面のみが上演されているのである。

北條高時は、「太平記」では北條時政から九代目で、次のように書かれている。

「高時の行状ははなはだ軽薄で他人を嘲りを意に止めず、政治の仕方も道にはずれて民の苦難をかえりみず、日夜もっぱら遊興にふけって、地下の祖先の偉業を傷つけ、朝に晩に珍奇な品々をもてあそんで、荒廃の期を目前にむかえようととしていた。」

遊興の中に、闘犬と田楽舞を好むことも含まれるらしく、その事と天狗にたぶらかされたとの逸話を盛り込んだ場面の芝居となっている。駕籠に乗った闘犬に母が噛まれ、その息子が犬を殺してしまう。高時はその男を殺すよう命じるが、家来がいさめる。聞かぬ高時に入道は、きょうは祖先の命日であるからと言われ、いやいや承諾する。そのやりとりで高時の横暴さがあぶりだされる。酔った高時の前に烏天狗が現れ、高時を田楽舞いに参加させ、高時も興にのり踊り始める。しかし、次第に踊りの中でいいだけ烏天狗に翻弄され踊り倒れ、高時の行く末を暗示することとなる。

主人公の高時が、横向きで登場するが、これは、歌舞伎では異例のことだそうである。この芝居が上演された時、批判が続出したようで。『頼朝の死』で頼家が横向きで登場するが、明治では、まだ考えられない形だったのである。ただ頼家と高時では、人物設定が違うので、その効果も違う。

横暴な高時としては、市川右近さんの高時は少し弱すぎる。ただ、烏天狗と市川右近さんの高時の踊りの場面は楽しく、次第に翻弄される身体の動きも軽快で、空中を飛ぶ仕掛けも、高時が違う世界にいる面白さがあり、澤瀉屋の世界である。解かりやすい澤瀉屋の『高時』である。

戯作作家は、上演回数の多い作品で作家としてのイメージを定着されてしまう。それは、上演されなければ作品の意味がないからである。しかし、それだけで決められてしまう評価に対して、納得のいかない部分もあるのが戯作者としての宿命なのかもしれないなどと、いつにない感覚を黙阿弥さんに持ってしまった。

しかし、この感覚に引っ張られていくと、底なし沼にはまりそうな深さも感じるので、とぼとぼ引き返すこととする。

 

新橋演舞場 11月 『京舞』

『京舞』も芸道ものであるが、こちらは、実在する京舞の井上流三世家元井上八千代さんと四世家元井上八千代さんのお話である。四世家元は、井上流に内弟子として入られ、三世家元の厳しい指導を受け、四世家元を継がれる。

現在活躍されている五世家元は、四世家元のお孫さんにあたられ、その芸の継承模様は、テレビのドキュメンタリーでも紹介されていた。

北條秀司さんの脚本は、芸の厳しさの中に人間としての日常の可笑しさも含めつつ、話を膨らませ、ぐいぐい引っ張ていき、観客を楽しませてくれる。祇園の<都おどり>の初めての振り付けをしたのが三世で、舞台には<都おどり>の様子も加え、<手打ち式>も行われる。<手打ち式>とは、かつては、京の顔見世の芝居の役者さんの乗り込みを迎えるものであったらしいが、現在では、慶事の席で披露される伝統芸能となっている。これを観れるのが、舞台『京舞』の楽しみでもある。

芝居では三世家元(片山春子)が内弟子愛子を次の家元として決めていて、孫の片山博通と結婚させる。そして百歳のお祝いの席で「猩々(しょうじょう)」を舞いおさめるのである。

そこまでの人間片山春子と師匠としての片山春子を水谷八重子さんは、風格を持って時には奔放な性格を爆発させながら芸に身を奉げる一途さを演じられる。愛子の波野久里子さんは、内弟子として若々しく甲斐甲斐しく働き、練習に励む。そんな愛子をそれとなく支える片山博通の勘九郎さんのさりげなさに好感がもてる。春子亡きあと、愛子は家元として井上流をりっぱに引っ張って行き、芸術院賞を受賞し、芸術院会員となり、その祝いの席で、「長刀八島」を踊るのである。その夜、愛子は博通に先代が観にきてくれたと告げ、芸に打ち込めたお礼を博通に伝える。

この芝居では、八重子さんと久里子さんは孫ほどの歳の開きのある関係であり、久里子さんと勘九郎さんは夫婦の関係である。それが、不自然でないのは、それぞれの役者さんの力量である。前回の公演のときよりも、八重子さんの老け役は手の内で、久里子さんは娘時代から芸が認められる年代までを自然な流れで演じていかれる。孫であり夫である勘九郎さんの優しさの変わることのない年齢の流れも違和感なく観て居られる。

舞台上の井上流を支えれ周囲の人々も、新派という劇団の息の合いかたが、上手く作用して小気味が良い。春子の性格をよく知っている料亭の主人の近藤正臣さんと八重子さんも息がぴったりで、後継ぎを話す相手として納得できる。

これだけ大勢の役者さんが出てきて、ダレさせることなく見せれるのは、やはり、長い間、お互いの芝居をみて進んできた新派の良さであると思う。

片山春子の役は八重子さんは、十七世勘三郎さんを踏襲していくと言われた。当然、久里子さんは愛子を演じた初代八重子さんを踏襲されるのであろう。

追善挨拶は『京舞』の劇中で行われる。一回目に観たときはゲストは上島竜兵さんで、勘三郎さんと呑んだとき、夜中も過ぎ、明日仕事が早いのでこの辺で帰らせていただきますと言ったら、僕も早いんだよ、あなたと同じ舞台に立ってるんだからと言われて困ってしまったと言われた。

他でも、勘三郎さんは、明け方まで飲んでいるにも関わらず、その日の舞台には何かしら新しい工夫があって、寝ないで考えてきたなと思ったことが何回もあると言われていたのをどこかで見たか聞いたかしている。『京舞』のように長寿であっていただきたかった。

近藤正臣さんは、十七世勘三郎さんと一緒だった舞台での、十七世の演技を身振りで説明され、二回別々の演技の話しであった。まだ幾つか別の話しをされているのかもしれない。

柄本明さんは、新派に参加させてもらって、どうしたらよいのか解らないといわれていた。謙遜ではないように思えた。勘九郎さんの鶴次郎の前で、毎日自分の位置の定まらなさに苦慮されているかもしれない。いいとか悪いとかいうことではない。安易に収まろうとする自分に待ったをかけているようにおもえたのである。さてどうであろうか。もしそうであるならこういう時、勘三郎さんはどんな言葉をかけられるのであろうか。

作・北條秀司/演出・大場正昭、成瀬芳一 /舞踏振付・井上八千代/

友人は「観に来て良かった。良い物を観るために今度は一人でも出かけて来るよ。」と言っていたが、どうであろうか。

 

 

 

新橋演舞場 11月 『鶴八鶴次郎』

11月新派特別公演である。10月の歌舞伎座に続き <十七世中村勘三郎 二十七回忌、十八世中村勘三郎 三回忌 追善>公演である。十八世勘三郎さんが、十七世勘三郎さんの追善興行は<新派>でもと言われていて、勘九郎さんと七之助さんにも<新派>を体験させたいとの想いがあってのことという。残念ながら、鶴次郎を演じられた勘三郎さん不在の公演となってしまった。

『鶴八鶴次郎』の鶴次郎は、十七世勘三郎さんも演じられている。川口松太郎さん原作で、芸道物ということができるが、<新内>という芸に着眼し、そこに人情と義理を加えているところが、川口さんの作品らしい。<新内>は流して歩くところから出発している芸である。料亭の二階のお客さんに声をかけ聞かせたり、流して歩いてお客の声のかかるのを待ったりする。<新内>の哀調おびた三味線の弾き方と高音の声質の語りは、男女が心中したくなる気分にさせ、実際心中する者もでて、公的規制を受けたりもしている。

その<新内>が時を経て、名人会に加わるのである。名人会に加わるだけの芸の力のある芸人二人のどこかで亀裂してしまう男女の想いの芝居である。

芸の事となると喧嘩ばかりの鶴八と鶴次郎だが、鶴八は鶴次郎の師匠の娘である。そんなこともあり、好きだと言えない鶴次郎は、鶴八の結婚話に意を決して女房になってくれと告白する。二人は、先代鶴八の願いであった鶴賀の名前の席亭を開く直前、鶴次郎は男のプライドを傷つけられとして鶴八と別れてしまう。場末に燻る鶴次郎を番頭の佐平の助力で、老舗料亭の女将におさまっている鶴八と再会させ、再び名人会に二人を出させる。二人の芸がふたたび花開こうというとき、鶴次郎は、鶴八の三味線の芸に難癖をつけ、再度の別れとなる。

この後半からの、鶴八の七之助さんと鶴次郎の勘九郎さんがいい。七之助さんは、女形の声質を変えられる特性を生かし、低音にして、老舗の料亭の女将としての立場をきっちりつくる。鶴次郎の勘九郎さんは、持ち前の心理描写の上手さを新派的沈黙で押さえ、佐平に、どうして二人の中を壊したのかを静かに語る。当時の<新内>芸人の艶と泥水に通したような味はお二人には無い。そこが難点であるが、心理描写になると勘九郎さんは、聴かせる。鶴八は、老舗料亭の女将の座を捨ててでも<新内>の芸に鶴次郎と共に再び生きるという。その言葉を聞いたとき、鶴次郎には鶴八の今の倖せを壊すことは出来なかった。自分の想いを壊すのである。

勘九郎さんは、もちろん、中村屋の芸は伝えていくであろうが、それとは違う自分の語りを作っていかれるであろう。十八世勘三郎さんが、お二人に<新派>を体験させたいと思われた事は、意を得ていたのである。追善でありながら、十八世勘三郎さんのお二人への<芸>への示唆のように思えた。

川口松太郎さんは、花柳章太郎さんが亡くなられたとき、お棺の中へ『鶴八鶴次郎』の脚本を入れ、花柳のものとして永遠に他には上演させまいとしたが、それを止めたのが初代水谷八重子さんだという。(「空よりの声ー私の川口松太郎」若城希伊子著) 止められた八重子さんがおられてよかった。

旅のために、予定していた日にちに観られないかもしれないと、違う日にも切符を購入し、行けない日を友人に行ってもらおうとしたら、一人では嫌だと言われ、2回目は友人と観ることになった。

二回目のとき、出演者の挨拶のゲストが渡辺えりさんで、十八世勘三郎さんのこの芝居を観たあとで、どうして女の生き方を男が決めるの。女に決めさせなさいよ。と勘三郎さんに言われたのだそうである。大爆笑であった。勘三郎さんに佐平役の柄本明さんを紹介したのも渡辺えりさんで、渡辺さんが話す間ずーっと、柄本さん下を向いて新派の雰囲気だったのも可笑しかった。

作・川口松太郎/演出・成瀬芳一/新内・新内仲三郎社中

 

 

歌舞伎座 11月 『御存鈴ケ森』『熊谷陣屋』『井伊大老』

『御存鈴ケ森(ごぞんじすずかもり)』は、侠客の幡随院長兵衛と白井権八の出会いである。<御存(ごぞんじ)>と付くのが、皆知っていたという事である。鳥取藩で父が侮辱されたとして、相手を殺し江戸に逃げてくる。前髪の美しいお尋ね者と、江戸で男の中の男として人気の幡随院長兵衛とを、会わせて並べようとの趣向である。それも、権八が後に処刑される鈴ケ森で会わせるのである。権八の菊之助さんは若く美しく、たむろして賞金目当てのならず者たちを相手に優雅に切り倒していく。

その様子を駕籠の中で見ていた幡随院長兵衛の松緑さんが声をかけるのである。「お若けえの お待ちなせえやし。」声も良いし、駕籠からの出方もよいが、どうしても貫禄を要求してしまう。血気はやる若者を、まあ、まあ、まあ、となだめつつそこに留まらせる大きさである。特に短い場面では、そこが難しい。どうしても、同世代に見てしまう。ところが、同世代でも、年齢がいくと、芸で若さと貫禄を作りあげてしまうのである。今月の松緑さんは、何か粛々と役の心根を探られているように映る。

『熊谷陣屋』で今までと違う印象を持った。熊谷の幸四郎さんが出家して、花道にきて、「ああ十六年はひと昔。夢だ。夢だ。」と嘆くとき、何気なく舞台を観た。煌びやかな衣装を着て並ぶそれぞれの立場の人が熊谷を見つめている。その時、十六年を小次郎と重ねて子を想う親心だけではなく、そうか、今いる熊谷の位置からすると、舞台側は夢なのだ。その世界から自分は今こそ抜け出したのだ。という想いが伝わって来た。そして、戦闘の音に身構え、そんな自分に苦笑する熊谷。

熊谷が本当に抜け出すには時間を要したであろうが、舞台と花道は違う世界になったという二つの世界がはっきりと分かれて見えた。そうしなければ、生きていけない熊谷の苦しさ、そうした状況の人々の代弁者としていの幸四郎さんの熊谷がそこにいた。今まで演じていた舞台の人々が美しくも哀しい亡霊のように思えた。不思議な感覚であった。相模(魁春)、藤の方(高麗蔵)、弥陀六(左團次)、義経(菊五郎)

『井伊大老』は、井伊直弼(吉右衛門)の心情を側室のお静(芝雀)に語ることによって、直弼の人間性を浮き彫りにする作品で、北條秀司作である。北條さんの作品は、歴史的人物の公の姿とは違う心情を表現して見せるのが上手い。そして、吉右衛門さんと芝雀さんも、今となっては望んでも戻らぬ慎ましかった埋木舎での生活を懐かしみ、息の合った情愛を伝える。正室の昌子の方(菊之助)には言えないことでもお静には本心の苦しみを吐露できる直弼。直弼を討とうとして失敗した水無部六臣(錦之助)に、攘夷派は帝を自分たちの思想に利用しているだけなのだと諭す直弼。これから将来ある若者たちの助命を長野主膳(又五郎)にうったえる直弼。直弼の死を予感する仙英禅師(歌六)。その渦中にあって、国賊となることの無念さをお静に語る。お静は「それでよいでは。」と答える。直弼は、その言葉に捨石となる決心をし、桜田門外で討たれ最後に「大義をあやまるな。」との言葉を絞り出す。吉右衛門さんは公私の直弼を表裏をきちんと出された。

今月は、家来が若手で、顔の作りもよく、動きも綺麗で舞台に張りがあり緊張感が増し、見ていて気持ちがしっかりした。

廣太郎さん、種之助さん、廣松さん、隼人さん、萬太郎さん、巳之助さん、宗之助さん

 

 

歌舞伎座 11月 『すし屋』

『義経千本桜』の中の『すし屋』の段である。平維盛が高野山にいると聞いて、その妻・若葉内侍(わかばのないし)と六代君親子は、吉野を通て高野山へ向かうところでの、吉野下市村での話である。

現在の 下市町のマスコットキャラクターが<いがみの権太>にちなんだ<ごんたくん>である。 熊野三山、吉野、高野山の三大霊場は世界遺産になっている。今週のどこかで、友人は熊野の小辺路を歩いているはずである。奈良の旅を計画していた時、奈良から熊野への、日本一長い路線バスを見つけ、これで、小辺路を歩く足掛かりができたと喜んでいた。今回はその旅はパスさせてもらう。帰ってきてからの報告が楽しみである。

吉野とか高野山とかが使われるのは、霊場の意味も含んでいるのであろうか。武蔵坊弁慶は熊野で生まれたという説もあるようだ。近頃舞台を見ていても、山道が浮かんでくる。江戸の人々は暗い舞台を自然の木々の中として、今よりもっとリアルな気分でお芝居に見入っていたかもしれない。そして、今のように無数にある道とは違って、ここと言えば、ほとんどの人の頭の中では、こことして同じ認識を持てたのである。舞台のすし屋の左手の風景の絵が、奈良の田舎の感じで、よく解っているな、と楽しかった。

その小さな吉野の村に大きな事件が勃発するわけである。平維盛親子の出現である。その凄い方のために、いがみの権太は命を張り、自分の妻子を身代わりに差し出すのである。そして、誤解されて父の弥左衛門に殺される。暗い。重い。と思っていたが、時蔵さんの維盛は安心して見ていれる動きで、維盛を慕うすし屋の娘・お里の梅枝さんが初々しくそれでいて娘のほのかな色気がありなかなかよい。そこへ、父には勘当されているが、母親の右之助が甘くなるのも仕方がない思える、どこか憎めない、いがみの権太の菊五郎さんが登場である。

悪人が改心して、忠臣に目覚めたというのではなく、そんなこと考えてもいなかった親泣かせの子が、ひょんなことからそういう事に巻き込まれてしまった。その感じが面白かった。弥左衛門もお里も納得づくでの自分の行動である。ところが、こうすれば、まあ親父も喜ぶだろうとの気持ちが、権太の妻子は、これで夫の舅への孝行となると後押ししてくれる。その気持ちを受けて仕組んだことが、梶原にはお見通しだったのである。幸四郎さんの梶原は、「親の命より褒美を」という権太を面白いやつとして笑い、だまされているのにゆとりがあり、褒美の陣羽織の内に隠された、維盛を出家させよの歌の暗示で、そうか解っていたのかと納得させられる。

「褒美」の言葉に怒り心頭の弥左衛門の左團次さんは、権太を刺す。そして、真実を知り嘆き悲しみ、そうかそうか、そうであったかと親の情があふれる。

どこかで、親のためにと思っていた権太の気持ちがすし屋のすし桶を隠し場所にしたことが、悲劇の序章である。その時の軽い世話の形の権太からは想像のできない結末となる。このあたりの庶民の雰囲気が、がらっとかわるところが、菊五郎さんの権太であった。

今度、柿の葉寿司を食べるときは、よく味わって食べることとする。

いがみの権太の着付けは黒の<弁慶格子>である。そして、弁慶の着付けは、弁慶格子でなく、<翁格子>である。弁慶が着ているのを<弁慶格子>と思っていました。どこかで間違って書いていたならご勘弁を願います。

歌舞伎座 11月 『勧進帳』『寿式三番叟』

歌舞伎座11月は 「吉例顔見世大歌舞伎」 初世松本白鸚三十三回忌追善 である。やはり、染五郎さんの初役・弁慶の『勧進帳』からであろうと思うのであるが、気の利いたことが書けそうにない。一口で云えば、負けず嫌いの弁慶であった。聞きなれた長唄を耳にしつつ、富樫の出。そして、花道での弁慶の第一声は。声も大丈夫である。姿も良い。

富樫に訊ねられ、東大寺勧進のためと言われたとき、こちらが、奈良の見て来た東大寺が崩れた。そうなのである。あの東大寺も焼失するような戦があり、その戦で活躍した義経が兄に追われているのである。

弁慶はその義経を富樫から守るのである。富樫が幸四郎さん、義経が吉右衛門さんである。お二人ともその役に妥協はされないから、染五郎さんは、弁慶を演じつつ、富樫の幸四郎さんと義経の吉右衛門さんとも相い対いすることとなる。観ていてもお二人は大きな役者さんである。染五郎さんは弁慶に成りきり、富樫にぶつかり、義経を守る。身体は形を作り、想いは負けるものかと気迫を感じる。

義経、四天王(錦吾、友右衛門、高麗蔵、宗之助)達を先に送り、ラスト花道で、幕の内の富樫に頭を下げ、それからゆっくりと天(客)に向かって頭を下げるが、染五郎さんはその動作があるかないかわからぬ速さで、前方を見つめ飛び六法で進んでいく。その日だけだったのであろうか。まだまだ気は抜かない、抜けませんと言われているようであった。まだ、染五郎さんの弁慶とはなっていないと思う。まだ朝日のまぶしさを感じただけの出発とおもう。

金太郎さん、間を外さずしっかり太刀持ちを務めていた。この舞台の空気、糧となり活かされる時がくるのであろう。

十一月歌舞伎座は、『寿式三番叟』から始まる。翁(我當)と千歳(亀寿、歌昇、米吉)が天下泰平、国土安泰、を祈ると、三番叟(染五郎、松緑)が五穀豊穣を祈って舞う。染五郎さんは、軽く操り三番叟の雰囲気も出され、楽しそうに解放されたように踊られる。松緑さんは静かに神に祈る者として踊る。この違いが面白かった。松緑さんは思いの外押さえられていて、あえて、競い合う二人三番叟にはしなかった。経験者として夜の部の染五郎さんの弁慶のことを思われているように感じたのは、うがった詮索であろうか。我當さんを筆頭に、厳かな舞台であった。

踊りらしきものはこれだけで、今月の歌舞伎座は重厚な出し物が並ぶ。その中で、意外にも、菊五郎さんのいがみの権太が、憎めない権太となっていた。

 

高倉健さんの遠い旅立ち

奈良の柳生街道 (2) の コメントで『宮本武蔵』については、また書く機会があるかもしれないとしたが、その一つが高倉健さんの佐々木小次郎である。初めて見たとき多少違和感があった。錦之助さんは、歌舞伎から入って時代劇に精通していた役者さんであり、宮本武蔵は、恋にも悩み、様々なことに悩みつつ剣の道を進む人である。それだけに作戦もたて、人の心理も読む人である。佐々木小次郎は違う。自分の剣の強さを信じ切っている。再度見ていてそこが小次郎らしいところなのだと思え、派手な衣装、長い刀それが似合う高倉健さんの小次郎が納得できた。

『宮本武蔵 二刀流開眼』が1963年、『一乗寺の決斗』が1964年、『巌流島の決斗』が1965年である。そして、内田吐夢監督の『森と湖のまつり(1968年)がレンタルショップで目に飛び込んできた。武田泰淳さんの原作である。この映画があるとは知らなかった。それも高倉健さんが主演である。さっそく借りたが、時間がなく半分を見て、奈良の<山の辺の道>への旅にでる。奈良から帰って来てから残りを見る。

雄大な北海道の自然のなかで、アイヌ民族の血の問題と差別問題が描かれている。高倉さんは、アイヌ民族の純血として、アイヌの人々のために基金を力ずくで集めようとする。ところが、彼には、和人の血も混じっている混血であった。三国連太郎さんとの決闘をする場面は迫力がある。さすが、内田吐夢監督である。アイヌの人々の宗教的儀式も取り入れながら、自在な自然描写。野生児的な主人公を若い高倉健さんは演じ切っている。新鮮な映画俳優、高倉健さんを感じた。

その野生児を内田監督は、今度は、武蔵の相手の小次郎にするのである。この野生児と佐々木小次郎の合体が、銀幕のスター・高倉健さんの誕生のように思えた。そんな時、健さんの突然の訃報である。驚きしかない。

『あなたへ』は、見ていない。なぜか、評判でありながら見ていないのである。だから、高倉健さんの<遺作>は私の中には未だ無い。しばらくは見ないであろう。

数か月前、高倉健さんの五代前の祖先である小田宅子(おだいえこ)さんの著書を古本屋で見つけた。『姥ざかり花の旅笠 ー 小田宅子の「東路日記(あずまじにっき)』である。田辺聖子さんが、読み解いてくれている。そもそもは、高倉健さんが、<うちの祖先の人が、こういう手記をものしているが、これをわかりやすく読めるようにならないものだろうか、面白そうなのだけれど>と言われたのが、色々な人の縁で田辺さんのもとに届いたらしい。時間が出来読める日を楽しみにしていた。

高倉健さんは、借りておられは肉体は返され、遠い遠い旅に発たれてしまわれた。まだまだ、新鮮な高倉健さんにお逢いできるような気がする。到底納得できないが、手を合わせさせていただく。

合掌。