テレビドラマ・渥美清の『泣いてたまるか』

独立プロ系の映画をみつづけていて、テレビドラマ・「渥美清の『泣いてたまるか』」で今井正監督が演出している作品が三作品みつかった。その内の二作は主人公の渥美清さんがきちんと恋愛し、良い方向へ進むのである。渥美清さんといえば『男はつらいよ』の寅さんのイメージが強く、片想いか、寅さんが相手の想いを信じられず逃げてしまうという印象である。

ところが、こちらの渥美清さん女性に正面からぶつかり、とても新鮮であった。それも一歩一歩静かに確実に周囲を固めつつ進んで行くのである。その渥美清さんの演技も好感がもて自分なりの信念を守りつつ生きている姿がこれまた幸せな気分にしてくれる。

泣いてたまるか~ある結婚~』(脚本・光畑硯郎)。靴屋の主人公(渥美清)は、15歳の時父に死なれ父に代わって靴職人の修行をし、やっと自分の店を持つ。そのため結婚が遅れてしまった。友人(小沢昭一)の結婚式で花嫁(長山藍子)の会社の交換手(久我美子)と会う。

主人公は結婚願望はあり集団見合いに参加。約束の相手を待つ交換手と偶然に出会う。彼女は、戦争で家族を失い一人で生きてきたがつき合う相手にいつも去られてしまう。彼女の靴のかかとがとれ、靴屋は自分の店で修繕してあげる。そして靴を作ってあげると告げる。靴屋の母(浦辺粂子)は、彼女に対して疑り深く靴を作ってもらうのが目的だという。

傷ついた彼女は、靴をプレゼントされウソをつく。靴が欲しかったのだと。心のづれはあったが、靴屋は彼女の本心を見抜き、母を説得するため彼女と歩きはじめる。

久我美子さんというと今井正監督の映画『また逢う日まで』が浮かぶ。自分の境遇に押しつぶされそうな久我美子さん。この女性だと確信してからの渥美さんの強さがいい。浦辺粂子さんは息子の結婚を望みつつ近所の人が息子夫婦に追い出され疑心暗鬼になっているのがよくわかる。浦辺粂子さんや飯田蝶子さんは生活者の心の動きを演じるのが上手い役者さんで、その物語にすっぽり入っている。

泣いてたまるか~ああ軍歌~』(脚本・山田太一)。営業課長(渥美清)は母(賀原夏子)が変わり者だからと心配するほど自分の信念を曲げないところがある。会社に親会社の重役(山形勲)が赴任してくる。重役は自分の軍隊時代が誉で宴会は軍歌でみちあふれる。

営業課長は軍歌を歌わない。兄は学徒出陣で戦争に行き戦死している。母は東京大空襲のため片足が不自由になっている。今では交通事故ですかと聞かれるとなげく。兄には恋人(小山明子)がいて命日には毎年お参りに来てくれ23年になる。母は彼女にそろそろ自由になってもらおうと息子に話させる。そんなことから弟は兄の恋人とゆっくり話す機会を持ち、会って話すようになる。

宴会の席でついに課長は軍歌を歌う。歌う前に彼は自分も戦争にいっておりその経験を話す。斬り込み隊としてジャングルの中をさまよった。戦友が亡くなる前、自分はコメを持っていてそれをやるから歌ってくれと言われコメ欲しさに歌った自分がいた。コメは無かった。課長は今日は歌いますと歌う。重役はクビだと口走っている。

次の日、母は心配してたことが起ってしまったという。息子があやまりに行くからというと母はお前は悪くないのだから謝る必要はない、自分からそんな会社辞めなと言ってくれる。さらに、兄の恋人との付き合いを反対していたのだが賛成してくれるのであった。素敵なお母さんである。

彼は会社に辞表を出し彼女と合う。そして、語る。懐かしさだけで軍歌を歌って若い人に聴かせていいのか。死んだものは何もいわない。生き残った者がせめてあの頃の苦しさを忘れてはいけないと。彼女はうなずく。彼は、さあ仕事を探すぞと張り切る。

今井正監督は純愛を描くとさわやかである。いつも女性に対しておたおたする寅さんに慣れているので、渥美さんはこういう設定の役どころいいなあと見つめる。英霊になる前に、人として語りたいこと、もっと生きたかったというあふれる想いが兵隊さんたちにはあった。後の世代は時にはそれを感じて立ち止まらなければと思う。

もう一つの今井正監督の作品は『泣いてたまるか~兄と妹~』(脚本・家城巳代治)。兄(渥美清)と妹(寺田路恵)の二人でで生きてきた。兄は自分が工員で苦労したから妹にはサラリーマンと結婚させたいとおもっているが、妹には工員の恋人(原田芳男)がいる。いつも飲みに行く居酒屋の女将(岩崎加根子)と喧嘩しつつ妹の恋人を認めることになる。工員の仲間に蟹江敬三さんも出ていた。皆さん若い。

泣いてたまるか~ぼくのおとうちゃん~』(脚本・光畑硯郎、演出・高橋繁男)は、渥美さんが縁日で傘を売っていて寅さんの口上をほうふつとさせてくれ、こういうところにも寅さんの原型がみえる。色々な役の渥美清さんがみれ、脇がしっかりした演技の役者たちで固められていて、『泣いてたまるか』はこれから少しづつ楽しんでいこうとおもう作品である。

ひとこと・歌舞伎座『口上』『鷺娘』

玉三郎さんの『口上』での語りを聴いていると、幼いころから本当に踊りが好きで歌舞伎座で踊ることを夢見て歌舞伎役者になられたのであろうと思えた。歌舞伎座で踊ることができるからこそ歌舞伎の修業にも耐えられたのでは。そして歌舞伎に関係のないかたが立女方(たておやま)の位置までに。胸が熱くなる。

歌舞伎座の奈落を説明されつつ、歌舞伎座の建物を含めての玉三郎さんの歌舞伎と一体の生きざまをみさせてもらっているようだった。舞台の映像、立ち姿、今までに観た舞台とが頭の中で早回しで構成。うなずいている自分がいる。

鷺娘』は起き上がる。さらなるこれからの道へ。

玉三郎さんでしかできない舞台構成なので、慎重に感染を避ける玉三郎さんらしい徹底ぶりの舞台である。

追記: こちらの書き込みなど読んでいない友人が『鷺娘』を見にいったそうだ。封印された『鷺娘』を見ることができて感謝で、アンコールで涙が止まらなかったとの事。かつて『鷺娘』を一緒に観た友人にその話をしたら、今の時期そういう涙はいいねと。 

映画『破局』『俺たちは天使じゃない』『闇に響く声』

ヘミングウェイの『持つと持たぬと』を映画化した『脱出』を観て、リメイク版『破局』(1950年)を知る。この監督・マイケル・カーティズが映画『カサブランカ』(1942年)の監督であった。さらに、ボギーの『俺たちは天使じゃない』(1955年)とエルヴィスの『闇に響く声』(1958年)も監督していたのである。

無名塾の公演『おれたちは天使じゃない』を観た時、ボギーの映画を観たいとおもっていたが意外なところで出現してくれた。エルヴィスの映画まで監督していたとはなんというタイミングのよさか。

映画『破局』は『脱出』のボギーとローレン・バコールのコンビを観た後でもあり違う違うと否定してしまっていた。気をとりなおして再度見直す。。ハリーは家族がありどんどんまさに破局に向かうのである。海が好きなハリーは漁船を買い独立するが生活も苦しく、奥さんがやりくりしている。子供は二人。家族を大事にしているが受ける仕事が上手く行かずお金が入らない。

ハリーの釣り客はメキシコに着くと連れの女を残して帰ってしまう。女はハリーを気に入り、ハリーは妻帯者だと拒否する。次に入った仕事は中国人の密航の手だすけ。助手のウェズリーは黒人であるが常に冷静でハリーを止めるが耳を貸さない。密航の仕事でハリーは依頼人と争って殺してしまう。次の仕事は競馬場の売り上げを奪った連中を逃がす手助け。

思いもかけずウェズリーが連中に殺されてしまう。ウェズリーの死により、船中でハリーは4対1で強盗を殺し自分も負傷する。救助されハリーは腕を切り落とすことに決まるが命は助かることになり妻・ルーシーと子供たちは安心する。ただそこには父・ウェズリーを探す息子がいる。誰にも声をかけられず「一件落着だ。」と立ち去る人々のあとにひとり取り残される。すっきりしない映画である。ハリーに振り回された感じがのこる。

あとは原作を読むことか。

映画『カサブランカ』のボギーと監督。ボギーの『脱出』をリメイクした監督。喜劇『俺たちは天使じゃない』でのボギーと監督。なかなか面白い関係である。ただボギーはいつものボギーで喜劇性を強調する演技ではない。そのままを上手く喜劇に使っている。無名塾での『おれたちは天使じゃない』はこれだったのかとたのしんで観れた。仲代達矢さんの方がボギーより陽気に演じられていた。

監獄から脱出した囚人三人はお世話になった雑貨屋の一家に強欲な従兄の遺産相続に成功。世の中を生きていくのは大変と監獄にもどることにする。三人の頭上には天使の輪が。

無名塾の感想はこちら。→ https://www.suocean.com/wordpress/2016/03/10

映画『闇に響く声』。エルヴィスはのTV映画『ELVIS エルヴィス』と1956年をドキュメンタリーとしてまとめた『エルヴィス・プレスリー/エルヴィス’56』のDVDをみるとかなりエルヴィスのことがわかる。

エルヴィスは、1956年4月にスクリーン・テストを受けている。その結果パラマウント映画会社と7年間の契約を結ぶ。「夢がかなった。映画のなかで歌を歌うかの質問には今のところノーが答えだ」 エルヴィスは映画の中では歌を歌いたくなかった。それに反対したのがマネジャーのトム・パーカー大佐である。トム・パーカーは軍人ではないが大佐と呼ばせていた。

スクリーン・テストのとき演じたのがバートラン・カスター主演の『雨を降らす男』の一場面である。その時演じた役をもらいエルヴィスは出たかったが大佐が反対する。大佐の方向は、エルヴィスが主演の歌う映画であった。エルヴィスの映画を全て観ているわけではないが映画『闇に響く声』は、明るくて歌があって楽しいエルヴィス映画のイメージからはずれているのでは。

父は職につけず貧乏で、エルヴィスは働きつつ高校に通っているが落第がつづく。姉も働いて家計をささえている。ある女性を助けたことから、歌のうまさが認められナイトクラブで歌うことになる。良心的な経営者で年が離れているが彼と姉は恋仲になる。エルヴィスは人気がでて、女のパトロンでもある違うクラブの経営者から誘いをうける。当然断るが、抜き差しならない状態にさせられ契約せざるおえなくなる。

若者の荒れた屈折さなどは、ジェームス・ディ―ンを崇拝していたエルヴィスにとってはやりがいがあったのではないだろうか。監督もそれを意識しているようにおもうのは深読みしすぎか。クラブの歌手というのも自然な成り行きにさせていて、映画の流れに歌は邪魔せずむしろ聴かせてくれる。

1956年末、映画界は二つの作品が大ヒットとなった。一つはジェームス・ディ―ンの『ジャイアンツ』もう一つがエルヴィス・プレスリーの『やさしく愛して』である。この時点からエルヴィスの映画は方向性が決まったようである。

面白い情報をえた。1956年にエルヴィスはラスベガスでショーに出演している。ところが当時ラスベガスは年配者が多く、不評であった。そのため14年間ラスベガスでの出演はなかった。

若者にはうけ、大人たちからは非難ごうごうのエルヴィス。その頃流行っていたのは「ケセラセラ」のような曲。これで納得である。

追記: エルヴィスのドキュメンタリー映画『THIS IS ELVIS 没後30周年メモリアル・エディション』は生涯を描いていて、没後30年ということでプライベート映像も加えられている。亡くなる6週間前のステージでのフランク・シナトラの「マイ・ウエイ」が声はしっかりしているだけになんとも切ない。

ひとこと・歌舞伎座『かさね』

静かで座席にゆとりがあって開幕と同時に物語の世界に入っている。結構好きな環境である。

かさねが可憐でそれでいて奥女中づとめの物腰があり、与右衛門もこうなれば一緒に死のうかとおもってしまう。

赤いふくさを使ってのクドキの小さな赤がかさねの想いを伝える。ところが、与右衛門はワルな奴なんです。因果応報はこれを許さなかった。それがかさねにかぶさってしまう。逃れたい与右衛門。ついにかさねの恨みはさく裂する。美しい右側の横顔が哀れで悲しい。

幸四郎さんと猿之助さんの息があっていて、そろって足踏みするたびにあらがえない世界に深入りし物語が完成されていく。捕手の目の真剣さがいい。

友人に話したら「うんうん、わかるわかる。歌舞伎座行く。」よかった。これで友人の見方で二回たのしめる。

追記: 友人は猿之助さんのたもとの扱い方の美しさに見とれたのことである。お腹に子供がいることを伝えるしぐさ。鏡を見せられる時のいやいやのしぐさ。悪の幸四郎さんも美しく、好きだなあ、あの『かさね』。長電話。 

映画『脱出』・『ケイン号の叛乱』

ローレン・バコールの初出演映画が『脱出』(1944年・ハワード・ホークス監督)である。ハンフリー・ボガートとの共演で私的にはハンフリー・ボガートとの恋という大きな出会いの映画であった。しかしその話題に頼る必要のない映画登場場面である。ハンフリー・ボガートから煙草の火を借りるのである。インパクトがさく裂である。そこから、ローレン・バコールから目が離せなくなる。

フランス領のある島でハリー(ハンフリー・ボガート)はホテルに泊まり、所有する船で釣り客などを案内して気楽に暮らしている。のん兵衛のエディが助手である。ホテルの主人のフレンチ―から反政府活動家の移動を頼まれる。そんな時、目的なく自分の意志で行動する流れ者の女性マリー(ローレン・バコール)と出会う。

活動家ポールを船に乗せ運ぶ途中で銃撃され、ポールは肩に弾丸を受ける。ポールと妻のエレーヌはホテルの地下室にかくまわれる。ホテルには警察の捜査が入り見張っている。ハリーはポールの肩の弾丸を抜く。エレーヌは失神してしまうが、マリーは気丈に顔色を変えることなくハリーを手伝う。

筋立ての振幅の大きさの中で気の利いた台詞が配置されている。さらに弾丸を取り出した時ハリーはいう。「一度跳ね返った弾だから浅くて済んだ」。そうなのである。意外と簡単に取り出せたのである。映画だからとおもってしまうが、きちんと説明があるのでリアルさも感じさせる。

さらにポールは政府の転覆をはかるため次の目的先までの移動をハリーに頼む。ポールは自分は勇気がないし、それを実行する能力もないが次につながってくれる人がいることを信じている。君のように手伝ってくれる人をとハリーに語る。ハリーは政治的意識はないが手伝うことにする。

酔っ払うと何を話すか分からないエディが警察に連れていかれるが、エディも助け出す。マリーにはアメリカに帰るように切符を渡し、船に乗る。何んとか無事ポールを送り届けることができホテルにもどると、そこにはマリーの姿があった。マリーは腰で音楽のリズムに合わせ人々の間をハリーへと進む。ローレン・バコールの表情よりも仕草などでの表現が冷静さと隠された色香で魅了される。

モデルであったローレン・バコールの写真をハワード・ホークス監督に見せたのは監督の妻である。ローレン・バコールを自分流の女優に育てようとしたが、彼女はハンフリー・ボガートとこの映画の撮影後に結婚し、映画会社の言う通りの女優とはならなかった。ボギーと結婚していなければ自分の意思を通せたかどうかは疑問である。

映画『脱出』は、ヘミングウェイの原作『持つと持たぬと』で、ジュールス・ファーストマンが脚色したが原作に近く政治的にまずいということで、その後、ウイリアム・フォークナーが脚色して原作とかなり離れる。フォークナーはヘミングウェイの原作とあって喜んだようである。そのためかどうかはわからないが、何んとなく台詞に艶があり、納得させる台詞も散りばめているように思える。

1950年に原作に近いリメイク版『破局』(マイケル・カーチス監督)が映画化されている。そのうち観ることにする。『三つ数えろ』も見直さなくては。

映画『ケイン号の叛乱』(1952年・エドワード・ドミトリク監督)は、ハンフリー・ボガートが反乱を起こす正義の味方かなと勝手に想像していた。なかなかハンフリー・ボガートが出てこない。若いキース少尉候補生が主人公なのであろうか。キースの恋人・メイはクラブ歌手のため母親にも紹介されず身分違いの恋もからんでいるようだ。

キースは古い駆逐艦のケイン号に配属される。副艦長・マクイ大尉、キーファー大尉などに次々と紹介されていく。デヴリース艦長も出て来る。かなりルーズな艦長で海兵隊もぴりっとしたところがなくキースは少々不満である。そんな時、艦長の交代があり、新しくクイーグ艦長がくる。これがハンフリー・ボガートである。ということは叛乱されるほうのようである。見方を変えてボギーの演技に集中する。

キースは海兵隊の風紀係を命じられる。ところが艦長は神経質で注意し始めるとそのことに執着し大きなことにたいして目がいかなくなり、航海上のミスをする。しかし自分のミスとは認めず、上部に対しても上手く言いのがれてしまう。上陸する隊の引率擁護も早い時点で引き返してしまう。士官たちも不信感を抱き始める。

さらにデザートのイチゴが残っているはずなのに残っていないのは誰かが食糧庫の鍵を作って盗んだとして全員の鍵を出させ名札を付けさせニセ鍵探しとなる。

キーファー大尉は艦長は偏執狂症だと主し、副艦長、キーファー大尉、キースの三人は提督に報告書を出すことにするが、最後の段階でキーファー大尉はやはり下りると言うことで三人は取りやめにする。

大きな台風にあう。ところが艦長の様子から艦長の指揮では船員たちの命が守れないとして副艦長が、艦長の指揮権を解除して自分が指揮し始める。船は無事台風からのがれられたが副艦長は反乱罪で軍法会議にかけられる。

反乱罪は絞首刑である。軍医たちは、艦長は正常であるとし、キーファー大尉も艦長は正常であったと証言する。ところが艦長が証言台に座り弁護人の質問に答えるにしたがって次第に精神的に追い詰められ正常さが崩れ始める。その艦長の変化を無言で見つめる裁く側の人々。

艦長は自分の意見が認められなかったり、責められることに我慢ならないのである。その事が頭の中を支配し、直面する問題に正常な判断ができなくなってしまう。そして間違いを認めず自分の意見に固執する。副艦長は無罪を勝ち取る。ところが弁護士は士官たちに、君達には失望したという。艦長が謝った時もあったはずだ。なぜそれを受け入れ艦長に協力する態度を示さなかったのかと。さらに裏切ったキーファー大尉を糾弾する。皆、キーファー大尉を残して去る。

キースもこれらのことから成長し、恋人をきちんと母親に紹介し結婚。副艦長として乗り込んだ船にはデヴリース艦長がいた。

弁護士がクイーグ艦長の長い間の闘いでの心理状態を語ったときそういう見方をするのかとちょっと逆転劇となったが、少し唐突でもあった。艦長のハンフリー・ボガートは劣等感と孤独感と責任感にさいなまれ次第に陥った現在の艦長を同情をはねのける異様さで演じていた。

原作はハーマン・ウォ―クのピューリッツアー賞受賞作品である。

第二次世界大戦の1943年の話しとして描かれているが、デザートにイチゴのシロップかけが出ていたのには恐れ入ってしまった。この数カ月、日本の独立プロ系の映画をみつづけていたので、あまりの兵士たちの状況の違いに愕然とする。日本は、食べ物もなく、兵器の替えはないが兵隊の替えはいくらでもあると言われる。兵士はつぶやく。俺たちは死んでからでないと文句を言えないのだな。

ひとこと・ドキュメンタリー映画『カーマイン・ストリート・ギター』

ギター職人の様子が描かれているのであるが、ミュージシャンとの交流がこれまた極上である。育った樹は切られてどこかの建物となる。そして壊され朽ちていく。ではないのである。壊された木材をギター職人のリック・ケリーは手に入れギターにして樹の響きを残すのである。たくさん語りたいが響きのお邪魔はやめる。

予告編を本編の後に観たのであるが、ミュージシャンの斉藤和義さんのコメントがこれまた納得させる笑いをもたらしてくれた。

www.bitters.co.jp/carminestreetguitars

追記: ロン・マン監督のドキュメンタリー映画『ツイスト!』『グラス マリファナvsアメリカの60年』。ダンスがパートナーを必要とする形から個人として踊れるものが出現し、R&BからR&Rの誕生が興味深かった。大麻の歴史と許可している州もあるという単一でない現実を知る。ロン・マン監督が製作に参加した『マイティ・ウクレレ』は、付属的なウクレレのイメージが払拭。親しみやすい楽器でありながら音色の幅の広さに驚き。演奏会があれば聴きたいですね。

ひとこと・小説『オー・マイ・ガアッ!』

ラスベガスのカジノを舞台にした小説があった。浅田次郎さんの小説『オー・マイ・ガアッ!』である。ラスベガス関連映画の映像が浮かんでくるくる回る楽しい小説である。映画の話しも出て来るし、日本のパチンコ店では、席を立つとき煙草とライターを置いたらその席はその人の席という日本の慣習が出てきたりと可笑しさが絶えない。54126029の数字がどこに落ち着くのか。

追記: 小説の中にミュージカル映画『南太平洋』(1949年)をベースにしたホテルがでてくる。ということで鑑賞。ミュージカル映画のなかでも苦手な部類。展開がおそくて、歌う。前半はかなり飽きがきてしまった。CDのミュージカル映画音楽でたのしむがむいているかも。