『類』(朝井まかて著)迷走編(5)

終わるつもりがどんどん深入りして道に迷い始めている。楽しいので横路があれば曲り、行き止まりになってもどったりとなかなかの味わいある迷走路である。

荷風追想』。荷風さんを追想する59人のかたの文章が集められている。

その中に於菟さんの『永井荷風さんと父』、小堀杏奴さんの『戦時中の荷風先生』、茉莉さんの『「フジキチン」ー 荷風の霧』がのっている。類さんの文章はのっていないが、茉莉さんの文章に登場している。それも不律(ふりつ)という名前にしていて、不律さんは亡くなった茉莉さんの弟であり、杏奴さん、類さんのお兄さんである。『荷風追想』に鷗外さんの5人の子供たちが登場したことになる。

於菟さんは、『荷風全集』の附録に書かれたもので、荷風さんの『日和下駄』の「崖」の章の一節に書かれている観潮楼の内部の様子が「情緒を最もよく表している」とし、「時を同じゅうし齢を異にし、しかも心と心とのぴったり合った二文人の出会いを描いた『日和下駄』」をしみじみ読み直してもらいたいとしている。

小堀杏奴さんはご夫婦で荷風さんを訪ねられ、交流があり、戦時中ゆえ品物を届けられたりした様子などが書かれている。これほど親しくされていたというのは初めて知り驚きであった。戦後も市川の菅野の住まいまで訪ねられたようである。

茉莉さんのは、小説となっている。主人公の私は弟の不律と浅草で映画を見たあとにレストラン「フジキチン」に入る。この店は新聞記者が永井荷風を見つけたという場所であった。店の内部の様子から荷風は「欧羅巴(ヨーロッパ)を思い出すんで、くるんだね。」と不律はいう。姉と弟は自分たちの世界に入り込み荷風の話をする。ここでの弟は不律の名をかぶせられた類さんである。

茉莉さんの弟であり類さんの兄である不律さんは1907年8月に生まれ次の年の2月には亡くなっているのである。半年という短い命であった。不律さんと茉莉さんは百日咳にかかり、この可愛い弟が亡くなった時彼女の容態も風前の灯状態であった。もしかすると茉莉さんも駄目かもしれないと一緒に弔うことになるかもという状況であったが奇跡的に茉莉さんは回復するのである。

不律という名前を登場させたのは、あの弟が生きていればこのように語り合ったかもしれないし、もっと違う話をしていただろうかとの想いがあったのかもしれない。他の兄弟とは違う特別の想いが時々生じていたような気がする。

類さん(不律)の状況を姉はみつめる。「不律は頭蓋を締めつけている、コンプレックスという鉱鉄(かね)の輪を、決して脱いではならない冠のように、頭に嵌(は)めていた。途って遣ろうと思う人があっても、除って遣ることが出来ない、それは神が嵌めた輪のように、みえた。自分自身だけの狭い、固い考えの中に縮んまっている為に不律は、人間に馴れない鳥のような眼をした、純朴な男のように、見えるのである。」的確に表現されている。

杏奴さんは、『晩年の父』を荷風さんに贈ったとき「鷗外を語るもののうち、大一等の書と存ぜられ候」との言葉をもらっている。そして対面するのである。

茉莉さんは終戦後、市川真間の荷風さんを訪ねている。自分の原稿を読んでもらうためである。原稿を差し出すや荷風さんの「笑顔は忽ち消えた。」市川真間時代の荷風さんは「他人への心持ちも、変っていたようだ。」茉莉さんは鴎外の子という特権を利用したわけではない。純粋に文学者荷風の眼で文章をみてもらいたかったのである。

真間時代の荷風は杏奴さんが接したころの荷風とは違う人であった。しかし茉莉さんは「荷風の文学が、鷗外なぞは遠く及ばぬ情緒の文学であることは、それらの欠点を帳消しにして、尚余るものであることも、私は知っている。」と荷風文学の魅力に対し変わることはなかった。これは茉莉さんの『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』に書かれているがこの著書が鷗外周辺を離れての上級の迷走路の糧でもある。

類さんの『鴎外の子供たち』(ちくま文庫)も手にすることができた。『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』に載っていない文章があり、写真もあり、観潮楼の図面があってこれによって飛躍的に森家の人々の行動の立体化の助けとなってくれた。

写真の中に志げ夫人の写真があり、ちょっと衣装に不思議な気がした。この疑問は杏奴さんが編さんしている森鴎外『妻への手紙』でわかったのである。鷗外さんは妻に写真を送るようにと手紙に何回か書いている。志げ夫人は、花嫁衣裳を着て写したのを送ったことがありその写真であった。結婚の時写真を撮っておかなかったのでこの時撮ったのである。花嫁さんらしくないとして杏奴さんには結婚記念写真は当日撮っておきなさいと告げている。

妻への手紙』は鴎外さんが細やかに志げ夫人を気づかっている様子がうかがえる。志げ夫人の正直なところそこがいいのだと書いている。そのことで暴発しないことを気づかっている。詩や文学に興味が行くようにそれとなく誘いかけてもいるが、志げ夫人はそれには答えていないようである。すでに自分の実家の貸し家に暮らしていて、鷗外さんは茉莉さんの冬の洋服が千駄木から届くだろうとか、お金のことなど心配しないように気を使っている。鷗外さんの母が財布を握っているので、志げさんの苦労も想像出来る。

鷗外さんんを中心に回るいくつかの惑星はそれぞれの回転で様々な表情をみせてくれる。そこにはまり込むとこちらは迷走するしかないが、驚きと発見に楽しさも与えてもらうことになる。気が向けばそこから抜け出しまた入り込むのである。

』を読んで類さんの妻である美穂さんの生きる力に敬服し、あの茉莉さんを疎開先で面倒をみたということに驚愕したが、茉莉さんが『贅沢貧乏』のなかで志穂さんの様子を書かれていた。「弟の家内になった娘は八人家族の家で、母親の代理をやっていた娘である。家族八人だが、三日にあげず客があるから、食事は大抵十五六人前である。母親の方は専ら社交の方面を受持っていた。娘の方も社交に敏腕で、彼女は客があると、台所と客間とを往復し、台所では料理の腕を振るい、客間に入ると、社交の言葉と笑いの花を、ふりこぼした。」「弟の家内という人は自由学園の羽仁もと子式で薫育された、才媛(さいえん)である。」

疎開先ではこうなる。「百姓が舌を巻く位の畑仕事の腕を見せ、薄く柔らかな眉のある眉宇(びう)の間に、負けず嫌いの気性を青み走らせながら、遣(や)ったことのない和服の裁縫を、数学の計算のように割出して遣りおおせた。月が空の中でかちかちに凍っている夜、一人で何百個かの馬鈴薯(ばれいしょ)を土に埋めた。通りがかった知合いの工員が涙を催して手をかしたという、逸話の持主である。」やはりなあと思わせる。

茉莉さんは回転の加速をあげて、どこに飛んで行くかわからないかたである。『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』などは、ベットの上でずーっとテレビを見ていただけあってその感想というべきものはかなり鋭い針のような感触すらある。

ただ多種多様の範囲で見ているのには脱帽である。テレビでみた内容が説明され、あれっ、これは家城巳代治監督の青春映画ではないか。こちらも正確な題名を探す。『恋は緑の風の中』である。原田美枝子さんのデビュー作で原田さんがダントツに光っていたが、その少年少女たちの事ではなく、周囲のおっ嚊あ(おっかあ)たちのことなのである。母親たちのことである。大変立腹していてその一つの例にされたのである。

個人的にはどうして家城監督はこういう青春映画を撮られたのかわからなかったが、茉莉さんが見るとそこを突くのかとこちらの見どころの甘さを感じないでもないがそう立腹するほどの描き方でもないような気がする。

春琴抄』の山口百恵さんの春琴はほめている。笑わないからである。百恵さんが白い歯をだして笑うのは彼女を嫌う最大の原因としている。茉莉さんの基準は難しいのである。ほめていても、谷崎の小説の中の春琴ではなく、山口百恵の春琴である。それはわかる。

そんなわけで、突然の茉莉流の標識出現に右往左往されつつ笑い、いぶかしがり、喝采しつつ嬉々として迷走させてもらうのである。

そうそうヒッチコック映画に対しても興味深かったのですが、書いていたら際限がなくなりますので、一人密かに楽しみつつ2020年とお別れすることといたします。新しき善き年がむかってきてくれていることを祈って。

ひとこと・図夢歌舞伎『弥次喜多』

歌舞伎の弥次さん喜多さんが、このコロナ下どうなるのか知りたかった。

かなり謎めいた展開。分断される弥次さんと喜多さん。哀しいかな、お伊勢参りも、ラスベガスも、歌舞伎座のアルバイトの思い出も共有し共感できなかった。

現実に新型コロナは先ず分断を狙っている。その中で犠牲になっているのが誰であるのかさえ隠蔽するのである。

個人的には現実で、新型コロナが出始めて緊急事態宣言となり映画館へも行けなくなり有料の映画配信を観ることにした。ところがこれが上手くつながらなくてカードが拒否される。ここで止めておけばよかったのに、ガチャガチャやってしまって、結果的に観れなかった。後日カード会社からの電話でカードの不正使用されているのがわかった。カードの再発行で事なきを得た。そのため有料配信はやめていた。今回の配信先は登録済みだったので思いの外簡単に視聴できた。新しい世界の生活も大変である。

もし何かおかしいと思ったらカードの裏の電話番号からカード会社に電話を。メールからの反応は禁物。

『図夢歌舞伎「弥次喜多」』Amazon Prime Video 12月26日より独占レンタル配信開始/(C)松竹

追記: 思わず深夜噴き出して声が出たのであるが、どんな場面だったのか思い出せないのである。誰か一番笑えたところ呟いてくれないであろうか。後半の押した部分でのことなのだが。くやしいー!

追記2: あれ!視聴し始めて48時間は何回でも観れるという事なのですね。観なおしたのだが声をだして笑ったところがはっきりしない。かえって話の展開に集中してしまった。

追記3: 3回集中して観た。何となくあわただしいこの時期だからこそ集中できたのかも。世界観の大きさ、歌舞伎の世話物のしんみりさ、人気ドラマがドッキングして旬で愉しむ価値あり。喜多さんのかたりと弥次さんのラスト、年末の心に沁みました。

追記4: 彼方岸子(笑三郎)の初舞素敵です!

令和三年 新春ご挨拶と初舞 『寿 万歳』市川笑三郎 – YouTube

追記5: 「図夢歌舞伎」と同じ配信サイトからドキュメンタリー映画『RBG 最強の85才』が観れた。欲していたことが叶って少し前進した気分。

追記6: ラスト、弥次さんにあたる光が想像をかきたてる。笑也さんバージョンか門之助さんバージョンに続くバージョンがあるのか。弥次さんと喜多さんの旅は神出鬼没ですからね。      

『類』(朝井まかて著)(4)

朝井まかてさんの『』のなかでは登場しないが、森類さんや森茉莉さんの作品には永井荷風さんの名前が登場する。そのことで頭を巡らした。

半日』(明治42年、1909年、鷗外47歳、杏奴誕生、茉莉6歳))、『妄想』(明治44年、1911年、鷗外49歳、類誕生)。その間の明治43年に志げ夫人の『あだ花』が出版され、鷗外さんは慶應大学文学部文学科の顧問となり永井荷風さんを教授に推挙したのである。

鷗外さんが亡くなったのが大正11年(1922年)、60歳であった。茉莉さんは杏奴さんが生まれるまでの7年が両親を独り占めし、15歳で結婚。パリにいる夫の元に兄の於菟さんと旅立ったので父の死には立ち会えなかった。杏奴さんが12歳、類さんが10歳であるからその年齢によって父に対する想いはそれぞれに違っていたこととおもわれる。

母の亡きあと茉莉さんと類さんは二人で一緒に暮らしている。志げ夫人の看病には二人に任せておくことが出来ないと出産前の小堀杏奴さんは頑張られた。茉莉さんと類さんはそれぞれの生活を犯すことなく行動するが、寄席や映画館などで顔を合わせ、お互いの感想などを打てば響く感じで交信しあった。茉莉さんは結婚したあとも出かけると銀座、上野、浅草と時間を忘れて行動している。そして浅草大好きであった。ただこれは戦前の浅草のようであるが。

森茉莉さんのエッセイ集『父の帽子』の中の『街の故郷』で故郷いえば生まれた千駄木附近になるがもう一つ第二の故郷があるとしている。「それは昭和10年頃の「浅草」と下谷神吉町にあったアパルトマンである。」部屋でごろごろして文章を書いていようが、一日本を読んでいようが、気が向けばなりふり構わずに散歩にでようが気楽で天国のようであったとしている。浅草人の気風がとても気にいっていた。しかし、戦争のため浅草と別れ類さん一家の疎開先へと移るのである。

戦後世田谷区のアパートに住んでいた頃そのアパルトマンの住人と肌が合わない様子が書かれているのが『気違いマリア』である。同じ格好をしていても全く異質の浅草族というのがあってそちらは、パリになじんだのと同じように越した日から浅草の人間になれたが、こちらときたらと気に食わないことだらけなのである。浅草はパリなのである。「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのである。」

気違いマリア』の書きはじめが凄い。「マリアが父親の遺伝を受けたとしても、又母親の遺伝をうけたにしても、どこかに気違い的なところを持っていていい訳なのである。」で始まり父親と母親の変なところの紹介となり、だからそういうことなのであるとなる。

さらに永井荷風の気違いも遺伝し、宇野浩二の気違いが遺伝し、室生犀星の遺伝も引き受けているのである。永井荷風は彼が市川本八幡で死んだとき悪い脳細胞の悪い要素が風に乗って世田谷淡島まで飛んで来てマリアの頭にとりついたらしいのである。

茉莉さんは永井荷風さんの浅草とは違う独自の戦前の浅草に恋したのであるが、荷風さんの気違いが遺伝するのは当然としたのである。むしろ来い来いという感じである。

類さんの作品『細き川の流れ』のなかで、小説家を目指す主人公は奥さんから本気度が足りないと言われ言い争いとなる。そして荷風の名がでる。主人公は荷風は毎日出歩いてその先で小説の題材を産んで羨ましいと言ったらしく、奥さんはそのためにこづかいを渡したがそれによって書けた小説がないという。さらに「荷風だって出歩く電車賃は自分で稼いだ原稿料で好きな処へ行ったんだと思うの、出歩いた事が間接に創作に役立っていても元は頭から湧いたものよ。」と詰め寄るのである。

未発表の『或る男』の彼は、自虐的に自分の中の世間のあざけりを吐露しつつ浅草に行く。『彼奴とうとう浅草へ来やがった。恥知らず奴が赤い靴を履いて田原町を歩いている。馬鹿が、馬鹿者が、無能力者が、ウッフフ、女房と子供が四人もいるのに、耳の横に白髪が光っているのに』。しかし浅草は彼に作品となる題材をあたえてくれるところではなかった。

類さんは自分の身近な生活周辺で起こることを題材とする。生田の土地の所有権の問題発生。家主になるまでのアパート建設に問題発生。部屋を借りる人々の人間模様。診察をしてもらった医師の不当と思える起訴による裁判傍聴の記録。そして森家の兄弟の事などを題材とするのである。画家の熊谷守一さんにインタビューもしていました。

一度は絶縁しつつも最後まで交信し合った類さんは家族があるゆえに、茉莉さんのようには気違いの遺伝をもらうわけにはいかなかったのである。かつて楽をした分生活者として闘うことになるのである。

茉莉さんの鼻の化粧の事で絶縁したその鼻に対して茉莉さんは『気違いマリア』の最後に「その微かに紅く、高くなった面皰(にきび)の痕跡を、むしろよろこんでいた。決して若い時のように、薔薇色の粉白粉で隠そうという努力なぞはしないのである。」としめくくる。これは、室生犀星さんが自分の顔に強いコンプレックスを抱いていたが晩年は自分の雑誌に載った写真をほしがるようになり、父ものちに知的な自分の顔に自信をもったからである。気違いの遺伝もそう悪い方へとはいかないのである。

茉莉さんは『半日』というエッセイで、鷗外の『半日』に対し、ここに出てくる「玉」が成長し「博士」に対する哀しい訴えとして最後にきっちりしめている。「「公」と「私」との別は、どれ程悲しくてもつけなくてはなるまい。」そして『気違いマリア』の中では『妄想』に対しては、主人公が翁になった気分に浸っているとし、この翁に浸るために、子供たちには健康のために二週間日在に移住したらしいとしている。

半日』と『気違いマリア』では、同じ人が書いたのであろうかと思えるほどの飛び方である。そして日を経るごとに茉莉さんは少女のような妄想の世界に浸り込んでいく。

なぜ世田谷のこのアパートにいるのか。「(目下だけではなく、マリアはこの建物に永遠に住む覚悟でいる。今いる部屋でなくては小説が書けないと信じているからで、マリアは萩原葉子が自分のアパルトマンに来いと言った時もその理由で断った。富岡多恵子がそれを聴いて、葉子さんの誘いを断るとはさすがマリさんである、と言った)」なんともこのツーカーぶりが見事である。この交信の速さがなければ茉莉さんとは交信できないのである。

茉莉さんの最後の住家は経堂のアパートとなるが、そこで類さんは茉莉さんの交信が弱くなり、部屋ごと硝子の水槽の中に入れて水族館に預けたいとおもったのである。茉莉さんを下界から囲って夢の世界で浮遊させ自分はそれを眺めているだけでいいと感じたのである。

そうした類さんを投射して朝井まかてさんは、『半日』の父と母を日在の川に浮かべた船に乗せ、童謡の世界に浮かべている類さんを作りあげたわけである。と、こちらは受け取ったようなわけであります。

朝井まかてさんの『』から森類さんの作品を読み、さらに森茉莉さんの作品に再度触れて笑わせられ、類さんと茉莉さんのどこに行くのか解らない作品に心配になった小堀杏奴さんの不安も伝わってきて、広く楽しい時間を持つことが出来ました。好い時間でした。

『類』(朝井まかて著)(3)

半日』(森鴎外著)は森鷗外さん夫人・志げさんが姑を疎ましくおもっている様子が書かれている。鷗外夫人悪妻のレッテルを張られたような作品である。

鷗外さんは遺言で観潮楼は於菟さんと類さんに半分づつの所有権とし夫人には日在の別荘を残した。日在の別荘での様子は、日在の場面から始まる小堀杏奴さんの『晩年の父』からも想像出来る。志げ夫人は田舎での生活は嫌いであり砂浜を歩くということも好きではない。鷗外さんはお金が必要になれば売ればよいのだからと考えたのであろうか。この多少ミステリーな部分を『』で夏井まかてさんは類さんの想いに解決をさせるという形にしたのである。

この日在の別荘地を志げ夫人は類さんに残すのである。類さんはこの地を売ってしまうのであるが妻の志穂さんと相談して買いもどす。志穂さんの死後類さんは再婚しこの地で二人で暮らすことになる。小さなころ怒られてばかりであった母は、類さんのために川崎の生田に土地を買っておいてくれ、日在の地も残してくれたのである。類さんの生活力を心配していたのであろう。

鷗外さんの亡きあと森家は先妻との長男・於菟さんが本家ということになる。さらに決定的だったのが、類さんが書いた『森家の兄弟』が『世界』に載り続きが載る予定であったときに岩波書店から断られてしまう。原稿を読んだ杏奴さんが茉莉さんの鼻の化粧の様子の記述に茉莉さん共々抗議したのである。類さんはその部分は削除するからと提案するが拒否されてしまう。このことから杏奴さんと茉莉さんとは絶縁となってしまう。

茉莉さんとはその後和解するが、杏奴さんとは終生歩み寄ることはなかった。

そのようなこともあり杏奴さんは於菟さんの本家としての後押しをし、類さんがなるべく表にでないように望む。於菟さん夫婦が亡きあと、その子の真章(まくす)さんにも「あなたが森家の本家」と伝えている。それは、鷗外記念会常任理事に真章がなったと知った時類さんは真章さんと話す。真章さんは、杏奴さんから言われたことを伝える。あなたが森家の本家なのだから先祖の菩提を弔うことはもちろん記念会のことも森家の代表者として面倒みるようにと頼まれました。ただ祖父の想いでは杏奴さんと類さんにお願いします。類さんは納得するがただほかから知る前に一言先に伝えてほしかったと胸に納める。

類さんを無視してことが運んでしまっていることが何回かあるのだ。それは鷗外さん亡き後、志げ夫人を排除していく力と関係し、その関係が、杏奴さんと類さんの不和でさらに強まってしまったようにみえる。

類さんと杏奴さんの蜜月時代もあった。類さんと茉莉さんの蜜月時代もあった。それが壊れてしまう。それは、亡き鷗外の愛の独占であったと類さんは思う。

パッパが一番愛していたのはあたしで、パッパを一番愛していたのはあたしなのと杏奴さんも茉莉さんも確信している。茉莉さんは「茉莉文学という花に、しとどの露を宿らせた。」杏奴さんは、「小堀姓になっても鷗外のご息女の生霊が森家の息災を願って正面からも側面からも舵取りを見守っている。」杏奴さんは森家のことに対し余計なことは書いて欲しくないと思っていたのであろう。

その杏奴さんも母に対してはかなり厳しい表現をし「父と母とが仲の好いように感じられた記憶は私には殆ど見付からない。」とまで書いている。類さんも、最後の小説『贋の子』で母らしい馨の人物像を珍しい性格として描いている。

一番印象的な志げさんは、『半日』である。主人公を挟んでの母と妻の嫉妬に対し、主人公は一応母に肩をもち妻をなだめる。自分(鷗外)が書くことによって外からの内に向かって入られるよりも内から外に発したほうがいいと考えたのかもしれない。

妻を世間が悪く言っても鴎外さんには愛する家族が手の届くところにあり守ってやることもできるのである。そして老いた母も自分の優位を感じつつ残された人生を送らせたいのである。さらにこの頃鷗外さんは志げさんに小説を書かせている。残念ながら志げさんの作品は読んでいないのであるが、志げさんが書く行為によって何か感じてくれることを期待したのかもしれない。そして『妄想』が書かれる。

妄想』は、主人公が別荘で老いを感じ、そこからドイツに留学したころのことを回想して死についてなど様々に考えがめぐる。志げ夫人は、夫との年の差から現実的な不安を感じていたと思う。その思考する方向性の違いもそれぞれにもっともなことに思える。

類さんは小説『贋の子』の発表前に津和野の父の生家に再訪したことを随筆『武士の影』で書いている。その質素な家から森家の人々の生活を想像し、先妻も母もお嬢様育ちで誰も悪い人間ではないのに相克が起ったのは当然であると考える。ただ最終的に自分が森家の墓に入ることを拒否されそのことを『贋の子』という小説にしこれが最後の小説作品となっている。

類さんが森家本家から受けた森類外しで納得できない心の内を伝える。類さんは森家のその後をここまで書いたのだからここでお終いにしようと考えたのかもしれない。もし佐藤春夫さんが生きていて相談したなら小説はもっとお書きなさいと言われたように思う。

朝井まかてさんは、『硝子の水槽の中の茉莉』で「ベスト・エッセイ集」に選ばれ日在で類さんの妻、子供、孫がお祝いをしてくれるところで終らしている。『硝子の水槽の中の茉莉』の最後に、茉莉さんの葬儀には類さんが喪主であったが、三鷹の禅林寺での一周忌には本家の営む法事となって参列している。「当然なのにこれで本当の茉莉姉さんの一周忌になったと思った。」茉莉さんが森家のお墓に入れたということに類さんはきまりがついたと考えられたのかもしれない。パッパに愛された茉莉姉さんがパッパのそばにもどった。

類さんは日在からの海をみつめつつ、パッパと母の関係を思い起こす。父の『妄想』の作品が日在の風景から始まっていることから自分の記憶をたぐる。「母は一緒に砂浜に出たりしない。自然が嫌いであったのだ。海の見える書斎で父とお茶をのんだり、本を操る音に耳を澄ませながら団扇でも扇いでいたのだろう。」その時鷗外さんには老いが近寄っていたのである。

鷗外さんは、日在で誰にも邪魔されない家族の時間を大切にしたのであろう。子供たちには自然を、妻には森家周辺の騒音を避けさせて。類さんは、回答をえる。「父はこの景色を他の者に継がせなかった。ここだけは母に残したのである。今になって、その真意に触れている。」その真意に触れるきっかけに、月夜に父は別荘の爺やに夷隅川に小舟を浮かべさせたことがあり、「月明りの下で、類は父と母の横顔を見上げ」月の砂漠の王子様とお姫様にたとえているが、これは朝井まかてさんのプレゼントで、個人的には感傷的と感じた。

この真意によって、類さんは、自分の存在の確かさを手にしたのである。

外されて外されて行き着いた自分だけの父と母であり、その子供であった。

』の作品がなければ類さんのことや作品を読むことはなかってであろう。森茉莉さんが亡くなられた時、親戚は何をしていたのかという批判があったように記憶している。その時、茉莉さんの作品や編集者と喫茶店で会っている記事などから茉莉さん独特の世界観と生活感から違う暮らしを無理強いはできなかったであろうと想像していた。かすかな記憶から、その批判を受けたのが類さんだったのではという想像も浮かぶ。

類さんの書かれた物から感じるのは、正直な人であった。ある意味母・志げさんの性格を受け、書くことに対しては静かに写生を試みる父・鷗外との子供であった。

『類』(朝井まかて著)(2)

森類さんの著書『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』にて思いもかけない方向に導いてくれる。第一部・エッセイと第二部・小説となっている。森類さんの抑制のきいた文章がいい。朝井まかてさんの『』から想像していたよりも冷静な視線で変に感傷的でないのが信用できる。

優しかった父・鷗外を思い出す場面も本屋の仕事の合間に煙草を一服吸うような感じである。鷗外を背負うわけでもなく、嘆くわけでもない。読者は父鷗外の愛をそっと抱えて鷗外の子の枠からいい意味で解放される類さんの文章の世界に添う。文章は淡々としている。

佐藤春夫さんとの気を使っているようないないような微妙な関係が『亜藤夫人』に書かれている。「来たいから来ただけで、用がないから黙っている。先生の方も来たから座らせてあるだけで黙って居られる。」佐藤春夫さんは、校正刷りにさらに手を加えらているがなかなか終わらない。そんな長い時間の中でふっと先生は安宅さんの奥さんの様子をたずねられる。

「安宅さんの奥さんと云うのは僕の妻の母で、先生が昭和25年の「群像」十月号に書かれた『観潮楼付近』の主人公亜藤夫人である。」安宅夫人はかつて佐藤春夫さんと恋人であった。そして、類さんが佐藤春夫さん宅を訪れるきっかけを作ってくれた人である。

類さんは、入ってきた奥さんと先生のやりとりに夫婦の愛情が籠っているのを感じる。この奥さんが谷崎潤一郎元夫人の千代さんである。

観潮楼付近』を読んだ。わたくし(佐藤春夫)と観潮楼の関係、亜藤夫人との若かりしころの出会いと別れが書かれている。わたくしは郷里から出てきて生田長江の門下生となる。そして、観潮楼のすぐ前の下宿屋に住んだことがあったのである。わたくしは、森鷗外と観潮楼にあこがれをもって外からながめるだけであった。

その新しく出来た下宿に対して、鷗外が小説『二人の友』の中でこの家を描いている。「眺望の好かった私の家は、其二階家が出来たため陰気な住いになった。」

生田長江さんのところに出入りしていたO女(尾竹紅吉)が生田長江門下生の秀才を妹の結婚相手にしたいと提案した。その秀才がわたくしであった。一年半ほど妹と付き合うが、恋人は亜藤画伯と結婚することになってしまう。わたくしは落第生であり詩人ともいえない状態だったので彼女を祝福したのである。

O女は青鞜廃刊後、同人誌を発刊することになる。同人誌名『蕃紅花(サフラン)』は聖書から選んで命名したのがわたくしであった。「その創刊号には雑誌名と同題で鷗外の一文が寄せ与えられている。」鷗外さんも力添えしていたのである。

森鷗外記念館のため観潮楼址の地鎮祭と記念事業の奉告式があり、そこで、わたくしは若い夫人から一礼され「母から、よろしく申し上げよと申しつかってまいりました。」といわれる。その若い夫人が森類さんの妻であり、母が亜藤夫人であることを知るのである。わたくしはお共に頼んで来てもらった青年詩人Fに誰かと尋ねられ「夫人の方はむかし僕に『ためいき』という詩を書かせた原動力になった人の娘さん」とこたえるのである。

どんな詩なのであろうかと興味がわいた。『観潮楼周辺』には『ためいき』の詩も載っていた。恋に破れて故郷にもどって作られた詩であった。

その後、わたくしの家に亜藤夫人、森類夫婦、森茉莉の4人が訪れるのである。

小説『』のラストは、類さんが茉莉さんの没後に書いた随筆『硝子の水槽の中の茉莉』がベスト・エッセイに選ばれたため家族がお祝いのため日在の家に集まってくれたところで終わっている。そのエッセイは類さんが茉莉さんのマンションを訪ねときの茉莉さんとのその独特の交流を描いたものである。茉莉さんの様子を「硝子の水槽の中の茉莉」と表現したのは茉莉さんとかつてのように交信できなくなった淋しさと茉莉さんの世界観をそっとしておく類さんの心である。

かつて茉莉さんのことをリアルに描いた類さんを通過しての表現者としての類さんである。

佐藤春夫さんの『観潮楼周辺』は観潮楼の建物を中心に、その中に住んだ者、その周辺をウロウロした者、そして周辺の風景が上手く交差しつつ描かれている。わたくしの「青春時代のわが聖地」であったと今回初めて知ったのである。

小説『』で、斎藤茂吉さんは本屋の名前の候補を二つ出している。『鴎外書店』と『千朶(せんだ)書房』で、「千朶」はどこから考えられたのかと疑問におもっていた。それは、鴎外さんが前妻の登志子さんとうまく行かず離れて住んだのが千朶山房であったと『観潮楼周辺』に書かれている。この家はその10年後夏目漱石さんが住み、『吾輩は猫である』を書かれたので「猫の家」と言われている。住所の千駄木とも重ねて「千朶」が浮かんだのかもしれない。

前妻の登志子さんとの子が於菟(おと)さんで、類さんより21歳年上である。類さんと於菟さんの関係は、祖先から続く森家の構造、異母兄弟、年の差などが複雑にからんでいる。

観潮楼周辺』のわたくしは、於菟さんはちょっと苦手のようである。亜藤夫人の娘婿でもあるゆえか類さんには好意的である。亜藤夫人たちが帰った後、わたくしの奥さんは詳しく客の説明を聴いて亜藤夫人はこんなところに嫁に来なくて良かったと思ったでしょうという。わたくしには複数の女性関係があり、今の夫人とは二回目の結婚である。奥さんの言葉に対してわたくしは「それとも自分が来ればこの人もそんなに度々結婚しないでも一度で納ったろうと思ったか、どちらかだね。」といって笑うのである。

お二人には揺るぎない関係が存在しているが、わたくしはハッピイエンド観の小詩をしたためて満足する辺りが作家のサガであろう。

類さんは、『亜藤夫人』の中で、義母が先生の家に何回行こうがどうでもいいことだが「一緒に並んで行くのが厭だった。岳父が心の底からこれを楽しめないとすれば、先生の奥様にとっても、心から楽しい筈がないのである。」と書いている。

類さんには彼特有の周囲に対する観察力がある。その観察力で自分が主導権を握るとか、強く自己主張するというのとは違う。自分の中で調節して決まれば自分の考えとして自分で納得するのである。そして世間の喧騒から身を引くのである。

佐藤春夫さんは喧騒に立ち向かう方である。

朝井まかてさんは、『』のラストで、類さんが自分なりの父と母のつながりを完成させ納得する類さんを描かれている。それは朝井まかてさんの類さんに対する上等のプレゼントのように思えた。

ひとこと・ドストエフスキー

30分でわかるドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」』(2009年)のDVDをみる。登場人物関係と流れが本当にわかりやすかった。紹介してくれるのは講談師の一龍齋貞水さん(人間国宝)。その抑揚が抜群。読みたくなる運びの上手さ。この企画を考えた方に拍手。素晴らしい。決心する。『白痴』を読もう。

白痴』の解説部分を読んだら、ドストエフスキーも癲癇の病気をもっていたのである。そして、映画『ナスターシャ』にも出てきたハンス・ホルバインの絵画「死せるキリスト」(模写)が気になった。

ドストエフスキーは本物を観たとき、とても衝撃をうけたらしい。ただその時のドストエフスキーの心の内はわからない。映画にもでてくるが「この絵を見ていたら、信仰を失くしてしまう人だっているだろう。」の詞である。ここから信仰の話しになりますます映画が解らなくなってしまったのである。また観返したがわからない。ただ映画の構成には慣れた。

原作に出てくるとすればもっともっと先でしょう。

当然映画との違いがある。ここでこのことは話されるのか、登場人物の印象も違うなあなどなかなか面白いのです。

年内には終わりそうにない。ゆっくり読むことにする。

追記: 一龍齋貞水さん、見事な語りをありがとうございました。(合掌) 

ひとこと・映画『ラスト・クリスマス』と歌舞伎『傾城反魂香』

今年のクリスマスソングは映画『ラスト・クリスマス』(2019年・ポール・フェイグ監督)でエミリア・クラークが歌う、ワム!の「ラスト・クリスマス」である。自分の居場所を探しあぐねてあたふたとしていた女性が一人の男性の登場で彼を探すうちに自分の居場所をみつけるというヒューマンラブコメディーである。

意味深なワム!の「ラスト・クリスマス」の歌をこんな感じで歌わないでというかたもおられるであうが、映画の主人公が明るく歌える自分をつかんでの歌である。そこがいい。

映画の原案・脚本がエマ・トンプソンである。

歌舞伎座の『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』。主人公又平も居場所がなかったひとりである。戯作者になるまで近松門左衛門さんも居場所が無かったのかもしれない。心中物の登場人物もそうである。今回の作品は奇跡によって又平は自分の居場所を確保する。勘九郎さんの又平が若さにその喜びがあふれていた。女房おとくの猿之助さんが 白鸚さんの又平の時よりも一層しっかり者の恋女房にうつる。女形としての手が美しい。

勘九郎さんの又平をみていると、八十助時代の三津五郎さんの小柄な身体で喜ぶ又平を思い出した。この方が出れば勘三郎さんも浮かんで、又平の嬉しさと重なって複雑な涙となった。鶴松さんと團子さんが頑張っている。つながっていくのでしょう。

自分の居場所を見失うことはどんなときもきついものである。

『類』(朝井まかて著)(1)

』はひとことで記すつもりであったが、森鴎外さんの三男・森類さんがが主人公なので登場する人々が凄いのである。そのたびに、こちらの旅の思い出と重なってきてその後を追うことにした。

千駄木の文京区立『森鷗外記念館』の地に二階が観潮楼である森鷗外邸での森家の生活が描かれているので、その地を訪ねたことがある者としては、先ず団子坂に面したその空間に人々が交差していたのかと想いがめぐる。ところが団子坂の方は裏で、薮下通り側が表門であった。それだけでも頭の中が回転する。

鷗外さんは北側には自分で花畑を作り楽しんでいたようである。

記念館は団子坂の方からいつも入っていたので、こちらが森邸も表と思っていた。記念館は薮下通りに抜けられるがチラッと覗いて団子坂側に戻っていた。今度、薮下通りも歩いてみたい。

鷗外さんの亡くなった後邸宅は、表門の東側は前妻の子であり長男の於菟(おと)さんが西側の裏門のほうは類さんが相続する。

次女の 杏奴(あんぬ)さんは、様々な習い事をしていて全て全力投球している。絵画、日本舞踊、フランス語、源氏物語、漢語。舞踊はかなり力を入れ、いままでの師匠を不満として劇評家の紹介で新しい師匠につく。その師匠が市川猿之助さんの母堂である。欧米に留学したとあるから二代目猿之助さんである。さらに、猿之助さんの妹が鼓の名人の夫人なので、太鼓と鼓も習うことになる。鷗外夫人も本物を身につけさせたいと力を入れ、ついに 杏奴さんは力尽き身体をこわしてしまう。そのため踊りのほうはやめてしまう。

類さんも杏奴さんと一緒に長原孝太郎さんから絵を習っていて長原さん亡き後は、藤島武二さんに師事していた。鷗外夫人は二人を絵の勉強のためフランスへ留学させる。その時力を貸してくれたのが与謝野鉄幹・晶子夫妻である。かつて鉄幹さんがパリ滞在中に晶子さんが飛んで行くがその時手を貸してくれたのが鷗外さんであった。

長女の茉莉は翻訳をしたものを、与謝野夫妻の新詩社の『冬拍(とうはく)』に連載してもらっている。与謝野夫妻や特に晶子さんは旅の途中で歌碑などよくであう。一番新しいのは散策中に出会った千駄ヶ谷の『新詩社の跡地』。

パリでお世話してくれたのが、画家の青島義雄さんである。このかたの絵は『茅ヶ崎美術館』で初めてお目にかかった。マチスに認められた方というので驚いたが、「在仏の日本人画家では藤田嗣治(ふじたつぐはる)と並び大看板と評されている。」と本にあり、あの画家だと再会できたように嬉しくなった。岡本太郎さんも出現し、そういう頃なのだと時代的流れがわかる。

杏奴さんはパリからもどると、パリでも顔見知りの藤島武二さんの門下生の小堀四郎さんと結婚する。小堀四郎さんは小堀遠州の子孫である。杏奴さんは父・鷗外のことを書き、単行本となる。その本の装丁を考えてくれたのが木下杢太郎さんである。森鷗外さんの死後、残された家族に優しく接してくれたひとりである

木下杢太郎さんは、静岡県伊東市に『木下杢太郎記念館』があり伊東駅からも近く訪れたことがある。生家が木下杢太郎記念館になっていて、商家で中が薄暗かったのを覚えている。杢太郎さんが描かれた花の絵の絵葉書を購入したが、植物図鑑のような地味さである。

類さんが結婚する。媒酌人は木下杢太郎夫婦である。お相手は画家・安宅安五郎さんの長女・美穂さんである。その母親のお姉さんは尾竹一江(尾竹紅吉)さんで『青鞜』の婦人運動にも参加したことがあり、陶芸家の富本憲吉さんと結婚しいる。『青鞜社発祥の跡地』は鷗外邸のすぐ近くである。

結婚式には斎藤茂吉さんが祝辞を述べたようで、類さんにとって斎藤茂吉さんも優しく接してくれたひとりである。斎藤茂吉さんというと歌作に没頭して子供たちから変なおじさんと思われていたということを読んで偏屈なイメージがあったが、この本での類さんに接する様子は穏やかで楽しげで精神科医としてはこのように接していたのかもと違う姿を想像した。

戦争が始まり、類さんは徴兵検査では丙種で、福島県の喜多方へ疎開する。東京の空襲で千駄木の家は焼けてしまう。鷗外夫人が生きている時に、於菟さんは東側の家を出て人に貸して火を出され、西側だけが無事で住んでいたのである。その火事で東にあった観潮楼も焼けてしまっていた。

終戦後は類さん一家は、鷗外夫人が買って類さんの名義にしてくれていた西生田にバラックを建てて住んだ。そこで類さんは疎開先でも書いていた文筆家を目指すようになる。美穂さんの母の福美さんは佐藤春夫さんと知り合いで三人で詩の習作を見てもらいにいく。佐藤春夫さんも類さんに優しく接してくれる人の一人である。三人が訪ねた佐藤春夫邸は今は和歌山県新宮市にある『佐藤春夫記念館』である。二階に日当たりの良い八角塔の小さな書斎があった。

千駄木の焼けた家の敷地に文京区が史跡を残す方針で、斎藤茂吉さんや佐藤春夫さんが発起人となってくれ「鷗外記念館」を建てようということになり、敷地は於菟さんと類さんが区に譲ることにした。ただ類さんはこの地を離れがたく40坪ほど所有し本屋を開くことにした。家族は子供4人で6人にふえていた。

働いてお金を得るという事の出来ない類さんは、遺産も戦争で紙屑となり、父の印税が少し入るだけであった。それまでも美穂夫人のやりくりで何とかしのいできたが、美穂さんの実家の思案の末での提案であった。

斎藤茂吉さんに店の名頼む。『鷗外書店』と『千朶(せんだ)書房』を考えてくれた。類さんは『千朶書房』を選んだ。案内状は佐藤春夫さんが書いてくれた。観潮楼あとは『鷗外記念公園』となり前途洋々にみえるが、そう簡単ではなかった。類さんは自転車で本の配達に励む。あの辺りは坂が多いから大変であったろう。その間美穂さんが店番をし、子供4人の面倒をみる。いやいや、類さんも子供みたいなところがある。類さんが主人公であるが、疎開中といい美穂さんの頑張りは大変なものである。

本屋ということで著者の朝井まかてさんは、その時々の評判になった小説などを上手く紹介してくれて時代の流れというものを読者に伝えてくれている。この手法がなんとも読者にとっては納得させる善きスパイスでもある。

佐藤春夫さんも優しいだけではなく、物を書く人間として励まし方に実がある。岩波と揉めていた類さんの原稿を雑誌「群像」に載せるように尽力してくれる。『鷗外の子供たち』。美穂さんは大喜びである。絵もダメ、勤め人もダメ、やっと光が射したのである。さらに初めての著書として光文社カッパ・ブックスとして『鷗外の子供たち あとの残されたものの記録』となった。

松本清張さんが芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』の発想の元となっている鷗外さんの「小倉日記」は類さんが見つけたのである。このことも驚きであった。もし類さんがもっと世に出た物書きならこのことも類さんの手柄となっていたかもしれないがそうはならなかった。

『鷗外記念公園』は『文京区立鷗外記念本郷図書館』に代わることになり、類さんは立ち退くことになり本屋も閉めることとなり杉並に引っ越すのである。この『文京区立鷗外記念図書館』にも一度行ったことがある。記憶のなかでは、がっかりした想いが残って、これが団子坂かとそちらのほうで満足した。

その後、美穂夫人が亡くなられ、類さんは、思いがけない行動となる。こちらの想像とは違っていてむしろ笑ってしまった。森家の別荘「鷗荘」のあった千葉の日在(ひあり)に類さんは家を建てる。最後はそこの地で終わっている。パッパ(鷗外)は、おまえは類としての生き方を貫いたよと微笑まれているようにおもえる。

日在の海岸は、電車からながめているとおもうが頭の中に映像が残念ながら浮かばない。

森家を背負って生きた人々の複雑な関係も描かれている。森家の人々の作品としては鷗外さんをのぞいて森茉莉さんのを一番読んでいる。他の人もおそらくそうなのでは。残念ながら類さんのは読んでいないのである。さらにこの本を読んで、鷗外さんの『半日』と『妄想』を読み返したい。読んだという印はついているがなさけないことにまったく記憶にのこっていないのである。『』から森家のことがこれからも少しずつ動きそうである。

あと、川崎の生田にある『岡本太郎美術館』もまだ行けていないのでそこも訪ねたい。もちろん千駄木の『森鷗外記念館』にも出かけます。類さんはパッパの記念館、目にすることができませんでした。

行くのはいつになるでしょうか。友人の娘さんが癌の手術をして抗がん剤の治療にはいるとのことです。病で不安なかたがコロナでさらに医療現場に不安になることがありませんように。