菅原道真公

学問の神様である菅原道真公は、実は政治改革にも着手していたのである。NHKの『その時歴史は動いた ~天神・菅原道真 政治改革に倒れる』で知ったのであるが、2月の歌舞伎と文楽のためにDVDを見直した。政治改革について知られるようになったのは近年ということで、学者の方によると、道真は敗者のため勝者によって資料が消されてしまったのではないかということである。勝者とは時の左大臣・藤原時平である。

道真公が時平に落とし入れられ九州太宰府に左遷されて亡くなってから、京の都は転変地異が起る。時平は39歳で世を去り、その子供や時平の血をひく天皇も若くして亡くなり、人々は、道真公のうらみのせいであると言い合う。

藤原氏は、道真の怨霊を鎮めるため北野天満宮の社殿を増築するのである。

道真公は怨んで亡くなったのであろうか。太宰府では罪人として役所に出所することを禁じられ、食べるものにも不自由するような生活であったが、季節の移ろいを詩に詠むことをなぐさめとした。

「京にいるとき、古い友は自自分の食事を分けて食べさせてくれた。家の者たちは私の衣服を洗ってくれた。私はこれまで苦しいながらも、生き続けるよう励まされてきた。死にたいなどと思ってはならない。私は生きるのだ。」

「私の功績が石の柱に刻まれて後世に伝えられることはないであろう」

道真公の政治改革とはどんなものであったのか。菅原家は代々学者として朝廷に仕えてきた家柄で、道真公は33歳で文章(もんじょう)博士に任ぜられる。ところが42歳のときこれを解任されて国司(いまでいう知事)讃岐守(香川県)に任ぜられる。自分は学者なのにと道真にとっては不本意であった。

讃岐に着いて見ると干ばつや疫病で荒廃していて民は国を捨てよその国にのがれていった。当時は実権を藤原氏が握り、税として納めた絹を品質が悪いととがめられる。道真は都人は民の実情をわかっていないと意見書をおくる。それが宇多天皇の目にとまり、46歳のとき宇多天皇近くに仕えることとなり、中央政界に登場するのである。

唐が内乱のため、まず遣唐使を廃止する。そして日本の財政の困窮の原因を考える。当時土地は国の物で一人一人に土地を貸し与え、人から税を徴収していた。ところが、戸籍に登録した成年男子(17歳~60歳)だけに課したので男子でも女子と登録するものが増えた。

有力な貴族や寺院は私有地をもつことができた。そこに目を付けた豪族たちは開墾した土地を貴族たちに寄進し名義料をおさめ実際には自分の土地とした。さらに民衆は苦しいため豪族に土地を売り渡し耕す土地をもたない農民が増える。当然これでは税も入ってこなくなっていたのである。

そこで道真は、人ではなく土地に税をかけることを考えたのではないかと推測されている。そうなると私利私欲に満ちた貴族たちが納得するわけがない。宇多天皇は子の後醍醐天皇に位を譲る。その二年後道真は右大臣に任命される。

藤原氏の勢力を盛り返そうとしていた時平は道真の反対勢力の中心となる。そして、天皇を退けようとしているとして道真だけを呼び出さずに天皇の命令として九州太宰府転勤を左大臣・藤原時平は読み上げるのである。道真、57歳(901年)であった。

902年、時平は実権を握り、改革をはじめる。道真が考えた政策の実行である。豪族の私的な土地の所有を禁じ、民衆にあらためて土地を与え、税は土地に応じてとりたてる。

道真公が亡くなるのは903年2月25日、59歳の時である。

道真公が考えた改革はそのまま時平が受け継ぎ実行するのである。そのことがその後の王朝文化をよみがえらせる。だれがその道筋を作ったのかは、石の柱には刻まれていないのである。

学問の神様としてこんなに多くのひとから親しまれるとは道真公は想像していなかったであろうし、自分の怨霊が彷徨うなどとも考えなかったであろう。怨霊は民衆の怨みが作り出すはけ口だったかもしれない。

ただ道真公は神頼みだけではなく知によって問題解決を考えなさいといわれるように思う。

道真公が江戸の人々の目の前に現れるときは、貴族世界と町人世界を混ぜ合わせたワールドにしないと納得されないのである。江戸時代の芝居小屋では。

追記: 最後の観劇から10日が経つ。その間、予定していた観劇などやめにする。お上のすることは信用できないので自主防衛である。やめれる者はまだいい。友人から仕事が無くなったとメールがある。そうなのである。収入が絶たれる人も出てきているのである。

追記2: 「TOHOシネマズは27日、体調不良や来場を取りやめる利用者について、当面の間、チケットの払い戻しを受け付けると発表した。発熱、せきなどの症状がある場合は、来場を控えるよう求める。」私もこういう方法はと考えていた。うつされるのもいやだが自分がうつすのもいやである。14日過ぎたら次の予定の観劇をと考えていたら中止となってしまった。それはそれで今の段階の決断でしょう。状況によっては実施して払い戻しも一つの方法であると思います。

話芸アラカルト(2)

噺を聴かせる話芸の落語は座ったままで様々のしぐさで噺の幅を広げていく。小三治さんの『初天神』は甘いミツたれをつけた団子のそのミツをなめるしぐさと凧揚げの様子が絶妙である。

初天神』はたわいない噺で熊さんが初天神に行こうとすると息子が帰って来ておいらも連れってとねだるのである。息子はあれを買ってこれを買ってとねだるので熊さんは連れて行きたくないのであるが、おかみさんに言われて連れて行くことになる。

熊さんはおかみさんが羽織を出せといったときにサッと出さないから息子につかまってしまったとぐちる。このぐちが道々でてくるが、その繰り返しの間が可笑しい。

案の定、息子は団子をねだるのである。ミツをたっぷりつけてもらうが、たっぷりで垂れるほどである。熊さんはこれじゃ着物もべたべたになると団子についたミツをなめるのである。ミツの垂れるさまを表現しつつのそのしぐさが実演そのものである。味もなくなるほどできれいになめてしまう。仕方がないのでミツの壺に二度づけである。

息子は今度は凧をねだり買ってもらう。おまえは、凧を持って後ろに下がっていいと言ったら凧を離せ。おとっつあんが揚げてやると言ったが最後、熊さん、凧揚げに夢中である。凧が揚がりそれを風に乗せていき小三治さんの糸あやつりの妙味がありありとわかるのである。青い空に舞う凧。おとっつあんが楽しんでいるのか小三治さんが楽しんでいるのか境がなくなり観客もその風景の中にいて凧をみている。つまらないのは息子である。「おとっつあんを連れてくるんじゃなかった。」

噺を聴いているだけでは伝わらない噺も多いのである。『長短』は気のなが~い人と短い人が登場し煙草を吸うのである。キセルで煙草を吸うしぐさが見えなければ楽しさは半減される。煙草を吸うしぐさで気の長短を現わしそれを観客は比較しつつ笑わせられる。

気のなが~い人は、特別に長く、短い人はこうやってこうやってこうだろうとあっというまに一服吸うか吸わないかでぽんと灰落としに火玉を落とす。小三治さんの『長短』は二回聴いている。一回目の時は、気のなが~い長さんが何ともマイペースで愛嬌を感じた。ところが二回目は、国会の答弁ののらりくらりの影響か、気の短い短七さんを応援している。出た!少し言ったほうが好いよ!みたいな感覚である。

ところが落ちは、短七さんはあまりにも動作がはやくて火玉を自分のたもとに入ったのを知らないのである。それを教えるのが長さんであるからたまらない。なかなか教えない。知った時の短七さんの怒りがラストにならない前から可笑しくて早々と笑ってしまった。思うに、たもとに入っているのが今は新型コロナウイルスかもしれないので複雑である。結果がわかるのが、長さんどころの長さではないのであるから。

落語も今の世の中の動きによって感じ方もちがうのであるということに気がついた。

もうひとつ長い時間気がつかないでいたことがあった。志ん朝さんの落語である。テレビ落語といっていいのかも。昭和43年(1968年)からスタートしたTBSの落語研究会の映像(DVD)である。落語研究会というのは伝統があり明治38年(1905年)からはじまり、5次目のTBSの落語研究会から放送用の収録も兼ねたのである。

それを観なおそうと観始めたら、登場人物の違いを手の重ね方とか身のこなしと顔の向き、目線の位置で確実に変えているのである。噺の上手い噺家さんと思っていたし実際に観ていたが、この狂いのない細やかな動きは何なのだと思ってしまった。そして次々と観ていったら全ての噺がそうであった。こんなに神経を使って完璧にしていたのかと感服してしまった。

大人と子供の上下の目線。その位置が大人と子供に変わるたびピタッと同じ位置の目線なのである。放送用でもあり細かいところも映し出されるのである。そのことを非常に意識されていたように思え、テレビ落語ということを感じたのである。

小三治さんは、志ん朝さんとの落語研究会での思い出を書かれている。落語研究会の楽屋はシーンとしていて真剣勝負の空気で、高座間際まで、真っ暗にした楽屋で闇の天井に向かって何か呟いたりして、志ん朝さんも一緒だったと。圓生師匠、正蔵師匠、小さん師匠なども無駄な口をたたく人はいなかったそうです。それだけ伝統ある会で次の人たちに伝える高座という意識も強かったと想像できる。

いいだけ笑わせる小三治さんですが、道しるべとなった言葉としてあげられてるのが、志ん朝さんから聞いた志ん生師匠の言葉「面白くやろうとしないこと。」と小さん師匠からの「無理に笑わそうとしちゃいけない。」の言葉ということである。笑わせられなくても、つまらなかったなとは思わないであろう。いまだ笑わせられなかった事がないのであるが。

話芸アラカルト(1)

映画『男はつらいよ』の寅さんである渥美清さんは言わずと知れた話芸の抜きんでた映画俳優であった。とらやのあの狭いお茶の間で旅の様子などを語るときはアップの寅さんの顔を眺めつつ、家族の一員になって聴き入ってしまう。話しの中に女性が登場すると、一家は現実に戻されて雰囲気が変わってしまう。満男くんは大人の思惑をよそに「またか」と小馬鹿にしたような顔をするのである。

50作目『男はつらいよ お帰り寅さん』は、この満男(吉岡秀隆)が寅さんを通して人間の一長一短ではいかない面倒な部分も見て来たことによって、面倒な状況にたいしても自然に対峙できる大人になっていたということが証明されるのである。

満男は初恋の泉(後藤久美子)と再会する。そして泉の母と父に関わることになる。離婚している泉の両親は老齢となり一筋縄ではいかない。特にお母さんは見ていても呆れてしまうほど勝手な行動にでる。ところが満男はこともなげにその母と泉の仲を取り持つのである。

満男には泉と母親のそれぞれの気持ちが何となくわかるのである。これは、寅さんの生き方を通して、寅さんと接する人々を通して自然に蓄積されていったものである。良いにつけ悪いにつけ寅さんから言葉では簡潔に表せない人間の面倒さを生活感覚として教え込まれていたのである。寅さんは意識しないで満男に一人前の大人となり親となれる力を与えていたのである。

その様々の寅さんが画面上に走馬灯のように出現する。

50作目の記念イベント『落語トークと寅次郎』に参加した。『男はつらいよ』に関連した落語(立川志らく、柳亭小痴楽)、浪曲(玉川太郎)と座談会トーク(司会・志らく/山田洋次監督、倍賞千恵子、柳家小三治)である。落語家の小三治さんがどんなことを発言されるのかが一番興味があった。

小三治さんが寅さんの映画で一番印象に残っているのは、暑い沖縄で照り付ける太陽を避けるため寅さんが、電柱の影に隠れようとする場面といわれた。山田監督はそれは渥美さんが考えてやったことですと。電柱の影は細くて隠れようもないのである。落語に登場する人物がやりそうな行動である。そして、小三治さんが倍賞さんの「下町の太陽」を一節歌われて、倍賞さんのアカペラの「下町の太陽」の歌唱のお土産つきとなった。

小三治さんのまくらでフランク永井さんの話しを聴いたことがある。オートバイの小三治、オーディオの小三治、まくらの小三治といわれ、落語の小三治とは言われませんと笑わせる。フランク永井さん自身も大切にされていたという「公園の手品師 」が好きでと、歌ってくださった。沁みます。

落語「粗忽長屋」は小三治さんの噺を聴いて、こんなに面白い噺にできるのだと再認識した噺である。それまで噺としてはばかばかしい面白さとは思っていたが、本当に面白いとは思ったことが無かった。いやもう、登場人物にこちらが成りきって楽しませてもらった。

浅草寺にお参りにきた男が人だかりの先に行き倒れの死体を見つける。そこに行き着くまで、こちらも男にご一緒する。行き倒れの死体の身元を探す世話役。男は死体は自分が住む長屋の熊だといい、本人を連れてくると言う。常識の通じない相手の登場に困ったものだとあきれる世話役。こちらも世話役目線になってあきれる。世話役の気持ちがよくわかる。噺の中にどっぷりである。

なんでそんなことが信じられるのであろうかは噺を聴かない人が思うことである。語っていることがそのまま本当に思えてくるから不思議である。そこがまた可笑しいのである。ばかばかしいはずなのに。入ったが最後、その世界から出ようと思わないのである。

男は長屋の住人の熊をつれて浅草寺にもどってくる。熊さん、お前の死体があるよと言われてついて来るのである。その過程は知っているが、「もう一人変な人があらわれたよ。」の世話役目線にすぐこちらは入り込んでいる。もう可笑しくてしかたがない。終わってしまえば可笑しい笑いの世界の中にいたと満足なのである。

これが腕のない落語家さんだと、この噺はこういう噺なのだと納得して笑うが、噺の世界の一歩こちら側にいて中へ入り込むことはないのである。

『~芸がさね舞がさね~』(第2回江戸まちたいとう芸楽祭クロージングイベント)②

「手妻(和妻)」は日本が工夫してきた奇術で、奇術のなかに組み込まれているのを見た事があるが、「手妻」だけというのは初めてである。この伝統を引き継いでいる藤山大樹さんは、2014年には、アジアでのマジックチャンピオン、2015年の世界大会「FISM(フィズム)」で第5位とのことである。

演目にも名前がついている。〔七変化〕〔柱ぬき〕〔連理の曲〕など。〔七変化〕は歌舞伎の舞踊などでもあり、お面を変えて違う人物になり変わるのであるが、もっと速く一瞬に変わるのである。演目に名前があるのはスト―リーがあるからなのである。一匹の狐が、化けて、人を驚かし、楽しむ。ところが、その変化の速さに驚かされてストーリーをとらえるまでには至らなかった。

和の紙の材質を活かした奇術といえるのかもしれない。切ってハラハラと散らす。こよりにすれば強い。折りたためば広げるとどうなるかなど。今度観る機会があれば、ストーリーを楽しませてもらうことにする。

和楽演奏・AUN J (アウンジェイ)クラシック・オーケストラ。和太鼓、三味線、箏、尺八、篠笛、鳴り物の和楽器のユニットである。関心したのは、観客を乗せていくパフォーマンスである。ヒデさんが鳴り物の手拍子(チャッパ)で先ずリズム感を座っている観客に伝えてくれる。そして津軽三味線で井上良平さんと井上公平さんが演奏され、つぎに二人羽織りの芸のように津軽三味線ひと棹を二人で演奏。これが聴きつつ観るパフォーマンスを加えてくれる。良平さんと公平さんは双子ということでさらに納得。

そして6人の演奏となる。尾上秀樹(中棹三味線)、市川慎(箏、十七絃筝)、石垣征山(尺八)、井上良平(和太鼓・津軽三味線)、井上公平(篠笛・津軽三味線)、ヒデ(鳴り物)。浅草といえば隅田川で滝廉太郎さんの『花』も演奏される。映画『わが愛の譜 滝廉太郎物語』が浮かぶ。廉太郎さんはこの頃はまだ希望に満ちた時代である。

和楽がジャズセッションのようでもあり、観客の乗せ方もうまい。『梅笑會』でも、岡谷太鼓の会の方々が花道で花林拍子木で素敵な音のリズム感を響かせてくれたが、まだまだ和楽器も開拓されていないやり方がたくさんあるということである。

爆笑問題のおふたり、いやはやスピード感が半端ではない。そのスピードについて行きつつ笑わせられる。これって練習するとしたら一回で嫌になってしまうと思う。打ち合せだけなのであろうか。相手の言いそうなことが分かっているので、修正しつつ次々と移っていくのであろうか。

それと今の世の中の話題ネタの新しさ。桜を見る会のシュレッダーとバンクシーのシュレッダーも、バンクシーのバレンタインの絵の話題があって復活させられる。そういう鮮度を落とさない探知機がたえず働いているらしい。今の話題をネタにするのは下手をすると録画をみる感じになってしまうが、そこをすくい上げる手腕にすきがない。すくい上げた金魚を元気に跳ねさせ、のぞく観客の反応を見つつまたすくい上げる。あれよあれよという間に。

この後、神田伯山さんと爆笑問題のおふたりは新宿末廣亭・夜の部でご一緒とかでどちらもぼやいていましたがお客さまはお待ちかねであったろう。

『平家物語』の〔那須与一〕読み返したが、伯山さんの講談のほうがやはり生き生きとしてワクワクさせられた。物語をさらに「講釈師、見てきたように嘘をつき」の腕がなければお客はなんだ昔のはなしかで終わってしまう。

庶民的料金で、これだけの芸を見せて貰っていいのであろうか。第3回は心して情報に気をつけます。

追記: どれだけ暇なのか、上から目線だと文句をつけつつこの書き込みを読んでくれている友人から「2/16の情熱大陸を拝見!」とメールがくる。それは結構!結構!「後でメールしようとメモしておいたけど、酔っていてどうでもよい話ししかメモされていなかった~ヤレ、ヤレ」と。どれだけ飲んでいたのか~ヤレ、ヤレ。

『~芸がさね舞がさね~』(第2回江戸まちたいとう芸楽祭クロージングイベント)①

江戸まちたいとう芸楽祭」というのは [粋、豊かな人情、進取の気性など、心を感じる「江戸まちたいとう」で、先人たちが守り、育て、現代へ継承されてきた多彩な芸能・芸術文化を、肩の力を抜いて楽しめるお祭り]なのだそうである。

このフライヤーを見つけた時、パッと目に留まったのが神田松之丞さんの写真。何でもいいチケットゲット。予想外に自分の希望の席が確保できた。これも小野照崎神社への初詣のお蔭であろうか。

台東区下谷にある小野照崎神社は、渥美清さんがお参りしたところ、そのあとすぐに『男はつらいよ』の寅さんのオファーがきたとの情報を得たので、今年の初詣は小野照崎神社と決めていたのである。さすが御祭神の小野篁(おのたかむら)公さま、芸能の神様であらせられる。観る側の希望を叶えて下さった。

~芸がさね 舞がさね~』は神田伯山さん(松之丞さん、2月11日より六代目伯山を襲名。襲名真っただ中。)はもとより、出演者の皆さんお初であるがすばらしかった。「浅草花やしき花振袖」、手妻・藤山大樹さん、和楽演奏・AUN J クラシック・オーケストラ。さらにビートたけし杯お笑い日本一受賞者の予定であったが、今回は受賞者がいなくてなんとその代役が、「爆笑問題」である。もちろん芸能界の代役騒動もネタに入っていた。「爆笑問題」は全く予定になかった嬉しい二回目である。

肩の力を抜いて楽しめるお祭りどころか、舞台からのオーラが半端ではなく、観ている方も鍛えられ終わって帰宅途中の車中は爆睡であった。

最初の「浅草花やしき花振袖」の9名のメンバーは、大和楽・花吹雪を桃割れに肩上げの振袖で乙女心を舞い、最後は扇づかいも息を合わせてあでやかな群舞を披露してくれた。浅草花やしきに所属している舞踏家さんとのことである。浅草花やしきでダンスパフォーマンスなどがあるというのは知っていたが、花劇場ができて、新たなる芸能が発進されているようである。

二番手が神田伯山さんで、いやもう想像していた以上の語りの迫力である。30分の持ち時間のまくらを入れて講談は17分くらいであったが、初めてなので聴いてるほうは充分であった。まくらの話しに亡くなられた浪曲師・国本武春さんと木馬館で一緒に出演したときの話しをされた。

その日は一列目にインドのひとが7人くらい並んでいてやりづらかったのであるが(本当かな)、国本武春さんはその場を包み込むようにして盛り上げてインド人も最後はスタンディングオベーションとなったそうである。そのインド人たちラップの心得があったかもと映画『ガリーボーイ』(インドのスラム街出身の実在ラッパーを描いている)を思い出してしまった。

伯山さんは国本武春さんとは違って、挑みかかる感じである。演目は『扇の的』。よく知られている那須与一の平家方の扇を射抜く話しであるが、いやいやこちらは初めて聴くような心持ちである。そこにいたる成り立ち、情景、工夫が新鮮なのである。えっー、そうなの、状態である。波を越えていく馬上の那須の与一の凄い掛け声。ここは拍手でしょと指導されるが、そんな余裕はなかった。

はっと我に返り、不意打ちに私の情景の中の那須与一はつんのめって海にころがり落ちそうであった。伯山さんの観客に対する手綱さばきには御用心である。用心仕切れないが。この辺で続きは次のお楽しみというとことであるがラストもきちんと語ってくれたので一件落着である。

2月16日(日)夜 11時~ 『情熱大陸』(TBSテレビ)に出演とのことである。


『梅笑會』(第二回)

ヒップホップ文化にしばらく触れていたので、気分を変えて日本の芸能へ。『梅笑會』は中村芝のぶさんと市川笑野さんの二人会である。歌舞伎役者さんの個人的な会の観劇は初めてである。諏訪湖と諏訪大社に関連した演目の構成で観たいと思わせてくれた。観ておいて良かった。

芝のぶさんも笑野さんも歌舞伎の舞台では脇をつとめておられ、こんなに華のあるかたであったのかと驚いてしまった。諏訪大明神のバックアップがあったのかもしれない。神様だけではなくこの舞台にたずさわられた方々の人の技というものが一つになって作り上げたと言う意気込みをしっかり感じとることができた。

ゲストは尾上右近さんで、最初の出し物の清元『四季三葉草』では、素踊りの三番叟である。女方の品のある翁の芝のぶさんとあでやかな千歳の笑野さんの中に入って見た目にも新鮮であった。清元なのでお兄さんの斎寿さんも三味線を担当されていておごそかな中にホットな雰囲気も感じられた。演者と音楽が日本の伝統芸能を高めていった要因でもある。そして、舞台装置や小道具なども。

次の演目は諏訪2題の一つ、鼓舞『タケミナカタ』。長野県岡谷市出身の笑野さんが諏訪大社の御祭神・タケミナカタを題材に構成、演出、主演である。鼓舞とは太鼓をたたいて舞うということで、岡谷太鼓保存会の方々と諏訪大社木遣り衆が参加される。

タケミナカタは国譲りの神話に出てきて、オオクニヌシの二子である。力くらべでアマテラスからつかわされたタケミカヅチに負け諏訪湖まで逃れてくる。タケミナカタは先にそこをおさめていたモレヤノミコトを服従させたことにより、諏訪大社の祭神となる。

右近さんは諏訪明神の使いとして口上をのべる。『風の中のナウシカ』での前篇で口上をされていたが、『タケミナカタ』ほうが短時間でのややこしい神話の解説なので慎重に見えた。解らなかった観客は渡されたパンフの解説でさらに補充できた。

笑野さんは、巫女では、岡谷太鼓の会の演奏に合わせ華麗に舞い、諏訪大社木遣り衆のたくましい美声の後には勇壮なタケミナカタとして舞う。古典芸能の調和に満ちた融合であった。

最後の諏訪二題は、義太夫『本朝廿四孝ー奥庭狐火の段』である。歌舞伎三姫の一つ八重垣姫に芝のぶさんがいどむ。『奥殿狐火の段』は狐火に導かれ、氷の張った諏訪湖を渡って許婚の勝頼に危険を知らせるという激しさと愛らしさを持つ姫の内面と行動を現わす場面である。

パンフに、諏訪湖の御神渡り(おみわたり)の伝説から生まれた筋とある。諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとに通う足跡で、湖面の氷が三尺ほど一直線に盛り上がるのだそうである。私の中では、姫ということもあり、スケートのようにすーっと滑るように進むイメージである。

狐火ということで、最初に神の使いの白い狐が現れる。人形の白狐でそれを操るのが右近さんで白狐の残像を残してくれる。八重垣姫を行かせまいと力者(中村福緒、坂東やゑ亮)がさえぎるが、姫の勝頼を想う心情は何者にも負けなかった。さらに諏訪法性の兜を手にしているのであるから。

素晴らしい構成であった。芝のぶさんと笑野さん、かなりのハードルを見事に越えられた。第三回は第二回のハードルより高くするのであろうから、なかなか大変であるが期待が持てる。

諏訪湖や諏訪大社下社春宮と秋宮には行ったことがあるが上社のほうは行っていない。行った時からかなり年数がたってしまって、社のイメージが湧いてこない。その時、大きなお風呂も観たなと調べたら『片倉館』の千人風呂であった。今は千人風呂に入浴もできるようで、休憩所や食堂もある。見学した時は殺風景なイメージがあったが、時代とともに変わったようである。次に寄った北澤美術館も健在である。

皇女和宮の降嫁の際に使われた本陣岩波家など見どころの多い場所でもある。岡本太郎氏が絶賛して有名になった万治の石仏にはまだお目にかかっていない。お会いしたいものである。浅草から諏訪湖まで飛ばせてもらった。第三回はどこに飛ばせてくれるであろうか。

ヒップホップ文化(DJ、MC)

ヒップホップ文化のDJとMCの要素が難しい。馴染みのない音楽の分野なのでその関係の映画を観てやっと入口を見つけたようなものである。レンタル店のCDの棚に、HIPHOPの分野にラップ関係のCDが並んでいるのがわかった。アーティストの名前がわからなかったのでその棚を探すこともなかったが何人かの名前には目がとまるようになった。

その中で、映画『8 Mile』はヒップホップ文化を知る前に観ていたのでMCのバトルの緊張感やそこからのし上がっていく壮絶さは少しわかっていた。MCもエミネムもゼロ状態で、キム・ベイシンガーが出ていたのでそれならと観たのである。ヒップホップ文化を知って、あの映画の世界かと思い出していた。場所はデトロイトである。

MCの自伝映画やドキュメンタリー映画を観て、ヒップホップ誕生のことを探れたのがドキュメンタリー『ヒップホップ・レジェンド』(2005年)で、その後の様子を想像させてくれたのがドキュメンタリー『ライム&リーズン』(1997年)である。

ヒップホップ・レジェンド』でのインタビューから、ブロンクスで誕生したヒップホップ文化の大きな力になったのが、クール・ハーク、アフリカ・バンバータ、グランド・マスター・フラッシュ等で三人の名がよく出てくる。特にギャングであったアフリカ・バンバータの名前が多く出てくるし、本人も登場し語る。アフリカ・バンバータはギャングであった自分の経験からパーティーなども警備させる術を心得ていて争いなども上手くコントロールする形態を作り上げ、1973年11月12日ズール・ネーションを結成し、ヒップホップの四要素を一つにした。11月12日はヒップホップ誕生の日であり、11月はヒップホップの月としている。

音楽が好きだったバンバームは、人間が持つ否定的なエネルギー、互いに傷つけあったり喧嘩や縄張り争いへのエネルギーを前向きなエネルギーへと変えて行った。ブレイクダンスのバトル、MCのバトルで闘い、さらなる向上へと前進させていった。ミキシングをやるだけだったDJのバトルも行われた。

当時はディスコの時代で、ビージーズの音楽や映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界である。黒人の貧民街で育った若者たちはお金がなく、ディスコには入れなかった。彼らにとってディスコから流れてくる音楽は脆弱であった。彼らは自分たちの音楽を作り出し、自分たちのブロック・パーティーを開いた。そしてバトルで自分たちを高めていった。

音楽業界は、ディスコ音楽が飽きられることを予想し次の音楽を探していた。そして目を付けたのがヒップホップ・ミュージックである。レコードが発売され、大ヒットするや、中産階級にも広がっていった。そして新しいDATレコーダーがDJに変わり、DJは重要ではなくなりヒップホップ文化も変化してしまうのである。

ドキュメンタリー『ライム&リーズン』では音楽業界で成功したアーティストから出身地で頑張るのアーティスト、女性アーティストなどのインタビューが続く。成功者はヒップホップがビジネスとしていかに人生を変えられるかそれも重要なことであるとし、ラップのスキルが少しでもあれば、曲を出して金を稼ぎたいし、ストリートから逃れることが自滅だというなら意味が解らないと語る。自分の生まれ育った場所でギャングだった者はその現実をラップに、売人はその現実をラップにしていった。そして契約したレーベルとのいざこざから自分のレーベルを立ち上げる動きとなっていく。

広域に広がったヒップホップは西海岸と東海岸での抗争へと進んでしまう。アーティストたちは、メディアが煽り立てていてお互いに何のいさかいもないと主張しているが、結果的に2パックとBIGの死によって終結する。

この辺りや自分たちのレーベルの立ち上げなどについては、映画『ノトーリアス・B.I.G.』(2009年)ニューヨークのブルックリン出身BIGの伝記映画))、『ストレイト・アウト・コンプトン』(2015年・カリフォルニアのコンプトン出身のグループN.W.Aの伝記映画)などと合わせて観るとつながってくるが過激さもあるので要注意。

ヒップホップ・レジェンド』は、『ライム&リーズン』の後に制作されているので、インタビューに応じたアーティストはヒップホップの原点を忘れずにその精神をつなげることが重要だと考えている人が多い。

そして行きついたのがドキュメンタリー映画『自由と壁とヒップホップ』(2008年)である。パレスチナ人の若者たちがヒップホップによって自分たちの詞と音楽を作り出していく。ガザ地区と西岸のヒップホップが壁を越え、検問を越え交流するのである。知らなかったことを教えてくれ、さらにヒップホップの力を伝える見事な映画であった。映像の撮り方、編集に説得力がある。私的ヒップホップ文化のジグザグ道はここに行きつけた。

その他参考にした映画・『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』(50セント主演、彼の半生がベース)、『ヒップホップ ・ヴィ・アイ・ピーズ』(ヒップホップのビッグスターたちのインタビューとライブ映像)

追記: 『悠草庵の手習』をスマートフォンで見ると画面のサイズが合わないようです。原因がわかりません。スマートフォンの画面をトントンと二回軽くタッチすると見やすくなります。見て下さっている方にはご不便をおかけし申し訳ありません。宜しくお願い致します。