映画『バックコーラスの歌姫たち』『THIS IS IT』『三つ数えろ』

『バックコーラスの歌姫たち』は、世界のロック界などのスーパースターのバックコーラスの女性ヴォーカルとして、実力ある歌姫たちのドキュメンタリーである。

いづれはメインで歌いたいと挑戦するひと。途中でやめてもやはり、バックでも歌っていることが好きだと戻る人。バックであっても歌を作り上げているのだと自負する人。その想いが時間の流れの中で、一人の人の流れであったり、他の人から見た流れであったり、時代とともに要求されるバックコーラスの求められ方の違いなどが交差している。

その中に、この人は確かという人がでてきた。ジュディス・ヒル。ドキュメンタリー映画『THIS IS IT』でマイケル・ジャクソンとメインで歌い、バックでも歌っていた人である。マイケルが『THIS IS IT』公演前に亡くなって、公演前のリハーサル風景が映画となった。

マイケルに関しては、歌を聴きたいとか映像を観たいとか思わなかった。スーパースターの一人と思っていただけである。たまたま、映画『THIS IS IT』が公開されたころ、ドキュメンタリーにはまっていたのである。バレエ、ファッション、音楽、タンゴ等の出来上がるまでの過程が面白かったしドキュメンタリー映画も見せるという要素が強くなっていた。

ドキュメンタリーといえども編集があるわけで、意図的な効果や構成があるであろうから『THIS IS IT』も当然そういう人的介入は考慮したとしても、気に入った。マイケルに舞台の表現者以外の発言を一切させていない。好きも嫌いもない者にとっては、それだけのほうが納得できた。つまらぬ感情を使わなくてすみ、こういう風にマイケルはコンサートを作りあげていきたかったのかということが素直に受け止められた。再度見直して、この気持ちはかわらなかった。

大きな声を張り上げるわけでもない。周りがマイケルの気持ちを読んでカバーしてもいるが、皆がマイケルの感覚をつかもうと真剣である。

マイケルのテンポの表現が「ベッドからはい出すような感じ」「月光に浸る感じだ静寂が染み渡る」などとその表現が時には微妙である。

この時期、仲間うちで、「マイケルのような表現で説明して。」「マイケル的哲学表現でよくわからない。」というのが流行って飛び交った。

このコンサートの構成のなかに、ショート映像が映し出されるらしく、かつての幾つかのハリウッド映画の一場面を、マイケルが追われるシーンとして作っていた。リタ・ヘイワースの『ギルダ』と、ハンフリー・ボガードの『三つ数えろ』はわかった。それがまた、気に入ってしまった理由の一つでもある。マイケルは映画を色々みていたのだ。

『ギルダ』は『ショーシャンクの空に』で刑務所内で上映された映画で、リタ・ヘイワースが髪をなびかせて振り向くと<ギルダ>と声がかかるのである。この映画を観たいと思っていたら、今のシネスイッチ銀座が銀座文化劇場であったとき「ハリウッド黄金時代の美女たち」として『ギルダ』を上映してくれ待ってましたとばかりに見に行ったのである。内容は、ありふれていてリタ・ヘイワースをみるための映画であった。

『三つ数えろ』は、今回見直した。この映画は、1945年版と1946年版があるらしく、1946年版である。1946年版のほうが、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールのからみの部分が多いのだそうで、二人の結婚と関係があるのであろうか。ただこの映画は、謎が謎を生んで最終わかったようなわからないようなという結末である。

映画好きとしては、これが出て来ただけでマイケルの評価はたかくなる。このショート映像はマイケルもその中に参加するということで合成である。かなり入り組んだ合成映像となっている。

マイケルは小さいころから踊っていただけに身体のリズム感が、楽器のようである。手、足、顔が同時に別の方向に動いて、身体も前後、左右と動き続けで、さらに声を出して歌っている。詞があるゆえに、感情の表現も身体から出したいという想いがあるようだ。

何日間もかけてリハーサルをし、自分のなかで一つ一つ確かめ、最終的には自分のイメージと合体させていくのであろうが、残念ながらこのコンサートの完成品が世にでることはなかった。

この映画は、マイケルが自分の持つ力をどう発露していくかという点ですぐれた映像だとおもう。マイケルの勝負しようとする焦点がはっきりしている。

好きでも嫌いでもないマイケル・ジャクソンの映像は、これ一つがお勧めである。実力とあふれる想像力と創造力を兼ね備えたスーパースターであった。

マイケルとメインで歌った、ジュディス・ヒルは、一人立ちしたようでもあるが、そのプロデューサーであろうか、「スターに仕立て上げることは簡単だ。だがジュディスの才能はもっと奥深いものだ。売れすぎるのもよくない。」といっている。

マイケル・ジャクソンも売れすぎて、彼の実績だけでない余計な付随物で覆われてしまったところがある。そのことだけが膨らんでしまったような感もある。有名人のプライベートのみに関心のある人も多いから、それは避けられないことであるが。

シネマ歌舞伎『棒しばり』と『喜撰』を見た。芸はそのひとが亡くなるとき持っていってしまうというに尽きる。お迎え坊主さんたちがくりだして、そうか皆さん三津五郎さんと同じ舞台上だったのである。今の彼らを、勘三郎さんと三津五郎さんはどう見て、どう声をかけるであろうかと思ったら胸がつまった。

 

映画『日本誕生』と『ハワイ・マレー沖海戦』(2)

『ハワイ・マレー沖海戦』は、1941年の真珠湾攻撃を題材とした国策映画で1942年に制作されている。

この映画は戦後GHQの検閲にひっかかる。

<新聞の写真だけで真珠湾を想像した>(円谷英二の言葉>

新聞に載った一枚の写真の民家からアメリカの軍艦の大きさを割り出して、軍港の大きさを推測したのである。

<どっから撮ったんだって、言われたんだ>(円谷英二の言葉)

戦闘シーンが特撮なのに記録映像とGHQはおもったらしい。実際は東宝撮影所のプールで撮ったのであるがなかなか信じてもらえなかったようである。

今観ても戦争や軍の厳しい規制があったとは思えないほど自由に撮ったようにみえる。日本軍がいかに真珠湾攻撃を秘密裡に、果敢に戦ったかをアピールしてはいるが、一人の少年・義一(伊東薫)が海軍少年飛行兵を志願し、真珠湾攻撃に参加することが軸となって戦闘場面につながる。

義一の姉・きく子が原節子さんである。義一は志願するとき、母の許可をもらう。そのあたりも山本嘉次郎監督らしく義一のはやる気持ちをおさえる大人を配置し、予科練に入ってからも、彼らを育てる指揮官にも情をふくませている。

土浦の海軍航空隊の建物などが映っているが、これは本物なのかどうかはわからないが、ここから最終的には特攻隊も飛び立ったのだと思うと、映像を見つつ複雑な気持ちになる。

義一たちは空母艦からの出撃であるから、空母艦から飛び立ち、空母艦に着陸する訓練をする。そのため寝る場所はハンモックである。

空母艦に戻るときいつも海が静かだとは限らず、暴れ馬の尻に着陸すると思えといわれるが、まだこのころは帰ることが許されていたのである。

義一が休暇で帰ってきたり、義一の手紙が届いたりすると原節子さんが画面に登場する。このような時も原節子さんの笑顔には透明感がある。まだ庶民は先になにがあるのかわからない状態である。

行先を教えられないまま、大編成の飛行隊が出撃する。ハワイとマレー沖での戦の始まりであった。

戦闘の事実関係がよくわからないのでるが、雲の間から真珠湾が現れたり、マレー沖に英国の戦艦が見えたりしてそこに攻撃する様子でそういうことかと流れをつかむ。このあたりが円谷英二特撮監督の力量となるのであるが、苦労のほどがわからないほどスムーズな映像である。『日本誕生』は、特撮とわかる部分が多いのであるが、『ハワイ・マレー沖海戦』は、ここが特撮だといわれるからそうなのだと思うほど映像にひずみがない流れの良さがある。

受けた仕事の手は抜かぬという仕事ぶりである。隅っこに押しやられていた特撮がやっと日の目をみるのが国策の戦争映画であった。そのことにより、円谷英二さんは公職を追放された時期もある。

脚本・山本嘉次郎、山崎健太/撮影・三村明/出演・大河内傅次郎、藤田進、河野秋武、花澤徳衛、進藤英太郎、清水将夫、中村彰、英百合子、加藤照子

しかしまた円谷英二さんは立ち上がり『ゴジラ』や『ウルトラマン』を作り出していき、多くの人材をもそだてていくのである。

<この男にシナリオを教えてやってくれ>(円谷英二の言葉)

名前がかかれてないがこれは、金城哲夫さんと関沢新一さんのことではないかと思われる。「大御所のシナリオライターに、のちに円谷プロを背負って立つことになる、若き脚本家志望の青年を託した時の言葉。」とある。

『円谷英二の言葉ーゴジラとウルトラマンを作った男の173の金言』(右田昌万著)は、本だけでも楽しかったが、円谷英二さんの映画と仕事と人物像を知るうえで様々な変化球を投げてくれた。まだ受けそこなっている球もあるが、円谷さんの関係した映像は沢山あるのでその都度拾いあつめることにする。

特撮も今観ると手作りの縫い目のあらい部分もあったりするが、狙いがわっかていないよと言われそうである。

観ていない『怪獣大戦争』のゴジラのおそ松くんの「シェー」を真似て消えることとする。

 

映画『日本誕生』と『ハワイ・マレー沖海戦』(1)

この二つの映画は亡くなられた原節子さんが出られていて、特撮監督が円谷英二さんであるという共通点である。

『日本誕生』は、スパー歌舞伎『ヤマトタケル』を観ていれば流れがわかる。ヤマトタケルを主軸にしている。そこに、アマテラスオオミカミの天の岩戸に隠れられた話と、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したとき、オロチの尾から取り出したのがクサナギノ剣であるという事が挿入されている。

アマテラスオオミカミが原節子さんで、その出現はすんなりとアマテラスと認めてしまうことができ、大らかな美しい笑顔なのである。

踊るアマノウズメノミコトが乙羽信子さんで岩を空けるのが朝汐太郎さん。この場面、名役者さんたちが万の神として、もったいないほどの脇役に徹している。腕の振るいどころがないのが気の毒なくらい。(有島一郎、榎本健一、加東大介、小林桂樹、左卜全、三木のり平、柳家金語楼)

景行天皇(二代目中村鴈治郎)の時代、兄を追放した弟のオウスノミコト(三船敏郎)は、父の天皇に命ぜられクマソ征伐に向かう。見事クマソの兄弟を倒す。クマソの弟のタケル(鶴田浩二)は、オウスにヤマトタケルと名乗って平和にしてくれと遺言をのこす。ヤマトタケルの誕生である。

しかし今度は、父・天皇から東国征伐を命じられてしまう。伊勢神宮の宮司を務める叔母(田中絹代)は、天皇からだとクサナギノ剣をタケルに渡す。クサナギノ剣は、スサノウノミコトがヤマタノオロチ退治の際、その尾から取り出した剣である。

ヤマタノオロチ退治の場面も挿入され、三船敏郎さんは二役でスサノウノミコトもつとめる。ただこのとき、オロチとの闘いは合成であるから、三船さんはこれまた気の毒なくらいオロチに向かって両腕を上げたりするだけであったりする。尾に乘って斬りつけクサナギノ剣を出す時にやっとリアルな演技ができる。しかし、虚しい動きを力一杯表現する三船さんを観ていると、その一生懸命さにいい人だなあと感心してしまった。現場の大変さを受けて立っているようであった。この場面は特撮の見せ場でもある。

クサナギノ剣も叔母がタケルへの同情の噓であったことがわかりタケルは大和に引き返す。その途中で、タケルを邪魔者とする大伴一族の兵に敗れ、ヤマトタケルは死と同時に白い鳥となって飛び回る。天地の自然を動かし、火山の爆発、洪水などを起こし大伴一族を滅ぼしてしまうのである。

ここが特撮の力の入れどころである。地割れのシーンがあり人がそこに落ちて行くがその撮影について『円谷英二の言葉』(右田昌万・みぎたまさかず著)で触れている。

<人形では面白くないので、本当の人間に落ちてもらいます>(円谷英二の言葉)

大きな地面を三つ作り、それを合わせておいて、群衆が走ってきたらそこでトラック5台くらいでそれぞれの地面を別方向に引っ張って地割れをつくり、そこに落ちていくという特撮だったとある。

この場面は、明らかに合成しているというものではなかったので、リアルで不思議であったが納得である。

とにかく特撮のあらゆる技術が網羅されていて、東宝の俳優さんが総出演といった豪華映画である。神話でもあり、特撮も多いので物語の楽しみが覚めさせられる箇所も多いが、ああやろうかこうやろうか、どうしたら演技者と特撮が一体となれるかなど考えかつ工夫していた姿がにじみ出る映画でもある。

監督・稲垣浩/脚本・八住利雄、田中友幸/撮影・山田一夫/音楽・伊福部昭/美術・伊藤熹朔、植田寛

出演・志村喬、平田昭彦、宝田明、久保明、東野英治郎、田崎潤、藤木悠、天本英世、杉村春子、司葉子、香川京子、水野久美、上原美佐

 

歌舞伎座二月 『源太勘当』『駕籠釣瓶』『浜松風恋歌』

『源太勘当』は『ひらかな盛衰記』の中の一部で、『逆櫓(さかろ)』はよく上演されるが、『源太勘当』は少ない。

梶原景時には二人の息子がいる。兄・源太景季(げんたかげすえ)と弟・平次景高である。兄が<源>で弟が<平>。何か意味付けがあるのか。兄は美男で心映えがよく、弟は横着ながさつ者である。その兄と恋仲の腰元千鳥を弟は横恋慕する。『源太勘当』とあるから、兄は勘当されるわけである。この勘当もわけがありそうである。

源太は宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いに敗れ、そのことを弟はなじり、母のもとには、父から源太を切腹させよとの文が届く。しかし源太が敗れたのは、高綱に父が命を助けられたことがあったからその恩に報いたのである。母・延寿は一通の手紙をじっと見つめているが、源太を勘当し、千鳥とともに落としてやるのである。

この芝居はむずかしい。兄(梅玉)と弟(錦之助)の違いは衣装から顔のつくりからしてわかりやすい。千鳥(孝太郎)と兄と弟の関係もわかるが、母(秀太郎)の苦悩がむずかしい。なにかじっと想い悩んでいるらしいことはわかる。これは、筋を知って味わうべきものとおもう。源太は勘当されることによって美しい衣装から惨めな姿となる。その辺の転回や、千鳥が平次のやりとりの時と源太に対する時の心持ちの差なども見どころである。悲劇を着ている衣裳で表せる品格も役者さんの芸であると思った。千鳥の衣装も腰元にしては刺繍など豪華である。

『駕籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』は何回も観ているが、次郎左衛門の吉右衛門さんと八ツ橋の菊之助さんである。どんな感じになるのか。まず、菊之助さんは美しいのであるが人形的な美しさで、この点がずーっと気になっていた。ところが今回は、花魁という立場がこの美しくもまだ可憐さの残る八ッ橋をどれだけ悩ませるかがでていた。こちらが同情してしまうような八つ橋であった。栄之丞(菊五郎)に惚れているため次郎左衛門との縁切りを迫られる時のつらそうな心の乱れ。きっぱり愛想づかしをしてからのおもい。それぞれに血の流れがあった。さらに、次郎左衛門が再び訪ねて来てくれた時の疑いの無い安堵感。

それに対する、吉右衛門さんの次郎左衛門は、再び八ッ橋と向かい合い、がらっと変わって憎しみのみが鬼畜のごとくに豹変する様が際立った。情を出すのが上手い役者さんだけにこの変化に弱さがみられることもあったが、今回の次郎左衛門の狂気と八ッ橋の恐れは錦絵のようであった。

八ッ橋に想われている自分を同郷のものに見せようとしたのであるから、その絶望は大きい。次郎左衛門にとっても、八ッ橋にとっても、どうすることもできない時間のめぐりあわせであった。

梅枝さん、新悟さん、米吉さんと若い花魁たちが違和感なく勤めていたのには驚いた。菊之助さんの若さとの釣り合いであろうか。ベテランの空気の張りつめかたも良いのであろう。

真っ暗な中、ぱっと現れる吉原の仲ノ町は、当時の不夜城の出現である。

『浜松風恋歌(はままつかぜこいのよみびと)』。在原行平を恋い慕って亡くなった松風の霊が小ふじ(時蔵)にのりうつり、その小ふじに想いをよせる船頭此兵衛(松緑)がストーカーのように追い回し、おもいがかなわず刀を振りかざす。

松緑さんの此兵衛は出て来たときから怪しさがみなぎっていた。剃られた月代(さかやき)の青さが照明にあたりひかり、目も異様なひかりをする。もしかするとカラーコンタクトを使用していたのであろうか。試みとしては、最初から此兵衛を悪として設定したのであろうか。

初めて観る作品なのでそれはそれなりに面白かった。その此兵衛に負けないゆとりが時蔵さんの小ふじにはあり、謡曲を題材としている作品から現代と行きかう作品となったような気もする。

終演後、観客の若い女性の「松緑さん怖すぎ。」との声を耳にした。なるほどそう感じる人もいるかもしれない。役者さんがどう作品をとらえていくか。松緑さんもそうしたもがく年代に入っているということであろう。

 

歌舞伎座二月 『新書太閤記』

通し狂言『新書太閤記』。吉川英治原作を六代目菊五郎さんが新聞連載中に上演したとある。どのような評価であったのか知りたいところであるが深入りはしないで当月を楽しんだ。秀吉を取り巻く歴史上の人物がオムニバス的に、それぞれの逸話が展開され、秀吉が信長の心をつかみ時代を手にいれてゆくさまがスムーズに流れ構築されていく。

菊五郎さんの秀吉は芝居の狂言回しの役目をしつつ、自分の都合の良いほうにというか、周囲を丸め込むというか、一本気の人をなごませるというか、人の発想を逆転させるというか、道なき道を切り開いていくというか、つかみどころのない人物である。

自分自身もわかっているのか、それとも楽天的なのか、計算高いのか、出世欲なのか、捨て身なのか、こうときめつけられない多様性をもっている。

ただ、信長に気に入られ様としたのは確かであるが、その気に入られ方もまっとうな知恵であるのか、悪知恵なのかは判然としない。

槍の試合に長い槍を持ちだし上島主水(松緑)側を負かしてしまう。どちらが槍の使い手であるかなど問題ではない。戦さでどちらが道具としての槍が有効であるかである。槍の名手の上島としては武士として許せないことである。ところが、秀吉にすれば、武士の個人の誇りなど関係ないのである。信長公にどうお仕えするかが主従の従の道と考えている。

そんな調子で、秀吉の言葉に皆納得してしまう。その発想が面白くもあり他愛無くもあり、こんな男のいうことだからとプライドをしまいこむ者もいる。

寧々(時蔵)との祝言はお笑いであるが、寧々が秀吉を気に入っていたので成功する。前田利家(歌六)も秀吉の悪知恵には笑って済ますこととなり、それがかえって利家の大きさを見せることとなる。

清州城の普請場での功績、軍師竹中半兵衛(左團次)を味方にいれるなどして、藤吉郎から秀吉になる流れも無理がない。

ただ、明智光秀(吉右衛門)だけは、秀吉も心をやわらげることはできなかった。ここが、光秀役の吉右衛門さんには手こずる芝居と役の二重性の楽しみがある。あの『馬盥』の光秀には無理でしょう。かえって火に油をそそぐだけかも。

信長(梅玉)は光秀のこころが読めるだけに激怒するのかもしれない。秀吉の行動は信長には読めない。ごますりかもしれないが、思ってもいないような行動にでるのが信長の緊張をほどきかつ引き締める楽しさをもたらしたのかも。

光秀は信長を討って初めて信長の孤独を知ったであろう。しかし秀吉にはまだ孤独感などありはしない。父信長のあとをつぐのが当たり前だと思う織田信孝(錦之助)や実直な柴田勝家(又五郎)を排除して三法師君を抱きかかえているのである。

そこには寧々も連座して、中々な夫婦である。

濃姫(菊之助)、秀吉の母(東蔵)、寧々の父母(團蔵、萬次郎)など役者がそろい、歌舞伎のオールスター版である。

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立振る舞いは美しいし、役者さん達の本来の合う役や、すでに認知度の高い役どころと頭の中で比較したり、菊五郎さんの秀吉の出方にどう反応するのかなど、ツッコミも入れたりできる楽しい舞台となった。

そして、若手の役者さんがどう信長を守るためにとりまくのか、藤吉郎を軽くあつかうのかなどもなるほどと思いつつほくそ笑んでいた。

 

劇団民藝『光の国から僕らのためにー金城哲夫伝ー』

金城哲夫さんというのは、あの<ウルトラマン>を誕生させた脚本家である。劇団民藝で金城さんを取り上げてくれなければ、おそらくこの方のことは知らずにいたかもしれない。

円谷英二、ゴジラ、円谷プロ、特撮、ウルトラマンなどはつながってでてくる。そこには脚本家もいたのである。それは怪獣たちが映画からテレビに移って子供達を歓喜させる時代であった。その時代に金城さんは円谷プロの企画室長として、よろずや的に様々な仕事をこなし、脚本も書くのである。

舞台の本のほうは、畑澤聖悟さんで『満天の桜』を観ているので、それなりに調べられ書かれるのであろうと、畑澤さんの作品にゆだねてその辺のことは前もって詮索しなかった。観たとこ勝負である。

金城さんは沖縄出身のかたで、チラシによると、ウルトラマンの栄光を捨てて沖縄に帰ってしまうという。そこには、沖縄に対する何かがあるのであろう。

金城さんとともにウルトラマンにかかわり、金城さんがヤッチーとよんだもう一人の沖縄出身の脚本家上原正三さんも登場する。<ヤッチー>とは沖縄の言葉で兄貴という意味である。

金城さんは、とにかく仕事が楽しくて仕方がない。戦争による凄まじい犠牲のあと沖縄がアメリカに支配されている時代である。上原さんには金城さんの何のこだわりもない明るさに戸惑う。たとえば、君は下宿を沖縄の人間ということで断られたことがあるかとたずねる。観ているこちらも、そういう時代があったのだと時代をさかのぼる。

金城さんは生来の明るさもあるのであろうが、彼は、高校から本土の玉川学園で寮生活である。金城さんはそうした環境のためもあり、本土での生活は沖縄と本土という狭間での傷つき方は少なかったのかもしれない。そして、借金だらけでありながら仕事に夢をもって、<オヤジさん>とよばれた円谷英二さんを中心とする仲間意識もそれをカバーしてくれていたように思う。

金城さんは、アメリカ軍の艦砲射撃のなかを逃げまどい、お母さんはそのために片足を失っている。しかし金城さんはそのことにふれることはなかった。

沖縄の本土復帰を目前にして、金城さんは、自分は沖縄と日本の架け橋になるのだと光に向かって進んで行く。しかし、ウルトラマンは現れなかった。ただ、かれの中の理想郷では現れていたのかもしれない。

<ウルトラマン>と<沖縄>がつながっているとは驚きである。ウルトラマン誕生から50年だそうである。ウルトラマンは今、沖縄にすくっと立っていて、こちらを見なさいと言っているのかもしれない。

金城さんの本土で会った人が、幅の広さのあった人達だったのかもしれないとも思える。芝居のなかで「せきざわしんいち」という名前がでてきた。もしかして「関沢新一」さんかなとおもって検索したところ、金城哲夫さんの脚本の師匠とある。関沢新一さんは、岡本喜八監督の映画『暗黒街の顔役』、『暗黒街の対決』の脚本も担当している。『モスラ』も書かれている。さらに作詞もされ『柔』(美空ひばり)『涙の連絡船』(都はるみ)『銭形平次』(舟木一夫)等のヒット曲もある。そのほか写真家でもあるらしい。

金城さんは、沖縄のことを忘れていたわけではないが、作品を作り出すあらゆるエネルギーを学んで吐き出し、学んでは吐き出しと嬉々としてやられていたように思う。

沖縄に帰ってからの金城さんの吐き出した美しい糸は、吐き出せば吐き出すほど思うような流線を描いてくれず混線してしまうのである。

ウルトラマンという子供達のヒーローの陰で、光の国をさがしていた大人がいたのである。今も疑心暗鬼となりつつたくさんいるのである。

金城哲夫を演じたのが、『根岸庵律女』で正岡子規を演じた齋藤尊史さんで、熱く金城にぶつかっていた。上原正三を演じたのが『大正の肖像』で中村彜を演じたみやざこ夏穂さんで鬱屈した部分を照らした。それぞれの沖縄に対する気持ちの出し方のちがいや、受け取り方の違いが感じられ、それでいながら同郷者として、仕事仲間として、生きる上でのつながりなどが台詞をとおして伝わって来た。

演出は丹野郁弓さんで、パンフレットに雑記として、沖縄にいって一番印象的だったのは海だと書かれている。同じである。あの美しい海に何人ものひとが飛び込んで自決したのである。悲しいほど海の色は美しすぎるのである。

それにしても金城哲夫さんに着目した丹野さんの着眼点は凄い。ウルトラマンも50年目にしてこの人だと光の国から飛んできたのもお見事。

胸につけてる マークは流星 ~ 光の国から 僕らのために 来たぞ われらの

ウルトラマン

 

紀伊國屋サザンシアター  2月21日(日)まで

 

公演記録『婦系図』と映画『忍ぶ川』

国立劇場で月に一回程度国立劇場で公演した公演記録鑑賞会を開催している。知ってはいたが実演と違い用事を優先させることとなり、鑑賞する機会を逸していた。

昭和48年の国立劇場第2回新派公演の『婦系図』で初代水谷八重子さんのお蔦(おつた)、中村吉右衛門さんの早瀬主税(はやせちから)である。

内容は知っているし、初代八重子さんだからと言って涙がでるとは思わなかった。初代八重子さんの型を観ようとおもったのであるが、型の流れよりもそのお蔦の心情表現に涙してしまった。涙の原因はお蔦のゆれの上手さと玄人の意気地の立てかたである。

レジメの解説によると、初演が新富座で、お蔦が喜多村緑郎(きたむらろくろう)さんで、早瀬主税が伊井蓉峰(いいようほう)さんで、「湯島の境内」で流れる清元『三千歳』を使ったり、風呂敷からお蔦が落とす障子紙と刷毛を小道具として使ったのも喜多村さんとのことである。そして今もこの喜多村さんに教えられた形を踏襲しているのである。

お蔦は柳橋の芸者であったが早瀬主税と結ばれて、飯田橋に住んで居る。しかし、身分違いから日蔭の身で、久方ぶりに早瀬との外出である。嬉しいお蔦。髪は銀杏返しである。お蔦の芸者だった玄人と芸者をやめて素人になった、そのゆれが八重子さんは、何とも言えない可愛らしさになっている。機嫌のよくない早瀬に対する気の使い方は玄人はだがみえ、わがままをいう時は素人の純なところである。

作っているというより、まだ世間に認めて貰えない立場と、そんなことはどうでもよいと思う気持ちと、早瀬と一緒であるという嬉しさのお蔦さんのなかでの複雑な絡み合いが梅の香りに乘ってゆらゆらしている。それがわかれ話となり、障子紙と刷毛が落ち、それが当り前のそれも、思い立って障子はりをしてみようと思ったお蔦の日常は無くなってしまうことと重なるのである。

台詞のひとつひとつが重なり、真砂町の先生がいなければ今の早瀬は存在しない訳で、その先生の言いつけならと身をひくところの意気地は、悲しくも人の道として通すことになる。

そして病気で助からない時に、髪を島田に結って早瀬を待つという意気地。この時代の玄人さんの意地の張り方にみえる。本当はこういう女性はいないのであろうが、存在させてしまうのが役者さんである。生きる世界が狭い人達である。だからこそ無意識な意気地の張り方で自分の足場を築くすべを探りあてるのである。その無意識の意気地が悲しくもあり、切なくもあり、美しくもあるのである。

いそうもないが、いたであろうと納得する。

映画『忍ぶ川』(熊井啓監督)が深川、洲崎がでてくるということで、観なおした。主人公哲郎(加藤剛)は、青森出身の慶応の学生であるが、二人の兄が失踪し二人の姉が自殺しており、子供心に死は恥として植えつけられる。そしていつも、自分も恥と考える死に、引っ張られるのではないかという疑念にさいなまれている。自分の大学の学費を出す為に深川の木場で働いて兄が失踪してから、彼はよく木場を訪ね、恋人の志乃(栗原小巻)もつれてくる。

志乃は大学の寮のちかくの料理屋<忍ぶ川>に住み込みで働く娘で、彼女は自分の生まれて戦争になる12歳まで暮らしていた洲崎を案内する。志乃は洲崎の射的屋の娘で、父は<射的屋のセンセイ>と呼ばれ、お女郎さんの相談にものるような人であったが、今は疎開先の栃木で病気となっている。母は亡くなり、彼女の仕送りと上の弟の稼ぎで、父と下の弟と妹との生活をみている。

志乃は自分の生まれたところが、どういうところかを哲郎に見ておいてて欲しかったと同時に、世間からみるとだらしない父かもしれないが、タガが外れずに今生きていけるのは、この父のお蔭であるというおもいも伝えたかった。そして、この地で筋を通して生き、この地で育ったことを恥ずかしいとは思わぬ自分を見て貰いたいと思って居る。

さらに、それを判ってくれた哲郎を父がどうみるか、父の死の間際に志乃は彼を父に合わせるのである。父は納得してくれる。

志乃は玄人の悲しみを子供心にしっている。それを知っているゆえに自分が自分の踏み止まるべき位置をくいしばって維持している。そんな時に哲郎に出会うのである。

その志乃をみて哲郎も、自分の家族の恥を全てを話すことができ、兄や姉だったらこうしたであろうと思われる行動とは反対の行動を選んでいくのである。

映画『忍ぶ川』は三浦哲郎さんが芥川賞をとった小説の映画化で、三浦さん自身の事を題材としていて、過酷な環境に負けない生き方を美しく描いている。

『婦系図』の真砂町の先生はお蔦にあやまるが、先生には意気地というものが判らなかったのである。意気地を張ろうにも張れないもっと悲しい世界をしっている志乃の父は、絶対にゆるんでもタガをはずすなということを教える。そう理解するだけの意志を志乃は身につけていた。

意気地など無く、通用しない世の中でもあるからこそ、今も舞台では生きていけるかもしれない。しかし意志は、ますます必要な時代ともいえる。

 

 新橋演舞場『二月喜劇名作公演』

『二月喜劇名作公演』は、松竹新喜劇と新派の競演で、そこに、中村梅雀さん、古手川祐子さん、山村紅葉さん、丹羽貞仁さんらが加わるという構成員である

鏑木清方さんは<築地川>を次のように書いている。

「築地川といふのは本も末もない掘割の一つで、佃の入江にさしこむ潮は、寒橋、明石橋の下を潜って、新道路にかかる入船橋、続いて新富座の横を流れ、流れ流れて、新橋演舞場の脇で二つに分れ、一筋は本願寺の横、今の魚河岸に沿うて、元の佃の入江に出て、一筋は浜離宮から芝浦の海へ出る。」

佃となると芝居では<新派>を思い描く。<新派>となると<築地川>と同様にその芝居は埋もれた部分が多く、見えない部分を想像で補う必要がある。新派の場合は今の新派から、新派が盛んであった時代の役者さんを通じての時代性へさらに芝居の時代性へと三ステップほど飛んでもどってきて味わうという事になる。

松竹新喜劇も一代前のハードルはあるわけであるが、言葉や風景の違いから想像を置いておき、芝居の筋で楽しむということになる。

新派が参加して利ありとおもったのは、「じゅんさいはん」で、旅館の女将の水谷八重子さんが登場したときである。当然髪型は丸髷である。じゅんさいはんとは箸でつかまえられないない食べ物から、なんともはっきりしない捉えどころがないところからきた呼び方である。そのことは登場前にわかっている。登場したその丸髷姿がなんとも<じゅんさいはん>の女将さんを現している。なぜ丸髷にとらわれたかというと、映画『おとうと』で姉の岸恵子さんが、結核で助からぬ弟からたのまれて島田を結ってあらわれるのである。髪型でその立場が判る時代なのである。

それが今回は髪型とその出で立ちでふわっと空気を変えたのである。

実権は姑(大津峯子)が握っていて、当然息子はぼんぼん(渋谷天外)である。そこに40数年つとめている姑の片腕の仲居頭(波野久里子)がいる。

沢山の仲居や板前などもいる旅館の様子がいい。そのわさわさしている中での役者さんたちの動きが自然である。このあたりが松竹新喜劇の台詞と新派の動きがしっくりとからみあい思いがけない事実が判明してゆく。

「単身赴任はトンチンシャン」は、中村梅雀さんのしどころである。舅(曾我廼家文童)には銀行員と思われている男(梅雀)が実は神楽坂の男衆である。父に事実を知られないように娘(波野久里子)は、自分の夫は銀行員で、弟が男衆であるということにする。そこで、男衆と銀行員の梅雀さんの早変わりとなる。神楽坂である。神楽坂ならではの料亭の主人(高田次郎)、板前(丹羽貞仁)、新派の女優陣の芸者さんたちの協力の活躍となる。このあたりも神楽坂という場所設定を舞台に繰り広げる新派の力がある。新派に力があるというよりも、今、新派にしかそれがないといえるであろう。そこを、新派がこらえてこれからどう活躍してくれるかということでもある。

「名代 きつねずし」は、松竹新喜劇ならではの笑わせて泣かせる人情喜劇である。年齢的に人生に少しくたびれた寿司屋の主人(渋谷天外)に恋人(石原舞子)ができる。がんばりもの娘(古手川祐子)は、銀行から融資を受けて昔のように大阪の南に店を移そうとしている。その親子の行き違いを周囲の松竹新喜劇の役者さんに山村紅葉さんを加えて、こてこての大阪庶民を映し出している。私の知っている大阪の庶民はこてこてではなく、堅実派なのでよくわからないのであるが、舞台となるとこうなるようで、こてこてのてんてこまいが見せ所でもある。

狭い路地、花街、旅館の内輪という設定で時間を現代ではない過去にずらして、その当時の人々の悲喜交々を現代にどう映し出すのかが松竹新喜劇にとっても、新派にとっても劇団の課題である。ああ面白かっただけではすまされないそれぞれが培ってきた土壌というべきものがあるから。

町自体が消えていっている。川も姿を隠して見えない。そんな中で、舞台で消えた川の流れがみえたり、ある時代の路地裏がのぞけたりできれば、のぞきからくりをのぞくそれぞれの共有感がよみがえるかもしれない。懐かしむために構築するのではなく、その時代を自分のものにするために構築するのである。

はっとするような時代との出会いを期待しているのである。

 

「名代 きつねずし」(作・舘直志/演出・米田亘) 「単身赴任はチントンシャン」(作・茂林寺文福/補綴・成瀬芳一/演出・門前光三) 「じゅんさいはん」(作・花登筐/演出・成瀬芳一) 出演・曾我廼家寛太郎、曾我廼家八十吉、藤山扇治郎、瀬戸摩純、小泉まち子、佐堂克実、村岡ミヨ、矢野淳子、鴫原桂、川上彌生、久藤和子、山口竜央、鈴木章生

映画『長屋紳士録』と『日本の悲劇』

築地川から縁続きで小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』と木下恵介監督の『日本の悲劇』につながる。

『長屋紳士録』と『日本の悲劇』は戦後の親子の関係がえがかれていてなんとなく対になってしまった。もうひとつは音楽である。音楽といえるのかどうかわからないが、『長屋紳士録』はのぞきからくりの口上で、『日本の悲劇』は流行歌である。

『長屋紳士録』は、長屋に一人の少年の出現によって波風がたつ。路上占いを仕事にしている笠智衆さんが、九段で父にはぐれたという少年がついてくるので仕方なく連れて帰ったがどうしようかということになり、金物屋のおたね・飯田蝶子さんが一晩泊めることとなる。

この少年次の朝には布団に大きな地図を作ってしまい、干した布団の前である。おたねさんはうちわではやく乾かすようにと少年に渡すそのうちわがぼろぼろで、おたねさんの怖い顔とあいまって可笑しさがおこる。

みんな困ったすえ、少年がここにくる以前に住んでいた茅ヶ崎に行ってみたらということになる。当たりばかりのひもくじをおたねさんは最初にひき、貧乏くじをひいたと文句をいいつつ茅ヶ崎にいくが、父親はおらず受け入れてもらえない。

おたねさんは、少年に、お前は父親に捨てられたのだと決めつける。

長屋では長屋うちの集まりがあり、染め物師の坂本武さんがその長に選ばられたようである。そこの息子がくじに当たってそのお金で大人たちは一杯やるのであるが、そこで笠智衆さんがのぞきからくりの口上をやる。皆お茶碗に箸で拍子をとるのであるがそれが面白いし、笠さんが上手である。本物を聞いたことがないが、そうであろうと思わせる調子のよさである。『不如帰』である。お金を勝手に使われむくれていた子供も一緒になって調子をとっている。それほど、のぞきからくりの口上というものが、庶民のお気に入りだったのである。ここで長屋の住人は一つ和みをえるのである。

次の日少年はねしょんべんをしていなくなる。心配になるおたねさん。探すときにも築地本願寺が映り、川では魚つりの人もいる。築地川である。

少年はまた笠さんに連れられて戻ってくる。九段へ行っていたのである。おたねさんは少年に情が移り動物園にいき写真屋で写真までうつすが、少年の父がむかえに来る。喜ぶおたねさん。自分の心の動きをおもいやり反省もして、どこかに引き取るような子供はいないかと長屋の紳士たちに尋ねると上野の西郷さんの銅像あたりが良い方角だと教えてくれる。その場所が映される。多くの戦争孤児の子がたむろしている。そこで映画は終わる。おたねさんが上野へ行ったのかどうかもわからない。おたねさんが行ったとしたらどうおもうかもわからない。

長屋のおたねさんによって、戦争孤児とならずに、少年が無事親と再会できたことはたしかである。長屋の紳士たちもそれとなく助けたことになるのであろう。

『日本の悲劇』は、戦争未亡人(望月優子)が、幼い姉(桂木洋子)と弟(田浦正巳)を親戚に預けて闇屋をし、さらに熱海であろうとおもわれるが料理屋で中居をしつつ酔客の相手もして子供を育てるのである。子供を育てるため体を許したこともあり、子供だけが自分の生き方を認めてくれる存在と思っているが、子供は子供で、母のいない生活で母には言えない苦労をしていた。いつしか母と子供の間に世の中を見る目が違っていた。

医科大に通わせてもらった弟は、自分では到底できない開業医の養子になることにする。姉はこの母の娘である以上普通の結婚などできないと判断し、自分の過去からの逃避もあり妻子ある英語塾の先生(上原謙)と駆け落ちをしてしまう。

いづれ、子供たちが立派に社会人となり、母の苦労をねぎらってもらえると思っていた母は、さらなるお金を手にしようと相場に手をだし失敗し、電車に飛び込んでしまう。

映画の最初の場面で、流しの演歌師(佐田啓二)が『湯の町エレジー』を歌っている。料理屋の二階座敷に声をかける。そのとき呼んでくれたのがこの母であった。そしてつらいことがあったとき、自分のためだけに『湯の町エレジー』を歌ってくれといい、お母さんを大事にしなさいといってお金を渡してくれる。

もう一人短気な板前がいて、母はこの板前(高橋貞二)にも意見する。板前は反発するが、この母がどんなに苦労して子供の成長を楽しみにしていたか知っているので、この母が亡くなったと知ると演歌師に『湯の町エレジー』を歌わせ、、しみじみといい人だったと語りあうのである。肉親ではなく他人に母は偲んでもらうのである。この映画では三人の思いのつながる『湯の町エレジー』であるが、それぞれの聞く情感はまた別のところにある。

このあたりが長屋という一つの共同体にいる人々と流れ者同士として情を交わすのとは違う趣である。真ん中にのぞきからくりの口上を長くもってきた小津監督。始め、中、最後と『湯の町エレジー』をもってきた木下監督。それぞれの構成上の計算がうかがえる。

話しはそれるが、そういえば小津監督と木下監督はお二人で、佐田啓二さんの結婚式で仲人をされている。

さてさて築地川であるが、今その姿を見れるのは、浜離宮恩賜庭の大手門口にかかる大手門橋から東京湾に流れる姿である。これが築地川とは知らなかったので見に行った。なるほどである。東京湾に出る手前に水上バス発着所がある。水上バスに乘るのもいいな。

 

浜離宮恩賜庭園は菜の花が咲いていた。

隅田川から鎌倉そして築地川(2)

鎌倉国宝館には、鎌倉時代を代表する仏像が、数は少ないが至近距離で対峙させてもらえる。十二神将立像などは、初めまして!じっーと見つめますが恋心が生じるかどうかは疑問で、作者の運慶さんに傾くかもしれませんとお声かけできる距離である。

薬師三尊の周りを守る十二神将の間には、木像の五輪塔があって実朝の墓らしく秦野の畑の中にあったそうだ。

鎌倉国宝館の前には実朝歌碑があった。「山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」 実朝の死で頼朝の血は途絶えてしまう。

鶴岡八幡宮の参道の両側に源平池がある。頼朝夫人政子が平家滅亡を願い作らせたといわれる。東の池が源氏池で三島を配し、西の池平氏池には四島を配した。三は<産>、四は<死>である。

<肉筆浮世絵>のほうは、「当流遊色絵巻」(奥村政信)で、禿がのぞきからくりをのぞいている姿がありおかしかった。それは、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』を思い出したからである。

絵師・懐月堂安度の解説に江島生島事件に連座とあり、どういう関係であったのかと気になる。作品は「美人立姿図」である。

やはり圧巻なのは葛飾北斎さんである。「桜に鷲図」の鷲の威風堂々たる姿には圧倒された。その足の爪がしっかり桜の枝を掴んでいる。どこかの国で試験的に、飛んでいる違法のドローンを鷲がそれこそわしづかみにし、部屋の角にたたきつける方法をやっていた。鷲の爪はドローンのプロペラなど全然平気だそうだが、北斎さんの絵の鷲が誇張でないのがわかった。それだけ威力ある爪なのである。

「雪中張飛図」、三国志の張飛が雪の中で右手には槍を、左手には編み笠を高くかかげ顔は空を見上げ、足はひいた左足に45度の角度で右足。三度笠のきまった形である。ところが、お腹は前にせりだし、衣服は異国風のあざやかな模様である。形の決まった大きな役者張飛である。

黒い三味線箱に酔って物思いのていでよりかかる「酔余美人」。大黒さんが大きな大根になにか書きつけている「大黒に大根図」。

あの汚なくて暗い長屋で描いたとは思えない。やはり天才ゆえか。しかし、お得意さんに頼まれて、その立派な部屋で画いてこともあったであろうなどと想像する。

歌川広重の「高輪の雪」「両国の月」「御殿山の花図」の3幅もよかった。

満足して、『川喜多映画記念館』へ。ここでは「映画が恋した世界の文学」がテーマで、関連の映画ポスターがびっしり展示されていた。予告編映像もあり、「汚れなき悪戯」のマルセリーナ坊やが相変わらず天使の笑顔。映画関連の本を虫食い状態であれこれ読む。

時計の針のまわりが早いので重い腰をあげ、『鏑木清方記念美術館』。

「清方芸術の起源」。明治時代の庶民の暮らしを描いたっ作品《朝夕安居》が中心である。巻き絵になっていて、芸人さんの玄関さきから裏の長屋の人々の生活へと移って行くが、玄関の軒灯の紋で芸人の家とわかるらしい。

井戸の水を木おけで運ぶ女性の姿は、その重さがわかる描き方である。戸板を二枚横に十字に立てて行水をつかう女性。永井荷風さんの『すみだ川』にも出てくる。「それらの家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあった。」「大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆したようにそのまま歩調を早める。」お気の毒に、清方さんの絵の女性は美しい。

ランプのそうじをする女性。百日紅の木の下で煙管をくわえる風鈴屋。麦湯の屋台を取り囲む縁台に夕涼みの人々。なんとも古きよき時代の風情である。

清方さんは、16歳のころ挿絵画家として出発する。そして、会場芸術、床の間芸術に対し、卓上芸術を唱える。卓上にて愉しむ芸術である。《朝夕安居》もその一つである。

清方さんは幼少から挿絵画家時代築地川流域ですごしている。そのころの人々の様子を描いたのが「築地川」の画集である。その一部も展示され、展示ケースの下の引き出しを開けるとさらに作品を鑑賞できる。

外国人居留地であった明石町であそぶ外国人のこどもたち。築地川にかかる橋で夕涼みする浴衣の女性。佃島からいわしを担いで船に乗るいわしうり。船で生活する少女が河岸から船に渡した板の上を渡る。築地橋そばの新富座。

鎌倉で築地川に会うとは思っていなかった。ほとんど埋められてしまった川である。

記念館のかたに作品「築地川」の資料がないかたずねたところ、収蔵品図録があった。「卓上芸術編(一)明治・大正期」「卓上芸術品(二)昭和期」

二冊で超お買い得であった。文がまた興味深い。葛飾北斎さんの「隅田川両岸一覧」にふれ、自分もこの両岸を写して見たいとも書かれている。描かれたのかどうかは調べていない。

清方さんの絵が、幸田文さんの『ふるさと隅田川』や永井荷風さんの『すみだ川』に書かれている市井の人々の姿とも重なり楽しかった。

書いていたらきりがないので終わりにするが、面白い事に、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』は築地川そばの長屋が舞台である。そこにもつながるとは、鎌倉がとりもつ縁であろうか。