『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)から歌舞伎へ

今年の年始めの読書は、テレビドラマの『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』から澤田瞳子さんの著書『若冲』でしたので、師走は澤田瞳子さんの『星落ちて、なお』で締めることと致します。

川鍋暁斎の娘・とよ(暁翠)が父の死後、父との関係を思いめぐらします。とよは、5歳の時に父から絵の手本を渡され絵師の道を歩みます。兄・周三郎(暁雲)は、実母が亡くなり、後妻として入ったとよの母がきたため他家へ養子に出ますが、十七歳で実家にもどり、そこから絵師の修行に入ります。

周三郎は、父の葬儀のことなども皆とよにまかせてしまいます。とよは、弟子の鹿島清兵衛と真野八十吉に助けられながら葬儀を終わらせます。そして父と自分は親子というよりも父が自分を弟子としてしか接しなかったことを回顧します。

周三郎は、父はとよを葛飾北斎の娘・応為のようにそばにおいて手伝わせるために絵を習わせたといいます。周三郎は、とよに絵ではお前なんぞという態度をとりとよを傷つけますが、それは自分ととよしか川鍋暁斎の絵を継ぐ者はいないのだという想いからでもあったのです。

とよは自分の母によって養子にだされたことを周三郎が恨んでいるのかともおもったのですが、後々、自分も兄と同じ想いであることに気がつきます。

暁斎は次第に古い画家として隅っこにやられ、200人いた弟子たちもいつしか離れていってしまいます。時代はあの狩野派に私淑したことを忘れて新しい絵の流れへと進んでいました。

とよはいいます。「そりゃ確かに、親父どのはどんな流派の絵でも描きました。でも、その根っこにあったのはやはり狩野の絵なんだと、あたしは思いますよ。」

とよは結婚し娘をさずかりますが、娘にはあえて絵を教えませんでした。自分と同じ道は歩ませたくないとの想いでした。挿絵などを描いていたとよはしっかり父の絵に対峙し自分の絵を描かねばと離婚し、父を見送った根岸金杉村の家にもどります。改めて絵の道へと進むのです。

明治維新から四十年余りたち、画壇を席巻していたのは橋本雅邦、横山大観といった画人でした。基は狩野派で学んでいましたがその名を表にだすことはありませんでした。真野八十吉の息子・八十五郎も絵師となりましたがやはりとよの想いとは違う画風でした。

周三郎は父の絵から離れず、かといって父を越えられないことを承知の上での道を進みます。そして周三郎は暁斎そっくりの絵を描きながら父を愛しみ憎しみもがきながら亡くなっていきます。その生き方がとよにやっとわかるのです。父の絵の基本までにも到達できない自分と兄は川鍋家の中で同じ闘いをしていたのです。

それでもとよは兄と同じ道をあゆみます。兄の死後、川鍋暁斎を継ぐのは自分しかいないのだと、その孤独感に戦慄しつつ心にきめるのです。

とよは、薄暗い画室をながめ、かつて確かにここに輝いていた星の残映であったことをおもうのでした。

川鍋家の絵の継承を基本軸に、とよと大きくかかわった鹿島清兵衛と真野八十吉の家族の確執なども描かれています。

興味ひかれたのは鹿島清兵衛でした。新川の下り酒屋百軒余りを束ねる大店・鹿島屋の養子となり、八代目鹿島清兵衛をついだ人物です。生まれは、大阪・天満の鹿島屋の分家でした。清兵衛は暁斎の弟子として二年ほど絵を習い、その後パトロンでもありました。暁斎が亡くなり独り身のとよは暁斎の申し出により、深川佐賀町にある加島家の先々代の隠居所へ引っ越します。

新川は幸田文さんが新川のお酒問屋の息子と結婚していたのでかなり前から新川とお酒はつながっていましたが場所はしりませんでした。行徳河岸のそばでした。さらに深川の佐賀町を調べました。

下記の地図は、「江戸東京再発見コンソーシアム」主催の舟めぐり「神田川コース」のときにいただいた地図です。古地図の上に現在の地図がかぶさって古地図と比較できます。

三ツ股も書かれています。朱色の線が小名木川で黄色が行徳河岸で、新川には酒問屋が並んでいたのでしょう。緑の丸あたりが佐賀町です。

現在は埋め立てられていますが、小網町、新川、佐賀などの町名は残っています。

残念ですが「江戸東京再発見コンソーシアム」での舟めぐりは再開しておりません。そのため、小名木川は「下町探検クルーズ・ガレオン」を利用しました。スカイツリーや日本橋から【東京のクルーズ】を楽しむならガレオン (galleon.jp)

さて鹿島清兵衛ですが、商売の腕もありましたが様々な趣味もあり、その中でも写真にのめり込み木挽町5丁目には写真館『玄鹿館』も開き写真大尽ともいわれました。写真の発展には相当寄与しています。しかし放蕩が高じ新橋の芸者・ぽん太を落籍し、ついには養子先の鹿島家から放逐されてしまいます。とよの前に時々現れその時々の様子が描かれています。最後は能の笛方となり、ぽん太は最後まで添い遂げました。

森鴎外の『百物語』の中にもでてきます。主人公は知人に勧められ百物語の会に出席します。その会の主宰者が今紀文(いまきぶん)と評判の飾磨屋でした。この飾磨屋のモデルが鹿島清兵衛です。その隣に芸者が座っています。主人公は清兵衛と芸者を観察し「病人と看護婦のようだ」と思います。さらに女性がこれから捧げる犠牲の大きくなるのを察知します。

主人公は自分を生まれながらの傍観者としています。飾磨屋は途中から傍観者になった人だと感じます。主人公は途中で先に帰りその後の飾磨屋の様子を聞き結論づけます。「傍観者と云うものは、矢張多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った。」

そうした新しいものへの時代の流れのなかで、とよは暁斎は狩野派であると主張します。狩野派での厳しい修行時代があり基礎ができているからこそどんな絵を描こうとゆるぎないのだということでしょう。

ジョナサン・コンドル著『川鍋暁斎』によると、最初の師である歌川国芳は戦さの絵があれば実際のけんかを観て描けとおしえます。狩野派ではひたすら狩野派の巨匠の絵を模写することでした。ここで自分の個性を消して目と手で頭に蓄積していったのでしょう。

コンドルは書いています。「西洋画の写生はただ一編の詩を読んでそれを後で引用することができるという程度、それに対し日本画の写生は詩集全体を記憶してそのすべてをそらんじることができる。」

ここまでのことで、歌舞伎の身体表現について思い当たったのです。歌舞伎座12月の三部『信濃路紅葉鬼揃(しなのじもみじのおにぞろい)』がどうとらえていいのかわからなかったのです。入り込めないし何か拒否反応が起こるのです。鬼女たち(橋之助、福之助、歌之助、左近、吉太朗)の身体表現が魅了させるほどの出来上がりでなかったのではと思い当たったのです。玉三郎さんとの差がありすぎるのと、玉三郎さんにただついていっているだけで若さのオーラも感じられなかったのです。

筋書で見ましたら2007年の歌舞伎座での鬼女が門之助さん、吉弥さん、笑也さん、笑三郎さん、春猿さんでした。登場したとき赤く染まった紅葉だと思えたのです。

そして納得しました。まだ歌舞伎の身体能力が途中なのだと。山神の松緑さんで沈んだ気持ちが挽回するかなと期待しました。高まりまでにはいたりませんが平常にはもどりました。鬼女たちの毛振りの中で動く七之助さんの美しさが際立っていたのが救いでした。これって維茂が主役なのかなと思ってしまい七之助さんいいとこ取りをしていました。

その前の『吉野山』では今まで観た吉野山とは違っていてお雛様の形もなく、静御前の踊りの見せ場が多く、静御前も積極的で、静御前を守る家臣忠信よりも狐忠信を感じさせました。最後も花道ではなく本舞台での狐の振りがなおそう思わせたのかもしれません。松緑さんと七之助さんの踊りをたっぷり堪能し期待しただけにその期待との落差の淵にはまってしまった感じでした。

観劇した日が早かったからかもしれません。歌舞伎の身体表現はやはり時間がかかるということを改めて感じさせられたのです。

周三郎ととよの闘いも同じですし、暁斎の模写して模写して自分の手のうちにし発信するという行為は歌舞伎の身体表現も同じと思えました。

一か月の舞台経験が身体に蓄積され、詩集の素敵な部分を自由に出し入れできる日がくることでしょう。

玉三郎さん、カルガモのお母さんのようで神経も使われて大変なのではなどと余計なことまで考えてしまいました。

最後まで勝手なことを言いまして面目次第もございません。

穏やかな年越しでありますように。そしてささやかでも希望の持てる新しい年でありますようにと願うばかりです。他力本願に思いを込めて祈ることもつけくわえておきます。

すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(3)

小名木川クローバー橋を後ろにしての水門橋。その下には横十間川親水公園の水上アスレチックがありました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5275-1024x576.jpg

次の三島橋の下を進みます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5282-1024x576.jpg

いよいよ岩井橋となります。が、工事中でした。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5284-1024x576.jpg

南側はまだのようです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5286-1024x576.jpg
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5288-2-1024x648.jpg

さてどうしてここらあたりを隠亡堀というのでしょう。

江戸時代火葬は市街地が形成されるにつれ、各寺院の境内の一角に荼毘所(だびしょ)や火屋(ひや)があったようですが江戸の街が大きくなるにつれ火葬場も郊外に移転し火葬専門の施設が生まれました。五つあったので、江戸五三昧(ざんまい)といわれました。(『江戸・東京の「謎」を歩く』より)その場所は諸説あるようです。

下記の葬儀社による江戸時代の火葬場の歴史では、岩井橋近くの砂村新田阿弥陀堂荼毘所が江戸五三昧に入っていたとしています。別名で隠坊堀炮烙(ほうろく)新田ともよばれていたとありその後のことも紹介されています。

設立前の歴史 (tokyohakuzen.co.jp)

江戸・東京の「謎」を歩く』(竹内正浩著)の<第六話 火葬場三百年史>では江戸五三昧は小塚原、千駄木、桐ケ谷、渋谷、炮烙新田とあり、岩井橋の近くに火葬場があったことは確かなようです。南北さんが<隠亡堀>での戸板返しを考えたのは、江戸の人々の共通の認識場所をえらんで仕掛けたのではないでしょうか。さらにきちんと荼毘にふさなかったお岩さんの怨念がここまで流れ着いたとしたのかもしれません。

南北さんは、芝居ファンへのサービスが旺盛で色々な意味を重ねてきます。でも今はそんな場所ということなど想像できない場所に変わっています。南北さんの選んだ場所に立てて、南北さんの頭の中がさらに少し見えたような気分にさせてくれました。

本では、上記葬儀社のことも書かれていて、偶然検索して見つけたところと重なって驚きました。こちらは現実的な火葬の問題から火葬場移転、運営の話にまで触れています。

『江戸・東京の「謎」を歩く』ではスカイツリーの面白いことも紹介しています。それは幕末に活躍した歌川国芳さんが東京スカイツリーを予言した錦絵を描いていたというものです。『東都三ツ股の図』。三ツ股とは隅田川と小名木川との合流地点のことだそうです。

歌川国芳「東都三ツ股の図」

「右手に永代橋と漁船が舫(もや)う佃島を描写し、正面左手には小名木川に深川万年橋が架かる。たぶん箱崎(日本橋箱崎町)あたりから隅田川ごしに深川方面を望んだものであろう。」

左は火の見櫓(やぐら)で右は「実は井戸掘りの櫓と見られている。」としていますが、それにしては高すぎるとしながら、筆者は解けない謎としています。

永代橋の右端に突き出ているものはなんでしょうね。それにしても三ツ股の塔はスカイツリーによく似ています。不思議な塔です。

歌川国芳を最初の師とした川鍋暁斎の娘さんが主人公の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)を読み終わったばかりで、国芳さんの出現にまたまた「来ましたか」と思いうれしくなりました。

さて歩きのほうは、ラストはテレビで時々紹介される砂町銀座へ。道をよくしらべていなかったので人に聞きつつ行き、どの道を進んだのかわかりません。突然商店街の路地があらわれたという感じでした。地下鉄や電車の駅からこんなに離れた商店街は初めてです。

商店街の道幅が狭いので左右のお店の品物が歩きつつ見えて、何の気兼ねもいらない日常が感じられる砂町銀座です。想像していたよりも商店街は長かったです。帰りは地下鉄都営新宿線西大島駅へ。途中で小名木川にかかっている進開橋を渡りました。プチ旅も大いに満足し終わりとなります。

追記: 砂町銀座商店街

追記2: 砂町銀座の映像はないのかなと探したら『孤独のグルメ』がでてきました。きっちり観たことがなかったのですが物語性もあるのですね。主人公は仕事の途中で砂町銀座商店街であさりめしとおでんやお惣菜を購入し、事務所でこれからしなくてはならない仕事前に食すのです。お惣菜などとの出会いと食べたときの感想に引き込まれました。砂町銀座の様子もほんわりです。

 

すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(2)

朱色が小名木川で「塩の道」の隅田川から旧中川までです。旧中川の空色の丸は「旧中川 川の駅」とあり、ここに江東区中川船番所史料館があり舟の関所の様子がわかります。小名木川と交差している黄色の横十間川。緑が北十間川で隅田川から旧中川までです。

ピンク丸が地下鉄の住吉駅で東京メトロ(営団地下鉄)と都営地下鉄がつながっています。住吉駅から猿江恩賜公園をはさむ新大橋通りを進んで本村橋を渡ります。

東岸はテラスが整備されていますが、西岸はこれからです。東日本大震災、オリンピックで中断となっていたのですが再開されたのだそうです。舟に乗ったときに聞きました。

後ろを振り返るとスカイツリーが何処へ行くのと言っています。

舟から多数の釣り人を見かけましたがきちんと約束事があるのです。黄色は釣り可能、赤は釣り禁止。今日は釣り人はいません。舟のときは休日だったからですね。

大島橋は太陽が反射して写真は写りが悪いので、次の四つの方向に渡れる小名木川クローバー橋。ここで横十間川小名木川が交差しています。

切絵図には三つの橋が架かっています。

朱丸は小名木川に架かる新高橋で矢印の方向に隅田川があります。黄色丸が猿江橋。緑丸が扇橋。空色丸は舟台所と読めますが、船番所です。「小名木川を航行する船を改めた番所。小名木川は、家康が行徳の塩を運ぶために造った川だが、時代が下ると生活物資などを運ぶために利用され、番所が設置されるようになった。」と説明にあります。

小名木川中川が合流するところにも船番所ありましたが、そちらの方が長く役目をしていたようです。

クローバー橋から東を見ての小名木川です。奥の三角三つの橋は小岩駅と越中島貨物駅を結ぶ貨物車専用線の橋梁です。

ではさらに進みます。

すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(1)

浅草から隅田川吾妻橋を渡り、東京スカイツリーへ行ってすみだリバーウォークを知りました。一つ年内に済ませておきたいことがありました。

東海道四谷怪談』のお岩さんの戸板が流されて着いた「戸板返しの場」の場所が横十間川岩井橋あたりとのことで一度は訪ねようとおもっていました。十八代目勘三郎さんも訪ねていて芝居の場所とは思えない場所に変化していたと書かれています。

小名木川をお岩さんがそのまま流されていれば中川に流れてしまうので途中小名木川の横十間川と交差するところで横十間川に入っていったわけです。

南北さんが芝居の位置関係を調べ、当時の江戸の人々にも想像のゆく設定にしていくのを楽しんで書かれていたのでしょう。あの黒船稲荷神社の位置で考えておられたわけですが、この辺りまで歩かれたようにも思います。

NHK・Eテレ『にっぽんの芸能』で『菊宴月白波』にも「小名木川隠家の場」というのがでてきまして、さすが南北さん黒船のご隠居様ですねとおもいました。

さて浅草の隅田川沿いに東武スカイツリーラインの鉄橋をめざし、すみだリバーウォークへの階段を上ります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5232-3-569x1024.jpg

スカイツリー目指して進みます。

隅田川。左手には言問橋。右手は先日渡った吾妻橋です。吾妻橋の後方に見えるアーチが駒形橋です。

終わり際に、右手前方に水門が。源森川水門。水害が起こらないためにも水門は重要です。隅田川から北十間川に入る場所です。源森川水門ということは源森川があったということでしょうか。水門の前方に枕橋がみえました。

すみだリバーウォークが終了した前の道路が墨堤通り。「鬼平情景」の案内板。<枕橋 さなだや>。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5239-2-1024x576.jpg

枕橋というのは江戸時代は源森川に渡る源森橋(源兵衛橋)でした。鬼平の中にはその北詰にある蕎麦屋「さなだや」が一緒に数多くでてきます。「蛇の眼」では、平蔵は「さなだや」であった男をつけると大盗・蛇の平十郎で源兵衛橋に潜り込み逃げられます。鬼平番外編『にっぽん怪盗伝』(「正月四日の客」)では「さなだや」の亭主と客のやりとりが好いとあります。

墨堤通りを渡ると前に隅田公園。右手の東武スカイツリーラインの高架線下にミズマチのショップが始まっています。

テラスの横に北十間川があり、これがのびて旧中川にぶつかります。枕橋からみたスカイツリーと北十間川。枕橋については次の源森橋のところで説明します。

源森橋とその由来の碑。

さてここで旧源森橋(枕橋)と現源森橋について説明します。黄色丸が源森川水門。朱丸が枕橋(元源森橋)。青丸が隅田公園(元水戸下屋敷)。現在地が源森橋。ピンク丸が小梅橋。

切絵図で考えますと、源森橋(朱丸)は水戸家下屋敷に引き込まれていた水路に架かる新小梅橋(朱丸)とが夫婦が枕を並べているようすに見えることから枕橋と呼ぶようになり、明治になり正式に枕橋となりました。水戸家下屋敷の水路は埋め立てられ橋もなくなりました。そこで東にある橋を源森橋としたのだそうです。水色丸の橋と思います。

ここを流れる川が源森川だったと思うのです。青丸は業平橋で下が大横川。

茶丸は埋め立て地で源森川をさえぎり、大横川に流れをかえたという話があります。今は北十間川がさえぎるものもなくのびています。今の小梅橋はあたらしくこの近くに小梅村があったので命名したのではと想像しています。全て勝手な思い込みですのであしからず。

ただ時代劇小説で源森橋が出てきたとき現在の源森橋とは思わないようにご用心。

ミズマチの高架線下には途中に宿泊施設もありカフェは一般客も使えるようです。

小梅橋。

ここまでくるとミズマチも終わりです。味気ない道を通りスカイツリーへと進みソラマチ広場へ。ここから営団地下鉄半蔵門線の押上駅から住吉駅へいきます。スカイツリーから岩井橋までは距離的に歩きが無理なので、横十間川沿いから岩井橋までは途中を地下鉄にしました。

黄色丸がスカイツリーで朱色が岩井橋です。北十間川の途中から直角に横十間川がのびています。

隅田川の吾妻橋から東京スカイツリーへ

すでに終わってしまったのですが、「すみだリバーサイドホールギャラリー」で『2021年度第41回 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展』があるということで浅草から吾妻橋を渡って訪ねました。

トップページ.png

吾妻橋を渡ったところに「鬼平情景」の案内板が吾妻橋と鬼平のつながりの解説をしていました。

吾妻橋(大川橋)は江戸時代、隅田川に両国橋、新大橋、永代橋に次いで四番目に架けられた橋です。長谷川平蔵が29歳のときで、町人が幕府に願い出て架かったのです。正式名は大川橋で、吾妻神社の参道でもあるのでまたまた願いが出され吾妻橋となったのは明治になってからです。鬼平犯科帳でもたびたび登場し、その中でも人気なのは「大川の隠居」とかかれています。

伝統文化ポーラ賞を受賞された個人と地域です。

優秀賞 武腰 潤 色絵磁器の伝承・制作 (石川県) 杵屋 勝彦 長唄の伝承・振興 (東京)

奨励賞 四代 田辺 竹雲斎 竹工芸の伝承・制作 (大阪) 新内 多賀太夫 新内節の伝承・振興 (東京)

地域賞 浦川 太八 アイヌ木工芸の伝承・制作 (北海道) 秋保の田植踊保存会 田植踊の保存・伝承 (宮城) 瀬戸本業窯 瀬戸焼の制作・伝承 (愛知) 犬飼農村舞台保存会 襖からくりと地芝居の保存・伝承 (徳島)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: IMG_20211216_201151-2-1024x581.jpg

詳しくは下記で。

本年度の受賞者 | 伝統文化ポーラ賞 | 顕彰と助成 | 公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団 (polaculture.or.jp)

フライヤーの表の写真となっている「秋保の田植踊」は下記で動画もどうぞ。

秋保教育文化振興会 (akiuzaidan.com)

​「襖からくり」は、過去にサントリー地域文化賞も受賞しています。こちらも言葉よりも映像がわかりやすいと思います。

サントリー地域文化賞 徳島県 徳島市『犬飼農村舞台保存会』 2分 サントリーチャンネル サントリーCM・動画ポータルサイト (suntory.co.jp)

日本の伝統文化はまだまだ知られていないものがたくさんありますし、進化もしています。

さてそこから戻るのも面白みがないとスカイツリーめざして歩くことにしました。スカイツリーはあまり興味がなかったのです。下はお店がたくさんあって疲れるだけの印象でした。

「塩の道」でスカイツリーそばから出ている舟に乗ったりしているうちに、江戸時代に開削された堀川が残っていて、スカイツリーができてその周辺が整備され、人々が釣りをしたりウォーキングをしたりしている様子から、ムサシ君(スカイツリー)が好きになりました。勝手に<ムサシ君>と呼びたくなっただけで深い意味はありません。自分の中ではムサシ君と呼んでいます。

浅草通りにでないで脇の細い道をいきましたが、面白いものも見つけられませんでしたので浅草通りへ出ましたら「なりひらばし」にぶつかりました。

東武橋の上からすみだ水族館スカイツリーを撮り、下は北十間川です。

下の図の赤丸がおしなり橋でしてそこの下が舟の発着所になっています。ここから二つのコースの舟に乗りまして一応「小名木川」は隅田川と中川の間を舟で移動することができました。その話は「塩の道」のときにします。

案内看板に東京ミズマチとありましたので、隅田川に戻る感じで向きを変えました。東武スカイツリーラインの高架線の下にショップができていました。秋葉原の高架線下と同じような雰囲気でしたのでなるほどとまたスカイツリーを目指してもどりましたが、このまま進めばすみだリバーウォークにつながり隅田川を渡って浅草にもどれたのです。残念でした。次の機会にします。

追記: 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展で展示されていた一部の作品を紹介します。ピントが合ってなくてすみません。

武腰潤さんの 色絵磁器

四代 田辺竹雲斎さんの 竹工芸  

瀬戸本業窯 瀬戸焼

東京国立博物館「浅草寺のみほとけ」

浅草寺の仏像で公開の機会が少ない13件17体を観るためにトーハクへ。12月19日までなので間に合いました。本館14室です。人が少なかったので本館入ってすぐの正面の階段が撮れました。テレビドラマ『半沢直樹』や多くの映像で活躍している場所です。

仏像の写真は撮っても黒くなってしまい残念と思っていましたら、受付で解説書があるということでいただきました。これに12像が載っていましてお顔もはっきりしていまして嬉しく、じっとながめています。

比叡山中興の祖・慈恵大師(良源)座像。険しいお顔です。右隣は、角大師座像です。疫病の神を退けた際に自身も鬼の姿に変化されたといわれていて、その姿を角大師(つのだいし)と呼ばれ、護符などの魔除けとして信仰を集めたのです。

10室ー1では、「浮世絵と衣装 江戸(衣装)」。

火事装束(かじしょうぞく) 猩々緋羅紗地波鯉千鳥模様(しょうじょうらしゃじなみこいちどりもよう)。(『江戸の華』とよばれるほど火事が多かった江戸。江戸屋敷に在住する大名家では、男女を問わず、鍛冶に備えて火事装束を調えました。舶来品の鮮やかな毛織物に刺繍で模様を施し、火事場とは思えない華やかさです。防火ににちなみ、波や龍など、水にかかわる模様が好まれました。)それにしても派手ですね。

赤穂浪士が火事装束を用意しても、討ち入りのために用意したとはさぐられなくて済んだのかもしれません。火事のために多めに用意しているのだろうぐらいに思われたのかも。

10室ー2では、「浮世絵と衣装 江戸(浮世絵)」。

「仮名手本忠臣蔵」の浮世絵で葛飾北斎さんをはじめ有名な絵師の初段から十一段まで一枚づつ二通りの浮世絵が展示されていました。葛飾北斎さんの初段には富士山がきちんと描かれていました。五段目はもちろん工夫した斧定九郎が描かれています。中村仲蔵さんもまさか後々まで残るとはおもっていなかったでしょうね。「仮名手本忠臣蔵」の浮世絵は12月25日までです。

12月歌舞伎座『新版 伊達の十役』(5)

1986年の『伊達の十役』の映像から八汐の上方の型を紹介しておきます。

八汐が千松ののど元に懐刀を刺します。そしてえぐります。さらに懐から鏡を出して懐刀の頭をたたくのです。驚きました。そこに解説が入り、めずらしい上方の型だといわれました。初めて見ました。八汐は三代目實川延若さんです。

懐刀の持ち手の先で、そこを右手で持った懐鏡で打つのです。もちろん千松は苦しがります。そして、八汐はその鏡を開いて、左後ろの政岡をのぞき見るのです。

見られているのがわかった政岡は解いていた懐刀の紐を締め直すのです。ここが一つの見どころでもありますが、この型のほうが政岡が紐を巻くきっかけがつかみやすいようにも思えました。紐を巻いて懐刀をぐっと収めることによってさらに感情の起伏をおさえるのです。そのきっかけをどのあたりに持ってくるかがしどころの計算のいるところです。

政岡の感情の流れの母として若君に仕える者としての葛藤の比重は、役者さんによって違うと思いますが、くどきとのバランスからがありますので今回の当代猿之助さんは良かったと思います。

子役さんのセリフが一本調子でおかしく感じた方もいるでしょうが、これが古典歌舞伎の子役さんのセリフの言い方なのです。最初はこれはなにと思いますが、慣れてくるとこのほうが可憐におもえてくるのですから不思議です。

この奥殿の場で様式美的で好きなのが、八汐が千松を手にかけたとき局の沖の井と松島が、懐刀に手をかけ抗議して打掛を翻して横向きになるところです。くるっとそろって向きを変えます。きましたとおもいます。

この『伊達の十役』は『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』を基にしてます。『新版 伊達の十役』もそこを大切にしました。奥殿(御殿)の場では有名な「飯炊き(ままたき)」があります。政岡は警戒を自分でご飯を炊いて若君に差し上げるのです。茶道具を使って炊きます。これがまた政岡の見せどころなわけです。今回はありませんし、やったりやらなかったりです。

2019年8月納涼歌舞伎で、『伽羅先代萩』がかかり七之助さんが初役で政岡で「飯炊き」もされました。七之助さんの政岡は芯の強さが透けて見えるような感じでこれまたよかったです。勘太郎(千松)さんと長三郎(鶴千代)さんも長いのによく頑張っていました。仁木弾正と八汐が幸四郎さんで、巳之助さんが荒獅子男之助した。あの頃はまさか喜多さんの政岡と二木弾正らを観ることになるなど予想だにしていませんでした。

これからも予想のつかない若手の活躍が一層必要とされています。皆さん覚悟はかなりありそうです。

DVDの竹本は葵太夫さんで、いかに伝統芸能というものの芸の山道が長いかが思い致されます。

12月歌舞伎座『新版 伊達の十役』(4)

早変わりは高尾太夫の霊が現れる所から忙しくなります。高尾太夫の霊は妹の(かさね)にのりうつり与右衛門に殺されます。はやわざにどうなっているのとおもわれることでしょう。当然影武者がいるのですが、その役者さんも動きが綺麗で、猿之助さんだと思って鑑賞してもいいくらいでした。

とくれば『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)~かさね』の幸四郎さんとの累を思い出しどうするのか期待するところですが、『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)~かさね』と『伊達の十役』の累とはもとの設定が違うのでさらりとかわされました。さすが思い切りが良いです。

いよいよ渡辺外記左衛門と民部之助親子が仁木弾正の悪事を問注所で裁いてもらい勝訴します。負けた仁木弾正は外記左衛門を待ち伏せして切りつけるという場面があるところですが、今回はそこはなく、民部之介が仁木弾正を見事に討つのです。

民部之介は門之助さんで、巨大なネズミと対峙します。いくら若い民部之介の門之助さんでも巨大ネズミには勝てません。ではどうして勝てたのかといいますと、与右衛門の生血は仁木弾正の術を破る条件がそろっていて、与右衛門は自刃し、その刀をネズミに投げつけます。巨大ネズミから仁木弾正が現れ、民部之介が討つのです。

これで八汐、仁木弾正は討たれました。では栄御前はといいますと足利家の乗っ取りはできなくなります。

細川勝元が現れ、鶴千代に家督相続の許しがでた書状が外記左衛門の寿猿さんに渡されるのです。これで、めでたし、めでたしです。

1986年の『伊達の十役』と十役が一つ違っています。それは、赤松満祐がなくて三浦屋女房が入っているのです。

赤松満祐は仁木弾正の父で、赤松家に伝わる旧鼠の術を弾正に授けるのです。その場面はないので、三浦屋女房にしたのでしょう。

三浦屋女房は、高尾太夫をかかえている廓・三浦屋の女房なわけです。そこへ、頼兼がやってきます。頼兼の履物が、高価な香木の伽羅(きゃら)でできているのです。三浦屋女房はその履物をお盆にのせて大事にあつかうのです。その場もありませんし、頼兼が姿をあらわしてもそのまま連れ去られますし、伽羅の下駄はどこじゃです。

しっかり三浦屋女房が盆にのせてでてきました。伽羅の下駄を猿之助さんが自分でもってこられたのですから、こうくるのかと参りましたような次第です。

無い無い尽くしでありながら充分に満足させてくれた『新版 伊達の十役』です。

もう少し『伊達の十役』のほうに触れますと、赤松満祐は野ざらしのロクロとなっているのですがその眼には鎌が刺さっているのです。この鎌が重要な役割を果たし累も鎌で殺されるのです。この赤松満祐がでてこないのですから鎌もなしとなります。しかしきちんと話は出来上がっています。

それから京潟姫が登場します。鶴千代の母は亡くなっていて、そのため乳母の政岡が鶴千代を守っているのです。京潟姫は頼兼の新たな許嫁なのです。演じているのが先代の門之助さんです。息子さんが局でお父さんがお姫様です。歌舞伎の面白いところです。親子で恋人になったりもしますし、考えてみれば不思議な世界です。女形の芸があるからでしょう。

時代の流れの中で培われてきたわけで、『新版 伊達の十役』が出来上がったのも時代の流れの一つの産物です。

それにしても、今回、何かまだ仕掛けがみえないところで仕組まれているような気がします。考えすぎでしょうか。第六感でしょうか。

12月歌舞伎座『新版 伊達の十役』(3)

栄御前の夫は管領で将軍の次の位なのです。その人が下されたお菓子を千松は食べてお菓子箱を蹴散らすのですから、許される行為ではありません。毒を仕掛けておいてそれが発覚する前に千松ののどを八汐は刺すのですが、千松の無礼な態度として八汐の行為はゆるされてしまいます。

政岡は千松の様子を見れば毒が入っていたのはわかります。とにかく若君の命は助かったのですから下手な抵抗はせずにじっと耐える政岡の猿之助さん。難癖をつける機会を狙うように、千松ののどを懐刀でえぐる八汐の巳之助さん。じっと見つめている栄御前。

弱々し気に声を上げる千松の右近(市川)さん。誰も手出しができません。ついに千松は息絶えます。母と子の忠義は完結します。忠義にはいつも犠牲が伴います。

千松と二人になったとき、政岡の嘆きのくどきがはじまります。竹本は葵太夫さんで、三味線は鶴澤宏太郎さん。猿之助さんのくどきは三味線にのっていました。現代の演劇からすると大げさでおかしいと思うかもしれませんが、これが義太夫狂言の見せ場で、この独特のリズムに乗せた演技で観客の心をゆさぶるしかけなのです。

鶴千代の松本幸一郎さんも、千松の右近さんも行儀よく務められました。顔のつくりもよかったです。右近さんはじっとしているのは大変でしょうが、竹本と猿之助さんのセリフを毎日耳にすることでどこかに蓄積され、いつか何かにつながるかもしれません。

さて後半は「間書東路不器用(ちょっとがきあずまのふつつか)」となり清元となります。

よく考えたと思います。お家騒動の原因でもある、足利頼兼が寵愛した高尾太夫は亡くなっているのです。それをおしえてくれるのが大阪から来た尼僧の猿弥さんと弘太郎さんです。大磯で高尾の墓参りをしようとしているのです。そこに飛ぶのかと笑ってしまいました。このお二人は、尼僧の弥次さんと喜多さんです。

猿弥さんは『図夢歌舞伎 忠臣蔵』で口上をしているのですが、息の長いのに気が付きました。どこで息継ぎしているのかわからないところがあります。なめらかな弁舌はそれも関係しているのでしょうか。

弘太郎さんは珍しい女形ですが、もう少し世間一般の女形を次に期待します。

頼兼は花道で駕籠から姿を現しますが時間がありませんので駕籠から出ないで弾正一味に連れ去られます。ではあの伽羅の履物はとなります。それを三浦屋女房が届けようとしていたときネズミの若武者の玉太郎さんが現れるのです。それが平塚花水橋です。またまたでました。

そうそう頼兼が姿を見せた場所は鴫立沢で西行さんが「心なき身にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕暮」と詠んだ場所です。

江の島の弁財天前での道哲の猿之助さんの踊りには魅了されます。尼僧の妙珍と妙林は道哲に弁当を盗まれたのですが、同じ僧だからと許します。まったくのんきなおふたりですが、このややこしい人間関係の中に出てきて気分転換をしてくれるのですから不思議な力の持ち主さんたちです。

ところが祈りのほうは手を抜いたのか、高尾太夫のお墓にお参りしてくれたようですが、高尾太夫は成仏できずに亡霊となってあらわれるのです。

12月歌舞伎座『新版 伊達の十役』(2)

とにかくチームワークがいいです。安心して観ていられました。

普通であれば幕開きは腰元たちがいて状況を説明しつつ会話をするということでしょうが、短縮ですので局・沖の井の笑也さんと局・松島の笑三郎さんが座られていて、一気に事の重大さを感じさせ二人の心構えもみせてくれます。

そうした中での猿之助さんの政岡の登場。きりっとしています。

1986年には右團次(右近)さんと笑也さんはともに高尾付きの新造でした。小米時代の門之助さんが沖の井で先代の門之助さんと共演されているという珍しい舞台映像です。松島が錦之助さんで信二郎時代です。見間違いでなければ笑三郎さんが腰元で出られています。

腰元ですが、栄御前がお見舞いに来たことを告げるのが腰元・澄の江の玉太郎さん。政岡に皆に知らせるようにと言われ舞台を横切りますが、いい姿と動きです。お姫様役では解らなかった女形のうごきです。

米吉さん、新悟さん、玉太郎さんのリレーインスタライブで、米吉さん、新悟さんは澄の江を経験済みで奥殿は特殊な状況なのですごく緊張したと言われていました。新悟さんが腰元の立場で演じるようにと教えられたそうで、そのことが頭にありました。

腰元は本来、状況にすぐ対応できる立場にいるわけです。そのリアルさ、心構え、敏捷さなど、その場その場で臨機応変に美しく表現できる身体能力が必要とするわけです。だからといってわさわさしていては美しくありません。注目してしまいました。

長刀を持った時の緊張感とその形など。笑野さんの長刀の構えが美しかったです。友人は栄御前についてお菓子をもってきた腰元がよかったといっていました。どなたでしょうか。

玉太郎さんはネズミもやっております。ネズミが化けた若衆姿で三浦屋の女房の猿之助さんと踊ります。猿之助さんと対でこんなに軽やかに踊れることに驚きました。三浦屋女房のゆとりにどちらが遊ばれているのかわからない雰囲気で観ているほうを愉しませてくれました。ネズミさんの着物の文字にもご注目。

着ぐるみのネズミさんの動きも抜群でした。いつもは荒獅子男之助がネズミを踏み押さえているのですが、今回は松ヶ枝節之助でした。初めて聞く役なんです。男之助よりも若々しくきらびやかで猿之助さんにあっていました。文楽では松ヶ枝節之助のようです。

吉右衛門さんが本(『物語リ』)のなかでとんぼのことを書かれていて、30歳すぎまでよくとんぼをやっていたそうです。着ぐるみをかぶってネズミになったことも書かれています。おじさんである十七代目勘三郎さんの舞踏『鳥羽絵(とばえ)』にネズミで出たとき、頭までかぶると頭が重く高くなり、とんぼを切るのが難しいので、顔は出してお化粧をして出たそうです。

今回のネズミさんはそんな難しさを感じさせない動きで、猿之助さんの出番までの楽しい時間を作ってくれました。このネズミの動きで、巨大ネズミとなるのが納得いきます。それぐらいのことはやりそうです。

このネズミさんはどなただったのでしょうか。先月の間者さんかな。先月のとんぼをきる瞬間見逃しているのです。歌昇さんと尾上右近さんの演技に気をとられていて、猿之助さんが当身か何かをしてやっつけるのであろうと思いましたが、立ち上がって消える姿をチラッとみましたがとんぼはみれませんでした。女形でのとんぼです。見逃して残念。

さて栄御前は中車さんです。出に貫禄があります。希望を言えば舞台に上がって客席に向って立つときもう半呼吸じっと立っていただきたかった。歌舞伎の衣装は格を出してくれる役目もしてくれます。裾が富士山のように美しく開いていてその白が立つ人の大きさをあらわしてもくれるのです。そういうものまでも利用することによってより効果を生みます。

お菓子を拒む政岡との対決は面白かったです。栄御前は自分の権力を知っている底意地の悪い典型です。

一方巳之助さんの八汐の憎々しさは、もろに表面にだせる役どころです。仁木弾正の妹だけあります。忠義な千松の市川右近さんがかわいそうでした。それがお芝居のねらいですが。

追記: 玉太郎さんのインスタで、ネズミの着ぐるみの役者さんが判明。尾上まつ虫さんでした。名コンビ!! 名変身かな。