浅草散策と映画(4)

  • 映画『お嬢さん社長』は1954年(昭和29年)、映画『東京暗黒街 竹の家』は1955年(昭和30年)公開である。『東京暗黒街 竹の家』は、アメリカの20世紀フックスが、映画『情無用の街』(1948年)の場所を日本に置き換えてリメイクしたものである。撮影の前後はわからないが、公開は『お嬢さん社長』のほうが『東京暗黒街 竹の家』より先なのに、浅草国際劇場の正面の雰囲気が『東京暗黒街 竹の家』のほうがやぼったく、幟があったりしてごちゃごちゃしている。日本に対して感覚がずれている映画の一つで、着物や住宅の中も何処なのという感じである。室内などは、アメリカのセットで撮られたのであろうし、変なアクセントをしゃべる日本人が出てくる。ただ、ロケは、その時代の浅草、銀座、鎌倉、横浜港、山梨などの貴重な映像となっている。

 

  • 映画『『東京暗黒街 竹の家』(監督・サミュエル・フラー)は、米軍警察の捜査官がアメリカ人の犯罪組織に潜入するというもので、『情無用の街』は、実際にあった第一次大戦後のギャングとFBIの対決を脚色したドキュメンタリータッチのギャング映画ということで後日見るが、こちらのほうが面白そうである。先ず、映像の中心に富士山がありその手前を蒸気機関車が走る。この軍用列車から、ピストルなどが強奪されるのである。犯罪組織の一人が重態の状態で拘束され死亡する。この男の妻が組織には内緒のマリコ(山口俶子)で、捜査官(ロバート・スタック)は死んだ男と友人であった男エディになりすまし、マリコに近づき、さらに犯罪組織の仲間となる。ボス(ロバート・ライアン)は、エディを信用する。

 

  • エディがマリコを探しに行くのが浅草国際劇場である。踊子たちが屋上で練習をしている。時計がみえるので、この屋上は銀座あたりのビルかもしれない。マリコは踊子のようであるが、身の危険を感じて自宅に逃げかえる。舟で生活している人もいる。川本三郎さんの『銀幕の東京』(浅草)によると、佃島で、当時、水に浮かぶようようにして木造の小さな家が並んでいて、題名の「竹の家」はそこから付けられているとある。ロケの映像はそのままであろうが、室内ははてなである。それは置いておき、組織からは、マリコはエディの恋人とみられ、二人は、ボスの家に住まうことになる。しかし、エディが裏切者であり捜査官であることが判明。

 

  • 危うく殺されるところを助かった捜査官とボスの銃撃戦がはじまる。ここが、見どころの一番である。ボスは浅草松屋の屋上の遊園地に逃げ込み、ボスはスカイクルーザーに乗るのである。スカイクルーザーとは土星の形をした大観覧車で、輪の部分にベンチがぐるっとあってそこに人が座り、輪の部分は一回りするようになっていてぐるっと360度、下の風景を観覧できるのである。二人の攻防を見つつ、スカイクルーザーから観える景色も追うのである。隅田川が見える。どうも浅草寺らしい建物と赤い仲見世らしきものがみえるが、本堂は空襲で焼けて1958年に再建している。形は出来上がっていたのであろう。五重塔は1973年再建であるから何もない。スカイクルーザーがなければ、この映画の面白味はないといえる。

 

  • 最初の富士山と蒸気機関車の映像は、現在の富士急行線の富士吉田駅と河口湖駅の間にわざわざ蒸気機関車を走らせたそうで、この線は乗っていないので是非乗る機会をつくりたい。楽しみがふえた。早川雪洲さんも警部役で出演している。

 

  • 映画『お嬢さん社長』は、美空ひばりさんが、16歳で社長になり、唄う場面も豊富にあるという川島雄三監督の映画である。川島監督は 「お正月映画で、美空ひばりさんでやった、唯一のものです。ひばりちゃんが、少女であるか、女としてお色気を出していいか、高村潔所長と話しあい、「少女の段階でやってくれ」 といわれたのを、覚えています。」といわれている。喜劇としているが、母恋い物の雰囲気を残している。ひばりさんの歌う場面は時代の流れを上手く捉えて挿入している。女としてのお色気をだすとすれば川島監督がどうみせたのかも見たかったです。

 

  • 製菓会社社長の孫のマドカ(美空ひばり)は、死んだ母が歌劇団のスターでもあり歌手になりたいとおもっている。浅草の歌劇団のファンでもあり、スターの江川滝子と行動を共にし、舞台ぎりぎりに劇場に送り届ける。その場所が浅草国際劇場である。劇場の舞台監督・秋山(佐田啓二)からマドカは叱責をうける。秋山に謝るためお菓子をもって、浅草稲荷横丁をたずねる。その住民の中に、太鼓持ちをしている母の父、マドカのもう一人の祖父も住んでいた。どうもマドカの亡き父母には、哀しい事情があったようである。社長の祖父が病気のため、マドカは急きょ社長になる。会社には、会社を乗っ取ろうとする動きがあり、それを食い止めてくれたのが、太鼓持ちの祖父であり稲荷横丁の住民であった。

 

  • 社長のマドカは、社内を明るくするため屋上でコーラスの指導をする。森永の広告塔が見え、マドカも秋山の友人でデザイナーの並木(大坂志郎)の案で広告塔をつくる計画を立て、宣伝のために自らテレビに出て歌うのである。この歌う場面になるとひばりさん、お嬢さん社長から美空ひばりの貫禄になるのが面白い。音楽は万城目正さんである。テレビのCM放送が1953年ということで、川島監督しっかり時代に合わせて会社経営も考えている。しかし、乗っ取り一団の策略でまどかは社長を降り、会社も危ない状態となる。それに加担していた、浅草の親分が、テレビのマドカの母を想う歌が好きで、悪事をやめてくれ、会社の危機はすくわれ、マドカも歌手として浅草国際劇場で歌うことになる。

 

  • 川島雄三監督、しっかり浅草の当時の面影も残しておいてくれる。マドカが、水上バスで浅草に着く。今の吾妻橋のところである。この水上バスは浅草から両国、浜離宮方面に向かうのである。その案内アナウンスをしているのが、稲荷横丁の娘さんである。親分を探して太鼓持ち・三八(桂小金治)と歩くマドカが立ち止まった夕暮れの隅田川の対岸には、松屋の屋上のスカイクルーザーがみえる。この映画の数年後、浅草国際劇場でひばりさんは、ファンから塩酸をかけられるという事件にあっている。色々なことを見て来た国際劇場も今はホテルとなっている。
  • 出演者/市川小太夫、坂本武、桜むつ子、小園蓉子、有島一郎、多々良純、月丘夢路

 

  • このホテルの近くにSKDの団員さんが、よく行かれたという喫茶店『シルクロード』がある。外見も古くなってしまったが、当時はおしゃれであったであろうと思えるし、若い劇団員やスターが、狭いドアをくぐってくつろぎにきたのが想像できる。時代を感じる色紙や写真があり、プログラムもあったので見せてもらったが、小月冴子さんくらいしか名前がわからない。お一人、甲斐京子さんは、新派や商業演劇でも活躍されているのでわかった。喫茶店は、地元の方たちの、もう一つのお茶の間という感じでくつろがれている。浅草寺中心の喧騒から離れたこういうお店と出会えるのも浅草ならではである。着物の姿の若い女性やカップルも多く、京都などに比べると気楽に楽しんでいて敷居が低い。

 

  • 松屋の屋上のスカイクルーザーの前にあったのが、ロープウェイの航空艇で、そのころの浅草を舞台にした映画は以前書いている。 映画『乙女ごころ三人姉妹』

 

  • 作曲家の木下忠司さんが、4月に亡くなられていました。木下恵介監督の弟さんでもあり、映画大好きの人間にとっては、これも、これも、これもと思わせられるほど多くの映画音楽を手掛けておられ楽しませてもらいました。時代劇テレビドラマ『水戸黄門』の主題歌もそうです。100歳の時、浜松市の木下恵介記念館でのお元気な写真があり、102歳での大往生ということです。(合掌)

 

国立劇場 前進座『人間万事金世中』

  • 河竹黙阿弥作『人間万事金世中』は、明治12年の初演である。芝居名からしても、金が全ての世の中で、明治も10年たちその世相を皮肉っているのかもしれない。士族商法といわれ、武士を捨て商売をしても失敗し悲惨なおもいをしている黙阿弥さんの作品もある。『人間万事金世中』は、商売が上手くいくが、相場というリスクの大きなものが出現してそれに手をだしてしまう。さらなる儲けという欲にかられてしまうのである。そんな時代に翻弄されつつも若い世代は、しっかり物事を見ていてくれた人々に助けられるというお話である。

 

  • 恵府林之助は、父が瀬戸物問屋をやっていて米相場に手を出し破産し、父母も亡くなり伯父の辺見勢左衛門に引き取られてる。勢左衛門は横浜で船着問屋をしていて、その妻・おらんも娘・おしなも家族そろってお金第一主義である。おしなの結婚条件は、お金のある人である。そんな家であるから林之助はタダ働き同然の下男あつかいである。もうひとり、おらんの姪のおくらも両親がなく下女として働いている。おくらの父は生糸の仲買人だったが、蚕種紙(たねがみ・さんしゅし)の相場に失敗している。(蚕種紙とは、紙に蚕の卵を産み付けたものである) 場所が東京ではなく横浜で家主は差配人とよばれ、後の弁護士を代言人とよび、明治を思わせる。

 

  • 林之助には、さらに二人の伯父がおり、長崎で資産家となっている伯父・門戸藤右衛門が危篤の知らせがあったが、ついに亡くなり後継ぎがいないため遺言状をもって手代が訪ねて来る。親戚一同の前でもう一人の伯父・毛織五郎右衛門が遺言状を読み上げる。その結果、林之助には思いがけない遺産が譲渡される。遺産を元手にして林之助は横浜の元町で陶器問屋を開くことにし、明日開店である。ほんのわずかしか遺産の貰えなかった勢左衛門一家はおしなを林之助と結婚させようと乗り込んでくる。ところが、林之助の父が借金をしていた相場師の宇津蔵が代言人を連れてあらわれる。林之助は父の借金を返すためお店をさしだし、ふたたび裸一貫となる。それを知るとまた背中を向ける勢左衛門一家であった。

 

  • 途方に暮れていた林之助を助けたのは、おくらだった。彼女もおらんの身内で身寄りがないので勢左衛門一家よりも多額の遺産金を受け取り、伯父・五郎右衛門にあずけていたのである。それを使ってくれとわたす。さらにおくらは、林之助を育ててくれた貧しい乳母に名前を告げずお金を渡していたのです。この林之助とおくらの波戸場脇海岸の場は、新派の舞台をおもわせる場面で、この10年あとに出てくる「新派」という劇団の成立の動向をみるようである。やはり、歌舞伎の散切り物の庶民性が影響を与えていると思う。芝居のほうは宇津蔵があらわれ、五郎右衛門の手紙を渡す。五郎右衛門は林之助とおくらのお金の使い方を確かめていたのである。

 

  • 林之助の手に店が戻り再び開店させ結婚すると聞いた勢左衛門一家は、あわてて押し掛ける。林之助の結婚相手はおくらであった。これからも親戚づきあいをという勢左衛門一家に林之助はもちろんですと答える。これが黙阿弥さんの芝居なのという感じであるが、この芝居は、イギリスの作品が元にある。では黙阿弥さんの七五調はとなると、相場師の宇津蔵の台詞に生かされている。そして、宇津蔵についてきた代言人は実は落語家であった。林之助の乳母は外国人の洗濯をして生計をたてていたが病気になり、その孫は、辻占い昆布(おみくじの札板が付いていて板昆布ともいう)を売り歩いていて、このあたりも明治の横浜元町の庶民の生活がでている。こうした今は無い生活の知識は筋書から教えてもらった。

 

  • 筋書からもう少しお借りすると、『人間万事金世中』の翻案は、イギリスの人気作家リットンの戯曲『マネー(金)』で黙阿弥さんは、福地桜痴さんから梗概を聞いてこの作品となったのである。新富座で明治12年(1879年)に初演された出演役者さんは次の通りである。林之助(五世尾上菊五郎)、おくら(八世岩井半四郎)、五郎右衛門(九世市川團十郎)、勢左衛門(三世中村仲蔵)、雅羅田臼右衛門(初世市川團右衛門)、おらん(二世中村鶴蔵)、おしな(五世市川小団次)、宇津蔵(初世市川左団次)。遺言状を読む五郎右衛門の團十郎さんは、中幕で『勧進帳』の弁慶を演じられ朗々とした読みが重なり、趣向をこらしていたのです。 <「『人間万事金世中』をめぐって」・原道生>より。

 

  • 前進座公演での配役。林之助(河原崎國太郎)、おくら(忠村臣弥)、五郎右衛門(武井茂)、勢左衛門(藤川矢之輔)、臼右衛門(益城宏)、おらん(山崎辰三郎)、おしな(玉浦有之祐)、宇津蔵(嵐芳三郎)で、臼右衛門は、親類の一人で欲のかたまりである。おくら、おしなは、若手で抜擢された役者さんで成長著しい。勢左衛門一家に欲に対する団結。さらにその中に会っても個人の欲の追求。その中で耐えに耐える林之助とおくら。しっかり見ていた五郎右衛門。あざやかに役目を果たす宇津蔵。それぞれの役どころが押さえられ、歌舞伎の身体で黙阿弥をできるのは前進座の強みで、あまり上演されることのないこの作品を観ることができよかった。

 

  • 原本では、宇津蔵の借金の取り立ては狂言で、そのことを林之助は知っているが、そこを今回は本当の取り立てに変更している。そのことで、林之助の親の借金は無一文になっても返すという心意気がでて、それだからこそ見ていてくれた人の情けがより伝わった。黙阿弥さんは、勢左衛門一家を懲らしめるほうに持っていったのかもしれない。そこを、今回は若い者たちの成長とし、人情喜劇としている。江戸から明治を経験した黙阿弥さんの時代の流れに対する想いは迷路なので、そこは踏み込まないことにする。いつか踏み込めるとよいのだが。

 

  • 筋書に芝居の<ゆかりの地めぐり>も載っていてそれを参考に横浜を歩きたくなる。六月歌舞伎座に黙阿弥さんの『野晒悟助(のざらしごすけ)』が上演される。これも記憶にないので愉しみである。

 

映画『モリのいる場所』 『横山大観展』

  • 映画『モリのいる場所』は、画家の熊谷守一さんの94歳のときの一日を映画化したものである。この方を映像化するのは、変に誇張したり、間延びしたりで期待しつつも、まあ全てを受け入れましょうと観た。熊谷守一さんを壊すことなく描かれていて、熊谷守一さんの生活を楽しませてもらった。熊谷守一(山崎努)さんの日常をささえる秀子夫人(樹木希林)がこれまたいいのである。熊谷さんの作品との出会いは、白洲正子さんの武相荘の日本間の床の間にかけられた、「ほとけさま」と書かれた掛け軸である。文字だけで、なんの宗教心もなく手を合わせたくなる静かで暖かいオーラがあった。名前が熊谷守一とあり、書家なのであろうと思ったら画家であった。

 

  • 絵の前に立っているのであろう。じっと見つめる人がいる。誰であろう。かなり年輩であるが、画家か美術評論家かとみていると「この絵は幾つくらいの子供が画いた絵ですか。」とたずねられる。昭和天皇(林与一)である。横写しになるとそれが鮮明になる。そうなのである。子供のようであって子供ではない絵なのである。守一さんは、30年自宅から外へ出ていない。一度だけ出たことがあるがすぐ引き返してしまう。庭の樹々、花、虫、魚、アリ、石などを飽きることなく観察してお昼寝して自分の想い通りに時間を埋めている。映画の中で一つ気にかかったのはこの庭を歩くときの音楽である。少し軽快で音がきつすぎると感じた。楽しい気分を表しているのかもしれないが、個人的には違うなとここだけ思った。

 

  • 世捨て人ではなく、世の中の動きから身を引いていて、人と話す時は真摯に自分の想っていることをわかりやすく答えるのである。それが、ずばりで、楽しくて、可笑しくて、しごくもっとで、深いのである。文化勲章も「これ以上人がきて、ばあさんが疲れては困るから」と断るのである。秀子さんが、守一さんの流れに逆らわないが、守一さんが「生まれ変わったらどうする」と聞くと、「わたしはもういいです。疲れますから。」と答え、守一さんは少しがっかりしたようでもあるが「おれは、また生きたい。生きるのが好きだ。」と。このあたりが絶妙である。「あなた、学校へ行く時間ですよ。」「学校がなければいいんだが。」といって画室に入っていく。どちらに流されているのかわからなくなる。

 

  • 新聞に連載された「私の履歴書」が本になっている。『へたも絵のうち』は、とても読みやすくて明解にかかれている。そこには熊谷守一さんの平坦ではない人生があり、42歳で結婚されてからも、絵でご飯を食べれるようになったのが、57歳ころからで、ここから94歳になって穏やかな日常生活のルールが確立されたお二人の、いや特に秀子夫人の葛藤が大変であったことが想像できる。家のこと、来客、仕事のことなど、すべて秀子さんが守一さんとの間に入って上手く回らせているのである。秀子さん76歳。文化勲章より秀子さんが元気でいてくれることのほうが大事であることがわかります。家事を手伝う美恵(池谷のぶえ)ちゃんは、この熊谷家のルールにすっぽりはまっていて、それでいながら時々外の空気を吸って来るのが元気の秘訣らしい。この家に来る人は、皆、この夫婦のペースに呑み込まれてしまう。
  • 監督・脚本・沖田修一/音楽・牛尾憲輔/出演・加瀬亮、吉村界人、光石研、青木崇高、吹越満、きたろう、三上博史

 

  • 東京国立近代美術館で、『没後40年 熊谷守一 生きるよろこび』があったが、期間が長いと気を許していたら行く機会を逸してしまったので、『生誕150年 横山大観展』は早々と行った。作品を時代順に並べられると、やはり画家の挑戦していく過程がわかり、こんなことを考えながら模索していたのかと新しい発見があり、挑戦のたびに違う横山大観さんの情熱が見えて、大御所であるのに、身近に感じられる。ハレー彗星を描いた「彗星」などをみると、興味の対象を日本画に取り入れようとする革新性と自由さが感じらる。熊谷守一さんも「絵は才能ですか」と聴かれて「いや経験ですよ」と答えられている。観察して探って探って何かを探り当てていく。線であったり、色であったり、ぼかしであったり、構図であったり、主題であったり。そのどれもが、無限なのでしょう。横山大観展、もう一回観たいのだが・・・

 

歌舞伎座 5月團菊祭 『弁天娘女男白浪』『鬼一法眼三略巻 菊畑』『喜撰』

  • 弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』は、團十郎さん亡き後、五年間團菊祭をけん引されてきた菊五郎さんの心意気の演目に思える。何の力も入れずに観ていられる浜松屋の場の弁天小僧菊之助である。相棒の南郷力丸は左團次さんで、菊五郎さんとの息も、あ・うんの呼吸である。出も引っ込みも、ゆすりも手はずもいつものことよ、あとは駄右衛門さんに任せたよ。受けた日本駄右衛門の玉島逸当の海老蔵さん、出ずっぱりの昼の部より、精神的にはこたえる役である。動かないでその大きさを伝えなければならず時間と経験でしょうか。渋さはありました。まずは、その舞台の空気を吸える経験を持てることは幸せなことです。

 

  • 鳶頭清次は松也さんで、台詞の強弱、押しも加わる。父上の松助さんは、上手い役者さんで少ない出にもその役の雰囲気をすーっと出せる役者さんで、役に対しては真摯さが見受けられた。菊五郎劇団にはこうした役者さんや立ち回りの役者さんが揃い世話物を支えて来られた。小さい方では、寺嶋眞秀さんが、間の良さで丁稚長松を。お茶を出す間、草履をそろえる間など邪魔にならず流れに乗っている。控えめの番頭与五郎(橘太郎)、浜松屋の主人幸兵衛(團蔵)なども、浜松屋の場を安定させ、菊五郎さんの弁天小僧菊之助の啖呵を際立たせる。

 

  • 稲瀬川勢揃いは、忠信利平に松緑さん、赤星十三郎に菊之助さんが加わり、捕り手に追われているのに名乗りの渡り台詞を格好くきめるのが、歌舞伎のシュールなところで絵にしてしまう。極楽寺の屋根の上での豪快な立ち回りがあり弁天小僧菊之助は駄右衛門に託し切腹。しかし、日本駄右衛門もついに青砥藤綱の梅玉さんの手にかかるのであるが、最後は、これまた派手に山門が上がり上の駄右衛門と下の青砥藤綱との見得でチョンである。ここは、石川五右衛門の経験もあり、海老蔵さん大きく決めました。

 

  • 河竹黙阿弥さんの作品では、国立劇場で前進座が散切りものの『人間万事金世中』(22日まで)を上演している。『白波五人男』を書いて、幕末、明治を体験した黙阿弥さんが、16年後には翻訳物を元に脚色した人情喜劇にしたてている。黙阿弥さんの違う面が見れる作品である。

 

  • 鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき) 菊畑』。『菊畑』は難しい演目である。実は何々であるを知っていた方が、人物のかけひきや内面の動きを見過ごさなくて済む。少しひょうきんさんもある知恵内という奴が、他の使用人から呑気にしていないで働け、そうしないと湛海(たんかい)さまにしかられるぞと言われる。知恵内は、何をいっているのだ俺の御主人様は鬼一法眼さまだという。湛海は、鬼一の娘の皆鶴姫の許婿である。鬼一は菊づくりを楽しみ、そのため見事な菊畑なのである。それゆえ知恵内は主人のための庭の手入れもなかなかである。主人の鬼一が現れる。この人は平清盛に仕えている。鬼一は知恵内に自分には鬼次郎と鬼三太の幼い頃別れた弟がいると告げる。実は知恵内は、鬼三太で鬼一が兄であることを分かっている。

 

  • 鬼一も知恵内の様子からもしやと思い始める。そのあたりの二人のやり取りが見せ場でもある。知恵内とともに仕える奴の虎蔵が使いから帰ってくる。虎蔵は、皆鶴姫の供として清盛館に行っていたが、姫から先に帰り父に伝言を知らせよと一人返されたが、鬼一は何で一人帰ってきたのかと怒り、知恵内に杖で虎蔵を打つように命じる。知恵内は打つことが出来ない。そこへ皆鶴姫が帰って来てとりなし、さらに湛海もやってくる。鬼一は、奥へと湛海を案内し姫も連れて行く。誰もいなくなって、知恵内と虎蔵の関係がかわる。虎蔵は知恵内の主人の牛若丸であった。この二人は源氏である。なぜ鬼一が知恵内に虎蔵を打たせようとしたのかが、ここで観客にわかるのである。ここでわかって、その前の鬼一と知恵内を思い起こして内心をさぐるのは難易度過ぎると思うしもったいない。歌舞伎は謎解きがわかっていたほうが役者の演技を堪能できる物もあるのです。

 

  • 鬼一は奥に入るとき、知恵内と虎蔵に解雇通告をする。最悪の状況である。ここからは、芝居を観ていれば判るようになっている。さらに、歌舞伎ならではの音楽性の浄瑠璃に乗った台詞が続く。主従関係。敵と味方に別れた兄弟愛。さらに菊に託した恋心。短いなかに様々な想いが託されている。二人のもとに皆鶴姫が現れ、牛若丸と鬼三太が、虎蔵と知恵内にもどる。さらに、この役どころの違いが状況によって、右へ左へと変化するのである。その役者のしどころ。役者さんにとってもやりがいがあると同時に難しい役どころである。

 

  • この役どころを、虎蔵・牛若丸の時蔵さんが引っ張っている。出からして観る人は人に仕える奴とは思えず、知恵内と同僚とはおもえないので、えっ!と思い、これは何かあると思う観客もあるであろう。そこも歌舞伎である。『勧進帳』の強力とは思えない義経と同じである。ただこの牛若丸は鞍馬山で修業していますから、行動もする。吉岡三兄弟は、宮本武蔵ともかぶさっている。三略巻はあらゆる兵法が詰まった巻物である。それを受け継いで所持しているのが鬼一法眼なのである。知恵内・鬼三太の松緑さんは、『一條大蔵譚』では、三兄弟の一途な鬼次郎を演じられている。このところ難易度の高いものへの挑戦が続いている。もう一段上がった知恵内を観たいです。皆鶴姫の児太郎さんはさらに身体に一本線が通ってきたようにで、鬼一に連れられていく後ろ姿がいい。時間とともにそれをどう動かしいくのかがたのしみでもある。鬼一法眼(團蔵)、湛海(坂東亀蔵)

 

  • 『菊畑』の私の教科書的映像の配役は、虎蔵・牛若丸(七代目芝翫)、知恵内・鬼三太(吉右衛門)、皆鶴姫(福助)、湛海(段四郎)、鬼一法眼(富十郎)である。

 

  • 喜撰』は、六歌仙の僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、大伴黒主が小野小町に想い焦がれているのを舞踊にしたもので、そのうちの喜撰法師を主人公にした舞踊である。六歌仙の一人でもあり喜撰法師という偉いお坊さんであろうし風格ある硬い踊りであろうと思うとそうではないのである。桜の枝にひょうたんを吊るしての出である。祇園の茶汲み女のお梶に逢うため通っているのである。小野小町をお梶に変えている。『毛抜』で、小野家が所持してるという短冊「ことはりや 日の本なれば照りもせめ さりとてはまた 天が下かは」は小野小町が詠んだ雨乞いの歌で、この歌を詠んだところ雨がふったといわれている。婚約相手が文屋家というのもかぶせているのであろう。

 

  • 今回喜撰法師となって踊る菊之助さんは、お梶をされている。どうして喜撰法師で踊る気になったのかはわからないが、これも挑戦であろうか。七、八、九、十代目三津五郎さんが踊り継がれた作品で動きが難しい。清元と長唄の掛け合いで楽しい軽妙洒脱な踊りである。お梶をされているので曲は体に入られているのでしょう。若くて優しい感じの喜撰である。お梶は時蔵さんで、くどきつつも喜撰法師よりうわての感じがいい。「島田金谷は川の間 旅籠はいつも お定まり」とにぎやかに旅籠の女郎衆の踊りとなり、喜撰法師さん飛んでいる。むかえに来た所化の踊りもありで最後は赤い傘をさされての御帰還である。所化が権十郎さん、歌昇さん、竹松さん、種之助さん、男寅さん、玉太郎さんらでベテランが負けそうなくらい若手がずらりである。5月歌舞伎、昼、夜、踊りで締めで、世の中いつまでもはっきりしないので、歌舞伎ですっきりしゃっきり歌念仏である。

 

歌舞伎座 5月團菊祭 『雷神不動北山櫻』『女伊逹』

  • 雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』。成田山開基1080年、二世市川團十郎生誕230年とあり、舞台で海老蔵さんの口上があり、市川家と成田山とのご縁が語られる。この芝居は、二世團十郎によって大阪道頓堀で初演(1742年)され、のちの歌舞伎十八番の『毛抜』『鳴神』『不動』の三演目が入っている。『毛抜』と『鳴神』は単独でも愉しませてくれる面白さがある。その繋がりが観客にわかりずらいのではと、海老蔵さんが演じる五役のパネルで解説も加えられる。わかりやすい解説で、芝居自体も見せ所を上手く配分していた。

 

  • 『毛抜』は、粂寺弾正(くめでらだんじょう)、『鳴神』は、鳴神上人、『不動』は、不動明王が主人公である。他のニ役は、早雲王子安倍清行であり、この五役を演じられるのである。悪役は早雲王子で、帝位を狙っている。安倍清行は早雲王子が帝位につくと世の中が乱れると予言。鳴神上人の行法により妃は見事男子誕生となる。早雲王子は余計なことをしおってとばかりに鳴神上人を追放。都は日照り続きである。鳴神上人が北山の滝に竜神を封じ込めたためである。雨ごいのためには短冊「ことわりや」がひつようである。短冊は小野家が所持している。

 

  • 粂寺弾正は文屋家の家老で、文屋豊秀の婚約者である小野春道の娘・錦の前がなかなか輿入れをしないのでそれを促しに行く。小野家は春風が短冊を持ち出し、錦の前は奇病で困り果てている。粂寺弾正は小野家の執権・八剣玄蕃の悪行をさらけ出し、これを成敗する。朝廷は鳴神上人のもとに雲の絶間姫を遣わす。雲の絶間姫は鳴神上人が封じていた竜神をはなち見事雨をふらせる。鳴神上人は怒り狂うが、不動明王によって静められる。

 

  • なかでも面白く良い出来と思ったのは『鳴神』である。雲の絶間姫が亡くなった夫を偲ぶその語りにはウソがない。だますためであると知っているのに観ている方も、雲の絶間姫の話しに聴き入ってしまう。夫とのなり染め。夫のもとへ川を渡るとき裾を持ち上げる雲の絶間姫。驚きの声を発する鳴神上人の弟子の黒雲坊と白雲坊。鳴神上人は、思わず魅せられ身を乗り出し壇上から転げ落ちる。ここからが、雲の絶間姫の落とすともなく落としていく手管と、おなごの体に初めて触れて自分が今まで感じたことのない本性に目覚めていく鳴神上人の破戒への過程である。菊之助さんの雲の絶間姫は、みぞおちを押さえて仮病を装うのが騙しであるが、あとはなりゆきですという感じである。それに比して、新しい知識でも得るように、これは何、これは何と魅了される海老蔵さんがこれまた新鮮さを満喫する鳴神上人といった感じで可笑しい。黒雲坊(市蔵)と 白雲坊(齊入)の相づちの入れ方が上手い。

 

  • 絶間姫は、滝のしめ縄が竜神を封じ込めているのだと知ると、仕事人となる。ここからは、冷静に役目遂行に徹する。しめ縄を切り落とせるところまで登り、ついに竜神を放つのである。登る竜神が鮮やかな輝き。さーっと花道を去る絶間姫。あの美しい出の夫を想う姿はウソでした。騙された鳴神上人。あんなに用心していたのにと、自分にも腹立たしいであろうと思える怒りまくりである。人間なぞ全部地獄に落ちろの想いでしょう。新しい立ちまわりが目立ちました。この鳴神上人の怒りも、早雲王子の悪心も不動明王によって静められ、そこには不動明王が静かに鎮座されている。

 

  • 毛抜』の粂寺弾正は、團十郎さんのようなおおらかさが欲しいと思った。今年は十二代目團十郎さんが亡くなられて五年目の團菊祭でもある。顔のつくりからして海老蔵さんは、笑われせることに腐心されてるように思えた。今回は小野家の内紛がわかる場がある。八剣玄蕃(團蔵)とそれに対する秦民部(彦三郎)の間に留めに入る腰元・巻絹の雀右衛門さんが入って、この場がぴしっと決められ、この芝居がおおきくなった。安倍清行が女好きであり貴族のつっころばしのような役どころで笑いをとるので、粂寺弾正の役どころを考えた方が五役の変化の面白さがでたように思える。そういう意味では、十二代目團十郎さんの芸に思い至る芝居ともなった。

 

  • 女伊逹』は時蔵さんで、今、快進撃である。あらゆる役に挑戦され、それが見事にきっちりはまっている。それだけに、女だてらに脇差を差し、二人の男伊達と喧嘩となり、さらにクドキも加わり、立ち回りもあるという華やかで賑やかな踊りを楽しませてくれる。男伊逹は若手であるが、種之助さんの下駄で走っての花道の出は難しいであろうが先導の押さえどころを決め、橋之助さんも身体に踊り込んだ感じが出て来ている。ベテランの吸引力に負けじとぶつかっていく風は気持ちよいものである。

 

 

浅草散策と映画(3)

  • 浅草に戻るには何処からもどろうか。市川真間まで行ったので、永井荷風さんが晩年14年間暮らした市川市本八幡からにする。市川市文学ミュージアムで『永井荷風展 ー荷風の見つめた女性たちー』(2017年11月3日~2018年2月18日)があった。作品のモデルになった方や荷風さんが交流した女性達を、「明治、大正、昭和という激動の時代のなか、女性たちがたおやかに、したたかにに生きていった姿を、作品をとおして見つめ直します。」という視点である。荷風さんは市川から、浅草のロック座やフランス座に通われ楽屋へもフリーパスで入られていた。文化勲章を受章され、踊り子さんたちが祝賀会を開いてくれ、真ん中で嬉しそうに微笑んでいる写真もあった。ところが、文化勲章をもらってから偉い人であるとわかると、これを利用する踊り子さんもあってトラブルにもなったようで、それからは、浅草へ行っても小屋へは行かず公園のベンチに座っている姿が見られたということで、なんとも心寂しい風景である。

 

  • 無くなってしまった浅草・国際劇場での松竹歌劇団SKDの舞台がでてくるのが、映画『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』である。SKDの舞台が国際劇場の本物であるだけにこれは貴重な映像である。寅さんのマドンナ、SKDの花形スター・紅奈々子役がの木の実ナナさんで、踊りも抜群なのでSKDの設定も無理がなく、レビュー場面や団員さんにも溶け合っていて役とのつなぎ目に違和感を感じなくて済むのが助かる。映画も松竹であるから、舞台撮影も贅沢に映すことができたのであろう。小月冴子さんは、さすが風格がある。浅草国際通りと名前があり、国際劇場に出ることは、スターを意味していたのである。山田洋次監督が映画にしたのが1978年で国際劇場が閉館になったのがその4年後の1982年である。奈々子はさくらの同級生で、二人ともSKDに入るのが夢であった。その夢を叶えた奈々子は結婚して踊りを捨てるかどうかで悩んでいた。さくらの倍賞千恵子さんが実際にSKD出身というのもよく知られているところであるがSKDも1996年に解散している。

 

  • 永井荷風さんが通った、京成八幡駅そばの飲食店「大黒家」も閉店らしく、浅草の「アリゾナキッチン」、「ボンソアール」も閉店である。これからも浅草は経営者の老齢化などもあり、どんどん変わっていくのであろう。六区街の大衆演劇の劇場・浅草大勝館も無くなってドン・キホーテのビルになっている。そもそも浅草に映画館がないのである。『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』での冒頭の夢の場面では、寅さんが宇宙人であったということで、トレードマークの衣裳もカバンもキラキラしている。SKDのレビューのキラキラさに合わせているのであろう。さくらの夫・博(前田吟)の勤める町工場の経営が思わしくなく慰安旅行ができなくなり、国際劇場のレビュー観劇になってしまうのも下町らしく、九州からでてきた青年(武田鉄矢)が一度国際劇場でレビューを観たかったというのも、浅草国際劇場へのあこがれを伝えてくれる。

 

  • SKDの団員が踊る場面が映画『男はつらいよ』にもう一本ある。『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(1982年)の冒頭夢の場面である。国際劇場閉館の年である。場所はブルックリンで、札付きのチンピラのジュリー(沢田研二)が唄う周囲で踊るのがSKDである。対する正義の味方はブルックリンの寅である。ジュリーは逃げ、柴又の家族と仲間に迎えられてレビューのように階段を上がる寅さんであった。この夢の場面に悪役として定番で出演していたのが、時代劇のベテラン悪役・田中義夫さんである。『男はつらいよ 幸福の青い鳥』では旅回りの人の良い座長さん。その田中義夫さんが、<ひゃら~り、ひゃらりこ、ひゃり~こ、ひゃられろ>の『新諸国物語 笛吹童子』ラジオ放送劇の主題歌とともに現れる映画がある。映画『夢見るように眠りたい』。映画製作のお金がなく、モノクロでサイレントという手法でかえって面白い映画となっている。

 

  • 夢みるように眠りたい』は、1955年代(昭和30年代)の浅草が舞台で、私立探偵・魚塚甚のところへ、月島桜という老婦人から誘拐された娘・桔梗を探して欲しいとの依頼がある。そのことを頼みにきたのが桜の執事(吉田義夫)で、魚塚の助手・小林少年がラジオで「新諸国物語 笛吹童子」の主題歌を聴いているときなのである。吉田さんは、映画「新諸国物語 笛吹童子」で悪役で出演していて、映画好き好きを思わせる演出である。桔梗の名もある。サイレントで台詞は字幕だが音楽と効果音は流れるのである。犯人からの謎のメッセージがあり、ゆで卵を食べつつ謎の場所を探し当ててゆく。江戸川乱歩風。

 

  • 仁丹塔、花やしき、地球独楽、縁日、M・パテー商会。M・パテー商会で、これは映画に関係あるかもとピンときた。やはり次は電気館の映画館である。そこで上映されていた映画に、渡されていた写真の桔梗が映っていたのである。映画は途中で終わりそこへ警官がきて上映中止になってしまう。その映画でも桔梗はさらわれ、それを助ける黒頭巾の剣士が魚塚であった。未完に終わった映画「永遠の謎」は女優主演映画で、警視庁の検閲により女優主演はまかりならぬと撮影中止になったのである。魚塚は桔梗を探すことが映画「永遠の謎」の結末を探すことなのだと理解する。その結末を聴いて老婦人・桜は安心して ≪夢みるように眠る≫ のである。桜が安心できる結果までの複線も上手く展開していく。(1986年/脚本・監督・林海象/美術・木村威夫/佳村萌(桔梗)、佐野史郎(魚塚甚)、深水藤子(桜)、松田春翠、大泉滉、あがた森魚)

 

  • 仁丹塔もない。映画の花やしきの人工衛星の乗り物も変ったらしい。花やしき一度は行かなくては。独楽に丸く金属の輪がついてるのを地球独楽というのだ。林海象監督のデビュー映画。協力者に大林宣彦監督の名前もある。佐野史郎さんの初映画出演、初主演映画で状況劇場を退団しどうしようかという時。知る人ぞ知るアングラ劇団の役者さんがでているらしい。活弁士の沢登翠さんもちらっとでてくる。深水藤子さんは、好きな映画『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(山中貞雄監督)で、左膳が用心棒で居候する矢場のお久として出演されていて、山中貞雄監督のフィアンセであったともいわれている。『夢みるように眠りたい』は40年振りの映画出演ということで、これを実現した無名の林海象監督の力は大きい。脚本を読みこれならと思われたのであろう。フランス座出身の渥美清さんも出てきたことでもありますし、次は北野武監督の浅草の出てくる映画となりますか。

 

  • 映画『菊次郎の夏』は、子供と大人のロードムービーで、子供の名前が菊次郎と思っていた。子供が羽根のついた空色のリュックを揺らし駈けてくる。おっ!菊ちゃん張り切ってますねと見ていたらどうも映画の始まりではないようで、プロローグのようで、次に可笑しなタイトルが映る。そして二人の少年が学校帰りで、浅草の街を走るのである。千束通り、ひさご通り、六区、伝法院通り、浅草寺の正面を横切って二王門から出てくる。走っていたり、そうであろうと思う一部分の映像であったり、通り的にはつながっていない部分もあり、映像的な編集もされているであろう。浅草は、横路に入ったりし自由に歩きまわるほうが楽しい。

 

  • 今の二王門は塗り替えたのか造りかえたのか新しい赤い色である。この門を出て真っ直ぐ歩いていくと、隅田川にぶつかる。夜は、昼の喧騒とは違い人がほんのまばら。隅田川にぶつかると、派手ではない細いブルーの灯りの東武線の鉄橋がみえる。その上を電車が通る風景は、東京なのに郷愁をさそう。撮り鉄さんか、写真を撮るひとがいる。そこから、吾妻橋に向かうと喧騒がもどる。隅田川のたもとで主人公の少年は、かつて近所だった、お婆ちゃんのお友達のお姉さんに会い、「正男くん!」と呼ばれる。えっ!この少年の名前は菊次郎ではなく正男くんなのだ。お姉さんの横には男がいて夫らしい。

 

  • 菊次郎はこの夫婦のおじちゃんのほうの名前であった。正男くんはおじちゃんとの旅からこの場所にもどって、「おじちゃん!おじちゃんの名前なんての。」と聞くとおじちゃんは「菊次郎だよ。馬鹿野郎!」といいます。普通、こういう映画のタイトルは子どもの名前でしょう。普通ではないおじちゃんなので、最後までゆずらない。いいだろう。ちゃんと最初にいい場面で出してやっているんだから名乗りは俺にきまってるだろう。ばーか。と言われた気分である。まあそれくらい普通ではないことを考えつくおじちゃんですから、正男くんにとっては大変な旅でした。でも正男くんによって、菊次郎も一つの夏を越えることができたのでもありますが。

 

  • 負けず嫌いのおじちゃんでもあります。泳ぎ、シャグリング、タップと出来ないことは嫌だとばかりに練習します。頭を下げることなど絶対にいやなのである。正男くんには、一度「ごめんな。」といいます。お金がないので何でも人からくすね取ることになります。夜店の射的では、射的では落ちない大きな飾り物のぬいぐるみを落として買い取らせたりと笑えます。ホテルでのおじちゃん流の遊び方。正男くんのちょっとほあんとして眠そうな眼差しなのが何とも印象的で、このくらいでないとおじちゃんにいちいち反応していたらおじちゃんとの旅は続けられません。正男くん、涙を流したあとは、おじちゃん流の遊び方で笑顔になり、羽根のついたリュックを揺らし、天使の鈴の音を鳴らしながら、走るのです。菊次郎に、母に逢おうと思わせたのも、母をたずねる正男くんとの旅だったからです。正男くんもいつか、ふたたび、お母さんと会おうと思う日がくるでしょう。その時、菊次郎おじちゃんとの旅の話をするであろうか・・・。

 

  • (1999年・脚本・監督・北野武/音楽・久石譲/ビート・たけし(菊次郎)、岸本加世子(菊次郎の女房)、関口雄介(正男)、吉行和子(正男のおばあちゃん)、大家由祐子、細川ふみえ、 麿赤兒、 グレート義太夫、井手らっきょ、今村ねずみ、ビート・きよし、THA CONVOY) 北野武監督の絵がファンタジーで色が綺麗で映像の色も明るい。久石譲さんの音楽も正男くんの動きや心情にぴったりと寄り添う。天使の鈴のデザインが篠原勝之さん。タイトルデザインが赤松陽構造さんでこういう専門があるのを知る。映画『哀しい気分でジョーク』(1985年・瀬川昌治監督)は、たけしさんが、落ち目のタレント役で、息子が母に会いたいというのでオーストラリアまで別れた奥さんに会いに行く。息子に脳腫瘍がみつかり、それでなくても上手く気持ちを伝えることのできない父親ができるだけ息子と過ごす時間をつくり、旅にでるのである。ラスト、人気タレントとして歌う場面が観れるという美味しい場面のある映画でもある。

 

  • 昨年の2017年の九月に初めてOSKレビューを観劇した。OSKはSKDの姉妹劇団として大阪で誕生した歌劇団である。出会ったばかりなのにトップスターの高世麻央さんが、今年の7月新橋演舞場の『夏のおどり』(7月5日~9日)がラストステージだそうで、早いお別れである。暑い夏のひとときキラキラの楽しい時間をいただくことにする。観劇のあとは、浅草もいいかな。

 

浅草散策と映画(2)

  • 浅草伝法院の庭園公開がありやっと訪れられた。浅草公会堂での歌舞伎観劇の時、二階ロビーからみえる伝法院の門と木々を眺めつつ今度の公開日にはといつも思っていたのだが、公開日をキャッチするのが遅く気が付いたときには終わっていた。今回は3月16日~5月7日であったが、行けたのが5月に入ってからである。この庭園は小堀遠州の作庭である。大絵馬寺宝展もみることができる。この大絵馬の数が多い。浅草寺は250点ほどの大絵馬を所蔵していて今回は60点ほどである。大絵馬寺宝展を出ると、赤い垂木の列と五重塔とスカイツリーが見え、現代の錦絵である。池の水の出入り口を掃除しているかたに尋ねると池の水は地下水を循環させているとのこと。

 

  • 大絵馬の中で一つだけふれるとすれば、歌川国芳の『浅茅ヶ原の鬼婆』。浅草の花川戸あたりを昔、浅茅ヶ原と呼ばれていたとあり、伝説がある。浅茅ヶ原に老婆と若い娘の一軒の宿があり、他に宿は無く旅人はここへ泊るのであるが、老婆は鬼婆で泊った旅人を殺してしまうのである。ある日美しい稚児が泊り鬼婆はいつものように殺してしまうが、それは自分の娘であった。娘は稚児の身代わりとなり、旅人の稚児は観音菩薩であった。鬼婆は自分の行いを悔い、娘の亡骸を抱え龍となって池に消えた。上田秋成の『雨月物語』の「浅茅が宿」は、武蔵の国ではなかったし話も違うなと調べたら、『雨月物語』のほうは、下総の国葛飾郡真間の郷であった。あっ!南北さんの引き戻しだ。引き戻しは真間から柳島の妙見さま・法性寺へである。

 

  • 雨月物語』の「浅茅が宿」は、勝四郎という男が葛飾郡真間の郷に美しい妻を残し、足利絹を売るために京に出る。戦さなどもあり勝四郎は7年たってやっと真間に帰って来た。妻は待っていてくれた。しかし夜が明けてみると家は朽ち果て妻の姿はなかった。昔から住んでいた老人に尋ねると妻はすでに亡くなったいた。その老人はもっと大昔、この真間の里に手児奈という美しい娘が、多くの求婚を受けたが一人の身で多くの人の心は報いることはできないと浦曲(うらわ)の波に身を投げた話をしてくれる。妻のことと重ねて詠んだのが 「いにしへの真間の手児奈をかくばかり 恋てしあらん真間のてこなを」 である。弘法寺(ぐほうじ)に手児奈堂があり、境内の枝垂れ桜が伏姫桜の名がありたずねたことがあるが、「浅茅が宿」とつながるとは。これも何かのご利益か。

 

  • 四世鶴屋南北の墓所のある春慶寺から、中村仲蔵が新しい斧定九郎の工夫のために日参した柳島の妙見さま・法性寺へむかった。北十間川に沿って歩き十間橋へ。この橋から逆さスカイツリーがみえるらしいが確かめなかった。北十間川と横十間川のぶつかるところに法性寺がある。葛飾北斎も信仰していたので、その案内板が大きく掲げられている。ここも浮世絵にも紹介されていて広く信仰されていたことがわかる。妙見堂(開運北辰妙見大菩薩)を参拝してから、北斎の浮世絵などがあるギャラリーへ寺務所からあがらせていただき見させてもらう。そこに、このお寺を建立したのが、真間山弘法寺の日遄(にっせん)上人とありました。光る松があるということできてみたところ北極星から光が放ちご本尊が現れた(記憶怪しいです)というようなことでした。浅草から引き戻されるとは思わなかった。法性寺には、近松門左衛門の供養碑があり、これも破損していたのが見つけられ再建されている。初代歌川豊国筆塚(断片)もあり、碑文は豊国の基本資料となっているとある。歌川国芳は豊国の一門である。

 

  • 法性寺から横十間川に沿って亀戸天神に向かったが、途中で龍眼寺があり別名・萩寺とある。眼病に効くようで、七福神の一つでもあり、亀戸の七福神は一時間半ほどで回れそうで、友人に教えてあげよう。進んでいると横路地から鳥居が見え香取神社でありせっかくなので遠回りをしてしまったが寄り、途中に二代目豊国のお墓のある光明寺があった。そこから亀戸天神へ。藤まつりなのに藤は終わっており、一箇所の藤棚だけ咲き残っていてくれたのが幸いである。猿まわしの大道芸があり、愛嬌のあるお猿さんで、階段になった台の上をボールに乗って一段一段登ってさらに降りていた。凄い。猿真似なんて簡単にできるものではないということを知った。これで、もう引き戻されることはないでしょうが、北・横十間川の散策も静かで、船もよさそうである。さて浅草へ戻らねば。

 

浅草散策と映画(1)

  • 戯作者・四世鶴屋南北から、浅草を舞台とした映画に飛ぶ。南北さんにちなんで脚本家と脚本家修業中の出てくる映画とする。『笑いの大学』『ばしゃ馬さんとビッグマウス』。『笑いの大学』は知名度あり。『ばしゃ馬さんとビッグマウス』私的にはノーマークであり映画名すら初めて知るが、面白かった。探索経路を時々変えないと掘り出し物と巡り合えない。

 

  • 笑いの大学』は、テレビの舞台中継で西村雅彦さんと、近藤芳正さんのコンビで観ていて、三谷幸喜さんの作品の面白さを知る。映画では二人だけの閉ざされた中での会話の面白さをだすのは無理であろうと思っていたので観る気分にならなかったが、浅草の芝居小屋の脚本家ということでみた。映画『笑いの大学』は、 役所広司さんと稲垣吾郎さんで、笑ってその笑いが哀しさにつながる流れは見事に成立した。世の中が戦争に向かう時代、芝居台本は検閲官の検閲が必要であった。上演中止の赤印を押すために、じりじりと脚本家を追い詰めていく検閲官と脚本家のやりとりである。

 

  • 検閲官の向坂睦夫(役所広司)は、時局に合わない台本には書き直しが出来なければどんどん上演禁止にしていく。浅草にある劇団『笑いの大学』の座付作家の椿一(稲垣吾郎)の書いた『ジュリオとロミエット』もなぜ外国物なのだとツッコミが入る。椿は、『ロミオとジュリエット』のパロディで笑わせるためで作者は英国だが舞台は同盟国のイタリアだと説明するが、向坂はこの時代に笑う事自体がけしからんとくる。お宮と寛一に直せと言い渡す。これが一日目で二日目、三日目と書き直しを言い渡される。ところが、笑ったことがない向坂のどこが面白いのかの疑問で、どんどん書き直していくうちに面白いものになっていく。

 

  • 苦しみつつも椿は書き直し、動きを向坂に頼む。向坂は身体を動かすことに寄って次第に本つくりにのめりこんで行きついに七日目に完成する。相対立するからこそ妥協のない作品になったともいえる。椿は引きつつ向坂を引き入れていたのである。しかし、椿には赤紙がきていた。向坂は、椿が去る廊下に出て「生きて帰ってこい!」と叫ぶ。向坂は椿との警視庁の一室の中でつくりあげた本を通して、味合う事のなかった交流を体験してしまったのである。『笑いの大学』は劇団名であるが、椿が向坂から笑いについて大学で学ぶように教えて貰ったことをもかけているのである。向坂が訪れる劇団『笑いの大学』の劇場は浅草にある。全てセットである。映画の中の舞台ともいえる。廊下に座る老警官・高橋昌也さんのさりげなさもいい。〔2004年/監督・星護/原作・脚本・三谷幸喜〕

 

  • じゃじゃ馬さんとビッグマウス』は、シナリオライターを目指す女性と、その年上の女性に恋をした男性が出来上がることのなかったシナリオを書きあげるまでとその後である。真面目な馬淵みち代(麻生久美子)は、一生懸命時間を惜しんでシナリオを書いて応募するが落選ばかりである。また、シナリオ教室に通い始める。そこで、自信だけはビックな天童義美(安田章大)と出会う。天童は馬淵に一目惚れである。このふたりのやりとりがテンポよく天童の大阪弁が上手く自信過剰に愛嬌を加える。バカバカしい、時には笑わせる映画かなと思ったらこれが軽いが息と間と人物の性格がよくできている。

 

  • 馬淵みち代はばしゃ馬さんで落ち込むときも真面目で軽口をたたいていながら気分が変わったのが分かる。するとビッグマウスはそれを察知して気分を回復させようとする繊細さも持ち合わせていて、このあたりがビッグマウスのわけのわからない魅力でもある。いうことはいうが実行がなく、有名になった時のためにとサインの練習をしてそんな暇あったらシナリオ書けと友人にいわれる天童。こういうありふれたネタを可笑しくさせてるのがこの映画のあなどれないところである。ばしゃ馬さんはシナリオのために介護体験に行き真面目に対応するが、自分の甘さが露呈し、また落ち込む。

 

  • 浅草の商店街がいい。飲み会の待ち合わせが大衆演劇の劇場・木馬館の横である。その横に、浪花節の常席・木馬亭なのであるが映らなかった。残念。木馬館と木馬亭は今回の浅草散策で入館したので、映画で出てきて嬉しくなった。それでなおさらこの映画が気に入った。エンドロールには、奥山おまいりまち商店街、六区ブロードウェイ商店街、浅草西参道商店街の名前があり、飲食店も浅草ではないが、下町的雰囲気で明るい店の閉まった浅草の商店街に包まれているようで楽しい映像となっている。ばしゃ馬さんは、浅草の芸能の街から去ることになるが。ばしゃ馬さんとビッグマウスのラストが浅草でないのが気になる。しかし、呼び出したのがビッグマウスであるから、あれはビッグマウスのばしゃ馬さんへのシナリオの場所設定なのかなとも考えられる。見せないが繊細で優しいのである。〔2013年/監督・吉田恵輔/脚本・吉田恵輔、仁志原了〕

 

四世鶴屋南北の旅(作品)

  • 大南北の旅、今度は気分まかせに作品から入って行きたいと思う。2006年、四国こんぴら歌舞伎での『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』の録画映像を観て、ここから潜り込んでみようかなと思う。『鞘当(さやあて)』が単独で、様式美と役者さんの大きさと台詞まわしの面白さとして上演されるが、これは『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』に挿入されている一部分である。DVDを観て、これは、その前の『名古屋浪宅の場』を観るともっと面白く観れることがわかった。

 

  • 鞘当』は、二つの花道から深編笠の不破半左衛門と名古屋山三が登場し、江戸の吉原仲ノ町で刀の鞘の先が当たり、何を!となるのである。この二人の衣裳が派手で立派で、二人とも吉原の花魁・葛木のところに通っている。お互いに刀を抜くことになるがそこへ止める人が入り収まるのである。止める人は、茶屋女房で留め女であるが、男の場合もある。半左衛門は黒地に雲と稲妻の模様に羽織つき。山三は浅葱色に濡れ燕模様に羽織つきである。深編笠をかぶっているから本舞台まで役者さんの顔は見えないが、ツラネの台詞とこの衣裳が観客にとっての御馳走である。

 

  • 鞘当』の前の場面『名古屋浪宅の場』では、山三の美しい小袖が、山三に仕えるお国という顔にあざのある下女が苦労して預けてあったのを請け出してくるのがわかる。山三はそれを着ての吉原通いなのである。山三は浪人で貧乏長屋住まい。お国が着物を請け出しに行っている間に恋仲の葛木がやってきて、山三の親の仇はどうやら半左衛門でその証拠をつかみたいとの話しがでてくる。鞘当でそれぞれの刀をたがえて鞘に収めるが、違う鞘に刀が収まるのが父を殺して奪った刀である証拠なのである。恋の鞘当だけでなく仇の証拠をつかむ鞘当ともなる。

 

  • 名古屋浪宅の場』では、南北さんお得意の毒薬も出てくる。お国の父・又平は伴左衛門に加担し、やり手のお爪との悪事。山三を殺そうと毒をしこむが、手違いから又平とお国が毒を飲んでしまう。お国はそっと山三を想っていたがその想いが叶い、瀕死の中、暗闇から葛木の元へ出かける山三に深編笠を渡し、お前が女房と言われ、手を合わせて死出へと旅立つのである。この場の幕開けから家に深編笠がかかっているのがわかり、ここで渡されるのかと納得する。家の中が暗いため、濡れ燕の小袖に着替えた山三はお国の状態を知らずに吉原へ出かける。小袖がローソクの灯りにきらきらひかり、模様の濡れ燕もお国の悲しさをおもわせる。お国の名前は名古屋山三と阿国の関係からかぶせているのだろう。お国の父の名が浮世又平であるが意図はわからないが何かあるのかも。

 

  • 名古屋浪宅の場』では、山三をめぐるお国と花魁葛木が出てくるが、女形が二役で演じるように工夫されている。こんぴら歌舞伎では猿之助(亀治郎)さんが二役で、山三が三津五郎さんである。雨が降れば雨漏りする家で、傘をさしたり、たらいを吊るして雨漏りを避けたりと大家や掛け取りとのやりとりも可笑しい。花魁の葛木が訪ねて来てそのアンバランスのやりとりとりや、ご飯の炊き方を面白可笑しく伝授したりとにぎやかな後に仇の話しが加わるという趣向である。

 

  • 芝居は濡れ場から殺しへと入っていく。お国は山三の錦絵を大切に持っている。娘が有名人や役者の錦絵を写真のように持っていたのがわかる。現代ではスマフォの画像であろうか。お国が山三の髪をなでつけるがその時流れるのが長唄の「黒髪」である。こういうあたりも心憎い演出である。お国の気持ちがよくわかる。鏡に映る山三とアザのある自分の顔。このあたりのお国の心情と山三のお国の心を知ってのしっぽりとへの流れがいい。その一方で又兵との悪巧み。殺しの場面へと入っていく。南北さんの細工は流々仕上げを御覧じろであるが、仕上げは、お国の哀しい最後である。

 

  • 鞘当』では、色男の山三の三津五郎さんは柔らかく、敵役の半左衛門の海老蔵さんも太々しさも垣間見せ、派手な衣装を着こなすお二人の役の違いが映える。留めの女・は猿之助さんで三役ということになりそれぞれを演じわける。お国の一途さとはかなさがが特に良い。猿之助さんは、ご自分の中で歌舞伎作品の分類化が明確にできているかたである。やはり、『名古屋浪宅の場』があると物語性が膨らむ。『名古屋浪宅の場』『鞘当』での『浮世柄比翼稲妻』を上演して欲しいものである。この作品、これだけではないのである。山東京伝の作品『昔語稲表紙(むかしがたりいなずまぞうし)』に出てくる名古屋山三と不破半左衛門の物語に、当時の世間に名高い白井権八と三浦屋小紫、幡随院長兵衛の話しを合わせてあるという。相当長くて複雑な芝居になっているようで、短いもので四世鶴屋南北作とあれば、その背後に大きく広がる物語があると考えたほうがよさそうである。〔浮世又平(秀調)、家主(市蔵)、やり手お爪(右之助・現齊入)〕

 

  • こんぴら歌舞伎で上演された所作事『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ) かさね』も四世鶴屋南北の作品『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』の一部分だが明治時代に清元の所作事として復活したもので、所作事なので役者さんの動きを見ているとあれあれ!と思う世界に引き込んでくれる。仮花道からすっきりとした立役の浪人・与右衛門の海老蔵さんが登場。本花道からは、与右衛門を慕って追いかけてくる腰元・累の猿之助さんの登場である。『色彩間苅豆』には、梅幸型と菊五郎型のふたつある。菊五郎型はふたりそろって花道からでる。小さい金丸座でさらに客席数が減ってしまうが『鞘当』で二つの花道をつかっているので贅沢な『色彩間苅豆』となった。

 

  • 次第に与右衛門は色悪となっていくのも見どころである。累は突然足が不自由になり、顔が醜くなってしまい、殺され、怨霊となって再び現れる。与右衛門の悪行が累にたたってしまうのである。与右衛門はかつて累の母と密通していて、それを累の義父・助にみつかり助を殺していたのである。川に卒塔婆と左目に鎌の刺さったしゃれこうべが流れてくる。卒塔婆には助の名前があり、与右衛門は卒塔婆を折ってしまう。すると累の足が不自由になり足を引きずって歩き、しゃれこうべの鎌を抜くと、累の顔が醜くなってしまうのである。そのたたりの恐ろしさに与右衛門は累に親の仇として討たれるかもしれないと、累を殺すことになる。演じる役者さんたちによって練りに練られて洗練されていき、月明かり、音楽、傘や帯ほどき、亡霊になっての引き戻しなどによって様式化されきた。海老蔵さんと猿之助さんでしっかり見させてもらった。

 

  • 法懸松成田利剣』は、醜い累が嫉妬深くて夫与右衛門に鬼怒川で殺され、その怨念が一族につきまとって様々なたたりをなすので、祐天上人が祈りによって解脱したという霊験譯をもとにしているらしい。累物は色々あり、南北さんがあったものから取り入れてさらに加えて自分の狂言を作りあげているのであろうが、そこのあたりは勉強不足である。『色彩間苅豆』は、かさねは自分の知らないところで悪があり、そこにはまって狂わされていくのが同情され哀れを誘うところで、時代の流れのなかで名作となった例であろう。清元を語るのは延寿太夫さん。尾上右近、清元栄寿太夫の二刀流の誕生も時代の流れのなかでの寿ぎごとである。

 

  • 南北さんの作品は、四月の歌舞伎座でもたっぷり観させてもらった。裏表といえば『四谷怪談』と『忠臣蔵』の関係もそうである。『四谷怪談』の大詰め「蛇山の庵室の場」は冬の場面であったのが、途中で夏のお盆の時期にかわり、夏の風物詩怪談物として受け入れられるようになったのである。南北さんは、あくまでも『忠臣蔵』と『四谷怪談』は表裏一体のドラマとして考えていたと思う。ただ『裏表先代萩』は、世話物としての要請があって小助を考えたようで、南北さんが最初から全面的に書いたわけではないようである。書いていながら、混乱してきたからもうやめた方がいいよという声が聞こえるのでこれまでとする。違う作品の映像もあるので、また、書きつつ探っていきたい南北世界である。『浮世柄比翼稲妻』の「名古屋浪宅の場」は浅草鳥越で、浅草関連の映画に今はまっているので、浅草の旅も加えつつ愉しみながら進めたい。さらなる声が、早く映画を観ようよと言っている。

 

四世鶴屋南北の旅(お葬式とお墓)

  • 四世鶴屋南北のお墓が、本所押上春慶寺にあるというので、訪ねる。地下鉄押上駅出口A2から出ると通りの向かいにあるはずであるがお寺さんらしい建物は無い。ビルの上に≪春慶寺≫とある。江戸のイメージが壊れた。帰るときには春慶寺のたどった経過をお聴きし納得させてもらった。せっかくなので先に北十間川から大きなスカイツリーを見上げ少し散策してお寺に向かう。
  • 春慶寺の前に立つがちょっと入りずらい。左横に『鬼平犯科帳』の「岸井左馬之助寄宿之寺」の石碑があり、鬼平の剣友である左馬之助を演じられた江守徹さんの名前も記されている。その横に、春慶寺の石碑がありさらに大きめの空間に鶴屋南北の提灯と鶴屋南北の石碑があり、その上のガラスケースの中にも石碑がある。下には、歌舞伎役者さんの名前がずらり。説明には、四世鶴屋南北の墓石は震災と戦災によって損傷し、劇作家・宇野信夫の染筆をもって新しい墓石が作られたとある。ガラスケースの中が、本当の墓石で、下は新しい墓石ということで、染筆(せんぴつ)とは、書画を書くこととあるので、新しいお墓の「鶴屋南北」は宇野信夫さん筆ということになる。
  • 思い切って中に入るが応答なし。まもなくご住職の奥さまが出先から帰られ、日蓮上人像を拝観させてもらい、鶴屋南北のお墓の話しになりいろいろ説明して下さった。さらに、そのお墓とお葬式についてのコピーがあるからとのご親切にそれを頂いてしまった。これは大変嬉しい鶴屋南北に関する参考資料となった。「死もまた茶番」(郡司正勝著『鶴屋南北』)と「鶴屋南北の墓」「南北の墓補遺」「鶴屋南北の墓 その後」(宇野信夫著『こころに残る言葉』)である。
  • 「死もまた茶番」によると、鶴屋南北が自分の死後の葬式の台本を書いていたのである。外題は『寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)』で、お弔いに万歳である。自分のお葬式をも自分流に演出してしまわれたとは、最後まで四世鶴屋南北である。奥さまは、『乗合船恵方万歳』と比較すると重なり合って替えたと想われる部分があると教えてくださる。勘三郎(十八代目)さんが春慶寺へ来た際、コピーをみせたところ舞台でやりたいと言われたそうである。郡司正勝著『鶴屋南北』は、鶴屋南北さんのことも分かりそうなのでさっそく読んだが薄ぼんやりと影が見えてきているがまだまだ霧のなかである。
  • 「鶴屋南北の墓」「南北の墓補遺」「鶴屋南北の墓 その後」では、宇野信夫さんが、春慶寺とお墓を見つけ、欠けて倒れていた墓石を石屋に頼み起こしてもらう。これでは誰のお墓かわからないのではという石屋の意見から、「なつかしや本所押上春慶寺鶴屋南北おくつきところ」と、別の石に彫ってもらいそばに立てたとあり、今もある。その時の住職さんは遊び人だったようで、宇野さんは次のように記している。「つきあってみると、なかなか味のあるいい人だ。南北が現代に生きていたら、必ずモデルにしたことであろう。」その後、若い僧が訪ねてこられ、地所が狭くなり南北のお墓を移動しなければならないことを報告されている。肩入れして下さる方がいて小さいながらもお寺の再建の目途が立ったようである。奥さまの話しだと檀家が三家だけの時があったとのこと。その後檀家も増え、元生命保険会社の建物を購入された。保険会社の売却条件が、建物を壊さずにこのまま使うならということだったそうである。なるほどと納得する。
  • 宇野さんは若い僧に会ってめぐらした思いは「江戸の昔、退廃と爛熟の作者鶴屋南北の骨を埋めた寺の住職に、将来おそらくはなられるひと、それは清純と透明の作家宮沢賢治に影響されて出家を志したひとである。私はいいようのない思いにとりつかれた。」とある。この若い僧が現住職さんである。住職さんは、次に訪れた柳島の妙見さまの法性寺からこられたかたであった。帰ってから頂いたコピーを読み知ったのである。
  • 春慶寺は「押上げの普賢さま」として信仰されてもいて、鶴屋南北のお墓の並び普賢堂がああり普賢菩薩さまを身近にお参りできるようになっている。前には「見返りの白象さま」が。このお寺の普賢さまが乗られている聖象は、見返りの姿で説明には、普賢菩薩様は六本の牙をもった白象に乗り、六本の牙は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の人の身心で、白い色は清浄を表すと。「六根清浄」と唱えるのはこのことですか。見返りということは反省でしょうか。さらに、開運普賢大菩薩さまのようです。
  • 宇野信夫さんは、学生時代に読んだ永井荷風さんの深川を歩いた文章の中に(『冬の蠅』)心行寺に鶴屋南北の墓に詣でたとあるが、その後、安政三年に出版された達磨屋無仏老人の著した『戯作者小伝』から本所押上春慶寺に四世鶴屋南北のお墓があることを知る。心行寺は、四世の孫である五世鶴屋南北のお墓である。四世南北が亡くなったのが、深川黒船町黒船稲荷神社内である。役者さんと閻魔堂橋、三角屋敷跡なども散策された荷風さんが位置的に心行寺に参られたのもうなずける。春慶寺にてお墓が起き上がるまでのいきさつが、これまた大南北さんらしい筋書のように思えた。