宝塚と義太夫

歌舞伎学会の講演会があった。 ≪演劇史の証言 酒井澄夫氏に聞く≫ 講演名は「宝塚義太夫歌舞伎研究会」である。宝塚と義太夫とどんな関係があるのか興味が湧いた。

酒井澄夫さんは、宝塚歌劇団理事・演出家ということである。申し訳ないことに宝塚は一度も見ていないのである。組も数種あり、スターも多くて何をどう見ればよいのかわからなく、観たものが、この程度なの宝塚はと思うような観方もしたくないと思ったりするのであるが、深く考えないでそのうちなんとかしよう。

公演は、エポックの部分が明らかになった感じで面白かった。

時代は昭和27年から昭和43年まで、宝塚の生徒さんが、<宝塚義太夫歌舞伎研究会>として自主的に義太夫歌舞伎の発表会(公演)をしていたという事実である。酒井さんの話では、こちらから見てスターでも、宝塚内部では皆さん生徒さんなのだそうである。皆さん、教えに対しては呑み込みが早く、言われた通りに身体で受け止め、それが舞台に立った時、華があるかどうかという事のようである。その事から一つ納得したことがある。

続・続 『日本橋』 で、淡島千景さんのインタビューに触れたが、多くの監督さんの作品に出られていて、それぞれの監督さんの印象について聞かれたとき、印象がないと言われていた。習いに習うだけで自分のことで精一杯で、監督さんを観察する余裕などなかったし、冗談を言い合うということも無かったんです。謙遜なのかと思ったが、宝塚で身につけられていた<習う>という基本がつながっていたのであろう。

講演資料によると始まりは、昭和26年の「義太夫と舞踏会」「宝塚義太夫の会」「宝塚歌劇と義太夫」、昭和27年「宝塚歌劇と義太夫」では、専科花組生徒出演者の中に、有馬稲子さんと南風洋子さんの名前がある。そして義太夫歌舞伎公演の第一回が開かれている。活躍したのは、天津乙女さん、春日八千代さん、神代錦さん、南悠子さん、富士野高嶺さん、美吉佐久子さん等である。名前をよく耳にするのは、天津さんと春日さんである。南悠子さんは、淡島千景さんと久慈あさみさんとともに<三羽烏>といわれたらしいが、やはり映画に移られたかたの名前がメジャーになってしまう。

この研究会の指導者が、義太夫が娘義太夫で活躍した竹本三蝶さんで歌舞伎は、二代目林又一郎さんである。このお二人の名前も今では表に出てこられることはない。二代目又一郎さんは初代鴈治郎さんの長男であるが、身体が弱く芸の力がありながら大きな役を続ける体力がなかったようである。又一郎さんの息子さんは戦死され、孫が林与一さんである。上方歌舞伎の衰退の時期に、この<宝塚義太夫歌舞伎研究会>の自主公演は行なわれていたのが興味深いことである。

美しい宝ジェンヌが、『壺坂観音霊験記』」の沢市や『車引』も演じていて、写真を見た限りでは違和感がなく、『車引』は雰囲気がよい。酒井さんが見始めた頃も、女がという違和感はなかったようである。天津乙女さんの『鏡獅子』の素踊りの映像を見せてもらったが、晩年とは云え、獅子になってからも力強かった。二代目又一郎さん、三蝶さん、天津乙女さんが亡くなられて<宝塚義太夫歌舞伎研究会>は立ち消えとなる。詳しく正確なことは、『歌舞伎と宝塚歌劇ー相反する、蜜なる百年ー」(吉田弥生編著)に書かれてある。

私は、かつての元宝塚出身の映画での役者さんでしか見ていないが、月丘夢路さん、乙羽信子さん、淡島千景さん、久慈あさみさん、新珠三千代さん、八千草薫さん、高千穂ひづるさん、有馬稲子さん、南風洋子さん、鳳八千代さんなど沢山の方々が、美しさだけではない個性を感じさせてくれる人物像をされていて好きである。そしてそれぞれに色香がある。それは、習って色をつけ、その色を自分のものにして、そしてまた習う。常に習う場所を空けておいているからであろう。ただ今のかたは、同じに見えてしまうのはどうしたことか。それだけの力を引き出してくれるかたも居ないということか。見るほうが駄目なのか。

「歌舞伎学会」の講演は誰でも聞きに行けます。資料代があり有料ですが。

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (3)

生國魂神社の木について織田作さんは次のように表す。

「それは、生国魂(いくたま)神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟(くすのき)の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、」

そして、主人公は生国魂の夏祭りには、一人で行くのである。

「七月九日は生国魂の夏祭りであった。」「私は十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ぼうと思った。ひそかに楽しみながら、わざと夜を選ぼうとおもった。そして祭りの夜店で何か買ってやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にいるとのことであった。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを、新坊に送ってやってくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行った。」

主人公は、高津宮跡にある中学校(現高津高校)に通い、高等学校は京都の三高(現京大)へ行く。「中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移ってしまった。」 そして十年振りに訪れる機会が出来るのである。そして、名曲堂の父子に会い、新坊に会うのである。しかし、その父子も流れて行き、彼もまた流れて行く。彼は父子には何も言わない。しかし、私には、織田作さんが、騙されるなよと心の中でつぶやいているような気がしてならないのである。 「風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

織田作さんは『木の都』として、木と風とそこに住む人々をサラサラと活写している。私は、わわしくまた書き加える。

高津宮は生玉真言坂を下りた千日前通りを渡った向いの少し高台ということになる。仁徳天皇が難波高津宮から竈の炊煙が見えないのを憂いたともいわれ、仁徳天皇を祀られている。そしてここのだんじり囃子が、あの『夏祭浪花鑑』のお囃子で、ここがその舞台ということになる。絵馬堂には、現藤十郎さんが襲名された時、団七九郎兵衛の絵馬を奉納されている。その西側には、北と南から上がってくる階段があり合相坂といって、真ん中で逢うと相性がよいのだそうで、その手すり部分に石が支える形になっていて、様々の方の名前の中に仁左衛門さんの名前も発見。落語の『高津の富』の舞台でもあり、五代目桂文枝之碑もあった。

『木の都』は、<高津宮の跡をもつ町><大阪町人の自由な下町の匂う町>である。

生国魂神社の前には、桜田門外の変に関連し、上方でも挙兵しようとした水戸藩浪士・川崎孫四郎の自刃碑と水戸浪士・高橋父子を匿った笠間藩士・島男也旧居跡の碑もある。大坂と水戸の坂の町の幕末の風。 坂のある町 『常陸太田』 (1) 坂のある町 『常陸太田』 (2)

そして、織田作さんの『蛍』は、伏見の寺田屋の女将お登勢の話となる。文句ひとつ言わず働き通しで諦めだけのお登勢が、薩摩の士の同士討ちの騒ぎのとき、有馬という士が乱暴者を壁に押さえつけながら 「この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を刺せ」 の最後の叫びを耳にしてから、お登勢は自分の中に蛍火を灯すのである。その蛍火は坂本とお良をも照らすこととなる。

蛇足ながら、幕末も加えてしまったが、『夏祭浪花鑑』の女だてに通じるかなとふと思ったのである。織田作さんに色数が多いと嘆息されそうである。

 

 

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (2)

<愛染坂>の辺りが夕陽丘町となっている。この坂上の谷町筋には地下鉄谷町線の駅があり、四天王寺前夕陽丘駅である。<愛染坂>から<口縄坂>までは、下寺町筋にそって歩く。<愛染坂>を下るとすぐに、「植村文楽軒墓所」の石碑がある。遊行寺(円成院)で、人形浄瑠璃を文楽と命名することになった、初代植村文楽軒のお墓と、三代目を讃えた「文楽翁之碑」がある。

<口縄坂>について、織田作さんは次のように記している。「口縄(くちなわ)とは大坂で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば打(ぶ)ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、」「しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず」「その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想いが傾いた。」 そして、近くにある『新古今和歌集』の編者藤原家隆の草庵跡とされる場所でよんだ歌に触れている。< ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな >

かつては、この上町台地は半島のように難波の海に突き出して、四天王寺の西側は波がぶつかる崖だったようで、その海に沈む太陽を見て極楽浄土を思う霊地であったようだ。織田作さんは、ここで、青春の落日に想いを馳せるのである。

現実の<口縄坂>はくねくねとはしていない。見通しのよい石畳の坂で途中から石階段である。お寺の白壁塀が良い感じである。坂を上りきったあたりに、織田作さんの文学碑があり『木の都』の最後の部分が刻まれている。夕陽というのは季節によって時間が異なり、お天気でなければならないし、この場所で見るというのはなかなか難問である。スタンプを押せるお寺は三寺あるが珊瑚寺でスタンプを押す。織田作さんがペンを持っていて<織田作之助木の都の坂>とある。

<口縄坂>から<源聖寺坂>に行く途中にも、萬福寺というお寺の前には「新撰組大阪旅宿跡」の石碑が立つ。今度は幕末である。境内には入れなかった。源聖寺の手前が<源聖寺坂>で両脇がお寺と土塀が続き、ゆるやかに石畳と石段が延びている。ここは四寺でスタンプを押せるが、一番近い源聖寺とする。このお寺の救世観音菩薩は花の観音様と呼ばれ親しまれておられる。ここのスタンプがまた面白い。台紙のほうに、「昭和末期まで源九郎稲荷がありました。今は生國魂さんに移っています。」 とあり、本当に生國魂さんで会いました。スタンプの絵は、こんにゃくをくわえたたぬきの背中に <こんにゃく好き 八兵衛はたぬきやけど> とある。これ大阪的というのか。<口縄坂>でちょっぴり哀愁を味わって居たら、狐にあぶらげ、狸にこんにゃく? よくわかりませんが面白い。今、生國魂さんには、源氏九郎稲荷と、松竹中座に祀られていた八兵衛たぬきが仲良く合祀されている。

生國魂神社は、多くの神々が祀られている。主軸は、生國魂大神らしい。<生玉真言坂>から上がって行くと北門があり織田作さんの像が見える。織田作さんの好きな井原西鶴さんが織田作さんの視線を受けるような位置に座っている。西側には、文楽の物故者を祀る浄瑠璃神社、土木建築関係の人が崇敬する家造祖(やづくりみやお)神社、金物業界の人が崇敬する鍛冶の神様の鞴(ふいご)神社、女性の守護神と崇められる鴫野神社などなど。もちろん源氏九郎稲荷神社もある。本殿の方には、上方落語の祖・米澤彦八の碑もある。

本殿は豊臣秀頼が修造した社殿、桃山式建築で屋根が凄く複雑で、千鳥破風、唐破風、千鳥破風と重なっている。これは「生國魂造り」といわれ日本で一つしかないらしい。大坂大空襲で焼け、台風で倒壊、現在のは昭和31年に復興されたものである。ここで七つ目のスタンプを押して、完歩証を受け取る。スタンプは、「淀姫ゆかりの女性の守り神がまつっている」とある。

このスタンプなかなか楽しませてくれる。<逢坂>の一心寺では 「一心寺内酒封じの墓」とあり、本多忠朝が鎧兜で、酒封じと書いたしゃもじを持っている。酒封じの効き目があるのであろうか。<天神坂>の安居神社は、道真公の絵で 「安居の井戸はカン静め」 とある。主宰は、てんのうじ観光ボランティアガイド協議会さんでした。

織田作さんの『放浪』のなかで、主人公・順平は、叔母の養子となる。叔母の亭主であり順平の養父は、「叔父は生れ故郷の四日市から大阪へ流れて来た時の所持金が僅か十六銭、下寺町の坂で立ちん坊をして荷車の後押しをしたのを振出しに、」とある。この坂は<逢坂>と思われる。スタンプラリーの台紙に<昔は急な坂で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。>とある。

 

 

 

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (1)

大坂の四天王寺から生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)までの間にある七坂とお寺を巡る道であるが、一心寺から生國魂神社をさらに北に進み、高津宮までを<織田作さんの坂道>とする。

一心寺から東に四天王寺があり、西に今宮戎神社がある。そこはすでに周っているので、一心寺から始める。七坂とは、<逢坂><天神坂><清水坂><愛染坂><口縄坂><源聖寺坂><生玉真言坂>である。

<口縄坂>には、織田作さんの文学碑があり、<生玉真言坂>を登り生國魂神社に入ったところに織田作さんの像があり、どちらも『木の都』の一文が彫られている。

寺町でもあり、一心寺の前の国道25号線の一部が<逢坂>となる。一心寺は、「お骨佛の寺」とあり、門が美術館かと思わせるようなデザインである。あうんの像は彫刻家・神戸峰男さんで、扇の四人の天女は秋野不矩さんの絵である。ここに収められたお骨は十年ごとにそのお骨で仏様を一体つくるのだそうである。大坂夏の陣では徳川家康の本陣となっている。このお寺で天王寺七坂のスタンプラリーがあると知る。定価100円である。簡単な絵地図ものっているので、スタンプラリーをしていくことにする。地図で見ると、谷町筋(東側で坂上)と下町寺筋(西側で坂下)の道が平行していて、そこに坂が梯子段のようにあるわけである。ただ私の所持した地図には、下町寺筋ではなく、松屋町筋とあるが、地元のかたの書かれた下町寺筋とする。

逢坂を下って下寺町筋に出て北に向かうと安居神社がある。ここは、大坂冬の陣で活躍した真田幸村が戦死した場所なのだそうで、このあたりは、大阪城の戦いの足音を聴いていた場所でもある。この神社は菅原道真公も祀っていて北側の坂が<天神坂>である。社務所の近くにかんの虫の治まる水がかつて湧き出ていて、道真公もここで水を飲まれたらしい。ここで2個目のスタンプを押す。樹木の茂るこじんまりとした神社である。

この辺りは伶人町と呼ばれ、「伶人」とは舞楽を奏する人のことで、四天王寺に仕える楽人が多く住んでいたらしい。

<天神坂>を降り切らないで北に向かうと清水寺があるのだが工事中で道がよくわからなかったので、お墓の上のほうから、境内に入る。ここには、天然の玉出の滝があり今でもこの滝に打たれる修行者があるらしい。坂だけのつもりが、歩いてみるとなかなか歴史的に面白い神社仏閣が多い。清水寺の横にあるのが<清水坂>で、坂上左手にある高校の校庭辺りに昔料亭浮瀬 があり、芭蕉や蕪村も訪れたとあるがそこまでは上がっていない。芭蕉と料亭はなぜか結びつかないが、東北の旅で、バスガイドさんが、芭蕉さんはお金持ちのところでは比較的長く滞在しているんですよと言われたのを思い出す。馬と一緒の家では何日も滞在することはできなかったであろう。清水寺のスタンプが芭蕉さんが大杯からお酒を口に流し込んでいるユーモアな絵である。<清水坂>は近年整備されたらしい巾の広い石段の坂である。ここから振り返ると通天閣が見えるそうだが、降りてくるときも次の<愛染坂>へと気持ちはいっているので見ていない。

<清水坂>から北に向かうと<愛染坂>があり、少し急な坂を上って行くと大江神社があり愛染明王が本尊の愛染堂があり「愛染さん」と呼ばれている。ここの夏祭りは有名らしく、織田作さんも、「7月1日は夕陽丘の愛染堂のお祭りで、この日は大阪の娘さん達がその年になってはじめて浴衣を着て愛染様に見せに行く日だと、名曲堂の娘さんに聴いていたが、私は行けなかった。」とある。なるほど、文楽の人形に『夏祭浪花鑑』で初めて帷子を着せたというのもわかる。愛染堂で、縁結は愛染さんのスタンプを押す。四つ目である。大江神社は、<愛染坂>を下る時に寄る。聖徳太子が四天王寺の鎮守として創建した神社と言われている。

 

 

『木の都』 織田作之助著

「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼児の記憶は不思議に木と結びついている。」

「試みに、千日前(せんにちまえ)界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(こうづ)の高台、生玉(いくたま)の高台、夕陽丘(ゆうひがおか)の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたえた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁った大気のなかになお失われずにそこにあることがうなずかれよう。」

「上町に育った私たちは船場(せんば)、島ノ内(しまのうち)、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といったけれども、しかし俗にいう下町に対する意味での上町ではなかった。」

「町の品格は古い伝統の高さに静まりかえっているのを貴(とうと)しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがわれるけれども、しかし例えば高津表門筋や生玉の馬場先(ばばさき)や中寺町のガタロ横丁などという町は、元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育ってきたのである。」

「「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂(あいぜんざか)、口縄坂・・・・と、坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかいさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口縄坂である。」

その後、この主人公は、口縄坂を上ったところの路地で、古本屋が名曲レコードを売買する店になっており、偶然にもその主人は、主人公が京都での学生時代の洋食屋の主人であった。主人公は何度かこの店を訪ねることによって家族構成と家の内実もわかる。姉と中学受験に失敗し新聞配達をしている男の子がいて、この男の子が、戦時下ゆえ名古屋の工場に徴用されそこの寄宿舎に入る。しかし、家が恋しく無断で帰ってきて、叱られまた帰っていった話を主人公は耳にする。その後主人公も足が遠のいていたが、訪ねてみると、「時局を鑑み廃業仕候」と貼り紙がある。隣の表札屋の主人に尋ねると、一家を上げては名古屋へ移ったという。男の子(新坊)の帰りたがる気持ちを考え、一緒に住めば新坊も我慢できるだろうと父親も姉も決心したのである。その話を聞いた帰り道、主人公は次のように締めくくる。

「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直ってきたように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

新坊の父親は「わが町」の<ターやん>とは違い、新坊のそばに移って行く。しかし主人公は、この戦争が、親子のそんなつながりをも、吹き飛ばしてしまう強い力であることを予想しているのである。戦争が無かったとしても、織田作さんは、この親子ような情愛とは無縁である自分を感じていた人に思える。

映画 『わが町』 で、<この小説は立身伝の国策ものとしてとらえられている。>と書いたが、原作は、一人の夢に憑りつかれた男の話で、それを、国の映画関係の人がこれは、国策映画となると踏んだのであろう。

織田作さんは<デカダンス>や<無頼派>と括られるが、簡単に括って欲しくないと思う。織田作さん自身に自嘲的な言動はあるが、作品の中には、騙されないでと声をかけたくなるほど、一生懸命働く人々が多く出てくる。織田作さんはそれらの人々を、一人こつこつ戦中も書いていたのである。そして登場人物に、あまり愚痴や心情はクダクダ言わせないのである。働く市井の人々を書く。それが、彼の小説家としてのステータスであった。その客観性が彼を孤独な人にした。

年譜によると、「清楚」と「木の都」の主題を合わせて、映画『還って来た男』が撮られ、その脚色を織田作さんが担当している。「木の都」も取り上げられたのを今知った。映画を見ていないのであるが、「木の都」は一つにしておいて欲しいかった。映画にしなくてよいから。しかし、川島雄三監督のデビュー作だから許すことにするが。織田作さんは、もう少し生き、映画に係っていたら、彼の孤独は違うものになっていたかもしれない。

織田作さんの坂として、小説と関係なく、かなり以前から歩きたかったのである。そしてこれらの坂を登ったり下りたりして、やっと自分の中の大阪を味わったのである。

 

 

文楽 『夏祭浪花鑑』

『夏祭浪花鑑』の録画はないかと探したところ、文楽のが出てきた。何時のかは調べればわかるであろうが、無精をして調べていない。嬉しいことに、竹本住大夫さん、吉田玉男(故)さん、吉田蓑助さんが出られている。ビデオテープからDVDにダビングし直したらしく、終わりのほうが画像が乱れている。見返すのに影響はない。

住大夫さんは、<釣船三婦内>の切りである。三味線は、野澤錦糸さん。お辰が蓑助さんである。太棹のべんべんという音から入って大夫さんの語りがあり、人形が出てくると、人形の遣い手は誰々さんだなと気に留め、人形遣いの方も視野から消え、物語に入っていく。映像のためか、住大夫さんの状況説明の語りと、それぞれの登場人物の使い分けがわかる。登場人数分の人になって語っているのである。4人出てくるとすれば、その4人を一人で語られる。

アニメの声優さんが4人の登場人物があれば4人担当者がいるが、これを一人でやるわけである。4人担当のときは、それぞれを語りわける。声色を変えるだけではなく、その人の心情も持続していなければならない。こちらの人の気持ちを伝え、次にこちらの人の気持ち、次にこちらの人と飛びつつ、一人の一人の人間性と人物像は住大夫さんの中で繋がっているのである。物語は佳境に向かうわけであるから、それを想像すると、気が遠くなるような芸である。であるからして、この演目を録画したころは、勿体ない事にも全然聞き分けてもいない。ただ、筋を追っているだけである。

住大夫さんが語りわけたのは、釣舟三婦、おつぎ、お辰、若い者二人である。若い者二人もきちんと分けている。笑い声一つとっても、どういう心情であるかが伝わる。お辰は薄墨のような着物に博多帯。帯揚げ襟、髪飾りが薄い水色で傘も同系色である。歌舞伎では、傘は薄墨の透ける地であった。文楽の場合、人形を使うかたが、人形の衣裳を着せるのである。その役によって、着物の着せ方を工夫するわけである。蓑助さんのお辰もきっちり女を立てる。歌舞伎では、お辰が花道を去るので、鉄棒は左頬に押しつけたが、文楽では、上手に去るので、右頬で、頬よりも顔の右側の髪の生え際に近い部分であった。歌舞伎では、三婦が若い者を雇った佐賀右衛門に会いに行くとき、雲龍の柄の着物に着かえるが、文楽ではそれがない。

歌舞伎のほうが、演じる役者により、その役を印象つけるための工夫を多くする。役者に意思があるからである。人形は意思はない。全てやってもらい、やってもらう事により成り立つ役者である。人形を役者にするための切磋琢磨が日々行われているわけである。浄瑠璃は人形がなくても語りとしての芸を楽しむことは出来る。ただ人形が、人間よりも心根を伝えてくれることもある。人形に対する思い入れではなく、人形遣い、大夫、三味線の三位一体の融和が、観客の思い入れとなる。

<長町裏長屋>は、浄瑠璃は義平次が竹本伊達大夫(故)さん、団七が豊竹英大夫さん、三味線が鶴澤寛治さんである。人形遣いは義平次が吉田玉夫さん、団七が吉田玉女さんである。来春、玉女さんが二代目玉男さんを継がれる。豪快な人形遣いが得意なので楽しみである。玉男さんは義平次について、好きな役の一つといわれている。

<私は三十三歳の時からこの役を持っています。まだ若いのに、おじいさんで、しかも悪人の役だから嫌じゃなかったか?その反対です。こういう特殊な役柄ならではの面白さがある。・・・敵役としても、老人としても、他にはない異色の人物像に興味が湧きました。><平成十三年 夏の国立文楽劇場公演では、蓑太郎(現勘十郎)君と弟子の玉女がダブルキャストで勤めたのにも、義平次でつき合いました。>(「吉田玉男 文楽藝話」)ということは、録画は平成12年のものであろう。

<私が団七を持ったのは六十を過ぎてからである。><殺し場になってからは、三人遣いの利点を生かして、さまざまなかたちを見せる。ここは足遣いにも大きな責任があります。人形全体の形が崩れないよう、よほど踏ん張ってもらわんと。初演は吉田文三郎で、三人遣いを考案した人だけに、思い切った演出を施している。>舅を殺して最後に団七が去る演技を韋駄天といい、左手を腰に当てたまま、右腕を胸の前で左右に振る動きである。

録画では、花道を作り、神輿を上手に送り出し、団七は一人、花道を韋駄天で「八丁目さして」引っ込むのである。文楽の花道は初めてである。

歌舞伎では、神輿に紛れて、舅を殺した複雑な気持ちで花道を引っ込むのである。

『夏祭浪花鑑』は実際にあった魚屋の殺しの事件を人形浄瑠璃がやって当たり、歌舞伎でも上演したものである。

帷子を初めて人形浄瑠璃につかったのが『夏祭り浪花鑑』で、大きな格子模様は団七格子というのだそうである。そして団七を語る大夫さんと三味線の方も、上の衣装がこの茶の団七格子で<夏>を思わせる。

重要無形文化財保持者の竹本源大夫さんも引退を表明されたようで、次の世代の奮闘に期待することとなるが、一朝一夕でできる仕事ではない。観劇する側も、どういうことなのかと常に首を傾げるのであるから。

大坂三昧の次の世界は、路地裏から浄瑠璃が聴こえていたであろう、オダサクの町である。

 

新橋演舞場 『松竹新喜劇 爆笑七夕公演』

松竹新喜劇劇団創立65周年記念で新橋演舞場は、16年ぶりだそうである。昼の部、夜の部、別演目で、どちらにも65周年御礼の<ご挨拶>が入っている。チラシに出演予定の高田次郎さんと千草英子さんは、体調不良のため休演である。高田さんは、松竹新喜劇以外での芝居にも出られていて観ているので、残念である。松竹新喜劇の代表である、三代目渋谷天外さんの生の芝居は初めてである。歌舞伎界からは、坂東彌十郎さん、WAHAHA本舗の久本雅美さんらが参加している。観劇される方は、久本さん以外はテレビでお馴染みという役者さんたちではなく、今回初めて観る役者さんも多いであろう。

松竹新喜劇は曾我廼家十吾さん、二代目渋谷天外さん、藤山寛美さんが参加されて結成した関西系の劇団である。お三方の写真も紹介された。今回は藤山寛美さんの孫で、藤山直美さんの甥の、藤山扇治郎さんが松竹新喜劇の一員として加入されての舞台である。彌十郎さんの紹介にもあったが、扇治郎さんは、今の勘九郎さんが初めて歌舞伎座で『鏡獅子』を踊った時、胡蝶として、彌十郎さんの息子さんの新吾さんと一緒に踊られている。その時は、コロコロと太られていたが、今はすっきりとされている。癖のない素直な演技をする役者さんで、これから、諸先輩に教えられどのように伸びるか楽しみな役者さんである。小島慶四郎さんも何回か独特のおとぼけと間を楽しまさせてもらっている。

演目自体が、長く演じられてきたもので、『お祭り提灯』以外は、これまたお初である。『朗らかな噓』『裏町の友情』『船場の子守唄』

この劇団の出し物は、登場人物の関係は、登場人物が演技の中で語って行く。そのため、脇のかたも下手であると、間がもたなくなり、お客さまを寝かせてしまう事もあろう。そこを、演技者も心して掛からねばならない。近頃の喜劇は、そこを堪えきれなくてお客に振るのでつまらないのである。

秀逸だったのは『裏町の友情』である。渋谷天外さんと、曾我廼家寛太郎さんの科白術である。お互いに喧嘩で結ばれている二人のやりとりが、そのバトルと緩急の飽きさせない面白さは長年積み上げてこられたものである。そして、それが、自然に相手を思いやる気持ちになっていき、その気持ちが観客に伝わり涙になっても喜劇性は失わないで、もとの喧嘩の二人の位置にもどるのである。<会津磐梯山>のメロディーの効果もきいている。小島慶四郎さんが、<役者は長ければいいというものではありませんが>と言われたが、やはり鍛錬の長さは必要である。

『お祭り提灯』は、動きも加わり楽しく、お客さんも笑われていて満足されていたようであるが、台詞劇の喜劇も残っていって欲しいものである。若い人はスピード感を求めるであろうから、その辺を上手く組み合わせて伝えていって貰いたい。今回は、バランスの取れた演目の組み合わせである。彌十郎さんは、身体も大きく、歌舞伎界では、フットワークが抜群という方ではないが、やはり、身体の使い方の違いであろうか、一段と動きがよく映った。大坂の伝統喜劇として続いて貰いたい。

今回の舞台装置で、自分の中で、やはりそうかという事があった。それは、大阪の家の屋根である。大坂に <住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館> という、イベント館がある。これが、江戸と比較していたりして興味深かったのであるが、江戸時代の大阪の町並みを紹介しているところで、桂米朝さんの説明が流れるのである。その時、<江戸は瓦葺きとまさ葺きがありますが、大阪は全て瓦葺きです>と言われたのである。そのことが、頭の残っていて歌舞伎の『夏祭浪花鑑』の最後の立ち回りで屋根が出てきて、一部がまさ葺きである。「うーん」と考えてしまった。そちらの方では、<舞台装置の屋根屋根の一つに引き窓があるのもアクセントになっている。>と書いたが、瓦屋根でも引き窓はきちんとあったのである。松竹新喜劇のほうは、まさ葺きの屋根は一つもないのである。『夏祭浪花鑑』も瓦屋根で統一したほうが、すっきりするような気がする。

<大坂くらしの今昔館>は、なかなかお面白い。外人さんが多く、浴衣が200円で試着して、作られた町並みを見学出来るので、昔の大阪の町や路地裏で浴衣姿を写っている。大坂のお店の並ぶ道は真ん中が少し高いアーチ型になっていて、雨水が脇の下水にながれるようになっている。火の見櫓の半鐘も集会所の屋根の上にあり、『八百屋お七』の舞踊は成り立たないことになる。町内の夜回りの時の知らせは江戸は拍子木であるが、大坂は太鼓である。まな板も大坂は隅に四本脚がついているなどの違いがある。大坂も空襲で焼かれ、そのあと、バスを住まいとする一画もあった。その町に行かないと気にかけないことが色々ある。

大坂三昧はもう少し続くのである。

 

歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (2)

<長屋裏>。 団七は、舅・義平次が急がせる琴浦を乗せた駕籠に追いつく。義平次は、琴浦を、佐賀右衛門に渡し礼金を手に入れようとしている。団七は必死に、琴浦を連れて行かれては、男の顔をが立たないと、琴浦を戻してくれるよう頼む。義平次は、団七の顔が立とうが立つまいが知ったことではない。金の欲しかない義平次に、団七は困り果て、ふと石ころをつかむ。そして、ハッとして石ころを手ぬぐいに包み、懐に入れ、30両の金がここにあると伝える。義平次は団七の懐に触り、100両になるところだがそれで良いとして、駕籠を三婦のもとに返す。

団七はホッと息をつくが、お金が石ころと知った義平次は怒り心頭である。そもそも、団七は孤児だったのを義平次が育ててやったのである。ところが、娘のお梶と恋仲となり子供まで作ってしまう。義平次にしてみれば、娘を魚売りの団七などと娶わせる気はなく、もっとお金になる結婚をさせたかったのであろう。団七は、これからは親孝行に努めるからと説得する。団七はここで本当の男だてを成し遂げたいのである。二人の主張の食い違いが笑いを誘う。義平次に団七は眉間を割られる。義平次が、団七の刀を抜く。団七は親父さん危ないと言って刀を取り上げる。その時誤って、舅を傷つけてしまう。そこから、戻れない展開となっていくが、ここからが殺しの見せ場となる。様式美である。髪はざんばら、赤い褌に身体一面の色鮮やかな入墨。一度泥場に落ちた義平次がまた這い上がり死闘が続き、ついに団七は義平次の息を止める。この日は夏祭りの日で、祭り囃子が、殺しの場に合わせて鳴り響く。井戸の水をかぶり団七は震える手で刀を鞘に納め、放り上げた着物をふわりと着て、神輿の人並みに紛れて花道を去る。この場面は、音、色、形、練りつくされた場面である。

一つ今回感じたのは、最初から、義平次をあまり汚して欲しくないないと思った。泥場で泥だらけになるのであるから、そこで泥の効果を上げて欲しい。始めから汚れ過ぎで、泥の効果が目立たなかったのが、残念である。

<団七内>。親殺しは大罪である。そこで、徳兵衛と三婦は考え、徳兵衛がお梶に言いより、団七に去り状を書かさせ、お梶と別れさせるのである。そうなれば、ただの殺人である。捕り手がせまり、<同屋根上>となり、捕り手たちとの立ち回りとなる。舞台装置の屋根屋根の一つに引き窓があるのもアクセントになっている。三人の男だても美しい形では成就されず、舅殺しという結末になってしまった。

<住吉鳥居前>で役人(家橘)の言葉から団七が堺からところ払いとなったことを知った。そうかそういう裁きだったのか。ただ赦免されたと思っていた。三人の侠客とその女房もきちんと形作られていて、この芝居の巾が見えた。ここでも、若手、中堅、ベテランの演技力が充分にいかされた芝居になった。中車さんは芝居の上手い方であるが、まだ、小さく映る。夜叉王も義平次も親である。その貫禄は、身体からそのうち発散させる時がくるであろう。

海老蔵さんの、団七の声のトーンがよい。「おやっさん」とかの呼びかけの響きなども効果的で、節目の色を変える。世話物の柔らかさもある。

歌舞伎の役者さんというのは、自分の身体を作り変えていくものだと改めて感じた。自分が怪我をして、身体がバランスを崩し、意識せずに体重を乗せていたものが、どの位どこにかけたらよいかなど意識してしまうのである。役者さんは、この形の時には、こうしてと意識して身体を作り上げ、その鍛錬が、意識せずにできるところまで持っていくのであろう。さらにそこに心を入れていく。人間改造である。

 

歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (1)

『夏祭浪花鑑』。 <お鯛茶屋><住吉鳥居前><三婦内><長町裏><団七内><同屋根裏>の通し狂言である。

団七九郎兵衛、一寸徳兵衛、釣舟三婦の大坂の男だて(侠客)を並べての世界である。その中でも、団七の男をたてる忠儀立てのため、舅を殺す場面は見せ場の見得も多く、上演回数も多いが、<お鯛茶屋>の上演は少ない。だがこの場で、三人が忠儀立てをする、主筋に当たる玉島磯之丞の状況と性格が解かり、徳兵衛の女房お辰が立てる女だてへの経緯も理解できるのである。

<お鯛茶屋>では、堺のお鯛茶屋で磯之丞(門之助)が傾城琴浦(尾上右近)と恋仲で入り浸っている。そこへ、団七の女房お梶(吉弥)が、乞食を雇い、親不孝をしてこんなに落ちぶれ非人になってしまったと泣かせる。磯之丞はその様子から我が身も同類と屋敷にもどることにする。このあたりで磯之丞の人間性の弱さがわかる。

堺の魚売りの団七は、人を傷つけ入牢しているが、堺から所払いとなり、大阪の<住吉鳥居前>で釈放される。そこには、悪辣な駕籠やから磯之丞を救い逃がした老侠客の釣船三婦(左團次)が迎えにきていて、団七に新しい衣服を渡し去る。団七が床屋で成りを整えている間、傾城琴浦が横恋慕の佐賀右衛門に絡まれているのを助ける。この時、罪人で髪も髭も伸び放題の団七が、見違えるほどのすっきりとした男っぷりで登場するのも見せ場である。きりっと締めた赤の細幅の博多帯が裏から表に返った明るい気分にさせる。琴浦を磯之丞のいる三婦の家に逃がすが、そこへ、佐賀右衛門につく一寸徳兵衛と争いになり、お梶が仲裁に入る。二人の間に立つお梶は、きりっとした侠客の女房である。徳兵衛は、先にお梶が雇った乞食で、実は、磯之丞が徳兵衛の主筋にあたることが判り、団七と徳兵衛は義兄弟となり、目出度く団七親子と徳兵衛は花道から去るのである。これで、団七九郎兵衛、一寸徳兵衛、釣舟三婦、三人の男だての関係がつながるのである。

<三婦内>では、磯之丞はその後、人を殺めてしまい、琴浦と二人三婦のところに匿われている。琴浦が若い女に目がいったと磯之丞をなじっている。外から中の様子を伺う怪しげな若い者がうろついて去る。三婦は、二人を表に出しては駄目だと女房のおつぎ(右之助)を叱り、二人は別部屋に入る。どうも磯之丞は優柔不断のところがある。そこへ、徳兵衛の女房のお辰(玉三郎)が訪ねてくる。如何にも侠客の女房といった粋さである。地味な着物と帯で、紅色の煙草入れを使う。煙管の灰を落とす時、一回は手ぬぐいで押さえ音を出さない様に叩き、二回目はポンと音をたてる。煙草入れに恋した娘のようにじーっと観て聴いてしまった。なるほど、女が二回の音は粗野すぎるし、手ぬぐいの当て方も粋である。

おつぎは、お辰に、ここでは何かと人目につくので磯之丞を預かって欲しと頼まれ承知する。しかし、三婦はそれは駄目だという。お辰はいったん引き受けたものを断られては夫の徳兵衛も男がたたないし、自分の女がたたないと理由を尋ねる。三婦は、お辰が若く美しすぎ間違いがあってはならないという。磯之丞を見ているとこの三婦の危惧がわかる。そこでお辰は自分の左頬に、火にのせてあった鉄棒を押し当てるのである。そしてその火傷を見せこれでどうかと、三婦ににじり寄る。言いずらい事を言い、下を向いていた三婦は「徳兵衛はいい女房をもった」と感嘆する。この、お辰と三婦の立て引きも形もよく、腹が心にある見せ場となった。

お辰が磯之丞を預かり花道を去るとき、女はここではなくと顔を指さし、ここじゃわいなと胸に手を当てる時の伊逹さは格別である。

三婦宅に琴浦を出せと若い者が入り込む。三婦は着物を着換え若い者を外へ連れ出す。女房のおつぎが自分の亭主の後姿を見て恰好良いとつぶやくが、三婦に老侠客の貫禄がある。そこへ、団七の姑の義平次(中車)が団七に頼まれ琴浦を向かえにきたとして、駕籠で連れ出してしまう。三婦、団七、徳兵衛の三人が揃って花道から帰ってくる。ここで始めて三人並ぶのであるが、三婦の雲龍の浴衣、団七が薄茶で徳兵衛が薄青の大きな格子柄の浴衣、ここもそれぞれの色、姿の伊逹さである。三人とも、これから起こる悲劇の少しの影もない明るさである。

団七は、舅が、琴浦を連れ出したと聞きと血相を変え表に飛び出していく。

 

 

歌舞伎座 7月歌舞伎 『正札附根元草摺』『悪太郎』

『正札附根元草摺(しょうふだつきこんげんくさずり)』。<草摺>で終わっているが、<草摺引>のことで、<引き合う>の意味があり、鎧の草摺→鎧のすその部分をお互いに引き合うのである。では誰が。曽我五郎と小林朝比奈の妹・舞鶴である。『対面』の時、曽我兄弟は敵の工藤祐経と対面するが、対面の手引きをするのが、小林朝比奈、遊女の大磯の虎、化粧坂の少将、朝比奈の妹の舞鶴である。この人達は曽我兄弟びいきなのである。

荒事として、血気にはやった五郎が逆沢潟(さかおもだか)の鎧を抱え工藤に対面しようとするのを、朝比奈が引きとめるのであるが、その朝比奈の代わりに妹の舞鶴が、止めるのである。舞鶴は、止めても聞き入れない五郎に対して、遊女の振りで止めるという、長唄の舞踊劇である。

五郎は黒地に大きな蝶の刺繍の衣裳で、鎧を抱え現れる。勇ましく血気盛んである。市川右近さんが、五郎の若くて自分の気持ちに邁進する勢いを荒事と同時に愛嬌も添えた。観ていて思ったが、手と指の動きがいい。凄く若々しさを感じさせる。荒事で手と指が体と繋がって表現することを殊更実感できた。笑三郎さんの舞鶴との鎧を引き合う場面も大きさがあり、そこから、舞鶴が五郎を諭すように踊りに入っていくのも押さえた色気で心の内を伝えようとする心情もよく伝わった。このお二人なので、気負うこともなく観ていたのだが、舞鶴の衣装も好きなので、『対面』から二人が飛び出したようで、先人が色々な組み合わせで、いかに楽しませようかという工夫も感じとれ、曽我物として楽しめた。

『車引』『像引』などもこの種類で、なるほどと納得する。

『悪太郎』。『悪太郎』とみると、中尊寺の貫主も務められた今東光さんを思い起こしてしまうが、こちらの悪太郎は大酒飲みで酒癖の悪い悪太郎の話である。

出からして酔っていて薙刀を振り回し何かしでかしそうである。この長唄舞踊は初代猿翁さんが初演で、酔って薙刀を扱いつつの踊りは澤瀉屋に相応しい舞踊である。リズム感のある踊り手、市川右近さんと猿弥さんのコンビである。悪太郎(右近)は、修行僧智蓮坊(猿弥)に出会い、薙刀を振り回し自分のやりたい放題である。時としては、物分りもよくなったり、豹変したりで知念坊は困り果てるが、悪太郎は物語を始める。この部分がよくわからなかったのであるが、『錣引(しころびき)』の物語のようだ。兜のしころの部分を悪七兵衛景清が引きちぎったことの話らしい。『平家物語』(巻十一・弓流し)には、景清が見尾屋十郎の兜のしころをつかもうとして、三度つかみそこね、四度目にむんずとつかむが、見尾屋はこらえ、鉢付けの板から、ぷつりとしころを引き切って逃げたとある。兜の錣の引き合いである。

智蓮坊が去った後、悪太郎は、悪太郎の所業を心配する伯父(亀鶴)と太郎冠者(弘太郎)と出会うが寝てしまう。そこで伯父は悪太郎を懲らしめるため頭も髭も剃ってしまい、数珠と黒の衣を置いておく。目覚めた悪太郎は鐘を持ち、修行僧に成りきる。そこへ、智蓮坊があらわれ、南無阿弥陀仏と鐘を叩く。自分の名前を南無阿弥陀仏にした悪太郎は自分の名前を呼ばれたとして返事をする。その応答を右近さんと猿弥さんは鐘をたたきつつ間の息もあってコミカルに動く。さらに亀鶴さんと弘太郎さんが加わる。亀鶴さんの長袴が上手く動く。

最初舞台は、松があり松羽目ものとしているが、次に松を残して、舞台後ろに長唄囃子連中の方々が姿を表し、松羽目ものよりも崩しますよというお知らせのように思えたら、内容もそうであった。澤瀉屋的動きと、音楽性のある舞踏劇である。二代目猿翁さんが、表舞台に出られなくなられてから、次の世代が澤瀉屋をしっかりつないでいる。