歌舞伎座3月『新・三国志 関羽篇』(1)

歌舞伎『新・三国志 項羽篇』のポスターが気に入りどうしようかなと思っていましたらクリアファイルがありましたので一応手元とに置いておくことにしました。皆さん一人一人の気力みなぎる充実感と緊張感が広がり、千穐楽で解放感があるのかなとおもいましたらそんな気分のゆるみなど無い舞台でした。

『三国志』は壮大な物語ですが、条件が制限されるためセリフ劇となりましたが、それがかえって何十年後かの再演ということによって役者さんたちにとって新たな挑戦の場となったのではないでしょうか。

スーパー歌舞伎『新・三国志』は、新橋演舞場での1999年と2000年の上演の時、両方見たのかどうか記憶にないのです。中国の京劇俳優さんも参加しての立廻り、大掛かりな戦いの舞台装置、本水の使用、音楽は加藤和彦さんによる全面的洋楽の使用と、そして関羽の宙乗りと、あれよあれよの驚きと感動の舞台でした。衣装がまたすごかったですしね。今回音楽を耳にしてもこれだったという感覚がないのです。今回改めて細やかに変化にとんだ入れ方をしているなと思いました。

今回のほうが舞台装置の簡略化とかもあり目よりも耳が敏感になっていて、さらに一人一人の役どころにも冷静に目が行きました。

その中の二点だけ感想を記します。よき軍師を求めて、関羽(猿之助)と劉備(笑也)と張飛(中車)が諸葛孔明(青虎)の住まいを訪ねます。舞台の背景が竹でした。竹に虎。憎いですね。市川弘太郎さん改め二代目市川青虎さんの襲名にふさわしい舞台装置でした。家の中も竹の棚。背景の何本も伸びる太い竹を見たとき、竹の間から姿をあらわしている大きな青い虎の絵を勝手に描いていました。想像の絵ですから格好いい虎が描けました。

関羽が孔明に向かって「青い虎となって駆け巡ろう」というようなことを言うのです。この場面は忘れないでしょう。襲名の口上はどれがどれだかわからなくなりますが、これは記憶に残ります。上手くはめ込まれましたね。これを考えた人こそカブキモノの軍師かも。それにしてもおめでたいことです。

もう一つは宙乗りですが、舞台の背景がこれまた美しいのです。飛び立つ関羽の姿と舞台の桃の咲き誇る風景をかわるがわる眺めて合成して楽しませてもらいました。ただ桃の花びらが大量に舞い散りますので、実際の背景となるお客様が邪魔にはなりませんでした。白い衣装のマントを翻して消えていく関羽の猿之助さん夢をまき散らして去りました。

その他のことは続きとしておきます。

追記 1999年のフライヤー。

2000年のフライヤー。

1999年と2000年のフライヤーがありましたが2000年のほうが折れ線があり、観劇の時持ち歩いたものとおもわれます。やはり観劇したのは2000年のほうでしょう。

日光街道千住宿

北千住駅は多数の路線の電車が止まる駅です。それでいながらこの駅で乗り換えはしても降りるということのなかった駅でした。東京メトロの千代田線日比谷線、JR東日本の常磐線東武伊勢崎線

商店街が元気なのには驚きました。千住宿日光街道から奥州街道へもつながる最初の宿場でもありさらにここから水戸街道佐倉街道(成田)、下妻街道にもわかれるのです。旧日光街道の通りとぶつかる駅前商店街もあって昨今の商店街の状況から考えると元気な商店街と思えました。

通りの多くの狭い路地には家がひしめき合って下町の生活も残っています。全て開発されて無味乾燥でないのがいいです。

宿場町通りにある千住街の駅は観光案内所を兼ねたお休み処ですが、まん延防止中とあって閉まっていました。ここで案内地図を手に入れるつもりでしたが残念。100年前に建てられた魚屋さんを利用しているそうです。

旧日光街道の宿場通り商店街

公園に陶板の案内がありました。

右が隅田川で左が荒川ですがこの荒川は昭和初期にできたもので江戸時代にはありません。真ん中の黒い線が旧日光街道です。赤丸は北千住駅で青丸が京成線の千住大橋駅です。隅田川に架かっているのが隅田川に一番最初に架けられた橋の千住大橋です。ここから芭蕉さんは「奥の細道」の旅に出発しました。そして徳川慶喜さんはこの宿から水戸にもどられたのです。今回は荒川のほうに向かいました。

再生紙を取り扱う地漉紙(じずきかみ)問屋である横山家住宅があります。江戸時代後期の建物で、戸口が街道から一段下がっていて、下で上からの客を迎えるということです。

屋号が松屋で、外蔵が2棟、内蔵、紙蔵、米蔵と5つの蔵がありました。今は外蔵1棟が残っています。外観のみの見学です。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_5473-1024x576.jpg

横山家の前にあるのが千住絵馬屋・吉田屋です。

吉田家は江戸中期から代々絵馬を描き、地口行灯(じくちあんどん)や凧なども描いてきた際物問屋(きわものとんや)です。千住絵馬の特徴は、縁取りした経木(きょうぎ)に胡粉(ごふん)を塗り、極彩色の泥絵の具で家伝の図柄を描く小絵馬で、その種類は三十数種類あります。こちらも外観のみ。

日光街道と水戸街道・佐倉街道の追分

日光街道と下妻海道の追分

江戸時代から接骨院をしている名倉医院。平屋木造建築で現在も診療をしています。

名倉医院から旧日光街道から一本線路側の道を引き返しました。

氷川神社めやみ地蔵尊長圓寺長円寺など寺社が並んでいます。

駅前までもどりそれからは適当に散策。駅前商店街には大橋眼科の素敵な洋館が。

赤門寺(あかもんでら)で親しまれる三宮神山大鷲院勝専寺(さんぐうじんざんだいしゅういんしょうせんじ)。京都の知恩院を本山とする浄土宗寺院。日光道中が整備されるとここに徳川家の御殿が造営され、秀忠、家光、家綱らの利用がありました。

鐘楼、法然上人御詠歌碑(月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ)

旧日光街道を南に千住大橋のほうに進むと、森鴎外旧居跡があります。鴎外の父が橘井堂(きっせいどう)医院を開業した場所で、鴎外がドイツに留学するまでの三年間を過ごした家です。江戸時代の旅の痕跡もあります。千住宿問屋場貫目改所跡高札場跡一里塚跡。勝専寺までは行きましたがここからは歩いていないのです。

千住大橋を渡りさらに南に進み、コツ通りに入り進むと小塚原回向院(こつかっぱらえこういん)があり常磐線を渡った先には小塚刑場跡があります。常磐線南千住駅からが近いです。

医学書『ターヘル・アナトミア』を手に杉田玄白さんと前野良沢さんが腑分け(解剖)の見学に来た場所です。

三谷幸喜さん脚本のテレビドラマ『風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜』(原作・みなもと太郎)は面白かったです。『ひらけ蘭学のとびら 「解体新書」をつくった杉田玄白と蘭方医たち』(鳴海風・著)を読んでいたので、杉田玄白さんが全然語学がダメで、前野良沢さんが訳語にきびしく、こんな翻訳では出版などできないと言ったのを知っていましたので誇張ではなくこんな風の中で頑張っていたのだろうなあと共感できました。

凄いですよね。訳にこだわったことで、神経などの言葉が今も使われているのですから。

旧日光街道の千住宿は半分しか歩いていませんが、千住大橋は両国から隅田川テラスを歩き千住大橋までたどりつき帰りましたので、そこにある千住宿半分を短時間で散策できたのは予定外の収穫でした。

まだまだ歩くところが膨大にあって、前野良沢さんの真面目さと、杉田玄白さんの今の医学のためにの信念を少しお借りして、楽観的なおおまかさで少しづつ進むことにします。

追記: 落語の『三十石』でお客が船に乗り込むとき、若い娘の売り子が「おちりにあんぽんたんににしのとういんがみいらんかね~」と声をはりあげます。人の顔見てあんぽんたんとは失礼なというと、もう一人の仲間がおちりはチリ紙におをつけて、あんぽんたんはあげたお菓子に砂糖をまぶしたもので、西の洞院紙は再生した紙だと説明します。西の洞院紙は関東でいうなら浅草紙のことと付け加えることもあります。千住の横山家は浅草紙の問屋だったのでしょう。再生紙は浅草で作られていたのが足立や千住に移ったと言われています。 

追記2: 上記写真の目やみ地蔵堂の両脇に奉納されている絵馬は絵馬屋吉田家の絵馬だそうです。残念なことにそこまで見ませんでした。

2022年4月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)


テレビドラマ『砂の器』(1977年)

テレビドラマ『砂の器』(1977年)は簡単に終わるとおもったのですが、脚本が伏線を挿入していて、ラストは長嶋茂雄さんの引退と重なるという思いもよらない展開でした。このドラマが放送された1977年に見た方は、1974年のプロ野球の勝敗の様子が浮かんだかもしれません。野球にそれほど興味の無い者にとっては伏線の濃厚さんに驚かされました。脚本は仲代達矢さんのかけがえのないパートナーであった隆巴さんでした。

第二話と第三話には役者・宮崎恭子さんとしても出演もされていました。早くに役者をやめられていましたので宮崎恭子さんの演技が観られなかったのですが、今回観ることができました。舞台役者さんとしてしっかり基礎を身につけられ演出もされていますので短い出演ですがやはり間の流れの切れがいいです。

昭和49年(1974年)7月10日払暁 大田区蒲田電車区でレール上に遺棄された死体が発見されます。顔は意図的になのかわからないほど壊され残忍なことから怨恨説が考えられました。 

この事件を担当し、捜査本部解散のあともコンビで捜査に当たるのが、西蒲田署の吉村弘(山本亘)と警視庁捜査一課の今西栄太郎(仲代達矢)です。

この今西がプロ野球の巨人ファンで、巨人の勝敗が何よりの関心事で、事件に対する真剣味にかけるのです。単なるそういう人物設定かと思いましたらずーっと野球の勝敗がでてくるのです。時間と共に今西の野球に対する熱心度に変化が出てきます。今西は事件の難解さにのめり込み、次第に謎に熱中していきます。事件が野球と同じ位置になり、事件解決が野球よりも上になっていきます。

面白いのは、事件の経過報告の日にちが知らされていたのが、それよりも野球の途中経過の日にちが知らされるようになります。世の中もう事件のことなど忘れていて、中日と巨人の優勝争いに沸き立っています。みんなが違う方に目が移っているときもコツコツと真実と向き合っている人がいるということの裏返しのようにおもえました。

この事件の手掛かりは、殺された人と犯人とのバーでの会話でした。「かめだは変わりありませんか。」「かめだは相変わらずです。」殺された人がズーズー弁だったということで秋田県の羽後亀田が特定されます。しかし、手掛かりがありません。さらに出雲弁もズーズー弁の仲間だということを知ります。そして見つけられたのが島根県の亀嵩(かめだけ)です。『砂の器』を読んだとき松本清張さんはよくこのからくりを探し当てられたなと感嘆し惹きつけられました。

殺された人は岡山に住む三木謙一とわかります。亀嵩で巡査をしていたことがあったのです。ところが善行の人で人から感謝されても恨まれることはなにもないのです。

今西と吉村が羽後亀田に出張したとき秋田美人とも思われる女性に会っており、その女性が蒲田電車区近くで自殺未遂をし失踪します。その女性の二通の遺書から、劇団と関係があるとして東京の劇団を訪ね歩きます。その女性・成瀬は民衆座という劇団の事務局で働いていましたがやめていました。その民衆座で今西の受け答えをしてくれるのが川口(宮崎恭子)でした。

今西と川口のやり取りは相手の台詞の橋渡しが上手く、重要な発見の場をさらっと位置付けてくれます。まだまだ謎は深まるばかりですからテンポが上手く的確なやりとりでした。

今西と吉村が成瀬を見たとき一緒にいたのが劇団の舞台装置担当の宮田でした。宮田は事故か他殺か亡くなってしまいます。この成瀬と宮田と京都の高校で同窓生だったのが天才音楽家の和賀英良(田村正和)でした。しかし、殺された三木とのつながりがありません。

今西にはつらい過去があり、自分の刑事魂の不注意から息子を交通事故で亡くしています。妻も去り、彼は息子の死という過去を消し去ることができないでいました。

一方、善意に満ちた人を自分の過去を消すために殺してしまうという人間もいました。懐かしいという感情は、過去を消した男にとっては邪魔なだけでした。その人が善人であるかどうかなどは判断材料にもならなかったのです。

今西は殺された三木が善人過ぎて犯人がなぜ殺したのか想像がつかなかったのですが、吉村が恋人との電話の受け答えで明るく「困るねえ今頃、そんなこと覚えてもらっていても。」という言葉から、三木巡査が良かれと思ってした善行の結果がこの事件の原因となりはしないかとおもいいたるのです。

そこから三木巡査が面倒を見た巡礼親子・本浦千代吉・秀夫の本籍地石川県へ行き、さらに三木が伊勢参りから急に東京に出てきた原因をさがしに伊勢にいきます。三木はそこで映画を観ていました。映画を試写してもらい観ますが何も見つけられません。

吉村の恋人がニュース映画のことを話し二人はニュース映画のあることを知ります。捜査のきっかけに日常的な会話が重要な役割を果たしています。三木が見たニュース映画に和賀が写っていたのです。

ニュース映画は「中日ニュース」で<熱戦!中日~巨人>首位争いで、我賀が球場で観戦しているのが写っていたのです。我賀には額の左に傷があり、それがしっかり写っていましたった。三木はこのニュース映画を見て立派になった巡礼の子に会いたくなったのでしょう。

昭和49年(1947年)10月12日、今西は和賀の本籍地大阪にいきます。そこは戦争で焼け野原となり、本籍原簿も焼失し本人の申し立てによって本籍再生が認められていました。和賀英良の父母は大空襲の日に亡くなっていました。老婦人からピアノなどの楽器修繕屋の和賀夫婦には子供がなく、戦争浮浪児が手伝いをしていたということをききます。中日が20年ぶりに優勝した日でした。

和賀英良は大臣の娘と婚約していて、大臣宅で海外に演奏旅行に行くまえのセレモニーとして新作曲「炎」を婚約者と二人でピアノ演奏しています。彼は自分の中にいろんな炎があると語っていました。栄光への炎が一番強かったのかもしれませんが、いつかその炎は、過去を消す炎のほうが大きくなってしまったようです。

和賀が逮捕された日、長嶋茂雄さんの引退がテレビで放送されています。今西は「終わった。終わった。全部終わった。」とつぶやきます。事件は解決しましたが、違う幸せから遠のいてしまったようです。

今西にも伏線がありました。過去のことから、妻の妹ととの心の交流があったのです。それも終わりました。

今西には栄光はありませんでした。ただ、再び事件解決への自分の仕事への想いはつながったことでしょう。終わってみればこういう熱い捜査も変わる時期に来ているのかもしれません。ただ一人の後輩にはその道は伝授されたでしょう。

仲代達矢さんの今西はとにかく歩いて歩いて探し出し確かめるという刑事です。夜行の列車での出張で自費で調べに行ったりもします。そのため少しでも手掛かりがあると野球の勝敗よりも手応えを失くしていた勘をとりもどしのめりこんでいきます。ただ理知的根拠に基づいているともいえます。それと同時に義妹との感情のもつれを細やかな振幅で表現されました。

田村正和さんの和賀は全く炎を見せません。ただ人を操る自信はあるようでそれを悟られないように優雅なたたずまいです。なんの苦労もなく才能に恵まれて格好よく生きてきたという感じを崩しません。逮捕されても少し表情を硬くし静かに後姿を見せ去っていきます。炎の内面は、子供時代の子役さんによって伝えられます。

登場人物として和賀の親友で新進評論家・関川重雄の嫉妬という感情もからんでいます。和賀は関川の嫉妬も冷静に受け止めていました。あらゆる感情を自分の物差しで判断しながら善良さということには気がつけなかったのです。

原作とも、映画とも違う社会現象とオーバーラップさせるという手法を使われた脚本でした。その交差の複雑さを丁寧に計算されて展開させた力量が素晴らしいと思いました。

和賀英良、正しくは本浦秀夫の足跡を簡単にたどります。

石川県の寒村に生まれました。父・千代吉はシナ事変に出征し帰還しますが精神を患い働くこともできません。妻はそれを悲観して秀夫を抱いて飛び降り自殺をします。秀夫は奇跡的に助かり、左おでこに深い傷跡を残します。千代吉は秀夫をかわいがるので、親せきは親子を巡礼として送り出します。

亀嵩で三木巡査は困っている巡礼親子の面倒を見、父親は精神病院にいれ、子供は引き取りますが秀夫は3か月後に失踪します。

大阪で戦争浮浪児として生き抜き、新しい戸籍を作り、進駐軍に出入りのバンドボーイからつてで渡米。才能を開花させ、後ろ盾も手に入れていました。彼はもっと光り輝く上を目指していたのです。

脚本に興味を持ちネタバレになってしまいましたが、第1回から第6回で最終回ですので、もし観ることがあれば違う部分に気を取られて忘れていることでしょう。二回観ましたが結構記憶が飛んでいました。

追記: 舞台『左の腕』のパンフレットでも、松本清張さんの原作ではないのですが清張さんが出演されている映画として『白と黒』(堀川弘通監督)が紹介されていました。橋本忍さんのオリジナルシナリオで手の込んだ展開で奇抜な作品です。弁護士の仲代さんが不倫相手に手をかけてしまうのですが、犯人として別の人が捕まります。弁護士は罪の呵責から真犯人は他にいるのではというので、担当検事である小林桂樹さんが調べ直すのです。仲代さんと小林さんによる、白と黒の目の出どころが見ものです。

追記2: 松本清張さんがチラッと出演するのがNHK土曜ドラマ「松本清張シリーズ」(1970年から1980年代)です。その中の「遠い接近」(脚本・大野靖子、演出・和田勉)は小林桂樹さんが、選ぶ人の感情に左右されて招集されもどってみると家族は広島で亡くなっており招集担当者への復讐を誓います。ここでもサラリーマンシリーズとは違う小林さんの演技がひかりました。仲代さんの映像出演作品には共演者の演技にも目がいきその役者さんの作品を追ったりします。今追うことができる方法があるのが嬉しいです。

追記3: 映画『すばらしき世界』(脚本・監督・西川美和)。<すばらしき映画>でした。長いこと刑務所暮らしをしていた主人公(役所広司)が出所して普通に生活していけるかどうか。観ている者も<怒るな!怒るな!>と祈るような気持ちになりますが、怒らない方が正しいのであろうかと疑問に思わされる映画でもありました。西川美和監督作品の切り込み方は鋭くて深いのですが優しさがあります。

追記4: 『TV見仏記4 西山・高槻篇』を観ていたら、ある仏像の手の美しさを褒めていて、「ピアニストの手だね。『砂の器』系だね。」のみうらじゅんさんの発言には笑ってしまいました。お二人の発想のみなもとの多様性がうらやましいです。

追記5:  みうらじゅんさんの文庫本『清張地獄八景』を書店で横目でみつつ通り過ぎています。引きが強いです。

              

仲代達矢・役者七十周年記念作品『左の腕』

左の腕』は松本清張さんの原作で、柳家小三治さんの朗読をCDできいたことがあります。淡々と語られていき、卯助とおあき親子にきびしい世間の風がすきま風のように忍び寄り、その風は強くなりつつあり立っていられるかどうか危ぶまれる状況となります。卯助は違う風にすっくと立ち向かい、その風によって救われるのです。この後半をどう持っていくかが重要な所でしょう。

小三治さんの朗読も無名塾の『左の腕』も後半まで上手くもっていき情を持って卯助を浮かび上がらせ、左の腕のもの悲しさを表していました。

舞台は江戸時代で、料理屋・松葉屋の裏口の土間と板の間です。舞台装置のこの板の間の板の感じのリアルさがよかったです。よく磨かれているが長い時間が経った板の感触がしっかり伝わる細やかさがありました。

その土間を借りてお昼の弁当を食べている飴細工売りの卯助。疲れの見える年齢です。飴細工の屋台を背負いつつ一日中売り歩くには重労働の年齢になっていました。そんな時、おあきに惚れている板前の銀次が女将さんにおあきをお手伝いとして働けるように紹介してくれます。女将さんは、卯助も一緒に下働きとして雇ってくれます。卯助親子にとってそれは大助かりなことでした。

時代物にはこういうささやかな庶民の幸せに横槍を入れる人物が登場します。それが目明しの稲荷の麻吉です。人の弱みを嗅ぎ付け脅しやたかりをくわだてるあさましい人間です。麻吉は卯吉の布を巻いた左の腕に目をつけるのです。

後半の展開は松本清張さんの推理小説をおもわせ、違う世界から卯助に光を当てるという形をとります。仲代達矢さんはその変化をしっかりと見せてくれます。かつての仲間の熊五郎の語りとその雰囲気も役によくでていて、それを黙って聞く卯助の存在感はそこにいるだけで大きさを感じさせます。

この世の中で生きずらい人を救ってくれるのは、やはり人なんだという当たり前のことを再認識させてくれました。ただそれがもっとも難しい時代となっているのを知らされている今の時代でもあります。

ロビーに展示されていました。

プログラムに下記の記念誌がついてました。仲代さんのお顔の絵は、隆巴さんが描かれていて、よく特徴を捉えられています。

演劇、映画、テレビの仕事を合わせると膨大な量の仕事をされています。それも全力でぶつかられた仕事ばかりです。今もその道は続いているのです。

松本清張原作作品では、テレビで『砂の器』と『霧の旗』に出演されたようで、『砂の器』はレンタルでも観れますので鑑賞する予定です。

1010ギャラリーでは『仲代達矢七十周年記念展』を開催されていたようですが3日~9日までと短く、残念ながら見ることができませんでした。

その分、日光街道の千住を少し散策してきました。

追記: テレビドラマ『砂の器』は田村正和さんとの共演でした。田村正和さんのテレビドラマはあまり見ていないのですが、『告発〜国選弁護人』はレンタルで選び、気に入りました。松本清張さんの作品をもとに、国選弁護人である田村さんが事件の真相を解明していき弁護するのです。どうして国選弁護人をするようになったかという背景もあり演技としてもいじりすぎない好演でした。あの『砂の器』がお二人の共演でどんなことになるのか楽しみがふえました。

四国こんぴら歌舞伎(1)

金丸座での歌舞伎復活は、テレビ番組で復元した金丸座へ吉右衛門さん、藤十郎さん、勘三郎(当時勘九郎)さんがトーク番組で訪ねてここで歌舞伎がしたいねという話が出てそれで実現したのです。そのテレビ番組を後で見て知りました。(昭和60年・NHK特集『再現!こんぴら大芝居』)

1985年(昭和60年)に第1回の上演が三日間ありその時は吉右衛門さんと藤十郎さんが出演され、次の年の第二回目は吉右衛門さん、藤十郎さん、勘九郎さんの三人が出演されています。

第20回目(2004年)に、金丸座で歌舞伎を観ることができました。お練りも見れました。切符のとり方など面倒なので、切符付き、琴平宿泊のフリーツアーセットで申し込んだと思います。友人と二人でお練りの道筋などを検討し、お練り見物に参加、宿泊所から金丸座の位置確認と所要時間などを確認したりと果敢に琴平の町を移動しました。次の日は芝居見物と金毘羅さん参りだったとおもいますが。

第20回記念公演で、さらに「二代目中村魁春襲名披露」というお目出たい舞台でした。さらなる金丸座修復で江戸時代の「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛けがみつかり「羽衣」ではその仕掛けを使ったのですが、残念ながら第一部の観劇でしたので見れませんでした。

演目の『再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)~桜にまよえる破戒清玄~』は、一回目での演目でもあり、「清玄清姫もの」の『遇曽我中村(さいかいそがのなかむら)』を吉右衛門さんが改編し20回目でさらに手を加えられたものです。吉右衛門さんの祖先は芝居茶屋を営みながら松貫四の名前で芝居を書かれていた人で、二代目もこの名前で作品を新しくしています。

清玄(せいげん)と桜姫の恋人の千葉之助清玄(きよはる)の同じ文字でありながら読み方の違うことから清水寺法師・清玄(吉右衛門)の悲劇がおこるのです。桜姫(魁春)と千葉之助清玄(梅玉)の逢引の手紙から同じ名前の清玄が罪をかぶります。当然破戒僧となるのです。そして、桜姫に恋焦がれてしまうということになり、これは叶うこともなく清玄は殺されてしまいます。清玄の霊は鎮まることがなく亡霊となってあらわれるのです。

小さな芝居小屋のほの暗さの華やかな舞台から、亡霊の場というおどろおどろしさを現出させようとの取り組みがわかりました。

平場での芝居見物は動きが制限され慣れない姿勢で窮屈だったような記憶もあります。今調べますと随分観やすい雰囲気になっているようで、今年も開催できないのは残念です。

それからです。切符さえとればなんとかなるのだということで、愛媛県の内子座などでの文楽などを鑑賞したのは。

いずれは出かけることも少なくなり、家での鑑賞になるのかなと思っていましたら、新型コロナのために早めに予行練習させられることになりました。これも気力のあるうちでないとできないということを痛感しています。

というわけで、初代、二代目吉右衛門のDVD鑑賞となりました。

二代目が主で二代目の得意とした21演目のダイジェスト版です。2時間強ですが、好い場面ばかりで、やはりお見事と休むことなく鑑賞してしまいました。戦さの悲劇性、虚しさなどが歌舞伎でありながら伝わってくるのです。現代にリンクする芸の深さです。

追記: 浪曲「石松金比羅代参」。次郎長が願かけて叶った仇討ちの刀を納めるために代参の石松の金比羅滞在模様は一節で終わり、大阪へと移動します。大阪見物を三日して八軒屋(家)から伏見までの30石船の船旅です。おなじみの「石松三十石船道中」となります。上り船で関東へ帰る旅人が乗り合わせての東海道の噂話という設定なわけです。

追記2: 落語で「三十石(さんじっこく)」(「三十石夢の通い路」)というのがあります。上方落語で六代目円生さんのテープを持っていてかつて聴いたのですがインパクトが弱かったのです。今はユーチューブで何人かの上方落語家さんの音声や映像で見れるので便利でありがたいです。落語は京から大阪への下り船で夜船です。

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追記3: 円生さんはまくらで『三十石』は橘家円喬が上方へ一年半くらい行っていた時に持ち帰り、それが円生さんの父五代目に、そして自分につながったと話されます。一度聴いただけではとらえ残しがありますね。

下げは、船で五十両盗んだ男を捕まえてみるとコンニャク屋の権兵衛で、「権兵衛コンニャク船頭の利」となり、「権兵衛コンニャクしんどが利」からきていて、京阪の古いことわざで「骨折り損のくたびれもうけ」の意だそうでそこまではやらずろくろ首でおわっています。米朝さんも権兵衛の下げはつかっていません。

円生さんは船の中の客に謎ときをさせ、沢山の船客を登場させます。客も江戸弁で上方との違いを表し、自分の語り口を生かしています。歌がありそれぞれの落語家さんの味わいのでる噺です。

追記4: 落語『三十石』にも出てくる京・伏見の船宿・寺田屋は坂本竜馬が襲われて難を逃れたのでも有名ですが復元されていて見学もできます。三十石船と十石船にも乗ることができ、十石船に乗りました。落語で出てくる物売りの舟(くらわんか舟)もありましたが、落語のようなにぎやかさではなく穏やかに商売をしていました。

追記5: 「第20回記念のこんぴら歌舞伎」がテレビで放映され録画していました。生で観ていたので録画は見ないでしまい込んでありました。今回見直し大きな誤りをしていました。 「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛け  とおもっていましたら、花道の上を飛ぶ宙乗りでした。映像を見てびっくりした次第です。

 

幕末の庶民の人気者・森の石松

思うのですが幕末の庶民の人気者と言えば、森の石松ではないでしょうか。講談や浪曲で圧倒的人気を得ました。

喧嘩早く、情にもろく、ちょっとぬけているところもあり、都鳥にだまし討ちにあって無念の最後というのも愛すべきキャラクターとしては条件がそろっています。

勘三郎さんの勘九郎時代のテレビドラマ『森の石松 すし食いねェ! ご存じ暴れん坊一代』を観ました。よく動き体全体で感情を表す森の石松です。

観ていたらシーボルトが出てきたのです。シーボルトが江戸へ行く途中で、それを見たとたんに石松は走り出します。江尻宿でしょう。仲間の松五郎の出べそを治療してもらおうとするのですが望みはかないませんでした。

そして次郎長親分の名代で四国の金毘羅へお礼参りに行くのです。そして金丸座で芝居見物です。上演演目は『先代萩』です。前の客’(鶴瓶)がうどんを音を立てて食べていて、石松は「うるさい。」と文句を言います。舞台は八汐が千松に短刀を突き刺しています。石松は芝居だということも忘れて「何やってんだよ。」と騒ぎ立てうどんの客と大喧嘩となります。

舞台の八汐、「何をざわざわさわぐことないわいな。」。勘三郎さんの八汐がいいんですよ。この台詞を聞けただけでもサプライズです。さらに舞台の役のうえでの台詞と、観客席の騒がしさ両方にかけた台詞になっているというのが落としどころ。

石松と八汐。同じ人とは思えません。

政岡( 小山三)が「ちょっと幕だよ、幕、幕・・・」。閉まった幕の前で千松(勘太郎)が「うるさいよ、おまえ。人がせっかく芝居しているのに。」と怒鳴ります。笑えます。と映像は切り替わり、三十石船を映しだし船上へと移ります。知れたことで「江戸っ子だってね。」「神田の生まれよ!」(志ん朝)となります。お二人さんの掛け合いがこれまた極上の美味しさ。

この後、都田吉兵衛によってだまし討ちにあうのですが、江尻宿を通り越した追分の近くに「都田吉兵衛の供養塔」があります。

清水の次郎長一家は石松の仇をここで討ちますが、吉兵衛の菩提を弔う人がほとんどいなかったので里人が哀れに思って供養塔をたてたとあります。

ドラマで浪曲もながれますが、初代広沢虎造とクレジットにありました。私の持っているCDは二代目広沢虎造なのですが。よくわかりません。

追記: 二代目広沢虎造さんの『石松と七五郎』『焔魔堂の欺し討ち』を再聴。名調子の響きにあらためて感服しました。そして、ドラマ『赤めだか』を鑑賞。本が出ていて評判なのは知っていましたが、なぜか読まずにいました。好評なのを納得しました。談春さんはもとより、立川一門(前座)の様子が破天荒で、談志さんの落語と弟子に対する心がこれまた響き、笑いと涙でした。

追記2: 『赤めだか』(立川談春・著)一気に読みました。涙が出るほど笑いました。ラストは緊迫しました。人の想いの踏み込めない深さと繊細さ。落語の噺の世界のような本でした。

追記3: 2006年(平成18年)5月30日、新橋演舞場で談志さんと志の輔さんが、2008年(平成20年)6月28日、歌舞伎座で談志さんと談春さんが落語会を開いています。時期的には談志師匠が闘病中で身体的につらいころと思われますが嬉しそうに見えました。大きくならない赤めだかが大きくなったのですから嬉しくないはずがありません。そして談春さんが、「志の輔兄さんもやらなかった歌舞伎座です。」と言われたので皆さんどっと笑いました。立川一門のライバル意識を皆さん楽しんでいました。

追記4: テレビとかの映像画像は著作権に触れることもあるようなので削除しました。風景はよいらしいのですが、よくわからずにやっていました。申し訳ありません。他もありましたら少しずつ変更していきます。迷惑をかけた方がおられましたら深くお詫びいたします。