国立博物館 『栄西と建仁寺』

<栄西>に関しては知識はゼロに等しい。先ず、<栄西>が<ようさい>と読むことを知った。入ってすぐに、鎌倉寿福寺所蔵の栄西の座像があり、置いてあった目録と展示順番が違うので、係りの方に尋ねたら<ようさい>という。国立博物館では資料から今回の展示での呼び方を<ようさい>と統一している。チラシを良く見たら<ようさい>とひらがなをふってある。そのことに関しても、展示で説明があったが、<えいさい>と思っていたので、知らないことが沢山でてきそうな予感がする。寿福寺と<栄西>も?である。

栄西は吉備津神社の神職の子として生まれている。吉備津神社といえば、旅で訪ねたとき、『雨月物語』の<吉備津の釜>のように、神職の方が釜のお湯を沸かし、その前でお告げを待っているのか畏まっている方がいたので友人と、顔を見合わせたことがあるので忘れられない。

吉備津神社(0歳)→安養寺(11歳)→延暦寺(14歳)→入宋(28歳)→誓願寺(33歳)→再入宋(49歳)→聖福寺(55歳)→東大寺(60歳)→寿福寺(60歳)→建仁寺(62歳)

こんな流れである。入宋したときにお茶を持ち帰り、お茶の効用を説いた本などを残している。聖福寺ではお茶の種を播いている。寿福寺は北条政子が栄西を招き開山させている。そして、建仁寺は源頼家の庇護のもと建立している。

再入宋の時は清盛が衰退し仲原氏がパトロンとなっている。栄西の年令と時の政治情勢も照らし合わせなければならないのであろうが、その辺は深く興味を持ったときにする。

お茶に関しては、今も建仁寺で一年一回催される、<四頭茶会>が興味深い。茶会の行われる方丈内も再現され、ビデオでも紹介されているので、この場所でこういう風に行われるのだと様子がよくわかる。禅の茶礼ということで、今のお茶の前の形ということになる。

一番引き付けられたのは、栄西が明恵上人へ、南宋時代の<漢柿蔕茶入>に入れて、お茶の種を5粒贈っている事である。柿の形をした渋い茶入れである。高山寺所蔵であるから見たのかもしれないが記憶にない。お茶の記念碑があったのは覚えているが、今回、栂尾(とがのお)の茶の始めとあるから、初めて心に染みついた事柄のようで嬉しい。旅の時は、高山寺は鳥獣人物戯画と開け放たれた廊下からの庭が強い印象であった。

そして、高山寺、西明寺、神護寺と見て、もう一つの大きな目的である清滝川に沿って愛宕神社の鳥居前保存地区まで歩くことであった。自然の中を一人歩くのは清々しい。誰も人がいないというのは怖くないのであるが、前から雨上がりでビニール傘をもった男性が来たときは緊張してしまった。すれ違うほどの細い一本道で、あのビニール傘の先は凶器になる。〇〇サスペンス劇場の世界。<清滝殺人事件>。それからは急ぎ足となり、清々しさも半減したのでもう一度歩きたい道である。紅葉の頃がいいのであろう。さらに、 栄西さんと明恵さんの事も少し調べておいてからがよいであろう。

栄西禅師と明恵上人の交流が実態として明らかになり、実際に展示物をみての実感は嬉しいものである。

俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は三回目なので、また逢えたなとの感覚である。初めて見た時は、風を吹かせ、雷を起こす勢いを感じたが今回は冷静であった。

海北友松(かいほうゆうしょう)の絵のほうが面白かった。この絵師も今までインプットされていなかった。線が面白く、「雲龍図」は、ぼかしかたの大胆さが面白かった。

建仁寺の法脈は一つではなく「両足院」が栄西系統の拠点として存続しているとあり、有楽斎が、大坂の陣後、正伝院を再興し隠居所としていたようだ。小野篁(おののたかむら)の像には会ったが六道珍皇寺と六波羅密寺にはまだ行っていないので、気に留めておこう。

建仁寺も再訪したら、違う顔を発見できるかもしれない。

 

映画 『衝動殺人 息子よ』 と 映画 『チョコレートドーナッツ』

映画『衝動殺人 息子よ』と今公開中の映画『チョコレートドーナッツ』は、法律が絡んでくる。

木下恵介監督の『衝動殺人 息子よ』は、小さな幸福の中にいた家族が、息子を「殺すのは誰でもよかった」とする人間に殺されてしまう。息子の父親は、悲嘆の底から這い上がり、被害者遺族の救済はないのかと、同じ被害者遺族を尋ねる。そして殺されたことによるその後の家族の生活の困窮を知り、被害者家族の補償問題としての法律を作ってもらうべき運動を起こすのである。被害者遺族側の人の死をお金に換算することへの心苦しさや、思い出すのも辛い人々の気持ちを伝えつつ、救済の権利を粘り強く静かに伝えていく。この映画も一つの後押しとして、「犯罪被害給付制度」が制定される。

『チョコレートドーナツ』も、実話である。母親の育児放棄で、母親は薬でつかまってしまい、そこに居合わせた住人とそのパートナーが、一人になった少年を引き取り家族として小さな幸福の時間の中にいる。少年はダウン症で、ドーナツとハッピーエンドのお話が大好きである。ただこの少年の新しい保護者はゲイのため、世間がこれを認めようとしないのである。そして法律を操るのも人間であるから、その法律の解釈を使い、この家族は引き裂かれてしまう。何の見返りも求めない新しい家族が法律の枠の外で、心の結びつきでささやかな素晴らしい時間を持っていたのである。

どちらの映画も、マルコ少年の好きなハッピーエンドのおとぎ話ではない。法律が出来ても、心の全てを救うものではないし、法律が全ての愛を守るものではない。だからこそ、法律の一人歩きはよく見定めなくてはならないのである。

『衝動殺人 息子よ』の父親役の若山富三郎さんは、ヤクザ役から被害者の父親役という周囲が驚く転身である。母親役の高峰秀子さんは、この映画で引退される。高峰さんは、復員した池部良さんを再び映画に誘い池部さんの役者復活のきっかけを作っている。ヤクザ映画の役者さんが、その後、性格俳優になられたり、その反対だったり、池部さんのお父さんが復帰の時に言われたという「買われたら売る」が的を射ている。「売る」からには、つまらぬ包装紙でおおわれていないかを見極めるのは、商品を買うこちらのお客である。包装紙の好きな役者さんもいますし。

近頃、昭和の映画が、レンタルで多く見れるようになり、懐かしさではなく、一人の監督さんや役者さんの流れを検討したり、今の映画と比較できるのも嬉しいことである。そして、この映画にこの役者さんも出ていたのだと気がつくのも楽しい。

『衝動殺人 息子よ』には、多くの役者さんが出られていた。

出演/若山富三郎、高峰秀子、田中健、尾藤イサオ、高林早苗、大竹しのぶ、高村高廣、藤田まこと、近藤正臣、吉永小百合、加藤剛・・・・

監督・木下恵介/原作・佐藤秀郎/脚本・木下恵介、砂田量爾/撮影・岡崎宏三/音楽・木下忠司

 

映画 『昭和残侠伝』

池部良さんの『乾いた花』が出てくれば、自ずと知れた『昭和残侠伝』である。快楽亭ブラックさんが、「花」と「風」の名コンビ、花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池部良)の役名がそろうのは、4作目からと言われている。池部さんは、この作品に参加するとき、「入墨は入れないこと」「ポスターに写真を入れないで、字を小さくすること」「毎回死でしまうこと」と条件をだされたので、役名の固定化が不確定になったのかもしれない。

シリーズ第七作「死んで貰います」についてブラックさんは 「最後に秀次郎と風間が殴り込みに行かなければ、まるで川口松太郎の人情小説の世界。新派の舞台が似合いそうな物語に、藤純子が情感たっぷりに一目惚れしたした男を忘れられない芸者を好演、粋でイナセなマキノ美学が映画の隅まで生きていてシリーズ最高傑作となった」 とされるが、賛成である。ただ一つブラックさん間違っていました。秀次郎の義理の母は、三益愛子さんではなく、荒木道子さんである。ブラックさんは、幼稚園生の頃に、長谷川一夫さんとひばりさんの『銭形平次』を観ていて、今でも忘れられないそうであるから、どれだけの数の映画が頭の中にあることか。この位の間違いは些細な事であるが、荒木道子さんの理性ある義理の母親役もこの映画の情の部分に一役かっておられる。

秀次郎は料理屋の跡取りなのであるが、家を出てヤクザとなっている。風間はヤクザであったのが、この料理屋の主人に助けられ堅気の板前になって店を助けている。風間は女将さんが目が見えないので、秀次郎の素性を隠し板前として店に入れ、芸者の幾太郎(藤純子)と夫婦にさせようと何かと面倒をみる。女将さんは秀次郎が人の道を外れたのは自分のせいと思っている。このあたりの人間関係のそれぞれの科白が、上手く作られている。店の主人と娘は亡くなり、その婿が相場に手をだし店をだまし取られてしまう。そこで秀次郎と風間の出番となる。

ことによるとしらけてしまうような科白が、そうはならずいい場面に作りあげられている。風間が、秀次郎と幾太郎をからかったり、秀次郎を諭したりしながら、最後は秀次郎とともに同じ道をゆく。そこまでを、一本気の秀次郎を軸に上手く設定されているし、池部さんがよく支えている。マキノ雅弘監督の映画の中には、必要以上に女優さんを畳にオヨヨヨと身を崩して泣かせたりして、その演出に賛成できないものもある。ところが、幾太郎が秀次郎が殺されそうになり、秀次郎をかばい相手の前に体を張り理路整然という科白は溜飲を下げる。あり得ない架空のヤクザの世界のお話を様式化しているのである。それぞれの間がうまく流れていく。

一作目の殴り込みに行くとき、唄が一番だけの予定が二番も入れることになり、佐伯清監督が「歌謡映画じゃないんだぞ」と怒り、「お前らで勝手に撮れ」といわれ、助監督だった降旗康男監督が撮影所の裏の草原でフットライトを一つ当てるだけで撮ったらそれがかえって上手くいったというのも面白い話である。

シリーズのうち二作ほど観たが、このシリーズは池部さんと高倉さんのコンビあっての作品である。池部さんの経験した年数と高倉さんの年数が、役のうえからもバランスよく投影されている。二人が目を合わせ主題歌二番までで、一緒ではあるが二人がそれぞれの自分の行く道を見つめている。そこがまたいいのである。

このシリーズ、藤純子(富司)さんが出ている作品はあと二作ある。「血染め唐獅子」と「唐獅子仁義」である。「血染め唐獅子」は、高倉さんと池部さんが友人で敵対する組に入っている。藤さんは、高倉さんの許嫁で池部さんの妹である。藤さんは居酒屋で働き絣の着物で、この映画では高倉さんが明るい笑顔を見せるのが珍しい。神田の江戸っ子という事もあるのか。池部 さんは破門されるので、一緒に殴り込みとなる。「唐獅子仁義」は、高倉さんはかつて池部さんの腕を切り落としている。その池部さんの女房で芸者をして支えているのが藤さんである。池部さんは腕を切られても、高倉さんを男気のあるやつと思っている。殴り込みに行くとき、高倉さんは池部さんのドスを右手に手ぬぐいで結び付けてやる。見つめ合う。この高倉さんと池部さんの見つめ合いを期待して見ている方も多かったことであろう。日本人の好むところである。口には出さずとも、目と目で分かり合う。

「死んで貰います」がやはり良い。高倉さん、藤さん、池部さんの役どころがはっきりしていて、それぞれがその役柄を楽しませてくれる。

『昭和残侠伝』のこの三作の監督はマキノ雅弘監督である。一作目の池部さんの背広での登場は『乾いた花』を意識されているのかも。そして世話役の三遊亭円生さんの高座と同じ語り口での科白が楽しい。あの語りで科白になっている。監督は佐伯清監督。

映画 『乾いた花』

【池部良の世界展】 (早稲田大学演劇博物館) で、『乾いた花』に早く出会いたいものであると書いたが、1年半近くたっての出会いである。池部良さんの多少希望があるのかもしれないが、やはりじわじわ締め付ける虚無感が凄い。時に、ニヒルではない自然の笑みを浮かべる。しかし、何も望まない虚無の眼になっていく。その日常にふっと近づきながら離れていく過程もいい。

賭けることによってしか、自分の存在価値を見出せない男女が賭場で出会う。男は、ヤクザで人を殺し刑務所から出てきたばかりである。女の正体は最後まで解らない。この二人の男女の視線の中にもう一人何を考えているのか解らない薬をやっているであろう男の視線が絡まる。絡まる男に危険を感じているヤクザの男は、女にも注意をうながす。女は忠告を聞き入れているようで聞き入れていない。ヤクザの男は、巡りあわせでまた争う相手ヤクザを殺さなくてはならない。ヤクザの男は、女に自分が人を殺すところを見せる。女は瞬きもせずに見る。ヤクザの男は刑務所で、後から入所した仲間に、女が、絡らまる男に殺されたことを聞く。ヤクザの男の喪失感は、自分が思っていたよりも深かった。

ヤクザの男は、女が殺されるかもしれない。絡まる男に意味もなく近づく女を予想していた。それを食い止めるため、自分が人を殺すところを見せたのである。ここまで行っても女の望むようなものは何もないぞという事を示したのである。しかし、それが女の行動を止める力とはならなかった。

女の加賀まりこさんの衣装は、おしゃれできちんと仕立てられたものを着ている。そのまま高級レストランで食事ができるスタイルである。二人が賭場へ行く時待ち合わせるのが夜の教会の前で、女はスポーツカーで来る。それを待つヤクザの男の池部良さんは、教会の階段を降り、スポーツカーに乗る。外から見るダンディズムに反して、ふたりは埋めることの出来ない虚無を抱え込んでいる役柄である。絡む男は藤木孝さんで、この男の視線を凝視する池部さんの視線は今までの映画で見せたことのない暗い視線である。

この映画を引き受ける前に池部さんは舞台「敦煌」を、1週間で降板している。マスコミメディアは<映画で人気が少々落ち目のスターが舞台で失敗>と書き立てる。篠田正浩監督は、このような状況のとき、池部さんに映画出演依頼をする。テレビのインタビュウーで篠田監督は、その時のことを話されている。池部さんからどうして僕なのかと尋ねられ、小津監督は「早春」を、渋谷監督は「現代人」を、豊田監督は「雪国」「暗夜行路」を、木下監督は「破戒」を、池部さんで撮られている。下手だったらだれも池部さんを呼ばないでしょうと言われたと。池部さんはとても嬉しそうだったと付け加えられた。

この映画は、映倫に成人指定され、松竹は8か月間公開を見送るが、公開されると評判となる。この映画を観ると、脇であっても<池部良>という俳優の何かを見落としていたのではないかと思えてくる。

篠田監督は、キャスティングしてしまえば何もしませんと言われている。『乾いた花』の池部さんを引き出したのは篠田監督である。しかし篠田監督は細かい演出はしないと言われる。確かにあの池部さんの虚無感は、ああですこうです言われて出てくるものではないのかもしれない。その人の何処かにしまい込んでいたものが、表出しただけなのかも。

親分役の宮口精二さんと東野英治郎さんの凄味はないが、お互いを探り合いながら上手く立ち回り、子分には負担をしいる設定は、『仁義なき戦い』に受け継がれた感じがする。

『乾いた花』  監督・篠田正浩/原作・石原慎太郎/脚本・馬場当、篠田正浩/撮影・小杉正雄/出演・池部良、加賀まりこ、原知佐子、藤木孝、杉浦直樹、宮口精二、東野英治郎

 

映画 『暖簾』

山崎豊子さん原作の映画化である。川島雄三監督と、森繁久彌さんの組み合わせである。森繁さんは『夫婦善哉』のぼんぼんではなく、丁稚あがりの叩き上げの商人である。

ある日、昆布屋を営んでいる浪花屋利兵衛(中村鴈治郎)の後を付けてくる少年がいる。坂道があり、織田作さんの原作ではないが、織田作さんの大阪を彷彿とさせる。その少年は淡路島から大坂で働きたいと出てきた少年で、利兵衛も淡路島出身でなんとか使って貰えることとなる。店に連れて来られ、店の裏奥へ暖簾を頭で開け少年・五平は主人に<暖簾は大坂商人の魂>で、何んということをするのかと怒られる。

五平(森繁久彌)は身を粉にして働き、暖簾分けをして貰う。それは良かったのであるが、五平が結婚しようと思っていた同じ店の女中お松(乙羽信子)とは一緒になれず、利兵衛の姪のお千代(山田五十鈴)を押し付けられる。お松は五平を怒らしたらすぐ謝るのであるが、お千代は気が強く謝るどころではない。しかし、商売にかけてはしっかり者である。

建てた工場が伊勢湾台風で駄目になり資金繰りに困り本家に行くが、利兵衛はすでにこの世を去り、女将さん(浪花千枝子)にこっぴどく意見され助けてもらえない。その時、お千代は暖簾を担保に、五平をもう一回銀行に行かせるのである。

太平洋戦争があり、昆布は国の統制下に置かれてしまう。長男は戦死して、いい加減な次男・孝平(森繁久彌)が戦地から帰って来る。いい加減さは、昔のやり方に捉われないということでもあり、次々と新しいやり方を考えだし、店を建て直し、五平はそれを見届けて亡くなる。

森繁さんの演じ方、乙羽さんと山田さん二人の女優さんの描き方の違い、後半に入ってからの二役の森繁さんなど、筋とからめて楽しめる作品である。主人の中村鴈治郎さんも大阪商人そのもので、さらにその女将さんの浪花さんが手ごわくていい味である。

このレンタルDVDには、特典として、撮影の岡崎宏三さんが撮影現場を映した映像がついている。音声はないが、貴重な映像である。川島監督が細かい演技をつけられているのには驚いた。森繁さんが主人のお墓参りをする場面で、乙羽さんが先に来ていて再会するのであるが、その時、森繁さんが乙羽さんの首もとの汗を拭いてあげる。それが、前から後ろからとしつこい演技で、例の森繁さんの女好きの演技の延長でご自分での工夫かと思ったら、川島監督が実際にされて演技指導されていた。役者さんのそばに寄る映像も多々あり、川島監督は細かく演技をつける監督さんなのかと、ちょっと意外であった。この細かさで、監督ならではの女性像を造っていったのであろうか。

お松に会って、男心がよみがえったという感じをあらわしたのであろうが、言われなくても森繁さんは何か考えたような気がするが、その前に川島監督は、こちらの言い分を伝えたのかもしれない。こういう駆け引きも想像できて、嬉しい特典であった。録画と違い、こういう特典があることもあるのが、レンタルの楽しみでもある。

その演技指導は、違う監督さんと違う役者さんの場合と正反対のやり取りであったことを知ったことでも興味深い事であった。その映画とは、やっと観ることができた『乾いた花』である。

そして、『暖簾』の科白を大阪弁に直したのが藤本義一さんで『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』を書かれ本にされている。

『暖簾』  監督・川島雄三/原作・山崎豊子/劇化・菊田一夫/脚本・八住利雄、川島雄三/撮影・岡崎宏三/出演・森繁久彌、山田五十鈴、乙羽信子、浪花千枝子、中村鴈治郎

 

 

映画 『わが町』

映画『わが町』を見直したら観ていたのである。この映画を観た時、大阪の路地長屋の明治から昭和の終戦までの、ある男の一代記。親子三代の人情話。明治から昭和にかけて変らない大坂の庶民生活の活写。この主人公の生きる糧としている信条がよくわからない。さすが、川島監督、大坂天王寺の裏長屋を舞台にそこに住む人々の心情を<ターやん>を軸に丁寧に描いている。こんなところであった。辰巳柳太郎さん演じる<ターやん>がよくわからなかった。その押しつけが。

『マニラ瑞穂記』の舞台を観、フィリピンの<ベンゲット道路工事>の事を知って見直して観ると、<ターやん>が、<ベンゲットの他あやん>であることがやっと印象づけられた。映画の始めに 「比律賓ベンゲット道路開整工事絵図」 と書いたアルバムのようなものが大写しとなり、解説が入る。アメリカはマニラとバギオを結ぶ道路を造る。その途中のベンゲット山腹が難関で、フィリピン、中国、アメリカ等の1200名が1日一人は亡くなるという惨状でみんな逃げ出してしまう。そこで、明治36年秋、1200名の日本人労働者がカリフォルニアを開拓した不屈の精神力がかわれて海を渡るのである。その中に、佐渡島他吉がいたのである。ところが、労働条件は約束と違い次々と事故と病で亡くなる。途中帰るにも旅費がない。仕方なく、ここで挫けては亡くなった者にすまないの一念に団結し、仕事を成し遂げるのである。

開通してみると、1500名の労働者のうち、700名近くが亡くなっていた。開通すると、失業者である。成し遂げたという高揚感と失望から佐渡島他吉は、マニラで<ベンゲットの他あやん>として顔を売るが、厄介者として、日本に送り帰されるのである。帰って来てもお金はなし、神戸で車引きをしてお金をため、住んで居た河童(がたろ)路地の長屋に帰って来るのである。

ナレーションで説明されるが、そういうこともあったのかと実態がよくつかめないうちに、観ている者も河童長屋の住民に迎えられるようなものである。<ベンゲットの他あやん>は、日露戦争も勝利し、もう一回マニラに渡り日本人の心意気を見せなければ気が治まらないと、心はマニラである。この気持ちに回りの者は振り回され続ける。

女房のお鶴(南田洋子)は過労で亡くなり、男手で一つで育て上げた娘婿(大坂志郎)に、マニラ行きを進め、婿はマニラでコレラにかかり亡くなり、悲観して娘も子供を残し亡くなってしまう。日本は外地を求め太平洋戦争に突入。敗戦となる。それでも、他あやんは、育てた孫娘(南田洋子)の婿(三橋達也)にもマニラ行きを結婚の条件とする。

他あやんは<ベンゲットの他あやん>として生きる意外に生きる糧がないのである。他あやんの描いているベンゲット道路も、アメリカ人が避暑地に行くための道路であり、ダンスを楽しみに走る車のための道なのである。それを知りながら、他あやんは、自分のなかで理想化している架空のマニラへと、人を押し出していくのである。

そして、この<わが町>も、原作者・織田作之助さんの現実ではない<わが町>である。この小説は立身伝の国策ものとしてとらえられている。ここで原作と映画の照らし合わせは避けるが、この作品は、溝口健二監督が撮ることになっていた。戦時中で、国策を讃えるものにしろとの圧力があり、溝口監督は撮らなかった。それを、温めていて撮ったのが川島雄三監督なのである。

今観ると、<ベンゲットの他あやん>は、アメリカからも、日本からも騙されている男である。それを体験しつつも、他あやんが生きて娘と孫を育ててこれたのは、自分の中にある<ベンゲットの他あやん>の虚像と、架空の<わが町>である。この織田作さんの中の<わが町>を映像化したのが、川島監督である。非論理的なむちゃくちゃな<ベンゲットの他あやん>を受け入れてくれた<わが町>に、川島監督は、織田作さんの<わが町>を造り、織田作さんが批判された作家活動の時期の織田作さんを、その町に解き放ったのである。

ウソも本当も隠し立て出来ない貧乏長屋の住人の生きる狭い<わが町>は、住人ごと織田作さんへ贈った友情の証である。隣りの住む売れない落語家(殿山泰司)。独り者の床屋の息子(小沢昭一)。その母(北林谷栄)。

早くに亡くなってしまう織田作さん。病に犯されていた川島監督は、字も読めず、体一つの「人間はからだを責めて働かな噓や」の信条で生きる<他あやん>を、プラネタリウムの憧れの南十字星の懐のなかで死なせるのである。他あやんにはひと言伝えたい。<今度生まれてくるときは、せっかくの頑強な体を大事にせな、騙されたらあかんで>と。

『わが町』  監督・川島雄三/原作・織田作之助/脚本・八住利雄/撮影・高村倉太郎

 

新国立劇場 『マニラ瑞穂記』

<秋元松代>の名前をインプットしたのは、若い頃、「かさぶた式部考」と「常陸坊海尊」を読んでからである。これは何なのであろう。うまく説明できないが、面白い。でも摩訶不思議な重層性がある。そして棘もある。ずーと時間が立って、蜷川幸雄さん演出の「近松心中物語」が有名になり、大劇場で公演が続いても、これがあの秋元松代さんの作品とは結びつかなかった。秋元さんの作品が大劇場で公演されるものとは思えなかったからである。

『近松心中物語』を観ても、「秋元松代の世界だ!」とは思えなかった。今回『マニラ瑞穂記』を観て、「近松心中物語」も秋元さんなのだと思えた。

『マニラ瑞穂記』の女衒・秋岡伝次郎は、矛盾を抱えつつ生き抜いていく男である。秋岡にはモデルがいて、その男の戯曲『村岡伊平治伝』を秋元さんは書いている。『マニラ瑞穂記』の中で秋元さんは、秋岡を肯定も否定もしていない。ただこの男を断罪できるのは女達だけである。女達は秋岡が自分たちの世界から逃げ出す事を許さない。

秋元さんは、この男の立場をとり、自分の生み出した作品のどれが多くの人に受け入れられようと評価されようと、それは作品の持っている手管と思われているように思える。私などは、「近松心中物語」だけが代表作でいいのだろうかと疑問に思ってきたが、本人の秋元さんはこだわっていなかったのかもしれない。ただ今回、『マニラ瑞穂記』を観劇でき、やはりこの簡単には説明できない時代性と人間性と生きようとする力と大いなる矛盾の重層性が<秋元松代>だと再確認したのであるが。

新国立劇場がこれを取り上げ、栗山民也さんが演出し舞台化してくれたことは喜ばしい。ベテランの千葉哲也さん、山西惇さん、稲川実代子さんに加え新国立劇場演劇研修所修了者の若き役者さんたちのコラボはしっかりしていた。こんな若い個性的な役者さん達が育っていたのかと心強かった。

脚本の緻密さと演出家の力もあるのか、女性たちが一人一人深く考える境遇ではないが自分を押し出して、自分は自分として描かれているのが気持ち良い。

秋岡(千葉)の矛盾を、解り易く、諭すような騙すような科白の高崎(山西)とのやりとりが面白い。アクが強そうでいながら秋岡を憎めない男としている高崎の山西さんのキャラと、男気もありながらすぐ自分を肯定し、さらに説得に乗る秋岡の千葉さんのやりとりは絶妙である。常に上手く自分の周囲の人間をまとめ様と努力する高崎の<いつまでこんなことをやっているのだ>には、国と国の利害関係の泥沼化をもさしている。

明治時代のフィリピン独立運動を背景とするマニラ領事館からこの芝居は展開されるが、フィリピン独立運動など知らず、スペインから独立し、アメリカ植民地期に、フィリピンに渡航する日本人が増えたのも知らない。森繁久彌さんの当たり役『佐渡島他吉の生涯』もその時代と関係があり、織田作之助さんの『わが町』も関係があるそうだ。村岡伊平治を主人公にした映画が今村昌平監督の『女衒』である。(パンフレットより) 川島雄三監督の『わが町』は録画して見ていないので近々見ることとする。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭四月大歌舞伎』 (昼の部)

『寿春鳳凰祭(いわうはるこびきのにぎわい)』  <鳳凰>を、かつて歌舞伎座のあたりを<木挽町>といわれていた事にかけて読んでいるのである。<木挽町> 字といい響きといい残しておいてほしかった町名である。歌舞伎座松竹経営百年・先人の碑建立一年を記念しての<鳳凰祭>をことほぐ舞踊である。平安朝を舞台とする帝、女御、大臣、従者が艶やかに優雅に踊る。帝の我當さんの舞を観ていると、映画 『歌舞伎役者 片岡仁左衛門 (全六部)』(監督・ 羽田澄子)の十三代目仁左衛門さんが浮かび上がる。眼が不自由になられてから、身体は芸を覚えつくしていて、その立ち位置だけを歩数を数えて確認されていた。二十代の方々が映画に対し次のような感想を残されている。

<体の自由がきかなくなりつつも老いを感じさせないのがフシギでした><最初は老いていく現実をとらえたドキュメンタリーだと思って見ていたのですが、次第に芸の部分に引き込まれ、舞台の映像を見ながらいつの間にか涙があふれていました。>

来月は十四代仁左衛門さんも舞台に戻られるようで何よりである。

『鎌倉三代記』  これが難しい。三姫(「 本朝廿四孝」の八重垣姫、「祇園祭礼信仰記」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫) の一つである。八重垣姫と雪姫は、雀右衛門さんが印象的であったが、時姫は記憶として残っていないのである。今回は魁春さんであるから歌右衛門さんの形なのであろう。家康の大阪城攻めを鎌倉時代に置き換えている。三浦之助(梅玉)は城を抜け出し重態の母に暇乞いにくる。母・長門は未練がましいと逢おうしない。そこに許嫁の時姫(魁春)が長門の看病にきている。時姫は敵将時政の娘である。父の使いの藤三郎(幸四郎)が向かえくるが帰らない。三浦之助に夫婦の契をとくどく。三浦之助は夫婦になりたくば、父時政を討てという。時姫は父を討つことを決意する。藤三郎は実は佐々木高綱で、時姫に時政暗殺を仕向ける計略であった。高綱の戦話となる。

時姫の口説きが見せ場であるが、三浦之助に夫婦の契をと長門のいる部屋を気にしつつせまるが、その後、父を殺す決心をする所がさらーと流れて、もう決心してしまったのという感じであった。もう少し濃くてもよいのではないか。そのため三浦之助の受けも薄く感じた。高綱に なってからの幸四郎さんが時代味があってよかったが、もう少し時姫が濃ければ計略の意外性に見る側も驚きが強くなりドラマ性が出ると思うのだが。

『寿靭猿(ことぶきうつぼざる)』  三津五郎さんの歌舞伎復帰である。主人から矢を収める靭を猿の皮で修理するように命じられた女大名・三芳野(又五郎)と奴・橘平(巳之助)の前に猿が現れる。猿の主があるであろうと奴の巳之助さんが<ぬしに早く会いたいものである>というのが合図で猿曳寿太夫(三津五郎)が花道から現れる。一つの芸が戻ってくるということは本当におめでたいことである。猿曳きは猿は渡せないという。猿のしぐさがなんとも可愛いのである。三芳野は、では弓で射るという。猿曳きはムチで打ち殺す急所を知っているため自分が殺すという。ここからの猿曳きの苦しい心の内を三津五郎さんは猿を相手に情を出し丁寧に表現される。猿が舟を漕ぐ芸を無心に繰り返すのを見て、三芳野は猿を助けることにする。ホロりとさせ最後はほのぼのとさせてくれる。巳之助さんの奴の踊りを観て、奴凧を思い出す。奴というのは奴凧の体つきが必要なのだと気付かされた。

『曾根崎心中』。<坂田藤十郎一世一代にてお初相勤め申し候> これで終わりという事ではない。これで終わりと思う性根で勤めますとの意と解した。生玉神社で逢う場面は、お初の若さを強調されているようで違和感があったが、天満屋での縁の下に徳兵衛を隠し、周囲に気付かれないようにキセルを使ったり、足先で心中を決意する時の流れが絶妙であった。以前みたとき、この場面で気持ちがだれてしまったことがあり意外に思ったことがある。友人の九平次(橋之助)が生玉の場面でもいいだけ徳兵衛(翫雀)をいたぶり、天満屋でも言いたい放題で、お初と徳兵衛が次第に追い詰められていくのと上手く重なっていく。女中のとぼけた演技が、観ている者には可笑しいのであるが、悲劇に向かう二人にとっては難所の脱出である。そして、若いだけにどんどん二人だけの世界に入って行き心中へと向かっていくのである。曾根崎の森の場の舞台美術がよかった。森がすごく大きく、二人の人間が小さいのである。森の生命力に比べると若い二人の命が儚く、こんな小さな命が消えてしまうのかと慨嘆してしまう。緑のなかに、徳兵衛は緑系の地に縞模様。お初は白の着物に紫の帯そして赤い襦袢だったとおもうのだが、背景に映える色使いであった。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭四月大歌舞伎』(夜)

久方ぶりに『平家物語』に触れたので『一條大蔵譚』からにする。阿呆と本性の行きつ戻りつの演技は、お手の内といった吉右衛門さんの一條大蔵卿である。今回衣装の色が淡く感じた。「物語り」(吉右衛門著)のなかで<初代以来原色っぽい強いものと、やわらかい色の二種類があります。僕の場合は、若いときは強い色にしていますが、最近はだんだんやわらかい色のほうになってきました。>とあり、以前からやわらかい色を使われていたのであろうが、その色が合ってきたということであろうか。一條大蔵卿の密かに一人企む腹が語られるとき、やわらかい色でも芸で伝わるようになったと理解した。魁春さんの常盤御前が品があり梅玉さんの鬼次郎に打たれて、よくやったと褒めるあたりは、こちらもギリギリまで本心を見せない、位の高さがあった。芝雀さんが間者として入り込む隙の無さが、阿呆の大蔵卿と対峙して、阿呆さを一層際立たせた。中村歌女之丞さんが幹部になられたようであるが、鳴瀬として阿呆の大蔵卿をしっかり補佐されていた。

『女伊達』の時蔵さんは大きかった。国立劇場での<切られお富>が色気のある悪婆で、この役をやったことによって線の太さがでてこられたように思う。(3月国立劇場は観たのであるが書こうと思っているうちに日にちが過ぎてしまった。)男伊達は松江さんと萬太郎さんであるが、ここで違いがでた。萬太郎さん頑張っているのだが、松江さんの年輪には負けていた。それは、女伊達の時蔵さんと絡むとき、萬太郎さんの時女伊達が小さくなってしまうのである。これは観ていて相手役によって主役も違ってくる例として勉強させられた。男伊達を翻弄するあたりも大きく血の気もかんじられる女伊達であった。

『髪結新三』は、幸四郎さんは小悪党は無理と観る前から思ってしまった。大悪党で貫禄がありすぎる。手代の髪をあつかう職人である。普段はヘイヘイと頭を下げている髪結いである。柄が大きいだけに損である。弥太五郎源七より始めから大きいのである。大家さんの彌十郎さんが声を大きくして大家の狡さを出して対抗し、幸四郎さんも大家には負けていたがそうへこまされていたようにも思えない。橋之助さんの手代忠七は芝翫さんの忠七をしっかり学ばれたのであろう。台詞まわしなど芝翫さんを彷彿とさせた。しかし、芝翫さんのほうが、新三がさっさと忠七を置いていってしまい、新三を呼び止めるあたりからは、やわらかさがあった。世話物のやわらかさというのは難しいものと思えた。ただ、幸四郎さんの考える髪結新三とはこういうことなのかと思って観ると、これは幸四郎さんの解釈の髪結新三としての楽しみ方はある。そう考えるとバランスが取れていた。ただ時代性をかんがえると江戸からはみ出してしまう。

 

 

『遊行寺』と『東慶寺』と『長楽寺』

藤沢の「遊行寺」は「清浄光寺」と紹介される時もあり、二つの名前を頭に入れておいたほうが良いかもしれない。出会いが「遊行寺」なのでその名前で通すが、この御本尊は阿弥陀如来で公開はされていない。「遊行寺」の宝物館は、土・日・月・祝日開館である。社務所に遊行寺の案内冊子が売られていたようであるが、そこまで頭がまわらなかった。ただ説明板にこの「阿弥陀如来像」が<定朝様>とあった。<定朝様>は「東慶寺」で出会う。

鎌倉の「東慶寺」松岡宝蔵に、<如来立像>がありその説明に<定朝様>とあった。定朝は平安時代の後期の仏師で「平等院」の<阿弥陀如来座像>を造った大仏師である。貴族の間でこの仏師の作風が人気となり全国的に<定朝様>の仏像が造られる、それが鎌倉にも伝わったのであろう。仏像にも時代によって<人気>というものがあったのである。スーパー歌舞伎Ⅱ『空ヲ刻ム者』の若き仏師は、その<人気>の意味にも悩むのである。信仰の対象でありながらそのお姿に時代の好みが加わる。そのあたりから『空ヲ刻ム者』の題名も出てくるのであろう。形があれば人の好みが加わるのは必然であろう。それを超えるものは何であろうか。<空(くう)>をもがくようなのでここまでとする。

京都の「長楽寺」はどう関係するのか。一遍上人尊像を、このお寺の収蔵庫で拝観する。「長楽寺」と言えば、平清盛の娘であり安徳天皇の母であり、壇ノ浦の合戦で入水されたが助けられ、この寺で出家された<建礼門院>のお寺として有名である。八坂神社の南門を左手にしてまっすぐ進むと長楽寺の参道があり、山門がみえる。この下からの眺めも好きである。桓武天皇の勅命によって最澄が開基し、天台宗の別院から室町時代時宗に改まる。<時宗宗祖一遍上人尊像>は重文であり、深淵を見つめておられるようなお顔である。両手をピッタリ合わせ少し前かがみで立っておられる。

山門を入ると拝観料を払い左の建物に建礼門院関係の寺宝がある。花の無い時期で玄関を上がると大振りの活け方で枝葉が飾られている。嬉しいお出迎えである。建礼門院が出家される時、『平家物語』 に次のように書かれている。

、<長楽寺の印誓上人(いんぜいしょうにん)に御布施として、先帝安徳天皇の御直衣を贈られた。御最後の時までお召しになっていたので、その移り香もいまだになくなっていない。><上人はそれをいただいて、なんと申し上げてよいやらわからず、墨染の袖を顔に押し当てて、涙にくれながら御前を退かれたが、のちにこの御衣を旗に縫って、長楽寺の仏前にかけられたということである。>

この<安徳天皇御衣幡>やこの幡を収めるための箱を織田信長の弟・有楽斎が寄付しており、その複製が見れる。本物は特別展覧の期間に展示のようである。ここから相阿弥作の庭を眺めることが出来、静かな時間をもらう。本堂、収蔵庫、建礼門院毛髪塔、頼山陽の墓などをみていると、誰が突いたか鐘の音がする。良い響きである。この音が祇園一帯まで響くのであろうか。鐘を突きたいと思い、入口のお寺の方に誰が突いてもいいのか尋ねたら、駄目であった。時々勝手に突いてしまう人があるそうで、年越しには除夜の鐘として突かせてくれるそうである。鐘も突き方があって、突き方が悪いと長い間にひび割れたりするそうで鐘にも扱い方というものがあるのである。

このお寺の特別のお花はなく自然に任せているとのこと。玄関に活けられた枝葉が素敵だったことを伝えると、定期的に活けられているそうで、目に留まって嬉しいですとのお返事。それから少しお話しさせてもらうと、<一遍上人>は一生涯お寺を持たずに旅に暮らされたことを教えていただいた。そうであったか。あの像のお姿からすると納得できる。そんなわけで、この「長楽寺」で<一遍上人>の生き方を知ったのである。

「遊行寺」から「東慶寺」「長楽寺」へ鎌倉から京へと思いは飛んだのである。長楽寺宿坊のお名前が<遊行庵>である。