旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ(1)

『二宮』から『小田原』まで行ければと思っていたら、『箱根湯本』まで行けた。保土ヶ谷の<権太坂>のリベンジが暑かったので、『二宮』からは、8時には出発できるようにと実行したのが、上手くいった要因の一つである。もう一つは案内本をよく読みこんでいたこと。ただし友人がであるが、私はその場で読んで再確認。これも良かったのかも。思い込みがあるから、違う眼が入ることが、原点に戻れたともいえる。それにしても相も変わらず史跡を捜して行きつ戻りつである。仕方がないので、友人と二人で、本の編者の目から見た、突っ込みの入れ合いをして、楽しんで乗り切った。

「そう簡単に制覇できると思うのが甘い!」「そこは上手く行っても、油断させておいて戻らせた!」「これはこちらの責任ではない。当地の東海道への捉え方なのである。」

そして、昼食に美味しいお店に遭遇し満足感が気力と結びついた。さらに、大磯、二宮間の一里塚のリベンジを後回しとしたことも。捨てる計画あれば拾う計画ありである。

JR二宮駅から進んで国道1号から別れ旧東海道に入る道をまず見つけること。旧東海道は短い距離である。その分かれ道に<旧東海道の名残り>と標識があった。

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上手く旧東海道に入れた。右手<藤巻寺>と左手<道祖神>があるはずである。あれ!国道一号が見える。戻るしかない。立派な石の門柱には、<等覺院>とあり、上に小さく<藤巻寺>とある。境内には藤棚があり「将軍家光上洛のおりご覧になり、仁和寺宮が下向の際にもご覧になり、<藤巻寺>の別号を与えられた」と伝わり白い藤であるらしい。

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さて注意していたつもりだが、門柱をしっかり視ていなかった。行きつ戻りつ<道祖神>が無い。諦めて、国道1号線の合流点へ。あった。<天神社>の石碑もあり、もしかする<道祖神>をその後移したのかもしれないと「そういうことにしよう。」と許す。

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次が、<押切坂一里塚跡>であるが、これまた、国道1号を外れ短距離旧東海道である。これも上手く旧東海道に入れ、<史跡東海道一里塚の跡>も見つかる。案内板には、このあたりは旅人目当ての茶店やお店があり「梅沢の立場」と呼ばれて賑わっていた場所である。国道1号と合流し押切橋を渡る。しばらくはJR国府津駅までは国道1号を歩けばよい。

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JR甲府津駅を過ぎたところで行き過ぎてもどり、<真楽寺>と<勧堂>を捜す。<真楽寺>は解かった。<真楽寺>は親鸞さんゆかりの寺であるが、往古は聖徳太子さんの所縁よって建てられたとある。<勧堂(すすめどう)>は親鸞さんの草庵であるとのことだが、土地の人に尋ねてもはっきりせず、「時々人が立ち止まって見ている石碑があるのでそれかも知れない。」と教えてくださる。とにかくお礼を言って戻る。あった!石碑である。<御勧>とあり、その奥に何かある。親鸞さんが滞在されたという庵の跡である。中に何か残っているのかどうか、石作りで囲われていて様子は判らない。その裏に廻って観ると、相模湾が一望で風光明媚この上ない。親鸞さんなかなか風景に関しては贅沢である。

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地図上は些少の差で道を挟み並んでいる場合、こちらも、その些少さのさじ加減が難しい。それで、道の右、左と移動して捜すのであるが、見やすい所に表示があるかどうかはわからない。表示板なのか、石柱なのか、指標なのか。あれかなと検討をつけたり、突然あらわれたりする。

それにしても、お天気の良さが時々富士山の雪の残った頭を見せてくれるのが嬉しい。暑さのなかの一服の清涼感である。

国道左手に<小八幡一里塚>がある。その説明には、一里塚は家康が秀忠に命じて設けたとあり、男塚と女塚が左右にあるとしている。男塚と女塚の名称は初めて出て来た。さらにすすむと、今度は、日蓮さんの旧跡<法船寺>である。このお寺には小さな五重塔があった。

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次が昔は渡し舟であった<酒匂川(さかわがわ)>を渡るのである。今は<酒匂橋>であるが、渡しの位置まで行き、戻って、橋を渡り、渡しの着いた場所まで戻って、着いた場所からの道を進むのである。今回は、東側の渡し場も現在の橋のたもとで、西岸は橋から100メートルほど北側ということなので、楽である。しかし、酒匂橋からの景色がいい。富士山も少し見え、建物等をポンポン飛ばして消してしまう。これが雨や風のときは、川止めで旅人にとっては難儀なことであったのだ。この西岸の渡し場の位置が判らない。なんの表示もない。それらしい2本の道を通て一応通過とする。

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国道1号にでて、再度、超短い旧東海道である。小さなコブのように周って国道1号に出るのである。この道であろうと入ったら<新田義貞公首塚>の道標があり、ここが旧東海道と安心して進んだが首塚が無く国道1号に出てしまう。ももう一回道標までもどる。道標が ↱ 縦横であった。歩きながら見ているので長い横だけが目についた。「安心は禁物。要注意!」と言ってるよ。

ありました。小さな公園の中に。<新田義貞公首塚>の石碑である解説板もなく、この時代のことはよく解らないので、どうしてここにあるのかは不明である。首塚とみると、すぐ平将門さんなどの、首が飛んでくるのを連想してしまう。無事見つかり、国道1号と合流して小田原宿に向かう。因みに小田原宿は日本橋を発った旅人が二泊目の宿の場所である。

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素浄瑠璃の会 『浄瑠璃解体新書』

竹本千歳太夫さんと野澤錦糸さんの<素浄瑠璃の会>。大変刺激になり復習もしました。11演目の聞かせどころ、クドキの違いなど実戦をともなっての解体なので新たな好奇心がムクムクと目を覚ます。

友人に電話で「千歳太夫さんと錦糸さんの・・・」と言っただけで「行きたい!」との即答である。

『野崎村の段』での、お店のお嬢様のお染と、村娘のお光の違い。<勘平腹切りの段>のメリヤス。<帯屋の段>のサワリ。<鮨屋の段>のゆるり。「三つ違ひの兄さんと・・・」「せまじきものは宮仕へ」「十六年も一昔。」の有名な部分。<尼ケ崎の段><堀川猿回しの段><政岡忠儀の段>の境遇の違う女性の語りの違い。千歳太夫さんは苦手の子供が語る<順礼歌の段>など、いつもは三味線の者はしゃべらないのですがと錦糸さんが、解説してくれ、千歳太夫さんからも話しを引き出してくださる。千歳太夫さんは、本を何冊も出し、即その場面の気持ちに早変わりである。

皆さん感心したり、納得したり、笑ったり、反応が良い。最後は、『艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』<酒屋の段>の「今頃は半七様、どこにどうしてござらうぞ。」を覚えて行って下さいと、皆で声を出す。難しい。希望者が5人ほど次々前に出て肩衣を着けてもらって語られた。伸ばすところは、千歳太夫さんが助けられ、錦糸さんの三味線にのり、個性を発揮された。錦糸さんお薦めのお風呂で、帰ってから語られたかたもいるやもしれない。

録画として『絵本太功記』、『仮名手本忠臣蔵』があり、早速、解説された部分を観る。『絵本太功記』<尼ケ崎の段>は、豊竹咲太夫さんに、豊澤富助さん。『仮名手本忠臣蔵』<勘平腹切の段>は竹本住太夫さんに鶴澤燕三さんであった。そして『艶姿女舞衣』<酒屋の段>の素浄瑠璃があった。住太夫さんと錦糸さんである。三味線の弾かない時間が思っていたよりも長くあり、次に音を出す時は太夫さんの調子と場面とを考えて神経をつかうであろうと思える。あまり大きく押すと太夫さんの声を駄目にしてしまうとのこと。太夫さんがのっているからと合わせて勢い込むと度を越してしまい、引き過ぎると勢いがなさすぎたりするのであろう。

「素浄瑠璃」も良いものである。自分で場面や話しを想像する。ただどうしてここはこんなに伸ばすのであろうかと思う。その辺が、こちらの現代の呼吸と違うところで、そこがいいのだというところまでには至っていない。至ることはないであろうが、人形がそれに合わせて動くと、一体化して必要な長さとなるのである。

また、千歳太夫と錦糸さんコンビの企画を江東区森下文化センターで考えてくれそうな予感がする。地下鉄からたどり着くまで三人のかたに道を聞いてしまったので、その経験を是非次回生かしたい。

 

 

映画『ゆずり葉の頃』の涙

ことさらに感動させたり、泣かせるような場面は出て来ないのに、なぜか涙がツーツーと頬を静かに流れる。軽井沢は美しくお洒落である。しかし、ものすごくそれが強調されているわけではない。主人公の一人の女性の眼に映る風景と、接する人々の静かな自然体の佇まいである。

主人公は見たいと思っていた一枚の絵。その絵を戦争で疎開していた軽井沢で会えるかもしれないと、ある画家の展覧会へ出向く。彼女はこの先の自分の生き方を決めようとしている。気負いでも諦念でもない。この今の時間をゆっくりと味わいつつ穏やかな微かな笑みを伴って。周りの人もその笑顔に誘われるように、彼女のペースに合わせて、彼女の楽しめる方向に成り行きを運んでくれ、彼女が満足してくれることに喜びを感じている。そして、疎開中に出会った一人の少年と出会った場所。

主人公役の八千草薫さんはもちろん美しいが、そこには、もっと美しい時間をかけた細いシワもあり、そこがまた人として素敵さがある。

美しく、美しく描こうとはされていない。幼い頃のままで残ってくれていたお寺に、昔の良い思い出だけを確かめにきて、それがやはり自分の芯として支えるに値するものであった事を確信するのである。

戦争中の苦しかったことも、一人で子供を育てたことも、淡々とした言葉で世間話のように語られ、他のひとの台詞で大変な時代であったことが短く伝えられる。そのわずかな個所に、微笑みを讃えてあたりまえのように優しく静かに毅然としている主人公を見ていると、やはり涙となるのである。映しだされなくても当時を感じることは出来る。そのほうが、いかに、今の佇まいが美しいかを思いやることができる。

綺麗な澄んだ池に広がる波紋。その波紋をつくるのが、かつて子供達が口に含んで頬を膨らませた飴玉である。このあたりが、心憎い設定であるが、波紋の移動と撮り方が何んとも言えない自然の摂理である。山下洋輔さんのピアノも、映像を見ている者の空間に心地よく入り、いつの間にか自分の中で音はなくなり、ふっと気がつくと、またもどる。こちらの感情に合わせて耳が動いてくれる。

見方によっては、どこにでもある風景である。しかし、この当たり前の風景がいかに大切であるかがしみじみと切なくもなる。特別ではあるが、当り前でもあるということの深さが身にこたえる。

主人公が特別のことを、当り前のように振る舞い、押しつけないところに、自分の時間で何かを止めようとしているようにも感じられる。この主人公たちから上の年代の方達はきちんと踏みとどまって、今の時代を創造し取り戻したことが伝わる。その少しの喜びを自分で楽しみながら体験し受け取り、自分の身の振り方も自分で決めようとしている。その踏み止まったことを当り前として微笑んでいることに涙したのかもしれない。

映画が終わって入り口を出ると、中監督が、立っておられ観終った観客に挨拶されていた。「良かったです。涙が止まらなくて。」とお伝えしたら、ちかくの男性のかたも同じだったらしく「泣くような場面はないんですがね。」といわれる。「そうなんです。むしろおしゃれな映画ですよね。」白いハンケチで目頭を押さえつつ「岡本喜八監督より上かもしれない。」とも言われていた。中みね子監督の出て来られる観客に挨拶されているその姿は、『江分利満氏の優雅な生活』での、江分利氏の奥さんが、酒飲みのお客を嫌な顔をせず相手をする新珠三千代さんの役と重なっていたが、それ以上の方であった。

ある画家は仲代達矢さんで、その再会もいい。思いがけないことにも主人公は、心をあらわにしないが、自分を支えてくれた芯が自分の想いと同じだったこと、見たかった絵も見ることができ、一人息子に静かに自分の考えを伝える。

主人公は一枚の絵を訪ねるが、映画のなかでは二枚の絵が、主軸となる。その絵も思っていたよりも静かな深さがあり映画を観る者の期待を裏切らなかった。

中みね子監督は、岡本喜八監督とは違う感性の映画を創られた。ゆずり葉は次の葉が出てくると緑のままで落ち、次にゆずるようである。この世代の人々には感嘆である。今はその想いの涙であったような気がする。

映画『ゆずり葉の頃』

 

歌舞伎座5月『慶安太平記』『蛇柳』『め組の喧嘩』

『慶安太平記』は、<丸橋忠弥>で呼ばれる事が多い。徳川家綱の時代の油井正雪が幕府転覆を企てた慶安の変に加担した丸橋忠弥をモデルとした芝居である。

四代家綱の時代は大名などの取り潰しから浪人も多く、その不満を力として軍学者である油井正雪が駿府で、丸橋忠弥が江戸で蜂起することになっていた。その蜂起前の忠弥の様子と、妻の父に訴人され捕えられるところまでである。

お濠の前で中間が屋台酒を飲んでいて、茶碗酒のお変わりに一杯ではなく、茶碗に半分、半分と追加してもよく、そのほうが割安なのだそうである。そんな面白い会話も聴けた。忠弥は酒好きで、花道の出からしたたか酔っている。そこで、自分がどれだけの酒を飲んでるかがセリフとなっている。あちらで何合こちらで何合というので計算しようとしたが、判らなくなった。最後のほうに三升とあったので、三升以上は飲んでいるということであろう。忠弥の松緑さんの酔い具合が好い。堀に石を投げて堀の深さを測るのも悟られない酔っ払いの酔いに任せた不可解の行動である。

ここまでしているのに、なんで簡単に義父に計画を話すのかが納得できなかった。義父の団蔵さんとの間に打ち明けるに必要な緊迫感が無かったのである。この程度で話してしまうのかと不満であった。立ち回りは謀反人であるから壮絶さがあるであろうと予想したが、工夫された立ち回りでその通りとなったが、槍の名手ということであろうか、前の鴨居を持っての立ち回りはダレてしまった。あの部分はもう少し短くしたほうが、事敗れた忠弥に寄り添えたと思う。緩急にづれがあった。

『蛇柳』も同様にづれてしまった。期待していたのであるが、よく理解できなかった。内容は理解できなくても、色彩的に美しい舞台とか、音と動きに迫力があるとか、霊気が感じられるとか、何かを感じたかったがうーんという感じで、最後に海老蔵さんが、押し戻しで出てきた時、ぱっと明るくなり、さすが時代を通過してきた色彩美であると安堵した。<蛇>と<柳>。何か工夫が欲しかった。

『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』。通称『め組の喧嘩』である。これだけの若い役者さんの揃う『め組の喧嘩』は初めてである。皆さん、自分が一番格好いいだろうとばかりにイナセであり色気もでてきた。江戸の町火消が人気があったのが解かる。取的も負けてはいない。力士と鳶の意地を張っての喧嘩を描いたたわいない芝居であるが、江戸の風俗たっぷりの愛嬌のある演目である。

『幡随院長兵衛』の夫婦の別れと違って、め組辰五郎の菊五郎さんを女房お仲の時蔵さんが、なんで仕返しにいかないのかとけしかけるのが伝法である。芝居小屋前では大きな声が上がると何かあったのではないかと若い者の心配をしつつ、ここぞとなれば、頭の女房の腹である。力士側の左團次さん又五郎さんも大きく、梅玉さん、彦三郎さんの押さえも効き、団蔵さん、権十郎さんも熟練役者としての形を見せる。実際に血気盛んな若手の前で菊五郎さんは立ちはだかりしっかり舞台を締められ、<め組の大喧嘩>となった。

歌舞伎座5月『摂州合邦辻』

『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』<合邦庵室の場>。この作品に対する観る側の土台がやっとできた。それは、菊之助さんの玉手の無機質感が、この作品の基本を見せてくれたと言える。

お辻という女性が、後妻に入り、その家の先妻の子・俊徳丸と妾腹の子・次郎丸の家督争いから、この二人の子の命を守るという筋である。夫に話せば、次郎丸は殺されるであろう。そうさせないために、玉手御前(お辻)が考えた手段とは。そのことが明かされるのが<合邦庵室の場>である。歌舞伎であるから、色々な手が考えられる。妖怪をだそうと、忍術を使おうと奇想天外のほうが、さすが歌舞伎と喜ばれるかもしれない。そこを、芸で見せて納得させる作品の一つである。

次郎丸は先に生まれている。しかし、正室の子として俊徳丸が後から生まれ、家督は俊徳丸へ継がれるであろう。そこで、俊徳丸を殺す勢力が出てくる。玉手は二人の継母である。玉手はどちらも死なせるわけにはいかないと考え、俊徳丸をこの家から逃走させることを考える。その手段が俊徳丸に恋を仕掛け、業病を発症させる毒を飲ませるのである。世を儚んで俊徳丸は恋人・浅香姫とともにさまよい、玉手の親の合邦の世話となっている。

玉手は俊徳丸を探すため家出し、実家にたどり着く。父母は事の次第を知っているから合邦などは、いまいましい心持ちである。その合邦の気持ちを逆なでするように、俊徳丸に言い寄り、浅香姫に嫉妬する。ついに我慢できなくなった合邦は玉手を刺してしまう。ここまでの玉手の菊之助さんが、何かに取りつかれたような感じである。何を言われようと俊徳丸恋しいの狂気性を帯びている。花道の出から妖気が漂っていた。

玉手は、人目をはばかり、着物の右片袖を取り外し、頭から被っている。その着物の色が紫を少し含んだような濃紺である。人形浄瑠璃から始まっているから、人形使いさんが考えたのであろうか。袖の外れた右腕には、花模様の朱色の襦袢である。こういう衣装の色使いの発想が凄い。もしかすると、俊徳丸に対する本当の恋心があったのかもしれないと思わせる。現代でこれをやると見え見えの安っぽさになってしまう。頭から外されたこの片袖は、玉手の口説きのとき使われたりする。上手く使われそれが効果を出すのである。

筋は知っているが、その場では役者さんの演技に乗せられるて進むようにしているので、周囲の戸惑いがよくわかる。毒を飲ませたうえに、若い身とて、義理の息子に恋い焦がれるとは尋常ではない。親であれば情けなくて殺したくもなり自分も死のうと思うであろう。合邦はついに玉手に手をかける。玉手にとってこれが目的であった。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の肝臓の生き血を飲ませると俊徳丸の業病を治すことが出来るのである。自分がこの条件にあるので、俊徳丸に毒を飲ませたのである。それも、アワビの貝を盃にして。その盃で、生き血を飲ませるのである。俊徳丸は全快する。このアワビの貝の盃というのも面白い。<鮑の片思い>である。この盃を懐に抱き俊徳丸を探すのである。

もしかすると、継母としての親心だけではないかもと疑わせる色香が必要な役でもあるが、菊之助さんはそこまでは踏み込まず、人としての一心不乱の様を表した。

観るほうとしては、そこの基本まで伝えてもらえば、次の演じ手に期待するだけである。次はどなたであろうか。もしかすると菊之助さんかもしれないし。探しにいくのではなく、手ぐすね引いて次を待つことにする。歌舞伎は<鮑の片思い>の観客が沢山おられるので、役者さんも大変である。上手くいけば良し。気に添わなければ、今回は盃お返しいたしますてなことになり兼ねない。

俊徳丸が、継母の恩に報いるため、月光寺を建てるという。再度、浄瑠璃の床本を調べた。

「継母は貞女の鏡とも曇らぬ心は清(す)める江(え)に、月を宿せし操を直ぐに、月江寺(げっこうじ)と号(なつ)べし」とあり、<月光寺>ではなく、<月江寺>であった。<月江寺>は浄瑠璃が上演される前からあるお寺である。

「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡をとどめけり」の<合邦辻閻魔堂>は、ゆかりのお堂として今も病気平癒を祈願する人々が訪れているようだ。

やはり、西方浄土を考えての位置設定をされたようである。俊徳丸は継母の玉手御前をきちんと西方浄土へ送り出す場所で平癒し、弔うのである。再度こちらに基本を納めてくれた舞台であった。

玉手御前(菊之助)、俊徳丸(梅枝)、浅香姫(尾上右近)、奴入平(巳之助)、合邦道心(歌六)、母おとく(東蔵)

大阪と江戸

 

歌舞伎座5月 『天一坊大岡政談』

歌舞伎観劇前に読み終わるであろうと思っていた柴田錬三郎さんの『徳川太平記 吉宗と天一坊』が半分までしか進まなかった。小説では悪の強い山内伊賀之介と、これまた悪にまみれそう天一坊である。<徳川太平記>とあるように、赤穂浪士のこと、紀伊國屋門左衛門らの商人のこと、庶民の生活模様も出てきて調べたくなり寄り道続きで時間がかかる。読み進むと小説と歌舞伎の登場人物が重なりそうなので、歌舞伎も『天一坊大岡政談』から始めて、心おきなく小説の続きにはいることにする。

それにしても、歌舞伎役者さんは、今の芝居を演じつつ、来月の芝居のセリフを覚え役の探究をするのであるから凄いことである。

『天一坊大岡政談』は、解かりやすい。紀州の法澤(ほうたく・菊之助)という坊主が、娘が吉宗の子供を産みそのお墨付きと短刀を持っていた老婆(萬次郎)を殺し自分が御落胤に成りすますのである。吉宗の子とその母親もすでに死んでいる。法澤は自分の師も殺し、下男の久作(亀三郎)に師と老婆殺しの罪を被せ紀州を出立する。

法澤は、自分の計略のために仲間を増やす。その一人の僧(團蔵)は、名前が天一坊という名前の子坊主を殺し、法澤を天一坊と改め、法澤という人間をを消し去る。さらに、九条関白家の浪人・山内伊賀亮(海老蔵)を味方とする。

江戸では、偽物であると看破している大岡越前守(菊五郎)の対決となるが、大岡の追及を伊賀亮が見事かわし、大岡は責任を取って息子(萬太郎)と切腹する寸前、紀州に天一坊の素性を調べにいっていた池田大助(松緑)が久作を連れて帰り、天一坊とは全くの偽りで、法澤であることが露見し、大岡の名お裁きとなる。

人の良さそうな法澤が、ご落胤と同じ年月日のうまれで、孫のように思って漏らしてしまった老婆の昔話が、法澤の中に火を灯す。何んという美しい短刀であろう。自分と違う世界がある。鼠殺しの薬。法澤の周りに燃える火の種が増えて行く。どういうわけか、法澤の左腕には<天>の一字の赤いアザがあるのである。菊之助さんが次第に悪の炎を見せて行く。

山内伊賀亮が九条関白家の浪人という事で、公家のほうに仕えていた浪人ということであり気位も高く、知恵もありそうである。海老蔵さんが着流しで座って着物の端を手のひらを見せて整える仕草に、こういう正しかたがあるのかと目が止った。その所作が美しかった。すでに、天一坊は自分の意思でご落胤に化けようと決心しているので、芝居では天一坊と伊賀亮関係が希薄である。そこが残念である。芝居では伊賀亮の役目は大岡との対決である。<網代問答>は朗々とよどみなく答える。ただ言葉が難しい。

窮地に追い込まれた大岡は息子と共に切腹の支度をしている。妻(時蔵)も自刃覚悟である。大岡は、介錯として家来平石(権十郎)を呼ぶ。権十郎さんの台詞のトーンがいい。突然切腹の場面で入り込めなかったのが、この方のセリフで次第にことの重大さが伝わてくる。大岡の腹は決まっているが諦めきれない心持ちを家来の権十郎さんが引き受ける。必ず役目を果たすと誓って紀州に向かった池田大作の松緑さんが到着する。大岡の目に狂いはなかった。

ここからは、大岡越前守の菊五郎さんの見せ場である。久作という生き証人を出してのお裁き。天一坊が白を切っても黒である。白黒はっきりのお裁きは、庶民にとってはいつの時代も人気があったようで講談で評判を呼び、河竹黙阿弥が明治に入って歌舞伎として書き下ろした。

男子高校生の観劇の日で、『天一坊大岡政談』の休憩の時、「俺ダメだよ。ことばが分らない。なんかダメなんだよな。」「滑舌がダメなのか。」「いや、滑舌はいいんだと思う。言葉なんだろうな。」と、もどかしく思っている気持ちの学生さんがいた。<滑舌>という言葉に、今の若い人のほうが、音に対する敏感さがあるのかもしれないと思った。もどかしいとそこまで引っかかっただけでも凄いことである。

この芝居の前が『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』である。『天一坊大岡政談』を見終わった後は、どんな感想だったのであろうか。聞きたかった。

 

明治座5月花形歌舞伎『矢の根』『鯉つかみ』

『矢の根』。市川右近さんの五郎は元気いっぱいで、初役とは驚きである。澤瀉屋の荒事の代名詞的役割である。コタツ櫓に座っての振りは、今回は右手が気になってずーと見ていた。あれはこのように動かすという約束ごとがあるのであろうか。右手の動きが五郎を大きくみせていた。五郎は派手で豪華な衣装を着ているのに貧乏暮らしなのである。そこが庶民の五郎贔屓の表れなのかもしれない。声もいいし、稚気もありスカッとさせてくれた。亀鶴さんは大薩摩文太夫もお正月に相応しい行儀も良さがあり、笑也さんは十郎の憂いがあり、猿弥さんの馬方はいつもながらのひょうきんな明るさで組み合わせもよかった。

『鯉つかみ』。「鯉や鯉なすな鯉」ではないが、鯉の尾ひれパンチには笑ってしまった。魚類では、一番の出来である。目玉を白黒させ、死んだ真似もして、愛之助さんの空手チョップもなんのそのである。尾ひれパンチの水しぶきは迫力があった。

これは初めて観る。今回通し狂言としたということで、愛之助さんは六役の早変わりである。奴はわかるが、みんな白塗りのいい男の役なので、途中からやっと役が理解できたりする。そして、筋が解りづらい。最初に俵藤太のムカデ退治があり、そのあと、琵琶湖の水中の世界となるらしいが、そこらがよくわからなかった。市川右近さんが御注進で説明にくる。この御注進は格好よく動きもよいが、言葉が難しくてよく理解できない。筋書きによると、俵藤太が倒したムカデの血が琵琶湖を汚し、鯉一族の皇子が龍に変化できるところが、血で汚れて龍になれず、末代まで俵藤太家を恨むということらしい。それで、愛之助さんの白い着物が赤くなったのかと納得した。

この俵藤太の末裔の釣家が鯉一族の怨みから、釣家の娘小桜姫を鯉の精が化けた志賀之介を好きになってしまう。その小桜姫と鯉の精・志賀之介の夢の中での逢瀬から流れが解って来て面白くなってくる。小桜姫の壱太郎さんと鯉の精の愛之助さんが優雅に舞う。夢から覚めると志賀之介が現れ、小桜姫と志賀之介は手を取り合って奥へ入る。釣家では家宝の龍神丸が紛失しているが、奴がそれを取り返し届け、鯉の精も本物の志賀之介に弓で射られ、琵琶湖に逃げ込み、そこで、大鯉と志賀之介の愛之助さんとの本水舞台の闘いとなり、鯉退治となるのである。

ムカデ退治と鯉退治があり、ムカデ退治によって害をなした鯉が怨みに思って仕返しをしようとするが、やっつけられてしまうのである。龍神丸はムカデを退治した刀で、それを欲しがる一群が絡むのである。

釣家の家老夫婦の亀鶴さんと門之助さんがきっちりと釣家の格を表した。愛之助さんは六役もやらなくても良かったように思う。通し狂言としての話しを煮詰めることが肝腎と思う。

最期の鯉退治が充分見せ場として盛り上がった。よく解らないが、せっかくだから一緒に盛り上がらなくては損々という感じで楽しませてもらった。鯉さんも愛之助さんもご苦労さんである。

 

明治座5月花形歌舞伎『男の花道』『あんまと泥棒』

『男の花道』は、映画で、長谷川一夫さんと古川緑波さんのコンビで大当たりしているが、残念ながら映画は見ていない。お二人の『家光と彦左』は見ていて面白いと思ったのでどこかで出会いたいと思って居る。( 『三千両初春駒曳』から映画『家光と彦左』 )

筋書によると、 長谷川一夫さんが『男の花道』を舞台化されたとき三世加賀屋歌右衛門を長谷川一夫さん、医者土生玄碩(はぶげんせき)を二代目猿之助さんが演じられている。猿之助さんは4月には、名古屋中日劇場で、『雪之丞変化』もされ、さらに『あんまと泥棒』は十七代目勘三郎さんと長谷川一夫さんが組まれている。この『あんまと泥棒』は先代中車さんと先代段四郎さんが、ラジオ放送で組まれたそうで澤瀉屋にとっても縁のある作品ということになる。

猿之助さんの中には、かつての時代劇映画が歌舞伎から流れそれが舞台化され、それをまた歌舞伎にして継承するのも今ではないかと思われているようである。竹三郎さんが、長谷川一夫さんからの秘伝を教わっており、それを埋もれさせるのは勿体ないとの想いがある。

『男の花道』は、三代目加賀谷歌右衛門(猿之助)が上方から江戸の中村座に出るため出立するが、眼の病で歌右衛門は役者として続けられないとの絶望の中で、眼科医土生玄碩(中車)に出会い治してもらう。もし先生から来て欲しいという時はいついかなる時も参上しますと約束する。その約束通り、玄碩の手紙が届き、玄碩の窮地を救うという筋である。興味があったのは、どのような時に玄碩の手紙が届くのかということであった。

『櫓お七』の梯子を登るところであった。猿之助さんの人形振りをたっぷり見せられたあとである。その前の、失明前の歌右衛門が、眼の見えない役を稽古したりと、舞台ならではの歌舞伎の実演があるのが楽しい。そして、歌右衛門のお客さんにしばしの猶予をお願いするところが、現実の舞台のお客さんに参加してもらうという手法へと移る。舞台の実感をそのまま、芝居の中に滑り込ませるのである。そして、男の約束を果たし、そこでまた歌右衛門であり猿之助さんの舞いを見せる。

歌右衛門と玄碩がそれぞれ、役者としての力量と誇りを見せることで、眼科医としての腕と誇りを見せることで、歌舞伎としての厚みが出た。中車さんの玄碩は、無理のない演技で意思を貫き、これまた武士の見栄を押し付ける田辺嘉右衛門の愛之助さんに、「今舞台中だぞ。芝居を大事にする歌右衛門がそれを捨てて来るかな。」の言葉に、自分の軽率さを悔やむ。それを腹におさめ待つところも良い。苛め役の愛之助さんの自分が負けた時のさっぱりとした潔さが愛之助さんの愛嬌である。秀太郎さんの座敷の取り仕切りもいつも軽くそれでいてリアルで手堅い。

弘太郎さんの按摩に一つ学んだことがある。旅籠の畳の縁を片足でスーッと触りながら移動するのである。なるほど、今まで気がつかなかった。亀鶴さんの少し襟元を崩しての出が良い。玄碩に食ってかかりながら、歌右衛門の治療に土下座して頼んだり、歌右衛門の包帯を取る時心配でまともに見られず俯いていたり、一つの役に仕上げている。壱太郎さんの鼓も良い。男女蔵さんらお馴染みの方々が円滑に納まっている。

『あんまと泥棒』は、中車さんのあんま秀の市と猿之助さんの泥棒権太郎である。二人芝居の台詞劇である。あんまのところに泥棒が入り、泥棒があんまに意見されるのである。中車さんにはポーカーフェイスとは何ぞやを思い起こして頂きたい。この役をどう工夫しようかという力が見えすぎる。泥棒権太郎に向かっているのではなく、猿之助さんの芸歴に挑んでいる。そして、映像で期待される、香川照之になっている。とんまな泥棒があんまに騙されてお金まで投げていくのである。私なら投げない。どうみてもくせのあるあんまがずーっとそこにいるのである。ひとくせもふたくせもあっても、相手の気の許す愛嬌が必要である。全然気が許せない。

くせのある役はお手の物であるがゆえに、ただの人の情けで倖せに暮らしている按摩さんに重心をかけて、では一寸くせのあるほうをと重心を少し移してとの変化が欲しい。

お二人の軽妙なやり取りを期待したが、演技の上手さはわかるが、それぞれの芸歴が邪魔をした。

原作は村上元三さんで、初演は明治座で、あんまの勘三郎(十七代目)さんと富十郎(五代目)さんである。

映画の中で歌舞伎が出てくるものの一つに、『お役者文七捕り物帖 蜘蛛の巣屋敷』がある。役者でありながら、勘当された錦之助さんの文七が、その実父でもある時蔵(三代目)さんを助けるのであるが、そこで演じられるのが時蔵さんの『女暫』である。この年に時蔵さんは亡くなられている。映像でお目にかかれた。

庶民に愛された時代劇を、歌舞伎として復活させようとする猿之助さんの試みは、大衆文化の継承の一つの形として心強い試みである。

 

 

『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』

市川市文学ミュージアムで企画展を開催している。三月からやっていたようだが、五月に入って知った。チラシの<炎の人>に惹きつけられた。やはりゴッホである。ゴッホ関連の訳者として名前があったのかもしれないが記憶には留めていない。

新潟に生まれ、文学に目覚め、新潟医学専門学校に入る。この時、雑誌『白樺』でゴッホを知り、精神科医となりゴッホの研究を続けた人である。ゴッホ関係の書物は50冊を超え、本の装丁にもこだわり、芹澤銈介さんの装丁が30冊を超える。

ゴッホと弟テオ双方のそれぞれに宛てた書簡を翻訳し、さらに、ゴッホを描いた文学作品や伝記小説にも関心をよせ、翻訳している。その中のステファン・ボラチェック著『炎の色 小説ヴァン・ゴッホの一生』を翻訳。その本の愛読者だった劇団民芸の岡倉士朗(演出家)さんと滝澤修さんが式場さんを訪れたことがきっかけで、三好十郎さんに脚本を依頼することになるのである。民芸公演で式場さんは、制作委員長になっている。

<この芝居を最も喜んでいるのは、私かも知れない。>とし、新橋演舞場での千秋楽で<最後の幕がおりたとき、私は涙のこみあげてくるのを抑えることができなかった。>と昭和26年の『民芸の仲間 第3号』に寄稿されている。新橋演舞場は超満員で、各地も公演で10万人以上の観客を集めている。

柳宗悦が提唱した民芸運動にも参加。『中央公論』や『改造』などの総合雑誌や新聞にも寄稿し、病院勤務が困難となり、市川に国府台病院を開院する。スイスのレマン湖畔の精神病院の庭園に感銘を受け、病院内にバラ園を造成する。

八幡学園の顧問医となった式場さんは、そこで山下清さんを知り、彼の後援を行い、作品の発表に尽力するのである。

その他、日比谷出版社を設立し、長崎の永井隆博士の『長崎の鐘』なども出版している。

ゴッホゆかりのひとからの手紙。芹澤銈介さん装丁本。棟方志功さん装丁の『炎と色』の限定本。ゴッホ生誕百年祭に行われた展覧会の様子。深川にあった精神を病んだ人が建て不思議な家の資料。ロートレックの研究。山下清さんの直筆文。数多く展示品があり、式場さんの仕事の範囲と深さに驚く。このかたの睡眠時間はどの位だったのであろうかと思ってしまう。

式場隆三郎さんこそゴッホと同じ<炎の人>として、捉えたのがわかる。この方によって、知らされ広がった芸術、演劇、映画の恩恵を今も受けている。

よくわからないが、<洗濯療法>という本もあり、洗濯は精神活動に何か良い影響があるのか興味があったが内容はわからない。

講演会もあったようであるが、知るのが遅すぎた。しかし、こういう方がおられたことを知っただけでも、幸いである。この方によって、ゴッホの絵と精神は深く静かに人々の目と耳と心を働かせる力となったのである。

会期は5月31日(日)までである。

『炎の人 式場隆三郎』展の図録の年賦を見ていたら、ロートレックの伝記小説で、ピエール・ラ・ミュール原作『ムーラン・ルージュ』も翻訳して刊行していた。この原作が映画『赤い風車』で、ホセ・ファーラーがロートレックを演じている。

さらに、歌舞伎役者・守田勘弥さんの後援会長にもなっている。

『炎の人』から『赤い風車』 無名塾 『炎の人』(1) 無名塾 『炎の人』(2)

映画『江戸っ子繁盛記』

映画『江戸っ子繁盛記』は『宮本武蔵』の脚本も手がけた成澤昌茂さんである。『芝浜』『魚屋宗五郎』『番町皿屋敷』の三つを組み合わせた作品で、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)が三つの世界を生きてしまうという繁盛ぶりである。

『魚屋宗五郎』は、歌舞伎では『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』のなかに『魚屋宗五郎』があり、上演も『魚屋宗五郎』が主である。こちらは、宗五郎の妹のお蔦が磯部のお殿様の愛妾となっていて、横恋慕の家来の策略でお殿様に斬られてしまうのである。

映画のほうでは、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)は、時間を間違えて誰もいない早朝の浜で、財布を拾い百両を手にするが、それが夢で、その後はお酒も絶ち、真面目に働くのである。気にかかるのは、しばらく顔を見せない妹・お菊(小林千登勢)のことである。お菊は青山播磨(萬屋錦之介)に見初められ奉公に上がっているのである。勝五郎の夢の中に現れ、青山播磨のことは恨まないで下さいなどと言ったりする。

見ているほうも、このお菊さんはどうなるのであろうかと気になるし、映画ではどういう展開になるか楽しみである。錦之介さんの、一心太助ではない、貧乏な魚屋勝五郎が上手いのである。お金を拾って長屋の連中とお酒を飲み酔っぱらう所もいい。1961年同年の先に『宮本武蔵』を公開しているから、役の幅が出来てもいる。なかなか芸が細かい。娯楽映画でありながらそのあたりも楽しませてくれる。

そしてお菊のこともなかなか出て来ないのが客を引っ張るこつである。お菊が亡霊となって勝五郎と女房・お浜(長谷川裕見子)の前に現れ消えてしまう。お屋敷から、お菊が死んだという知らせが入る。遺体は無いという。長屋の連中は、勝五郎に同情し長屋中のお酒を持ってきて飲ませる。ここからが、『魚屋宗五郎』の酔いっぷりとなり、播磨に、真相を直接聞きに行く。播磨は静かに事の次第を話す。

青山家は三河の出で、徳川家直参の旗本である。ところが、天下泰平の世なれば、無用の存在で何かとはじかれる。面白くない播磨は町奴との喧嘩に明け暮れ、その心を癒してくれるのが、お菊であった。将軍家より、高麗皿が拝領され、この皿で後日もてなすようにと言われる。役人が皿を確かめにきて開けてみると一枚割れている。仕組まれたのである。お菊は主人の責任になってはならぬと自分が割ったと主張し、播磨も仕方なく斬らざるおえない。お菊は切られ苦しみつつ井戸に落ちてしまう。

播磨は、黙っていても潰されることはわかっているので、勝五郎に自分は何れ菊のもとへ行くと告げる。勝五郎は、二人の深い仲を知り納得する。播磨は、幕府が取締りに出るであろう、町奴と旗本の争いに飛び込んでいき死を選ぶのである。

勝五郎夫婦は二人を弔う。ある日大家が顔を出し、かつて勝五郎がお金を拾ったのは夢でないことを伝え、目出度し目出度しである。

三つの話しを上手くまとめ、錦之介さんの魚屋勝五郎も良く、すっきりした娯楽映画になっていた。監督はマキノ雅弘監督である。

『江戸っ子繁盛記』の錦之介さんを見て、評判の高い『関の彌太ッペ』(1963年)を見る。脚本が成澤昌茂さんで、監督は山下耕作監督である。原作は長谷川伸さんの同名戯曲。なるほどこれも見せてくれる。ひょんなことから幼い娘を助ける。その子は年頃になっても、助けてくれた人のことが忘れられない。しかし、その人は姿、人相も変わり果て、娘に名乗れないのである。娘と分れての何年か後の弥太郎(錦之介)は目も凄味、頬には傷跡がある。お化粧の工夫が上手い。むくげの花を挟んで笠を被ったままの弥太郎と娘・お小夜(十朱幸代)とのシーンは山下監督ならではの情感たっぷりの美しい場面である。<情感溢れる美しさ>の錦之介の映画にレンタル店でなかなか手がのびなかったのであるが、むくげの花をぼかし、弥太郎のやるせなさが伝わり、甘味料の甘さはなかった。最後の弥太郎の別れの挨拶の言葉でお小夜はこの人だと気がつくのであるが、弥太郎の姿はない。

萬屋錦之介(改名の時期が記憶できないので、萬屋錦之介に統一させてもらいます)さんなどの映画を見ていて、、役柄の幅も広がり演技の工夫と実力も備わるので、新しい分野の映画に挑戦したいという気持ちが解る。

『孤剣は折れず 月影一刀流』(原作・柴田錬三郎/脚本・成澤昌茂/監督・佐々木康 1961年)は鶴田浩二さんの時代劇であるが、予想に反して、時代劇も悪くない。見ていない<次郎長物>も見てみようと思った。

成澤昌茂さんは、監督もされておられるが、脚本の仕事のほうが圧倒的に多く、ジャンルが広い。高峰秀子さんと芥川比呂志さんの『雁』(森鴎外原作・豊田四郎監督)は好きな映画であるが、これも成澤さんの脚本だったのである。どうなるのか、期待感をもたせ、最後は悲恋でも、ストンと納得させてくれるところが上手いかただと思う。