郡上八幡での<郡上おどり> (3)

夜、7時から活動再開始。宿泊所は掃除が行き届き、高野山の宿坊を思い出した。規則を守ればご自由にという感じも気に入った。ただ門限10時は、踊りが10時半までなので最後まで踊りたい方には適しないかもしれない。

今回は初めての参加なのでジーンズと靴の参加である。ポシェットを忘れたので、小銭や小物を収納するためポケットの多いジーンズとする。宿泊所に夕食が付いていないため、近くの飲食店に飛び込む。出来あがっているお客さんも居て、気さくなお上さんが話の輪に入れてくれる。ここが、地元の方と触れ合う短いが楽しい時間となった。やはり踊るなら宵越しの期間が良いと言われる。今日は何処が会場?と反対に聞かれてしまう。城山公園ですと答えると、やはり街中で踊るのがいいわよと。初めての経験ですから、先ずは踊って次の機会の楽しみにします。来年もおいでね。もちろんですと答えお店を後にする。(来る要領を伝えれば仲間の何組かは勝手それぞれに計画するであろう)

通りでは何やらお囃子の音がしている。何のお神楽であろうか通りを練り歩ている。岸剱神社関係のお祭りらしい。多種のお祭りや慰霊祭があってその為に踊るらしいのであるが、獅子やそれを刺激する子供もいて、襲ってくる獅子から逃げて太鼓を叩いたり、鼓を打つ子供もいたり、大人と子供が一緒になって練り歩く。地元の人達中心のお祭りである。しばらく後を着いて眺めつつ、道を別れて城山公園に向かう。次第に郡上おどりのお囃子と歌う声が聴こえてくる。そのまますぐ踊りに参加である。お城の天守閣がライトアップされ見下ろしている。

中心に、移動できる屋形がありその上でお囃子と歌い手がおり、その周りを適当に輪になり踊るのであるが、参加型なので丸くはなっているがいびつな丸である。参加した人は輪の中心方向のこの人の真似をしようと思う人を見つけ、真似をし覚えていくので、綺麗な輪にしようなど気を廻すゆとりはない。だから隣の人と手と手がぶつかったりするのであるが、それが踊っていくうちに自分がどうすれば良いかが分かってくる。伸ばす手を真横から少しづらしてぶつからないようにするとか、出入り自由であるからその間隔を踊りつつぶつかりつつ、分かってくるのである。それに気がつくとその気の配り方も踊りの楽しさになる。目をつけた先輩の踊り手が視界から消えると次の師匠を捜す。<春駒>などは踊り易くてどんどん気持ちがエスカレートして行く。でも疲れてくると飛び跳ねるのをやめて息を整える。人に見せるためではないから自分で自由に調節できる。そうすると掛け声もあることに気が付き、その掛け声を出すのが楽しくなる。リードするお囃子さんが、踊る人々の様子を見ていて<やっちく>のような語りものに入り、踊り手は単純な動きをしつつ、その語りに耳を傾け掛け声をかける。踊っているうちに、郡上おどりの楽しみ方が次々見つかっていく。この流れも病みつきになる原因かもしれない。今度は歌を口ずさめるようにしようと、次の目標も決まる。

毎回、上手に踊れた人に保存会から「免許状」が渡されるようで、今回の課題曲は<猫の子>のようである。何回も参加される人にとってはそれも楽しいお土産かもしれない。<かわさき>の足が難しく練習した時も四苦八苦であったが、すでに忘れていて誤魔化し続け終わりころにやっと合い始めた。足は誰も見ていませんであるが、手も誤魔化しである。

<かわさき>は郡上おどりの代表歌で、伊勢古市の里で唄われた川崎音頭が流れてきて郡上に伝承されたといわれている。伊勢音頭など伊勢古市はこうし歌と踊りを生み出したメッカである。伊勢音頭というと歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』を思い浮かべてしまう。

9時半過ぎに輪から離れ帰途につく。体調も持ち、楽しい気分で帰れるのが嬉しい。

次の朝は雨。

郡上のナ 八幡出てゆくときは   雨も降らぬに 袖しぼる

袖を濡らさぬ恵みの雨であった。と思ったら地域によっては集中的に降ったらしい。東海道線も昼の落雷で大幅に電車が遅れたり運転中止だったようだ。途中から東戸塚の友人にメールすると会えるということで途中下車。久しぶりに歓談。雨のため隅田川の花火は中止になったとか。自然の動きが今一番分からない分野である。これを考えると少しでも分かる分野は補修可能と思うのだが。

 

 

郡上八幡での<郡上おどり> (2)

吉田川の川べりに下り、川に落ちる小さな滝の水音を聴きつつ、ほう葉に包まれたほう葉寿司を食する。小さな子供たちが石を拾い、川に投げ込んでいる。重い石を選び体のバランスを失い尻もちをつき水浸しである。新橋からは若者が洋服のまま橋の欄干に登りあがり吉田川に飛び込んでいる。こう遊ぶものという制約がなく長閑である。

かつて勤めていた会社の上司がランチに牛肉のほう葉みそ焼きをご馳走してくれたが、この地方で考えられた料理であったのか。小さなお店の手作りしたおかみさんは、時間を置いたほうがほう葉の香りがお寿司に染み込むと教えてくれるが、川に並ぶ古い家並みも自然の川風も水音もほう葉寿司には最高の味付けである。

寛文年間に作られたという用水路の〔いがわこみち〕の水の流れとその中で悠々と泳いでいる鯉などを眺めつつ慈恩禅寺に向かう。境内も寺院内も静かである。障子が三方開け放たれ全面庭である。後ろは山。京都の円通寺や高山寺を思い出す。借景が木々であり、それが見る者を庭と一緒に包み込んでくれるようで安心して呼吸している。小さな二つ上から流れ落ちる水の音が、その距離の違いから時間の違う共鳴をしている。セミが奏でそれと遊ぶように小鳥がすぐ近くの枝の間をぴょんぴょん止まって遊んでいる。それを誘うようにもう一羽小鳥が遊びに来て、自由に飛び回る。トンボが来て、蝶々が来て、造られた自然の中を楽しんでいる。ただそれをぼーっと眺めている止まっている時間。

止まった時間から動きだし二箇所の床の間の書と花を眺める。庭を邪魔しない清々しい飾りつけである。それだけでもきちんと主張しており、それでいながらゆかしい。アジサイのくすんだ花色も良い。庭に花がないだけに目が行ったとき、目立ち過ぎないように活けられてるのも活けた人の心ばえが伝わる。川や雲の流れに合わせた書の詞である。ここでかなりの時間を取らせてもっらた。本当は一日一か所の寺社巡りが良いのであろうが、どうしても回り過ぎてしまう。そうして気に入ったところを探し当てる時間も必要なのであるが。中庭へ向かう角の手水ばちが水琴窟になっていて幽かな音を地上に伝えていくれる。釈迦如来の御本尊をお参りし中庭を眺めつつ玄関へと進む。御住職が是非11月の紅葉の時期にお越しくださいと声をかけて下さる。きっとあのもみじが色ずくのであろう。山門を出ると、さらに、雪の時期にもきたいものであると欲が出る。世俗にすぐもどっている。

そこから〔やなか水のこみち〕へ行き、郡上八幡旧庁舎記念館で冷たい白玉ぜんざいを食べ、新橋を渡り裏側から郡上八幡城に向かう。これが結構きついのである。昨年来た時は、お城の掃除の日で中に入ることが出来なかった。がっかりして下る途中で、博覧館で決まった時間に郡上おどりの実演があるのを知り、大急ぎで下ったのである。何が縁になるか分らないものである。お城に入ると外は、俄か雨である。天守に登り、雨の郡上を眺める。展示の所に<家康の鷹狩にお供した郡上藩主の青山忠成が貰った赤坂のにれから渋谷まで、もともと原宿といっていた土地が青山と呼ぶようになった>(「お江戸の地名の意外な由来」中江克己著)のだそうである。

東京では6月に郡上八幡藩主青山氏の菩提寺「梅窓院」(南青山)の境内でおこなわれていたが、近年は秩父宮ラグビー場駐車場( 地下鉄銀座線 外苑前駅下車 出口 徒歩1分)で行われている。

今回の郡上での踊りの場所は城山公園でお城から下って行くと山内一豊と千代の銅像のある城山公園を通る。場所が城山公園というのも気に入った。町歩きも終わり、後は踊りの時間までゆったりするだけである。

 

郡上八幡での<郡上おどり> (1)

郡上八幡で<郡上おどり>を踊ることができた。

徹夜で踊り明かすのは8月のお盆の頃で、それまで30数日夜、踊られているのである。その何処かに行けば良いわけであるが、泊る所が問題である。調べているうちにユースホステルが見つかる。ユースホステル。懐かしい。若い頃お世話になった。バスの発着所、〔郡上八幡城下町プラザ〕から4分とある。電話でお聞きすると、個室もあり空いているという。何んという展開か。

郡上八幡へは名古屋からバスか岐阜からバスがあり、岐阜からの方が本数が多い。昨年行っているのでどう行動すれば良いか分かるので動き易い。バスで山に分け入ると懐かしくなる。こんなに早く実現するとは。

〔郡上八幡城下プラザ〕で降り、すぐユ-スホステル郡上洞泉寺へ行き荷物を預かって貰う。4時から入室で10時門限である。初めての踊りであるからそれで充分である。お風呂は近くの銭湯で4時からと言われる。それまた結構。足を伸ばせる銭湯がいい。踊りは8時位からであるから街歩きをして、お風呂に入り休憩がとれる。問題は体調がいまいちなのでその辺をセーブしつつ踊りに臨むことにする。

ぷらぷら歩いて行くと吉田川から別れる小駄良川にぶつかり銭湯もわかる。川に沿って赤い清水橋を渡ると宗祇水に出た。昨年はここに来るのに時間的ロスがあったが今回は位置関係がわかった。先ずは〔城下町プラザ〕を中心にどう回るかを考える。一番行きたいのが慈恩禅寺でそこの庭・荎草園が観たいのである。城下町セット券があったので購入。

先ずは、再度ここまで足を運ばせてくれた郡上八幡博覧館へ。行くとすぐ郡上おどりの説明が始まるところで、解説の女性スタッフが二人とも昨年と同じ人であった。今回は踊りが始まっていることもあり手だけの<かわさき>の動きを皆に指導してくれる。「足は見えないから適当に動かしていればそのうち踊れます。」「輪の中心のお囃子さんが皆さんの疲れ具合を見て動きの少ない踊りを入れつつリードしてくれます。」「そして時には掛け声でお囃子さんを励ましたりしてくださ」「上手に踊ろうとしなくていいです。隣の人と手がぶつかっても構いません。御免なさいの一言でお互い様。」「『猫の子』という曲がありますが、繭を悪戯するネズミの番をしている猫で大人しい猫です。猫の仕種も大人しいです。隣の猫が目立とうとすると、こちらの猫が怒ります。勝手な余計な仕種は加えないで踊りそのものを楽しんでください。」

今回は実践編の解説であった。

 

映画『はじまりのみち』

映画監督木下恵介が作った映画『陸軍』のラストシーンが戦意高揚にそぐはないと、次回作の制作を中止させられてしまう。『陸軍』のラストシーンは息子を兵隊に送る母の複雑なやるせない気持ちを抱え、行軍する息子の後を追う長いシーンである。それが当時の政府からすれば女々しいということなのであろう。辞表を提出した木下は浜松の実家に帰り、脳梗塞で倒れ療養している母をもっと安全な場所へ疎開させる。バスで移動すると母の病気に障りがあると判断した木下は、母をリヤカーに乗せ移動することにきめる。言い出すと自分の意思を通す恵介の性格を知っている家族は、協力する。

ここから家族を動かす様子は、映画監督木下恵介の映画を作る行動もこうであろうと想像がつく。兄が一緒に同行し荷物を運ぶ便利屋を雇う。ゆっくりと病人を運ぶリヤカーに着いて行くのであるから、この便利屋にしてみれば予想外の行動で愚痴がでる。恵介は不愛想で兄が助監督のようにその間を取り持つ。母は名女優である。監督の言うままに静かに微笑みをもって恵介に従う。途中でこの便利屋が兄から今何が食べたいと聞かれ、カレーライスが食べたいとその盛り付けから食べる仕種まで名演技を披露する。

恵介はこの便利屋を快く思っていない。兄は恵介が映画監督であったことを話そうとしたとき、恵介はそれをさえぎったため、便利屋は恵介が映画館に勤めていたと思っている。便利屋は恵介に映画『陸軍』を見て、ラストシーンに感動し涙したことを話す。自分の母もあの映画の母と同じ涙を流すのだろうかと、自分の涙を拭う。この便利屋こそ恵介が観客に伝えたかったことを感じ取ってくれていたのである。

無事母を疎開先に連れて行くことができ、便利屋は恵介に仕事がなかったらいつでも来るように伝え、元気に帰ってゆく。一つの映画が完成し、母は恵介に自分の本来の仕事に帰るように筆談で伝え、恵介の自信を取り戻させる。

『花咲く港』『陸軍』『わが恋せし乙女』『お嬢さん乾杯』『破れ太鼓』『カルメン故郷に帰る』『日本の悲劇』『二十四の瞳』『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾年月』『楢山節考』『笛吹川』『永遠の人』『香華 前篇/後編』『新・喜びも悲しみも幾年月』の映像が流れる。それらの映画の何処かしらに、この母の疎開の旅で経験したことが織り込まれている。

私には、母と子の美しい関係よりも、監督と観客(カレーライスの便利屋さん)との関係のほうが面白かった。もちろん家族に支えられての木下恵介監督の存在であるが、映画と観客の関係は、このカレーライスの便利屋さんと同じで、時には文句をいいソッポを向き、こちらが分かるものかと高を括ればしっかりと分かってくれていたりするものである。木下恵介役の加瀬亮さんは、自分の思う映画を作れない時代の鬱屈と頑なさを、丁寧に演じられていた。カレーライスの便利屋さんの濱田岳さんは、庶民の気ままさと、好いものは良いと感じる素直さを加瀬さんとは対象的にぶつけていて作品を面白くしていた。母の田中裕子さんは体と言葉が不自由なだけにその眼差しは聖母のようである。

ユースケ・サンタマリアさんのお兄さんがつぶやくように「こんな正直な人達は見たことがない」という両親と、その親に育てられた家族の話でもある。

『花咲く港』と『わが恋せし乙女』『新・喜びも悲しみも幾年月』は見ていない。

監督・脚本・ 原恵一

 

 

映画『金色夜叉』

映画監督清水(東京国立近代美術館フイルムセンターにて「映画監督清水宏の生誕110年」)の『金色夜叉』を見る。

監督・清水宏/脚本・源尊彦・中村能行/出演・夏川大二郎(貫一)・川崎弘子(宮)・近衛敏明(富山)・三宅邦子(満枝)

映画では宮と富山の出会うカルタ遊びの場から始まる。富山は人が札を取るとすぐそちらに目が行きそちらに手を伸ばし皆の失笑をかう、気のいいぼんぼんである。この場は宮の友人が富山と宮を引き合わせる見合いである。カルタ遊びで目合わせるというのは当時としてはおしゃれな設定だったのかもしれない。

富山に車で送られるお宮は貫一のことを尋ねられ「お兄さんのような人」と答え、富山を安心させる。家の近くで貫一の姿を見つけ、お宮は車から降りる。貫一に会うと、もう宮は幼いころからの貫一との楽しい関係にもどり、貫一も自分のマントにお宮を入れてやる。隠れていた貫一の友人達はそれを見て二人に雪を投げつける。貫一とお宮は周りから祝福される仲である。

富山と結婚を決めた宮に貫一は何故か問いただす。お宮は貫一さんは大学に行き後3、4年は待たなくてはならない。家の方もそんなに余裕のある状態ではないから、自分が今までのように勝手きままには出来ないと話す。貫一は宮に犠牲になってもらってまで学校を続ける気は無い、学校を止めると告げ、宮を足蹴にして宮の前から姿を消す。

宮は結婚し、行方不明の貫一のことは気になるが富山とも上手く行っている。貫一は高利貸しの手代となり頭角を現すが友人の家を差し押さえることになり、かつての友人たちからお前は高利貸しなんぞになってと侮辱される。それでも貫一は自分の意思を貫く。

赤樫満枝は、貫一の勤める高利貸し屋の同僚で主人の鰐淵のお気に入りであるが、それを利用しつつ、仕事もでき、貫一に思いを寄せている。富山とは知り合いで富山はぼんぼんゆえに銀行の経営が上手くいかず、満枝に謝金を申し込む。満枝はその話を貫一に廻し、貫一は富山の担当となりお金を貸すが富山は返済できなくなる。

富山は自分の財産で宮を幸せに出来ると考えていたので、それが出来ない今、何もない宮と貫一の関係も怪しみ、宮に出ていけと告げる。宮はそんなことは出来ないと主張。富山はでは自分が出ていくと去る。宮のもとに差し押さえのため貫一が訪れる。

(ここで不覚にも眠ってしまった。終わると同時に目を覚ます。しまった!ここまできて落ちが分からないなんて。誰に聴こうか。出口へ先に行く若い女性二人が「小説自体が未完だったからね。」と話しているのが聴こえる。「すいません。眠ってしまってラストが分からないのですがどうなったのか教えていただけますか。」「宮が身ごもっていて、そういう状態の女性を苦しめるわけにはいかないと云うことで多分許すという事なんだと思います。」どうやらこうだというはっきりした結論では無かったようである。「舞台の『新釈金色夜叉』を観たのですがそちらも捉えられないんです。」「そちらはどう展開するのですか。」「宮と満枝の対決があるんです。」「そちらの方が面白そうですね。」そこでお別れしたのであるが、「金色夜叉」が解釈によっては若い人にも興味ある話となる可能性があるということである。)

映画の宮は迷ってはいない。貫一の事を心配しているがそれは、恋人とか愛人とかの思いではなく身内としての心配である。もう飛んで着地していて、その位置で困難があればその困難に立ち向かう意思がある。ただメロドラマ的映画作りであるからふうーっと眠りに誘われるのである。

遅ればせながら、これから尾崎紅葉の小説に入るのである。

 

6月新派『新釈 金色夜叉』

作・宮本研/補綴・演出・成瀬芳一

<金色夜叉>とは字を眺めていると<金色に輝く夜叉><金色に惑わされる夜叉><金色そのものの夜叉>などと浮かんでくる。

6月新派の『新釈 金色夜叉』は、間貫一、鴫沢宮、赤樫満枝、3人の夜叉である。自分の生き方に疑問を感じたとき、それぞれが夜叉に操られるのである。一番貧乏クジを引くのは宮を妻とした富山唯継である。富山は金持ちの御曹司ゆえにお金目的ではない妻を求めている。その相手として宮は美しく、自分をお金の対象として見ていないと熱烈なる求婚をする。(富山を気障な人間として登場させるが、そこが判らない。それは貫一の目から見た富山であって台詞を聞いていると、富山自身は自分を見る世間の目をはっきり意識している。)

宮は富山の言葉に酔いしれてしまい、自分が今まで想像したことのない世界があるかのように思ってしまう。貧しい士族出の家庭に育った宮が明治という時代のまやかしの西洋化に翻弄されたともいえる。貫一に「なぜ」と聞かれると「飛びたいのよ」と答える。どこに飛びたいのか宮自身分からない。先に何か光を感じてしまい、その光に抗しきれ無くなったのである。貫一はそんな訳の分からない理由で納得などできない。お金に目が眩んだとしか思えない。貫一は両親がなく親戚の鴫沢家に引き取られ宮とは兄妹のように育っている。貫一は宮を娶るつもりだし、宮もそう思っていたのであるが、宮は違う世界の光を感じてしまうのである。

貫一は宮の目を眩ましたお金の世界に自分を追い込んでいき、高利貸し屋に勤めその才覚を伸ばしてゆく。宮は感じていた世界が現実に見てみると自分を受け入れるような世界ではなく、そこからの救いを貫一に求め次第に気がふれてしまう。

もう一人、貧しさゆえに高利貸しの妻となっている赤樫満枝が貫一に惹かれ、自分の果たせなかった恋の相手とする。貫一の中に宮の存在があることを知っている満枝は「美しい人は自分の美しさを値踏みにかけるものなのよ」と言ってのける。<美しさ>と<金>は一緒なのか。宮が感じた<光>は宮の<美しさ>の照り返しであったのか。

貫一の夢の中で宮は満枝を刺し殺す。貫一は宮に「あなたには、あなたより一生懸命生きている満枝を殺す資格はない」と叱責する。それを聞いた宮は自害する。

満枝は死んだ夫の骨を持って、夫の故郷に旅立つ時、貫一は、今は心を病んで病院にいる宮を見舞い、「宮を自分の所に引き取ります」と告げる。それぞれが<金色夜叉>に翻弄されるわけである。<金色夜叉>は一番無垢の宮に狙いを定めたのである。

「わたしここから飛びたいんです」

波乃久里子さん(宮)はここが一番難問だったのではないだろうか。風間杜夫さん(貫一)もずっと恨みっぱなしの貫一の理論を通されたが頑なさに留まった。水谷八重子さん(満枝)がしどころがあり作り易かったのか生き生きしていた。英太郎さんの雰囲気が、アングラ劇団の役者さんのような演技で面白かった。高利貸しにひどい目にあったのか気のふれた老女役で、履いてるズック靴から砂を出す様子は、かつてのテントの中のある女優さんを思い出していた。砂。熱海の海岸の砂を指しているのか。

<金色>はお金なのか。それだけでは無いような気がするのであるが、解らない。この解らなさが、別の宮本研さんを探すことになるのであるから解らないのも悪くはない。

 

 

『美しきものの伝説』のその後

1918年(大正7年)島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、翌年1919年(大正8年)松井須磨子が抱月の後を追う。

1923年(大正12年)大杉栄と伊藤野枝は憲兵に虐殺される。その年、それぞれの美しき人々は何を目指していたか。

荒畑寒村、堺利彦、神近市子は政治闘争を続け、平塚らいちょうは文筆活動へと進む。小山内薫は1924年「築地小劇場」を設立。久保栄はここで演劇を学び小山内の死後は自分の演劇論にのっとた戯曲を書く。沢田正二郎はすでに「新国劇」を設立していたが振るわず、松竹社長白井松次郎が座付け作者に行友李風を起用し『月形半平太』『国定忠治』の剣劇が当たりこの頃は人気を博していた。中山晋平は野口雨情との「船頭小唄」が当たりこの年は映画化されている。辻潤は自分の思うままに放浪生活をしている。

劇中の中でも台詞の中だけで辻潤と伊藤野枝の長男<まこと>が登場する。この<まこと>との不思議な出会いがかつてあった。本屋で文庫本「山からの言葉」を手にした。呑気に景色など眺めていられないような急斜面の少し窪んだところに登山家が、一人は腰をおろし、一人は立ってパイプを咥えている。頂上ではない。ここまで登れたら上出来だとでも思っているのか、映画のセットとは見えないやはりそこは山の斜面の途中なのである。見ていると肩の力の抜けるような絵である。中ををめくると山の雑誌「岳人」の表紙絵が出てくる。力強いもの。笑ってしまうもの。ほのぼのさせるものと見ていて楽しいのである。文章も適度の長さでなかなか良い。購入し楽しんで読み終わり、年譜を見て驚いた。<辻まこと>。それは彼であった。しかしそれを読み終えた<辻まこと>は私がかつて心配した彼ではない彼であった。嬉しかった。本の表紙に辻まこと「山からの言葉」とはっきり記されているが、あの辻まこととは全く思わなかった。「山からの言葉」(辻まこと著)。

劇中で<まこと>のことが二回ほど出てくる。野枝が二人のうち長男は辻に次男は自分が育てると。その後、野枝は外で待つ<まこと>に会うが、「おばさんと呼ばれた」と涙を流す。この場面を見て、宮本研さんもやはりどこかで<まこと>にこだわられたのかと感慨深かった。伝説の外で自分の歩みを見つけていた人は少なくはない。

 

 

『美しきものの伝説』(宮本研の伝説)

6月に新派の『新釈 金色夜叉』を観たのであるが、尾崎紅葉の原作で宮本研の脚本である。どう捉えて良いのか考えがまとまらない。そうこうしている内に、かつてNHKの衛星放送で放送していた<昭和演劇大全集>の『美しきものの伝説』の録画があった。この脚本は伝説の部類に入るもので、見たいと思いつつ難解そうでそのままにしていたのであるが見るタイミングのようである。

面白かった。痛快でもある。大正時代を背負って走り抜けた美しきものたちへの賛歌でもあり、批評眼でもあり、交信でもある。この<昭和演劇大全集>は最初に演劇評論家(だけでわない)の渡辺保さんと俳優(だけではない)の高泉淳子さんが、これから放送する演劇について、役者について、本について、演出家についてなど突っ込みを入れつつ話されるのであるが、それに係るとこちらの書くことがなくなるのでこの部分は幕とする。

今回見た舞台映像は平成6年(1994年)俳優座での新劇人の合同の「座、新劇」公演で、作・宮本研/演出・石澤秀二である。

登場人物のニックネームがこれまた見事である。荒畑寒村(暖村)・伊藤野枝(野枝)・大杉栄(クロポトキン)・小山内薫(アルパシカ)・神近市子(サロメ)・久保栄(学生)・堺利彦(四分六)・沢田正二郎(早稲田)・島村抱月(先生)・辻潤(幽然坊)・中山晋平(音楽学校)・平塚らいちょう(モナリザ)・松井須磨子はそのままのようである。松井須磨子にニックネームが無いのは彼女の遺書に自分が観客からただ好奇の目で舐めずり回されていただけであるという言葉があり、ニックネームを持つだけのゆとりのなさを表しているように思える。

政治的にそれぞれの考えと実行があり〔堺・寒村・大杉・辻・野枝・神近・らいちょう〕、文学的にそれぞれの考えと実行があり〔辻・野枝・神近・らいちょう〕、演劇的にそれぞれの考えと実行があり〔抱月・小山内・沢村・久保・須磨子〕その中から歌も生まれる〔中山〕

男女関係では〔辻と野枝〕・〔大杉と神近〕・〔大杉と野枝〕・〔抱月と須磨子〕実際には舞台に登場しないが〔らいちょうと奥村博史(ダヴィンチ)〕。

これらの人間関係を上手に場面、場面に登場させ、論じ合わせ、語らせ、吐露させ、主張させ各自の考え方、生き方を浮き彫りにしていく。政治も演劇もお金とどう折り合いをつけていくのかという問題も浮かんでくる。お金などいらない。主張していくだけである。しかし、その主張を広めるための資金がなくては。大衆を信頼できるか。観客を信頼できるか。できる。信じている。暗い時代の突入を前にして体ごとでぶつかった<美しきものの伝説>である。そして伝説的に名前だけがぶらさっがていた<宮本研の伝説>の幕開けでもあった。

 

 

池田満寿夫と内田康夫を繋ぐ謎

池田満寿夫の青 で信州松代で「池田満寿夫美術館」に遭遇したことを書いたが、そこで熱海に「池田満寿夫記念館」と「創作の家」があるのを知る。

「創作の家」は池田満寿夫さんと佐藤陽子さんが1982年から1997年3月池田さんが亡くなられるまで住まいとして、また、アトリエとして使われていた家で熱海市に寄贈され公開されている。MOA美術館に行く途中にあり坂がきついのでバスを利用したほうがよい。駐車場は無い。

「池田満寿夫記念館」のほうは、伊東線網代(あじろ)駅から熱海駅行きバスで5分「下多賀」バス停下車20分とある。歩ける範囲である。チラシの後ろには車用に、歩くものには役立たないような池田さん自筆の芸術的地図載っている。「下多賀」バス停からの道は一応調べて印刷したが、こちらもあまり役に立たず道ゆく人に聞くこととなる。住んでいる人が楽なように教えてくれたのであるが、教えられる方の力不足で山肌に面した道をかなり遠回りしてしまった。それと網代駅前バス停も少し駅から離れていて人に聞かなければわからない。バスの時間までバス停そばの川などを辿っていたが、そこではなく網代駅周辺をもう少し散策しておけばよかったと思っている。なぜなら内田康夫さんの推理小説「『紫の女』殺人事件」で網代が出てきたのである。網代→池田満寿夫→内田康夫→紫の女(ひと)と繋がってゆく。

この推理小説には内田康夫さんと浅見光彦さんとが登場する。これもなかなか楽しい。内田さんは実際にこの網代のリゾートマンションに仕事部屋を持たれていた時に事件が起こるのである。内田さんのマンションの住所は熱海市下多賀である。池田さんの陶の作品が中心の記念館も熱海市下多賀である。この小説の目次に〔第一章 網代日記〕とあったので1ページを開いたら熱海での殺人である。これは読まなくてはならない。

熱海の紹介もある。古くは『吾妻鑑』に記載されてるそうだ。江戸時代徳川家康が湯治にきており、明治になると新政府の高官の社交場となり、別荘も立ち並ぶ。尾崎紅葉の「金色夜叉」、演歌の「熱海の海岸散歩する、貫一お宮の二人連れ~」も熱海を全国区にするのである。

熱海も今は時代から取り残された温泉場のイメージが強いのかもしれないが、谷崎潤一郎さんの「台所太平記」の場所でもあり、熱海にて でも簡単に紹介したがなかなか面白い街である。小説の方は熱海、網代を舞台に京の宇治まで旅するのである。作者に言わせるとこの作品は「駄作揃いの僕の作品群の中でも突出してケッタイな作品の部類に入りそうでです。」とあるが、私にはお気に入りの作品である。和菓子を見ても思い出す作品である。出てくる和菓子のお店も実在するとか。この作品の文庫は1995年に出ている。まだあることを願い確かめに行きたいものである。時間があれば「池田満寿夫記念館」にも再度足を延ばしたい。

 

歌舞伎座『七月花形歌舞伎』

花形歌舞伎となっているので若手と云うことになる。演目は昼夜とも通し狂言で、昼が「加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)」と「東海道四谷怪談」である。

どちらも筋が分かり易かった。これが良いのかどうか。観ているとすーっと流れてこうなってこうなるのかと話が見えてくる。もしかするとこれは人物の描き方が薄いのではないかと思い始める。何処かで役者の台詞廻しや演技に引き込まれこちらの感情の起伏も波打つのであるが、その波が静かである。

「加賀見山再岩藤」は「鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」の後日譚である。「鏡山旧錦絵」では中村芝翫さんのお初が忘れられない。町娘出の尾上を浪人の娘お初が一生懸命に尾上の気持ちを盛り立てつつかばうのである。そして主人の尾上を死に至らしめた岩藤を討ち、お初は二代目尾上となり、その後日譚なのである。

尾上はお初の成りをして主人尾上のお墓参りの後に、岩藤の亡骸の捨ててある場所で弔いをする。すると岩藤のバラバラになっていた骨が寄せ集まり亡霊となり、次の場面ではいとも楽しげに桜の花の満開の上空を嬉々として円遊するのである。この骨寄せの後の亡霊の場面はあまり手を入れず役者さんの芸だけでやって欲しかった。そのほうが舞台の宙乗りでの岩藤の肉体を持った喜びの意味が返って強調されるように思う。

岩藤はお家転覆を狙う望月弾正に乗り移り二代目尾上に仕返しをするが、それとは別に現闘争の犠牲となる鳥居又助の悲劇がある。浪人中の主人求女を助け、その帰参のため弾正の政略にはまり主君の奥方を誤って殺してしまう。そのことを知った又助は盲目の弟志賀市の弾く琴の中で自害する。この又助の疑う事無く奸悪に翻弄される人間の巡りあわせと盲目の志賀市が無心に弾く琴の場面は見せ所となった。(又助・松緑/志賀市・玉太郎)

「東海道四谷怪談」は伊右衛門とお岩の話であるが、民谷伊右衛門は塩冶判官(えんやはんがん)の家中にいて今は浪人である。その隣に住む塩冶判官の敵である高師直(こうのもろなお)の家臣の伊藤喜兵衛の孫娘が伊右衛門にほれる。そのため伊藤家は親切を装い産後の肥立ちの悪いお岩に顔形が崩れる薬を血の道の薬と称して届ける。お岩は伊藤家のほうに何度も手を合わせその薬を飲む。菊之助さんのお岩の一つ一つの仕種が丁寧で細かい。そのこととは別で非常にストイックなお岩である。その為幽霊となって出てくるのは当たり前と思わせるがこちらにゆとりを与えない。もう少しお岩に可愛さがあると膨らみも出る。染五郎さんの伊右衛門も殺人鬼の印象が強い。単なる幽霊話のアニメではなく人間界の話である。操られているだけではない人間の感情の機微が欲しい。

何役かスムーズにこなされている。その出方も綺麗である。幽霊の仕掛けも自然に場の空気を廻している。これからなのかもしれない。伊右衛門とお岩の<蛍狩>は夢ではない心の交流の合ったものたちの芳香を感じ取らせる。戸口前の送り火にほのかに照らし出される伊右衛門のふっとした淋しさにもその兆しがあった。