東京国立博物館『平安の秘仏』

平安の秘仏 櫟野寺(らくやじ)の大観音とみほとけたち

櫟野寺は忍者の甲賀市にあるんです。最澄さんが延暦寺の建立のとき、櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音さまを刻んだことが始まりとの言い伝えがあり、櫟の一木造りなんです。秘仏の御本尊の十一面観音菩薩坐像は、重要文化財のなかでは日本で一番大きな座像で圧倒されますが、切れ長の目が細くて、甲賀様式といわれています。

毘沙門天立像は、坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊を平定したとき報恩に、本尊をまもるために自分の分身としてまつったと伝わっています。御本尊の大きさに対して田村麻呂毘沙門天精一杯頑張られていました。

音声ガイドにみうらじゅんさんといとうせいこうさんのスペシャルトークが入ってまして、それがまた絶妙な味わいを加味してくれました。このお二人が櫟野寺を訪ねたDVDは見ていますので、話しを聞きつつ映像が浮かび上がってきました。

この地に油日神社がありまして、ツアーでいって気に入り、再度違うツアーで訪れたことがあります。油日神社は、楼門から左右につながっている廻廊(かいろう)が、何ともいいがたい空間を作ってくれていて気分がすーっと穏やかになるのです。JR草津線の油日駅から歩いて20分くらいということでしたので、いつかフリーで行きたいと思っているのです。

櫟野寺はそれよりももっと奥なのですが、歩けないことはありません。バスもあるようですが、秘仏なので公開日が限定されるので、今回、上野でお会いできてしあわせでした。宝物館修繕のため、初めて櫟野寺から出られたのです。まったく騒がしいことだと思われているかも。

甲賀は、伊賀に行ったので甲賀にも行かなければと行った日がみぞれで、<甲賀の里 忍者村>は甲賀駅から電話すると迎えにきてくれるということでしたのでたすかりました。甲賀は猿飛佐助や霧隠才蔵などフィクションの人物が、講談や小説で人気を博していますが、資料館では、梯子とか舟とか組み立て式のものなどがあり、智と技と工夫の世界で伊賀とは違う展示もあり、ここも楽しかったです。

この北東のほうに旧東海道があり、バスのない鈴鹿峠を越えて初めてバスの停留場があるところに田村神社があります。そこから京都三条まで三泊四日で行き着いたのです。京都で三泊して行きつ戻りつしながら歩いたのですが、荷物がないのが助かりました。一日使える二日目に田村神社からを入れ、京都から草津に来て草津線に乗り換えるときに、豪雨でそれまで草津線の電車が止っていて動き始めた時でした。雨の中歩くことを覚悟して貴生川駅からバスで田村神社まで行ったのですが、雨はやんでくれました。

田村神社に旅の無事をお願いして初めて気がつきました。田村神社は、坂上田村麻呂を主祭神とする社だったのです。緑が多く趣きある神社でした。江戸時代は、田村麻呂人気で、田村神社と櫟野寺参りがあったのだそうですが、どう歩いたのでしょうか。知りたいものです。

旧東海道は、無事雨がやみ、土山宿を過ぎると今度はいいだけ日に照り付けられ水はペットボトル二本は持参し、一本は凍らせて保冷バックにいれて背負い、必要に応じて自動販売機で補充しました。時には自動販売機もないところがありますから。

国道一号線にも時々出てバスの停留所も調べてあるので何とかなるであろうと計算していたのですが、お昼の食事どころがなくて困りました。国道があれば、だいたいは食事する場所はあったのですが、そんな雰囲気ではなく、どうにかコンビニ一軒と遭遇。そこへやっとたどりつき、オムライスの卵のふわふわに、これ!と温めてもらい、日蔭もないので外の炎天下で食べましたが、美味しかった!

なんとか、無事水口宿に到着でき、さらに草津線の三雲駅まで行けば次の開始の時間的ロスを少なくできるためそこまで頑張り、ほっとした思い出もあり、この辺りは記憶の濃いところです。

こういうところですから、山の中で静かに平安時代から信仰が続いているというのはわかる気がします。

鈴鹿山に籠るだけあってここの山賊たちは手を焼かせたのでしょう。

上野に櫟野寺の仏さまたちがいらしてくださり、田村巡りができ、甲賀の地域が近くなりました。

秘仏にお会いできなくても、油日駅から油日神社から櫟野寺まで歩きたい道です。

 

 

 

11月23日 法真寺 『一葉忌』(2)

図書館で『樋口一葉と歩く明治・東京』(監修/野口碩)を借りました。一葉さん関連の散策にはもってこいの本で、わかりやすいです。

その中に、「一葉忌」をされている法真寺の住職さんのことも紹介されていて、今の住職さんは海外で約11年勉強されていて奥さまがアメリカのかたなのだそうです。納得しました。本堂で腰ころも観音はどこかなと思って尋ねた若いお坊さんがどうも外国のかたのようで、修業にこられたかたかな、でも日本語が綺麗だったのでちょっと不思議だったのですが住職さんの息子さんだったのでしょう。そして、ステンドグラスと椅子。「仏教とキリスト教の死生観の違いを英語できちんと説明できる」住職さんと書かれていました。

『たけくらべ』にでてくる真如は、子供の頃、法真寺の境内で遊んだ小坊主さんがモデルではないかといわれています。

瀬戸内寂聴さんが講師でこられたとき、こういう法要の会を催すのは大変なことなのにきちんとされていてと感心されていたと郷土史家のかたが話されていました。

『こんにちわ一葉さん』(森まゆみ著)を読んでいて、小説を書き始めたころからの日記は小説を書くための絵であるならスケッチだったのではないかと思い始めています。日記は実際にあったことを記録するのですが、一葉さんは生活に追われ時間がありません。単発の時間を有効に使い、日記という短い時間で書けるものを使って、そこに情景や心理描写に創作をいれたり、写実的な観察の表現を練習していたのではないかなと思うのです。

日記の公開で、自分の書かれている部分にショックを受けた人もいたようです。今の上野にあった東京図書館に通って勉強したようですが、一葉さんの世界は狭いです。その狭さが一葉さんならではの作品となったのですが、日記という独自の勉強法で本郷丸山福山町で『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』などを一気に開花させたのではという推測です。

『ゆく雲』も、腰ころも観音さまがでてきて、どこにでもあるような当時の話に観音さまが見ていたという大きな慈愛をもたせています。そしてこの慈愛の眼が貧しき人々をえがく一葉さんの慈愛の眼となって作品となります。

ただ作品は作家のフィルターを通すわけで、一葉さんは決して観音さまではありません。一葉さんのフィルターは人生の辛苦をなめた一葉さん自身の嫌な部分が沢山あってのことです。

日記の公開は妹のくにさんが一葉さんの死後刊行を希望したのですが、『こんにちわ一葉さん』に興味深い記述がありました。

「 日記の中には出会った人びとへの辛辣な評価も含まれていたので、鴎外は公刊はしない方がよいだろうといい、露伴は公刊すべきだろうと文豪二人の意見が割れ、これが二人の疎遠の一つのもとを作ったともいわれています。 」

鴎外さんは、自分がドイツ留学中のドイツ女性との恋愛のことを小説にしていて、それは事実と違えて書いてもいて、一葉さんの日記というものに、日記ではない性格をも読み取っていたのではとも思えるのですが。この日記公開で、一番実生活を乱されたのは半井桃水さんでしょう。このことに関しては森まゆみさんが言及していますので、興味あるかたはお読みください。

平塚らいてうさんのことを調べていて、『断髪のモダンガール』(森まゆみ著)で、本郷菊富士ホテルの経営者夫人が森まゆみさんの親戚であったことをしりました。そして、『本郷菊富士ホテル』の著者・近藤冨枝さんが森まゆみさんの伯母さんだったのです。驚きでした。近藤冨枝さんは、文士たちの集まっていた、田端、馬込の『田端文士村』『馬込文学地図』も書かれていますが、今年の7月に亡くなられていました。(合掌) 一葉忌でも二回講演されています。

そして、一葉さんの作品を芸で伝えることのできた新派の二代目英太郎さんも11月11日に亡くなられました。(合掌) 明治、大正、昭和の初めの人物像を女形で表現できる方でしたので、市川春猿さんが歌舞伎から新派に代わられ、英さんに新派の女形を教えてもらえるであろうと心強く思っていたのですが、なんとも残念です。

9月の新橋演舞場での芝居『深川年増』が最後の舞台で、口上で、中嶋ゆか里さんが幹部になられ<英ゆかり>と改名されたと紹介されたので、<英>の名前が二人になるのだと思ったのですが急なことでした。最後の元気な舞台姿を観れたのが幸いでした。

今、時代を表現できる役者さんが少なくなって、現代の人と変わらない表現力の無さで、古い映画をみて味わうか、あとは、小説の世界に籠るしかなくなるのでしょう。

さて次の一葉散歩は、本郷丸山福山町から一葉さんが通われた東京図書館までとしましょうか。東京図書館は、今の上野の国際子ども図書館と東京芸大の間あたりのようです。一葉さんは西片と本郷に掛る空橋(からはし・現清水橋)を通り、東大を突き切って通われたようです。

『加賀鳶』から始まった伊勢屋質店は、跡見学園女子大が所有し、土・日と一葉忌に公開してくれています。一葉さんの頃の建物は明治20年に移築した土蔵部分だけで、あとは一葉さんの死後に建てられた建物です。この質屋さんに質草を入れたり出したりしたわけです。

一葉さん一家は、蝉表(せみおもて)という雪駄(せった)の藤で編んだものの内職もしていて、一葉さんは下手で、妹のくにさんは上手く、洗い張りや縫い物よりも駄賃は少し高かったようですが、生活するには到底足りなかったでしょう。

『加賀鳶』の書かれた明治19年にはここに伊勢屋質店はあったわけですが、その時代の建物は残っていません。そして<加賀鳶>に関しては、次の記述がありました。

将軍家の姫君を迎える特別な朱塗りの御門「 この御守殿門は万一焼失すると、将軍家に対する忠誠心を疑われるばかりか、縁組みそのものまで帳消しにされかねなかった。そこで前田家は加賀鳶とよばれた大名火消しを組織して、防火に努めた。 」(『樋口一葉と歩く 明治・東京』)

てやんで! 赤門の向かいにはお夏ちゃんこと樋口一葉というりっぱな文学者がいたんだよ! 赤門がなんだい! ちょっくら通してもらうよ~ん・・・ってんだ。

 

11月23日 法真寺 『一葉忌』(1)

本郷の樋口一葉さんが利用されたという質屋伊勢屋さんを検索していたら、11月23日文京区本郷の法真寺で<一葉忌>があるというので散策がてら行ってみることにしました。

本郷通りをはさんで東大赤門の向かいの路地奥に法真寺があり、<一葉忌>と書かれた幕が入り口にありました。赤門前は「加賀鳶」で、道玄と捕り手との立ち廻りの場でもありますが、本郷通りに面していて立ち廻りのできるような空間がありません。

ところが、かつてはこの赤門は15メートルほど奥にあったのだそうです。これは地元の郷土史家のかたから受けた説明です。黙阿弥さんは空間のある赤門前をみていたわけです。

お昼過ぎに法真寺に着き、法要や幸田弘子さんによる朗読は午前中に終わられたようです。地元のかたからおしるこをご馳走になりました。一葉さんも、恋心をいだいたとされる半井桃水(なからいとうすい)さん手作りのおしるこをご馳走になっています。

行く前に知ったのですが、法真寺の隣に一葉さんは4歳から9歳まで住んで居て、一番心穏やかに過ごせた時期で、法真寺の腰ころも観音のことが小説『ゆく雲』に書かれているということなので作品を読んでみました。

出だしに「酒折(さかおり)の宮、山梨の岡、塩山、・・・・」と書かれてあって、<酒折の宮>は、甲府善光寺御開帳のとき、JR中央線の酒折駅で降りて、この神社に寄ってから甲府善光寺に行きましたので親近感がわきました。

小説の内容は、一葉さんの両親の出身地と同じ「甲府から五里の大藤村の中萩原」出身の青年・桂次がそこの造り酒屋に養子となります。養子先の娘と許嫁の中なのですが、東京に出てきていて、養子先の親戚に下宿しています。そこの娘のぬいは、実母が亡くなって継母という境遇で、父にも継母にも遠慮して波風の立たないように暮らしており、ぬいに恋心を持つのですが、養子先から早く結婚して跡を継いでくれとの催促で、帰ればもう隣のお寺の観音さまも見納めと思うと名残惜しいきもちとなるのです。

その観音様の様子が「上杉の隣家は何宗かのお寺さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、こちらの二階より見おろすには雲はたなびく天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」と書かれています。

この観音さまを一葉さんも二階から眺めていたのです。一葉さんは、この住んでいた家を<桜木の宿>と呼びました。

小説のほうですが、桂次は婚約者がいやで、ぬいに自分の気持ちを打ち明けますがぬいはどうなるものでもないと感情をあらわしません。桂次はしぶしぶ田舎に帰りぬいに手紙をかきますが、そのうち時間がたつと年始と暑中見舞いの挨拶のみとなります。

「隣の寺の観音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれみ給へば」と観音さまはみているとして、ぬいは相変わらず父と母と自分の関係にこれ以上ほこびがはいらないようにと努力しているのでした。

残念ながら、桂次にはぬいを幸せにできる力がなかったのです。本堂の左手に観音さまは今も穏やかなお顔をして座っておられます。

一葉さんを忍ぶために、献花してお線香をあげる場所がありましたのでそこで先ず手をあわせました。

本堂の阿弥陀さまの前に一葉さんの写真が飾られ、和太鼓の演奏がありました。本堂の右側はステンドグラス風で光が入るようになっており、椅子が教会のような木の長椅子でした。<桜木の宿>の倉庫のなかで一葉さんは英雄豪傑伝や任侠義人の本をよんでいたそうですので、若い和太鼓奏者の打つ勇ましい太鼓の響きに喜ばれたのではないでしょうか。

そのあと文京一葉会の郷土史家のかたの説明つき一葉さんゆかりの散策に参加です。法真寺から始まって、菊坂住居跡から白山通りの一葉終焉の地まででしたが、途中公開していた旧伊勢屋質店で失礼させてもらいました。何回か来ていますが、写真や地図などを使っての詳しいお話でかつての街の様子も想像できて楽しかったです。

帰りに古本屋さんがあってチラッとのぞいたところ、『こんにちわ一葉さん』(森まゆに著)に遭遇。本当に「こんにちわ」と声をかけたくなるように一葉さんの日記と作品から一葉像を浮かび上がらせてくれ、『加賀鳶』から一葉忌につながるとは赤門の力はやはり凄いということでしょうか。

本郷菊坂散策 (1)

本郷菊坂散策 (2)

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

上記の散策が今回は一葉さん中心で一本の道となりました。東大赤門近くの本郷には勉学と世に出ることを求めて、あるいは世に出た人を頼って人々が集まってきていたわけです。

4歳から9歳の時に本郷6丁目東大赤門前法真寺隣の桜木の宿 → (この間7回ほど引っ越しています) → 18歳の時に菊坂に → (吉原の裏の下谷竜泉寺町に) → 22歳の時に本郷円山福山町に(ここで亡くなります)

 

上記地図の赤枠が「東大赤門」、ピンク枠が「桜木の宿」、青枠が「法真寺」。

東大赤門

腰ころも観音

国立劇場 『仮名手本忠臣蔵』第二部(3)

七段目』<祇園一力茶屋の場>

勘平が亡くなってしまい、年季5年の奉公で給金100両でおかるは一文字屋へ売られていきました。年季5年といえども、衣類や生活品は自分で調達するのですから借金がかさみ、年季の期間は伸び、ここから抜け出せる一つの方法が大金をつんでくれる人がいて請け出されるというかたちです。

一力茶屋では、大星由良之助が放蕩している場所でもあり、おかると由良之助はどんな出会いをするのでしょうか。

幕が開くと華やかな祇園一力茶屋の部屋で仲居がずらり。花道からは、斧九太夫(橘三郎)と鷺坂伴内(吉之丞)が一力茶屋へ。斧九太夫は、おかるの父からお金を盗み、勘平に殺された定九郎の父で、城明け渡しの前の評議で貯えのお金の頭割りに反対したひとで、強欲な人物です。その人が師直側の鷺坂伴内といっしょです。なぜか。由良之助が師直を討つ気があるかどうかを見極めるためであり、伴内と内通しているのです。お金を積まれたのかもしれません。

さらに由良之助を訪ねてくるのが、赤垣源蔵(亀三郎)、矢間重太郎(亀寿)、竹森喜多八(隼人)、寺岡平右衛門(又五郎)です。由良之助の本心を確かめにきたのです。由良之助は目隠しをして店の者たちとの鬼ごっこ遊びです。店の華やかなにぎやかさ中での遊び人由良之助の吉右衛門さんの出です。

由良之助は遊びに興じている雰囲気のまま、血気だった三人と足軽の平右衛門を軽くあしらい難なく煙にまいて寝てしまいます。声の大きさだけでは勝てませんでした。そこへ力弥(種之助)が父のそばによりチャリンと刀の鍔音を鳴らせ門口へさります。刀の鍔音は、義太夫が説明してくれます。そこで観客は勝手にチャリンと音をつくっています。ほかのかたはカチッかもしれません。

由良之助酔ったまま、水をもってこいとか叫び仲居のこないのを見届けて門口へ行き、打って変わったきびしい態度で力弥から文を受け取ります。さっと帰る力弥を呼び止め「祇園町を離れてから急げ」と。この言葉好きです。用意周到な由良之助がぱっーとわかり腹もわかります。好い場面です。

すぐに文は読めません。九太夫が現れ宴席となり、亡き人の忌日の前夜を逮夜(たいや)というらしいのですが、主君の逮夜に生ものをすすめ、由良之助はにこやかに食べます。九太夫はこれで腑抜けな由良之助であろうと伴内に納得させ、自分はさらに手紙のことを知って情報を得ようと縁の下へ隠れます。

由良之助はやっと文を読むことができます。ところがその文を二階の部屋から鏡に写して読んでいたのがおかるなのです。おかるは雀右衛門さんです。由良之助は上のおかると下の九太夫に気がつきます。

騒がずあわてず上機嫌の様子は変えずに由良之助は、おかるを二階からおろし、身請けをして三日後には自由にするといい、店の主人に金を払ってくるからここにいるようにと告げます。おかるにとっては夢のようなはなしで、さっそく実家に手紙を書きます。そこに再びあらわれた平右衛門。かれは、おかるの兄だったのです。

身請けの話しを聞き平右衛門は考えます。このあたりが身分低い足軽の可笑しさをもあらわす場面で又五郎さんは一生懸命考えます。彼はかれなりの義士に加わる道を模索しているのです。平右衛門は理解します。由良之助は大事の文を読んだおかるの口を封じようとしているだと。妹のおかるを自らの手で亡き者として手柄としようと考える平右衛門。

二階の場から突然思わぬことの起こるおかるのしどころを雀右衛門さんは遊女であったり、妹であったり、娘であったり、妻であったりと変化をあらわし、勘平が死んだと聞いて覚悟の決まるおかるの気持ちをしっかりだし、そんなおかるを又五郎さんが受けとめます。

そこへ由良之助が止めにあらわれます。この時は国家老である由良之助その人です。平右衛門はあずまへの供を許され、勘平は加わっているが死んでいるため敵をひとりも討てないであの世で主君に会うのでは可哀想だからと、縁の下の裏切者九太夫を勘平の代わりにおかるに討たせるのです。

苦しむ九太夫を扇で打ち据える由良之助の吉右衛門さん。獅子身中の虫とはおまえのことだと怒り爆発です。建夜に魚肉を食べさせられた時の心中は、その時の笑みとは違う無念の苦渋だったわけで、ここまでの理不尽さを全てここではきだすような感じでした。

派手な放蕩遊びの鎧を脱ぎ捨て、あずま路に向けての道も決まり新たな心根の由良之助の吉右衛門さん、夫・勘平にはなむけできたおかるの雀右衛門さん、願いがかなった平右衛門の又五郎さんで一力茶屋での幕となりました。

あっ、斧九太夫さんの橘三郎さんもいました。平右衛門の背中でこれから鴨川で水雑炊を喰わされるのです。九太夫さん、やり過ぎたと思っても今回の由良之助さんには通じません。あとの祭りです。

 

国立劇場 『仮名手本忠臣蔵』第二部(2)

六段目

勘平とおかるは、おかるの実家である与市兵衛の家に住んでいます。家には勘平はまだ帰っていなくて、お客がきています。お客は一文字屋の女将・お才(魁春)と判人の源六(團蔵)で、残りの半金50両を持ってきていておかる(菊之助)を連れて帰ろうとしています。

おかるの母・おかや(東蔵)は夫が帰らないので、昨夜与市兵衛に半金渡したからと言われても気がかりですが約束なのでおかるを渡し、おかるは駕籠に乗り花道で、夫の勘平(菊五郎)と出会います。勘平は駕籠を家に戻します。

それまで単純に考えていた源六も若主人が出て来たので道中着を羽織りに着替えて、女将に頭を下げ交渉に入ります。事情のわからなかった勘平もことの次第がわかり、女将さんが与市兵衛に渡したと同じ縞の財布を見せられ、自分が殺して金を奪ったのは舅の与市兵衛であったと思い込みます。最初は明るい華やかな勘平がことの次第を知り、変っていく様子が見どころです。

夫が帰って来てかいがいしく世話をし、お茶屋には行く必要がないといわれ喜んだおかるも、今度は行かなければならないであろうと夫にいわれて落胆します。その気持ちの流れを菊之助さんは夫の気持ちに合わせるようにして愛らしく表現しました。事情を知っている観客は別れを惜しむ二人のそれぞれの辛さがよくわかります。

魁春さんの一文字屋の女将には貫禄があり、交渉の團蔵さんに女衒の手並みの様子が自然とあらわれています。ここの場面でも煙草盆と煙草が活躍し、外の駕籠で待つ魁春さんの煙草を吸う様子は東海道中の浮世絵にでもありそうな風情で、家の中の複雑さとの対比として面白い絵となっています。人の動きが無駄なくよく整理されています。

どうすることもできずにおかるを去らせる勘平。そこへ、与市兵衛の死体が猟師仲間によって運ばれてきます。下に伏せて敷物を握りしめていく勘平。全て決められた動作ですが、こうした場合人はこうするであろうと思わせる苦悩ぶりです。形が自然な動作にまでなって、さらに観ている者を納得させる嘆きとなっているのです。

おかやは動転し、勘平が着替えるときに落とした縞の財布と勘平のしどろもどろの様子から勘平が殺したと確信します。勘平を思っての親心がこのようになるとは、おかやの苦しさと勘平の苦悩がぶつかり合います。菊五郎さんと東蔵さんのやりとりもそれぞれの気持ちが伝わります。

そこへ、原郷右衛門(歌六)と千崎弥五郎(権十郎)が訪ねてきます。勘平は着物を整え髪を直し逃げると思って自分から離れないおかやを後ろに従え応対します。

歌六さんと権十郎さんの様子と台詞に、事を構えた武士の雰囲気が漂い、田舎の家に違う空気を運んできます。しかし、事情を知った二人は、勘平を蔑み帰ろうとします。勘平は自分の罪を恥じて腹を切ります。切ない自分の気持ちを語る勘平。「色にふけったばっかりに、大事の場所にも在り合わず」ついに、ここまでの悲劇となってしまいました。弥五郎は、一応、与市兵衛の傷を確かめます。

与市兵衛の傷が刀傷であることが判明。来る途中、斧定九郎が鉄砲で撃たれた死骸をみているので疑い晴れて目出度く連判状に加えて貰えるのです。勘平もついに血判となります。

早まりし勘平ですが、遅かりし真実です。最初は些細な気持ちが、大事となり、それを挽回しようとしてもっと深見にはまってしまったのです。ここで這い上がろうという一途さと思いもよらぬ展開に当惑する苦悩への変化を菊五郎さんは積み重ねた芸で集大成のような勘平を造形され、それでいてゆとりも感じられました。

ところどころで入る太棹と義太夫もどうなることかと悲劇の流れを加速していき、今回はその調子もいいなあと思う気持ちにさせてもらいました。役者さんの動きがよいとそちらにも自然に働く作用が生じるのでしょうか。

さて、一文字屋へ行ったおかるはどうなるのでしょうか。

 

国立劇場 『仮名手本忠臣蔵』第二部(1)

主君の刃傷ざたの時、個人の感情を優先させその場に居なかった勘平とおかるは、おかるの実家へ向かっています。『道行旅路の花婿』で『落人』とも言われます。

歌舞伎を観始めたころ、通しではない『落人』を観まして、勘平が勘九郎時代の勘三郎さんです。観た後で先輩に「あれは何んですか。場面が明るいのに勘九郎さんがずーっと沈んでいて動きも少ないのは。」と聴いた覚えがあります。二人のそれまでの状況を説明されてなるほどそういうことかと納得した覚えがあります。

<花婿>とは勘平さんのことです。勘平の錦之助さんとおかるの菊之助さんが花道からの登場です。若い二人の旅人の艶やかさが漂います。富士に菜の花と桜の木と晴やかな本舞台に移りますがまだ夜です。

場所は東海道の戸塚です。人を忍んで夜歩いてきたので、このあたりで休みましょうということですが、立ち止まってみると勘平は自分の過ちには死しかないと思います。おかるは勘平が死ねば自分も後を追います。そうなると心中となってもっと世のそしりとなりますよ。とにかくここは私の実家へまいりましょうと説得します。

菊之助さんは振りを丁寧に扱われ、おかるの微妙な心を現しつつ勘平の気持ちを引き立てようと努めます。錦之助さんは武士としての償いを考えると死しかないとじっーと考えています。おかるに止められますが、迷いは心を離れず沈む心のままおかるに従うことにします。

大事のあった中での押さえられぬ若い恋仲のふたりに死の影がゆらゆらする心情のあやうさを錦之助さんと菊之助さんは、美しく芯はとどめて表現してくれました。おかるの大きな矢絣の着物が映え、勘平の黒が押さえます。

そこへ現れるのが、おかるに横恋慕の鷺坂伴内。花四天を従えています。鷺坂伴内の着物が八百屋お七や弁天小僧菊之助の襦袢と同じあの派手な紅と浅葱の麻の葉のななめ模様です。おかるへの恋心とひょうきんさをあらわしているのでしょうか。

亀三郎さんの伴内、殿中での様子を勘平の気持ちを逆なでするようないやみな語りで、おかるを渡せといいます。勘平は鬱憤を晴らすように花四天との立ち廻りですが所作なのであくまで優雅に動きます。鷺坂伴内は歯が立たないと自分で定式幕を締めて退散です。

明け方の花道のおかる、勘平。先に何が待ち受けているのか不安いっぱいの道行ですが、この時点では勘平はおかると夫婦の気持ちになっています。

五段目

ここからは、菊五郎さんの勘平です。猟師となっていている勘平が雨の山﨑街道で火縄の火を消してしまい旅人に火をかりますが、それが朋輩の千崎弥五郎の権十郎さんで息があった場面でした。勘平が御用金を用立てするので由良之助にとりなして欲しいという気持ちが通じるところで、短いがこの出会いの場は、罪ある身の勘平にとって力の湧く場面でもあり、悲劇へとつながる場面でもあるのです。このあたりから、勘平の想いと外からの動きとが大きく狂いはじめます。

おかるは勘平を武士に戻したいとの願いから自分は遊女になる決心をします。そのためおかるの父・与市兵衛(菊市郎)は祇園の一文字屋と交渉し半金の五十両を受け取りの帰り道、雨のため高く積まれた稲架けの前で休みます。稲架けの奥から手が伸び、お金を取られ殺されてしまいます。

親の九大夫にも勘当されている定九郎の出です。江戸時代に役者中村仲蔵が工夫したという場面で、短いですが観客の視線が一点に集中する熱い瞬間です。

松緑さんあぶれ者の非情さを静かに音に乗りつつしどころを決めていきます。表情は押さえられ、足に破れ傘を感じとり、さっと開いて形をきめ花道を行こうとすると猪が向かってくるので再び稲叢に隠れ、静まったので出たところで鉄砲に撃たれ倒れてしまいす。

勘平が撃ったのです。勘平は猪を仕留めたと思って居ます。ここからの勘平の動きが体に染み込んでいる菊五郎さんの芸です。一つ一つの動きが闇のなかで確認しつつながれます。長い時間をかけて洗練されてきた動きなので、黒御簾からの音やツケ打ちがここぞとばかりに動きに合わせて入るのが堪能できました。音と役者さんの動きの良さの一体感がこういうことなのだとあらたな想いでした。

勘平は、自分が撃った人の懐のお金に気がつきます。千崎弥五郎との約束もありお金を手にしてその場を立ち去ります。勘平は自分が撃ち殺したのを定九郎だということも、手にしたお金が舅・与市兵衛から盗まれたお金ということも知りません。

勘平の死という長い芝居の山場まで先がながいのに力が入り、眼が離せませんでした。

 

歌舞伎座十一月 成駒屋襲名披露公演(2)

元禄忠臣蔵~御浜御殿綱豊卿~』は、国立劇場での『仮名手本忠臣蔵 七段目』と呼応して、仁左衛門さんの綱豊卿の台詞ひとつひとつが響きました。一途な染五郎さんの助右衛門も、由良之助への複雑な想いを綱豊卿の前では迷っていないというところを見せたいと意地になったり、嫌味を言ったりと義士となるまでの心の内の複雑さを見せてくれました。

御浜御殿では、赤穂事件などなかったかのように綱豊卿は派手な遊びを展開しています。舞台最初からお女中たちの綱引きが行われています。旅姿の子どもが。綱豊に「抜けまいりに一文のご報謝を~」といって柄杓を差し出します。<道中>の言葉もでてきますので、どうも旅をテーマとしたお遊びが開催されているようです。豊綱もこれが抜けまいるかと庶民の生活を垣間見てご機嫌です。

その一方、師の新井勘解由(左團次)を呼んで、赤穂の浪士に討たせたいとも吐露します。そんなところへ、赤穂浪士の富森助右衛門が現れるのですから、豊綱にとってはその覚悟の程を聞き出す機会です。

豊綱の仁左衛門さんは、あの手この手、緩急自在の台詞回しで助右衛門から聞き出そうとしますが、助右衛門の染五郎さんも持ちこたえます。綱豊は浅野家再興を願い出て、今自分の手から離れたものの行方を見据えながら放蕩の由良之助の気持ちまでかたります。助右衛門は、お家再興のことを言われ動揺するきもちから、お客としてくる吉良を一人で討つことを決心し豊綱卿の寵愛を受けている妹のお喜代(梅枝)に手引きさせます。

吉良と思って切り付けた人物は豊綱卿で、討つまでの動揺を叱責し、生島(時蔵)に後を頼み能舞台へと去るのです。大蔵卿に匹敵する江戸の豊綱卿です。

加賀鳶でもそうでしたが、煙草が小道具として、役者さんのしどころとして重要な役目を担っていました。

口上』では、染五郎さんが、襲名されるかたよりも多い五役にも出させてもらっていますと言われたのと、仁左衛門さんが、前の芝居でしゃべりすぎましたで話すことは控えます。お聴きになりたいかたは、松竹座にお越しくださいと言われたのが実感を伴っていて可笑しかったです。

盛綱陣屋』は、佐々木盛綱と高綱の兄弟が敵となって戦っていて、真田信幸と幸村をモデルとしています。高綱の子・小四郎が、徳川家康モデルの北條時政に捕らえられ盛綱に預けられています。

盛綱(芝翫)は、高綱が自分の子どものことをおもって戦意をなくしてはならぬと母の微妙(秀太郎)に小四郎(左近)に自ら命を絶つよう言い聞かせてくれとたのみます。いわば、佐々木家一族の内輪の話しなのです。密かに内輪で佐々木家を守るために盛綱は策を練っているわけです。

小四郎の母・篝火(時蔵)は息子が心配で陣屋に忍び寄り文矢を放ち、その文をみた盛綱の妻・早瀬(扇雀)も文矢を返します。篝火は藤原定方の歌で息子に会いたい気持ちを、早瀬は蝉丸の歌で、ここでは今はお帰りなさいという意味でしょうか。小四郎も母に一目会いたいと祖母・微妙に懇願します。

内輪での試行錯誤しているところへ、時政(彦三郎)が高綱の首実験のためにあらわれます。盛綱は、心の内を隠し首実検に望みますが、小四郎が父上といって自刃するのです。その首はにせ首です。盛綱と小四郎は顔を見合わせます。小四郎の意志が通じた盛綱は高綱の首に間違いないと言い切り無事首実験をすませます。

母に会いたいと言っていた子どもの小四郎が仕組んだのです。それを理解した大人たちの小四郎に対するいたわりの場面となります。盛綱は高綱に佐々木家をまかせ死ぬ覚悟ですが、そこへ、もうひとり全体像をみすえていた和田兵衛(幸四郎)があらわれます。この人、最初と最後に登場し佐々木家の行く末を指し示す役どころだったのです。

佐々木家をどうもっていくか思案の盛綱を芝翫さんは大きな型できめられ腹もあらわしてくれました。黒の長袴の見得も美しい姿となりました。ただ台詞が切れてしまうのが残念なところです。息の長さの自在さをさらに期待したいところです。

小四郎役の左近さんしっかり間をあわせて演じられました。子役時代にこの役ができるのは良い巡り合わせということでしょうが、それも襲名という大きな舞台でしっかり役目を果たされました。

脇に鴈治郎さん、染五郎さん、秀調さん、彌十郎さんで固められ、芝翫さん初役の盛綱が手堅い舞台となりました。

蝉丸の歌から少し蛇足します。歌は「これやこの行くも帰るもわかれては知るも知らぬもあふ坂の関」で、蝉丸は琵琶の名手でもあり、芸能の神様でもあります。大津宿から京都に向かう旧東海道に関蝉丸神社下社、関蝉丸神社上社があり逢坂の関址を過ぎると蝉丸神社分社があります。この三社を合わせて蝉丸神社ともいうそうです。今は無人の社となっていまして坂は削られ国道が走り道はなだらかです。

<大津絵販売の地>の碑もあり、旅人はこのあたりで大津絵も購入しお土産としたわけです。大津絵も歌舞伎の題材となっています。

芝翫奴』は歌之助さんでした。申し訳ありませんが、その前に富十郎さんの『供奴』のDVDで二回も観てまして、このリズムを身体に染み込ませるのは時間を要すると思ってしまいました。足踏みなど面白さのある踊りゆえにかえって難しいかもしれません。今回は三人での交代ですので、三分の一しか踊れなくて無念と思って闘志を沸かせてほしいとおもいます。

そして、先代の芝翫さんの『年増』も二回観まして、こうした落ち着いた雰囲気の踊りも近頃観てないなあと思いつつ、先代の雀右衛門さんの尾上と芝翫さんのお初コンビの鏡山を思い出していました。優雅に悔しさを内に秘めた御主人様の尾上さまを、お初は何としてでもお守りするのだという心意気の若々しかった様子がしっかり記憶に残っています。襲名にあたり、先代芝翫さんのお初の心意気で歌舞伎を守っていただきたいものです。

 

歌舞伎座十一月 成駒屋襲名披露公演(1)

八代目中村芝翫、四代目中村橋之助、三代目中村福之助、四代目中村歌之助襲名披露の歌舞伎座二ヶ月目です。

最初の『四季三葉草』で、ムッとくることがありました。梅玉さんの品格ある翁の舞いのところで団体客が入ってきたのです。二回に分けて。気分はメチャクチャです。翁と千歳との舞いの変わり目あたりで入場願ってもいいのではないでしょうか。さすがであると気持ちよく観ていた気分の集中力が止ってしまいました。お囃子連中のかたが、その雰囲気を察したのかどうかはわかりませんが、千歳の舞いからひと際大きく鼓が入ったように思え気をとりなおそうと努めました。

『四季三葉草』は『式三番叟』からもじって、親子四人の襲名に合わせての変名なのかなと思ったところ、江戸時代からきちんとありました。翁は松、千歳は梅、三番叟は竹と草花にたとえ、沢山の花々が詞にでてくる清元です。

最初の風格が壊され、なんとか扇雀さんの千歳と鴈治郎さんの三番叟で持ちこたえましたが、鴈治郎さんの舞いでは、十月の新橋演舞場での『GOEMON』での秀吉(鴈治郎)の役のあつかいの軽さに疑問があったので、そのことをよみがえらせてしまいました。仕切り直しがしたい演目でした。

年を重ね過ぎたためでしょうか、パフォーマンス先行的なものに遭遇することが多く、急激に冷めてしまう自分がいます。気にしなければよいのでしょうが浅いなと観る必要性もないなと思ってしまうのです。困ったことです。

毛抜』は、染五郎さんの愛嬌を期待していたのですが、どうしたことかその愛嬌が生きず、染五郎さんの荒事の今後に期待します。門之助さん、高麗蔵さん、亀鶴さん、彌十郎さんが脇をしめます。高麗蔵さんの近頃の台詞がすっきりしたなかに味わいがましてきました。

祝勢揃壽連獅子』(せいぞろいことぶきれんじし)は、新芝翫さんの狂言師と親獅子に先代芝翫さんの踊りを思わせるような基の静さがすっくと立った感じで観ていて気持ちをすきっとさせてもらいました。石橋物ということもあって間狂言の後に、藤十郎さんの文殊菩薩が出てこられ、奈良で仏像を見てきたばかりでしたので、その冠の飾り具合と雰囲気に厳かさがあり、脇には昌光上人の梅玉さんと慶雲阿闍梨の仁左衛門さんが品よくひかえ、その絵のなかに若手のお坊さんの萬太郎さんと尾上右近さんが加われたのは幸運でした。

子獅子の橋之助さん、福之助さん、歌之助さんは三人息を合わせ、親獅子の芝翫さんに踊り手としていどみそれぞれの今の力を発揮され、芝翫さんは三人の勢いをしっかり受けとめられ親獅子の威厳をみせました。

加賀鳶』(盲長屋梅加賀屋)は梅吉の幸四郎さん、松蔵の梅玉さんを中心に<本郷木戸前勢揃い>はまさしく勢揃いで、粋をみせます。短い出で動きも少ないだけに粋を見せるのが難しい経験の差の出る場面です。

幸四郎さんの竹垣道玄と秀太郎さんのお兼のコンビは以前にも共演されて好演でしたので質店伊勢屋のゆすりの場などは手慣れた悪党ぶりです。その小悪党道玄も松蔵に殺しの証拠を突き付けられ太々しく退散。加賀藩の赤門前での暗闇での捕り物は可笑しさもありますが様式美になっていたのが印象に残りました。

樋口一葉さんとご縁のある質店伊勢屋さんは昨年から公開されています。現代にも残る場所と地名などリアルに楽しいめる作品です。

修業の足りない雑念の多い観劇となりました。

 

ゴッホの映画(2)

アルトマン監督の『ゴッホ』は、出だしがゴッホのひまわりの絵のオークション場面からはじまります。どんどん値があがっていきます。芸術がお金に換算される何とも不可思議な世界の一端です。ゴッホさんが生きていた時には縁の無かった数字です。

映像では、ゴッホ(ティム・ロス)の姿が映し出され競りあう金額の声が小さくなっていきます。アルトマン監督の音楽の使いかたが好きです。この映画でもサスペンスのような音楽がながれ、ゴッホのこれから始まる時間に何かが起こるような不安な予感をただよわせます。この音楽のよさと用い方の上手さがいいです。

そして、この映画の光と影にもいつもながらの語らぬ造形美があります。

アルトマン監督は、テレビでサスペンス物などでも観ている人が途中で冷蔵庫からビールを取り出しに行ってテレビの前にもどっても、筋がわかるような作品は嫌だといいます。

ここを今離れたらこの筋がわからなくなるように観客を釘づけにしたいということのようです。結構意味もなく登場人物にしゃべりつづけさせたり、お互いの台詞をかぶせたりするのも継続性をねらっているとのことです。意味もなくといいますが、これがそのしゃべる人物の人間性をあらわしているのですから観る方は聞き流すわけにはいきません。

たとえば、ゴッホとゴーギャンの共同生活が始まり、この生活はテオの仕送りでなりたっています。ゴーギャンは絵の具をさわると、ゴッホが、ここにはいい絵の具がないからパリから送ってもらっているとつげます。ゴーギャンはここの絵の具でいい、贅沢はしないでおこうと言います。

外で二人で絵を描いているときゴーギャンの絵をみてゴッホは、黄色は贅沢だよといいます。黄色というのが、暗示的でもあり何かを匂わせてくれ、ゴッホには悪戯っぽいところがありまだゆとりがあります。

ゴッホが大根を切って料理をしていると、ゴーギャンが料理とはこういうものだと、トマトの皮をむいて切りクレソンをそえチーズを切ってそこにオリーブオイルをかけ、色の取り合わせなどの講釈をします。ゴッホは嫌な顔をします。ゴッホとゴーギャンの間の溝がそんな些細なことから始まってきています。ゴッホの神経の起伏が現れ始め、ついには大きな破たんへと至るので、やはり眼も耳も離せないのです。

貧しいモデルの女性シーンとの出会いと別れもゴッホの絵に対する姿勢を伝えてくれ、シーンの生活者としての人間像も客観的にえがかれ、家族で海岸を歩くシーンの風景の映しかたにも変化があり、リアルさと印象的な場面が散りばめられています。

ひまわりに囲まれてゴッホは絵を描いています。ひまわりはゴッホのほうを見ています。ゴッホもひまわりをみています。突然映像はひまわりの後ろから映され、ひまわりを見ながら描くゴッホの姿が映ります。バーッと並ぶひまわりの後ろ姿です。

こういうあたりのぎょっとさせる思いがけない感覚を映像で伝えるのがアルトマン監督なんです。裏と表の関係を匂わせ本質を突き付けますが、さらりとして嫌味がないのがいいのです。しかし確実にああそうねと受け止めさせられています。

そして、正面のひまわりをみせ、また後ろ側に回ってカメラがとらえた時、ゴッホは自分の描いたひまわりのキャンバスをこわしているのです。襲いかかるような画面いっぱいのひまわり。

この映画は、ゴッホとテオの関係が軸となっている映画ですが、二人の手紙の言葉を一切使いません。テオがゴッホからの手紙を読んでいて、テオの妻が内容を聞くと、私信だから教えられないといいます。君宛の手紙も読まないからとつけ加えます。そのことから、妻は、ゴッホとテオの関係から自分が外されていることに次第に苛立ちを覚えはじめます。その亀裂も次第に大きくなっていきます。

兄弟がお互いに反目し合う場面があっても手紙の言葉は出しませんが、ゴッホとテオの関係がいかに悲しいぐらいに親密であるかを映像はつたえてくれます。ゴッホとテオの関係を偶像化することはしません。生きている以上お互いの関係は綺麗ごとではすまされません。その複雑さを映しつつ、それぞれが、精一杯生きた証を指し示しています。そういう点では、アルトマン監督は映像の絵描きともいえます。

あえて、パリでの絵描き仲間からゴーギャンとベルナールを選び出し、多くの人物を登場させるアルトマン監督にしては絵描き仲間を排除しているのも、主題をぼかさないためでしょうか。この映画でのゴッホに「パリってなんだ。パリにいったい何の意味があるんだ。人と話したりあったりそれだけか。」と言わせています。

どうして『ゴッホ』を撮る気になったのかなどは、時には饒舌なアルトマン監督なのにわかりません。もしかすると、映画『炎の人ゴッホ』よりさらなる伝記映画の変化を考えたのかもしれません。

映画のジャンルでわけしたとしても、アルトマン監督の映画はジャンルの手法をかえていますから、アルトマン流の伝記映画をつくろうとしたとしても不思議ではありません。

そうそう、歌舞伎の隈取ではないですが、ゴッホは酒場の女性の顔に絵の具でペインティングをしてお店の人を怒らせていました。テオは兄の自画像を「仏を崇拝する日本の高潔な僧侶みたいだ」と評します。ゴッホのパリの部屋には、広重の東海道五十三次の<庄野・白雨>の版画がかかっていました。

麦畑もひまわりと同様美しくもあり強烈な風景です。ここでカラスが描かれ、そして自分の脇腹からピストルの弾を打ち込み、それが致命傷となります。テオはその半年後に精神病院でなくなります。兄を想いつつ。

ラストに、隣り合うゴッホとテオのお墓が映されます。

オーヴェールの丘に二人のお墓を並べたのは、テオの奥さんです。

日本でゴッホが紹介されたのは文学雑誌『白樺』ですが、やはり、そのあとの式場隆三郎さんの力は大きかったとおもいます。改めて式場隆三郎さんの図録を読み返しその仕事の量に感嘆しました。

ゴーギャンの画集もながめました。ゴーギャンの絵との闘いも壮絶です。もう一度、美術館の絵の前に立っている可能性ありです。

『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』

 

ゴッホの映画(1)

ゴッホの映画を三本観ました。DVDも今は特典映像が多く一本まるごと解説入りというご丁寧さのものもあります。嬉しいながらも予定外の時間をとられたりしました。

『炎の人ゴッホ』(1955年・アメリカ)監督・ヴィンセント・ミネリ

『ゴッホ』(1990年・アメリカ)監督・ロバート・アルトマン

『ヴァン・ゴッホ』(1991年・フランス)監督・モーリス・ピアラ

1991年の『ヴァン・ゴッホ』から始めます。なぜなら書くことが少ないからです。日本では公開の数の少ないフランスの映画監督です。映画監督になる前は画家を志していた方だそうで、凡人には難し過ぎました。公開された時、ゴダール監督がピアラ監督に賛辞の手紙を送ったそうですから玄人の眼にかなう映画ということでしょう。

ゴッホが人生最後の地、オーヴェール・シュール・オアーズで過ごした2ヶ月間のことが描かれていますが、精神状態の難しい時期を選んでいて、ピアラ監督ならではの設定なのでしょが、あえてこの時期を選ばれたのかもしれません。弟のテオも病的な兆しがあり、テオの奥さんが真剣に心配しています。

この奥さんはゴッホが亡くなり、ご主人のテオも亡くなり、子どもを育て、さらにゴッホの絵と手紙を守り続けたのですから、聡明で凄い精神力の持ち主です。

一つだけ気にいったのは、ゴッホが甥の誕生で送った「花咲くアーモンドの木の枝」の絵が、テオの住まいの暖炉の上に飾ってあったことです。個人的には、この絵がここにある映像を観れたのがよく判らなかった気分の代償となりました。

ゴッホ役はジャック・デュトロンで既成のゴッホにとらわれない雰囲気でした。

炎の人ゴッホ』は、ゴッホ役がカーク・ダグラスで、ゴーギャンがアンソニー・クインですから、まさしくハリウッド映画です。

原作がアメリカでベストセラーになったアーヴィング・ストーンの小説を原作としています。テオの息子は、ハリウッドの制作会社のアイディアを嫌悪して、ゴッホの手紙の言葉の使用を許可しませんでした。この映画に出てくるゴッホの手紙の言葉は全て新たな創作ということです。

脚本はできていたのですがなかなか映画化されずロートレックの伝記映画『赤い風車』のヒットで映画化が始動しました。

ゴッホは絵の創作と同時にテオへ膨大な手紙を送っています。絵に描き表わせられない気持ちを言葉にぶつけるように文字にしています。『ゴッホとゴーギャン展』でも、ゴッホとゴーギャンの言葉を拾っていたようですが、それは飛ばさせてもらいました。この文字の世界に入ると一層囚われて固まってしまう感じがしたからです。まだ自分のこの程度の段階で固まるわけにはいきませんので。

ゴッホが伝道師となった時からはじまります。ベルギーのボリナージュ炭鉱に赴任しますが、炭坑の貧しき人々と伝道師である自分との間に距離を置くことが出来ず伝道師の仕事は免職となります。彼にとって神と神を信じる者との間の聖職者に不信感をいだきます。そして貧しい人々をモデルに絵を描きはじめます。

そこから弟テオの援助がはじまります。ゴッホ27歳の時です。映画では、父母のもとで寡婦の従妹に恋をしてふられたりハリウッド映画的展開があります。とにかく人付き合いの不得手なゴッホで、この映画でもパリでの画家たちとの交流は深くはえがかれてはいません。パリから南フランスのアルルに移ったゴッホは、朝、部屋の窓を開けた途端に映像は明るい風景を映し出し、アルル時代の絵がどんどん描かれていき、郵便配達人ムーランとの交流など人との関係も上手くいっています。この時描いた絵が映像の中でながされます。

しかし、季節が変わり室内で描くようになるとゴッホの気持ちも内に籠っていくようになります。そんな時ゴーギャンがやってきます。孤独なゴッホにとって喜びと同時に激しい絵の論争がはじまります。

ゴッホ「太陽を描くなら光と熱まで伝えたいと思う。畑の農民なら日を浴びた体臭までだ」 ゴーギャン「筆触を強く厚塗りすることでか?よじれた木とばかでかい太陽でか?感情に駆られた君は早く描きすぎる」

ゴッホは発作を起こし自分の耳を切り落としてしまい、ゴーギャンは去ります。ゴッホはサン・レミの脳病院に入り、ここで描いた絵も映像に流れます。

そして最後の地、オーヴェールのガッシュ医師のところへ行き、ここで描かれた絵の映像も映しだされます。

この映画では、ゴッホの伝道師時代から死までが描かれ、また多くのゴッホの絵の映像が映し出されるので、ゴッホのどういう状態の時の絵であるかがわかり、そういう点ではゴッホの行動と絵の流れをとらえるひとつの例となると思います。テオもひたすらゴッホを支えます。

カーク・ダグラスとアンソニー・クインの熱演を観れるのもこの映画の愉しみどころです。映画はシネマスコープでオランダとフランスでロケをしてヨーロッパで当ることを制作会社は期待しましたが興行的には大ヒットとはなりませんでした。

ミネリ監督はミュージカル映画監督として知られていますが、『炎の人ゴッホ』は撮りたかった映画で、テーマはあくまでゴッホの心の闇ということで、古典映画の英雄的伝記映画からの脱出を試みました。