映画『ぶっつけ本番』『SCOOP!』

撮影監督 高村倉太郎』(高村倉太郎著)によると、高村倉太郎さんは、中学生で写真にのめり込み、東京写真学校に進む。学校に松竹大船撮影所から募集があった。

昭和10年(1935年)映画法ができ、映画を上映する際、文化映画とニュース映画を併映することになる。国策の始まりである。松竹にも文化映画部ができて、昭和14年(1939年)に高村さんは、大船撮影所文化映画部所属となる。劇映画と文化映画の撮影助手として撮影にたずさわる。

ニュース映画会社は日本ニュース映画会社統合され、国策強化へと進むのである。高村さんも昭和16年(1941年)末そちらに呼ばれそちらに移るが昭和17年2月に入隊がきまる。昭和21年(1946年)復員して松竹大船撮影所に復職する。

高村さんは、ニュース映画には携わらなかったが、その経過がわかった。ニュース映画にたずさわり、戦争に行き復員して再びニュース映画に闘志を燃やす主人公にした映画が『ぶっつけ本番』(1958年・監督・佐伯幸三)である。主人公役はフランキー堺さん(松木徹夫)で、21年に復員する。このニュース・カメラマンには松井久弥さんというモデルがあるらしい。

松木はやっと再びカメラ撮影ができるようになり、事件が起きれば飛び出していく。ただ生活は貧しく、それを支えるのが妻・久美子(淡路恵子)である。次から次へと事件が起こり松木はスクープを撮るため、色々な手段を用いる。仲間の背中に乗っかて映すなどは朝飯前である。

この映画は録画してあったもので、こんな面白い映画があったのかと再度見る予定にしていたら急に録画器機を取り替えることとなり一度しか観れなくて細かいところは曖昧である。松木がかかわった歴史的な事件を列挙できないのが残念である。

殺人事件で捕まった犯人が現場検証に姿を現わすというので、その犯人の姿を撮るため、松木は警察の目をかいくぐって近づき犯人を撮ることができるのである。その場面が、後に観た映画『SCOOP!』にも同じような場面が出てきたのである。そのことは後にする。

映画ニュースは映画の上映の前に上映され、テレビの出現で、その伝達のスピード感に遅れがでてくる。後輩の原(仲代達矢)も松木に申し訳ないという気持ちを持ちつつテレビのほうに移ってしまう。それでも、松木は好い映像を撮りたいと頑張るのである。復員してきた父親とその家族の再会を駅のホームで撮ろうとする。ところが同じホーム上ではその感動的な場面が上手く入らない。松木はホーム下の線路に下りてカメラをかまえる。そこへ貨物車が入ってきて松木は亡くなってしまう。

亡き松木を讃える賞の授賞式があり、妻の久美子が亡き夫の代わりに出席する。松木は地味な仕事で、それを心から讃えてくれたのはかつての仲間の原たちであった。

「ドラマよりドキュメンタリーや文化映画のほうが、臨機応変に対応しなければいけないからですか。」の質問に対し、高村倉太郎さんは、次のように答えられている。「要するに劇映画の場合はある程度状況をつくれるわけですよね。文化映画っていうのは、相手によってはこっちが考えていないような悪条件のときもあるわけです。、、、「これじゃ写りません」では済まない。絶対ちゃんと写していかなきゃいけないから、その方法をいろいろ考えるわけです。」

ニュース映画となれば、ぶっつけ本番度はさらに増したことであろう。

映画『SCOOP!』(2016年・大根仁監督)は、フリーの中年パパラッチが主人公である。こちらは決定的瞬間を連続写真でとらえる。芸能人や有名人の個人的生活の一部を待ち伏せや隠し撮りなどをして雑誌社に売るのである。映画『盗映1/250秒』(1986年・原田眞人監督)のリメイクで、こちらは観ていない。

中年パパラッチ(都城静)が福山雅治さんでその下で指導される雑誌「scoop!」新人担当記者(行川野火)が二階堂ふみさん、何かと情報をくれるチャラ源がリリー・フランキーさんである。

静(しずか)はかつては優秀なカメラマンだったようであるが、今はあくどく私生活をあばくスクープ写真を追い駈けている。それが雑誌「scoop!」の売り上げを助けている。そんな時、女性連続殺人犯の現場検証があり今の犯人の顔写真を撮ることになる。『ぶっつけ本番』でも悪戦苦闘していたので、静がどう作戦を立てて見せてくれるのか楽しみであった。作戦は成功するが、結果的には野火に犯人の顔を撮らせるのである。

チャラ源はクスリをやっていてチャラチャラとしているようで腕っぷしは強い。静と野火(のび)をハングレから救ったりもするが、ついにクスリによって制御能力がなくなり静に電話してくる。格好いい写真を撮ってくれと。

静は野火を乗せて車を走らせる。チャラ源はすでに人を殺し、自分の娘を連れ、クスリで人格が無くなっている。静は何んとかチャラ源の気をそらし娘を安全な場所に行かせる。このあたりのチャラ源と静のやり取りは上手く静があしらうだろうと期待してしまうが思いがけない結果となる。

野火は最後の一瞬をカメラにおさめる。その写真は、静がカメラマンになるきっかけとなったロバート・キャパの写真「崩れ落ちる兵士」を思わせる。静の上司でもあり、静の元パートナーでもある定子(吉田羊)が、最後に愛された人がこの事件の記事を書くべきだと野火に記事を書かせる。

定子や、かつて一緒に仕事をした馬場(滝藤賢一)が、違う立場で静のカメラマンとしての生き方を受けとめることによってこちらも納得できるのである。静とチャラ源の関係。そして野火との愛も軸としてあるが、どうもそこが弱い。静は、カメラは素人である野火を通して自分には撮れない新鮮な写真を託したのであろうが、そこも弱かった。野火のどうしようどうしようという動揺から恐怖感にいってそこから静の自分に発信しているプロへのプロセスを受け取る過程の描き方にもう少し強弱が欲しかった。

おそらく野火が記事を書いて「写真・都城静」と書き残すところにそれが現れているのかもしれないが、リリー・フランキーさんの演技を押さえる効果までにいたらなかった。

殺人事件の犯人の現場検証のスクープねらいの成功で、映画『ぶっつけ本番』と映画『SCOOP!』がつながり、『撮影監督 高村倉太郎』で、ニュース映画の成立と劇映画ではない映像カメラマンと写真カメラマンのぶっつけ本番度を感じた次第である。

追記: コロナ専門家会議の議事録を作成しないのだそうである。価値あるものではないということなのであろうか。これから先の検証に凄く役立つものだと思いますけど。未知との闘いのあかし、残して下さいよ。

追記2: 霞が関のかなりの人々は億の0の数に対して軽いのではないかと邪推してしまう。1億は100000000である。(間違ってないでしょうね。緊張します。)税金は誰のものでしょう。← 感染症拡大により大きな影響を受けた事業者に持続化給付金(パチパチパチ!)の委託過程に疑問(?) 

浅草映画『太陽のない街』『陽気な渡り鳥』

映画『太陽のない街』(1954年)は山本薩夫監督の社会派映画で、独立プロの作品である。1926年(大正15年・昭和元年)の共同印刷労働争議を題材にした徳永直さんの小説を原作にしている。明治憲法下であるから労働争議に対する弾圧も厳しい。

大同印刷の工場の大きな建物の外には長屋が並んでいる。大同印刷に勤めている人々の家族が住んでいる。長屋の家の中は気の毒なくらい貧しさがわかる。従業員38名の解雇に対しスト中で女子は従業員は小間物の外商をして生活と組合運動をささえている。

高枝も病気の父と妹・加代との生活を守りつつ、争議の手伝いもしている。父は長く会社には世話になっていたので高枝の行動を苦々しくおもっている。父が機械で指を失った時、会社は何もしてくれなかったではないかとさとす。

仲間のおきみは、5人の家族を抱え、カフェに働きに出ている。そのことを責める女性の組合員もいるし、それをかばう組合員もいる。頑張っていたおきみも家族のために玉ノ井に身を沈めることとなる。

会社の社長宅が放火される。加代は自分の恋人の宮地が血気早まったのではと心配するが心配は当ってしまう。高枝は放火を疑われて検挙された仲間のために宮地に自首をすすめる。加代は妊娠しており、宮地は加代の事を高枝に託す。炊き立てのご飯を食べ宮地は自首する。

その後も闘争は苦難の連続で、高枝の恋人・萩村も会社の雇った組の者に暴力を受け大怪我をする。宮地は警察で痛めつけられその苦しい中で加代と浅草木馬館で木馬に乗って笑いあったことを思い出す。木馬館はセットである。なんとも虐げられた人々のささやかな楽しみの場所というのが切なさをさそう。

宮地の恋人ということで加代も警察に連れていかれ痛ましい状態で戻され亡くなってしまう。18歳であった。萩村が検挙され、父は自ら命を絶ち、高枝は絶望の淵をさまようように組合の大会に参加していた。組合は、ストをしている者と、新しく雇われた者とで意見が分かれて混乱し、旗の奪い合いとなった。争議派の次の世代の若者が争議の象徴である旗を奪い取り、高らかになびかせるのを見て、高枝にやっと笑顔がもどるのである。

独立プロ映画特選としてDVD化されている。特典映像でサード助監督だった橘祐典さんが語られている。長屋は巨大なオープンセットで、駒沢オリンピック競技場ができる前の空き地に作られた。エキストラの人数が多く、撮影の最後の方はエキストラに払うお金がなくエキストラがストライキをするような状態だったと。オープンセットでなければこれだけのリアルな動線は映せなかったかもしれない。群像劇でもある。

編集助手の中に、岸富美子さんの名前があった。何かのきっかけで、「あっ!この人は。」と目に留まるのは嬉しい事です。様々な経験をした映画人の力が集結した映画だったのである。  劇団民藝『時を接ぐ』 満映とわたし』の嵯峨野時代』 

高枝(日高澄子)、加代(桂通子)、父(薄田研二)、高柳(二本柳寛)、宮地(原保美)、おきみ(岸旗江)(多々良純、北林谷栄、東野英治郎、宮口精二、新欣三、加藤嘉、殿山泰司、安倍徹、清水将夫、三島雅夫、花沢徳衛、西村晃、原泉、小田切みき、赤木蘭子 等)

映画『陽気な渡り鳥』(1952年・加藤康監督)は、美空ひばりさん主演の歌謡映画ともいえる。浅草が出てくる映画は、1951年、1952年、1953年に結構多い。浅草の出てくる美空ひばりさん主演の『お嬢さん社長』は1953年である。1954年に『太陽のない街』が、1955年に『青春怪談』がある。

みどり(美空ひばり)は3歳の時お父さんが戦争に行って便りが無く、預けられた保育園から子供のいない夫婦に引き取られるが、その夫婦に男の子が生まれ邪険にされてしまう。

お芝居を観るのが好きで保育園を尋ねた帰りに一度観た事のある一座と遭遇し一座の小屋を尋ね、置いて貰えないか相談するが一座もやっとの収入で無理であった。行くところが無いので楽屋の張りぼての馬の中で寝てしまう。芝居小屋の売り子の仕事をもらい歌を披露する。優しい座員の奇術師・春江(淡島千景)と弟子の三平(堺俊二)が次の興行先にみどりを荷物と一緒に運んでくれる。

一座の内部分裂もあり、吉澤(阿部徹)と光代(桜むつ子)は一座のお金を持って逃げてしまう。春江とその恋人・(高橋貞二)らの座員が残り、みどりもひょんなことから、歌で一座を助けることとなる。みどりは一座の看板にまでなり東京の浅草の劇場に立つことになる。

浅草六区のみどりの看板を見て悪巧みを考える吉澤。そのバックに浅草松竹映画劇場浅草日活劇場が映る。吉澤はみどりのニセの父親を仕立て上げる指示の場所の背後に花やしきの観覧車、さらに浅草本願寺の境内となる。邪険にした育ての親もしゃーしゃーとでてくる。吉澤はみどりを腕ずくでさらおうとする。逃げるのが国際劇場の裏で国際劇場はやはり大きい。助けたのが本当のお父さんであるがお互いに知らない。

彼女はもう父親はいらないという。それを聞いていた父親は帰ろうとするが、保育園の先生と会い、みどりと再会する。みどりも本当の父とわかり一座で一緒に暮らすことになりめでたしめでたしである。

一座は最初は桜むつ子さんの女剣劇の場面で、肩もろ肌脱いで、着物のすそは翻りなるほどこれが女剣劇のお色気かと思わされる。後は淡島千景さんの舞台場面が多い。ひばりさんの狐忠信の場面が少しと最後は松竹歌劇団の踊りの応援でひばりさんの歌とステップを踏む場面を多くしての幕切れである。やはりその堂々ぶりには驚いてしまう。

ひばりさんは、トップスターを歩み始めてどう進むべきかの迷いがあったのではないだろうか。『鞍馬天狗』などの演技と比べると硬い。次の段階への狭間か。仕事なら大人として受けるという甘えのない心情が感じとれるが深読みか。

(斎藤達雄、桂木洋子、望月優子、河村黎吉、坂本武 / 殺陣・堺俊二)

追記: 友人がダンサーの菅原小春さんを教えてくれた。身体の軸の移動とキレのよさが魅力的。映画『ジョーカー』のホアキン・フェニックスが他のジョーカーと違うのは、あのダンスというかステップと両腕の動きでジョーカーの誕生を表現。

追記2:『陽気な渡り鳥』の映像に、国際劇場裏の場面で『昭和浅草映画地図』には日輪寺も書かれている。この屋根がそうであろうかとはっきりとしたことがわからない。神田山日輪寺は、かつてその名を目にしていたが調べなかった。 将門の人気 かなり経ってから思いがけない出現である。

追記3:『太陽のない街』の長屋の玄関の柱に大山阿夫利神社のお札が貼ってあった。かなり時間が経った感じである。大正時代にも庶民信仰として盛んだったのでしょう。それをきちんと作り上げる美術さんの意気込みも素晴らしい。映像は様々な技術を映し込んでいる。今のような時期だからこそ、先輩たちの技術や芸、演技などを学ぶ方法を若い人は模索して聴いて置くことが必要なのではないでしょうか。こちらもそのお裾分けをちょこっと触れれると嬉しいのですが。

浅草映画『青春怪談』

映画『青春怪談』(1955年・市川崑監督)は、昭和30年にこんな感覚の映画がコメディータッチで撮られていたのかとそのモダンさに驚かされる。原作は獅子文六さんで『ちんちん電車』を書かれているので浅草の何処がでてくるのか楽しみである。脚本は和田夏十さん。芦川いづみさんの日活入社第一回作品ということである。

芦川いづみさん(新子・シンデレラを短くしたシンディが愛称)は、バレエ学校の先輩である北原三枝さんを慕う後輩役である。北原三枝さん(千春)の男の子ような話し方や性格のさっぱり感が魅力的で、魅かれるシンディの芦川いづみさんが少女のような可憐さで千春に接する。北原三枝さんの日本人離れしたスタイルが、役にピッタリである。二人はレスビアンともとれるが、その辺は勝手にそちらで自由にどうぞ、あなた達の見方に私たちは左右されないはという雰囲気が漂っているのがなかなかである。

千春にはボーイフレンドで美男子の慎一(三橋達也)がいる。慎一は女性にモテるが近づく女性はビジネスのパートナーとして考えていて、千春の男っぽさが気にいっている。千春は父親・鉄也(山村聰)だけで、慎一は母親・蝶子(轟夕起子)だけである。千春と慎一は父と母を結婚させることにするが、その前に千春と慎一が結婚することが得策となり、二人はあっさりと結婚式を決めてしまうのである。

そして、それぞれ父と母を伴い浅草で合流し、二人だけをタクシーに乗せてデートさせる。この時の浅草の待ち合わせ場所が吾妻橋のところである。千春と哲也は吾妻橋側の地下鉄浅草駅(寺院形式)から慎一と蝶子の待つ吾妻橋たもとへ。東武鉄橋がみえる。吾妻橋交差点がしっかり映り、そして対岸のビール工場、タクシーを止めて都電の走る雷門通り東武浅草駅神谷バー地下鉄ビル仁丹塔等が映る。さらに花川戸交番。『昭和浅草映画地図』(中村実男著)を参考に観ているのであるが、旧浅草駅ビルはわからない。他の映画でもこちらが確定できない物は載せていない。

都電がしっかり映っていて獅子文六さんも満足でしょう。こちらも満足です。

鉄也と蝶子が去った後に、慎一に色香で接する芸者・筆駒(嵯峨美智子)が現れる。慎一は女性の色香には全然興味がなく、千春も気にしないで用事があるからと帰ってしまう。そんな千春を見て芸者は千春が男っぽくて私も好きだわという。女でも惚れてしまうという千春のさばさば感を言い当てている。この時代に慎一と千春を登場させたのが新しい世代、『青春怪談』である。

昭和30年の浅草の映像も魅力的であるが、鉄也と蝶子が向かった先が向島百花園なのである。映画の中で向島百花園を観るのは初めてと思う。それもたっぷりなのである。鉄也は蝶子の気持ちを知っていながらなかなか結婚を承諾しないのである。しかし乙女のような蝶子の勝ちとなる。

ビジネスのパートナーであるバーのマダム・トミ子(山根寿子)は慎一をあきらめることなく嫉妬が爆発する。その事で、千春とシンディの関係が面白おかしく新聞に載ってしまう。千春は一生の仕事としているバレエの主役の座を失ってしまい、シンディが喀血。シンディは自分の思いこみはこれで全て身体から出てしまったからと千春に告げる。そのことから千春は自分のこれかたの生き方を決め、慎一に伝える。慎一は納得する。理想的なカップルである。

おネエ的アクセントもある慎一の合理主義は、ビジネスから日常生活にまで及んでいる。利益に対してもきちんと計算するが、相手の経営が悪ければ賃貸料も下げるのである。強欲ではないところがいい。

慎一と金銭的に接する宇野重吉さんやバーの内装を語る滝沢修さんの台詞の操り方が面白い。壁に耳ありのばあやの北林谷栄さん、バレエ教師の三戸部スエさん、鉄也の兄に千田是也さんなど脇役怪談である。撮影は『愛のお荷物』の峰重義さん。

驚いたことに新東宝でも同じ年に獅子文六さん原作の同じ映画を撮っていた。新東宝のも観てみたいものである。慎一(宇津井健)、母・蝶子(高峰三枝子)、千春(安西郷子)、父・鉄也(上原謙)、新子(江畑絢子)、トミ子(越路吹雪)、筆駒(築紫あけみ)

追記: アマゾンの偽メールが横行しているようですのでご注意を!

追記2: フードバンクボックスを設置してくれているスーパーがある。少し気持ちを伝えられるかなと利用させてもらっている。

追記3: これから検察庁はどう動いてくれるのでしょうか。なんだやはり現政権と癒着していたのかでは、新型コロナと闘う意欲が全て怨みと怒りに倍増です。← 有志の弁護士ら662人、安倍首相を刑事告発 「桜を見る会」を。その他、晴れない私利私欲の疑惑。

浅草映画『堂堂たる人生』『その人は遠く』

映画『堂堂たる人生』(1961年・牛原陽一監督)原作は源氏鶏太さんの同名小説。裕次郎さんの熱血サラリーマン映画である。『天下を取る』(1960年)が成功し興行高収入で、『喧嘩太郎』(1960年)と続きさらに『堂堂たる人生』へと至る。

タイトル映像がオモチャの汽車の線路レールの輪の真ん中にでんと石原裕次郎さんが座っている。その回りを汽車が走り沢山のオモチャが並んでいる。

映画始まりから浅草寺境内である。バスガイドが本堂の説明をしている。バスガイドに声をかける友人。そのガイドさんの足元にオモチャの自動車がぶつかりガイドさんは転んでしまう。怒る友人。相手は老田玩具の社員であった。気の強い友人は口数の減らないもう一人の社員の足を下駄で踏む。洋服の彼女の足元は足袋と下駄であった。その可笑しさでこの映画のコメディさが感じとれる。撮影は高村倉太郎さんである。

下駄の女性は浅草の寿司屋寿し龍の娘・いさみ(芦川いづみ)。老田玩具の社員は中部(石原裕次郎)と足を踏まれた方は紺屋(長門裕之)である。老田玩具会社の社長(宇野重吉)は寿し龍の常連客で、いさみは老田の会社で働きたいと頼みこんでいる。ところが老田の会社は老舗であるが経営破たん寸前で無理だと断られる。

そこへ現れたのが中部と連れのバー・サレムのママ(中原早苗)である。いさみは中部につんつんしながらも中部が気になる存在となる。それを見守るいさみの両親(桂小金吾、清川虹子)。

その夜、再び雷門で二人は顔を合わす。雷門が再建されたのが1960年である。ただ、本堂側の天龍像と金龍像はまだ奉納設置されていない。現在、大提灯の本堂側は風雷神門と書かれているが、映画では雷門とあった。二人がお参りする姿を本堂側から撮っていて二人の背後は闇である。高い建物の灯りやイルミネーションがない。1961年の浅草周辺の姿である。

中部と紺屋は金策のため大阪へ出張となる。その列車にいさみも現れ勝手に一緒に大阪へ。大阪で色々あるがいさみの手助けもあり金策に成功しいさみも老田玩具に採用となる。もどってから三人は観音様にお礼にいく。背後に凱旋記念塔大灯籠、遠くにちらっと地下鉄ビルの塔の先端が見える。かなり見つけられるようになった。

中部はバー・サレムのママや大阪のバー・八千代のマダム(浦里はるみ)にも気に入られているが、八千代のママのパトロン・原(東野英治郎)にも気にいられる。そのことが、その後、会社にとって良い方向へと動かすのである。大阪では大阪城がばっちりである。

臨時総会の前、中部、いさみ、紺屋の三人が隅田公園に立ち会社のことを相談する。言問橋、対岸に松屋地下鉄ビル東武鉄橋がみえる。老田社長も中部もとにかく玩具が大好きで、中部は新しい煙を吐くアメリカ西部を走る汽車を発明する。煙は輪も描く。それがアメリカ人のオモチャ王に認められ発注をうけ老田玩具は持ちこたえることとなる。

ライバル社の息子が藤村有弘さんで、得意な国際語を次々と披露するが、それにきちんとゆるいコメディさで中部の裕次郎さんは答えている。コンビとして長門裕之さんが達者なひょうきんぶりで、芦川いづみさんの機転のきく気の強さも好演。ドタバタ感を押さえ裕次郎さんの茶目っ気な表情を上手く捉えている。

中原早苗さんはバーのマダムであるが衣裳がシックな色使いで、芦川いづみさんのスカイブルーのカーディガンや異国人変装の衣裳の色などが際立ち画面のアクセントになり、芦川いづみさんを印象づけている。明朗痛快なサラリーマンものである。

煙を出して走る汽車の玩具はあるのだろうかと検索したら、水が水蒸気の煙となって走る汽車があった。日本の会社である。このほうが安全そうで可愛らしい。それにしても、映画の方は小道具さんがつくったのであろうか。どんな仕掛けだったのであろう。存在感のある玩具であった。そのあと、例のトリオは外国出張で羽田空港から飛び立つのである。老舗の玩具会社もグローバル時代の幕開けである。

映画『その人は遠く』(1963年・堀池清監督)は、浅草は松屋屋上遊園地のスカイクルーザーに乗っている場面である。

京都に住む遠縁の奈津子(芦川いづみ)が父の死により一人になる。量介(山内賢)の母は息子と二人ぐらしなので、奈津子を東京に呼び同居することを決める。大学受験勉強中の量介は気が進まなかったが、彼女と会って恋い心を抱いてしまう。量介の受験勉強も危ぶまれたがなんとか試験が終わり解放され、奈津子を東京観光に連れ出す。その一つが浅草の松屋屋上のスカイクルーザーである。浅草寺などが下に見える。

奈津子は量介の気持ちをそれとなく感じつつ、どこかで心の支えとしつつ量介と一緒にいる時間を大切にする。しかし、奈津子は大阪にお嫁にいってしまう。その結婚も失敗で東京に戻って来る。量介は一人暮らしを始めており、恵以子(和泉雅子)という家庭に事情のある友人に手を貸していた。

量介は奈津子に対する気持ちは変わらないが、奈津子は誰にも頼らないで生きて行くため九州の教師の道を選ぶ。恵以子も自立することを決め、それぞれが、新しい道を目指すことにする。年上の人に憧れる微妙な年齢の淡い恋物語である。

俳優としてもお姉さん的存在である芦川いづみさんが山内賢さんと和泉雅子さんを相手に年上の女性の危うさと強さを演じられた作品である。1963年という日活映画の新旧の時代の流れの重なりを感じさせる映画でもある。

追記: 検察庁法改正への芸能人、映画人、演劇人等の多くの抗議の声は、人としてセンスよく生きられていることの表れである。常に人の本質を探りつつ表現される仕事でもある。

追記2: 『撮影監督 高村倉太郎』(高村倉太郎著)届く。インタビューに淡々と答えられていて頭の中の映像と楽しい葛藤。 

追記3: 友人の息子さんが3月に発熱し例によってやっと診察してもらえた。結果はインフルエンザ。秋から冬のインフルエンザと新型コロナのダブル感染の危惧。それまでの期間の今、緊急事態宣言解除とダブルの対策お願いいたします。その時になって時間がなかったなどとは言わないでくださいね。何をしているのかわからない政治家様たち。(スマフォを持った姉がメールで「張りぼての政治家」と。見事な表現力に負けた。)

追記4: 千葉県船橋市にある太宰治さんが逗留した老舗割烹旅館「玉川」が閉館だそうである。ランチだけのプランの時があり、それを待って居たら手の届かないことになってしまった。 

浅草映画『やくざ先生』

浅草関連映画DVDで探しても無かったのであきらめていたら、その後DVD化されていることを知る。先に紹介した『三羽烏三代記』(1959年・昭和34年)の後の映画、1960年・昭和35年の『やくざ先生』、1961年・昭和36年の『堂堂たる人生』もDVD化されていたのである。

やくざ先生』(松尾昭典監督)は石原裕次郎さん主演で、かつて戦災孤児で自分の世話になった更生施設「愛隣学園」に少年補導員としてやってくる。どうやら学園を出てからはやくざとなっていたようで、今はきちんと社会復帰したようであるが、頭にくると手が出てしまう。

最初は自分も実体験者だからと少年たちの気持ちを分かるつもりであった。しかし、少年たちは、自分の体験談を笠に着る先生としてかえって反発するのである。その度に辞表をだすが、圓長から辞表を印刷しておいたほうがいいのではと言われて反省して職務にもどる。

園長・宇野重吉さん、養護教員・北原三枝さん、職員・北林谷栄さん、台東警察署の刑事・芦田伸介さん等が出演。そして、「愛隣学園」の建物は人家から離れたところに建って居るのであるが、美術は木村威夫さんである。

観始めた時、これは新田先生(石原裕次郎)が生徒を浅草に連れていくのだなとすぐに判った。当りである。反抗するリーダー的少年、スリの少年、富士山に登るのが夢で園を脱走する少年、女優を自分の姉と思い込む少年、ハーフの少年、など様々である。そして、新田は外出許可を取り3人の少年を連れて浅草へ行くのである。

東武電車が鉄橋を渡り、巨大な松屋地下鉄ビルの塔がみえる。さえぎる建物がなく隅田川をはさんでよくわかる。当時ならではの風景である。4人が浅草を眺めおろすのは新世界の屋上からである。松屋でなく新世界というのは新世界のほうがもっと庶民的だったのであろう。やくざ先生らしい選び方かもしれない。新世界の屋上が出てくるのはこの映画だけではないだろうか。(プラネタリウムもある。)そこから望遠鏡で覗く浅草寺花やしきなどの映像が映る。ここで学園で持たされた麦飯の弁当を食べようとするが、少年たちにもっと美味しいものが食べたいといわれ、新田は自分の時計を質に入れる。

予算は一人200円で800円まで。店先に展示してあるメニューから200円のウナギを食べる。勘定になると1200円と言われる。200円のは売り切れたので食べたのは300円なのだと言われる。観ている方も、えっ~!である。(マスク注文したら多数の不良品が届き検品費用も税金から、えっ~!である。)

新田はそのことにも腹が立ったが、一緒にいたハーフの少年を侮辱されたことで完全に切れてしまった。その金銭的後始末を台東警察署刑事に頼み、少年たちを厩橋前からバスで先に学園に帰す。厩橋前バス停も珍しい。引率者がいなくて少年たちはきちんと愛隣学園に帰るであろうか。新田の心配は尽きない。

新田と少年たちとの悪戦苦闘はその後も続き何んとか通じ合えることができたかなと思った時には、愛隣学園にとっての新たな試練が訪れる。そしていつの時代も心の通じない相手の厚生省に嘆願に行った園長は、車に轢かれてしまう。

ついに愛隣学園の少年、職員は、それぞれの道へと旅立つこととなる。国家試験の資格のない新田は雇ってもらえなかった。来年19歳で社会に出なければならない少年たちは不安を口にする。正義感の強い新田はきちんと少年たちに応える。お前たちを受け入れられるように俺もがんばると。俺の所に来い。期待を裏切らない裕次郎さんのやくざ先生である。

この撮影中に石原裕次郎さんと北原三枝さんは婚約発表をしたということで、お二人には記念すべき作品でもあったわけである。映画での二人の関係は、いずれはということであろう。

原作は西村滋さんの『やくざ先生』で、西村滋さん(1925年~2016年)は、6歳の時母を、9歳の時父を亡くし孤児となり、放浪生活を送り少年養護施設の補導員も経験されている。著作4冊が映画化されていた。『やくざ先生』(原作『やくざ先生』)、『不良少年』(原作『笑わない青春の記』)、『悲しみはいつも母に』(原作『ある母の死より」)、『エクレール お菓子放浪記』(原作『お菓子放浪記』)

追記: 日本の三権分立は、新型コロナで国民が闘っている時に、当時の安倍政権が破壊しましたと歴史に残すつもりなのであろうか。

浅草映画『三羽烏三代記』

久方ぶりの浅草映画である。人間関係やストーリーを理解しつつ、浅草を見つけていくのは楽しい鑑賞である。『三羽烏三代記』(1959年・昭和34年・番匠義彰監督)も『昭和浅草映画地図』(中村実男著)によると16か所も浅草風景が映像に出てくるということなので力がはいる。

三羽烏三代とは、初代が、上原謙さん、佐野周二さん、佐分利信さん。二代目が、佐田啓二さん、高橋貞二さん、大木実さん(鶴田浩二さんが抜けて大木実さんに代わる)。三代目が、小坂一也さん、三上真一さん、山本豊三さんということである。

初代にからむ女優が、水戸光子、三宅邦子さん、高峰三枝子さん。二代目には、岡田茉莉子さん、小山明子さん、高千穂ひづるさん。三代目には、九条英子さん、牧紀子さん、桑野みゆきさん。その他、津川雅彦さん、十朱幸代さん、宮口清二さん、渡辺文雄さん、永井達雄さん、浦辺粂子さんらオールスターの出演である。それもそのはず、松竹3千本記念作品とある。

出てくる主な家としては、浅草の老舗のせんべい屋さん(佐野周二、三宅邦子、小山明子、下宿人・高橋貞二)、お茶漬け屋(高峰三枝子、牧紀子)、高見家(大木実、高千穂ひづる、下宿人・小坂一也)で、お茶漬け屋と高見家には特に人が集まる。そしておせんべい屋には店員として雇われた桑野みゆきさんが実は教祖様の孫ということで、探偵の高橋貞二さん、新聞記者の佐田啓二さんがからみ、三代目たちは、同年代の遊び仲間としてにぎやかに楽しみ、町内会の飲み食いに会費を使う役員を懲らしめる。

夫婦関係、恋人関係、友人関係が交差して最後はそれぞれ落ち着くところにといった展開である。作品として軽い娯楽映画というところであるが、これだけの登場人物を人間関係を簡潔に上手く動かしている。

映画の出だしの高橋貞二さんが国際劇場で偵察しているのは、清川虹子さんと若い男性。舞台ではSKDのラインダンスが。舞台に見とれているわけにはいかない。清川虹子さんが連れの若い男性と劇場を後にする。国際通りから観音堂の前に移動。清川虹子さんは夫にやきもちを焼かせるために息子を若い恋人にしてのデート戦略であった。そこへ夫のトニー谷さんが出現。探偵の高橋貞二さんはな~んだとなる。

昭和34年であるから観音堂前もようすが違う。人は少なく大きな灯籠があって、ベンチがある。恋人の小山明子さんが登場しておせんべい談義。座るのが石橋を背にしたベンチ。宝蔵門(仁王門)もまだない。再建されたのは1964年(昭和39年)である。そのため征清軍凱旋記念塔がある。

今回、石橋について調べたら、現存する都内最古の石橋だそうで、元和4年(1618年)浅草に東照宮(現存しない)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものだった。寄進者は徳川家康の娘の振姫(ふりひめ)の婿・紀伊国若山藩主浅野長晟(あさのながあきら)とある。

浅草に東照宮があったのだ。三峰社はありました。埼玉の秩父まで参詣に行くのはたいへんだったからでしょう。さて、浅野家となるとやはり気になります。浅野長晟はその後、安芸広島藩主になり浅野家宗家。赤穂浅野家は別家で、赤穂事件のとき浅野内匠頭(長矩)の弟・浅野大学(長広)はこの広島浅野宗家に預けられたのである。浅草寺の石橋が浅野家につながるとは面白い発見でした。

『勘九郎ぶらり旅~因果はめぐる歌舞伎の不思議~』の本に、大河ドラマ『元禄繚乱』で赤穂城を去る場面は実際に赤穂で撮ったと言う。こちらも行った場所なのでさっそくDVDをレンタルしてその周辺と討ち入りあたりを観た。当時内蔵助崩し過ぎと観たいと思わなかったのであるが、勘九郎(勘三郎)さんの大石内蔵助なかなか良かった。なるほどであった。

さて宝蔵門の本堂側に大わらじが奉納されているが、大わらじは魔除けなのだそうである。どうしてかなとおもったら、ここにはこんな大きなわらじを履くおおきなものがいるというアピールなのだそうで、高知県では大きなわらじの半分まで作ったものをかかげるところもあるようだ。半分というのが面白い。何かいわれがあるのか。日本では履物をぬいで家の中に入るが、衛生面では上首尾のような気がする。

映画のほうにもどると、当時の隅田公園が『青春サイクリング』の歌にあう風景だった。三代目が三人で小坂一也さんの歌を歌いながらサイクリングしているのである。サイクリング、サイクリング、ヤッホー、ヤッホー。

「首都高の建設で破壊される以前の隅田公園を撮った最上の映像」「川沿いの遊歩道、歩道、車道、芝生帯など、隅田公園の様子がよくわかる映像である。ただし、三列ある芝生帯の桜はまだ若木。植え替えられて間もない。」(『昭和浅草映画地図』)隅田川沿いに松屋や東武鉄橋などのお馴染みの風景画みえる。映像で見ていても気分が清々しくなる風景である。

1959年(昭和34年)代に活躍する松竹の俳優さんと浅草の風景を確かめられる映画でもあった。

追記: 『仮設の映画館』でドキュメンタリー映画『精神0』を観たいのであるが行きつけないのである。インターネットで行きつくというのも身体を動かすよりも困難な場合がある。新しい仮設の生活も大変である。

追記2: 検察庁法改正に抗議します。 ← 与党改正案に対し

追記3: 想田和弘監督のドキュメンタリー映画『選挙』を観ました。この映画から河井議員夫婦が選挙戦にどれだけお金をつぎ込んだか想像ができました。法定以上の金額を払ってでもウグイス嬢を確保したいかなど。観察映画手法面白い。

追記4: 「黒川氏の定年延長議事録」で検索しましたら「無し」と。関心のある方検索してみてください。こちらは、届くはずの10万円をあてにして浅草関連映画の購入したDVDの到着を楽しみに待って巣ごもりしているのですが、待ちくたびれて検索してしまった。頭痛がしてきます。

ドキュメンタリー映画『はじまりはヒップホップ』『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画』

テレビで72歳のご婦人がお孫さん二人からヒップホップの特訓を受け、しっかりとリズムに乗りラストもきめるられていました。二人のお孫さんの女性はダンスのプロということです。この映像を見て思い出したのがドキュメンタリー映画『はじまりはヒップホップ』(2014年)。ヒップホップ関連映画を観ていたときに遭遇した。

こちらも高齢者のヒップホップで、66歳から94歳までの男女である。車イスのかたもおられる。場所はニュージーランドの東のワイヘキ島。公民館で行われていたヒップホップ教室。指導員のかたはヒップホップを踊れないのである。YouTubeや本で手探りで勉強される。

さらに目標として2013年のラスベガスのヒップホップ選手権大会に申し込み、特別出演を果すのである。クルー名は「ヒップ・オペレーション」。メンバーの多くが腰骨の手術を受けているからである。

ラスベガスに行くにはダンスだけではなく医者の許可や、行く費用など問題が生じるが皆で話し合い何んとか実行に移すことができ、若い参加者から拍手喝采をあびる。そこまでの道のりがメンバーたちの生きてきた姿を通して描かれている。

指導員のビリー・ジョーダンはメンバーの家を訪ね、食事やお茶をしつつそれぞれの生き方や歩いてきた道を尋ね、耳を傾ける。そしてその生き方に共鳴し、自分の生き方の栄養とし、尊敬の念を積み重ねている。メンバーたちは、自分の人生をおごることなく、身体をうごかして表現者となり、若者たちとも交流し、生き生きと人生を謳歌する。

ドキュメンタリー映画『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画』(2018年)は、街の人々のコミュニテイーを大切に考え、大開発の流れに異議を唱えたジェイン・ジェイコブズの考え方と行動を伝えてくれる。

この映画の内容を言葉で伝えるのは難しいのであるが、何んとかやってみよう。伝説のパワーブローカー、ロバート・モーゼスがスラムを撤去し、モダニズムの街に変えようと強引に実行していく。ジェインはグリニッジビレッジに住み皮膚感覚で街というものをとらえていた。さらにそこに彼女の直感と観察を加えて考え行動する。

「ニューヨークは大好きな街だった。通りを歩いてうろつくだけで楽しかった。どの通りにもどの地区にも個性がある。色んなことが起きている。」

「ニューヨークは豊かでない者も受け入れてくれる。広い土地を持っていなくても立派な開発計画などなくてもいい。それに新しいことや面白いことをする必要もない。あらゆる人を受け入れる場所なの。」

治安や衛生面から、人があふれる街路をなくすことが解決策だという考えが浮上し、団地を建設することでたむろすることを防ぐと考えられ、古い建物は壊され団地ができる。

「低所得者向け団地は非行や破壊行為や絶望の温床となり以前のスラムよりもひどいものです。」これはヒップホップ関連映画でどうしてこの離れたところに高層住宅があるのであろうかと疑問に思った。ゴーストタウンのような不気味さがあった。誰の目も届かないように思えた。暴力、ドラッグなどの諸問題をかかえることとなる。

モーゼスのビジョンには街路が消えていた。さらに地域コミュニティに無関心だった。

「街路には見守る人が必要である。人々の目が店番になる。住民と見知らぬ人々の安全を保障できる建物は通りに面していなければならない。」

「歩道には利用者が継続にいる必要があり街路に向けられる有効な目を増やして街路沿いの建物は人々が歩道を見るようにする。」アメリカのニューヨークを舞台した映画によくでてくる。住宅が長屋のようにつながり、階段がありドアがある。スラムといわれる場所には、ドアの横のベンチに座って歓談している老人などがいる。あるいは窓から暇そうに歩道で遊ぶ子供たちを眺めていたりしている。老人たちは、地域の子供たちの成長をよく知っている。

ジェインは、モーゼスがワシントン公園広場に道路を通す計画を知り市民運動にたずさわり、多くの著名人の賛同をえる。さらに、自分の住んでいるウエストビレッジがスラムの指定候補となり都市再生計画にくりこまれる。ジェインは、古いものを補修し修繕して住み続け、街の秩序を守り愛していた。ニューヨーク市を相手に訴訟をおこし都市再開発中止、スラム指定解除を勝ち取る。

モーゼスはさらにローワマンハッタン高速道路を計画するが白紙となる。実行されればソーホーの大半は壊され、世界的にも貴重な19世紀の素晴らしい建築物を失っていたのである。

「無秩序に見える古い都市の下には、その古い都市が機能している場合、街路の治安と都市の自由を維持するための素晴らしい秩序があります。」

その後、秩序を失い要塞化した各地の公営住宅などは解体される。一瞬で崩壊される映像に、あの時壊されたスラムの建物はもう戻らないのだと今更ながら思い知らされる。そこに住んでいた人が見ればなんだったのであろうかとその喪失感に虚無を感じるかもしれない。

このドキュメンタリーはジェイン・ジェイコブズは著書『アメリカ大都市の死と生』をもとに彼女の考え方を紐解いてもいるらしいが、私的には本を読んだだけでは駄目だったかもしれない。映像があってこそ納得できたのかも。

新型コロナウイルスは、人の大切な命とともに大切なコミュニティをも破壊しようとしている。そのことを意識しつつ新しい生活に立ち向かわなければ神経も傷つけられてしまう。

追記: 検察庁法改正案に抗議します。

テレビ・『緊急対談・パンデミックが変える世界』

友人が、NHK・ETV特集『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』を視聴していろいろ考えさせられたと知らせてくれた。

再放送を探していたらPCで『緊急対談・パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』を視聴できた。三人の方が発言されていてその一人がユヴァル・ノア・ハラリで、この方の考えをもっと聞きたいという視聴者の要望があり『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』となったようである。

『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』の再放送がわかり録画して視聴した。友人の言う通り考えさせられた。そして、新型コロナを一時的にせよ克服した国があるならその情報を収集し検証する必要があると思う。科学者や知識人の考え方が必要な時期なのではないだろうか。

さらに再放送があるようなので下記参照。

Eテレ 第1回5月2日(土)午後2時~『緊急対談・パンデミックが変える世界~歴史から何を学ぶか~』 第2回5月2日(土)午後3時~『パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』

NHK BS1 第1回5月4日(月)午前10時~『緊急対談・パンデミックが変える世界~歴史から何を学ぶか~』 第2回5月5日(火)午前10時~『パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』 第3回5月6日(水)午前10時~『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』

この友人からは、4月13日NHK総合で放送された『逆転人生』も紹介された。友人を通じて連絡があったらしい。視聴したことのない番組であった。

田中宏明さんが幼い次男の異常に気がつく。そしてやっと命を救ってもらえた高橋義男医師に出会うのである。その医師の診察室には所狭しと沢山の写真が貼られていた。高橋義男医師は自分が携わったこどもたちのその後の成長を、見続けていたのです。田中宏明さんは何んとか高橋義男医師のことを世の中に知らせたいと思い、自分がかつて漫画家志望であったことからマンガで表現することにする。そして漫画『義男の空』を自費出版。

全然知らなかったので、世の中にはこんなお医者さんがいるのかと心強さをもらった。他の友人たちとも交信し合い共有しました。知らせてくれた友人にありがとう。そして、日々、命の灯りを消さないように医療にたずさわれている方々に感謝。

上野の動物園通りから清水坂に向かう左手に森鷗外さんが住んだ鷗外荘がある。「水月ホテル鴎外荘」として公開されていたが、ここも新型コロナウィルスの影響で閉じられることになった。ここは温泉でもあり、友人たちと泊って歓談したことがあった。友人に電話するとテレビ報道ですでに知っていた。泊った次の日『横山大観記念館』に寄り、そこから『旧岩崎邸庭園』へ行ったことが話題になった。そんな旅もいつ再開可能であろうか。

鴎外さんは海軍中将男爵赤松則良の長女・登志子さんと結婚する。赤松中将は19歳で勝海舟らと咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへも行った人である。ここは赤松家の持ち家であった。当時は寂しい場所で動物園のすぐそばでもあり、猛獣のほえ声にお手伝いさんが怖がったと言うはなしもある。この頃鴎外さんは東京美術学校(現東京芸大)の講師で、幸田露伴さんなどがよく訪れていたらしい。登志子さんとは離婚することになり、その後、本郷千駄木に移る。千駄木の家には後に夏目漱石さんが住む。

いつかまた、鴎外荘が公開され訪れる日のくることを願いたい。だがその前に閉じてしまうところがないように強く願う。

さてそんな話の中で、友人の知人が、すみれを持ってきてくれたと言う。そろそろすみれも終わりかけているので抜いてしまったのだが、根子のついているままガラスの容器にいれておくとまだ楽しめると花好きの友人に渡してくれたらしい。こういうのって嬉しいねと声が明るく響く。窓辺に飾って眺めている友人の姿が伝わる。こちらもそのすみれを眺めている。

追記: 友人が慢性骨髄性白血病と診断された。短い時間、身体の右側に異常があった。口が歯医者で麻酔をされた感覚で右手がしびれた感覚。すぐおさまったが次の日、脳神経内科を受診。検査ではっきりしたことがわからなかったが血液検査で数値が異常。血液の専門に回され、慢性骨髄白血病と診断された。薬のことなど色々説明を受けたらしい。急性になる前に見つけられてよかった。早期発見早期治療が医療の原則なのではないのか。新型コロナも早期発見早期待機(隔離)ではないのか。補償欲しがりません勝つまでは、いつの時代の政策なのか。