京マチ子映画祭・『有楽町で逢いましょう』と『七之助特別舞踏公演』

映画『有楽町で逢いましょう』(1958年・島耕二監督)と『七之助特別舞踏公演』とどんな関係があるのかと言えば、七之助さんのトークからつながってしまったのである。千葉市民会館での鑑賞だったのであるが、七之助さん市民会館から千葉駅へむかいぐるっと回って市民会館まで散策したのだそうである。駅が大きくて「そごう」があって凄いですねと話される。千葉市民会館の緞帳には「千葉そごう」の名があったので、こちらはその前から反応していたので、さらに反応してしまった。

 

映画『有楽町で逢いましょう』は、フランク永井さんの歌の『有楽町で逢いましょう』の歌謡映画ともいえるが、歌は「そごうデパート」の宣伝用でもあった。今はもう宣伝ソングとは知らずにフランク永井さんの代表曲として受け入れられている。こちらもそんな話を聞いたことがあるなと思いつつ映画を観るまでどこかに飛んでいた。映画を観て、この歌は、フランク永井さんのあの声と佇まいのダンディな雰囲気が成功し、有楽町のそごうがあこがれの場所となったことが想像できた。その後この歌は自立し、大人の恋の歌となる。

 

有楽町駅前の読売会館に「そごう」が東京進出を果たしたが、閉店して今はビックカメラが入っている。その同じ建物の8階の映画館で『有楽町で逢いましょう』の映画を観ているのであるから不思議な感じであった。映画を観終ってから建物を眺めたが映画の中のおしゃれさはないが、建物はそのまま残っていて、そばにレンガ造りの電車の高架下も残っており今もそのアーチ下を通れるのは嬉しいことである。映画を観ると、二階の喫茶に座りレンガの高架を走る電車も実際に見たかったと思う。この建物は今も電車から見ることができる。

 

有楽町の「そごう」は、都庁が西新宿に移転、それが大きな痛手であったようである。都庁あとが東京フォーラムである。大阪の心斎橋にあったそごうも今は無いようである。有楽町の「そごう」に入ったことは無いように思う。

 

映画『有楽町で逢いましょう』は、クレジットが入る前にフランク永井さんが『有楽町で逢いましょう』を歌う映像がでる。フランク永井さんが出るのはそこだけで映画の流れとの関連性はなく、斬新である。そして大阪城が映り、パリから帰った新進デザイナー・小柳亜矢(京マチ子)が大阪のそごうでファッションショーを開いている。映画は東京と大阪を行ったり来たりもする。亜矢は今は東京に住んでいるが大阪生まれである。早々、東京の有楽町のそごうでもファッションショーを開く。エスカレーターを使ってのショーで、おそらく今のエスカレーターであろう。

 

弟で大学生の武志(川口浩)と亜矢のお客で大学生の篠原加奈(野添ひとみ)が、ひょんなことから恋仲になる。加奈の兄・練太郎(菅原謙二)は建築技師で大阪から東京への列車の中で亜矢とは偶然顔見知りであった。歌の歌詞は若い武志と加奈の恋愛模様に合っている。武志は家出して大阪に住んでいたころのばあや(浪花千栄子)の家に転がり込む。東京の家には祖母(北林谷栄)がいて、若い者をそれとなく後押ししている。大阪と東京の二人の老女の演技もそれぞれに光っている。

 

歌の『有楽町で逢いましょう』のB面が『夢見る乙女』で、道頓堀と思うが武志とばあやの娘がボートに乗っていてそこから『夢見る乙女』を歌っている藤本二三代さんが見える。歌詞が「花の街かど有楽町で 青い月夜の心斎橋で」で始まる。大阪から東京へのそごう店を意識して使われたのかもしれないが、映画の中の武志はこの歌から東京の加奈を思い出す。そして加奈は武志を想っている。この二人のデート場所が有楽町のそごう二階のティ―ルームなのである。その下に女神像が掲げられていたらしい。入ってすぐにティ―ルームへの階段がありおしゃれである。

 

大阪のばあやの家で亜矢と武志そして練太郎も加わり若い二人のことを話し合う。亜矢と練太郎も言いたいことを言い合っていたが好意をもったらしい。二人は大阪の帰り、仕事、仕事、と忙し過ぎるからと箱根に寄ってゆっくりする予定が、やはり仕事優先となる。そして「有楽町で逢いましょう。もっと頻繁に。」ということになるのである。軽いコメディタッチの娯楽映画であり楽しめる映画である。京マチ子さんのデザイナーとしての洋服も着物もしっかり着こなしていて仕事優先の気持ちが伝わる。

 

菅原謙二さんの建築現場から江戸城が見えておりあの近辺の開発も急ピッチですすんでいたのであろう。かつてはその中で高級感と新しさの夢を売っていたのが、今は欲しい物を安く手に入れようという庶民の買い物の場所になっており時代の流れである。他の開発が周囲に影響を与えると言う事は多い。

 

ここからが、七之助さんの驚いた話しにつながるのである。七之助さんは、千葉駅と駅前が高層化していて驚いたのである。そしてなるほどと思って歩き進み橋を渡ったところから、風景が一変したのだそうである。摩訶不思議な気持ちで市民会館にもどられたようでその話をしてくれたわけである。会場、会場で違う話がでてくるのだそうであるが、司会の澤村國久さんが、地元の話しがこんなに出たのは初めてですねと言われていた。

 

少し調べてみたところ、千葉市民会館の場所がかつてのJR千葉駅だったのです。ですからそこから伸びる栄町と言われる町はかつては活気ある千葉の商店街だったのでしょう。ところが戦災に合いその後千葉駅はそこから西に移動して建てられ開発もそちらに移動してしまったわけで、今の千葉駅前があるわけです。そういう事情があって七之助さんが歩かれた場所は開発とはほど遠い地域となってしまったところのようです。七之助さん、その落差に初めて歩いた街で突然遭遇し驚かれたのでしょう。

 

さて舞台のほうですが、舞踊『於染久松色読販より 隅田川千種濡事(すみだがわちぐさのぬれごと)』の四役早替りにの七之助さんには観客は声をだして驚かれていました。歌舞伎座の見慣れたお客さまとは違う新鮮な驚きかたです。帰りの出口のところではポスターを見て、こんなに全部演じていたかしらできるわけがないと主張されているかたもいました。どこで替わったのかしら、どこか解らないけど替わったのよ、などの声もあり、もめないでお帰りくださいと思いました。主張するかたのお気持ちもわかります。とてもスピーディーにスムーズでかつ美しい早替わりでした。

 

トークの時に登場人物やどんな関係かも説明され入りやすかったと思いますが、お光、お染、久松、お六とそれぞれの役が一人一人にうつりました。だからお客さまも同じ人が演じているわけがないと思われたのでしょう。お光の久松を想っての踊りがやはり心に残りました。(猿廻し夫婦・いてう、國久)鶴松さんの舞踊『汐汲』は扱う物も多いのでそのバランスなどに目をとられてしまうところがありました。可憐さがありますが、物語の世界と登場人物と同じ気持ちに入り込めるところまでには至りませんでした。時間がたってみると両演目とも、もう一度観てたしかめたいなあという気分である。

 

時代の移り変わりで街も変われば、役者さんたちの成長も変わって来る。しかし芸は、伝えたいと思う気持ちと踏ん張りどころで、伝えたいことはつながっていくのではないだろうか。それにしても、変化に飛んだお話と舞台でよい刺激をいただき、さらに大阪から有楽町そして千葉へとつながりました。

 

追記: Eテレの『にっぽんの芸能』で「中村七之助 歌舞伎の里に舞う」の放送あり。4月5日(金) 午後11:00~11:55 再放送 4月8日(月) 午後0:00~。

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(4)

近江今津駅から二つ目の駅マキノ駅で下車するグループのかたがいた。今人気のメタセコイア並木へでもいくのであろうか。こちらはさらに進み近江塩津で乗り換えて二ケ所目途中下車の余呉駅。余呉湖がある。ここは湖北にあたる。湖北は戦国時代の戦場の舞台でもある。「姉川の戦い」「賤ヶ岳の戦い」など。賤ヶ岳古戦場へは、余呉湖を半周して閉館している国民宿舎余呉湖荘のそばから登ることもできる。楽にいくなら木ノ本駅からバスとリフトを使うのがよいのであろう。

 

余呉湖をレンタルサイクルで一周もできるのでその予定だったが、のんびりと眺めることにする。余呉湖観光館があるところまでぶらぶらと。中に入ると清掃しているかたが申しわけなさそうに今日は休館なんですと言われる。余呉湖ってどうしてできたのですかと尋ねるとパソコンから印刷して下さった。ありがとうございました。琵琶湖とは賤ヶ岳で隔たれていて遠い遠い昔は琵琶湖の一部だったらしい。安土・桃山時代に湖の氾濫防止のため現在の高田川が排水路として掘られている。パンフレットなどをもらって外の案内板などをながめる。

 

案内板に「賤ヶ岳の戦い」の秀吉と勝家の陣地と進路やぶつかった場所などが描かれていて、これが面白い。これパンフレットにしてくれると嬉しいのだがとおもう。見ていると賤ヶ岳に登りたくなる。賤ヶ岳の上から琵琶湖と余呉湖が見たいものである。余呉湖には、柳に羽衣をかけたという天女伝説もある。天女と村人との間に生まれたの男の子が菅原道真公で、幼い頃預けられたという菅山寺がある。北野天満宮からお話が羽衣に乗って追いかけてきたようである。秀吉さんは北野天満宮から過去にもどっての登場であった。

 

『琵琶湖周航の歌』の資料館で6番までの歌詞と歌碑のある場所を示し、琵琶湖を取り巻く神社・仏閣などを記した絵葉書を売っていた。琵琶湖周辺の名所どころなどが一望して描かれていてすぐれものである。拡大コピーして使おうと思う。鈴鹿山、油日神社、石山寺、比叡山、鯖街道、余呉湖、伊吹山、湖東三山などがぐっるっと取り囲んでいる。湖北は美しい仏像群がおわす地域でもある。三ケ所目の途中下車は、高月駅。めざすは歩いて10分の向源寺(渡岸寺)である。

 

渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音立像は三回目の対面である。一回目はツアーで訪れたのである。この辺りは交通の便がよくないのでほかの仏像を拝観するなら車でなければツアーとなる。そして二回目が東京国立博物館。今回は、お寺の案内人さんつきでの独り占めの贅沢な拝観である。ツアーのときは修学旅行のようでわさわさしていたが時間の流れが違う。頭上にある十一面観音が、左右の耳の後ろに二面ある。そして大きな耳飾りをされているのである。アンバラスになりそうなものであるが、その優雅さは損なわれるどころか素晴らしい調和となっている。そしてさらに全体像を美しくしている。

 

ここの仏さまたちは、浅井・朝倉と織田信長との「姉川の戦い」で戦火にみまわれてしまうのである。その時の住職巧円と土地の人々が外に運びだし土に埋めてお守りした。民家のような場所で守られたこともあったが、明治に入って国宝となる仏像もあり近畿一円の人々の浄財により本堂が建立され、さらに十一面観音立像が国宝となり重文の大日如来坐像とともに収納庫に移されたのである。

 

高月駅に井上靖さんが駒澤晃写真集「湖北妙音」に書かれた序文と小説『星と祭』の一部が紹介されていた。渡岸寺観音堂に井上靖さん筆による「慈眼 秋風 湖北の寺」の文学碑があり、高月駅そばの大きな石灯籠にも同じ文が見える。井上靖さんといえば、今は映画『わが母の記』のイメージが強いので小説『星と祭』あたりでも読むことにしよう。

 

今回の旅、締めが渡岸寺の十一面観音立像というのもよかった。駅そばの総合案内所で荷物を預かってくれ、近いのだがわかりやすく渡岸寺観音堂への道を教えてくれた。井上靖さんが書かれている。

 

「この湖北の旅で知った最もすばらしことは、こうした湖北の仏さまたちが、鎮護国家とか仏法守護とか、そういったものとは、さして関係なく、専ら地方庶民の生活の中に入り込んで、素朴で、切実な庶民の信仰の対象になっていることであった。」「それからもう一つすばらしいことは、永年に亘って、その集落の守り本尊である仏さまたちを、代々、村人たちが守って来ているということである。」

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(3)

JR湖西線は山科、西大津と琵琶湖の西に向かうのである。堅田までは行ったことがことあるが、今回はさらに近江塩津まで行きそこから米原まで回ってくるのである。電車は敦賀行きで京都から北陸がこんなに近いのだと実感である。そのまま北陸に行きたい気分であった。今度体験してみよう。

 

時間がかかるので観光は駅から近いところを選ぶ。菅浦とか旧塩津宿など琵琶湖そばまで行きたいが路線バス旅行の計画が必要である。鯖街道の拠点朽木へも行ってみたい。というわけで、次々浮かぶが今回は駅から徒歩で行ける場所を三か所選んだ。

 

一か所目は近江今津駅から2分の『琵琶湖周航の歌』の資料館と歌碑である。『琵琶湖周航の歌』と『琵琶湖哀歌』が混同されているところがある。私も琵琶湖でボート遭難事故で亡くなったのが三高(京都大学)の学生と思っていた。金沢に行って四高(金沢大学)の学生であったと知ったのである。『琵琶湖周航の歌』は、やはり三高のボート部に所属していた小口太郎さんが琵琶湖周航中その美しさに、今津湖岸の宿で披露したのが『琵琶湖周航の歌』の詩である。これに当時学生たちが歌っていた『ひつじぐさ』の曲にのせたところ上手く合い、その後クルー仲間が歌い始めたのが始まりだそうである。『ひつじぐさ』は吉田千秋さんが作曲されたもので、詩ができたのが1917年(大正6年)である。

 

作詞、作曲のお二人は若くして亡くなられていた。小口太郎(長野・岡谷市出身)さんは27歳で、吉田千秋(新潟市出身)さんは24歳であった。

 

このあとに生まれたのが四校のボート部の合宿での遭難事故の鎮魂歌『琵琶湖哀歌』(作詞・奥野椰子夫、作曲・菊池博)である。遭難事故は1941年(昭和16年)である。この歌のほうが先に人々に知られるようになる。曲も似ているのである。ところが、戦時下、士気を損なうとして哀歌は歌うことが禁止されてしまう。戦後になってようやく心おきなく歌われるようになったのである。この遭難事故の日、地元の人は琵琶湖にでるのはやめたほうが良いと言われたそうである。この時期「比良の八荒、荒れ仕舞い」と呼ぶ大しけが発生するのである。

 

比良山(蓬莱山、武奈ケ岳、打見山などの高峰)と琵琶湖の気温差から山麓一帯に強い北西の季節風が吹き琵琶湖は大しけとなる自然現象があり、この荒れが長い冬の終わりで春の訪れなのだそうである。今年も3月26日に、「比良八講」という水への祈りが行われる案内があった。滋賀・京阪神地域の水瓶をつかさどる琵琶湖への報恩と、その水源である比良山系の保全・水難者回向と湖上安全祈願を捧げる法要である。(近江舞子湖畔にて開催) 悲恋伝説「比良八荒」という説話もある。

 

琵琶湖周航の歌』にもどると、今津が歌の発祥の地であることは、小口太郎さんが寄宿舎に残っていた学友へのハガキや学友の記憶でも明らかで1917年(大正6年)6月28日である。湖岸に歌碑があるがそこから見る琵琶湖はやはり美しかった。歌詞は六番まであって今津が出てくるのが三番である。

「浪のまにまに漂えば 赤い泊火なつかしみ 行方さだめぬ波枕 今日は今津か長浜か」

資料館では、色々な歌手の方の声やオーケストラ、ギター、大正琴の楽器などの『琵琶湖周航の歌』を聞くことができる。全てさわりだけ聞いたが、映画『有楽町で逢いましょう』の映画を観たばかりだったので、フランク永井さんの声に反応してしまった。係りの方が『琵琶湖哀歌』と『七里ケ浜の哀歌』も曲が似ていますから聴いてみてくださいと教えてくれた。『ひつじぐさ』もあった。美しさと哀しさを味わうこととなった。吉田千秋さんは肺結核で茅ヶ崎南湖院に入院していた時期もあった。そうか吉田千秋さんんもあそこに入院されたのかと感慨深かった。

 

今津には、ヴォ―リズが設計した建物が残っている。ヴォ―リズ通りに「今津ヴォ―リズ資料館」「日本基督教団今津教会」「旧今津郵便局」と並んでいる。もう一つ離れて個人宅の前川邸があるらしいがそこは見なかった。ヴォ―リズさんの洋館は近江八幡に多くあり有名であるが、湖西では今津が数が多い。それにしてもヴォ―リズさん随分沢山の洋館を残されたものである。やはり伝道という情熱が形となって表されたのであろう。

 

観光案内のかたが、かつての今津の駅が残っていますからそちらもと教えてくれたのでせっかくだからとそこを見てから駅に向かったが、ヴォ―リズさんの設計した建物と同じようにもう少しきちんとして残して欲しい。何か旧駅舎可哀想であった。江若鉄道 近江今津駅とあった。江若鉄道はJR湖西線が走る前、大津市の浜大津駅から近江今津駅まで走っていた路線である。琵琶湖の西にも色々な歴史があったわけである。

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(2)

2日目の午前中は北野天満宮方面へ。先ずは『大報恩寺』(千本釈迦堂)。 東京国立博物館『京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』 かなり早い実行である。本堂が鎌倉初期に開創された当時のままで、応仁・文明の乱にも両陣営から保護されて残ったのである。開祖の義空上人は、藤原秀衡の孫にあたるそうである。

 

本堂の建立には棟梁・高次の妻のおかめさんが貢献している。高次は上棟式を目前にして大切な四天柱の一本をあやまって切り落としてしまった。替りの柱を探したがみつかりません。おかめさん、仮堂に安置されているご本尊に自分の命とひきかえに夫を助けてほしいと必死に祈りました。ご本尊の膝元に光り輝く「斗栱(ますぐみ)」が目にうつります。そして、柱を短い柱に切りそろえ、「ますぐみ」で高さを補えば良いと夫に提案したのです。高次はそれを取り入れゆるやかな屋根、安定感のある本堂の骨格を生み出したのです。

 

上棟式に、義空上人署名の棟木棟札があげられその上部に末広を円形に組み「おかめ」の面をおさめます。高次は本堂が妻の「おかめ」の心とともにいつまでも伝承されることを祈りました。集まった人々も生前の「おかめ」さんが帰って来たと手を合わせました。(ということはおかめさんは亡くなったのでしょう。)義空上人はおかめさんの女徳を顕彰し境内に塚を建て、その塚を誰言うともなく「おかめ塚」と呼ぶようになりました。

 

江戸時代には「おかめ多福招来」の信仰が全国に広がる。商人には増幅繁栄の功徳とされたのです。なるほど、熊手におかめさんが飾られるのはそういう信仰のつながりだったのですか。今は境内におかめさんの銅像があり、本堂の中にもたくさんのおかめさんの人形が飾られています。阿亀桜(おかめざくら)と呼ばれている枝垂れ桜もありましたが硬いつぼみでした。

 

みほとけさまたちは、霊宝館に納められています。上野の国立博物館では、照明などで幻想的な雰囲気の中での拝観でしたが、霊宝館ではもっと明るく身近で、お顔の表情もよくわかる。仏師の彫刻刀がいかに繊細な動きをしてこのお姿を創り上げっていったかが想像できる。見守られているというより反対にいとおしく感じられる。十大弟子もリアルさが増し、修業の過酷さと一心さが伝わってくる。

 

その場所、その場所で、どこにおられても新たなお姿を見せてくれるとは、仏師の手を離れて何かが宿られ、それが放出されているのであろう。

 

上七軒通りを歩く。静かな落ち着きのある通りである。上七軒歌舞練場では3月25日から4月7日まで「北野をどり」が始まるらしい。来年はこれに合わせて再来も考慮しようか。歌舞練場には喫茶室もあり普段も中に入れるようである。

 

上七軒通りは北野天満宮につながっているが、天満宮の裏を通って先に『平野神社』へ。昨年の台風21号で拝殿の柱が折れ屋根が崩落していた。拝殿のみ囲われ周囲は綺麗にかたづけられていた。ここには多種類の桜が植えられていて名前が紹介されていた。咲いていたのは「10月桜」(冬桜)。釘隠しなどに使われる金属の装飾があるが、それがハートの模様で「猪目(いのめ)」というのだそうで、「ハートを見つけましょう」との案内があり見つけることができました。

 

「菊花紋、ハート、桜の神紋の三点セットは、京都中、いや、世界中で、ここ平野神社だけです。」とありました。今年も拝殿の再建を願って多種類の桜が咲くことでしょう。

 

北野天満宮』はまだ梅が咲いていて、末社『文子天満宮』というのがありました。道真公が亡くなられ40年を経て、現在の京都下京区千本通り七条あたりに住む巫女の多治比文子に菅公の神霊より、わが魂を現境内地に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りしたのが北野天満宮の発祥で、その後お告げの場所に移された。文子邸跡には神殿ができ『文子天満宮』と呼ばれ、それが明治に入って現在地に移されたのだそうである。

 

興味を引いたのが「豊臣秀吉公の都市遺構 史跡 御土居(おどい)」。御土居というのは秀吉が戦乱で荒れ果てた京を外敵の来襲や、鴨川の氾濫から市街を守る堤防の土塁のことで、御土居を築くにあたりこの清浄なる境内に水が溜まらないように、この地にだけ御土居を貫通する約二十メートルの暗渠(あんきょ・悪水抜き)を造り、境内の神域を守ったとある。ただ場所がよくわからなかった。

 

梅苑が公開されていたが入らなかった。どうもそこから御土居の散策道がつながっていたようである。知っていれば梅がなくても入ったのであるが。紅葉と青もみじの時期も公開するようである。地図を見たら北野天満宮の北門と平野神社の間の天神川(紙屋川)沿いにも史跡御土居が記されていた。心残りである。御土居を知っただけで良しとしよう。南座観劇前の充実した時間であったのだから。

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(1)

南座『坂東玉三郎特別公演』観劇にセットした関西春の旅であるが、京都は『大報恩寺』を先ず計画に入れた。国立博物館で拝観したあの六観音菩薩像と十大弟子との『大報恩寺』での再会の実行である。そして湖西線で琵琶湖の西をたどること。計画の途中で、生駒山というのが奈良と大阪の県境にあり、近鉄奈良線生駒駅からケーブルでいけるという情報をキャッチ。調べて見ると途中に宝山寺があり、なかなか良さそうである。

 

京都から生駒山や宝山寺への交通など調べていたら、映画『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』で寅さんが生駒の宝山寺へ行っていると言う。マドンナは松坂慶子さんでさっそくDVDを観る。瀬戸内海のある小島でふみさん(松坂慶子)と出会う寅さん。そして大阪で再会。通天閣の新世界が出て来て、大阪の役者さんや芸人さんが登場(芦屋雁之助、初音礼子、正司照枝、正司花江、大村崑、笑福亭松鶴)し、寅さんとの間が可笑しくて泣かせる映画であった。ふみさんは大阪で芸者をしていたのである。松坂さんが美しい。

 

寅さんは大阪が嫌いであった。大阪では江戸っ子の寅さんの話術が通用しなくて商売にならないのである。売っているのが愛の水中花。ところがふみさんがいるとなれば嫌いな場所も好きになってしまう。ふみさんとデートしたのが生駒の宝山寺なのである。ケーブルカーも映りました。今は可愛いい犬や猫の顔のケーブルカーが活躍しています。寅さんが泊っている新世界ホテルのロビーに、ロビーといえるのかどうか疑問符であるが、そこに朝日劇場の大衆演劇のポスターが貼ってあった。というわけで生駒山から大阪の新世界へのコースを加え大衆演劇を観ることにする。

 

近頃自分の旅の途中でのミスもでてきた。今回は、現金を補充するのを忘れていた。「すぐ忘れる」ことを「仕事の出来る人はすぐやる」に変えて思い出した時に実行を心がけているが、お金の補充と思った時、あとであちらに入れようと思ったのが間違いのもとである。東京駅の新幹線の改札で思い出した。とにかく交通系ICカードにチャージしょうとチャージ場所を駅員さんに尋ねたら、あそこにありますと教えてくれるが、現金のみのチャージだという。クレジットのチャージはないかしらとたずねると、この後ろにありますと教えてくれたが、その後の一言が疑問。ここは東海改札ですから。

 

意味不明。あなた何を言いたいの。東京から熱海で交通系ICカードで通れなかった事と同じかな。JR東日本とJR東海のややこしい境界線がここにもあるのかしら。まあとにかくチャージできてこれでコンビニの買い物は大丈夫であるが、一度もやったことのないキャッシングを試みる。現金が出て来た時にはホッとした。今の災害多発の時代で現金のない旅なんて不安すぎる。先ずは解決。

 

近鉄の生駒駅からケーブルカーの鳥居前駅までは順調に進んだ。このケーブルカーが鳥居前駅から宝山寺駅まで行って、乗り換えて生駒山上駅まで行くのである。宝山寺駅までは猫と犬のケーブルカーがすれ違うのであるが、猫がニャ~ンと泣くのである。子供たちは喜んでいる。日本最古のケーブルカーなのだそうで、かなり登るが宝山寺駅まで住宅が続いていてケーブルカーでのこんな風景は初めてである。

 

乗り換えて生駒山上駅への途中雨が雹に変わってしまった。驚きである。生駒山上には遊園地があり、こちらは山からの景色を眺めたいと思ったのだが無理である。下りて宝山寺へ行こうかと思ったが、相当の階段数のようである。一時的とは思うがどうも天候の急変で気が乗らない。こういう時はやめにする。次に取っておくことにし大阪方面へ。石切駅というのがあった。『石切梶原』を思い出す。帰ってから映画を観なおしたら、寅さんとふみさんが再会していたのが、石切神社の石切参道商店街であった。了解である。

 

ホテルで休憩してから新世界へ。ここで串カツを食べたことがない。お客が並んでいるのと胃が重すぎと拒否するのである。鯛塩ラーメンを食べる。三つ葉の香りが効いて癒し系のラーメンである。

 

二回目の朝日劇場である。ここでもお芝居に雪が登場。大量の雪でお芝居の臨場感を出しているが、よくこれだけの雪を劇場が許可すると思う。近頃そんな裏事情も気になったりする。片づけが大変である。大劇場とは違う大衆演劇の限られた中での工夫も観ていて面白い。伴奏に津軽三味線あり、太鼓あり。舞踏ショーの掛け声がみんな一緒にもあってこれは劇団によるのであろうか。関東のほうがそれぞれの感がある。関西のほうが役者さん同士のいじりのテンポが軽くて上手い。楽しめた。

 

映画で芦屋雁之助さんが、大阪と東京の感じ方の違いやなあとぼやく場面を思い出す。ちゃう。ちゃう。寅さんだけの特殊な感じ方である。これでお勘定をとふみさんに渡したお財布の中は・・・。お金が無くてもおたおたしてはいけないのである。

 

南座3月歌舞伎『壇浦兜軍記』『太刀盗人』『傾城雪吉原』

壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき) 阿古屋』は、おそらくこの後しばらくは上演がないであろうとの予想で南座へ。2月に文楽の第三部でも上演されこちらも観劇したので「阿古屋づくし」の感がある。

 

文楽では人形が三曲の演奏者(寛太郎)の音に合わせて手や指を動かすのである。国立劇場のHPに阿古屋をつかう桐竹勘十郎さんが動画で説明されているが、観劇してから動画を見た。その説明によると、いつもの右手と違う、お琴と三味線と胡弓のための右手に替わり、左手も指が動く手に替えるのだそうで納得でできた。右手つかいう方と左手つかいの方は別の人であるが、同一人物が動かしているような息の合い具合であった。そして愛らしい人形の指がよく音に合わせて動くのである。演奏方法身につけておられなければあそこまで出来るであろうかと思えた。見惚れてしまった。

 

人形の阿古屋は詮議の途中で髪に右手をちょっとさわるところがあり、これは人形だから爽やかであるが役者さんがやっては変な生々しさが出て合わないなと思わせる箇所もあり、それぞれの違いが多少なりとも目にとまる。人形が不自由でありながら軽快に動かすのであるから、責めとしては人形のほうが健気に見える。そのあたりも役者さんの表現と違う印象を受けるが、人形の遊君阿古屋もやはり意地を感じさせてくれた。文楽の岩永左衛門は人形であるが、歌舞伎の人形振りのような動きではなくもっと自然の動きに近い。

 

文楽の三部のもう一つの演目が『鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)』で、当麻寺の中将姫の話しである。中将姫が継母にいじめられ雪の中で責められるのであるが、侍女のはからいで責め殺されたことにして命を助けられるというどんでん返しがある。こちらは「中将姫雪責の段」で二演目めが「阿古屋琴責の段」とそれぞれ難局を乗り越えることとなる。面白い並べ方である。

 

歌舞伎の『阿古屋』であるが、京都南座ということもあり、景清が清水寺へ参詣にきたとき五条坂で出会ったという様子が場所柄もあり、物語がずうっと近く感じられる。景清が平家の勢いを無くした時に五条坂の自分のような浮かれ女に心を寄せたとあっては弓矢の恥である。そっと別れはすませましたと言い切る遊君阿古屋の覚悟のほどが遠い時間空間を越えて伝わってくる。

 

若手に伝えるべきことは伝えたということでもあろうか、玉三郎さん、東京の歌舞伎座よりも少しゆったりとして観える。彦三郎さんの重忠のセリフも強弱が出てきていてさらに味わいがでてきそうである。坂東亀蔵さんの岩永もその場その場の可笑し味が出ていて、六郎の功一さんもすっきりとしていた。南座は微かな音も響き阿古屋の髪飾りのゆれてぶつかる音や、懐紙で胸をたたく音も聞こえた。ある面では怖い劇場であると思った。不味い音も捉えてしまいそうである。先ずは『阿古屋』とのお付き合いも満足の中で無事終わらせることができた。

 

太刀盗人』は、彦三郎さんの抜け目のない太刀盗人・すっぱの九郎兵衛の愛嬌振りが出色であった。吉之丞さんのどちらの太刀であろうかの詮議も年寄りすぎて詮議の方法を従者の玉雪さんの意見に従いゆったりとしているのも、すっぱの九郎兵衛にとって都合がよい。それを正直に答えて太刀を盗まれたことを証明しようとする田舎者万兵衛の坂東亀蔵さんも、ついに、自分が先ではそのマネをされると気づく。そこはかとない可笑し味が観ている方の気分を『阿古屋』の緊張感から解放してくれる。

 

傾城雪吉原』は、やっとその世界に浸ることができた。透かしの黒傘で打掛けを広げた形良い玉三郎さんの傾城が中央のセリから上がって来る。黒塗りの高い下駄の足さばきが際立つ。下駄の底についた雪を軽く払うしぐさのようにも見える。雪の白と黒。南座の広さにあっている踊りに思える。透かしの幕が上がると後ろの長唄と囃子の方々の姿が現れ、その後ろに仲之町が遠近法で続く。そこに並ぶ提灯。

 

この提灯だけ赤の透光性のある染料で塗られているそうで、さらに裏から明りをあてる明るさを出すのだそうである。傾城の打掛を脱いだ下の着物の赤と呼応する。舞台はその後、辺りを暗くしてこの提灯だけが灯され、劇場の客席の提灯と一体化する。その他、下手からのライトが傾城に微かにあたり夕陽を想像させ長唄の詞と重なる場面などもある。そして楽し気に音に誘われ傾城が踊る場面では今回気が付いたがお囃子にチャッパとうちわ太鼓が加わっていた。

 

傘の扱い、手紙の扱い、打掛を脱いでの打掛けに気持ちを伝える扱いなどたっぷりと傾城の情感を味わうことができた。最後に重いであろう打掛けを事も無げに着ながら見せる所作の美しさにはまたまたさすがであると思いつつ締めとなる。踊りの中の情景に誘われるヒダの膨らみが深くなっていた。最初にこの踊りを観た時の気分が払拭されて嬉しい事このうえなしです。(「坂東玉三郎特別公演」)

 

歌舞伎座3月『雷船頭』『弁天娘女男白浪』

雷船頭』と『弁天娘女男白浪』は奇数日と偶数日で配役が変わるのである。近い日にちで見比べると役者さんによって踊りや芝居の雰囲気が変わるのがよくわかる。それぞれに培ってきたものが基本に加味されて造形されているのである。

 

雷船頭』は踊りで、吉原に客を運ぶ船頭が、地上に落ちてきた雷とのやりとりを見せるのである。奇数日、猿之助さんは女船頭で雷は弘太郎さん。偶数日、幸四郎さんは男船頭で雷は鷹之資さんである。女船頭と男船頭ということもあって見せ所も違っていた。弘太郎さんの雷は少し太めでちょっとドジで落ちてしまったという感じで、粋な女船頭に軽くいなされて遊ばれている感じである。鷹之資さんの雷はすばしっこくて下界をのぞき過ぎて落ちてしまったという感じで、いなせな船頭の幸四郎さんに面白がられて遊ばれている感じ。

 

女形の場合、着物のすそで足が見えないためその表現の難しさを感じた。動きの少ない全身でその心持を表現しなくてはならないのである。その点、男船頭の場合、足の動きで軽快さを見せることができる。表現方法がかなり直接的に観客に伝えることができ観客もそのリズム感を簡単に享受できるのである。幸四郎さんは、『傀儡師』より楽しそうに軽快に踊られていて、なるほどなあと踊りによって違うものであると感じさせられた。動きのことを考えてのことか、女船頭の場合は若い者との立ち廻りをいれている。色々考慮しているわけで、それぞれの見方ができて楽しめた。

 

こうした雷と船頭の風景は現実には観られない舞台上のお楽しみであるが、現実には3月18日には浅草で浅草寺の奉納舞「金龍の舞」がある。国立劇場のほうで早々と観覧させてもらった。観音様をお守りするために金のウロコの龍が舞い降りたのだそうである。金のウロコが八千八百八十八枚あり、そのウロコがうごめいて勇壮な動きをみせてくれる。この日は『女鳴神』の龍神龍女たちも誘われて、一層高く舞い上がるかもしれない。そして、雷さんも、またまた、上から覗き込んで雷門に落ちようと思ったのが歌舞伎座であったということになっているかも。船頭さんたちまた遊んであげて下さいな。

 

弁天娘女男白波』は、御存知「しらざぁ言って聞かせやしょう」の「浜松屋店先の場」と白波五人男が勢揃いする「稲瀬川勢揃いの場」である。これも奇数と偶数日で役者さんが入れ替わっている。奇数日・弁天小僧菊之助(幸四郎)、南郷力丸(猿弥)、鳶頭清次(猿之助)。偶数日・弁天小僧菊之助(猿之助)、南郷力丸(幸四郎)、鳶頭清次(猿弥)。

 

幸四郎さんの弁天小僧は、しとやかで猿弥さんの南郷が最初はしきりにかばう感じであるが、かたりが露見すると狩野元信が弁天小僧になった感じでおとなしめの凄味をきかす。猿之助さんの弁天小僧は愛らしくしているが、変わり身はルフィが弁天小僧になった感じでまあ元気な事で、あたりを自分のペースに巻き込んでしまう。幸四郎さんの南郷は勝手にやってくれとまかせている。

 

鳶頭は猿之助さんはすっきりと形を決め、猿弥さんは貫禄ある顔のきく頭という感じであった。これまたなるほどなあと面白がらせてもらった。そういえば、今回四天王もできそうなくらいじっとしていた小三郎の寺嶋眞秀さんは、丁稚の長松をやったことがあり、お茶出ししてましたね。

 

勢揃いでは、日本駄衛門の白鷗さんが若い白波たちの後押しをされ、伸び伸びと若い役者さんの考え方に任せているような感じも受けました。忠信利平(亀鶴)、赤星十三郎(笑也)。心地よくツラネを堪能。夜の部も昼の部と同様歌舞伎初めての人も楽しめる。ちょっと違う配役でも観て観たいなと思った時は、一幕見の経験もどうぞ。

弁天小僧菊之助と南郷力丸にあたふたさせられる浜松屋の人々・浜松屋伜宗之助(鷹之資)、番頭与九郎(橘三郎)、浜松屋幸兵衛(友右衛門)

 

歌舞伎座『盛綱陣屋』

盛綱陣屋』は、小四郎の後ろに父・高綱がおり、盛綱は弟・高綱と小四郎を通して会話しているのがわかる。それだけ小四郎は高綱を背負ってここに登場しているのである。先が長いので早くから子役さんを褒めて負担をかけたくはないが、『盛経陣屋』を面白くさせた勘太郎さんの功績は大きいのである。盛綱である仁左衛門さんの芝居をじゃますることなくむしろ盛綱が高綱の気持ちをさぐる深さを押していた。

 

敵味方に別れて戦う兄弟の盛綱(仁左衛門)は、弟の高綱の息子・小四郎(勘太郎)を自分のほうに捕らえた。ここは大人の世界で思案し、高綱が息子のことを気にして闘う意欲をそこなわれないように小四郎に自害させようとする。小四郎を説得する役目を母の微妙(秀太郎)に頼む。小四郎は母に一目会いたいと逃げまどう。それはここで死ぬことは無駄死にと知っていたからである。自分には果たさなければ役目がある。それが終るまで見抜かれてはならない役目である。

 

ここは観客も子供だからと思って母に逢いたいのであろうと観ている。その役目をわかってもらえるのは、父の首実検をする伯父の盛綱しかいないのである。その伯父に、父の贋首を父・高綱の首と言わせるまでのアイコンタクト。オペラグラスからのサイレント映画のアップである。高綱の首ではないと知ったときのほっとし様子から、さらに不敵な笑みとなる仁左衛門さんの気持ちの変化。真顔になって小四郎をうかがう。小四郎の左手は刀を刺したお腹に、右手は支えとして床についている。そして首をゆっくりと横に振っている。小四郎は何を言おうとしているのだ。そうかそういうことか。「高綱の首に相違ない。」

今回は二回観ることになったが何回観ても生身のサイレント映像は見事である。どう編集しようと絵になっている。

 

小四郎を讃えよと小四郎に会いに来た母・篝火(雀右衛門)に会わせる盛綱。当然、高綱の妻・篝火と盛綱の妻・早瀬(孝太郎)も敵味方であるが、一族、心を一つにできる機会を小四郎は作ったのである。悲しいことである。女たちの嘆きはもっともなことである。なんでこんな悲しい場に居合わせなければいけないのか。褒めてやらなければ小四郎の死を無駄にすることになる。なんという不条理であろうか。

 

盛綱は、高綱の意を解し、小四郎の自死の行動を見て北條時政(歌六)をあざむき自分も切腹することを決心する。ここは腹芸なので小四郎の死後、そうかそう決心していたのかと観客は理解する。贋首とわかれば許されない。時政の後に従った息子の小三郎(寺嶋眞秀)の命もあぶないのである。気持ちを決めて一族で小四郎を見送り、高綱へのエールとするわけである。兄弟敵味方である以上どちらかが滅びなければならない。いや戦である以上両方が滅びるかもしれない。それがこのようなかたちとなって出現したのである。

小四郎を生け捕った時盛綱は小四郎の犠牲だけであとは大人の世界と思っていたのかもしれない。ところが大人の世界観だけで世の中は存在しているわけではない。

 

時政はぬかりなく用意周到で盛綱が裏切ることも考慮し密偵を鎧櫃に隠していた。それを知らせくれるのが和田兵衛秀盛(左團次)であり、盛綱は贋首とわかるまで生きのびることを決めるのである。

 

『盛綱陣屋』は陣屋内での戦さを描いている。そのため注進が外の戦を主人に知らせる役目で、観客にも見えない戦さの様子を知らせる役目でもあり、芝居のその後の展開の変化の風を変えたりする。竹下孫八(錦吾)、信楽太郎(錦之助)、伊吹藤太(猿弥)。そして時政の威風を伝える家臣たち。古郡新左衛門(秀調)、四天王(廣太郎、種之助、米吉、千之助)。

 

『中村七之助特別舞踏公演』で、中村屋ヒストリーとして映像と解説が入る。解説というよりもっと身近な内輪話しという雰囲気である。そこに歌舞伎座で勘太郎さんが小四郎の出を待つ後ろ姿の写真が紹介されたのであるが、その姿にすでに中村屋を背負っている姿があった。

 

父の勘九郎さんは『いだてん』のテレビ出演で、七之助さんは中村屋のお弟子さんを連れての巡業中で、勘太郎さんは一人歌舞伎座出演ですと、七之助さんが話された。小四郎役を観ていたので、その重責をしっかりと自覚しているような後ろ姿である。小四郎を演じられる年代のときに小四郎役が回って来るということはまれである。その機会をしっかりつかんで自分の役になりきっている。勘太郎襲名の時の映像でも同じく襲名した長三郎さんの挨拶の言葉を横でそっと口ずさんでいる。その場その場の重要性を勘太郎さんなりに感じられているのであろう。

 

長三郎さんはハチャメチャのやんちゃさで、ほっといていますと言われ、その様子がわかる。わんぱくがいて嬉しいところもある。岐阜・中津川 かしも明治座は冷暖房無しの劇場だそうで、行かれる方は寒さが厳しい日もあるので気温調整に気を付けて下さいとのことでした。ご注進にてお知らせします。

 

歌舞伎座3月『傾城反魂香』

傾城反魂香』は、今回は序幕がある。序幕「近江国高嶋館の場」「館外竹藪の場」二幕「土佐将監閑居の場」となっていて、上演される時はほとんど「土佐将監閑居の場」のみである。「近江国高嶋館の場」「館外竹藪の場」は<三代猿之助四十八撰の内>とある。三代目猿之助(二代目猿翁)さんが復活されたわけで、大劇場での上演は21年ぶりで歌舞伎座では初上演である。高校生のお客さんにとってはラッキーである。

「土佐将監閑居の場」だけでは解らないところが多くある。先ず幕開きに農民が虎を探しているのである。日本にいない虎がなぜここに居るのか。現代人が観る場合その時代日本に虎がいたかどうかなど考えないので、修理之助の台詞で気が付くのである。そしてこの虎が絵から飛び出したものであることを知り、虎は修理之助の筆で消されてしまうのである。初めて観るとさすが歌舞伎はシュールであると思うが、その後ご注進などもあり、物語がもっと大きい背景があるのだと気が付かされるのである。

しかし、今回は初心者でも観ているだけで流れがわかる。何回も「土佐将監閑居の場」を観ている者もなるほどと、想像部分が舞台として観れるのである。

近江の国の六角家に召し抱えられた絵師・狩野四郎次郎元信(幸四郎)は、六角家の姫君・銀杏の前(米吉)に想われている。この芝居は絵の流派の中の狩野派の宣伝かなと思われるがそれだけではないことが後でわかる。元信は新参者で当然古参・長谷部雲谷(松之助)から疎まれる。そして銀杏の前に頼まれた掛け軸の絵に六角家を乗っ取る印があるとして縛り上げられてしまう。元信は必死の覚悟で自分の身を食いちぎりその血で襖に虎の絵を画く。

この虎が絵から飛び出し悪人の道犬(猿弥)を噛み殺し、元信を助けるのである。おそらく元信は故事に絵から実物として飛び出すことを知っていたのであろう。それだけ念力を込めて描いたのである。犬より虎のほうが強い。歌舞伎には絵から鯉が飛び出したり、桜の花びらを集めてそこに涙で鼠を描いたりという話しもある。

絵から飛び出した虎が超活躍で、これが愛嬌もありどう猛さもある。中に入られている役者さんに拍手である。観ているほうは楽しいが役者さんは大変である。その大変さを忘れさせてくれる息の合った前足と後ろ足である。歌舞伎には色々な動物が出てくるがその中でもヒーローの部類に入る。

銀杏の前とそれに仕える宮内卿の局(笑三郎)は逃れる。そこへ元信の弟子の雅楽之助(うたのすけ・鴈治郎)が助けに来るが道犬の息子(廣太郎)や雲谷によって銀杏の前はさらわれてしまう。この雅楽之助が「土佐将監閑居の場」でご注進として土佐派の長の土佐将監光信に銀杏の前救出を願い出るのである。「土佐将監閑居の場」からは土佐派の話しになるのである。土佐派は今は絵の世界から外されている。ここで登場する光信の弟子・又平は後に土佐光起となり土佐派を再興したといわれる。狩野派だけではなく土佐派も出て来て、絵師の世界が舞台に繰り広げられることとなる。

狩野派のところではお家騒動で、優雅な絵師の幸四郎さんと愛らしく大胆な米吉さんコンビのやりとりではユーモアあふれる仕掛けも織り込まれている。これが「土佐将監閑居の場」では、絵に命を懸ける夫婦の物語へと移っていく。

土佐将監閑居の場」の筋は何回も上演されているのではぶくが、高校生のお客さんがどこに食いついてくれるか興味があった。言葉は悪いが食いついてくれるかどうか。序幕が変化に飛んでいるからどうなるのか。彼らが食いついたのは又平(白鴎)が自死の前に手水鉢に自画像を描くところである。反対側からの絵がこちら側にも観えるのである。ガラス張りではありません。絵がこちら側まで抜けたのです。絵の顔が出てくるあたりで気が付かれた学生さんが口走ったのでしょう。指さす学生さんやフライヤーをみる方もいて次第に興味がじわじわと広まっていくのがわかりました。

この前に、もう又平は絵師としては認めてもらえないと絶望の中で、夫の代わりによくしゃべっていた女房おとく(猿之助)もこうなれば夫と一緒に死ぬからちょっと待ってくれという。観客は又平の夫婦愛を知っているので涙させられる。そして絵が写る。元信が虎を出したり、修理之助(高麗蔵)が虎を消して光澄(みつずみ)の名を貰っているので何かがあるであろう。

師の光信(彌十郎)は浮世又平と苗字もなかったものに土佐光起の名と印可の筆を与える。そして銀杏の前を救出にゆけと命じる。夫婦にとって二重、三重の喜びである。おとくは、節があれば吃音の又平はスムーズにしゃべれるといい又平は北の方(門之助)が用意した裃を着用し、嬉しさを胸いっぱいに舞うのである。

この日観劇した高校生の中からいつか『傾城反魂香』の「土佐将監閑居の場」だけを観ることがあったなら、俺は知ってるぞ、このご注進の背景も虎の活躍もとほくそ笑んでくれる人が出てくれるであろう。この場で顔を出す虎はかなりしょぼくれている。農民たちに追い回されて毛並みも散々で、あの虎も苦労したのだなあと同情してしまうかも。

こちらも改めて、絵師の流派を越えた物語にした近松門左衛門の捉え方を目の当たりにした。心中物もその磁場は狭いようで想像力を広げれば相当広いのである。「土佐将監閑居の場」も『傾城反魂香』の広い中での夫婦愛を描いていて、白鷗さんは、その狭さから飛び出す虎のような人間性を現わされ、猿之助さんは、そのきっかけを逃さない女房としての腕の見せ所を押さえられた。昼の部は初心者でもわかりやすく、歌舞伎のエッセンスも充分味わえる。

歌舞伎座三月『女鳴神』『傀儡師』

女鳴神』(龍王ケ峰岩屋の場)は、<女>とあるので『鳴神』の女性版ということであるが軸は同じでも大きく入れ替えている。鳴神尼は、織田信長に滅ぼされた松永弾正久秀の娘・初瀬の前である。舞台が開き『鳴神』と違うのは、鳴神尼が姿を現しているのと、滝のそばの崖の途中に祠があることである。鳴神尼は父の遺言である信長を倒し、松永家再興を一心に祈っている。そのため、家宝の「雷丸(いかづちまる)」を祠に納め、大滝に世界中の龍神龍女を閉じ込めて雨を降らせなくし、世の中を乱して信長を討とうというのである。

 

鳴神』の場面設定は京都の北山ですが、『女鳴神』は奈良のようで、鳴神尼のもとの名前は初瀬の前といい大和に関連づけている。弟子たちも白雲尼、黒雲尼と尼で、当然龍神らを解き放つ役目は男性で雲野絶間之助である。仕掛ける絶間之助は鴈治郎さんで、それに惑わされる鳴神尼は孝太郎さんである。

 

鳴神尼は落飾する前、初瀬の前の時許婚がいたのである。絶間之助は自分には生き別れた恋しい人がいると語り鳴神尼の興味を引きつける。その人の名は初瀬の前と告げる。完全に鳴神尼は許婚と間違ってしまうのである。そしてやっと会えたと夫婦の盃をかわす。いや嬉しやと恋に身を崩していく鳴神尼の見せどころである。

 

絶間之助はそっと庵から抜け出し、祠から「雷丸」を奪い、しめ縄を切り、龍神龍女を解き放つのである。きらびやかな複数の龍が登って行く。絶間之助は初瀬の前の許婚によく似た信長の家臣だったのである。主君信長の命により鳴神尼をおとしいれたのである。許して欲しいという気持ちで花道を去る絶間之助。

 

長唄が入る。ここの音楽が観客の気持ちを高めていき効果的である。終わるとだまされた鳴神尼はすざましい形相となっている。怒り狂う。そこへ、織田の家臣が佐久間玄蕃盛政が荒事の押し戻しで登場である。ここも『鳴神』には無い意外性である。27年ぶりの舞台のようである。ヒッチコック映画のリメイク版ではないがどう変わるか興味津々でたのしんだ。

 

今回、高校生の団体が入っていたが愛憎劇と龍神龍女が放たれるなど何となく解ったのではないだろうか。押し戻しという荒事も登場し、あの形相の鳴神尼を押さえるにはこれくらい隈取でなければ位に想ってもらえればよい。雨と雷で大道具の木の大枝も折れ曲り変化に飛んでいた。『鳴神』は今後、高校生が歌舞伎に興味をもったときには目にすることもあるであろうから、そのとき確かあの時はと思い出せれば幸いである。

 

孝太郎さんは、仁左衛門さんの立役と違い女形で、仁左衛門さんの役を継承するというわけにはいかず地味なところがあった。近頃は、女形・片岡孝太郎として独自の役者さんとしての土台のしっかりさが現れてこられている。鳴神尼と初瀬の前の気持ちにもどるあたりの色香の変化も面白かった。鴈治郎さんの絶間之助とのやりとりも『鳴神』の形よりも柔らかみがあり自然に引き込まれていく。鴈治郎さんの押し戻しもきっちり形にはまっていて驚いた。この演目どうして長い間上演されなかったのであろうか。

 

傀儡師(かいらいし)』は、当時の流行り歌や義太夫節などを人形を使って見せた大道芸人のことらしい。傀儡師は首から箱を下げていてその中に人形が入っているのであろう。小さな人形や指人形なども使ったようで、首から下げた箱が舞台となったりしたわけであろう。舞踏の『傀儡師』は、人形ではなく自分が様々な登場人物になって踊り分けるのである。清元がその様子を語るが伸ばすところがあり、単語のつながりを聴き分けるのが慣れていないと難しい。一応、歌詞は読んでおいたが、聴きながらというわけにはいかず、頭の記憶の流れで踊りを楽しむこととなった。

 

祝言をあげた夫婦に三人の子供が出来その総領息子はと順番に紹介したり、八百屋お七と吉三が出てきたり、ちょんがれ節がでてきたりと変化にとんでいる。そして知盛もでてくる。しかしそこは踊りで表すのでそうかなと思っているうちに次の場面になっていたりする。かなり高度な踊りと思えた。踊り手は幸四郎さんで、下半身の足の動きを丁寧に移動させられているように見受けられた。日本の踊りの鑑賞は難しい。