<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (2)

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (1)で、>戦前は映画の一部に能楽をとりいれることがタブーとされと、増田正造さんの文を参考にして書かせてもらったが、『歌行燈』のほうが昭和18年で『獅子の座』より10年先にできた映画である。『獅子の座』のほうは原作が能に関係している方であり、『歌行燈』は泉鏡花原作で、架空の文学作品ということもあるのであろうか。但し能楽考証として伝統芸能研究者の松本亀松さんの名前が出てくるだけであり、能楽指導の方の名前はない。仕舞の場面もあるだけに、このあたりはミステリアスである。

成瀬監督は「内務省もうるさかった頃ですからね、よくやったと思う」と言われている。芸に精進する一生懸命さが、戦中ものとして許可されたのであろうか。成瀬監督は、この後、昭和19年に『芝居道』(長谷川一夫、山田五十鈴)の芸道物を撮っている。

映画『歌行燈』は、東宝映画と新生新派提携作品である。

監督・成瀬己喜男/原作・泉鏡花/脚本・久保田万太郎/時代考証・木村荘八/能楽考証・松本亀松 / 出演 花柳章太郎・柳永二郎・大矢市次郎・伊志井寛・山田五十鈴

若手の才能ある能役者の恩地喜多八(花柳)は、名古屋公演あと、父(大矢)や叔父(伊志井)と伊勢を回りゆっくりしようと列車に乗るが、そこで、古市にあなたたちより凄い謡の師匠宗山がいるといわれる。古市に着くと喜多八は宗山を訪ねる。宗山は元は按摩で今では3人の妾もおり、周囲からはよく思われてはいなかった。喜多八は宗山の謡の浅さをしらしめ立ち去る。そのとき、宗山の娘のお袖(山田)を妾と思い「死んでも人のおもちゃに成るな」と叱責する。宗山は自分の芸を辱められ自殺してしまう。そのことにより、喜多八は父から勘当され、謡をうたうことを禁止され門づけの旅烏となる。

お袖のほうも父を亡くし、伊勢山田で芸者に出るが三味線が出来ず、芸がなければ嫌な仕事につかなければならない。喜多八の門付けの博多節の上手さから客のつかなくなった次郎蔵(柳)が、喜多八の声の良さが気に入りご祝儀の貰い方を伝授してくれ、ひょんなことからお袖のことも話してくれる。

喜多八はお袖に会う。お袖は、ある人から「死んでも人のおもちゃになるな」と言われたので、自分はそれを守りたいが三味線も出来ず何の芸もないと涙する。喜多八は宗山への仕打ちの悔恨もあり、お袖に7日間だけ仕舞を教える。この場面が重厚で美しい。鼓ヶ岳の林の木漏れ日の中での仕舞の伝授。いそいそと稽古に向かうお袖。それを迎える喜多八。新派ならではである。7日目に喜多八は去る。

お袖は、山田にも居られなくなり桑名で芸者となる。お座敷二日目に客の前で一つだけある芸の仕舞を披露する。喜多八から伝授された謡曲「海人」の一節「珠取り」の舞である。その二人の客は喜多八の父と叔父であり、お袖が喜多八から伝授されたことを聞き、父は謡をやり、叔父は鼓を打つ。それを、酒場で耳にして、喜多八が駆けつける。勘当されてから2年、全ては氷解し喜多八も謡に参加し、お袖が舞うのであった。

仕舞の舞台、練習場面、お座敷での仕舞、謡などが豊富であり、山田五十鈴さんがしっかりと男性陣について行きつつ、最後は圧倒する。「死んでも人のおもちゃになるな」の言葉を秘めての生き方もお涙ちょうだいにはならず、真摯さがいじらしい。それでいて貫禄を備えている。大きな女優さんの例えが似合う役者さんである。

泉鏡花の母は江戸育ちで、生家は葛野流の鼓の家であり、兄は能楽師である。

古市は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』の舞台でもある。古市の廓・油屋で孫福斎宮(まごふくいつき)が起こした刃傷事件を、歌舞伎にしたものである。歌舞伎では、主人公・福岡貢とその恋人油屋の遊女・お紺の話となるが、二人を弔う比翼塚が、大林寺にある。伊勢に旅したとき寄ったが、歌舞伎で想像するような昔の面影は街には残っていなかった。

最後に増田さんの文から伊藤監督が『歌行燈』を意識したかもしれない一文を紹介して終わる。「雨の上がった夕焼け。「母の情けありがたや」と、「小袖曽我」を謡う父子交流のラストシーンは、「田中絹代を画面にだせ」という松竹側と、「それでは新派劇になる」という監督との間に、はなはだしい論争があったという。」

 

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (1)

今、能を題材とした映画で思いつくのは、『獅子の座』と『歌行燈』である。

『獅子の座』(昭和28年)は、宝生流の15代と16代の子供時代を中心にその周囲の動きを題材にした映画で、国立劇場あぜくら会の集いで見ることができた。5、6年前なので解説者(増田正造)やゲスト(茂山忠三郎)のかたの話は記憶に残っていないのであるが、資料として貰った増田正造さんの一文は映画ファンにとって大変興味深いものである。

監督・伊藤大輔/原作・松本たかし(初神鳴)/脚色・伊藤大輔・田中澄江/音楽・団伊玖磨/美術・伊藤熹朔

出演  宝生彌五郎・長谷川一夫/妻久・田中絹代/息子宝生石之助・加藤雅彦(現津川雅彦)/義妹お染・岸恵子/幾太郎・堀雄二/幾右衛門・大矢市次郎/与兵衛・伊志井寛

伊藤監督は、幼い頃から能が大好きで、能を主題とした映画を作りたかったが、戦前は映画の一部に能楽をとりいれることがタブーとされ、やっと戦後実現したが、能に溺れすぎて熱くなりすぎ「失敗作」と語ったそうである。能の敷居はそれだけ高く、無闇に能の世界を外に持ち出すことはタブーだったのであろう。映画の中で、絵を描くためにと頼まれて能の形を見せ破門になる弟子も出てくる。伊藤監督は能を難しく考えている映画の観客のため「羽衣」「忠信」「石橋 連獅子」を選ばれ、能に関心を持って貰いたいと考えた。観客に迎合し過ぎたと思い失敗作と思ったのであろうが、興行成績は大成功であったようで、配役からしても、映像になったことのない能の世界であるから想像はつく。

宝生家の二人の息子を巡る内紛と16代目宝生九郎の雷嫌いは有名な話らしのであるが、雷嫌いは大きな問題へと発展するが、内紛は映画を見た限りではテーマとなってはいない。

15代宝生流宗家彌五郎は、一世一代の勧進能を催すことになる。この能には将軍徳川家慶が上覧し、江戸庶民も観覧できるのである。ところが、長男の石之助は雷嫌いで、親子で舞う「石橋 連獅子」の時雷雨となり、石之助は舞台に対するプレッシャーと雷の恐怖から楽屋を逃げ出してしまう。彌五郎は事の次第から切腹も覚悟するが、石之助は弟子に見つけ出され、無事舞い終えるのである。

ここまでの間に、芸の鍛錬の厳しさなどが描かれる。彌五郎の妻久は石之助に無事大役を果たして貰いたく厳しさをが増す。確か水を満杯にした<桶>を頭の上に乗せ水をこぼさない様に摺り足を練習させる場面もあったように思う。神経質な石之助は益々萎縮していき彌五郎も見かねて久に注意したりするが、舞台の成功を祈り水籠りなどもし、あくまで子を思う母の気持ちは変わらない。その気持ちを、彌五郎は舞台の終わった夜、屋根の上で石之助に語り親子の絆は一層深くなるのである。

長谷川一夫さんは、父・彌五郎の優しさと切腹を覚悟する芸道に殉じる気持ちを表し、それと対称的に田中絹代さんは盲信的に息子の成功のために鬼となる母性を押し出した。芸を引き継ぐ環境の中で、息抜きの場所を見つけたり、逃げたりする石之助の津川雅彦さんは子役の頑張りである。石之助を見つけ出す弟子幾太郎の堀雄二さんは、久の妹のお染の岸恵子さんの頼みで羽衣の能の形を見せ、それをお染が描き、許しもなく芸を披露したことのために破門となる。見ていてまずいことになると分かるが、岸恵子さんのような美し人に頼まれると嫌とは云えないのもわかる。白黒であるが、着物や能衣装の美しさが際立つ。

増田さんは、「この映画は、宝生流一門と、能楽界の総力をあげての協力の記録でもある。」と書かれている。増田さんの「映画『獅子の座』によせて」の一文は映画好きにはワクワクさせる内容で、映画『獅子の座』を思い出させる大きな手助けとなった。

 

<桶>の連想伝達

能 『融』の潮汲みの<桶>からすぐ連想が移ったのは、『義経千本桜』の「すし屋」のすし桶である。

いがみの権太の父・弥左衛門は、梶原景時の詮議の帰り道、一人の若侍の亡骸に出くわす。弥左衛門は何を思ったかその首を持ち帰る。もしものときには、自宅にかくまっている重盛の子・維盛の首として差し出すつもりなのかもしれない。この亡骸は、討ち死にした維盛の家来・小金吾である。すし屋の自宅に帰り弥左衛門はその首を、すし桶に隠す。

その前にいがみの権太は、父親の居ない間に、母に銀三貫目を無心してまんまと手に入れ、父親の帰りを知ってすし桶に隠すのである。どのすし桶に、お金が入り、首が入っているか、観客は知っている。

すし屋の娘・お里は維盛に思い焦がれている。そこへ、維盛の妻・若葉の内侍と子・六代がたずねてくる。お里は父の意思どうりこの親子を逃がしてやる。その様子を見ていたいがみの権太は弥助が維盛と知り、お金の入ったすし桶を持って訴人すると駆け出すのである。しかし、このすし桶には、小金吾の首が入っているのである。観客は知っている。ありゃりゃ!である。さらに、七三でいがみの権太はすし桶を抱えて見得を切る。拍手しつつも、お金でないことに気が付いたいがみの権太はどうするのであろうかと気にかかる。このからくりの一部を、それも見得を切らせて見せて、次の展開で、「ここまで推測できた、あなたは」と問いかけられてもいるのだと、何回か観て思った。このすし桶を間違えたことが、いがみの権太の運命を左右し、どんでん返しとなるのである。

芝居としては見せない部分である。すし桶を開けて、そこに首を見たいがみの権太は驚き、理解する。父が維盛を逃がし、梶原景時に維盛の首としてこの贋首を差出すのだと。しかし、内侍若君をどうするのだ。この時、いがみの権太の女房・小せんが、親に対する孝行は今しかないと自分たち母子が身代わりになることを申し出る。

維盛の首を持ち、内侍若君を引っ立ててのいがみの権太の登場である。上の見えない部分は後で父に刺されての死に際の権太の語りで分かるのである。権太の語りを聞きつつ観客は巻き戻しをして、あの時は、そういうことだったのかと自分の見方の不足部分を補うのである。そうして涙するのである。もしくは、もう一度見て、ここでこうなるのだが、やはり見抜けないのは当たり前などと納得したりするのである。ジェームス・ディーンの「エデンの東」での、父にも母にも受け入れられない若者の姿が浮かんだりする。

それだけに、いがみの権太の家族の場面が重要になってくる。女房小せんは夫いがみの権太に惚れている。世間から悪く言われ爪弾き者であるが、時として見せる夫の愛嬌に本心の一部をみているのであろう。だからこそ、身代わりになれるのである。そうすることによって、夫は父親から認められる。ここは、貴族でもなく、武士でもない、一般庶民の心意気である。

歌舞伎には首実験の場があり、それが贋首であったりして、話のどんでん返しとなるのである。戦の場合大将の死は一番戦意喪失させることであり、勝利への近道である。それだけに、本物なのかどうかは重要なことである。本当に死んでいるのかどうか。『熊谷陣屋』『盛綱陣屋』は、贋首によって武士の主従関係、親子関係にスポットライトを当てる。時代性と武士の世界観からの首桶である。

 

能 『融(とおる)』

かなり年数が経っているが、能『』を録画してあった。喜多流で前シテ・老人と後シテ・源融は友枝昭世さんで、ワキ・旅の僧は宝生閑さんである。清凉寺は光源氏のモデルの源融の山荘であったとされるが、この清凉寺には、国宝の釈迦如来立像があり、この釈迦如来を模刻したものを清凉寺式釈迦如来としている。

京都に魅せられて通った2002年の月刊「京都」の雑誌に、当時、紅葉と秋期特別拝観とライトアップの組み合わせを考えたらしく数枚の付箋がついていて清凉寺の釈迦如来も、その年の特別公開で見たらしい。京都大好きの職場の友人の影響で、過去の月刊「京都」お勧め月号を持参してもらい、ああじゃらこうじゃら策を練った頃である。その時、源融を知り、能『』も知ったような気がする。

その頃は、「そうなのだ」程度であったが、今回もう一度録画を観直して融の世界が見えてきた。司馬さんの都人の陸奥(みちのく)への憧れの文章の力が大きい。

源融は政界での抗争に敗れ、下々から見れば優雅であり贅沢であり風雅である生活を送る。能に出てくる旅の僧を通じて、追体験をする事とする。

仲秋の名月の夜、源融の別荘河原院跡に東からやってきた僧が休んでいると、潮汲みの老人があらわれ、潮汲みとはおかしいというと、老人は、ここは昔融の邸宅があり、陸奥の塩釜浦を模した庭があり、毎月難波から海水をはこばせ塩を焼いて遠く陸奥を思い描き楽しんでいたことを伝える。そのとき前シテの老人は天秤に下げた前桶の握っていた綱をすっと離す。桶が舞台床すれすれに落ちて揺れる。時間を少しあけて後ろの桶も落とす。動きの少ない能だけにこの動きと桶のゆれるのがはっとさせ、ゆらゆらと気持ちをゆったりさせる。そして、今までその動作が長いこと必要がなく、やっと日の目をみるといったような老人の心の内を感じるようである。老人は、紀貫之がこの場所で詠んだ歌も披露する。

君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくて見え渡るかな

この庭を継ぐ人もなく跡だけとなったが貫之には見えていたのである。こちらも、紀貫之を通して、この老人を通してかつての融の眺めた陸奥の風景が紗のかかった感じで見えてくる。その老人は、舞台前方の先端まで進み、舞台の下の空間から海水を汲み採り、すうっと橋懸りの奥へと姿を消すのである。旅の僧は、融が潮汲み老人となり、何もかもが無くなっている現世をなげいていたことが分かる。その夜、僧の夢の中に美しい貴公子の融があらわれ、月の光の中で優雅に舞い、かぐや姫のごとく月の世界に消えていくのである。

塩を焼く煙たなびく塩釜浦を模した庭。それを楽しんだ河原大臣。その跡に立つ紀貫之の歌のこころ。その後に登場する、劇中の僧と融の亡霊。一つの空間に異次元同士でつながっている。その重なりを観客は観ている。

陸奥(みちのく)の宣伝マン、源融の詠った歌

陸奥のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れんと思ふわれならなくに

司馬さんが引用した「新潮日本古典全集」の訳 ”陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、あなたならぬ誰かの求めのままに身も心もゆだねてしまうそんな私ではありません”

この時代の歌の連想ゲームは、現代のゲーム感覚では到底かなわない教養と知性が必要だったようである。

能 『』が、どうやら自分に近づいてくれたので、何か月も借りっぱなしの、能 『求塚(もとめつか)』の録画DVDを頑張ってみる。途中お茶タイムなどを入れ、なんとか観終わる。これで返せると安堵する。『』のように、もう一度みようと思う日がくることを願うが、大作すぎて別枠に奉ってしまった。

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』

司馬さんは、誘いの上手なかたである。『白河・会津のみち』も「奥州こがれの記」から入る。平安時代の貴族たちが如何に奥州・みちのくを恋焦がれていたかということから書き始めている。このみちを読むのは二回目であるから、はじめは今回のような誘いの手に乗らなかったわけである。

宮城野」と「仙台」では受ける印象が全然ちがう。「仙台」といえば、伊達政宗を連想する。

福島市は「信夫」で司馬さんは「この時代のひとびとがきけば、千々みだれる恋の心に、イメージを重ねる」と書いている。ここには「信夫捩摺(しのぶもじずり)」(忍摺・しのぶずり)と都で呼ばれていた乱れ模様の絹布があって、「その染め方は、みだれ模様のある巨石の上に白絹を置き、草で摺って、模様をうつし出したといわれる。」

イーハトーボの劇列車」では、紫根染めをしている西根山の山男が、その技術を認められて東京に行く列車に乗るのだが、送られてきた汽車賃を使い果たし、サーカス団に加わるのである。この設定は面白い。井上さんの岩手であろう。

司馬さんは、この奥州への憧れの代表として、源融(みなもとのとおる)を出す。嵯峨天皇の皇子であり、光源氏のモデルと言われている人である。今の嵯峨野にある清凉寺がもと源融の山荘で、東本願寺前にある渉成園が別荘河原院でその優雅さから「河原大臣(かわらのおとど)」と呼ばれたりもした。河原院は奥州塩釜を取り入れてつくられたいう。現在、公開されているが、当時の面影はないそうで、わたしも行ったが庭の知識がないため特別河原院の感慨はなかった。入ってすぐの石垣のほうが興味深かった。そして宇治の別荘はのちに平等院になるのである。源融は能「」にもなり、旅の僧が六条河原院の跡で休んでいると一人の潮汲みの老人があらわれ、ここは昔、融の大臣が陸奥塩釜浦の風景を写した庭を造り、難波浦から海水を運ばせ塩を焼かせたと話す。この老人は融の亡霊であった。再び夢の中に現れ名月の光の中で舞うのである。

次に平将門の先祖が出てきてさらに義経と馬が出てくる。騎馬集団を指揮する天才である。それまで一騎打ちであった戦に対し、集団で奇襲をかける。歌舞伎で追われる義経であるのは、舞台に義経の騎馬集団を持ち込むことが出来ないのと、琵琶法師や浄瑠璃などの語りを聞いていた大衆の下地を上手く使って演劇化していったような気がする。勝利者はいらないのである。

みちは白河の関へと行き、会津へと入ってゆくのであるが、白河では、思いがけない人について書かれている。山下りんさん。ロシア正教の聖像画(イコン)を描かれた女性である。茨城県笠間の生まれで、笠間はかつて領主に浅野家の時期があり浅野家が播州赤穂に移って4代目が浅野内匠頭長矩である。山下りんさんのイコンはどこであったか忘れたが見た事がある。信者にしては、どこか物足りない。そんな思いで見た記憶があるが、このかたは絵筆を持ちたかったのである。ところが、没落下級藩士の子で絵などそれも女子が学べる環境ではない。しかし、りんさんは上京する。絵のために意に添わなくても彼女は絵筆を持ち続けた。ロシア正教はイコンに対し描き手の感情移入は許さない。その法則の中で縛られて描くのである。白河ハリス正教会の聖堂正面にあるキリスト像と聖母マリア像は山下りんさんの作でほかのものとは少し違うらしい。どこかでは、自分を出されていたのであろうか。

会津には、徳一という学僧がいて、最澄と論争したらしい。徳一は古い奈良仏教で最澄は新しい平安仏教で、かなり執拗に最澄を苦しめたようだ。面白いのは、空海と最澄を次のように比較している。「空海の場合、徳一の論鋒をたくみにかわし、むしろ徳一を理解者にしてしまったところがあり、このあたりにも、最澄の篤実さにくらべ、空海のしたたかがうかがえる。」最澄のほうが空海より保護されており、最澄のほうがしたたかと思っていたので司馬さんの見方が新鮮であった。このことがまた、「イートハーボの劇列車」を観た時、父と賢治の論争がこのことと重なった。

会津若松市に入る。井上ひさしさんの言葉に対する司馬さんの考えが出てくる。

<「会津は東北じゃありません」と、私にいったのは、山形県うまれで仙台育ちの井上ひさし氏だったが、そのとき大げさでなく息が止まる思いがした。そういわれるてみると、会津は藩政時代を通じて教育水準が高く、そのぶんだけ土俗のにおいがしない。>

この後、会津のこと、松平容保のことなどが展開してゆく。

内田康夫さんの『風葬の城』は、会津漆器の職人が殺される。大内宿や近藤勇の墓が出てくる。そして犯人はだれか。事件が解決し、浅見光彦は母雪江から、会津葵のお菓子を買って来るよう言いつかる。こちらのお菓子にも興味ひかれる。

こまつ座公演 『イーハトーボの劇列車』

宮沢賢治は、凄く宗教的ストイックな感じがして苦手であった。若い頃、作品に触れたが童話も詩も「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ・・・」のストイックさがインプットされていて、周り道をするような、簡単に考えてはいけないような、素に触れられないような感じである。井上ひさしさんは、誘い方が上手く、笑わせながらも、幾つかある本質の少なくとも一つは表してくれるので、この公演を観劇できて幸いであった。アレルギーが弱まったようである。

ただ、観劇の前に映画『宮沢賢治 その愛』をDVDで見ておいた。賢治さんは短期間に色々なことを実行され挫折し、また始めているので、その苦悩も生き方もその一つ一つを追っていくと、こちらも混乱をきたすのである。映画は見ておいて良かった。映画自体も面白かった。

『宮沢賢治 その愛』 監督・神山征二郎/脚本・新藤兼人/賢治・三上博史、父・仲代達也、母・八千草薫、妹トシ・酒井美紀、弟清六・田中実

賢治と父との葛藤。宮沢家は古着屋・質屋である。その家業が貧しい農民からさらに搾取しているとして賢治には納得できない。さらに、浄土真宗の父と法華経信仰の賢治は対立する。詩や童話を書きつつも、実行あるのみと、農業にも従事する。さらに、農業の生産性の肥料の研究、それだけではなく農業労働をするものにとって芸術も必要であると、音楽を聞かせたり、演劇もとりいれたいと、自分の理想を実行していく。しかし、その資金は父親から出してもらうのである。その負い目と宗教的観点から菜食主義で、米に塩の生活である。のちに宮沢家は家業を金物業に変えている。実際には弟の清六が質・古着商をやめ、建築金物・電気機械の販売を始めている。一番の理解者は妹のトシである。賢治より2歳下で日本女子大に進み、兄の言わんとしていることが解るのである。ところが、トシは25歳で肺結核のため亡くなってしまう。妹トシの死は、賢治の作品や生き方に大きな影響を与えている。そして、賢治は39歳で生を閉じる。母に「そんなことをしていたら死んでしまいます。死んだら何にもならないでしょう」と言われ、最後に父には「賢治、おまえはたいしたもんだ」と言われ、家族の情愛を受けての賢治自身の<その愛>でもある。

これだけの流れが解れば、井上さんの本の芝居はまず台詞を楽しむことである。『イーハトーボの劇列車』は賢治を中心とした一つの宇宙である。現実には、賢治は仲間に入ろうとするのであるが賢治の理想は受け入れられずはじかれることも度々である。劇中では、他の人が賢治に自分の生き方や考えをぶつけることによって、賢治がそれに答えていき、賢治の考え方を理解する形となる。悲しい結果にはなるが賢治が理解出来る生き方の人、考え方が自分と違う人もいる。井上さんは明らかに生き方も考え方も違う登場人物に対し、笑いをもって<なんかちがうな、それでいいの>と疑問をなげかける。その人の筋が通っていればいるほで、どこかでほころびてくる可笑しさ。

賢治と父の宗教論争は、それをやるんですかと恐れ入ってしまった。でもそこはそこ、論争にハエが加わる。父は邪魔ものとしてハエを叩き潰そうとする。それは、賢治の宗教観をも、論破することと一致している。賢治は父の質問に答えつつ、いかにそのハエを逃がしてやるか、様子をうかがっている。答えることが目的ではなく、ハエを逃がすことのほうが重要なのである。この設定も賢治の生き方を違う意味で照射させている。このあたりが、井上さんの二重に面白いところである。賢治は父の誘導にはまってしまい、再び花巻に帰ることになる。この花巻から上野までの何回かの列車の旅は、賢治にとって、人との触れ合いの場であり、死にゆくものたちの一瞬の光を受ける場でもある。

賢治は自分を<デクノボー>であると告げる。そして、自分に頑強な肉体があったら、立派で強い日蓮上人を求めたであろうが、頑強な肉体ではないからデクノボーの日蓮上人でいいのだと言い切る。あくまでも弱い立場の方に自分を置いているのである。そして皆と一緒に「イーハトーボの劇列車」に乗るのである。この<ボ>はデクノボーの<ボ>のような気がしてきた。

歌は比較的少ない。その分、台詞が面白い。風の音がすると「風の又三郎」などがふうっーと浮かぶ。それと岩手弁が文字ではなく音となって伝わるのが心地よい。宮沢賢治の作品も音読があう作品である。宮沢賢治は周囲の思惑を考えに入れない強引さもあったようで、ストイックでありながら、やられっぱなしではなく、また進み、人として偏屈なところもあり安心した。

井上芳雄さんの賢治は、野畑の中を這いずりまわる賢治ではなく、どこか、遠くをみつめつつ人と争わず自分の理想を置き土産としておいていくような、疲れた少年や人々を共に連れ立ってふうっーと消えてゆくような賢治であった。

作・井上ひさし/演出・鵜山仁/演奏・荻野清子/出演・井上芳雄、辻萬長、木野花、大和田美帆、石橋徹郎、松永玲子、小椋毅、土屋良太、田村勝彦、鹿野真央、大久保祥太郎、みのすけ

 

 

十月 歌舞伎座『義経千本桜』 ・ 国立劇場『一谷嫩軍記』『春興鏡獅子』 (2)

内田康夫さんの推理小説に『風葬の城』がある。内田さんの推理小説に手がいくのは、行った場所、行きたいと思っている場所の名が出てくるからである。<風葬>は会津を思い出させた。戊申戦争では、死者達の埋葬を許されなかったのである。小説を読んだ後、司馬遼太郎さんの『街道をゆく 33 白河・会津のみち』を読む。義経のこと、佐藤継信、忠信兄弟のことも出てきて芝居にエッセンスを振りかけてくれた。

『道行初音旅』は『吉野山』ともいわれる舞踏である。『大物浦』が重々しい心理劇も担っているので、気分を変え、京から満開の吉野山への静と忠信(実は狐)の道行である。藤十郎さんと菊五郎さんがおおらかに踊られる。義経は大物浦から九州にむかうが、吉野に逃れてくる。その義経のもとへ行こうとしているのである。ここで忠信の兄継信が屋島で、平教経の放った矢を義経の身代わりとなって受けて死ぬ、戦話も展開される。あくまでも踊りの形で見ている側もそうであったかとうなずく感覚である。江戸時代の人は平家物語など熟知していて、そうそうそうなのよ!の感覚だったのであろう。

『木の実』『小金吾討死』『すし屋』は、どんでん返しの庶民の悲哀となる。武士の話に庶民を主人公とする話もきちんと入れるところが、何とも心にくいところである。奈良の下市村のすし屋の弥左衛門は平維盛を奉公人弥助としてかくまっている。勘当されているすし屋の息子・いがみの権太は、維盛を尋ねてきた妻・若葉の内侍、若君の六台、家来の小金吾からお金をだまし取り、若葉の内侍親子と維盛の首を頼朝の家臣梶原景時に差し出してしまう。

それを知った、父親の弥左衛門は息子・いがみの権太を刺してしまう。実は、差し出した維盛の首は家来・小金吾の首で、若葉の内侍親子は、自分の妻と息子なのである。仁左衛門さんは今回は、要所ごとに自分の心の内を表にだした。自分の妻と子供を差し出すところは、ここは捕り手の松明の煙が目に染みると涙を隠すくらいであったが、その前にも辛さを表情にだし、花道を去る妻子にすまないという気持ちを出している。これで維盛親子を助けられる。親父に親孝行が出来ると喜んで「とっつあん!」と振り向いた時、事実が分からない弥左衛門は権太を刺すのである。ここから権太の嘆きが始まるのであるが、悪事を企む権太と、情を見せる権太の入れ代わりが、一人の人間の表裏の切なさとなるような変わり方であった。

『熊谷陣屋』で義経が<一枝を切らば一指を切るべし>と敦盛を助けろと熊谷に命じたように、梶原が褒美に与えた陣羽織には維盛を出家させるようにとの暗示が隠されていた。どちらも死んだという風聞は必要なのである。生かすとなると誰かが犠牲にならなくてはならない。そのあたりも組織の非情さがうかがえる。

奈良から観光バスで吉野に向かう時、ガイドさんが「この先にいがみの権太の住んでいた場所があります」と説明してくれた。モデルとなるようないがみの権太が実際にいたらしい。下市村あたりだったのであろう。それにちなんだすし屋さんもあるらしい。驚いた。

『川連法眼館』は狐忠信の畜生でありながら、親を思う情愛を見せる芝居である。知盛が吉衛門さん、義経を梅玉さん、静御前を藤十郎さん、いがみの権太を仁左衛門さん、狐忠信を菊五郎さんと、『通し狂言 義経千本桜』として通したわけである。『川連法眼館』は年齢的にみて菊五郎さんには負担過ぎる動きだったのではないだろうか。今回動きに捉われて情愛が薄くなったのが残念であった。飛び込んだりとかの動きを少なくしても、情愛がでれば、それはそれで芝居として面白いと思う。忠信として、団蔵さんと権十郎さんに挟まれ引っ込まれる時の立派さからすると、違う方法もあったのではと考えてしまった。団蔵さんと権十郎さんも出は少ないがきちんと役を作られるので出が楽しみである。

国立の『春興鏡獅子』は染五郎さん。美しい品のある弥生である。もう少し身体に貯める部分も欲しかった。獅子はシャープで切れの良さが魅力的であった。

 

 

 

十月 歌舞伎座『義経千本桜』 ・ 国立劇場『一谷嫩軍記』『春興鏡獅子』 (1)

今月は大御所達の登場である。歌舞伎での義経は控えめである。考えてみると不思議である。兄頼朝に追われる身になってからの義経を描いていて、あくまでも控えめな気品ある義経である。『勧進帳』などは、ずうっと控えている。動きの少ない中で、いかに気品を出すかが義経役者の芸である。『勧進帳』は能を取りれているが。今回は鳥居前は菊之助さん、国立は友右衛門さんで押さえられていたが、なんといっても、梅玉さんであろう。

『一谷嫩軍記』の陣門で熊谷直実の子・小次郎が花道から走り出てくる。梅玉さんが小次郎よりも数倍の年齢であるのに小次郎で出られたときがあった。年齢に関係なく小次郎であった。その走り方、若者のはやる心の表し方、これが歌舞伎の芸なのだと思わされた。今回は染五郎さんであったが、その形は成りきれていなかった。そこが歌舞伎の不思議なところなのである。

義経は天皇から初音の鼓を賜る。この鼓を義経が打てば、兄頼朝を討つことを意味するので、義経は自分の後を追ってきた静に形見として与え、ついて来ることを禁じる。その場所が伏見稲荷で狐と関連する場所でもある。この鼓の皮となった狐の子供が親を慕い、静を守る家臣佐藤忠信に成りすますのである。<鳥居前>での弁慶は義経に、鎌倉側の軍兵を殺した事を叱責されオイオイと泣き、忠信も狐が化けていることが分かるような派手な勇壮な姿である。近頃、亀三郎さんと亀寿さんがキラと光始めている。松緑さんもこの年代の舞台を締めている。

<渡海屋><大物浦> 平知盛の義経への復讐劇である。義経たちは九州へ逃れるため渡海屋で舟の出を待っている。死んだはずの知盛は生きていて、舟宿の主人・銀平となって、義経主従が船出したなら殺そうと待ち構えていた。知盛はさらに、死んだ知盛の亡霊がやったことにするため銀平から知盛に変わるときは白装束である。この知盛は吉右衛門さんの当たり役で、世話的銀平の柔らかさから亡霊知盛へ。しかし、義経を討つこと叶わず失敗に終わり、悲壮感と平家一族の悔恨とを碇を体に巻きつけて海に身を投げ出す場面は、今この場で平家のあらゆる感情をこれ以上この世に浮かび上がらせはしないと、全てを海に沈め、同時に鎮めるほどの迫力がある。いつもながらの大きさである。安徳帝を義経が守る約束をしてくれ、銀平の妻・典侍局(すけのつぼね)も先に自害。芝雀さんも舟宿の女房と帝の乳人との変化を上手く出していた。

『熊谷陣屋』の熊谷の妻・相模の魁春さんもやはり安定している。こちらは武士の妻であるが、思いもかけなかった自分の息子の首を突然見せられるのである。女は陣屋に来てはいけないと言われていながら、息子小次郎の身が心配で来てしまう。夫からは、敦盛の首を討ったと聞き、涙しつつも一縷の安堵の気持ちはあったであろう。それが一変する。熊谷も敦盛の話をきかせつつ、若者の戦での悲壮の死を伝え、事実が分かった時の妻の動揺を押さえたいとおもったであろう。その辺の幸四郎さんの押さえも大きく、自分以外の人間全てに悟られまいとする心のうちが、いつもより息つぎが穏やかでかえってよく伝わってきた。

今回、歌舞伎座と国立を一緒にしたのは、見ていて戦という中での人間の嘆き悲しみが、どちら側も同じであったからである。主従関係。敵味方。どちらにも抜き差しならぬ悲劇の塊である。

 

旧東海道・川崎宿から神奈川宿

10月1日に 「東海道川崎宿交流館」 が出来たと情報を得たので行ってみた。品川から川崎へは歩いていないので気になっていた。JR川崎駅から10分、京急川崎駅から5分位のところにある。その手前に砂子の里資料館があったが、帰りにと思ったが時間が閉館時間を過ぎ寄れなかった。

品川から川崎の間には<六郷の渡し>があった。ここを流れているのが多摩川である。江戸時代に橋が架けられたが洪水で度々流されてしまうため渡しとなった。今は六郷橋があるらしい。奥多摩からずっとつながっているわけである。川の流れのわかる地図が必要である。歌舞伎に女形が七役つとめる『お染の七役』に、土手のお六がある。悪女で、出の大事な役である。なぜかその悪女を思い出してしまった。京急に六郷土手駅があり近くに黒い色の六郷温泉がある。

交流館で販売していた「広重東海道五拾三次」では、川崎は<六郷渡舟>で多摩川の下流は六郷川と呼ばれたとある。絵の中はお天気もよいから富士山も見え舟上の旅人ものんびりしている。

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川崎宿にもどるが、ここの万年屋(茶屋のちに旅籠)の名物に「奈川茶飯」があり、大豆、小豆、甘栗を入れて緑茶の煎じ汁で炊いたもので「東海道中膝栗毛」の弥二さん、喜多さん」も食している。作れないこともない。この万年屋には幕末には、ハリスも泊っており、次の日川崎大師に行っている。

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芭蕉は「奥の細道」からもどり、最後の故郷伊賀への旅の途中、川崎のはずれで弟子たちと別れをおしみ歌を詠む。 「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」。麦の穂をたよりとするとはなんとも力ない様子である。江戸をたったのが元禄7年(1694年)5月でその年の10月には亡くなっている。

川崎には、本陣佐藤家に生まれた詩人の佐藤惣之助さんがいる。「赤城の子守唄」「六甲おろし(阪神タイガースのうた)」等もつくられている。坂本九さんもここの生まれで、京急川崎駅には電車が近づくと「上を向いて歩こう」が流れるそうである。

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映画「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」で杉の市が師匠から、川崎までの使いを頼まれる。その時「川崎と申しますと、鈴ケ森の先の川崎でございますね」と確かめる。この聞き方が気に入ってしまった。この時代この道しかないのである。映像も白黒で勝新太郎さんが悪役で当てたのが納得いく。絶えず工夫を考え続けていたことであろう。江戸時代の道が分かると時代劇も思いがけない出会いがあるかもしれない。こちらの道はよくそれる。

神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていた。心残りはそれらしい。

「東海道かわさき宿交流館」のみで川崎、神奈川宿まで歩いたつもりとする。今後もつもりが少ないことを願うが。

「東海道かわさき宿交流館」で制作してくれた「広重 東海道五拾三次」は貴重な旅の友となりました。

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

龍王峡散策

今年の7月1日<鬼怒川温泉と日光杉並木>の小さな旅から、今度こちら方面は、龍王峡を散策しようということになっていた。今回は6人である。行くと連絡があり、全て調べてくれているのでこんな楽なことはない。当日それぞれが電車に乗り込んできて、メンバーが判明する。東武の下今市駅から鬼怒川線となりその最終駅・新藤原駅から野岩鉄道会津鬼怒川線となり、新藤原駅から一つ目の龍王峡駅で降りるのである。

春日部駅から会津田島行きに乗っているのに行先が新藤原になっている。新藤原で切り離しの車両と気が付き会津田島行きの車両に進む。下今市駅で会津若松から日光への直通電車とすれ違う。八重の桜の絵が描かれた列車でなかなか素敵である。列女がいないのでいいでわないかと言いつつ誰も写真をとらない。下今市を過ぎてから3人グループの女性が「これは日光へ行かないのですか」とあわてだした。「前の駅で乗り換えなんです。」「あの八重の電車に乗れば良かったのよ。」「次で降りたほうがいいかもしれませんね。」その前から、この列車のアナウンスの聞こえずらさを話題にしていたのである。スピーカーの性能の悪さか。マイクの使い方の悪さかと。せっかく案内してくれてもこれでは役にたたない。

龍王峡駅から散策開始である。徒歩時間3時間で予定時間は4時間あるのでのんびりである。ところが虹見の滝に見とれと五龍土神社から川の近くまで下り、渡るべき虹見橋を下から見ていながらその橋へ行く道に気が付かず進んでしまった。むささび橋でまたこちら側の道にもどるからといいことにしようと進む。そのむささび橋から見た鬼怒川の渓谷が美しい。紅葉だったら最高である。高千穂と似ている。

鬼怒川の川底は柔らかくどんどん底が削られて水位が下がっている。川辺に小さな砂浜ができている箇所もある。水の下では、人の目からは見えない動きがずっとたゆむことなく続いているのである。22000万年前からと書かれてあった。「22000年じゃないのよ。万がつくのよ。」

今年はキノコが多いらしい。キノコを見つけるのが上手な人がいて、白いキノコや落ち葉と見間違うようなキノコを見つける。キノコと言えば映画『マタンゴ』である。直球で即通じる人がいた。「特撮!」

昼食の後、雨が降り出す。木々に覆われた道を出ると雨も止む。トンネルを3つ通過。最後のトンネルは短くここから出口に紅葉が見えると歓声なのであるが。想像だけは豊かに。龍王峡駅から一つ目の駅・川治温泉駅の近くに到着。「黄金橋があるらしい。どうする!」 と登り坂があると「きらい!」 と文句をいう人が聞く。「どんなおうごんばしか見ることにしよう」 なかなかおうごんばしは現れない。おうごんばしでは無くこがねばしであった。「黄金でもせめて黄色と思ったら青!」

そこから次の川治湯元駅では、目の前を電車が発車。皆疲れていて僅かの坂も急いでのぼる元気なし。予定では1時間後の列車なので予定通りである。駅前に喫茶店があった。

雪の時期、この線で会津まで雪見の旅がよい、などと次の旅を思い描く。そして、東海道も神奈川宿まで進んだのでその次をいつにしようかと。私は、川崎と神奈川宿はパスをしている。次の保土ヶ谷、戸塚も開発された道を歩くようである。季節によっては飛ばして先へ進み、順番を変えようという話もでている。なばなの里のイルミネーションを見て、次の朝は名古屋のモーニングを食べたいとの案もある。