テレビ・『緊急対談・パンデミックが変える世界』

友人が、NHK・ETV特集『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』を視聴していろいろ考えさせられたと知らせてくれた。

再放送を探していたらPCで『緊急対談・パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』を視聴できた。三人の方が発言されていてその一人がユヴァル・ノア・ハラリで、この方の考えをもっと聞きたいという視聴者の要望があり『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』となったようである。

『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』の再放送がわかり録画して視聴した。友人の言う通り考えさせられた。そして、新型コロナを一時的にせよ克服した国があるならその情報を収集し検証する必要があると思う。科学者や知識人の考え方が必要な時期なのではないだろうか。

さらに再放送があるようなので下記参照。

Eテレ 第1回5月2日(土)午後2時~『緊急対談・パンデミックが変える世界~歴史から何を学ぶか~』 第2回5月2日(土)午後3時~『パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』

NHK BS1 第1回5月4日(月)午前10時~『緊急対談・パンデミックが変える世界~歴史から何を学ぶか~』 第2回5月5日(火)午前10時~『パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』 第3回5月6日(水)午前10時~『緊急対談・パンデミックが変える世界~ユヴァル・ノア・ハラリとの60分~』

この友人からは、4月13日NHK総合で放送された『逆転人生』も紹介された。友人を通じて連絡があったらしい。視聴したことのない番組であった。

田中宏明さんが幼い次男の異常に気がつく。そしてやっと命を救ってもらえた高橋義男医師に出会うのである。その医師の診察室には所狭しと沢山の写真が貼られていた。高橋義男医師は自分が携わったこどもたちのその後の成長を、見続けていたのです。田中宏明さんは何んとか高橋義男医師のことを世の中に知らせたいと思い、自分がかつて漫画家志望であったことからマンガで表現することにする。そして漫画『義男の空』を自費出版。

全然知らなかったので、世の中にはこんなお医者さんがいるのかと心強さをもらった。他の友人たちとも交信し合い共有しました。知らせてくれた友人にありがとう。そして、日々、命の灯りを消さないように医療にたずさわれている方々に感謝。

上野の動物園通りから清水坂に向かう左手に森鷗外さんが住んだ鷗外荘がある。「水月ホテル鴎外荘」として公開されていたが、ここも新型コロナウィルスの影響で閉じられることになった。ここは温泉でもあり、友人たちと泊って歓談したことがあった。友人に電話するとテレビ報道ですでに知っていた。泊った次の日『横山大観記念館』に寄り、そこから『旧岩崎邸庭園』へ行ったことが話題になった。そんな旅もいつ再開可能であろうか。

鴎外さんは海軍中将男爵赤松則良の長女・登志子さんと結婚する。赤松中将は19歳で勝海舟らと咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへも行った人である。ここは赤松家の持ち家であった。当時は寂しい場所で動物園のすぐそばでもあり、猛獣のほえ声にお手伝いさんが怖がったと言うはなしもある。この頃鴎外さんは東京美術学校(現東京芸大)の講師で、幸田露伴さんなどがよく訪れていたらしい。登志子さんとは離婚することになり、その後、本郷千駄木に移る。千駄木の家には後に夏目漱石さんが住む。

いつかまた、鴎外荘が公開され訪れる日のくることを願いたい。だがその前に閉じてしまうところがないように強く願う。

さてそんな話の中で、友人の知人が、すみれを持ってきてくれたと言う。そろそろすみれも終わりかけているので抜いてしまったのだが、根子のついているままガラスの容器にいれておくとまだ楽しめると花好きの友人に渡してくれたらしい。こういうのって嬉しいねと声が明るく響く。窓辺に飾って眺めている友人の姿が伝わる。こちらもそのすみれを眺めている。

追記: 友人が慢性骨髄性白血病と診断された。短い時間、身体の右側に異常があった。口が歯医者で麻酔をされた感覚で右手がしびれた感覚。すぐおさまったが次の日、脳神経内科を受診。検査ではっきりしたことがわからなかったが血液検査で数値が異常。血液の専門に回され、慢性骨髄白血病と診断された。薬のことなど色々説明を受けたらしい。急性になる前に見つけられてよかった。早期発見早期治療が医療の原則なのではないのか。新型コロナも早期発見早期待機(隔離)ではないのか。補償欲しがりません勝つまでは、いつの時代の政策なのか。

4月4バージョンの旅・C

  • C・谷崎潤一郎バージョン/ 谷崎潤一郎が住んでいた『倚松庵(いしょうあん)』と『芦屋市谷崎潤一郎記念館』を訪れたいと思っていた。できれば二箇所を一緒に。『倚松庵』の開館が土・日なので制限されてしまっていた。『細雪』の舞台となった家が残っていて公開されているのを知ったが、ここ!という意識は薄かった。島耕二監督の映画『細雪』(1959年)を観て、次女・幸子の家が倚松庵の写真に似ているのである。他の映画(1950年・阿部豊監督/1983年・市川崑監督)では気にかけなかったことである。これは行かなければ。

 

  • 島耕二監督『細雪』は、自分の中の『細雪』とは違和感があった。阿部豊監督の映画での次女・幸子役の轟夕起子さんをみているので、今度の長女・鶴子役の轟さんはどんなであろうと愉しみにしていた。かなり生活に疲れた主婦として描かれていた。DVDのケースの写真も叶順子さん、山本富士子さん、京マチ子さんの三人だけの写真である。島耕二監督の『細雪』の時、監督と轟夕起子さんは実生活ではご夫婦であり、轟さんだからこその鶴子役なのであろうかと深読みしてしまった。

 

  • 倚松庵』は、一番近いのが六甲ライナー魚崎駅から徒歩2分。倚松庵で購入した『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎 ~その棲み家と女~』(たつみ都志著)によりますと、六甲ライナーによって倚松庵は移築することになりそれまでから開館まで、様々な苦難がありました。本は読みやすい形式になっていて、谷崎作品も読んでみたくなることでしょう。こちらは映画からの引き寄せでの興味が強いのでその辺は詳しく書きません。途中に小さな公園があってそこの前に石柱が裏表に<是より南魚崎村><是より北住吉村>とあり、この辺りは、住吉と魚崎の両村の間で境界線の争いがあったようだ。そして元の倚松庵もこのあたりらしい。横には住吉川が流れている。谷崎さんも、大家さんと賃借のことですったもんだあったようでそういう因縁の土地なのでしょうか。そのことは、倚松庵の中に資料も展示されている。

 

  • 見学して意外だったのは、思っていたよりも狭いということである。小説のほうは、実物よりも広く表記されている。ただ作品で姉妹の動線を読み込まれているかたは、納得しうなずかれることと思う。これほど実際の倚松庵と『細雪』が結びついてるとは思わなかった。松子夫人を含めた四姉妹の話しであるが、倚松庵がなければ『細雪』は生まれなかった。谷崎作品は発想の斬新さや人間の奥深くにある感情をあぶりだしているが、倚松庵と『細雪』の関係から考えると、実務的に詳細に計算し、計画して設計図をしっかりと設定して書かれていたことがうかがえる。妙子が地唄舞『雪』を舞う場所が、食堂と応接間を開放して、食堂側を舞台、応接間を観客席としていた。日本間と思っていたので、これも新事実である。

 

  • 島耕二監督の『細雪』を観直した。これは、谷崎作品と距離を置いたほうが違う視点が見えてくる。映画は1959年の作品で、戦争後の考えかたが反映されていると思えた。四姉妹それぞれの経済問題が浮き彫りになっている。三女・雪子(山本富士子)は、東京の長女・鶴子(轟夕起子)と芦屋の次女・幸子(京マチ子)の家を行ったり来たりしている居候的存在である。幸子はそんな雪子の結婚相手を見つけて幸せにしてあげようと一生懸命である。鶴子は自分の家族との生活のことで、四女・妙子(叶順子)は愛ある人との結婚と経済的自立を目指す自分のことでいっぱいである。

 

  • ところが、この雪子が大人しくはなく行動的である。姉妹の経済的状況も把握していて、姉妹の間に入って行動するのである。自分の境遇も分かっていながら他の姉妹のことにも手を貸すのである。東京で、雪子は鶴子の家に来づらい妙子と外苑で会う。映画でのその建物の場所がどこであるのか気にかかるのであるが不明である。外苑にあった建物という設定であり、神宮外苑競技場のように思えるが、撮影の時は新競技場である。映画では古い感じで、二人はそこから姉の家に向かうが、古いものから出るというイメージでもあるのだ。

 

  • 鶴子は本家である大阪上本町の家を手放す立場となり、東京暮らしとなる。鶴子が東京から出て来て、売った自分たちの家がビルとなる建設現場で幸子と二人立つ。幸子はせつなくなるが、鶴子は経済的荒波を乗り越えてきているので未練を残さない。やはり轟さんが適任な役だと思えた。一番、家族や経済的に心配のない幸子が姉妹から、幸せだといわれる。それを意識していない京マチ子さん。どんどん荒波に向かう妙子の叶順子さんに対する上の三姉妹との絆は変わらない。雪子の山本富士子さんは、結婚はまだ決まっていないが、悲壮感はない。庭に降る雪が窓から見えるが、細雪ではなくしっかり積もりそうな雪である。倚松庵を思い出しつつ映画をたのしんだ。

 

  • 芦屋市谷崎潤一郎記念館』は、阪神芦屋駅から徒歩15分なのであるが今回はバス乗車。周囲に市立美術博物館、市立図書館などがあり、文化圏としているようだ。春の特別展は「潤一郎時代絵巻 ー戦国の焔(ほむら)王朝の夢ー」。北野恒富(きたのつねとみ)の『乱菊物語』の挿画があるが、これは、千葉市立美術館の『北野恒富展』でもみている。この記念館から借りられて展示していたのであるが、今回も『乱菊物語』を読んでいないのでイメージがふくらまない。北野恒富作「茶々殿」は松子夫人がモデルである。『盲目物語』は、玉三郎さんのお市の方と勘三郎さんの按摩・弥市がすぐ浮かぶ。按摩ゆえにお市の方の体に触れることができる。目はみえなくともその感触がお市の方の美しさを感知しているという世界である。勘三郎さんの台詞の声の調子は今でも残っている。というわけで、谷崎作品の世界も文字での印象からそれてしまった。

 

  • 阪神芦屋駅から徒歩10分のところに、『富田砕花旧宅』がある。この家は、倚松庵の前に谷崎と松子夫人が住んでいた家である。谷崎潤一郎記念館にあったチラシで知った。富田砕花は、新詩社『明星』に砕花の名前で短歌を発表とあり、東京の千駄ヶ谷で新詩社跡地と出会っていたので、芦屋でつながるとは。しかし、訪れてはいないので、また次にとなる。たつみ都志さんが調べられて書かれた『倚松庵よ永遠に』によると、谷崎は関東大震災で関西に移ってから足かけ21年の間に13回転居している。そのうち現存しているのが富田砕花旧宅倚松庵だけなのである。『倚松庵』富田砕花旧宅』『芦屋市谷崎潤一郎記念館』の三セットで訪れるのがよいのであろう。

 

  • 帰りはJR芦屋駅までのバスとした。芦屋川と並行する芦屋公園の間を走りテニスコートがあり、映画『細雪』を思い出す。バスはJR芦屋駅を過ぎ、ぐるっと回って阪急の芦屋川駅前を通る。映画で最初に雪子が階段を下りてくる駅である。映画のほうがすっきりしていて広かった。すぐに芦屋川を渡る。桜まつりで花見客は多いが今年は桜は終わってしまっている。島耕二監督の『細雪』には桜のお花見場面はないのである。『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎』には、この本の登場人物が芦屋市谷崎潤一郎記念館から芦屋川まで歩いて花見をしつつ阪神芦屋駅へ。阪神電車に乗り香櫨園でおり、夙川の桜をみながら阪急夙川駅までと小説『細雪』に出てくる桜をめでて歩いている。桜がなくても歩いてみたい道である。本にしおりが入っていて、ひまわりの絵の裏に「僕は向日葵が好きだなぁ」谷崎潤一郎 とある。倚松庵こだわりのしおりである。

 

でこぼこ東北の旅(1)

三月末に函館へ旅をした時の帰り、函館空港にいくバスの乗り場で「フェリー乗り場に行きますが」とバスの運転手さんに言われる。「空港にいきます。青森までのフェリー今もあるのですか。」「ありますよ。」

その言葉から、今度は友人達と函館へフェリーで集合と思い立ち、帰ってから連絡したところ即連絡した四人が参加である。

ところがきちんと調べていなかったので、検討したところフェリーは時間的に無理であった。急遽弘前集合となる。まだまだと思っているうちに旅の日となり、五人集まれるのは奇跡かもという予想をこえて無事実現したのである。

ただし、一緒の行動は、一泊二日、二泊三日、三泊四日とでこぼこになってしまったが、とにかく五人で乾杯できたことは旅の神様に感謝である。

弘前はお城などはいっても、お城の周辺を見ていない。寺町があったり、驚いたことには洋館も多い。距離的に見学しやすい<青森銀行><旧東奧義塾外人教師館><旧市立図書館><藤田記念庭園>を散策する。<旧東奥義塾外人教師館>の裏側には、弘前の洋館のミニチュアがならんでいてこれがまた建物の全体像がわかり親しみがわく。

この一画には、<市立観光館>があり中には「ねぷたまつり」の山車が展示されていて係りの人が説明してくれる。<弘前市立郷土文学館>には「石坂洋次郎記念館」があり、作品が多数映画化されており映画ポスターもならんでいる。

小説の『若い人』は、函館の「遺愛女学校」をモデルとしていて、映画では函館ではなく長崎をロケ地としているようである。函館の「遺愛学院本部」はピンクの可愛らしい建物で外からのぞかせてもらったが、劇団民藝の『真夜中の太陽』はこの学園を舞台としている。

石坂洋次郎さんの作品は読みやすいとされているが、『若い人』を読み始め途中でギブアップしてしまう。古い文庫本で字が小さく、描写がこまかく、男性教師・間崎からみた登場人物にたいしても一人一人を観察し感じた気持もかかれ、簡単におわるとおもっていたのがくつがえされてしまった。

『若い人』では、女学生が間崎も引率教員のひとりとなり東京に修学旅行にくるところがあり、宿に戻らない生徒がでて、原作と映画ではその生徒がちがっている。映画では、吉永小百合さん演じるところの江波恵子である。間崎が石原裕次郎さんで、宿から恵子を捜しに行く場面でニコライ堂が映る。御茶ノ水である。明治大学で『映画のなかの御茶ノ水』の著者・中村実男さんの無料の公開講座があり、その場面を写してくれた。そのあとDVDも見直したのであるが、江波恵子はむずかしい役である。そのことを吉永さんは『夢一夜』のなかでかかれている。ほかに吉永さんが御茶ノ水に映画の中で立たれているのは『伊豆の踊子』である。

劇団民芸には『満天の桜』の舞台があり、津軽藩二代藩主信枚に嫁いだ家康の養女・満天姫の話である。 三越劇場 『満天の桜』 こちらの探索は止ったままである。

弘前市内をみてまわるには半日では足りない。100円バスが15分おきにでているのでかなりかつてより便利になった。

次の日は金木である。私は再訪である。今回は津軽鉄道の金木駅から一つ先の芦野公園駅まで行き、そこから金木に歩いてもどる。芦野公園はひっそりとしていて桜の時期には美しいであろうと思われる桜並木がつづく。「津軽三味線発祥の地」の碑、二重マント姿の太宰治さんの像がある。芦野湖(藤枝溜池)にかかる桜松橋のつり橋は通行どめであった。

金木では定番の<津軽三味線会館>で生演奏を聴き、<斜陽館>見学である。今回はそこから駅に向かう途中にある<太宰治疎開の家>(旧津島家新座敷)での時間をとる。前回時間がなく説明を超スピードにしてもらったのである。

ここはもともとは、津島家の長男文治さんの新婚の離れ座敷としてつくられたもので、太宰さん夫婦が戦中焼け出され津島家に疎開したとき住んだのである。座敷といっても様式を含めて5部屋あり、津島家から見放された太宰さんが、疎開ということで津島家に守られた時期である。<津島家>に複雑な想いをもっていた太宰さんにとってそれはどんな想いを心にのこしたのか判断の難しいところであるが、妻にも胸をはれる優遇を受けたこととおもわれる。

この時期に太宰さんが心穏やかに多くの作品(23作品)を残したことなどを、館長さんが作品を紹介しつつわかりやすく説明してくれる。かつて太宰さんが、兄の文治さんのお嫁さんをのぞきにきた座敷でもあり、病床の母を見舞った離れ座敷でもある。今この座敷は津島家の<斜陽館>から分断され移動されて残されている。長男の文治さんの死後、津島家の斜陽がおとずれるのである。太宰さんは故郷で終戦をむかえ、ふたたび東京へもどることとなる。

弘前、五所川原、金木には豪商がいて、その住いは贅沢で大きい。太宰さんの父・源右衛門さんは津島家に養子に入っており、津島家をさらに大きくしたひとである。実家も裕福で、津島家の屋敷も自分の実家に模して造られたそうである。津島家は女系で持ちこたえる傾向がある。

 

旧東海道と『興津坐漁荘(おきつざぎょそう)』

暑さの中、一泊二日の三回の旅で元箱根から箱根峠を超えて三島へ、三島から沼津間は歩いているので、沼津から静岡(府中宿)まで到達した。天候と相談しつつであったが、喜ぶべきか、晴れに晴れてくれた。しかしJR静岡駅まで行けたのである。日本橋から19番目の宿である。旧東海道の三分の一まで来た事になる。

その旅で東海道ぞいにあった、『興津坐漁荘』について書く。

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『興津坐漁荘』は西園寺公望(さいおんじきんもち)さんの別荘である。本来の『坐漁荘』は、愛知の犬山にある明治村に移築された。その後で、興津に復元され、『興津坐漁荘』として公開されているのである。本来の『坐漁荘』に忠実に復元されているらしい。材料が吟味されていながら、これ見よがしの所が無いシンプルな日本家屋である。時間が早かったため、家屋の雨戸などを開けている途中であったのが係りの方が、快くよく見学させてくれ、もう少しすると詳しく説明できる者が来るのですがと言ってくれたが、先を急ぐ旅人ゆえ、簡単な説明で充分に堪能できた。

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『坐漁荘』は、劇団民芸の『坐漁荘の人びと』(2007年)という芝居を観て、頭の中に残っていた。西園寺公望さんという方は、最後の“元老”と言われた人で、政界を退いても影響力のある人であったようだ。しかし国の行方は彼の思うようには行かず憂いを残して亡くなられたようである。

『坐漁荘の人びと』は、昭和10年(1935年)の夏から、昭和11年(1937年)の二・二六事件を通過した、3月までの『坐漁荘』の中での使用人や警備の人々に囲まれた西園寺さんの登場である。視点はあくまで、一般の人々の目線である。

以前奉公していた新橋の芸者・片品つるが坐漁荘を訪れる。そこで、もう一度女中頭として勤めて欲しいと執事に懇願され、引き受けることとなる。新しい女中頭のつるが、奈良岡朋子さんで、西園寺が大滝秀治さんであった。

西園寺さんは、軍部に対しても物申す人で、身辺の危険が心配され、坐漁荘の中は女中と西園寺さんだけの世界である。そのため、内なる女達のまとめ役が必要であったわけである。女中頭のつるは、今までの経験を駆使して、ご主人の気の休まるような環境をと、七人の女中をまとめていくのである。

『興津坐漁荘』を見て廻ると、女性達の動線が自分の動きと重なる。兎に角、開け放たれた部屋はどこも明るい光が入り、台所も明るく、暗い場所がない。庭からの景色は風光明媚である。かつては。今は埋め立てられグランドになっていて、野球部の学生が練習に励んでいる。それもまた、主の居ない風景としては理に適っているかもしれない。戦争の足音の聞こえる時代の風景が今は、若者が好きな野球に打ち込んでいる。一部の人々のための風光明媚よりも現代に相応しい明るさと美しさである。

『坐漁荘の人びと』を観ていなければ、政治家の別荘の一つとしてしか見なかったであろう。竹が好きなようで、窓の格子も竹であるが、侵入を防ぐため竹の中には鉄棒が入っていた。そういうところも、きちんと復元したようで、中の網代や外の桧皮壁も質実剛健に見えるのが好ましい。

“元老”は西園寺公望さんが最後でよい。

作・小幡欣治/演出・丹野郁弓/出演・奈良岡朋子、樫山文枝、水原英子、鈴木智、千葉茂則、伊藤孝雄、河野しずか、大滝秀治

東海道も弥二さん喜多さんや、浮世絵の世界だけでなく、時代時代の動きを垣間見せてくれる。時には、出会った人から、市町村合併の理不尽を聞かされることもある。その話しを聴いた後で歩くと、その人の怒りがもっともに思える町並みの風景に出会うこともある。集めるだけ集めて回って来ない置き去りにされる地域が生じることもあることを知る。