映画『ゆずり葉の頃』

『ゆずり葉の頃』は、東京ではまだ公開前である。5月23日(土)~6月19日(金)岩波ホールで上映される。

映画館で手にしたチラシに、八千草薫さんと仲代達矢さんが向き合って写っており、その間に <中みね子監督デビュー作> とある。何んとこの監督さんは、岡本喜八監督夫人の岡本みね子さんである。この映画を撮影時は76歳ということで、素晴らしい監督デビューである。

八千草薫さんは、谷口千吉監督夫人でもあり、岡本喜八監督は、谷口監督のデビュー作『銀嶺の果て』でサード助監督をを務めいる。『銀嶺の果て』は原作・脚本が黒澤明監督で、三船敏郎さんのデビュー作品でもある。銀行強盗犯人である志村喬さんと三船敏郎さんが山小屋に逃げ込む。人物像、山岳映像が見る者を引きつけ雪山でのアクションはワクワクしながら見た。この時代にこんな山岳映像を撮っていたのだと驚いた。演じる方もスタッフも大変であったであろう。雄大な自然に負けない、三船さんの野性味と志村さんの情が絵になっている。

『ゆずり葉の頃』は、一枚の絵が導く過ぎし日への旅のようである。岡本喜八監督は亡くなられる前、次の映画として『幻燈辻馬車』の脚本も書かれていたが実現しなかったわけで、その礎を受けられてのことか、新たに岡本みね子さんが、中みね子監督として脚本も担当されて映画監督デビューされたのである。

岡本監督の映画『ブルークリスマス』は、SF的でありながら秀作である。この映画には岡本みね子さんも出演されている。仲代さん演じる国営放送局報道部員の奥さん役で、フランス語の習得に熱中していて、食事をしている間もヘッドホンをかけたままであるという一ひねりされた奥さんである。八千草さんも異端の科学者とされてしまう妻役で出演されている。『ブルークリスマス』はUFOを目撃してその光を浴びた人の血液が青に変わってしまい、秘密裡に権力によってあぶりだされ消滅させられてしまう話しである。SFでありながら、映画は日常的な流れの中で描かれていて、もし特殊であると規定されたら隠ぺいされ闇から闇へ葬りさられてしまう権力の非情さを感じさせる。

前半はテレビ界での話しかと思ったら、その放送界も暗躍する権力を修正する力はなく、後半は押しつぶされていく若者が主軸となっていく。見ていて話しの構成展開が岡本監督と違うなと感じていたら、エンディングクレジットに脚本・倉本聰さんの名前があり、やはり岡本監督ではなかったと納得した。若い二人が田舎の列車の停車場で途中下車をしてホームで話しをする場面は、二人の前を何本か列車が通りすぎ、時間が経過したことを表し、二人が深刻な状況であることがわかる。そのあたりを列車の動きで表すあたりが岡本監督の<動>である。この若者が勝野洋さんと竹下景子さんで、竹下さんは、『ゆずり葉の頃』にも出演されている。(「ブルークリスマス」作詞・阿久悠、作曲・佐藤勝、歌・Char)

『ゆずり葉の頃』の音楽は、山下洋輔さんで、山下さんのソロピアノが入るらしい。そして、画家の宮廻正明さんがこの映画のために、絵を提供されている。

『ゆずり葉の頃』の撮影・瀬川龍さんは、『銀嶺の果て』の撮影・瀬川順一さんの息子さんである。

ゆずり葉・・・若い葉が芽吹いた後、役目を終え、譲るように落葉することから、親が子を育てるたとえになぞられてきた。縁起ものとされ、お正月のお飾りなどにも使われている

監督・脚本・中みね子/撮影・瀬川龍/音楽・山下洋輔/出演・八千草薫、風間トオル、岸部一徳、竹下景子、六平直政、嶋田久作、本田博太郎、仲代達矢/劇中画・宮廻正明

 

 

加藤健一事務所 『ペリクリーズ』

カトケン・シェイクスピア劇場『ペリクリーズ』とある。

加藤健一事務所『ブロードウェイから45秒』 でのお店に貼られていたポスターが、今回公演の『ペリクリーズ』である。前回公演の時に訳本が売られていたので購入。観劇前日に読む。シェイクスピアと聞いただけで身構え、覚悟して読み始めたが、言葉に惑わされずに読めた。

最初は、ある国の王の近親相姦の話が出てきて、悩み多き王子が現れると思いきや、この若き領主は邪淫の父娘をあっさり捨て、争いを避け、賢き臣下の意見に耳を傾け、自国から放浪の旅へと船出するのである。このツロの若き領主が<ペリクリーズ>である。

冒険譚であり、家族愛の話でもある。筋が解り、修飾語や例えの長い台詞は少ないので、ハムレットのように悩む必要もないであろう。この話がどう展開し、どう役者さんたちは演じるのか、興味はそこに尽きる。

船で旅立ったペリクリーズは、ある国で姫を娶り、ツルへと向かうが、船は嵐に合い妻は娘を産んですぐに亡くなってしまう。乳飲み子を連れて船出するわけにもいかず、ある国の領主に娘を預ける。この娘が美しく清い心の持ち主として成長するが、それが災いし運命に翻弄される。しかし、娘は回りの人間を清めつつ自分の人生をつき進み、目出度く父と再会するのである。

ところどころで周りの状況を説明する語り部の話によると、幾つかの国がでてくるが、人の道に背いた領主は、最終的には、領民によって見放されて滅びていったようである。それは、ペリクリーズが訪ねた国である。舞台でペリクリーズは幾つかの国を訪れるわけである。それも船に乗って。

舞台措置で活躍したのが、大きな三角の布である。それが、▽ となり △ となり、役者さんたちが上手く作動して場の変化をつけていくのである。

一役なのは、ペリクリーズの加藤健一さんだけで、後の役者さんは何役かの掛け持ちである。女性人たちに限って言えば、お化粧のためもあり、女郎屋のおかみさんが那須佐代子さんとは最後まで気がつかなかった。パンフレットを見て気がついた。女性は3人しか出ていないのに見抜けないでいた。付き人役とはあまりにも違う役である。加藤忍さんは、ペリクリーズとの出会いを愛らしく演じ、その娘役は静かに嘆きつつも相手を諭しつつ突き進んでゆく。矢代朝子さんは、悪と女神の両極端を、どちらも、不可思議な信念を醸し出していた。

男性陣は、幾つかの国の、太守や、臣下や、漁師や、騎士やなどとなり、ペリクリーズがその国へたどり着いたことを表し、ペリクリーズの旅を想像させ、航海の大変さへの想像をも助ける。

紙に印刷されていたものが、このように肉付けされ、舞台化されるのかと、その立体化された舞台空間を楽しんだ。主なる役の本筋をとらえ、違う場面では、それとは違う空気の流れを起こす。そして、ペリクリーズの波乱に満ち人生とその家族愛の成就を完結するために作り上げていくのである。その中心として、加藤さんのペリクリーズは力強く進み絶望へと至り、娘に救い出される。

シェイクスピアは苦手なのである。シェイクスピアとはなんぞやというところへは行けそううにもない。めでたしめでたしである。

訳・小田島雄志/演出・鵜山仁/出演・加藤健一、山崎清介、畑中洋、福井喜一、加藤義宗、土屋良太、坂本岳大、田代隆秀、加藤忍、那須佐代子、矢代朝子

 

三津五郎さんの<眼>

歌舞伎舞台に立てなくても、三津五郎さんの<眼>で後輩たちの指導をし続けていただきたかった。療養生活が長くなることは予想できた。むしろ、ゆっくり療養されて欲しいと願っていた。

歌舞伎の舞台に立つとどうしても長期間となり健康管理も大変なので、時々漏れ聞くお元気そうな情報にこのまま<眼>だけは光らせていただければ充分と思っていた。

北陸新幹線の開通する前にと、一月末に福井まで足を伸ばし、帰りに松本城に寄ってきた。『坂東三津五郎 粋な城めぐり』を、行く前はバタバタして読み返していなかったので、帰ってから開きなるほどと楽しみ、月見櫓から眺めたお堀の風景などを思い出していた。

そして、つい先頃、三津五郎さんのお城に関する番組が放映された。三津五郎さんの生真面目さのうかがえるお城紹介であった。三津五郎さんが好きなことをされるだけの体調になられたのだと少し安心したのである。

視ていてくれるだけで、次世代の役者さんはどんなに心強かったであろう。

観客として、もちろん三津五郎さんの舞台復帰は望むところであるが、それが駄目であれば、三津五郎さんの<眼>があればそれで充分であった。無念である。 合掌。

 

ドラマ・リーディング『死の舞踏』

朗読劇である。台本を持っての台詞のバトルである。スウェーデン出身の脚本家・ストリンドベリの作で、まさしくバトルであった。バトルを繰り広げたのは、仲代達矢さん、白石加代子さん、益岡徹さんの三人である。

老夫婦の夫と妻は、お互いに反目しあっている。観客が思うにこの夫婦は相当長い時間お互いの相容れない部分の突っつき合いをしているらしく、時には、その修練の見事さで笑わせられる。 仲代さんの夫は、のたりのたりとソフトな感じで語りかけ、妻はそんな手に乗るものかと、ポンポン返してゆく。妻は自分の言葉が夫の言葉に吸い取られて雲散霧消にされないようにと警戒しつつもじわじわと攻撃を起こす。

そんな二人の間へ、友人のクルト・益岡さんが加わる。二人はクルトを自分の理解者として引きずり込むための会話へと変化させていく。何が噓で何が事実なのか。クルトは二人に翻弄される。観客も翻弄されるが、この毒気の可笑しさはどこから来るのであろうか。白石さんの気鬼迫る言葉の激しさが次第に快感になってきたりする。にこやかに噓を隠している人よりも、自分の悪をさらけ出す人のほうが愛すべき人なのかもしれない。表面を繕うことの虚しさまで感じさせるのである。

そんな妻に、夫はクルトの人生さえも掌握したように見せかけ、実はそれが噓であったという筋書きまで作るような人である。したたかに見えないでいて軽くかわす夫。それでいて、男としての威厳も主張する。

夫婦二人は、クルトを味方にしようとしていたのか、単なる二人の餌食として食い殺すことに喜びを感じていたのか。夫がなくなってからの妻の独白。夫婦の<憎>は実は<愛>だったのか。

バトルの後のワルツが最高である。

人間は美辞麗句に飾り讃えられるより本質を暴かれた方が素晴らしいワルツを踊れるのかもしれない。

『百物語』を続けられた白石さんだけに、言葉の抑揚に狂いはない。台本は手放してはいけないし、覚えていながらも台本を見続けなければならないという状況に挑戦された仲代さんは、演技が少し加わり動けるところでは、水を得た魚に見え笑わせてくれる。益岡さんは、二人の夫婦と名優に翻弄されながらも、何んとか自分を保ち、二人を客観的に見据え、自分精神と身体を静かに二人から引き離すことに成功したようである。

【 45分 <休憩> 60分 】のドラマ・リーディングは劇的で、2ラウンドが一段と白熱であった。

ラストのお三人が優雅で素敵であった。愛憎劇もかく美しく完結しえるのである。

原作・ストリンドベリ/上演台本・笹部博司/演出・小林政広

東京公演 博品館劇場 2015年2月17日~22日

新潟公演 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館  2015年2月24日、25日

 

映画『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』『月給泥棒』 

『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979年) チラシの紹介文を載せておく。

昭和18年に行われた最後の早慶戦と、学徒出陣して特攻隊員となった選手たちのその後を描く。当時の写真やフイルム映像を織り込みながら淡々と描かれる彼らの姿が、心から野球を愛した若者たちの命を奪っていく戦争の惨めさを浮かびあがらせる。英霊たちの鎮魂歌を奏でる佐藤勝のトランペットも心に沁みる。

 

岡本監督の映像の回転は速い。元気で、泣きつつ笑わせられる。理不尽な暴力にも笑いが起こる。何とばかばかしいことが、まかり通ってしまうのか。怒るはずのことを笑いとすることで、こんなことで笑わせるお前らじゃないよな、野球という場で、元気と感動を与えていたお前らだったはずなのにと監督が映像の裏で言っているようである。

大学を卒業するまでの何年かは大丈夫であろうと意識的に野球に没頭する学生たちも、戦争の状況によりそれは許されなくなる。学徒出陣を前に、何とか最後の早慶戦をやりたいと、関係者は動き実現する。映像は昭和59年の早慶戦とオーバーラップされる。映画はさらに特攻隊となった野球を愛した彼らを追う。<〇〇玉砕>の文字の入った当時のフイルム映像が戦局の経過と共に挿入される。その映像の映っている時間は短い。彼らは当時の戦局をどうのこうの言えるような考える時間などないのである。フィイルム映像の挿入とともに、特攻隊の出撃までの練習時間は短縮されて行く。

出撃を前に一人の若者が、ばかになるか気が狂うしかないという。その若者は迷う友人に、お前は何の為に死ぬのかそれを捜せ、母親ではだめなのかと投げかける。母親しか家族のいない友人は、プロ野球選手になって母を幸せにしようと考えていた。彼は、特別休暇をもらい、母のもとへ。母は空襲のため病院で、息子に看取られ息を引き取る。 野球を愛した若者たちは、野球をやっていた時の激を飛ばし合い突っ込んでいく。そこには上官などより、一緒に野球をしてきた者同士の信頼関係だけがある。戦争がなければ、プロとして活躍し、喝采を浴びた若者がもっといたことであろう。

知覧を訪れた時、特攻隊の訓練時の宿舎が残っていて内部に入ることが出来た。ここでまだ少年とも呼べる若者たちが、短い日数で実戦に向かうための厳しい訓練を受け、飛び立っていったと思うと胸が締め付けられた。

監督・岡本喜八/原作・神山圭介/脚本・山田信夫・岡本喜八/撮影・村井博/音楽・佐藤勝/出演・永島敏行、勝野洋、本田博太郎、中村秀和、山田隆夫、竹下景子、大谷直子、水野久美、八千草薫、田中邦衛、岸田森、殿山泰司、仲谷昇、東野英治郎

 

『月給泥棒』(1962年) 高度成長時代のサラリーマン・コメディ。<税金泥棒>と<月給泥棒>に因果関係はあるのか。解りません。

ある会社では、会社に貢献しない者は月給泥棒であると重役からの朝の訓話が放送で流されている。

自分の誇示、出世欲旺盛な一人のサラリーマン(宝田明)が、上役のご機嫌もとり、明朗快活に動き回る。さらなる飛躍は、自分の会社のカメラを石油王国の王様(ジェリー伊藤)に売り込む事。口八丁手八丁でライバル会社と渡り合う。その為に、家が没落したお嬢様育ちの美しいホステス(司葉子)の女性を使うのであるが、王様はこの女性に惚れてしまい、恋仲と思いきや、お互い割り切ってそれぞれの欲の方を選んでしまう・・・・・

サラリーマン喜劇のお色気たっぷりのホステス、芸者、宴会ではなく、至って健康的である。そしてコロッと物事がひっくり返るところが、岡本監督特有のテンポの良さである。美男美女のサラリーマン青春映画と言えそうである。司葉子さんの衣装にハリウッド的夢がある。それでいながら、ちゃぶ台が似合う結果となる。

監督・岡本喜八/原作・庄野潤三/脚本・松木ひろし/撮影・逢沢譲/音楽・佐藤勝/出演・宝田明、司葉子、十朱久雄、中丸忠雄、宮口精二、横山道代、若林英子、原知佐子、ジェリー伊藤

 

 

 

岡本喜八監督映画特集

渋谷の映画館「ユーロスペース」で、ドキュメンタリー映画 映画 『仲代達矢「役者」 を生きる』 を上映しているが、その上の映画館「シネマヴェーラ渋谷」では <岡本喜八監督特集>をやっている。

仲代さんの映画を立て続けに観た4本が、『切腹』『上意討ち 拝領妻始末記』『殺人狂時代』『野獣死すべし』で、『殺人狂時代』は喜劇とあり、岡本監督作品なので選んだのである。喜劇だけあって仲代さん演じる冴えない大学講師が、命を狙われるのであるが、頓馬な偶然が重なって命拾いをしそのうち、頭の冴えが働き悪漢をやつけてしまうというお話である。悪漢の大将が天野英世さんとくれば、多少想像がつくと思う。行動を共にする女性が陽性のお色気の団令子さんである。岡本監督らしく、ドカーン、ドカーンの爆発もある。

今のところ仲代さんの映画の喜劇としては、『殺人狂時代』も悪くはないが、つかこうへいさんの映画『熱海殺人事件』の二階堂伝兵衛が一番と思っている。この『殺人狂時代』は、現実問題として上映当時映画よりももっと悲喜劇のことがあったのである。仲代さんはニックネームを<モヤ>と呼ばれ、恭子夫人がモヤーとボンヤリしていることから命名したのであるが、仲代さんの地に近い役でと考えられたらしい。ところが、会社からお蔵入りを宣言され、その後上映したところ、東宝始まって以来の不入りで、仲代さんは東宝の人達から挨拶もしてもらえなかっとか。岡本監督は、<オクラ>は映画監督の恥と教わっていたので、そのことがあってゴルフと酒の日々。

『殺人狂時代』より3年前くらいに映された『江分利満氏の優雅な生活』も、会社の上層部は悪い意味でのびっくり仰天だったらしい。この映画を観て、私は、岡本監督の面白さに開眼したのである。原作が山口瞳さんで、自画像的なところもあるが、サラリーマンもの映画をこんな面白さで描く監督がいたのだ、それも、ドカーン、ドカーンのイメージの岡本監督なのであるから、良い意味でびっくり仰天の拍手であった。

ところが、これは観ていないがその後の『ああ爆弾』これがまたまた会社の上層部を刺激して、ついに『殺人狂時代』は<オクラ>となったのである。笑いごとではないが、その話しを読んで笑ってしまった。岡本監督は、何か面白いことはないかと、常に捜しまわって映画にはめ込んでいる感じである。その試写を観て、のけ反って驚いた上層部の姿が映画の一コマになりそうである。

さらに『江分利満氏の優雅な生活』は川島雄三監督の企画で、客として観るのを岡本監督も楽しみにされていたら川島監督は亡くなられてしまい、岡本監督が撮ることとなる。そいう経過があったことを知って、来るべきところに来たんだと納得である。岡本監督に撮ってもらって良かった。あの映画には、川島監督も二ヤリっとされたと思う。

岡本監督映画の音楽担当が佐藤勝さんが多い。これがまたいいのである。なんでここでというような歌謡曲が流れたり、壺を外しているようで外していないような、面白さがある。『ジャズ大名』は原作が筒井康隆さんで、音楽が筒井康隆さんと山下洋輔さんであるから、江戸時代でもジャズがよく似合う。

『野獣死すべし』は、大藪春彦さんのデビュー作の映画化で、監督・須川栄三さん、脚本・白坂衣志夫さん、音楽・黛敏郎さんである。日本映画での初めてのハードボイルド映画と言われている。主人公の仲代さんのニヒルで強靭で冷徹さは、『殺人狂時代』の主人公よりもシャープで歌舞伎でいえば色悪である。若い刑事の小泉博さんが、警察の捜査線上に無い新しいタイプの犯罪者であるとして、仲代さんと対決していくところも面白い。それでいながら、主人公はいつも妖しげな笑いである。

大藪春彦さんの原作『血の罠』から映画『暗黒街の対決』を岡本監督は、三船敏郎さんと鶴田浩二さんで撮られている。脚本・関沢新一さん、音楽・佐藤勝さんであるが、この映画はまだ観ていない。

岡本監督は『殺人狂時代』は、ハードボイルドなんだかそうじゃないのか最後までわからない状態の映画としたらしい。それは、『野獣死すべし』を観てこちらのほうがすっきりしている、あれは(『殺人狂時代』)は何だったのだと思ったので、監督の意図は通じたことになるのか。原作が都筑道夫さんの『飢えた遺産(なめくじに聞いてみろ)』とある。塩をまかれて消えかかったなめくじも、時間を経過して映画館を埋め尽くす日もくるのである。

歌舞伎座 2月 『水天宮利生深川』

『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』<筆屋幸兵衛>。通称「筆幸」。河竹黙阿弥の作品で、明治維新による没落武士の話しである。黙阿弥さんが、江戸と明治をどう捉えていたかということを知りたいところであるが、これは、作品群から検証しなければならないので実際のところはわからないが、この作品だけから思ったことがある。

この作品は、今の明治座の場所に明治18年「千歳座」が新築開場した時、初演されたのだそうで、<水天宮>とも関連させ、深川に住む江戸から変わらない庶民の姿をも映し出している作品である。黙阿弥さんは、江戸から明治への風俗の変化と、江戸は無くなっても、庶民の息づいている町は変わらないことを願いつつ書かれたようにおもうのである。

深川浄心寺裏に住む貧しい没落武士の船津幸兵衛(幸四郎)の一家は、妻が亡くなり、乳飲み子幸太郎、眼を患っている姉娘のお雪(児太郎)、妹娘のお霜(金太郎)の4人家族である。幸兵衛は、筆売りをしているが、高利の金も借りどうすることも出来ない有様である。幸兵衛は、同じ武士でありながら剣術に長けていたためしっかり剣術家としてやっている萩原家でもらい乳のうえ、幸太郎の着物と金子をもらい、そのお金で信心している水天宮様の碇の絵の額を買って帰って来る。

長屋の住人は、幸兵衛の家族を気遣い、娘達の話し相手に来てくれたりし、人の優しさに少し心和んでいた幸兵衛であったが、金貸しの金兵衛(彦三郎)と散切り頭の代言人安兵衛(権十郎)がやってきて、萩原の妻・おむら(魁春)からもらった幸太郎の着物と、お雪が施しをうけたお金まで利子の代わりにと持っていってしまう。代言人安兵衛も元は武士で、金貸し金兵衛が無筆のため、代わりに証文を書いたりその内訳の説明をしたりする仕事である。

もうこれまでと思い、家族4人で死ぬ決心をする。幸兵衛の大小の刀はすでになく、残しておいた短刀で、まず幸太郎からと思って短刀を向けると幸太郎は笑っているのである。そこから、幸兵衛の心は一気に度を失い狂気へと変貌するのである。隣では、子の誕生を祝いに呼んだ清元連中が浄瑠璃を語っているのである。他の家から聞こえてくるのを <余所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)>といい、実際の清元連中が並び、浄瑠璃「風狂川辺の芽柳」を語るのである。これが、幸兵衛の神経を一層狂わせるのである。隣と自分たちの違い。その高音の語り。その語りに合わせて、ほうきをもっての幸兵衛の狂いながらの踊り。今まで、何んとか武士の対面を保ってきたのに一瞬にして崩れて行く様を、浄瑠璃と共に幸四郎さんは一体となって表現された。

ほかの劇では表現できない形である。新劇であれば、セリフで、ミュージカルなら歌で表現するのであろうが、芝居のなかで、音楽と身体で内面を表現することが出来るのが歌舞伎の強みであり技の見せ所である。この清元、江戸庶民には身近な音楽で長屋の住人は久しぶりに浄瑠璃が聞けると楽しみにしている。

幸兵衛が狂い、長屋の住人、大家さん(由次郎)、車夫・三五郎(錦之助)らが駆けつけ押さえるが押さえが効かない。この辺りも長屋住人の情が伝わる。萩原おむらも気がかりで訪ねてきてくれるが、幸兵衛は、水天宮の碇の額と幸太郎を抱え家を飛び出してしまう。隅田川に飛び込んだ幸兵衛は、幸太郎共々、車夫三太郎に助けられる。巡査(友右衛門)が事情聴取をするあたりも明治である。幸兵衛は正気にもどり皆安心とし、水天宮様の碇の額のお蔭と喜ぶのである。幸兵衛一家を支えてくれているのが、長屋の住人であった。

妹娘お露の金太郎さんが家族の一員としての役目を果たそうと健気である。児太郎さんは、ここでは、眼を患っている不自由さを身体を小さくして俯き、同情を誘う。お雪が水天宮様の碇の額を自分にも見せてくださいと言い、幸兵衛が眼の見えないお雪に手で触らせて説明する様子にも、子を思う親と、親を慕う子の想いがよく伝わる。この辺りの様子から、幸兵衛の子を思いつつも世渡りの下手な自分へのもどかしさ、世間に対する恨みから狂ってしまう人間性というものが時代背景とともによく写し出されていた。

『関の扉』の常磐津、『筆幸』の清元、歌舞伎の音楽性をも加えての楽しみ方に気がつかせてくれる。

 

歌舞伎座 2月 『一谷嫩軍記』『神田祭』

『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の<陣門><組打>である。<熊谷陣屋>の前の場で、<熊谷陣屋>とセットで組まれるが、今回は、この二つの場面だけである。ここで、熊谷直実が敦盛の代わりに自分の息子の小次郎を討ってしまうということで、次の<熊谷陣屋>の前哨戦とも受け止められるが、今回のようにそこだけの上演となりながら、<陣門><組打>だけでしっかり心うたれた。

小次郎の菊之助さんは、身体が若武者の形になっていて、足をきちっと揃えられた姿には、決まったと思いつつ、こんな若者の命を戦は容赦なく奪うのだとすでにほろりとしてしまう。さらに、平家の敵陣からは笛の音が聞こえてきて、それを耳にした小次郎は、公達はこんな美しい音色を奏でるのだと感心する。この若者には、美しいものは美しいと感じる時間は残されていないのである。小次郎は初陣の手柄をめざし敵陣に突入していく。

近頃、歌舞伎の被り物の生き物の動きが良くなったように思える。この場も馬が活躍するのであるが、すこぶる動きが良い。熊谷の乗る馬、敦盛の乗る馬、役者さんを引き立ててくれる。熊谷直実の吉右衛門さんは戦場での気迫に満ちた馬上の人として現れる。小次郎の初陣を心配してのことであるが、その辺は胸の内である。それゆえ、負傷した小次郎を助け出した時は、小次郎を隠し足早に立ち去る。

直実は敦盛を呼び止め引き戻し、小次郎と同じ若武者と知って逃がそうとする。しかし周囲にさとられ、敦盛も覚悟のうえのことなので討たれることを所望する。ここで、敦盛が実は小次郎で、入れ替わったことに気がつき直実は動揺する。観ていると、菊之助さんは敦盛に成りきっていて、この場では、むしろ観る方も敦盛と騙されてもよいのだと思えた。熊谷は、自分の息子と重ねてこの場に臨んでいる。そう思わせる。菊之助さんと吉右衛門さんの演技は二人だけが真実を抱え込んだ戦場の親子の姿であった。ここで真実が解らなくても<熊谷陣屋>を観たときそうであったのかと思えれば芝居の物語性は壊れはしないのである。

吉右衛門さんはその後の悲しみも深く押さえられ、静かに亡き人の鎧、兜などをかたずけられる姿に運命をかみしめる無常観が感じられた。敦盛の許嫁である玉織姫がめも見えなくなった死の淵にありながら、敦盛の顔が見たいと言い、見て安心して亡くなる姿も物語の悲哀を一層深くした。<陣門><組打>だけの場で、敦盛であっても、小次郎であっても、戦の空しさは変わりようがないと思わせてくれる。菊之助さんは、東の若武者と公達の若武者をきちっと演じわけられた。

『神田祭』は、明るく賑やかに菊五郎さんの粋な鳶頭と、それぞれの味を見せてくれる芸者五人衆の時蔵さん、芝雀さん、高麗蔵さん、梅枝さん、児太郎さんの踊りである。

手古舞もあり、ナマズの山車が出てきて、鳶頭がナマズを押さえつけてしまう。舞台の神田祭りで威勢よく地震を鎮めてしまおうとの趣向であろうか。お祭りは、やはり晴やかな気分にしてくれる。

 

歌舞伎座 2月 『積恋雪関扉』

『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』。常磐津の大曲である。様々な錯綜があり、桜の精が現れるなど、物語性の強い作品である。それを舞踊で見せると言う難解でありながら、ここはどういうことなのかと分け入りたくなる世界である。あらすじを押さえて観たほうがより深く味わえる演目である。

登場人物は、良峯宗貞、関守の関兵衛、小野小町姫、傾城墨染(小町桜の精)である。場所は雪の逢坂の関である。雪が積もっているのに、この関に満開の桜が一本ある。この桜は、仁命天皇崩御に伴い薄墨桜となったのが、小野小町の和歌の徳によって色を増したとされ、小町桜と呼ばれている。

良峯宗貞は、天皇陵を守りつつのわび住いで、そのそばにある逢坂の関には関兵衛が関を守っている。そこへ宗貞の恋人・小野小町姫が現れる。当然、関守・関兵衛と小町姫との問答となり、その後、宗貞と小町姫の馴れ初めの二人の恋話の踊りとなる。ところがここで、二人の仲を取り持つ関兵衛の懐から割符が落とされ、三人は探り合いとなるが関兵衛は引っ込む。

鷹が、血で<二子乗舟(にしじょうしゅう)>と書かれた片袖を足に結びつけて飛来する。それは、宗貞の弟・安貞が兄の身代わりとなって死んだことを意味し、その袖の落ちた石から、大伴家の宝鏡が見つかり、割符は小野篁(おのたかむら)が奪われた割符と判明。関兵衛を怪しみ宗貞は、ことの次第を篁に知らせるべく、小町姫を送り出すのである。

小町姫の化粧蓑をつけた赤姫の菊之助さんの花道の出が、何んとも愛いらしい。薄墨色の桜が、赤姫の赤を受けて、元の桜色に戻ったと思えるほど、赤が映える。無骨な関守・関兵衛の幸四郎さんとの問答も対照的で面白い。ここでの関兵衛の振りは、初代中村仲蔵が工夫したところで、「天明振り」あるいは「仲蔵振り」と言われるのだそうである。見どころである。宗貞の錦之助さんと菊之助さんの踊りも二枚目と赤姫の踊りとして息が合っている。鷹の出現は、中国の故事に因むんでいて、関兵衛の素性を探る引き金となっているが、幸四郎さんは、朴訥な愛嬌も見せ、素性は現さない。

酔って現れた関兵衛は、さらに一人大杯を飲み干そうとすると、大杯に北斗七星が写り、それが、謀反の時と、小町桜を祈りのための護摩木として切り倒すため斧を研ぐ。桜の木を切ろうとするが、何かによってそれが遮られてしまう。桜のウロには、宗貞の弟の安貞と契を交わした、傾城墨染が写る。そして、墨染が姿を現し、関兵衛との問答がある。墨染は関兵衛に会いに来たと告げ、二人で廓話の踊りとなる。墨染が血文字の肩袖を見て涙するのを見て関兵衛は怪しむが、墨染は、これは関兵衛が女から貰った起請であろうと焼きもちを焼く振りをしてごまかす。

ラストは、関兵衛は実は、大悪党の大伴黒主であり、傾城墨染は小町桜の精が人間の墨染となって現れたのである。桜の精の力を借り現れた薄墨は、安貞の仇をとるべく、黒主と激しく争い、二人それぞれの形がきまり幕となる。

赤姫から今度は、桜の精でもある傾城の怪しい色香で菊之助さんは出現し、廓話はひょうきんさも加わった関兵衛の幸四郎さんと艶っぽさも加えて踊られる。とにかく常磐津の詞と語りとあいまって、そこのところもう一度聴き直したいと何度も思ってしまった。

流れとしてはまだ捉えられないが、部分部分の踊りや駆け引きが、ぽんぽんと思い出される。ぶっかえりの黒主になってからの幸四郎さんに悪の大きさがあり、『関の扉』は今までより好きな演目さを増した。

もう少ししっかり、常磐津と踊りを見直したいと、DVDを購入した。幸四郎さん、菊之助さん、錦之助さんの『関の扉』を思い起こしてから、観ようと思っていたので、これでDVDを観ることができる。

さらに、京都東山の六道珍皇寺での、<小野篁>の名前が出てきて、やっと篁さんが少し身近になった。

 

 

歌舞伎座 2月 『吉例寿曽我』『彦山権現誓助剱』

『吉例寿曽我(きちれいことぶきそが)』。曽我物はよく解らなくて好きではなかったこともあり、この演目を観た記憶がない。今回は奴が二人出てきて、どうやら敵対しているらしく、巻物一巻で争っている。上に続く石段は鎌倉の鶴ケ岡八幡宮への石段らしい。次第に曽我物の対面に近ずくのかと思ったら、その石段の前で奴たちの主人の近江小藤太(又五郎)と八幡三郎(錦之助)が一巻を奪い合う立ち回りとなる。そしてその石段が<がんどう返し>で、二人を乗せたまま、後ろに回転する。対面は富士山をバックにした、大磯の廓外ということになる。

工藤祐経(歌六)、秦野四郎国郷(国生)、化粧坂少将(梅枝)、大磯の虎(芝雀)、喜瀬川亀鶴(児太郎)、茶道珍斎(橘三郎)、朝比奈三郎(巳之助)が並び、曽我五郎(歌昇)、曽我十郎(萬太郎)が花道から出てくる。萬太郎さんの十郎が役に合っている。歌昇さんは、一瞬、種之助さんでは無いはずだがと思わせるような若い五郎に成りきっている。なるほど、まだ若い歌昇さんではあるが、もっと若い元気な五郎をめざしたのであろう。国生さんは行儀よく、巳之助さんは、長い手足を使いひょうきんさを現し呼吸もよい。梅枝さんは、傾城の大きさが加わって来た。驚いたのが児太郎さん。浅草では無かった色気がある。襟もとから首の線に今まで感じなかった色気が出た。『神田祭り』の芸者役も、やはり、先月の浅草とは違っていた。女形の歌舞伎役者が、歌舞伎役者としての身体が出来て行く過程を観させてもらっているようで嬉しい驚きである。

歌六さんと芝雀さんは、役どころの貫禄である。

『彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』<毛谷村>。剣の達人などの役はされていない菊五郎さんなので、その辺りをどう緩急つけられるか興味があったが、剣の達人と思わせるものが欠けていた。

毛谷村の六助(菊五郎)は、今は百姓であるが、吉岡一味斎の弟子で剣豪である。ところが、一味斎は闇討ちにされ家族は仇討に旅立つが、その一人お園(時蔵)が、甥の着物を見つけ六助を敵と間違う。さらに、六助はお園の許婚であった。お園は、六助が甥を助け、母のお幸(東蔵)も来ているのを知る。六助は、ある男に老いた母のために仕官したいと頼まれ、その為の試合でわざと負けてやっている。その負けてやった男こそ、師の敵の京極内匠(團蔵)であり、老母のためというのは真っ赤なウソで、百姓の右衛門(左團次)の母を自分の母に思わせ、用済みとなり殺してしまっていたのである。六助とお園は、敵討ちへと向かうのである。

京極に騙され、試合に負けてやるあたりは、人情味に溢れた人柄を鷹揚に明るく演じられているが、その後のお園とのやり取りや事の次第が判明していく段階は、剣豪としての味が欲しかった。剣に長け、人の情けがあり、実直である。その人物が、お園の男勝りの力持ちに驚き、師の娘であるお園が許嫁で畏まったり照れてしまったりと、そのあたり変化が期待より弱かった。裃を着るあたりは、恐縮しつつも、六助とお園に恥じらいと敵への覚悟の見せ所でもある。お園も、虚無僧の出の足さばきは男で、敵への気概が感じられたが、その後の大力を見せ、六助が許嫁と知った喜びや恥じらいがこれまた、薄味である。

菊五郎さんと時蔵さんお二人には、<剣豪、大力>、<許婚><男、女>、<敵討ち>への変化のプロセスの妙を見せていただきたかった。