日光街道千住宿から回向院へ・そして浄閑寺へ(5)

やはり浄閑寺まで到達しなければすっきりしません。というわけで南千住へ行ってきました。

かつては道があったのでしょうがいまは貨物車の線路が集中してまして、歩道橋下に延命寺・小塚原刑場跡がありました。

延命寺の地蔵菩薩は1741年(寛保元年)に造立され、明治29年に隅田川線が敷設するに伴って移設されたとあります。明治30年代から昭和30年代まで毎月5、14、27日は地蔵の縁日には大変なにぎわいだったそうですが、今ではちょっと想像できません。

お顔がよくわかりませんが優しい穏やかなお顔のお地蔵菩薩様です。

歩道橋のうえから、貨物線の沢山の線路が集まっているのがわかります。右の白い建物の黄色丸のところにJR隅田川駅とあります。貨物駅でも隅田川が駅名に残っているのはうれしいですね。かつては隅田川が引き込まれていて船でここまで運んで貨物列車でと荒荷を運んでいたようです。常磐炭鉱の石炭もここに集められていたのです。

南千住まちあるきマップによりますともっと南千住駅近くの南千住駅前歩道橋がビューポイントのようです。その歩道橋からですと隅田川駅での車両の入れ換え作業がみれるようです。

JR常磐線にそって西に向かいますと浄閑寺があります。1855年(安政2年)の大地震で犠牲となった多くの新吉原の遊女たちの遺体を葬ったとされるお寺です。のちに新吉原総霊塔が建立されました。

永井荷風さんが愛したお寺でもあり、娼妓のそばに自分の墓を望みましたが、お墓はなく谷崎潤一郎などによって文学碑とゆかりの品を納めた荷風碑がたてられました。そのほかおやっと思う方のお墓もあります。

本庄兄弟首洗井戸並首塚がありまして説明がありました。「父の本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄・助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまう。弟の権八はこの井戸で兄の首を洗っているとことを無残にも権八に襲われて討ち果たされた。兄弟の霊を慰めんと墓(首塚)が建てられた。」

歌舞伎では白井権八となり、幡随長兵衛との出会う『鈴ケ森』は前髪の美しい若者と侠客の中のヒーローと決め場面は心躍らせます。歌舞伎は現実味を帳消しにして華にしてしまうところがあります。そこが面白さであち、芸の見せどころでもあります。

花又花酔の句壁。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と「新吉原総霊塔」。

永井荷風文学碑荷風碑

浄閑寺を出ると音無川と日本堤の案内板と広重さんの『名所江戸百景』に描かれた新吉原へ通う客でにぎわう日本堤(吉原土手)がありました。

日本堤は三ノ輪から聖天町まで続く土手です(パステルグリーンの丸)。黄色丸の8が浄閑寺。6が新吉原。11が浅草寺。12が三社祭りの三社権現。14が天保の改革で芝居小屋が一ケ所にあつめられた猿若町。朱丸が待乳山聖天。不夜城の新吉原の周囲は田地です。

前進座の『杜若艶色紫』の最後の「日本堤の場」の舞台背景が気に入りましたが、この地図を見て絵画化してくれたようにぴたりとはまりました。

ただ安政の大地震の犠牲となった遊女の遺体は、音無川を船で運ばれたり、田地の間の道を運ばれて浄閑寺にたどり着いたのかなとも地図を見つつ想像してしまいました。遊女たちを偲んだ文豪永井荷風さんがそばにいますよ。

さてそのあとは、都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋駅から乗車。何年ぶりの都電でしょうか。チンチンの音もわすれていましたし、こんなに静かに移動していたんだと新鮮でした。さて適当なところで途中下車することにして日光街道千住宿の旅もここでお開きです。

日光街道千住宿

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿から回向院へ(2)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

日光街道千住宿から回向院へ(4)

追記: 歌舞伎『鈴ケ森』は、鶴屋南北さんの作品『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなづま)』の一場面です。皆川博子さんの『鶴屋南北冥府巡』を読み終わりました。表と裏。南北さんと初代尾上松助さんをモデルとして、南北さんが松助さんのために『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き上げるまでの話です。裏の世界を表現するのを得意とする南北さんが松助さんのために立作者となるまでを裏から描いていて、皆川博子さんの独特の視点でした。

追記2: 『鶴屋南北冥府巡』の付記に書かれていることをお借りして記入させてもらいます。

文化3年、桜田治助、没。文化5年、並木五瓶、没。伊之助は、立作者の地位を確立する。文化8年、伊之助は、四代目鶴屋南北を名乗る。文化12年、南北と組んで、文化年間、けれんの妖花を咲かせつづけた尾上松助、72歳にて、没。文政12年、鶴屋南北、没。75歳。翌年、年号は天保と変わる。「文化元年より、文政最後の年まで、江戸爛熟の25年間、南北の描く悪と闇と血と笑いは人々を鷲掴みにした。鼻高幸四郎、三代目菊五郎、目千両の半四郎など、すぐれた役者にも恵まれた。」1804年から1830年の間です。その次の時代、天保の改革によって歌舞伎の芝居小屋は浅草に集められるのです。南北さん関連本を数冊読む予定なので参考になります。ありがたし。

追記3: 永井荷風さんは、21歳のとき歌舞伎にかかわりたくて福地桜痴に弟子入りしています。下働きをし、柝を打つ練習もしています。しかし十カ月終わります。桜痴さんが歌舞伎座を去り日出國新聞社(やまと)の主筆となるので行動をともにします。近藤富枝さんは『荷風と左團次』中で、荷風さんは役者になりたかったと推察しています。その後、荷風さんと二代目左團次さんは出会います。二人の友情を<交情蜜のごとし>としてその様子を書かれています。歯切れのよい文章で読みやすく興味深いです。

追記4: 南北さんの時代は、芝居に対して細かい規制のお触れがあって、地名や料理屋などの名前も限定されていました。新吉原を背景にした狂言は、大音寺前、日本堤、隅田川、向島などの固有名詞は使用してもよいとされていました。高価な衣装はダメで、血のりもダメで赤く染めた血綿ならよいなど、子供だましでない大人の芝居としてどうリアルにみせるか工夫に工夫を重ねたことでしょう。

追記5: 鎌倉の建長寺の場所はもとは刑場で地獄谷よ呼ばれそのためご本尊は地蔵菩薩坐像であるということを『五木寛之の百寺巡礼』で知りました。

国立劇場周辺の寄り道

東京メトロ半蔵門線半蔵門駅から国立劇場の行き帰りの寄り道を紹介します。半蔵門駅の1番出口か6番出口を出ますと道向かいのマンションの間にに小さな稲荷神社があります。千代田区麹町にあるので麹町太田姫稲荷神社と呼ばれているようです。

神田にある太田姫稲荷神社の分社で、伝説によると太田道灌の娘が天然痘にかかり、さる稲荷神社に祈願したところ治り、江戸城内に勧請し祀られたました。そのあといろいろな変遷があり麹町の有志によって、地域の守護神、病気平癒、商売繁盛の神としてまつられたようです。

「バン・ドウーシュ」というオシャレな名前の銭湯もあったのですが今回見ましたら名前がなく廃業したようです。皇居周辺をマラソンするかたも利用していたようですが憩いの場がまた一つ消えていました。

1番出口、6番出口を右に坂を下っていきますと平河天満宮があります。これもまた太田道灌が江戸の守護神として江戸城にお祀りしたようです。二代将軍秀忠によってこの地にうつされ、平河天満宮の名にちなんで平河町と名づけられました。御祭神が菅原道真公ですから学問の神様で合格祈願のお参りも多いようです。

鳥居が銅で作られています。左右の台座の部分に小さな四体の獅子がいます。初めてみました。銅の鳥居は何代も続く名ある鋳物師(八代目・西村和泉藤原政時)によって作られ、江戸時代の鳥居の特色の一つとのことです。鋳物だからこそできる意匠です。

稲荷神社の横には、百度石があり、力石、筆塚などもあります。そのほか、石牛、狛犬なども奉納されています。

半蔵門駅の改札を出てすぐの右手に『半蔵門ミュージアム』のポスターがありいつも気になっていたのです。仏教に関係があるらしく無料なのです。駅すぐそばなのです。いつも使う出口ではなく4番出口すぐそばでした。

運慶作と推定される大日如来座像だけでも必見の価値があります。そのほかガンダーラ関係のものもあり、今回初めて入館しましたが、静かで入場者も少なくゆったり鑑賞できました。シアターも二つ観ました。「曼荼羅」は解説を読んでも難解ですが、映像によりほんの少し近づけました。「大日如来坐像と運慶」も心が揺さぶられました。次回は「ガンダーラ仏教美術」も観たいとおもいます。

そして今回は写真家・井津健郎(いづけんろう)さんの「アジアの聖地」の特集展示がありました。お名前も作品も初めての出会いです。プラチナ・プリントなのだそうでが白黒写真とは違う不可思議な感覚が呼び覚まされます。静寂、恐れ、邂逅、祈り、命の尊厳、悠久の時間空間、一瞬、などなど言葉を越えた世界です。

大日如来様に会えるだけでも嬉しい場所となりそうです。ただ展示替えの休館日などもありますのでお確かめください。

半蔵門ミュージアム (hanzomonmuseum.jp)

追記: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』。予定していなかったのですが出先から電話すると当日券ありなので寄り道しました。頭から足の土踏まずの丸みまで全身見えての素踊り鑑賞。歌舞伎舞踊の身体表現の深さ。壱太郎さんの進行が絶妙で途絶えることのないトークの楽しさ。芸の話がさらっと何気なく出て超納得。愉快な思い出話など爆笑多し。最後は打ち上げ花火のような『お祭り』。まさしく「二人を観る会」でした。

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追記2: 『猿之助×壱太郎「二人を観る会」』が開催された日本教育会館の1階ロビーに御神輿が飾られていました。休憩時間にゆっくり眺めさせてもらいましたが、清元『お祭り』にぴったりの偶然の出会いでした。御神輿のように歌舞伎座などとは異なるピカピカのおふたりでした。この雰囲気は他では観れないかもです。(笑)

化政文化の多様性

映画『HOKUSAI』(2021年・橋本一監督)を観ていると本当に化政時代の文化は庶民を歓喜させ多様さの花盛りであったとおもわされます。葛飾北斎さんを映画にすると様々な角度から描くことができ、さらに絵のその到達度と発想の変化球を追うだけでも観客はワクワクしてしまうとおもいます。

読み物、俳諧、川柳、錦絵、人形浄瑠璃、歌舞伎などそうそうたる創作者が輩出しています。そしてそこに観る側の庶民の熱気があったわけです。歌舞伎役者からファッションを取り入れたりもしました。もし当時の江戸の人が今の時代に飛び込んできたら、SMS!実際に観ないでどうするんだい、シャラクセイ!と言ったかもしれません。

映画『HOKUSAI』は、北斎さんが独自の<波>に到達し、80代半ばで弟子である高井鴻山を訪ね小布施に出かけ、祭り屋台に<波>を描くという<波>に力点を置いています。

同時代の人として、柳亭種彦を配置しました。種彦さんは武士であり、出筆に悩みますが最後まで自分の意思を通すということで悲惨な最期をとげます。実際には死因は不明のようです。

種彦さんが気になり『柳亭種彦』(伊狩章・著)を読み始めましたら、歌舞伎の中村仲蔵が斧定九郎のモデルにした人のことがでてきました。種彦さんは小普請組(こぶしんぐみ)に属していました。小普請組は泰平の世であれば、これといった仕事もなくすることがないので問題を起こす人もいたようです。

「小普請組の悪御家人、外村(とむら)大吉が、刃傷・窃盗の罪で斬罪になった話などその適例である。歌舞伎役者の中村仲蔵がこの外村のスタイルを忠臣蔵の定九郎の型にとりいれたことなど余りにも名高い。」とありました。

今月(24日まで)の文楽『義経千本桜』(伏見稲荷の段、道行初音旅、川連法眼館の段)を観て同じ演目でも歌舞伎との相違点から楽しませてもらいましたが、この定九郎も文楽と歌舞伎では全然違います。歌舞伎では「50両」だけの台詞ですが、文楽では定九郎は饒舌です。そして残忍で与一兵衛をなぶり殺しにするという憎くさが増す定九郎です。歌舞伎は役者がどう見せるかの工夫を常に意識することによって、変化してきたのでしょうが、あの文楽の早変わりの動きはいつからだったのでしょうか。

さて化政文化の中に鶴屋南北もいたわけです。この方も次から次へと当たり狂言を書いていきます。

桜姫東文章』はシネマ歌舞伎での印象が強く残りますが、南北さんの発想も奇抜です。ただ仇討ちやお家のためとなると、あの情欲におぼれているとおもわれた桜姫が、仇の血が流れる我が子を殺し、釣鐘権助(つりがねごんすけ)を殺すのですから、さらにその展開には驚きます。

葛飾のお十もお家のためとなれば喜んで桜姫の身代わりとなって女郎屋にいきます。とにかく仇討ちやお家のためならば、女性が身を売ることは美徳なわけです。当時はそうであったのでしょうが、今観ると何か南北さんの皮肉にもとれてきます。

自分から情欲におぼれていながら、最後は艱難困苦のはて目出度くお家再興を果たした桜姫というのが観ていて清き正しき桜姫の復活だと思えて可笑しかったです。桜姫は因縁を自らの手で封印してしまったのですから自立したお姫様ともいえます。

ただこれも役者で見せる演目だなあと改めておもわされます。仁左衛門さんと玉三郎さんという役者を得ての演目ともいえるのです。ただ時間が経てば新たな役者ぶりの演目となって化けることはあるでしょう。

そして仇討ちに違う見方を加えたのが明治、大正の『研辰の討たれ』で、現代によみがえらせたのが、『野田版研辰の討たれ』でしょう。

さて今上演中(23日まで)の南北さんの前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』のほうは、ドロドロとはしていません。亡霊もでてきません。

お六は見世物の蛇遣いの女性で悪婆ものと言われる役どころです。お六といえば、『お染七役』の土手のお六が浮かびます。蛇遣いお六は男勝りで、気の利かない亭主の義弟のためならと一肌ぬぐのです。そのことが回りまわって犠牲となった人のために自らの手で決着をつけるという、言ってみれば格好いい女性でもあるわけです。邪悪な女に見せておいて心根はそうではなかったのだと落ちがつくわけです。

この辺りは『東海道四谷怪談』のお岩さんの亡霊になって恨みを晴らすという設定とは違うところでもあります。こういうところも南北さんの多様な発想の面白いところです。

五世國太郎さんは、悪婆の國太郎と言われた役者さんで、今回は五世國太郎さんの三十三回忌追善公演でもあり、六代目國太郎さんがお六を演じられるのです。筋書によりますと、女形不要論の時期があり、五代目國太郎さんも不遇の時代があったようです。そして万難を排しての悪婆役への到達だったようです。

南北さんですから実はこういうことでしたという人間関係となりますが、途中で口上も入り、聴きやすい口跡で分かりやすく、その後の展開に参考になりました。的確な入れ方でした。

ここから物語に集中でき、國太郎さんの演技も光ってきたように思えます。お六がひるがえす裾の裏の模様が撫子で粋でした。

人間関係は次のようになります。

南北さんにしてはそれほど難解な人間関係ではありませんが釣鐘の苗字も使われています。そのほかにもあるのかもしれません。國太郎さんはお六と八ツ橋との二役で、おとしいれる側とおとしいれられる側の両方を受け持たれるわけです。

劇中では二人の次郎左衛門の名前がやはり重なるように仕組まれていて、南北さんの使う手だなとおもわせてくれます。さて佐野次郎左衛門(芳三郎)と八ツ橋(國太郎)の運命はいかに。このあたりの見どころも当然盛り込まれています。そしてお六(國太郎)と願哲(矢之輔)の関係はその後はどうなるのでしょうか。下手な口上よりも観てのお楽しみ。

南北さん、江戸庶民に親しまれていた場所を登場させます。風景は違っても今でも名前が残っている場所が多々あります。

最期の<日本堤の場>の舞台背景も、当時はこんな感じで見渡せる風景だったのであろうと思いつつ眺めていました。そしてここで立ち回りも入ります。

芝居の会話の中で三河島のお不動さんが出てきまして、今もあるのかなと思いましたら、前進座公式サイトの  劇団前進座 公式サイト (zenshinza.com)  「ふかぼり芝居高座」<ふかぼり番外 南北カンレキ>で現在の荒川区三峰神社の袈裟塚耳無不動であることを教えてくれました。三河島。南千住の隣駅です。いやはや呼ばれていますかね。

三峰神社 袈裟塚(けさづか)の耳無不動/荒川区公式サイト (city.arakawa.tokyo.jp)

山東京伝の黄色本にも書かれたようで、山東京伝さんも化政文化時代のお仲間です。

筋書に杵屋勝彦さんが中村義裕さんと対談していまして、杵屋勝彦さんは昨年「すみだリバーサイドホールギャラリー」で『2021年度第41回 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展』での受賞者の方だと気がつきました。前進座と縁の深い方で、今回のお芝居でも邦楽での唄にお名前があります。これから観劇の方は音楽にもご注意ください。

ロビーでは「五世河原崎國太郎展」のコーナーもあります。

化政文化は庶民が参加してワイワイ楽しんで作り上げたもので興味がつきません。それにしても発信者側のそうそうたる方々の人数のなんと多いことでしょうか。

追記: 歌舞伎『ぢいさんばあさん』の原作、森鴎外さんの『ぢいさんばあさん』を読んだところ、引っ越してきた老夫婦の様子を周囲の人々が見て噂話をするような感じで書かれはじめています。甥っ子夫婦も出てきません。老夫婦は朝早くから出かけることがあり、それは亡くなった息子さんのお墓詣りに行くのです。赤坂黒鍬谷(くろくわだに)にある松泉寺です。このお寺赤坂一ツ木から渋谷に移転し今もあるようです。この老夫婦はわけあって37年ぶりに再会しますが、再会したのが文化6年でした。文化文政の化政文化時代に突入したときでした。ただそれだけのことですがインプットされました。

追記2: 志の輔さんの創作落語「 伊能忠敬 物語―大河への道―」が映画化された『大河への道』がいよいよ公開されます。伊能忠敬さんが隠居して自分の好きな道を突き進み歩き続けるのが化政文化の時代です。またお仲間がふえました。

追記3: 『名作歌舞伎全集 第二十二巻』に『杜若艶色染』が載っていまして(土手のお六)となっていました。「蛇遣いの土手のお六」ということになりますか。舞台を観ていたので読んでいてこの人はこうでとか浮かびますが、文字を立体的な動きのある舞台にするということは大変な作業だと改めて思いました。さらにどう役作りをし、それが観客にどう伝わるか。観ている側でよかった。

追記4: 映画『大河への道』(中西健二監督)期待以上でした。立体を平面にする作業。現代と江戸時代の二役のキャラの相違。笑わせて泣かせて。脚本家の加藤先生の執筆に対するこだわりが素敵です。忠敬(ちゅうけい)さんが出てこないのに忠敬さんがそこにいます。将軍に大地図を見せる場面、CGでも目にできてよかった。

映画『湖の琴』からよみがえる旅(2)

京都から湖西線で近江塩津まで行き、北陸本線に乗り換えて、米原で東海道線に乗り換えるという旅を計画したことがあります。当然、高月が入ります。途中、近江今津と余呉に寄ることにしました。

近江今津の観光案内で観光スポットを地図に書き込んで教えてもらいました。水色丸が琵琶湖周航の歌記念碑。青丸が琵琶湖周航の資料館。黄色丸はヴォーリズ通りと称して、アメリカ人のヴォーリズが近江八幡へ英語教師として来日し、その後キリスト教布教と社会福祉事業のために建設設計事務所を開き、洋館を設計します。今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局と並んでいます。赤丸は江若(こうじゃく)鉄道駅跡

琵琶湖周航の歌碑の形は今津の地形をかたどっています。赤御影石の歌碑には歌詞1番から6番まで刻まれています。琵琶湖には歌碑が、今津、竹生島、長浜、彦根、近江八幡、大津、近江舞子にもあります。

ヴォーリズ通り今津ヴォーリズ資料館日本基督教団今津教会旧今津郵便局

ヴォーリズ建築は近江八幡に行ったとき知りましたが、やはり近江八幡が一番多いです。当時、アメリカで開発されたメンソレータム(今のメンターム)の輸入販売も開始し、設計の収入とで売り上げ収益もよかったようですが、全て社会事業などに使われました。近江の人はヴォーリズを「近江の百万損者(そんじゃ)」とあだ名しました。

日本人女性と結婚し日本国籍を取得しましたが、太平洋戦争では苦難の時期だったようです。

江若鉄道近江今津駅跡。浜大津駅から近江今津駅まで走っていた鉄道でその後、湖西線に変わります。この三角屋根で親しまれた駅舎跡の建物も惜しまれつつ昨年解体されました。

次は余呉駅で途中下車。余呉湖に行ったときには気にもとめませんでしたが、左側の黄色丸が西山大音です。ピンク丸が天女の衣掛柳。現在地に余呉湖観光館。案内板も賤ヶ岳周辺での秀吉と勝家のそれぞれの陣地を示す案内でした。

余呉湖に伝わるいくつかの「天女羽衣伝説」の内の一つ。天から舞い降りた天女と村人との間に生まれた男の子が、後の菅原道真公で幼少期の道真公が預けられたと伝わる菅山寺があります。

小説『湖の琴』では、『湖北風土記』から紹介しています。余呉湖の畔に桐畑太夫という長者がいて柳に掛かる天女の衣を見つけてこれを隠します。桐畑太夫は天女を連れて帰り、天女は泣く泣く嫁となり二人の子ができました。ある時、天女は子守女の唄から隠されていた衣を見つけ天に帰ってしまいます。母の居なくなった子供たちは、夜な夜な湖畔の石の上にたたずみ泣きました。菅山寺の老僧が二人を寺に連れ帰り一人はなくなってしまいますが、もう一人は後に学者となりました。それが菅原道真公です。

子供たちが立って泣いた石は、「夜泣き石」として残っています。映画でも喜太夫が自分の解釈でさくに説明しています。

余呉湖の役目の説明板がありました。

人がいなくて本当にひっそりとした余呉湖でした。余呉湖観光館の食堂がお休みで空腹のためなおさら寂しさを感じる風景でした。

いよいよ十一面観音の高月へ。

文学碑。「慈眼 秋風 湖北の寺 井上靖書」。この十一面観音のことは井上靖さんの小説『星と祭』に出てくるのです。

星と祭』読もうとおもい図書館から借りましたが、知床での船の事故と重なるようでつらい話となります。

映画『湖の琴』に誘われてのかつての旅の反芻はこの辺でお開きとします。まだまだ途中下車して楽しめる場所がありそうです。近江の白髭神社もよさそうです。

追記: 国立劇場大劇場で前進座『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)ーお六と願哲ー』鑑賞。鶴屋南北さんのまぜこぜはやはり面白し。八ツ橋花魁に佐野次郎左衛門とくれば、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』となりますが、この芝居ではお六と破戒坊主の願哲が主導権をにぎり、佐野次郎左衛門は浪人中の侍の設定です。名刀の「籠釣瓶」も登場し、さらにもう一刀「濡れ衣」が登場。複雑そうですが、國太郎さんの早変わりを楽しみながら、わかりやすいお芝居となっていました。

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映画『湖の琴』からよみがえる旅(1)

映画『湖の琴』(1966年)は水上勉さんの原作ですが、<湖>を<うみ>と読ませるのだそうです。近江の余呉湖が重要な舞台となります。

三味線や琴など邦楽の弦糸を生産している近江の大西に若狭から栂尾さく(佐久間良子)が働きに出ます。次の日、主人の百瀬喜太夫(千秋実)が違う部落に用事があるためさくを伴って賤ヶ岳(しずがだけ)へ登ります。賤ヶ岳は羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継者争いの戦いの場となったところです。映像にもさくの想像としてた兵士が走りまわります。

そして、賤ヶ岳の頂上に到達すると琵琶湖と余呉湖が両方見えるのです。さくが桑の葉をつみに来るためにも桑賤ヶ岳のふもとにある桑畑も教えておきたかったのです。農地を売るということで訪れた部落で、さくは、松宮宇吉(中村 嘉葎雄)と出会います。宇吉は今度喜太夫のところで働くことになったのです。宇吉も若狭の出身でした。宇吉には両親がなく、すでに繭の糸取りもできる仕事熱心な青年でした。

お蚕さんを飼い、繭から糸を取り、糸巻きにとりつけて巻き、独楽よりで糸をより弦糸にするその様子が見ることができるという興味深い映画でもあります。90パーセントの三味線の糸がこの地域で作られていたのです。それも機械でなく手づくりです。

原作によると、初心者のさくがおこなっているのが真綿づくりだということがわかります。出来の悪い死繭を特別に煮たものを桶にあつめておいて、繭をひき破り、マス型の木枠にはめてうすく延ばす仕事です。

三味線糸の生まれる場所を見たいと京で有名な三味線の師匠・桐屋紋左衛門(二代目中村鴈治郎)が西山を訪れます。その前に高月の渡源寺で十一面観音様を見て感動し、西山でさくに出会い観音様と重なってしまいます。紋左衛門はこの娘に三味線を仕込んでみたいと思い立ち、京に呼ぶのです。西山の人々は誉だと喜び、さくも皆の期待に応えようとおもいます。さくが想いを寄せる宇吉は兵役のため入隊していました。

宇吉はもどり、二人は結婚を誓います。師匠は宇吉の存在からさくを誰にも渡したくないと思うようになります。さくはそのしがらみから逃げ出し宇吉のもとにきます。そして結ばれて自殺してしまいます。宇吉は誰にもさくの遺骸をさらしたくないとして糸の箱に詰め余呉湖に沈めることにします。宇吉は一人生きてゆ気力を失い自分も箱に入り、二人は湖深くに沈んでいくのでした。

余呉湖には羽衣伝説もありそのことも映画では重ねられています。西山には古い話が多く残っていて、西山の人々は紋左衛門一行に得々と語ります。

水上勉さんは、この作品は全くのフィクションで、近江の大音と西山へ何度か行っていて自分の生まれた若狭の村とあきれるほど似ていたといいます。桑をとり、糸とりする作業も母や祖母がやっていた座ぐり法で、七輪で繭を煮て枠をとるのも同じであったそうです。

「一日だけ、余呉湖行楽の帰りに、私は高月の渡岸寺に詣でて、十一面観音の艶やかな姿を見た。観音の慈悲の顔と、座ぐり法で糸をとっていた娘さんの顔がかさなった。と、私の脳裡に、不思議の村を舞台にして、亡びゆく三味線糸の行方を、薄幸な男女に託してみたい構想がうかんだ。」

連載中に、映画『五番町夕霧楼』の田坂具隆監督と脚本家の鈴木尚之さんが是非映画にしたいとし、結末を心中とするというメモをおいていきました。水上さんは二人の仕事ぶりに敬意をもっていたので一切を任せたとのことです。

思いもかけず賤ヶ岳の上から余呉湖をながめる風景や、弦糸の手作りの様子が見れて貴重な鑑賞となりました。題字が朝倉摂さんで、衣装デザインが宇野千代さんです。

原作で桐屋紋左衛門は、石山寺、義仲寺、渡岸寺と訪れています。

渡岸寺の十一面観音。絵葉書から。

渡岸寺は奥琵琶の観音像を訪れるツアーに参加し、渡岸寺は電車でも行けるのを知り、いつか再訪したいと考えていました。そして、ほかの地も訪れつつ渡岸寺にたどり着いたのです。その時余呉湖も訪れたのです。かつての旅がよみがえりました。

追記: 国立劇場小劇場での文楽鑑賞。文楽の『義経千本桜』の「伏見稲荷の段、道行初音旅、川連法眼館の段」が観れました。映像では味わえない躍動感。場面場面で人形遣いの方の衣装も変わり、人形と勘十郎さんの早変わりと宙乗りもお見事。ついに生で観ることができ念願かなったりです。咲太夫さんが休演だったのは残念でしたが、太夫さんの声、三味線の音も心地よく堪能できました。

四国こんぴら歌舞伎(2)

「こんぴら歌舞伎20回目の記念公演」について間違いがありましたので、そのことは<追記:5>で訂正しました。→ 2022年3月9日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

テレビ録画の静止画面からですのではっきりしませんが、宙乗りの雰囲気だけ感じ取っていただければ。

金丸座は江戸時代の芝居小屋ですので、江戸時代は自然光を取り入れての舞台となります。そのため暗くするときは1、2階の雨戸が閉められるわけです。そうすると小屋は真っ暗闇となり、殺された清玄が亡霊となって現れると、キャーとの悲鳴とともに笑い声が起こります。

今は照明も使っていますが、初回は照明を落としてなるべく自然光を利用して上演されました。吉右衛門さんは、江戸時代に書かれた舞台や役者さんの様子や教えがやっと納得できたと語られていました。

再桜遇清水』は<桜にまよふ破戒清玄>とありますから、破戒僧・清玄のはなしなわけです。そのため清玄が桜姫の美しさに次第にのめり込んでいく場面ではお客さんはゲラゲラ笑っていまして映像を見ていましたら楽しそうです。

実際に観劇した私は、雨戸の閉まるのが楽しみで裏方さんの仕事ぶりに注目し、真っ暗闇になるのを体験でき、舞台から客席側に飛び出している「からいど」の使用も観ることができました。これは川に落とされたり、死体が投げ込まれたりというときに使われ、井戸のように小さいのです。

口上の時には枝垂桜の襖がバックで小屋に映えました。舞台と花道に挟まれているピンクの丸の場所が「からいど」です。

再桜遇清水』では時代が鎌倉で場所も鎌倉です。録画を観ていて、桜姫が北条時政の娘となっていたのですぐ『鎌倉殿の13人』が浮かんでしまいました。鎌倉の新清水寺で頼朝の厄除けの御剣奉納があるのです。その寺の僧が清玄です。最初の場面は歌舞伎『新薄雪物語』と重なります。

初演時は吉右衛門さんが二役で活躍したようですが、再演ということで皆さんが活躍される舞台に作り変えています。桜姫と清玄(きよはる)の逢引の手はずをする浪路(東蔵)や奴の浪平(現・、又五郎)、奴の磯平(現・松江)などです。

吉右衛門さんは、金丸座という江戸時代の芝居小屋で歌舞伎ができることに対して、イベントであってはならない、江戸時代の歌舞伎を考証できる機会を生かし、伝統芸能を守るのだという想いにあふれていました。

さて「清玄桜姫もの」でもう一つ観劇していたのが、2013年(平成25年)に国立劇場で公演された通称「女清玄」の『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』です。若手を引っ張っての福助さんの清玄尼でした。

これがあったので、「こんぴら歌舞伎」をもう一度考え、「清玄桜姫もの」をもう少し再考したくなったのです。

隅田川花御所染~女清玄~』は四世鶴屋北南作品ですからかなり入り組んでいて場所も移動し盛りだくさんでドロドロした場面もある芝居となっています。平家再興の話ともからまっていますが、入間家の二人の姉妹の話とし、特に長女・花子が中心と考えたほうがよさそうです。

花子は許婚の吉田松若丸を慕っていますが、松若丸は行方知れずで亡くなったとのことで出家して清玄尼となります。妹の桜姫にも許婚・大友常陸之助頼国がいますが、頼国は殺され、松若丸が頼国に成り代わります。それがわかった時、清玄尼は複雑な心情となります。

局岩藤という名前がありますが、草履が浮かびます。恋路の闇に迷うという金剛草履を清玄尼にはかせるのです。その手下が惣太です。岩藤の兄が平内左衛門で平家の残党です。惣太は松若丸の梅若丸を殺していて、清玄尼にもひかれているのです。

「鏡山」や「隅田川もの」などがかぶさってきているのです。清玄尼は惣太に殺されますが、もちろん亡霊となって現れます。そして桜姫の前で松若丸となってあらわれ、二人松若丸となります。二人の野分姫が浮かびます。

最期は、荒事のいでたちの粟津六郎によって清玄尼の迷いは打ち消されてしまうのです。

舞台としては、複雑さと、鶴屋南北の作品を演じるにはまだ役者さんが若かったという印象でした。いつの日か再挑戦していただきたいものです。

登場する場面や、セリフに出てくる地名が豊富で、経路の地図などを作って散策したくなります。汐入とか橋場などは、「千住汐入大橋」や「橋場の渡し」を思い浮かべます。

「清玄桜姫もの」としては『桜姫東文章』がなんといっても人気です。シネマ歌舞伎で上映中ですので一度は目にしておくことをお勧めします。

追記: こんぴら歌舞伎の22回(2006年)の一部演目もテレビで放送されていました。この公演も小屋の機能を上手く使い芝居を面白くしていました。放送された演目は、『浮世柄比翼稲妻』(「鞘当」あり)、『色彩間苅豆ーかさねー』です。これまた鶴屋北南の作品で、長い物語の一部分が復活されて上演されるようになったものです。恨みよりも人の想いが叶わぬ大きな力のなかで儚く散っていく感じで、これも小さな小屋だからこその浮かび上がる哀惜でしょうか。

追記2: 『浮世柄比翼稲妻』。名古屋山三(三津五郎)は下女・お国(現・猿之助)と雨漏りする長屋に住んでいます。山三宅へ傾城・葛城(現・猿之助)一行が訪ねてきます。貧乏長屋と花魁の豪華さがよく映えます。お国は顔にあざがあり山三への想いをおさえながらも山三の濡れ燕の着物を質から受けだしたりとけなげです。勝手な山三だなあと思わせつつ、色男ぶりを貫く三津五郎さん。三津五郎さんと猿之助さんの共演はもっと観たかったと思わされました。

追記3: 『鞘当』では天井から桜の花びらがまかれお客様は大喜び。狭い中に二本の花道。大きな劇場では味わえない役者さんの近さ。三津五郎さんの衣装の下の身体の細やかな動きが透けて見えるようでいて見せない技。それに対する海老蔵さん(不破伴左衛門)の荒々しさ。留女が亀治郎さんで女見得。これぞ吉原仲之町。

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追記4: 『かさね』。江戸時代は花道と舞台前面に並んだであろうローソクのあかりも今は電気ですが、ローソクの炎のゆらぎをあらわすこともできます。暗さとほのかな明かりが与右衛門(海老蔵)とかさね(現・猿之助)を儚い美しさで映し出します。これまた金丸座ならではの『かさね』です。かつてはとんぼを切る方も小屋ごとに専門がいたそうで、その技は高度であったようです。