『恋歌』 (直木賞受賞作)

いくさんからのコメントをこちらに移し、私の読後感を加えることにしました。他で水戸藩の内紛は壮絶を(明治維新にはそういう部分が他にもありますが)極めていたことを少し目にしていましたので近づきたくないと思っていたのですが、読み始めたら一気に読めましたね。

<いくさんのコメント>

「恋歌」を読みました。歌子が、一葉の師というより~今回の直木賞作品を読んでみたい!だけで、手にした小説です。本を見ると、厚くて(笑)・・・最近の私は、根気が無く長編というだけで、避けていたのですが・・・ところが、「恋歌」は、読むにつれ、グングンと惹きつけられ、アッという間に読み終えてしまいました。     時代は、尊王攘夷が叫ばれ、井伊直弼が水戸藩浪士によって、討たれた頃の事です。私は、水戸藩が、天狗党と諸生党とに分裂し、激しく戦っていた事を詳しく知らずに通り過ごしていました。この内分裂は、大変な悲劇を生み、特に天狗党の妻子(歌子も)は、赤ちゃんから老人まで、過酷な牢生活を強いられ処刑されていったのです。武士の妻として子に最後まで、牢の中で、学問を授け続けた母・歌子の「おはなし」に耳を傾け、餓えと痛みを一瞬忘れた幼子も処刑され・飢え死にしていったのです。これは、日本の話ですか?同じ国・同じ藩内の話ですか?と、文字を疑いたくなる思いでした。こうした苦しみを経て生き抜いた歌子が、死に際に諸生党の首魁・市川三左衛門の娘・登世(逃げ延びた娘)の三男を養子に迎える遺書を残します。歌子も登世も互いに敵同士(後に天狗党が、諸生党に報復する)であることを知った上で、授受するのです。この日までのふたりの心の葛藤もいかばかりか、計りしれないものが、あります。歌子は、それを手土産に愛する夫の処に旅立ったのだろう~と思いました。晩年、貞芳院(斉昭の妻・藩主慶篤・将軍慶喜の母)が歌子に語った言葉「かたき討ちは武士に認められた慣いなれど、多くの者は、本懐を遂げた後に自らも命を捨てた。ほうすることで、復讐の連鎖を断ったのやな。なれど、これが、多勢となると、復讐のための復讐も義戦となる。・・・人が群れるとは、真に恐ろしいものよ」は、まさしく!!でした。このやりきれない思いも~歌子の林以徳を想う歌は、やはり、素晴らしく、血なまぐさい戦いも「恋歌」で、蓋ってしまう。 …君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ・・・
読んでみて!!

<sakura>

結論から言えば、「君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ」の「さらば忘るることもをしえよ」は、恋のくるしさから<恋>を忘れることを教えよではなく、似徳の政治指針、天狗党も諸生党もなんとか一つの方向性を見出し外に向かって発進するということに対する、「さらば忘るることもをしへよ」へ、つながりました。<恋>は忘れることはなく、恨みを忘れる方法を見つけ出す事によって歌子は、より一層、似徳と重なり合えたんだと思います。歌を勉強したいと思ったのも似徳につまらぬ返歌をしてしまったという思いですしね。全てが<似徳>ですね。<似徳>=<恋>ですから、これが上手くいけば<歌>は「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ」だけで良かったのかもしれません。

読み始めから引きつけられました。「萩の舎」、「藪の鶯」、「樋口夏子」・・・。そして「桜田門外の変」の年のお正月に『三人吉三』の初演があった。水戸藩は光圀公の時代から財政難でその一つの原因が大日本史の編纂で、年貢も四公六民で出来高の四割が年貢として納めるのが普通なのに、水戸は六公四民である。偕楽園のみが上から与えられた民の楽しみの場所であった・・・・など、細かい話も出てきて、あらたに大きな問題点へと進んでゆく。政治に興味のない登世が次第に水戸や外の情勢を知るようにこちらも解ってくる。明治維新が藩ごとにより様々に違う苦難があった歴史の一つが中島歌子を通して語られた作者・朝井まかてさんの手腕はすばらしいです。

背中を押してくれたいくさんにも感謝します。本当に日本の話ですか?ですね。でも、状況によっては、いつでもこういう狂気性が帯びてくる可能性はあるんですよね。それにしても、樋口一葉の歌の師から脱却の中島歌子ですね。でも彼女が一番望んだのは、林似徳の妻・林登世だったのですが、正式には届けられていなかった。彼女としては納得できなかったでしょう。そのことは、あの世で似徳に詰め寄ることでしょう。

中島歌子の歌は古いとして時代から取り残されたようですが、小説の中で考えるに、獄中での子供達とのやり取り、新しき時代に羽ばたくことなく閉じられた子供達の命を思うと、新しい歌の風潮にも小説にも乗り換える事はしたくなかったと思います。貞芳院に会うための「萩の舎」の存在とも言えます。ただ斉昭と慶喜のお声がかりから下の者たちが翻弄されたということも言えここは考えがまとまりません。

司馬遼太郎さんの『街道をゆく(本郷界隈)』で面白い事を発見する。稲作初期の土器が発見され、発見された町名から<弥生式土器>と命名され<弥生時代><弥生文化>と使われる。それは、どこかで見知った。ではその<弥生町>の由来は? 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で町名はなかった。

『たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸徳川家九代目の斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったから、弥生をとった。』

 

 

演劇 『あとにさきだつうたかたの』と映画 『あなたを抱きしめるまで』

時間が取れないため、一日に凄い詰め込みかたをした。

銀座の映画館シネスイッチ銀座で『あなたを抱きしめるまで』の最終回を申込み、砧公園にある世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子展』を、下北沢で本多劇場で『あとにさきだつうたかたの』を、日比谷の出光美術館で『板谷波山展』を、すこし時間が空き、映画『あなたを抱きしめるまで』を見る。何処かでギブアップかと思いきや、それぞれ楽しめた。最後の映画はきっと睡魔であろうとおもったらどうしてどうして、見ておいて良かったである。

加藤健一事務所の『あとにさきだつうたかたの』は、作が山谷典子さんである。この方の書かれた作品は初めてである。役者さんとしてはまだ見ていない。この作品を観て、30代の女性がしっかり歴史を見つめ、演劇として構成的にも面白い本を書かれたことが心強かった。次の時代を担う人達のほうが冷静であるのは嬉しい限りである。戦争時代を通らなければ成らなかった人々の人生と日常の中での心。さらにジャーナリズムとは何か。科学者とは。加藤健一さんを始め役者さんの演技力で静かに確実に伝わる舞台をつくりあげた。

自分に問いかけたり、誰かを待っていたり、問いかけても答えてくれない回答、待っていても来ない人、さらに答えを見つけようとし矛盾に急速に飛び込んでしまう人など、ウミガメの産卵と脱皮からウミガメを生きる先輩として配置し、さらに鴨長明の<ゆくかわのながれはたえずしてしかももとのみずにあらず よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびてひさしくとどまりたるたとえなし> をも下敷きとしている。

隠されているもの、知らせられないもの。それを知ると言う事はつらいことでもある。知ったがゆえに心にもっと傷を負う事もある。しかし、知りたいと思う人の意思を妨げてはいけないし、最終的には妨げられないことであろう。

説明しなければならない事がらを山谷さんはきちんと台詞で語らせ、説明にはしていない。生活者の言葉としている。最後に個人の事情を知らない人同士が、ウミガメの子どもが殻を破り海へ一斉に向かうのを見に行きましょうと約束する指切りがいい。そして、盲目の傷痍軍人が家族を探すために、帰らぬ息子を待つ母親のために唄う歌が美しい。

今と過去を加藤さんは老人の姿のまま少年になり、行ったり来たりする。休憩がなく、同じ舞台装置なので、その行き来に邪魔が入らず観客も負担なくスムーズに行き来でき、老人の明らかになっていく人生と時代を納得していけた。懐かしさを通り超えたところにある真実への虹の架け橋である。

それから、二つの美術館。これまたよく調べられて自分の興味あるところをピックアップし易い構成の展示と解説で、疲れることなく、ピックアップして楽しんだ。

映画『あなたを抱きしめる日まで』は事実に基づいた映画である。やはりジュディ・デンチは裏切らない。この人がいての映画である。ハッピーエンドの小説の好きで、一緒に息子探しの旅にでるジャーナリストと男性に粗筋を嬉々として語るところなど微笑ましいし、考えた事を伝えるところは自分なりにしっかり考えたという自信があり、事実に直面したときの威厳が何とも言えない。取り乱すことのない許しは、この主人公のずーっと息子を思い続けてきた苦しみの裏返しであろうか。この映画はジュディ・デンチあっての映画である。

謎が解かれて行く途中のミステリー映画のような音楽もいい。旅を一緒にするスティーヴ・クーガンの主人公フィミナの様子を見つめる眼もいい。真実はいつかは知らされる。その時はいつか。遅すぎるとその悲しみは誰が受けなければならないのか。胸を張ってドアを叩く。

 

 

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (身替座禅・壽曽我対面)

『身替座禅』   狂言の『花子』を歌舞伎にしたもので、気を楽にして観劇できる舞踏劇である。ある大名(菊五郎)が、他の土地で花子という女と知り合い契を交わした。その女が京に出てきて会いたいと云ってよこした。どうやって屋敷を抜け出すか。大名の奥方(吉右衛門)は夫の勝手は許さないのである。そこで、屋敷にある持仏堂で一夜だけ座禅を組むことが許される。自分の替わりに家来の太郎冠者(又五郎)に頭から座禅衾(ざぜんふすま)の小袖をかぶせ、首尾よく抜け出し夢心地で帰って来てみると、奥方に身替りがばれていて、大騒動となるのである。

奥方はしこめの設定で、時には観る人の笑いを誘うように、頬を真っ赤にしたりするのであるが、吉右衛門さんはお化粧は派手にはせず、嫉妬深きはあるが、そもそも夫のことを思うあまりの悋気として作られた。菊五郎さんは恐妻家で、それでいながらなんとかして花子のところへ行きたい気持ちを現し、帰ってきての花道で花子との逢瀬に身も心もぼーっとしている。花子の小袖まで身に着けている。

座禅衾をかぶっているのは奥方なのであるが、太郎冠者だと思い、思いっきり花子とのやり取りののろけ話を始めるのである。そこが見せ場である。酔いに任せ言いたい放題で花子に語った奥方の悪口まで話してしまう。もうその衾を取れととってみると、怒り心頭の奥方であった。吉右衛門さんは、夫の体の事を心配するうるさい世話女房が、裏切られた怒りを爆発させ、菊五郎さんは、そのうるささから逃れてやっと楽しんだ一夜もばれ、喧嘩しつつも再び恐妻家となるであろう事が想像できる一組の夫婦像を可笑しくも表現されていた。

『壽曽我対面』   様々な人物がでてくるので、役者さんが多く並ぶには都合のよい出し物であるが、これが、それぞれの役がなかなか難しい出し物である。五郎(孝太郎)、十郎(橋之助)はしどころがあるから良いが、しどころも少なくその役柄を判らせなくてはいけないのである。しどころがあっても、特に十郎は難しい役だと思わされた。どのように言えばよいか言葉が見つからない。橋之助さんの場合は声と台詞の抑揚が不満であった。観ているほうが、身体と声と上手く融合させられなかったのである。仇討の敵の工藤佑経(梅玉)に兄弟を合わせる取次をする小林妹舞鶴の魁春さんと遊女大磯の虎の芝雀さんはきちんとはまって観る事ができた。

敵の祝いの席に突然その敵を仇討する兄弟が出てきて対面するのである。佑経はこの兄弟の顔を見て自分が討った河津三郎の息子たちであると分かるのである。兄弟は名乗りを上げる。兄弟の性格の違いもここでの見せ場である。この祝いというのが、富士の狩巻の総奉行を任された祝いで、その大役がすんだら工藤はいずれは兄弟に討たれる覚悟らしい。曽我兄弟の仇討は当時の人々にとっては人気の話で、その敵役を大きく見せる事によって、曽我兄弟をも、理想化させての舞台なのであろう。様式美と言う事か。そう考えるとやはり納得していない自分がいるのである。と同時にこういう舞台の捉え方がよく判らない自分がいると言う事でもある。

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (封印切)

『封印切』 近松門左衛門の『冥途の飛脚』の改作である。心中物と言う事になるが、今までの自分の解釈の固定化から忠兵衛の捉え方が甘かったように思える。忠兵衛を二枚目として捉えていたが、藤十郎さんの忠兵衛を観ていて、いやいやそんな単純なことではないと思わされた。

大阪の飛脚問屋の養子忠兵衛(藤十郎)は、遊女梅川(扇雀)と深い仲で、梅川を身請けする手付金50両は払っているが、残りのお金が出来ない。忠兵衛の友人の八右衛門(翫雀)は梅川の身請け金として250両を梅川を抱えている槌屋治右衛門(我當)のところに持参する。そして、梅川の前で忠兵衛の悪口雑言の言いたい放題である。先に井筒屋に来ていた忠兵衛は二階の座敷でそれを聞いていて激昂し飛び出してくる。そのうち八右衛門は持参のお金を見せびらかし、忠兵衛が自分も持参していると言ったお金を出して見せるように迫る。忠兵衛が持参のお金は、武家屋敷に届けるお金であった。その公金の封印を八右衛門とのやり取りで誤って封印を切ってしまうのである。封印切りは死罪である。忠兵衛は死を覚悟して、そのお金で梅川を身請けして二人大和へ落ちるのである。

梅川と忠兵衛の味方をして仲を取り持つのが井筒屋の女将おえん(秀太郎)である。この若い二人をなんとか首尾よく結ばせようと細々と世話を焼く。秀太郎さんのこの一つの方向性の動きがよい。おえんは良い方にしか見ていないから、封印切りのあとも、喜びだけがあり、その様子が忠兵衛にとって辛いことともなるのであるが。

忠兵衛の花道の出である。梅川に会いたいと手紙を貰い忠兵衛も残りのお金は払っていないが会いたいとおもいつつ、武家屋敷に届ける300両を届ける途中であり、行きつもどりつする。ここで届けていれば死に至る道筋とは成らなかったかもしれない。泣く泣く梅川が八右衛門に身請けされ、梅川と八右衛門が忠兵衛に恨まれて済んだかもしれない。花道で何処からともなく、「鳥辺山」の唄と三味線の音に縁起でもない鶴亀鶴亀と忠兵衛はつぶやくがそれが前触れになってしまうのである。さらに忠兵衛が鎌倉時代の色男・梶原景季を気取ったりして、なかなか愛嬌のある人物で、おえんから気にいられているのもこんなところがあるからのようである。

単なる色男と言うだけではないところを、藤十郎さんはさらさらと時には、すっーと停まったりして忠兵衛の人間性を出される。おえんの計らいで二人で合わせてもらうが、真っ暗な中に置き去りにされてしまう。そこで抱きあってはそこでチョンとおしまいになってしまうが、そうならずに、じゃらじゃらとたっぷり、上方の芝居を見せてくれる。この部分がよく判らなかったのであるが、今回は、忠兵衛のお金をを払えないすっきりしない心持がよくわかったのである。その気持ちをストレートに言えない色男のつらさ、可笑しさがにじみ出て、梅川を反対にいじめて泣かせてしまうのである。忠兵衛は惚れている梅川にはあくまでも格好良く見せたいのである。

封印切りもそれが第一の原因である。八右衛門にとってはそれが気に食わない。八右衛門は悪役であるが、忠兵衛の弱い部分も分っている。そこをグイグイ押してくる。誰が観ても聴いても八右衛門に歩は無い。しかしそこまで嫌われている八右衛門にとって怖いものはない。その八右衛門に対し梅川を始めとして自分に味方してくれる人々を裏切るわけに行かないのが忠兵衛の立場である。それをお金を持たない忠兵衛は受けて立たなければならなかったのである。観ている者はこの八右衛門の台詞に時には笑いつつ、忠兵衛には震えて怒る姿をみる。これが自分のお金であったなら。そして、自分から封印切をするのではなく、八右衛門との押し問答をしている間に弾みで封印が切られてしまうのである。

自分で切ったなら一瞬、見てみろの快感もあるかもしれないが、はずみである。観ている方はこのほうがどきりとしてしまう。この時は忠兵衛とともに顔面蒼白である。忠兵衛の混乱しつつも気を取り直し残りのお金も封印を切ってしまうその一連は、やはり見どころであった。

そして、死を決意して梅川を受けだし、先に大門の西口に行かせ廓から足をあらわせ待たせるのであるが、どの方向の大門から出るかというのもまとめる場所があるらしく、おえんが行って西を当ててくるのである。それは、皮肉にも西方浄土の方角とも受け止められるのである。

おえんにまた顔をだしてくださいよと言われ近いうちにと答える忠兵衛。あの花道の出が、今度は、何とも言えない足の動きの去り方の花道の入りとなるのである。二枚目としての忠兵衛ではなく、人間の弱さ悲しさどうしょもなさのあらゆる人間味をもった忠兵衛であった。

藤十郎さん、我當さん、秀太郎さん、扇雀さん、翫雀さん、の作り出す上方の味をたっぷり味わわせて頂いた。

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (日本振袖始・二人藤娘)

夜の部の『日本振袖始(にほんふりそではじめ)と昼の部の『二人藤娘』について。

玉三郎さんが勘九郎さんや七之助さん世代を育てようとの思いの演目であろうと思われる。

『日本振袖始』は、あまり好きではない演目である。後半の大蛇に変身する玉三郎さんは観たくないというのが本音であるが。(笑) 原作が近松門左衛門である。近松といえば心中物をイメージするが、これは、八岐大蛇(やまたのおろち)伝説がもとのようである。一年に一度八岐大蛇に娘を差し出さなければならない。今年は稲田姫(米吉)である。村人はなんとかして八岐大蛇を退治したいと思い、八岐大蛇が好物のお酒に毒を入れて酒壺を八つ置いておく。大蛇の化身・岩長姫(玉三郎)が現れ大好きなお酒を壺から次々と飲み干していく。このお酒をどう飲み、それによってどう酔っていくのかが見どころである。ここが、藤娘の酔い方と違い、時々大蛇の本性を現しつつ、姫としての妖艶さも出すのである。壺にもたれかかったり一気に飲む様子であったり、一つ一つの壺に立つ玉三郎さんを追いかける。

そして後半は、スサノオノミコト(勘九郎)によって退治されてしまうのである。後半は勘九郎さんの生き生きとした立ち回りが見せ所である。大きな動きで、ジャンプ力も効いていた。米吉さんは自分の役をひたすら努めるという感じであった。

『二人藤娘』 玉三郎さんと七之助さん二人での『藤娘』である。一月に大阪松竹座
でお二人で踊られ、テレビでも生中継されたので観たいと思って居たら、歌舞伎座での再演である。テレビで一つ気になったのが七之助さんの眉を八文字にした泣き顔であったが、歌舞伎座では踊った回数にもよるのか、しっかりとされた顔つきになっていて安心した。着物の色の違いなどから、七之助さんの持つ黒の塗笠に対して玉三郎さんは黒地の着物の袂を傍に寄せるという工夫もあり、ここはこうなってこうなんだと思って居るうちに変化するので、その場その場で堪能しつつも終わってみれば書く表現の力がないのである。

真っ暗な中で長唄の<若紫に十返りの花をあらわす松の藤波>の独吟がある。まずははこの詞と声にしびれる。そしてパッと明るくなり、舞台中央に藤の一枝を肩にかけ黒塗笠の藤娘が立っている。今回は七之助さんが舞台中央で白い藤を、玉三郎さんが花道からせり上がり薄紫の藤である。『藤娘』の詞はかなり艶っぽい空気がある。<若紫に十返りの花をあらわす松の藤波>も、若紫は藤のことで、十返りの花は百年あるいは千年に一度花が咲くというたとえで松のことである。松に藤の花が巻きついているとうたわれているのである。舞台装置は大きな松の大木に見事な藤の花房が幾つもしだれ下がっている。その情景を、暗闇から長唄で始めるという大胆さである。これは六代目菊五郎さんの新演出といわれている。そして、この美術は小村雪岱の原案とあり、さすが雪岱さんと思う。(初めて雪岱さんを知る 腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱) ) 今回は、いつもの舞台装置より派手さを押さえたおとなしめであった。

『藤娘』に関しては、二人だとどうしても散漫になり、藤の精が人間化した面白さや色香が薄れてしまう。それとお二人の身体のつくりに差があり、身体的訓練の差を感じてしまった。七之助さん一人だと可憐であるの表現になるのであろうが、玉三郎さんの藤娘をDVDや舞台で何回となく観ているものにとっては物足りないのである。

『藤娘』は近江八景と、男に対する女の恨み言を重ねたり、言葉遊びがあったり、松にお酒を飲ませ自分も飲んで酔ってしまうなど、詞と音色と藤娘にこちらも酔わされてしまうのであるが、酔い足りなかったのである。もう少し鍛錬の時間が必要に思う。

などと生意気なことを言うと玉三郎さんに、私の教えることに何か文句があるのかしらとお叱りを受けそうである。勘三郎さんが「道行旅路の嫁入」「山科閑居」で、玉三郎さんが戸無瀬、勘九郎さんが小浪、勘三郎さんがお石のとき、勘三郎さんは勘九郎さんにもう少しこうした方がいいのではと注意されたら、玉三郎さんに<私の教えることに何か文句があるのかしら>のようなことを言われ<兄さんがそういうんだよ>と嬉しそうに話されていたのをどこかで目にしたことがある。勘三郎さんは迷惑をかけないようにとの親心だったのであろう。それに対する玉三郎さんの全て承知で預かっているのだからの気持ちとして、勘三郎さんは受け取られたのかもしれない。本当に嬉しそうであった。

勘三郎さんの『藤娘』はかなりご自分が酔いい過ぎる『藤娘』の時もあった。

七之助さんも次の時には、覚え込んだ身体から、また新たな『藤娘』を作られるであろう。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (勧進帳)

『勧進帳』ではあるが、柿葺落四月大歌舞伎 (六) で筋は書いたので、ここでは印象に残ったことを書く。キーワードは金剛杖である。

弁慶が吉右衛門さん。それを迎える富樫が菊五郎さん。義経が藤十郎さん。正三角形の迫力である。観ているほうも力が入った。弁慶が主人である義経を打擲し、その心を察し疑いは晴れたと富樫が告げる。弁慶がふーっと息を抜き右手に持った金剛杖がその気持ちを現し、静かに手を滑り、トンと地を着いた途端、こちらもホッと一瞬力が抜けたのである。その時この金剛杖を使う弁慶に見入っていたのに気が付いた。

この金剛杖は、義経が花道の出から所持していて、花道での義経のとる形と共に義経を引き立てる道具である。番卒があの強力(ごうりき)が義経に似ていると富樫に進言してから、この金剛杖は今度は、弁慶と共に活躍する。弁慶は何も書かれていない勧進帳を読み上げ、山伏として上手く切り抜けられると思った途端の富樫の呼び止めである。弁慶は、咄嗟に判断する。強力が義経に似ていると云うだけで、こちらは迷惑をかけられ、なんという迷惑千万な強力かと、義経から金剛杖をとりあげ、それで義経を打擲するのである。四天王(歌六、又五郎、扇雀、東蔵)は、これまでかと打って出ようとするのを、弁慶は、金剛杖で強く床板を突き激しい音でそれを押さえる。さらに金剛杖は四天王を押さえこみ、弁慶を先頭に、富樫達との押しつ引きつとなる。

弁慶は自分の義経に対する非礼に涙すると、義経は弁慶に手を差し伸べる。今回藤十郎さんの手は、袖口の中であった。一度、芝翫さんが義経をされた時、手を見せない形をとると言われたような気がする。記憶違いでなければ、その形なのかも知れない。この時金剛杖は無い。義経が、弁慶の心は私の中にあって、あの杖はもう必要無いのだよと言っているようである。

内容が前後するが、この主従の関係を、富樫は自分の中の何かが反応する。そこを突くように、弁慶は、まだ疑いが晴れないならこの強力を打ち殺そうかと金剛杖を持ち上げて迫る。富樫はその必要は無い、疑い晴れたと告げる。その温情の気持ちに対し、弁慶は花道で姿なき富樫に頭を下げるのである。その正三角形が美しく見えたのである。そして、花道の出の後で、金剛杖を持ち身体を傾ける義経の形の美しさには意味があるのだと感じた。

緊張の続く場面の中で、豪快にお酒を飲み、ゆとりを見せ機嫌よく舞う弁慶。油断させつつ主従を先に行かせる。その時、義経は金剛杖は持たず足早に花道を立ち去る。観客拍手。この後の富樫に対する観客の拍手。待つような終わるのが勿体ないような弁慶への拍手。飛六法。この芝居は終わるとき、観客は参加していたと感じている。

吉右衛門さんの台詞がいつもより高音のトーンが落ちていたように受けたが、それと、菊五郎さんの落ち着きのある富樫と合い、ふくよかな品のあると藤十郎さんと対峙し、より一層大きな弁慶となった。

今回は思い出す場面の、金剛杖の参加でもあり、混線気味である。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (加賀鳶)

<夜の部>を先に観たのでそちらからにするが、ベテラン大幹部の濃い舞台であった。

「加賀鳶」は、道玄の幸四郎さんの動きが面白く、身体と足の動きで、小悪党でありながら変化に飛んだふてぶてしさや、引っ込みかたなど、堪能させてもらった。糸に乗り、赤門(東大赤門)前の暗闇での捕り手との動きも飽きさせなかった。

湯島天神で、加賀藩(現東大が加賀藩の上屋敷)お抱えの加賀鳶と旗本配下の定火消し(この辺は武家屋敷があったので町火消しではなくとのことのようですが?)の間で喧嘩が起こり、加賀鳶が本郷の木戸に押しだしている。町の人は木戸を閉めてその間からことの成り行きを覗いている。これも江戸の風物の一つであろう。河竹黙阿弥作で明治19年が初演であるが、江戸を描いている。ところが地名は現代も残っているという嬉しい芝居である。加賀鳶の頭梅吉(幸四郎)と松蔵(梅玉)が血気盛んな鳶達の間に入り引き揚げさせるのである。この場面は役者さん皆さん気分が良いと思う。観ているほうもスカッとする。

次の場は一転薄暗い御茶ノ水の土手である。按摩の道玄が旅の途中で具合の悪くなった旅人から按摩治療を施しながら殺害し懐のお金を奪うのである。道玄の親切そうなところから悪に変わり、殺して花道までの盲目ではないリズミカルな動きが不気味でもある。そこで道玄は煙草入れを落としそれを、松蔵に拾われる。加賀鳶の時の梅吉の堂々とした様と道玄の違いが二役の幸四郎さんの見せ場である。勢揃い後の最後に花道を引っ込む梅玉さんの歩き方も何んとも粋である。

道玄の住む長屋が、菊坂である。菊坂と言えば樋口一葉やその後の文学者達と縁の深い坂である。(この芝居を観てたら歩きたくなり散策したので、それは別枠で。平成、昭和、大正、明治、江戸とタイムスリップしていく。)

道玄は、目の不自由な女房を邪魔者扱いし、情婦で按摩のお兼(秀太郎)と質屋の伊勢屋へゆすりにゆく。姪のお朝が奉公しているお店で、そこの主人がお朝にお金を渡したのはわけあっての事と、お朝がそのことが原因で自殺するという贋の書き置きを持参するのである。ところが、松蔵に、御茶ノ水で落とした煙草入れを突き付けられ、これは不味いと道玄は退散するのである。ここまでの、弱い者へはいじめぬき、強いものには首を引っ込める悪党道玄が、お兼を加え緩急自在につくられる。

ゆすりたかりで生きていこうとする人間と、間に入りその悪から上手く手を引かせる仲介役のいた江戸の粋な姿でもある。

最後にはお縄となるが、その捕り物も暗闇の中でみせる人の動きの可笑しさを芝居としている砕け方もご愛嬌である。

それにしても、<スカイツリー>は好いが、<業平橋駅>を<スカイツリー駅>にしてしまう前にこの芝居を観て欲しかったものである。

 

 

スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)『空ヲ刻ム者』

新橋演舞場にてスーパー歌舞伎の新作である。猿之助さんはそれに <Ⅱ>(セカンド) と付け加えた。三代目猿之助(現猿翁)さんと違うスーパー歌舞伎を目指しての事であろう。四代目猿之助としてのスーパー歌舞伎への挑戦である。成功である。 『空ヲ刻ム者』ー若き仏師の物語ー

内容としてはシンプルで、この物語の何処かに自分を置くとすれば、観るものが自分の位置を探せるような構成である。若い人に、自分は今どこにいて、何処に行こうとしているのかを見つめて欲しい時代なので、登場人物と共に少しだけ悩んでほしいと思わされた。面白かった。格好良かった。つまらない。まあ何でもいいのである。どうして面白いのか、つまらないのかを少しだけ探ってくれれば良いのである。少し探っても負担にならないように仕組まれた作品である。あれ!そいうことかな、で忘れてしまっても良いのである。ただ時々は仕組まれていないかな?と思い返す時間をこの舞台とともに作って欲しいものである。

あらすじは書かない。新作の場合、くるものを受け止めて楽しんだ方が良いと思う。

作・演出の前川知大さんは知らない。歌舞伎初出演の福士誠治さん、浅野和之さんも知らない。知らないづくしも楽しいものである。佐々木蔵之介さんは知っている。そして気になったのが美術。だれじゃ?堀尾幸男さん。志の輔さんの落語の美術もされていて、もしかしてパルコ劇場で志の輔さんのサインボールを舞台から客席にバァーとゴロゴロころがしてくれたのは、堀尾さんであろうか?あれは誰が考えたのかなあといまだに思うのである。

舞台美術も話さないほうが良いであろう。最初はこんなものと思わせられるが次第に変化していくので物語と同様に楽しんだほうが良いと思う。分かりやすいのである。台詞も苦労せずに分る。

音楽もここぞとばかりではなくシンプルであり、尺八は誰かなと思ったら道山さんである。音楽のまとめ役は田中傳左衛門さんのようで納得である。

一番緊張されていたのは佐々木蔵之介さんで、大丈夫ですよ、もっと肩の力を抜いてそのまま演じつづければ、大丈夫、大丈夫と言ってあげたかったので、ここで言ってあげることにする。邦楽で動くこと自体からして調子がちがうでしょうからね。

福士誠治さんは、『上州土産百両首』で猿之助さんと共演され、弟分の牙次郎をされたそうなので、役どころの息が合っている。浅野和之さんは最初から、私はわたしのペースでいくわよのキャラでうまく溶け込んでおられた。

あとは、澤瀉屋のチームワークと、役の適切さでスムーズに流れてくれた。

こんなに早く猿之助さんがスーパー歌舞伎を手掛けるとは思わなかったので、その研鑽と努力と度胸のよさにエールの拍手を送りたい。パチパチパチパチ・・・・

 

坂のある町 『常陸太田』 (2)

太田城跡があるが、今回の旅の目的ではないのでパスさせてもらう。この辺りを一番長く治めていたのは佐竹氏である。町の西側に細い源氏川が流れている。その名前の由来は判らないが、佐竹氏の祖先が清和源氏ということが関係しているのであろうか。私が尋ねた土地の人は若いかただったからか判らなかった。関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏は秋田へ国替えとなり、徳川御三家の一つ水戸徳川の統治となる。水戸徳川家墓所があり、二代藩主徳川光圀(黄門さん)の隠居所「西山荘」、さらに光圀の生母の菩提寺「久昌寺」があり、水戸藩にとっても重要な位置を占めていたようである。

「西山荘」の光圀さんが住んだ西山荘御殿は、没後保存されるが、野火で焼失し、規模を縮小し再建される(1819年)。そして震災で傾き現在、半解体修復にかかっている。

「西山荘」に入る前に、水戸黄門漫遊記でお馴染みの<助さん>の住居跡の標識がある。案内に従って上っていくと、竹に囲まれた場所に案内版がある。

助さんー本名佐々介三郎宗淳(むねきよ)- 延宝2年(1674年)35歳のとき黄門さんに招かれ彰考館の史臣となる。全国各地を訪ね貴重な古文書を収集して「大日本史」編纂に力をつくす。元禄元年(1688年)彰考館総裁に任命され同9年、総裁をやめ小姓頭として西山荘の黄門さんに仕える。同11年59歳で亡くなっている。黄門さんが元禄13年(1700年)71歳位で亡くなっているから、助さんは黄門さんの前に亡くなっているわけである。助さんの住んで居た所に当時使用されていた井戸も残っている。現在は池を巡り上って行き竹の音も爽やかな心地よい場所である。ただ近くに道路があるらしく、車の音が時々静寂を破るのである。

そこを下り整備された公園を進むと<ご前田>があり、光圀が自ら耕された水田の一部である。一領民となった証しとして13俵の年貢を納めたとある。

「西山荘」の受付で入場料を払い門をくぐる。<守護宅>でわずかながら御殿に飾られた調度品が見れる。もともと質素に暮らし「大日本史」の編纂をなしとげるための隠居でもある。その中に、<布袋画賛>と題した布袋様が大きな袋に寄りかかっているユーモアな光圀筆の絵があった。その説明に、布袋和尚は中国の定応大師(じょうおうたいし)という実在の高僧のことで弥勒菩薩の化身とあがめられ、世俗をのがれ大きな布を背負っていたとある。こうありたいと思う黄門さんの願望であろうか。

住まいの方は修復中なので見れないが、透明の覆いで囲まれ所どころ中が見れるように穴が開けられているので、修復の様子は見ることができる。そちらは成る程と思いつつ、庭を散策して失礼する。出来れば、時間をきめ、説明してくれるともっと修復にも関心が向くのではと思ったがそこまで手はかけられないであろう。

旅行案内に<太田落雁>とあり、ここから夕景に雁の下りる姿が美しかったところなのであろう。旅行案内所でそのことを聞くと、水戸八景の二つがこの町にはあってもう一つが<山寺晩鐘>でそちらの方が良いかもとのアドバイス。<西山荘>から駅へ帰る道すがら寄れそうでありそちらを目指す。源氏川を左手に沿って歩いていくと、光圀の生母菩提寺の久昌寺の案内があるが、まだこれから登らなくてはならないので失礼する。太田二高を過ぎると西山研修所、山寺晩鐘の案内があり、その道を上って行く。

人に聴くのが一番と西山研修所で<山寺晩鐘>を尋ねる。すぐ裏手にあった。残念ながら木々に邪魔され下の景色はぼんやりである。鐘の音を聞くのであるからそれもいたしかたない。今は碑のみである。案内板によると、光圀が檀林久昌寺の三昧堂檀林として開き、天保14年(1843年)廃され、それまで160年全国の学僧が集まった。天保4年(1833年)斉昭(慶喜の父)が水戸八景のひとつとして命名。ただの風光明美としてだけではなく、藩士弟たちを八景勝地約80キロを1日一巡させ、鍛錬させることを計ったとされるから、めまいを起こしてしまう。斉昭が周囲の寺々の打ち出す音に歌を詠んでいる。 <つくつくと聞くにつけても山寺の霜夜の鐘の音そ淋しき 斉昭>

ここから下に下る道を何か仕事をしていたかたに尋ねると、碑の上の場所の奥に道があるという。「時々転んで尻もちをつく人がいますよ」「暗いから襲われない様に」になど冗談をいわれる。尻もちのもちはいただけませんから気をつけて下る。源氏川にかかる東橋を渡り大きな通りにぶつかり、その前方の左手に下井戸坂への入り口が見える。あの坂だけ、上り下りをしなかった坂である。そのまま駅へ向かう。

西山研修所には雪村の碑もあったらしい。雪村は佐竹氏一族の出で碑の揮毫は横山大観である。<太田うちわ>あるいは<雪村うちわ>と呼ばれる四角いうちわがある。<西山荘>のそばのお土産やさんで見たが水戸八景も描かれていた。紹介では後継者は年配の女性のかたであった。

<天狗党>に関しては、かなり深い歴史性があるようである。直木賞を受賞した朝井まかてさんの『恋歌』は樋口一葉の師、中島歌子さん が主人公の小説で、中島歌子さんは天狗党に参加した水戸藩士と結婚していた。驚きである。

旅行案内冊子によると、鯨ヶ丘から西山荘に行く途中に<若宮八幡宮>があり、ここの境内にある六本のケヤキが立派で、樹齢650年以上のものもあるらしい。近頃大木に出会うとトントンと肩を叩くように呼びかけたくなる。呼びかけられなかったのが残念である。

 

坂のある町 「常陸太田」 (1)

水戸黄門でお馴染みの水戸光圀公が隠居後の10年を過ごした<西山荘(せいざんそう)>のある場所が、水戸からの水郡線常陸太田駅から歩けて、そこは城下町で坂の町である。旅行雑誌の常陸太田をコピーしていざ出陣。

水戸からの水郡線は途中の上菅谷(かみすがや)で常陸太田方面と郡山方面とに枝分れしている。そのため水戸から常陸太田行きなのであるが、郡山方面からくる列車との待ち合わせで上菅谷で15分列車は停まっていた。ローカル線の楽しさでもあるが、動きだす時になって、あれまあーホームに出て見れば良かったと後で気が付く。水戸から待ち時間もいれて1時間弱の乗車時間である。震災で被害にあったであろうが、屋根なども綺麗になり、ソーラーを設置している家があちらこちらに見える。畑の水のあるところは薄く氷が光っている。長閑である。

常陸太田駅に着くと隣接している観光案内にこちらの旅の目的を告げアドバイスをしてもらう。今、町の一角でお雛様を飾っていて道路からも見え、飾ってあるお店の中にも入って下さいとのこと。坂に面した町並みである。新たに解り易い地図をもらい歩き始める。大きな坂として七つあり<太田七坂>と呼ばれている。その第一の木崎坂を上がってゆく。広い道だが傾斜があるので道のすき間から見える建物がどんどん下に移動する。先ずは目指すのは下井戸坂で左手にそれと分るが、さらに進み杉本坂を目指す。

細い急な坂が左手に出現。表示がないのでその先に進むと立川醤油店があり、お雛様を飾ってある。お店の裏の母屋にも飾ってあり自由に入ってよい。入らせてもらい立派なお雛様たちを拝見する。帯の上に並べられたお人形もかわいらしい。外に出ると、<天狗党の刀傷あとがある>と書かれている。何処であろうともどると、ちょうど商店の奥さんが来られ「飾ってあるお雛様の後ろです」と案内して見せて下さった。鴨居の柱にもあり、そこは判らないように削られていた。天狗党が軍資金集めに来るという情報があり、住んでいる方達は避難して無事で、その頃は造り酒屋さんをしており、その酒樽が壊されて横の坂を川の様に流れたと。それが、杉本坂である。蔵造りの母屋は大火を免れ230年位たち、お店のほうも築180年はたっている。お店も天井に明り取りがあり、障子などもすてきである。震災前に補強していたので難を逃れたそうである。頂いたこのお店を紹介した新聞記事のコピーによると、先祖は東京の立川市周辺を治めていた豪族であったらしい。今のご主人は17代目とある。

お酒の川の話を聞いた後なので急な杉本坂を下るのもお酒に追いかけられるようで印象深い坂となる。途中に小さな山田神社がありその門柱に<杉本坂>と彫られてあった。<杉本坂>を下り下の道を進むと今度は右手に<十王坂>が現れる。この坂は綺麗に舗装され幅も広い。その坂を上り立川醤油店にもどる道すがら、震災で傷んだ網におおわれた郷土史料館分館があり、その隣にレンガ張りの郷土史料館の梅津会館がある。この町出身の梅津福次郎さんが北海道函館に渡り海産物問屋で成功し寄付し、昭和11年まで役場として、昭和35年まで市役所として活躍していた建物である。残念ながら震災のため史料館も現在は休館である。

この町の方々は、お雛まつりを通して震災よりももっと前から続いている町の歴史を一層大切に語られているように思えた。会う方会う方親切に教えて下さるのである。説明書きも丁寧で、満州から戦前送ったお雛様が行方不明となり、戦後届いたお雛様もあるのである。同時にお店の出来た年代も紹介していて古くからのお店が多いのである。この一帯は<鯨ヶ丘>といい、それは鯨の背のような町というところから命名されたようである。立川醤油店の一本向かえの通りの右手には、<板谷坂>が下がっていく。2本の通りに対し左手は<杉本坂>が右手は<板谷坂>が下っていて2本の通りは<鯨の背>なのである。この板谷坂も上から見ると美しい景観の坂で、前方に阿武隈連山が並び、昔はその下に田園が広がっていて、<眉美千石>と言われたと標識に書かれている。若い娘さんが写真を撮っているので旅行者かと尋ねたら「地元で住まいは少し離れていて、初めてゆっくり町を眺めているんです」と。灯台下暗しと言う事であろうか。

創業明治33年の大和田時計店ではお雛様と同時にに110年以上動き続けている大時計を見ることができる。ゼンマイ仕掛けの前の分銅式の時計である。中のは機械はスイス製で木彫りの外枠は日本で作られ、鳳凰と牡丹の模様である。創業当時から時を刻んできたのである。

さらに進むと<塙坂>があり、その坂を下ると<東坂>を斜めに上って行くことが出来る。右手に阿武隈連山を眺めつつ。

太田七坂 <木崎坂><下井戸坂><杉本坂><十王坂><板谷坂><塙坂><東坂>